10830069ぶんしょう

 

 一 帖

(1) 門徒弟子章

 或人あるひといはく、 *とうりゅうの​こころ​は、 もんをば​かならず​わが弟子でしと​こころえ​おく​べくそうろふ​やらん、 如来にょらいしょうにん (*親鸞)おん弟子でしもうす​べくそうろふ​やらん、 その分別ふんべつぞんせずそうろふ。 また*在々ざいざい所々しょしょしょうもんを​もち​てそうろふ​をも、 *このあひだ​は*つぎぼうには​あひ​かくし​おきそうろふ​やう​にしんちゅうを​もち​てそうろふ。 これ​も​しかるべく​も​なき​よし、 ひともうさ​れそうろふ​あひだ、 おなじく​これ​もしん*千万せんばんそうろふ。 ねんごろにうけたまわり​たくそうろふ。

 こたへ​て​いはく、 このしん*もつとも肝要かんようと​こそぞんそうらへ。 *かたのごとくみみに​とどめ​おきそうろぶんもうし​のぶ​べ%し。 きこしめさ​れそうらへ。

 しょうにんおおせ​には、 「親鸞しんらん弟子でし一人いちにんも​もた​ず」 と​こそおおせ​られそうらひ​つれ。 「1084そのゆゑは、 *如来にょらいきょうぼう十方じっぽうしゅじょうき​きか​しむる​とき​は、 ただ如来にょらいおん代官だいかんもうし​つる​ばかり​なり。 さらに親鸞しんらんめづらしきほうをも​ひろめ​ず、 如来にょらいきょうぼうを​われ​もしんじ、 ひと​にも​をしへ​きか​しむる​ばかり​なり。 その​ほか​は、 なに​を​をしへ​て0070と​いは​ん​ぞ」 とおおせ​られ​つる​なり。

されば*ともどうぎょうなる​べき​ものなり。 これ​によりて、 しょうにんは 「おん同朋どうぼうおんどうぎょう」 と​こそ、 *かしづき​ておおせ​られ​けり。

されば​ちかごろ​は*だいぼうぶんひとも、 われ​は*いちりゅう安心あんじんだいをも​しら​ず、 たまたま弟子でしの​なか​に*信心しんじん沙汰さたする在所ざいしょへ​ゆき​てちょうもんそうろひとをば、 ことのほか*説諫せっかんを​くはへそうらひ​て、 あるいは​なか​を​たがひ​なんど​せ​られそうろふ​あひだ、 ぼう*しかしかと信心しんじんいちをもちょうもんせず、 また弟子でしをば​かやうに*あひ​ささへそうろふ​あひだ、 われ​も信心しんじんけつじょうせず、 弟子でし信心しんじんけつじょうせず​して、 いっしょうは​むなしく​すぎゆく​やう​にそうろふ​こと、 まことに*そんそんの​とが、 のがれがたくそうろ*あさまし​あさまし。

 *古歌こかに​いはく、
  うれしさ​を​むかし​は​そで​に​つつみ​けり こよひ​はにも​あまり​ぬる​かな

 「うれしさ​を​むかし​は​そで​に​つつむ」 といへる​こころ​は、 むかし​はぞうぎょうしょうぎょう1085分別ふんべつも​なく、 念仏ねんぶつだに​ももうせ​ば、 おうじょうする​と​ばかり​おもひ​つる​こころ​なり。

「こよひ​はにも​あまる」 といへる​は、 *しょうぞう分別ふんべつを​ききわけ、 *一向いっこう一心いっしんに​なり​て、 信心しんじんけつじょうの​うへ​に仏恩ぶっとん報尽ほうじんの​ため​に念仏ねんぶつもうす​こころ​は、 おほきに各別かくべつなり。 かるがゆゑにの​おきどころ​も​なく、 をどりあがる​ほどに​おもふ​あひだ、 よろこび​はにも​うれしさ​が​あまり​ぬる​といへる​こころ​なり。

*あなかしこ、 あなかしこ。

0071*文明ぶんめい三年さんねん七月しちがつじゅうにち

(2) 出家発心章

 ^とうりゅう親鸞しんらんしょうにんいちは、 *あながちにしゅっ発心ほっしんの​かたち​をほんと​せず、 *しゃよくの​すがた​をひょうせ​ず、 ただ一念いちねんみょうりき信心しんじんけつじょうせ​しむる​とき​は、 さらに男女なんにょろうしょうを​えらば​ざる​ものなり。

^されば​このしんを​え​たるくらいを、 ¬きょう¼ (*大経・下) には 「即得そくとくおうじょうじゅ退転たいてん」 とき、 ¬しゃく¼ (*論註・上意) には 「*一念いちねんぽっにゅう正定しょうじょうじゅ」 とも​いへり。 ^これ​すなはち*来迎らいこうだん平生へいぜいごうじょうなり。

 ^¬さん¼ (*高僧和讃) に​いはく、 「弥陀みだほうを​ねがふ​ひと 外儀げぎの​すがた​は​こと​なり​と 本願ほんがんみょうごう信受しんじゅして 寤寐ごびに​わするる​こと​なかれ」 といへり。

^1086の​すがた」 といふは、 ざいしゅっなん女人にょにんを​えらば​ざる​こころ​なり。

^つぎに 「本願ほんがんみょうごう信受しんじゅして寤寐ごびに​わするる​こと​なかれ」 といふは、 かたち​は​いかやうなり​といふとも、 またつみじゅうあくぎゃく謗法ほうぼう闡提せんだいの​ともがら​なれども、 *しんさんして、 ふかく、 かかる​あさましきを​すくひ​まします弥陀みだ如来にょらい本願ほんがんなり​としんして、 *ふたごころなく如来にょらいを​たのむ​こころ​の、 ね​ても​さめ​ても憶念おくねんしんつね​にして​わすれ​ざる0072を、 本願ほんがんたのむ*けつじょうしんを​え​たる信心しんじんぎょうにんと​は​いふ​なり。

^さて​この​うへには、 たとひ行住ぎょうじゅう坐臥ざが称名しょうみょうす​とも、 弥陀みだ如来にょらいおんほうじ​まうす念仏ねんぶつなり​と​おもふ​べき​なり。 これ​を真実しんじつ信心しんじんを​え​たるけつじょうおうじょうぎょうじゃと​はもうす​なり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

  あつきに​ながるる​あせ​は​なみだ​かな かき​おく​ふで​の​あと​ぞ​をかしき

*文明ぶんめい三年さんねん七月しちがつじゅう八日はちにち

(3) 猟すなどり章

 ^まづとうりゅう安心あんじんの​おもむき​は、 あながちに​わが​こころ​の​わろき​をも、 また妄念もうねんもうしゅうの​こころ​の​おこる​をも、 とどめよ​といふ​にも​あらず。

^ただ​あきなひ​をも​し、 奉公ほうこうをも​せよ、 りょう*すなどり​をも​せよ、 かかる​あさましき罪業ざいごうに​のみ1087*ちょうせきまどひ​ぬる​われら​ごとき​の*いたづらもの​を、 たすけ​ん​とちかひ​まします弥陀みだ如来にょらい本願ほんがんにて​まします​ぞ​と​ふかくしんじ​て、 一心いっしんに​ふたごころなく、 弥陀みだ一仏いちぶつがん*すがり​て、 *たすけ​ましませ​と​おもふ​こころ​の一念いちねんしんまこと​なれば、 かならず如来にょらいおんたすけ​に​あづかる​ものなり。

^この​うへには、 なに​と​こころえ​て念仏ねんぶつもうす​べき​ぞ​なれば、 おう0073じょうは​いま​の*信力しんりきに​より​ておんたすけ​あり​つる​かたじけなきおん報謝ほうしゃの​ため​に、 わが​いのち​あら​ん​かぎり​は、 報謝ほうしゃの​ため​と​おもひ​て念仏ねんぶつもうす​べき​なり。

^これ​をとうりゅう安心あんじんけつじょうし​たる信心しんじんぎょうじゃと​はもうす​べき​なり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい三年さんねんじゅうがつじゅう八日はちにち

(4) 自問自答章

 そもそも、 親鸞しんらんしょうにんいちりゅうにおいて​は、 平生へいぜいごうじょうにして、 来迎らいこうをも*しゅうせ​られそうらは​ぬ​よし、 うけたまわり​およびそうろふ​は、 いかが​はんべる​べき​や。 その平生へいぜいごうじょうもうす​こと​も、 来迎らいこうなんど​のをも、 さらにぞんせず。 くはしくちょうもんつかまつり​たくそうろふ。

 こたへ​て​いはく、 まことに​このしんもつとも​もつていちりゅう肝要かんようと​おぼえそうろふ。 1088ほよそ*とうには、 一念いちねんぽっ平生へいぜいごうじょうだんじ​て平生へいぜい弥陀みだ如来にょらい本願ほんがんの​われら​を​たすけ​たまふ​ことわり​を​ききひらく​こと​は、 宿しゅくぜん開発かいほつに​よる​がゆゑなり​と​こころえ​て​のち​は、 わが​ちから​にて​は​なかり​けり、 ぶっりきの​さづけ​に​より​て、 本願ほんがんらい0074ぞんする​ものなり​と​こころうる​が、 すなはち平生へいぜいごうじょうなり。

されば平生へいぜいごうじょうといふは、 いま​の​ことわり​を​ききひらき​て、 おうじょう*じょうと​おもひさだむるくらいを、 一念いちねんぽっじゅう正定しょうじょうじゅとも、 平生へいぜいごうじょうとも、 即得そくとくおうじょうじゅう退転たいてんとも​いふ​なり。

 う​て​いはく、 一念いちねんおうじょうほっ、 くはしく​こころえ​られ​たり。 しかれども、 来迎らいこういまだ分別ふんべつせずそうろふ。 ねんごろに​しめし​うけたまはる​べくそうろふ。

 こたへ​て​いはく、 来迎らいこうの​こと​も、 一念いちねんぽっじゅう正定しょうじょうじゅ沙汰さたせ​られそうろふ​とき​は、 さらに来迎らいこう*そうろふ​べき​こと​も​なき​なり。 そのゆゑは、 来迎らいこうする​なんどもうす​こと​は、 しょぎょうにとりて​の​こと​なり。 真実しんじつ信心しんじんぎょうじゃは、 一念いちねんぽっする​ところ​にて、 *やがて摂取せっしゅしゃ光益こうやくに​あづかる​とき​は、 来迎らいこうまで​も​なき​なり​と​しら​るる​なり。

さればしょうにんおおせ​には、 「来迎らいこうしょぎょうおうじょうに​あり。 真実しんじつ信心しんじんぎょうにんは、 摂取せっしゅしゃの​ゆゑに正定しょうじょうじゅじゅうす。 正定しょうじょうじゅじゅうする​がゆゑに1089、 かならずめついたる。 かるがゆゑにりんじゅうまつ​こと​なし、 来迎らいこうたのむ​こと​なし」 (*御消息・一意) といへり。 このおんことば​をもつて​こころう​べき​ものなり。

 う​て​いはく、 正定しょうじょうめつと​は一益いちやくと​こころう​べき​か、 またやくと​こころう​べき​や0075

 こたへ​て​いはく、 一念いちねんぽっの​かた​は正定しょうじょうじゅなり。 これ​は穢土えどやくなり。 つぎ​にめつじょうにてべきやくにて​ある​なり​と​こころう​べき​なり。 さればやくなり​と​おもふ​べき​ものなり。

 う​て​いはく、 かくのごとく​こころえそうろふ​とき​は、 おうじょうじょうぞんじ​おきそうろふ​に、 なに​とて​わづらはしく信心しんじんす​べき​なんど沙汰さたそうろふ​は、 いかが​こころえ​はんべる​べき​や。 これ​もうけたまわり​たくそうろふ。

 こたへ​て​いはく、 まことに​もつて、 この​たづね​の​むね肝要かんようなり。 されば​いま​の​ごとくに​こころえそうろふ​すがた​こそ、 すなはち信心しんじんけつじょうの​こころ​にてそうろふ​なり。

 う​て​いはく、 信心しんじんけつじょうする​すがた、 すなはち平生へいぜいごうじょう来迎らいこう正定しょうじょうじゅと​のどうにてそうろふ​よし、 *ぶんみょうちょうもんつかまつりそうらひ​をはり​ぬ。 しかり​と​いへども、 信心しんじんじょうして​の​のち​には、 しんおうじょう極楽ごくらくの​ため​と​こころえ​て念仏ねんぶつもう1090そうろふ​べき​か、 また仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの​ため​と​こころう​べき​や、 いまだ​その​こころ​をそうろふ。

 こたへ​て​いはく、 このしんまた肝要かんようと​こそ​おぼえそうらへ。 そのゆゑは、 一念いちねん*信心しんじん発得ほっとく0076以後いご念仏ねんぶつをば、 しんおうじょうごうと​は​おもふ​べから​ず、 ただ​ひとへに仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの​ため​と​こころえ​らる​べき​ものなり。 されば*善導ぜんどうしょうの 「じょうじんいちぎょう下至げし一念いちねん(*礼讃・意)しゃくせ​り。 「下至げし一念いちねん」 といふは信心しんじんけつじょうの​すがた​なり、 「じょうじんいちぎょう」 は仏恩ぶっとん報尽ほうじん念仏ねんぶつなり​と*きこえ​たり。 これ​をもつて​よくよく​こころえ​らる​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいねんじゅう一月いちがつじゅう七日しちにち

(5) 雪中章

 ^そもそも、 当年とうねんより、 ことのほか、 *しゅう*能登のと*えっちゅうりょうさんこくの​あひだ​より道俗どうぞく男女なんにょ*くんじゅうを​なし​て、 この*吉崎よしざきさんちゅう参詣さんけいせ​らるる面々めんめんしんちゅうの​とほり、 いかが​と*こころもとなくそうろふ。

^そのゆゑは、 まづとうりゅうの​おもむき​は、 このたび極楽ごくらくおうじょうす​べき​ことわり​は、 りき信心しんじんを​え​たる​がゆゑなり。 しかれども、 このいちりゅうの​うち​において、 しかしかと​その信心しんじんの​すがた​をも​え​たるひと1091これ​なし。 かくのごとく​の​やから​は、 いかでかほうおうじょうをば​たやすく​とぐ​べき​や。 いちだいといふは​これ​なり。

^さいわひに五里ごりじゅうえんを​しのぎ、 このゆきの​うち​に参詣さんけいの​こころざし​は、 いかやうに​こころえ​られ​たるしんちゅう0077ぞや。 千万せんばんこころもと​なきだいなり。

^所詮しょせんぜんは​いかやう​のしんちゅうにて​あり​といふとも、 これ​より​のち​はしんちゅうに​こころえ​おか​る​べきだいを​くはしくもうす​べし。 よくよくみみを​そばだて​てちょうもんある​べし。

^そのゆゑは、 りき信心しんじんといふ​こと​を​*しかとしんちゅうに​たくはへ​られそうらひ​て、 その​うへには、 仏恩ぶっとん報謝ほうしゃのために​は行住ぎょうじゅう坐臥ざが念仏ねんぶつもうさ​る​べき​ばかり​なり。 この​こころえ​にて​ある​ならば、 このたび​のおうじょういちじょうなり。 この​うれしさ​のあまり​には、 *しょうぼう在所ざいしょへ​も​あゆみ​を​はこび、 *こころざし​をも​いたす​べき​ものなり。

^これ​すなはちとうりゅうを​よく​こころえ​たる信心しんじんひとと​はもうす​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいねんがつよう

(6) 睡眠章

 ^そもそも、 当年とうねんなつこのごろ​は、 なにとやらん​ことのほか睡眠すいめんに​をかさ​れ​て、 ねむたくそうろふ​は​いかん​とあんそうらへ​ば、 しんも​なくおうじょう死期しごも​ちかづく​か1092と​おぼえそうろふ。 まことに​もつて*あぢきなくごりをしく​こそそうらへ。 さりながら、 今日こんにちまで​も、 おうじょうも​いまやきたら​ん​とだんなく​その*かまへ​はそうろふ。

^それ​につけて0078も、 この在所ざいしょにおいて、 *以後いごまで​も信心しんじんけつじょうする​ひと​の*退転たいてんなき​やう​にもそうらへ​かし​と、 念願ねんがんのみちゅうだんに​おもふ​ばかり​なり。

^*このぶんにて​はおうじょうつかまつりそうろふ​とも、 いま​は*さいなくそうろふ​べきに、 それ​につけて​も、 面々めんめんしんちゅうも​ことのほかだんども​にて​こそ​はそうらへ。 いのち​の​あら​ん​かぎり​は、 われら​は​いま​の​ごとくに​て​ある​べくそうろふ。 よろづ​につけて、 みなみな​のしんちゅうこそ*そくぞんそうらへ。

^みょうにちも​しら​ぬ​いのち​にて​こそそうろふ​に、 なにごと​をもうす​も​いのち​をはりそうらは​ば、 *いたづらごと​にて​ある​べくそうろふ。 いのち​の​うち​にしんく​はれ​られそうらは​では、 さだめて後悔こうかいのみ​にてそうらは​んずる​ぞ、 おんこころえ​ある​べくそうろふ。

^あなかしこ、 あなかしこ。

 ^このしょうの​そなた​の人々ひとびとの​かた​へ​まゐら​せそうろふ。 のち​のとしに​とりし​てらんそうらへ。

*文明ぶんめいねんづきじゅうにちこれ​をく。

(71093) 弥生中半章

 さんぬる*文明ぶんめいだいれき*弥生やよい中半なかばの​ころ​か​と​おぼえ​はんべり​し​に、 *さ​も​あり​ぬ​らん0079と​みえ​つるにょしょういちにんおとこなんど​あひし​たる​ひとびと、 このやまの​こと​を沙汰さたし​まうし​ける​は、 そもそも​このごろ吉崎よしざきさんじょう*いち坊舎ぼうしゃを​たて​られ​て、 *ごん道断どうだん*おもしろき在所ざいしょかな​ともうそうろふ。 なか​にも​ことに、 加賀かがえっちゅう能登のとえちしな出羽でわおうしゅうしちこくより、 かのもんちゅう、 この当山とうざん道俗どうぞく男女なんにょ参詣さんけいを​いたし、 くんじゅうせしむる​よし、 その*きこえ​かくれなし。 これ末代まつだい思議しぎなり。 ただごと​とも​おぼえ​はんべら​ず。

さりながら、 かのもん面々めんめんには、 さても念仏ねんぶつ法門ぼうもんをば​なにと​すすめ​られそうろふ​やらん。 とりわけ信心しんじんといふ​こと​を​むね​と​をしへ​られそうろふ​よし、 ひとびともうそうろふ​なる​は、 いかやうなる​こと​にてそうろふ​やらん。 くはしく​きき​まゐらせ​て、 われら​も​この罪業ざいごうじんじゅうの​あさましき女人にょにんを​もち​てそうらへ​ば、 その信心しんじんと​やらん​を​ききわけ​まゐらせ​て、 おうじょうを​ねがひ​たくそうろふ​よし​を、 かの*さんちゅうの​ひと​に​たづね​まうし​てそうらへ​ば、

しめし​たまへ​る​おもむき​は、 「*なに​の​やう​も​なく、 ただ​わがじゅうあくぎゃく*しょうさんしょうの​あさましき​もの​ぞ​と​おもひ​て、 ふかく、 弥陀みだ如来にょらいは​かかるを​たすけ​ましますおんすがた​なり​と​こころえ​まゐらせ​て、 ふたごころなく弥陀みだを​たのみ1094たてまつり​て、 たすけ​たまへ​と​おもふ​こころ​の一念いちねんおこる​とき、 かたじけなく​も如来にょらい八万はちまんせんこうみょう0080はなち​て、 その摂取せっしゅし​たまふ​なり。 これ​を弥陀みだ如来にょらい念仏ねんぶつぎょうじゃ摂取せっしゅし​たまふ​といへる​は​この​こと​なり。

摂取せっしゅしゃといふは、 をさめとり​て​すて​たまは​ず​といふ​こころ​なり。 この​こころ​を信心しんじんを​え​たるひとと​はもうす​なり。 さて​この​うへには、 ね​ても​さめ​ても*たつ​ても​ゐ​ても、 南無なも弥陀みだぶつもう念仏ねんぶつは、 弥陀みだ*はや​たすけ​られ​まゐらせ​つる​かたじけなさ​の、 弥陀みだおんを、 南無なも弥陀みだぶつと​となへ​てほうじ​まうす念仏ねんぶつなり​と​こころう​べき​なり」 と​ねんごろに​かたり​たまひ​しかば、

この女人にょにんたち、 その​ほか​の​ひと、 もうさ​れ​ける​は、 「まことに​われら​がこんに​かなひ​たる弥陀みだ如来にょらい本願ほんがんにて​ましましそうろふ​をも、 いま​までしんじ​まゐらせそうらは​ぬ​こと​の​あさましさ、 もうす​ばかり​もそうらは​ず。 いま​より​のち​は一向いっこう弥陀みだを​たのみ​まゐらせ​て、 ふたごころなく一念いちねんに​わがおうじょう如来にょらいの​かた​よりおんたすけ​あり​けり​としんじ​たてまつり​て、 その​のち​の念仏ねんぶつは、 仏恩ぶっとん報謝ほうしゃ称名しょうみょうなり​と​こころえそうろふ​べき​なり。 かかる思議しぎ宿しゅくえんに​あひ​まゐらせ​て、 *しゅしょうほうを​きき​まゐらせそうろふ​こと​の​ありがたさ​たふとさ、 *なかなかもうす​ばかり​も​なく​おぼえ​はんべる​なり。 いま​は​はや​いとまもうす​なり1095」 とて、 なみだを​うかめ​て、 みなみな​かへり​に​けり。

あなかしこ、 あなかしこ。

0081*文明ぶんめいねん八月はちがつじゅうにち

(8) 吉崎建立章

 ^*文明ぶんめい第三だいさん*しょ上旬じょうじゅんの​ころ​より、 *ごうしゅうがのこおりおお*三井みいでらのみなみ別所べっしょへんより、 なにとなく*ふと​しのびいでで​て、 越前えちぜん加賀かが諸所しょしょ経回けいがいせしめ​をはり​ぬ。

^よつて当国とうごくほそぎのごうのうち吉崎よしざきといふ​この在所ざいしょ、 すぐれ​て​おもしろき​あひだ、 年来ねんらいろうの​すみなれ​し​このさんちゅうを​ひきたひらげ​て、 *七月しちがつじゅう七日しちにちより​かたのごとくいちこんりゅうして昨日きのう今日きょうぎゆく​ほどに、 はや三年さんねん春秋しゅんじゅうおくり​けり。

^さるほどに道俗どうぞく男女なんにょくんじゅうせしむ​と​いへども、 *さらに​なにへんともなきていなる​あひだ、 *当年とうねんより諸人しょにん出入しゅつにゅうを​とどむる​こころ​は、 この在所ざいしょきょじゅうせしむる*根元こんげんは​なにごと​ぞ​なれば、 そもそも人界にんがいしょうを​うけ​て​あひ​がたき仏法ぶっぽうに​すでに​あへ​るが、 *いたづらに​むなしく*らくしずま​ん​は、 まことに​もつてあさましき​こと​には​あらず​や。

^しかるあひだ念仏ねんぶつ信心しんじんけつじょうして極楽ごくらくおうじょうを​とげ​ん​と​おもは​ざらん人々ひとびとは、 なにしに​この在所ざいしょらいじゅうせん​こと、 かなふ​べから​ざる​よし​の*成敗せいばいを​くはへ​をはり​ぬ。 これ​ひとへにみょうもんようほんと​せ​ず、 ただしょう1096だいを​こと​と​する​がゆゑなり。

^しかれば0082見聞けんもん諸人しょにん*へんじゅうを​なす​こと​なかれ。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいねんがつ にち

(9) 物忌章

 そもそも、 *とうしゅうを、 むかしよりひとこぞりて*をかしく​きたなきしゅうもうす​なり。 これ​まことにどうの​さす​ところ​なり。

そのゆゑは、 とうりゅう人数にんじゅの​なか​において、 あるいは*もんしゅうたいし​て​はばかり​なく​わがいえもうし​あらはせ​る​いはれ​なり。 これ​おほきなる​あやまり​なり。 それ、 とうりゅうおきてを​まもる​といふは、 わがりゅうつたふる​ところのを​しかと内心ないしんに​たくはへ​て、 そうに​その​いろ​を​あらはさ​ぬ​を、 よく​もの​に​こころえ​たるひとと​は​いふ​なり。

しかるに当世とうせいは​わがしゅうの​こと​を、 もんしゅうに​むかひ​て、 その*しんしゃくも​なく*りょう沙汰さたする​によりて、 とうりゅうひと*あさま​に​おもふ​なり。 かやうに​こころえ​の​わろき​ひと​の​ある​によりて、 とうりゅうを​きたなく​いまはしきしゅうひとおもへ​り。 さらに​もつて​これ​はにんわろき​には​あらず、 りゅうひとわろき​に​よる​なり​と​こころう​べし。

つぎに*ぶっといふ​こと​は、 わがりゅうには仏法ぶっぽうについて*もの​いま​は​ぬ​といへる​こと​なり。 しゅうにも*1097ぼうにもたいし​ては、 などかものを​いま​ざらん​や。 しゅう0083もんに​むかひ​ては​もとより​いむ​べき​こと勿論もちろんなり。 また​よそ​のひとものいむ​と​いひ​て​そしる​こと​ある​べから​ず。

しかり​と​いへども、 仏法ぶっぽうしゅぎょうせん​ひと​は、 念仏ねんぶつしゃに​かぎら​ず、 もの*さのみ​いむ​べから​ず​と、 あきらかにしょきょうもんにも​あまた​みえ​たり。

まづ ¬*はんぎょう¼ (梵行品) に​のたまはく、 「如来にょらいほうちゅう無有むうせんじゃく吉日きちにちりょうしん」 といへり。 このもんの​こころ​は、 「如来にょらいほうの​なか​に吉日きちにちりょうしんを​えらぶ​こと​なし」 となり。

また ¬*般舟はんじゅきょう¼ に​のたまはく、 「優婆うばもん三昧さんまいよくがくしゃ  みょうぶつみょうほうみょう比丘びくそう↡ とくどうとくはいてんとくじんとくきちりょうにち↡」 といへり。 このもんの​こころ​は、 「優婆うばこの三昧さんまいき​てまなば​ん​とほっせ​ん​もの​は、 みづからぶつみょうし、 ほうみょうせよ、 比丘びくそうみょうせよ、 どうつかふる​こと​をざれ、 てんはいする​こと​をざれ、 じんまつる​こと​をざれ、 きちりょうにちる​こと​をざれ」 といへり。

かくのごとく​のきょうもんども​これ​あり​と​いへども、 この*ぶんいだす​なり。 ことに念仏ねんぶつぎょうじゃは​かれら​につかふ​べから​ざる​やう​に​みえ​たり。 よくよく​こころう​べし。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいねんがつ にち

(101098) 当0084山多屋内方章

 そもそも、 吉崎よしざき当山とうざんにおいて*多屋たやぼうたち*内方ないほうと​なら​ん​ひと​は、 まことにせん宿しゅくえんあさから​ぬ​ゆゑ​と​おもひ​はんべる​べき​なり。 それ​もしょういちだいと​おもひ、 信心しんじんけつじょうし​たらんにとりて​の​うへ​の​こと​なり。 しかれば、 内方ないほうと​なら​ん​ひとびと​は、 *あひかまへて信心しんじんを​よくよく​とら​る​べし。

それ、 まづとうりゅう安心あんじんもうす​こと​は、 おほよそ*じょういっの​うち​において、 あひ​かはり​て​ことに​すぐれ​たる​いはれ​ある​がゆゑに、 りきだい信心しんじんもうす​なり。 されば​この信心しんじんを​え​たる​ひと​は、 じゅうにんじゅうにんながらひゃくにんひゃくにんながら、 こんおうじょういちじょうなり​と​こころう​べき​ものなり。 その安心あんじんもうす​は、 いかやうに​こころう​べき​こと​やらん、 くはしく​も​しり​はんべら​ざる​なり。

 こたへ​て​いはく、 まことに​このしん肝要かんようの​こと​なり。 おほよそとうりゅう信心しんじんを​とる​べき​おもむき​は、 まづわが女人にょにんなれば、 つみふかきしょうさんしょうとて​あさましきにて、 すでに十方じっぽう如来にょらいさん諸仏しょぶつにも​すて​られ​たる女人にょにんなり​ける​を、 かたじけなく​も弥陀みだ如来にょらいひとり​かかるを​すくは​ん​とちかひ​たまひ​て、 すでにじゅうはちがんを​おこし​たまへ​り。 その​うちだいじゅうはちがんにおいて、 一切いっさい悪人あくにん女人にょにん0085たすけ​たまへ​る​うへ​に、 なほ女人にょにんつみふかくうたがいの​こころ​ふかき​によりて1099、 また​かさねて第三だいさんじゅうがんに​なほ女人にょにんを​たすけ​ん​といへるがんを​おこし​たまへ​る​なり。 かかる弥陀みだ如来にょらいろうあり​つるおんの​かたじけなさ​よ​と、 ふかく​おもふ​べき​なり。

 う​て​いはく、 さて​かやうに弥陀みだ如来にょらいの​われら​ごとき​の​もの​を​すくは​ん​と、 たびたびがんを​おこし​たまへ​る​こと​の​ありがたさ​を*こころえわけ​まゐらせそうらひ​ぬる​について、 *なにとやうにを​もち​て、 弥陀みだを​たのみ​まゐらせそうらは​ん​ずる​やらん、 くはしく​しめし​たまふ​べき​なり。

 こたへ​て​いはく、 信心しんじんを​とり弥陀みだを​たのま​ん​と​おもひ​たまは​ば、 まづ*人間にんげんは​ただゆめまぼろしの​あひだ​の​こと​なり、 しょうこそ​まことに*ようしょうらっなり​と*おもひとり​て人間にんげんじゅうねんひゃくねんの​うち​の​たのしみ​なり、 しょうこそいちだいなり​と​おもひ​て、 もろもろ​のぞうぎょうを​このむ​こころ​を​すて、 あるいは​また、 もの​の​いまはしく​おもふ​こころ​をも​すて、 *一心いっしん一向いっこう弥陀みだを​たのみ​たてまつり​て、 その​ほかぶつさつ諸神しょじんとうにも​こころ​を​かけ​ず​して、 ただ​ひとすぢに弥陀みだし​て、 このたび​のおうじょうじょうなる​べし​と​おもは​ば、 その​ありがたさ​のあまり念仏ねんぶつもうし​て0086弥陀みだ如来にょらいの​われら​を​たすけ​たまふおんほうじ​たてまつる​べき​なり。

これ1100信心しんじんを​え​たる多屋たやぼうたち内方ないほうの​すがた​と​はもうす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいねんがつじゅう一日いちにち

(11) 電光朝露章

 それ​おもんみれ​ば、 人間にんげんは​ただ*電光でんこうちょうゆめまぼろしの​あひだ​の​たのしみ​ぞかし。 たとひ​またえい栄耀えいように​ふけり​て、 おもふさま​の​こと​なり​といふとも、 それ​は​ただじゅうねんないひゃくねんの​うち​の​こと​なり。 もし​ただいま​もじょうかぜきたり​て​さそひ​なば、 いかなるびょうに​あひ​て​か​むなしく​なり​なん​や。 まことにせん​とき​は、 かねて*たのみ​おき​つるさい財宝ざいほうも、 わがには​ひとつ​も​あひ​そふ​こと​ある​べから​ず。 されば死出しでやまの​すゑ、 さんたいをば​ただ​ひとり​こそ​ゆき​なんずれ。

これ​によりて、 ただ​ふかく​ねがふ​べき​はしょうなり、 また​たのむ​べき​は弥陀みだ如来にょらいなり、 信心しんじんけつじょうして​まゐる​べき​はあんにょうじょうなり​と​おもふ​べき​なり。 これ​について​ちかごろ​は、 このほう念仏ねんぶつしゃぼうたち仏法ぶっぽうだいもつてのほかそうす。

そのゆゑ0087は、 *もんの​かた​より​もの​を​とる​を​よき弟子でしといひ、 これ​を信心しんじんの​ひと​といへり。 これ​おほきなる​あやまり​なり。 また弟子でしぼうに​もの​を​だに​も1101おほく​まゐらせ​ば、 わが​ちから​かなは​ず​とも、 ぼうの​ちから​にて​たすかる​べき​やう​に​おもへ​り。 これ​も​あやまり​なり。 かくのごとくぼうもんの​あひだ​において、 さらにとうりゅう信心しんじんの​こころえ​のぶんは​ひとつ​も​なし。 まことに​あさまし​や。 弟子でしともに極楽ごくらくにはおうじょうせず​して、 むなしくごくに​おち​ん​こと​はうたがいなし。 なげき​ても​なほ​あまり​あり、 かなしみ​ても​なほ​ふかく​かなしむ​べし。

しかれば、 今日こんにちより​のち​は、 りきだい信心しんじんだいを​よくぞんし​たらん​ひと​に​あひ​たづね​て、 信心しんじんけつじょうして、 その信心しんじんの​おもむき​を弟子でしにも​をしへ​て、 もろともにこんいちだいおうじょうを​よくよく​とぐ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいねんがつ中旬ちゅうじゅん

(12) 年来超勝寺章

 *そもそも、 年来ねんらい*超勝ちょうしょうもんにおいて、 仏法ぶっぽうだいもつてのほかそうせ​り。

その​いはれ​は、 まづ*しゅとて​これ​あり。 いかにも​その*じょうに​あがり​て、 さかづき​なんど​まで​も0088ひと​より​さき​にみ、 ちゅうのひと​にも​また​その​ほか​たれたれ​にも、 *いみじく​おもは​れ​んずる​が、 まことに仏法ぶっぽう肝要かんようたる​やう​にしんちゅうに​こころえ​おき​たり。 これ​さらにおうじょう極楽ごくらくの​ため​に​あらず、 ただけんみょうもん1102たり。

しかるにとうりゅうにおいて*毎月まいがつ会合かいごうらいは​なに​のようぞ​なれば、 ざい無智むちをもつて、 いたづらに​くらし、 いたづらに​あかして、 *いちは​むなしくぎ​て、 つひにさんしずま​んが、 一月いちがついちなり​とも、 せめて念仏ねんぶつしゅぎょう人数にんじゅばかりどうじょうに​あつまり​て、 わが信心しんじんは、 ひと​の信心しんじんは、 いかが​ある​らん​といふ信心しんじん沙汰ざたを​す​べきよう会合かいごうなる​を、 ちかごろ​は​その信心しんじんといふ​こと​は​かつて是非ぜひ沙汰さたに​およば​ざる​あひだ、 ごんどうだんあさましきだいなり。

所詮しょせん*こん以後いごは、 かたく会合かいごうちゅうにおいて信心しんじん沙汰さたを​す​べき​ものなり。 これ真実しんじつおうじょう極楽ごくらくを​とぐ​べき​いはれ​なる​がゆゑなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいねんがつじゅん

(13) 此方十劫邪義章

 ^*そもそも、 ちかごろ​は、 このほう念仏ねんぶつしゃの​なか​において、 *思議しぎみょうごんを​つかひ​て、 これ​こそ0089信心しんじんを​え​たる​すがた​よ​といひ​て、 しかも​われ​はとうりゅう信心しんじんを​よくがお*ていしんちゅうに​こころえ​おき​たり。

^その​ことば​に​いはく、 「*十劫じっこうしょうがくの​はじめ​より、 われら​がおうじょうさだめ​たまへ​る弥陀みだおんを​わすれ​ぬ​が信心しんじん」 といへり。 これ​おほきなる​あやまり​なり。 *そも弥陀みだ如来にょらいしょうがく1103たまへ​る​いはれ​を​しり​たり​といふとも、 われら​がおうじょうす​べきりき信心しんじんといふ​いはれ​を​しら​ずは、 いたづらごと​なり。

^しかれば、 *きょうこうにおいて​は、 まづとうりゅう真実しんじつ信心しんじんといふ​こと​を​よくよくぞんす​べき​なり。

その信心しんじんといふは、 ¬だいきょう¼ には三信さんしんき、 ¬*かんぎょう¼ には三心さんしんと​いひ、 ¬*弥陀みだきょう¼ には一心いっしんと​あらはせ​り。

^さんぎょうともに​そのかはり​たり​と​いへども、 その​こころ​は​ただりき一心いっしんを​あらはせ​る​こころ​なり。

^されば信心しんじんといへる​その​すがた​は​いかやうなる​こと​ぞ​といへ​ば、 まづ​もろもろ​のぞうぎょうを​さしおき​て、 一向いっこう弥陀みだ如来にょらいを​たのみ​たてまつり​て、 *自余じよ一切いっさい諸神しょじん諸仏しょぶつとうにも​こころ​を​かけ​ず、 一心いっしんに​もつぱら弥陀みだみょうせば、 如来にょらいこうみょうをもつて​その摂取せっしゅしてて​たまふ​べから​ず。 これ​すなはち​われら​が一念いちねん信心しんじんけつじょうし​たる​すがた​なり。

^かくのごとく​こころえ​て​の​のち​は、 弥陀みだ如来にょらいりき信心しんじんを​われら​に​あたへ​たまへ​るおんほうじ​たてまつる念仏ねんぶつなり​と​こころう​べし。

^これ​をもつて信心しんじんけつ0090じょうし​たる念仏ねんぶつぎょうじゃと​はもうす​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいだいがつじゅんの​ころ​これ​を云々うんぬん

(14)1104 誡誹謗章

 そもそも、 とうりゅう念仏ねんぶつしゃの​なか​において、 *諸法しょほう*ほうす​べから​ず。 まづえっちゅう加賀かがならば、 *立山たてやま*白山しらやまその​ほかしょ山寺やまでらなり。 越前えちぜんならば、 *平泉へいせん*豊原とよはらとうなり。

されば ¬きょう¼ (大経) にも、 すでに 「ゆいじょぎゃくほうしょうぼう」 と​こそ​これ​を​いましめ​られ​たり。 これ​によりて、 念仏ねんぶつしゃは​ことにしょしゅうほうず​べから​ざる​ものなり。

またしょうどうしょしゅう学者がくしゃたちも、 あながちに念仏ねんぶつしゃをばほうず​べから​ず​と​みえ​たり。 その​いはれ​は、 きょうしゃくともに​そのもんこれ​おほし​と​いへども、 まづ*はっしゅう祖師そしりゅうじゅさつの ¬ろん¼ (*大智度論) に​ふかく​これ​を​いましめ​られ​たり。 そのもんに​いはく、 「*ほう愛染あいぜん 毀呰きしにんぼう すいかいぎょうにん めんごく」 といへり。

かくのごとく​の論判ろんぱんぶんみょうなる​とき​は、 いづれ​も仏説ぶっせつなり。 あやまりてほうずる​こと​なかれ。 それ、 みないっしゅういっしゅうの​こと​なれば、 わが​たのま​ぬ​ばかり​にて​こそ​ある​べけれ。 ことさらとうりゅうの​なか​において、 なに​の分別ふんべつも​なき​もの、 しゅうを​そしる​こと*勿体もったいなきだいなり。 あひかまへて​あひかまへて、 *いっ0091しょぼうぶんたる​ひと​は、 この成敗せいばいを​かたく​いたす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいねんがつじゅん

(15)1105 宗名章

 う​て​いはく、 とうりゅうを​みなけん流布るふして、 一向いっこうしゅうと​なづけそうろふ​は、 いかやうなるさいにてそうろふ​やらん、 しんに​おぼえそうろふ。

 こたへ​て​いはく、 あながちに​わがりゅう一向いっこうしゅうと​なのる​こと​は、 *べっして祖師そし (親鸞)さだめ​られ​ず。 おほよそ弥陀みだぶつ一向いっこうに​たのむ​に​より​て、 みなひともうし​なす​ゆゑ​なり。 しかり​と​いへども、 きょうもん (大経・下) に 「一向いっこう専念せんねんりょう寿じゅぶつ」 とき​たまふ​ゆゑに、 一向いっこうりょう寿じゅぶつねんぜよ​といへる​こころ​なる​とき​は、 一向いっこうしゅうもうし​たる​もさいなし。

さりながら*開山かいさん (親鸞) は​このしゅうをばじょうしんしゅうと​こそさだめ​たまへ​り。 されば一向いっこうしゅうといふみょうごんは、 さらにほんしゅうよりもうさ​ぬ​なり​と​しる​べし。 されば*自余じよじょうしゅうは​もろもろ​のぞうぎょうを​ゆるす。 わがしょうにん (親鸞)ぞうぎょうを​えらび​たまふ。 この​ゆゑに真実しんじつほうおうじょうを​とぐる​なり。 この​いはれ​ある​がゆゑに、 べっしてしんれ​たまふ​なり。

 また​のたまはく、 とうしゅうを​すでにじょうしんしゅうと​なづけ​られそうろふ​こと​はぶんみょうに​きこえ​ぬ。 しかるに​この*しゅうていにてざいつみふかき*あくぎゃくなり​といふとも、 弥陀みだ願力がんりきに​すがり​て​たやすく極楽ごくらくおうじょうす​べき​やう、 くはしくうけたまわり​はんべら​ん​と​おもふ0092なり。

 1106こたへ​て​いはく、 とうりゅうの​おもむき​は、 信心しんじんけつじょうし​ぬれ​ば​かならず真実しんじつほうおうじょうを​とぐ​べき​なり。 されば​その信心しんじんといふは​いかやうなる​こと​ぞ​といへ​ば、 なに​の*わづらひ​も​なく、 弥陀みだ如来にょらい一心いっしんに​たのみ​たてまつり​て、 そのぶつさつとうにも​こころ​を​かけ​ず​して、 一向いっこうに​ふたごころなく弥陀みだしんずる​ばかり​なり。 これ​をもつて信心しんじんけつじょうと​はもうす​ものなり。

信心しんじんといへる二字にじをば、 まこと​の​こころ​と​よめ​る​なり。 まこと​の​こころ​といふは、 ぎょうじゃの​わろきりきの​こころ​にて​は​たすから​ず、 如来にょらいりきの​よき​こころ​にて​たすかる​がゆゑに、 まこと​の​こころ​と​はもうす​なり。

またみょうごうをもつて​なに​の​こころえ​も​なく​して、 ただ​となへ​ては​たすから​ざる​なり。 されば ¬きょう¼ (大経・下) には、 「もんみょうごう 信心しんじんかん」 とけ​り。 「そのみょうごうく」 といへる​は、 南無なも弥陀みだぶつろくみょうごう*みょうじつに​きく​に​あらず。 ぜんしきに​あひ​て0093その​をしへ​を​うけ​て、 この南無なも弥陀みだぶつみょうごう南無なもと​たのめ​ば、 かならず弥陀みだぶつの​たすけ​たまふ​といふどうなり。 これ​を ¬きょう¼ に 「信心しんじんかん」 とか​れ​たり。 これ​によりて、 南無なも弥陀みだぶつたいは、 われら​を​たすけ​たまへ​る​すがた​ぞ​と​こころう​べき​なり

かやうに​こころえ​て​のち​は、 行住ぎょうじゅう坐臥ざがくちに​となふる称名しょうみょうをば、 ただ弥陀みだにょらい1107の​たすけ​ましますおんほうじ​たてまつる念仏ねんぶつぞ​と​こころう​べし。 これ​をもつて信心しんじんけつじょうして極楽ごくらくおうじょうするりき念仏ねんぶつぎょうじゃと​はもうす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいだいがつじゅんだいにち*みのこくいたり​てしゅうやまなかとううちに​これ​をあつめ​をはり​ぬ。

しゃく*しょうにょ(花押)

 

 二 帖

(1)0094 御さらへ章

 そもそも、 こん*いちしちにち報恩ほうおんこうの​あひだ​において、 多屋たや内方ないほうも​その​ほか​のひとも、 たいりゃく信心しんじんけつじょうし​たまへ​る​よし​きこえ​たり。 *めでたく本望ほんもうこれ​に​すぐ​べから​ず。

さりながら、 その​まま​うちすてそうらへ​ば、 信心しんじんも​うせそうろふ​べし。 *細々さいさい信心しんじんみぞを​さらへ​て、 弥陀みだ法水ほうすいなが​といへる​こと​ありげ​にそうろふ。

それ​について、 女人にょにん十方じっぽうさん*諸仏しょぶつにも​すて​られ​たるにてそうろふ​を、 弥陀みだにょらい1108なれば​こそ、 かたじけなく​も​たすけ​ましましそうらへ。

そのゆゑは、 女人にょにんは​いかに真実しんじつしんに​なり​たり​といふとも、 うたがいこころは​ふかく​して、 またものなんど​の​いまはしく​おもふこころは​さらにせがたく​おぼえそうろふ。 ことにざいは、 *せいに​つけ、 またそんなんど​の​こと​に*よそへ​ても、 ただこんじょうに​のみ​ふけり​て、 これ​ほど​に、 はやに​みえ​て*あだなる人間にんげんかい*ろうしょうじょうの​さかひ​と​しり​ながら、 ただいまさん八難はちなんしずま​ん​こと​をば、 つゆちり​ほど​もこころに​かけ​ず​して、 いたづらに​あかしくらす​は、 これ​つね​のひとの​ならひ​なり。 あさまし​といふ​も*おろかなり。

これ​によりて、 一心いっしん一向いっこう弥陀みだ一仏いちぶつがんし​て、 ふかく​たのみ​たてまつり​て、 もろもろのぞうぎょうしゅするこころを​すて、 また諸神しょじん諸仏しょぶつついしょうもうこころをも​みな​うちすて​て、 さて弥陀みだ如来にょらいもうす​は、 かかる​われら​ごとき​の​あさ0095ましき女人にょにんの​ため​に​おこし​たまへ​る本願ほんがんなれば、 まことにぶっ思議しぎしんじ​て、 わがは​わろき​いたづらもの​なり​と​おもひつめ​て、 ふかく如来にょらい*にゅうするこころを​もつ​べし。

さて​このしんずるこころねんずるこころも、 弥陀みだ如来にょらい方便ほうべんより​おこさ​しむる​ものなり​と​おもふ​べし。 かやうに​こころうる​を、 すなはちりき信心しんじんを​え​たるひとと​は​いふなり。 また​このくらいを、 あるいは正定しょうじょうじゅじゅうす​とも、 めついたる​とも1109とうしょうがくいたる​とも、 ろくに​ひとし​とももうす​なり。 また​これ​を一念いちねんぽっおうじょうさだまり​たるひととももうす​なり。

かくのごとく​こころえ​て​の​うへ​の称名しょうみょう念仏ねんぶつは、 弥陀みだ如来にょらいの​われら​がおうじょうを​やすくさだめ​たまへ​る、 そのおんうれしさ​のおんほうじ​たてまつる念仏ねんぶつなり​と​こころう​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

 これ​について、 まづとうりゅうおきてを​よくよく​まもら​せたまふ​べし。 その​いはれ​は、 あひかまへて​いま​の​ごとく信心しんじんの​とほり​を​こころえ​たまは​ば、 しんちゅうに​ふかく​をさめおき​て、 しゅうにんたいし​て​その​ふるまひ​を​みせ​ず​して、 また信心しんじんの​やう​をも​かたる​べから​ず。 一切いっさい諸神しょじんなんど​をも​わがしんぜ​ぬ​まで​なり、 *おろかに​す​べから​ず。

かくのごとく信心しんじんの​かた​も​その​ふるまひ​も​よきひとをば、 しょうにん (親鸞) も 「よく​こころえ​たる信心しんじんぎょうじゃなり」 とおおせ​られ​たり。 ただ​ふかく​こころ​をば仏法ぶっぽうに​とどむ​べき0096なり。

あなかしこ、 あなかしこ。

 *文明ぶんめいだいじゅうがつようかのひこれをきて*当山とうざん多屋たや内方ないほうへ​まゐらせそうろふ。 この​ほか​なほなほしんの​ことそうらは​ば、 かさねては​せたまふ​べくそうろふ。

*所送しょそう寒暑かんしょ *じゅうさい *御判

  のち​のの​しるし​の​ため​に​かきおき​し *のり​の​ことのかたみ​とも​なれ

(2)1110 出立章

 そもそも、 開山かいさんしょうにん (親鸞)いちりゅうには、 それ信心しんじんといふ​こと​をもつてさきと​せ​られ​たり。

その信心しんじんといふは​なに​のようぞ​といふ​に、 *ぜん造悪ぞうあくの​われら​が​やう​なる​あさましきぼんが、 たやすく弥陀みだじょうへ​まゐり​なんずる​ため​のたちなり。 この信心しんじんぎゃくとくせずは極楽ごくらくにはおうじょうせず​して、 けんごくざいす​べき​ものなり。

これ​によりて、 その信心しんじんを​とら​んずる​やう​は​いかん​といふ​に、 それ弥陀みだ如来にょらい一仏いちぶつを​ふかく​たのみ​たてまつり​て、 自余じよ諸善しょぜんまんぎょうに​こころ​を​かけ​ず、 また諸神しょじんしょさつにおいて、 *こんじょうのいのり​を​のみ​なせる​こころ​をうしなひ、 また​わろきりきなんど​いふ*ひがおもひ​をも​なげすて0097て、 弥陀みだ一心いっしん一向いっこうしんぎょうして​ふたごころ​の​なきひとを、 弥陀みだは​かならず*へんじょうこうみょうをもつて、 そのひと摂取せっしゅしてて​たまは​ざる​ものなり。

かやうにしんを​とる​うへには、 ね​ても​おき​ても​つね​にもう念仏ねんぶつは、 かの弥陀みだの​われら​を​たすけ​たまふおんほうじ​たてまつる念仏ねんぶつなり​と​こころう​べし。 かやう​に​こころえ​たるひとを​こそ、 まことにとうりゅう信心しんじんを​よく​とり​たるしょうと​は​いふ​べき​ものなり。 この​ほか​に​なほ信心しんじんといふ​こと​の​あり​といふひとこれ​あらば、 おほきなる​あやまり​なり。 すべて*しょういんす​べから​ざる​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

 1111いま​このふみに​しるす​ところの​おもむき​は、 とうりゅう親鸞しんらんしょうにんすすめ​たまへ​る信心しんじんしょうなり。 このぶんを​よくよく​こころえ​たらん人々ひとびとは、 あひかまへてしゅうにんたいし​て​この信心しんじんの​やう​を沙汰さたす​べから​ず。 また自余じよ一切いっさいぶつさつならびに諸神しょじんとうをも​わがしんぜ​ぬ​ばかり​なり。 あながちに​これ​を​かろしむ​べから​ず。 これ​まことに弥陀みだ一仏いちぶつどくの​うち​に、 みな一切いっさい諸神しょじんは​こもれ​り​と​おもふ​べき​ものなり。 そうじて一切いっさい*諸法しょほうにおいて​そしり​を​なす​べから​ず。 これ​をもつてとうりゅうおきてを​よく​まもれ​るひとと​なづく​べし。

さればしょうにんの​いはく、 「たとひうし盗人ぬすびとと​は​いは​る​とも、 もしは後世ごせしゃ、 もしは善人ぜんにん、 もしは仏法ぶっぽうしゃと​みゆる​やう0098に​ふるまふ​べから​ず」 (*改邪鈔) と​こそおおせ​られ​たり。 この​むね​を​よくよく​こころえ​て念仏ねんぶつをばしゅぎょうす​べき​ものなり。

*文明ぶんめいだいじゅうがつじゅうにちのこれ​をく。

(3) 神明三ヶ条章

 それ、 とうりゅう開山かいさんしょうにん (親鸞) の​ひろめ​たまふ​ところのいちりゅうの​なか​において、 みなかんを​いたす​に​そのどうこれ​ある​あひだ、 所詮しょせんきょうこうは、 当山とうざん多屋たやぼう以下いげその​ほか一巻いっかん聖教しょうぎょうま​んひとも、 またらいじゅう面々めんめんも、 各々かくかくとうもん1112*そのを​かけ​ん​ともがら​まで​も、 このさんじょう*篇目へんもくをもつて​これ​をぞんせしめ​て、 こん以後いご、 その*成敗せいばいを​いたす​べき​ものなり。

 一 諸法しょほうしょしゅうともに​これ​をほうす​べから​ず。

 一 諸神しょじん諸仏しょぶつさつを​かろしむ​べから​ず。

 一 信心しんじんを​とら​しめ​てほうおうじょうを​とぐ​べきこと

 みぎこのさんじょうむねを​まもり​て、 ふかく心底しんていに​たくはへ​て、 これ​をもつてほんと​せ​ざら​ん人々ひとびとにおいて​は、 この当山とうざん出入しゅつにゅうちょうす​べき​ものなり。

そもそも、 さんぬる*ぶん0099めい第三だいさんれき*ちゅうの​ころ​より*らくで​て、 おなじきとし七月しちがつじゅんこう、 すでに​この当山とうざんふうあらき在所ざいしょ草庵そうあんを​しめ​て、 この四箇しかねんの​あひだきょじゅうせしむる根元こんげんは、 べつさいに​あらず。 このさんじょうの​すがた​をもつて、 かの北国ほっこくちゅうにおいて、 とうりゅう信心しんじんけつじょうの​ひと​を、 おなじく*いち安心あんじんに​なさ​んがため​の​ゆゑ​に、 今日こんにちこんまで*堪忍かんにんせしむる​ところ​なり。 よつて​この​おもむき​をもつて​これ​を信用しんようせ​ば、 まことに​この年月としつき在国ざいこくほんたる​べき​ものなり。

 一 *神明しんめいもうす​は、 それ仏法ぶっぽうにおいてしんも​なきしゅじょうの​むなしくごくに​おち​ん​こと​を​かなしみ​おぼしめし​て、 これ​を​なにと​して​も​すくは​ん​が​ため​に、 かりかみ1113と​あらはれ​て、 いささかなるえんをもつて、 それ​を​たより​として、 つひに仏法ぶっぽうに​すすめれ​しめ​ん​ため​の方便ほうべんに、 かみと​は​あらはれ​たまふ​なり。

しかれば、 いまときしゅじょうにおいて、 弥陀みだを​たのみ信心しんじんけつじょうして念仏ねんぶつもうし、 極楽ごくらくおうじょうす​べきと​なり​なば、 一切いっさい神明しんめいは、 かへりて​わが本懐ほんがいと​おぼしめし​て​よろこび​たまひ​て、 念仏ねんぶつぎょうじゃしゅし​たまふ​べき​あひだ、 *とりわきかみを​あがめ​ね​ども、 ただ弥陀みだ一仏いちぶつを​たのむ​うち​に​みな​こもれ​る​がゆゑに、 べっして​たのま​ざれ​どもしんずる​いはれ​の​ある​がゆゑなり。

 0100一 とうりゅうの​なか​において、 諸法しょほうしょしゅうほうする​こと​しかるべから​ず。 いづれ​もしゃ一代いちだいせっきょうなれば、 *如説にょせつしゅぎょうせば​そのやくある​べし。 さりながら末代まつだいわれら​ごとき​の*ざいじゅうは、 しょうどうしょしゅうきょうに​およば​ねば、 それ​を​わが​たのま​ず、 しんぜ​ぬ​ばかり​なり。

 一 諸仏しょぶつさつもうす​こと​は、 それ弥陀みだ如来にょらい分身ぶんしんなれば、 十方じっぽう諸仏しょぶつのために​は*ほん*本仏ほんぶつなる​がゆゑに弥陀みだ一仏いちぶつし​たてまつれ​ば、 すなはち諸仏しょぶつさつする​いはれ​ある​がゆゑに、 弥陀みだ一体いったいの​うち​に諸仏しょぶつさつは​みな​ことごとく​こもれ​る​なり。

 1114一 開山かいさん親鸞しんらんしょうにんの​すすめ​まします​ところの弥陀みだ如来にょらいりき真実しんじつ信心しんじんといふは、 もろもろ​のぞうぎょうを​すて​て専修せんじゅ専念せんねん一向いっこう一心いっしん弥陀みだみょうする​をもつて、 本願ほんがんしんぎょうする*たいと​す。 されば*先達せんだつよりうけたまわり​つたへ​し​が​ごとく、 弥陀みだ如来にょらい真実しんじつ信心しんじんをば、 いくたび​もりきより​さづけ​らるる​ところのぶっ思議しぎなり​と​こころえ​て、 一念いちねんをもつて​はおうじょうじょう*こくさだめ​て、 その​とき​のいのちのぶれ​ばねん*ねんに​およぶどうなり。

これ​によりて、 平生へいぜいの​とき一念いちねんおうじょうじょうの​うへ​の仏恩ぶっとん報尽ほうじんねん称名しょうみょう*ならふ​ところ​なり。 しかれば、 祖師そししょうにん (親鸞) 相伝そうでんいちりゅう肝要かんようは、 ただ0101この信心しんじんひとつ​に​かぎれ​り。 これ​を​しら​ざる​をもつて*もんと​し、 これ​を​しれ​る​をもつてしんしゅうの​しるし​と​す。 その​ほか​かならずしもそうにおいてとうりゅう念仏ねんぶつしゃの​すがた​をにんたいし​て​あらはす​べから​ず。 これ​をもつてしんしゅう信心しんじんを​え​たるぎょうじゃの​ふるまひ​の*しょうほんと​なづく​べき​ところ*くだんの​ごとし。

*文明ぶんめい六年ろくねんきのえうましょうがつじゅう一日いちにちこれ​をく。

(4) 横截五悪趣章

 ^それ、 弥陀みだ如来にょらい*ちょう本願ほんがんもうす​は、 末代まつだいじょく造悪ぞうあくぜんの​われら​ごとき1115ぼんの​ため​に​おこし​たまへ​るじょう誓願せいがんなる​がゆゑなり。

^しかれば、 これ​を​なにとやうにこころをも​もち、 なにとやうに弥陀みだしんじ​て、 かのじょうへ​はおうじょうす​べき​やらん、 さらに​その分別ふんべつなし。 くはしく​これ​を​をしへ​たまふ​べし。

 ^こたへ​て​いはく、 末代まつだいいまときしゅじょうは、 ただひとすぢ​に弥陀みだ如来にょらいを​たのみ​たてまつり​て、 ぶつさつとうをも​ならべ​てしんぜ​ね​ども、 一心いっしん一向いっこう弥陀みだ一仏いちぶつみょうするしゅじょうをば、 いかにつみふかく​ともぶつ*だいだいをもつて​すくは​ん​とちかひ​たまひ​て、 だいこうみょうはなち​て、 そのこうみょうの​うち​におさり​まします​ゆゑに、 この​こころ​を ¬きょう¼ (*観経) には0102、 「こうみょうへんじょう 十方じっぽうかい 念仏ねんぶつしゅじょう 摂取せっしゅしゃ」 とき​たまへ​り。

^さればどう六道ろくどうといへる悪趣あくしゅに​すでに​おもむく​べき​みち​を、 弥陀みだ如来にょらい願力がんりき思議しぎとして​これ​を​ふさぎ​たまふ​なり。

^この​いはれ​を​また ¬きょう¼ (*大経・下) には、 「横截おうぜつ悪趣あくしゅ悪趣あくしゅねんぺい」 とか​れ​たり。

^かるがゆゑに、 如来にょらい誓願せいがんしんじ​て一念いちねんしんなき​とき​は、 いかにごくへ​おち​ん​と​おもふ​とも、 弥陀みだ如来にょらい摂取せっしゅこうみょうおさら​れ​まゐらせ​たらんは、 わが​はからひ​にてごくへ​も​おち​ず​して極楽ごくらくに​まゐる​べきなる​がゆゑなり。

^かやう​のどうなる​とき​は、 *ちゅうちょうは、 如来にょらいだいおん*雨山あめやまに​かうぶり​たる​われら​なれば1116ただくちに​つね​に称名しょうみょうを​となへ​て、 かの仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの​ため​に念仏ねんぶつもうす​べき​ばかり​なり

^これ​すなはち真実しんじつ信心しんじんを​え​たる​すがた​といへる​は​これ​なり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

**文明ぶんめいろくがつじゅうにちのひだいしょうそん (釈尊) *にゅうめつむかしを​おもひ​いで​て、 ともしびもとにおいて老眼ろうがんのごふでめ​をはり​ぬ。

満六十 御判

(5)0103 珠数章

 ^そもそも、 このさんねんの​あひだ​において、 当山とうざん念仏ねんぶつしゃ*ぜいを​み​およぶ​に、 まことに​もつてりき安心あんじんけつじょうせしめ​たるぶんなし。

^そのゆゑは、 *じゅ一連いちれんをも​もつ​ひと​なし。 さるほどにほとけをばづかみ​に​こそ​せ​られ​たり。 しょうにん (親鸞)、 まつたく 「じゅを​すて​てぶつおがめ」 とおおせ​られ​たる​こと​なし。 さりながらじゅを​もた​ず​とも、 おうじょうじょうのために​は​ただりき信心しんじんひとつ​ばかり​なり。 それ​には​さはり​ある​べから​ず。

^まづだいぼうぶんたるひとは、 袈裟けさをも​かけ、 じゅを​もち​てもさいなし。 これ​によりて真実しんじつ信心しんじんぎゃくとくし​たるひとは、 かならずくちにもし、 また*いろにも​その​すがた​は​みゆる​なり。 しかれば、 *とうは​さらに真実しんじつ信心しんじん*うつくしく1117え​たるひと、 いたりて​まれなり​と​おぼゆる​なり。

^それ​は​いかん​ぞ​なれば、 弥陀みだ如来にょらい本願ほんがんの​われら​が​ため​に相応そうおうし​たる​たふとさ​の​ほど​も、 には​おぼえ​ざる​がゆゑに、 いつ​も信心しんじんの​ひととほり​をば、 われ​こころえがおの​よし​にて、 なにごと​をちょうもんする​にも、 その​こと​と​ばかり​おもひ​て、 みみへ​も​しかしかと​も​いら​ず、 ただひとまね​ばかり​の*ていたらく​なり​と​みえ​たり。

^このぶんにて​は、 しんおうじょう極楽ごくらくも​いま​は​いかが​と​あやふく​おぼゆる​なり。 いはんやもん同朋どうぼうかんも、 なかなか​これ​ある​べから​ず。 かくのごとき​のしんちゅうにて​は0104こんほうおうじょう不可ふかなり。

^*あらあら*しょうや。 ただ​ふかく​こころ​を​しづめ​てあんある​べし。 まことに​もつて人間にんげんづるいきる​を​また​ぬ​ならひ​なり。 あひかまへてだんなく仏法ぶっぽうを​こころ​に​いれ​て、 信心しんじんけつじょうす​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいろくがつじゅう六日ろくにちそうちょうに​にはかにふでめ​をはり​ぬ​のみ。

(6) 掟章

 そもそも、 とうりゅうりき信心しんじんの​おもむき​を​よくちょうもんして、 けつじょうせしむる​ひと​これ​あらば、 その信心しんじんの​とほり​をもつて心底しんていに​をさめ​おき​て、 しゅうにんたいして沙汰さたす​べから​ず。 また*路次ろし大道だいどうわれわれ​の在所ざいしょなんど​にて​も、 あらはにひと1118をも​はばから​ず​これ​を*讃嘆さんだんす​べから​ず。 つぎ​には*しゅ*とうほうに​むき​ても、 われ​は信心しんじんを​え​たり​といひてりゃくなく、 いよいよ*公事くじを​まつたくす​べし。 また諸神しょじん諸仏しょぶつさつをも​おろそかに​す​べから​ず。 これ​みな南無なも弥陀みだぶつろくの​うち​に​こもれ​る​がゆゑなり。 ことに​ほか​には*王法おうぼうをもつて​おもて​と​し、 内心ないしんにはりき信心しんじんを​ふかく​たくはへ​て、 けん*じんをもつてほんと​す​べし。

これ​すなはちとうりゅうさだむる​ところのおきての​おも0105むき​なり​と​こころう​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねんがつじゅう七日しちにちこれをく。

(7) 易往無人章

 ^しづかに​おもんみれ​ば、 それ人間にんげんかいしょうくる​こと​は、 まことにかいを​たもて​る*りきに​より​て​なり。 これ​おほきに​まれなる​こと​ぞかし。 ただし人界にんがいしょうは​わづかに*一旦いったん*しょうなり、 しょうようしょうらっなり。

^たとひ​またえいに​ほこり栄耀えいように​あまる​といふとも、 *じょうしゃ必衰ひっすいしゃじょうの​ならひ​なれば、 ひさしく​たもつ​べき​に​あらず。 ただじゅうねんひゃくねんの​あひだ​の​こと​なり。 それ​もろうしょうじょうと​きく​とき​は、 まことに​もつて​たのみ​すくなし。

^これ​によりて、 いまときしゅじょう1119りき信心しんじんを​え​てじょうおうじょうを​とげ​ん​と​おもふ​べき​なり。

^そもそも、 その信心しんじんを​とら​んずる​には、 さらに智慧ちえも​いら​ず、 *才学さいかくも​いら​ず、 富貴ふきびんも​いら​ず、 善人ぜんにん悪人あくにんも​いら​ず、 なん女人にょにんも​いら​ず、 ただ​もろもろ​のぞうぎょうを​すて​て正行しょうぎょうする​をもつてほんと​す。

^その正行しょうぎょうする​といふは、 なにのやうも​なく弥陀みだ如来にょらい一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつることわりばかり​なり。

^かやうにしんずるしゅじょうを​あまねくこうみょうの​なか​に摂取せっしゅして0106て​たまは​ず​して、 *いちいのちき​ぬれ​ば​かならずじょうに​おくり​たまふ​なり。

^この一念いちねん安心あんじん一つ​にてじょうおうじょうする​こと​の、 あら、 やう​も​いら​ぬ​とりやす​の安心あんじんや。 されば安心あんじんといふ二字にじをば、 「やすき​こころ」 と​よめ​る​は​この​こころ​なり。

^さらに​なにのぞうも​なく、 一心いっしん一向いっこう如来にょらいを​たのみ​まゐらする信心しんじんひとつ​にて、 極楽ごくらくおうじょうす​べし。

^あら、 こころえやす​の安心あんじんや、 また、 あら、 きやす​のじょうや。

^これによりて ¬だいきょう¼ (下) には、 「おうにん」 と​これ​をか​れ​たり。

^このもんの​こころ​は、 「安心あんじんを​とり​て弥陀みだ一向いっこうに​たのめ​ば、 じょうへ​は​まゐりやすけれ​ども、 信心しんじんを​とる​ひと​まれなれ​ば、 じょうへ​はきやすく​してひとなし」 といへる​は​このきょうもんの​こころ​なり。

^かくのごとく​こころうる​うへには、 ちゅうちょうに​となふる​ところの1120みょうごうは、 だいぜいおんほうじ​たてまつる​べき​ばかり​なり。

^かへすがへす仏法ぶっぽうに​こころ​を​とどめ​て、 とりやすき信心しんじんの​おもむき​をぞんして、 かならずこんいちだいほうおうじょうを​とぐ​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん三月さんがつみっこれ​をせいしょす。

(8)0107 本師本仏章

 それ、 じゅうあくぎゃく罪人ざいにんも、 しょうさんしょう女人にょにんも、 むなしく​みな十方じっぽうさん諸仏しょぶつがんに​もれ​て、 すてはて​られ​たる​われら​ごとき​のぼんなり。 しかれば、 ここ​に弥陀みだ如来にょらいもうす​は、 さん十方じっぽう諸仏しょぶつほん本仏ほんぶつなれば、 おんじつじょうぶつとして、 いま​の​ごとき​の諸仏しょぶつに​すて​られ​たる末代まつだいぜんぼんしょうさんしょう女人にょにんをば、 弥陀みだに​かぎり​て​われ​ひとり​たすけ​ん​といふちょう大願だいがんを​おこし​て、 われら一切いっさいしゅじょうびょうどうに​すくは​ん​とちかひ​たまひ​て、 じょう誓願せいがんを​おこし​て、 すでに弥陀みだぶつと​なり​ましまし​けり。

この如来にょらいを​ひとすぢに​たのみ​たてまつら​ずは、 末代まつだいぼん極楽ごくらくおうじょうする​みち、 ふたつ​も​みつ​も​ある​べから​ざる​ものなり。 これ​によりて、 親鸞しんらんしょうにんの​すすめ​まします​ところのりき信心しんじんといふ​こと​を​よくぞんせしめ​ん​ひと​は、 かならずじゅうにんじゅうにんながら、 みな​かの1121じょうおうじょうす​べし。 されば​この信心しんじんを​とり​て​かの弥陀みだほうに​まゐら​ん​と​おもふ​について、 なにとやうに​こころ​をも​もち​て、 なにとやうに​その信心しんじんと​やらん​を​こころう​べき​や。 ねんごろに​これ​を​きか​ん​と​おもふ​なり。

 こたへ​て​いはく、 それ、 とうりゅう親鸞しんらんしょうにんの​をしへ​たまへ​る​ところのりき信心しんじんの​おもむき0108といふは、 なにのやうも​なく、 わがは​あさましきつみふかきぞ​と​おもひ​て、 弥陀みだ如来にょらい一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 もろもろ​のぞうぎょうを​すて​て専修せんじゅ専念せんねんなれば、 かならずへんじょうこうみょうの​なか​におさら​れ​まゐらする​なり。 これ​まことに​われら​がおうじょうけつじょうする​すがた​なり。

この​うへ​に​なほ​こころう​べき​やう​は、 一心いっしん一向いっこう弥陀みだみょうする一念いちねん信心しんじんに​より​て、 はやおうじょうじょうの​うへには、 行住ぎょうじゅう坐臥ざがくちもうさ​ん​ところの称名しょうみょうは、 弥陀みだ如来にょらいの​われら​がおうじょうを​やすくさだめ​たまへ​るだいおん報尽ほうじん念仏ねんぶつなり​と​こころう​べき​なり。 これ​すなはちとうりゅう信心しんじんけつじょうし​たるひとといふ​べき​なり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん三月さんがつ中旬ちゅうじゅん

(9) 忠臣貞女章

 そもそも、 弥陀みだ如来にょらいを​たのみ​たてまつる​について、 自余じよ万善まんぜんまんぎょうをば、 1122すでにぞうぎょうと​なづけ​て​きらへ​る​その​こころ​は​いかん​ぞ​なれば、 それ弥陀みだぶつちかひ​まします​やう​は、 一心いっしん一向いっこうに​われ​を​たのま​んしゅじょうをば、 いかなるつみふかきなり​とも、 すくひ​たまは​ん​といへる大願だいがんなり。

しかれば、 一心いっしん一向いっこうといふは、 弥陀みだぶつにおいて0109ぶつを​ならべ​ざる​こころ​なり。

この​ゆゑに人間にんげんにおいて​も、 まづしゅをば​ひとり​ならでは​たのま​ぬどうなり。 されば*てんの​ことば​に​いはく、 「ちゅうしんくんに​つかへ​ず、 貞女ていじょ二夫じふを​ならべ​ず」 (*史記・意) といへり。 弥陀みだ如来にょらいさん諸仏しょぶつのために​はほんしょうなれば、 そのしょうぶつを​たのま​ん​には、 いかでか弟子でし諸仏しょぶつの​これ​を​よろこび​たまは​ざる​べき​や。 この​いはれ​をもつて​よくよく​こころう​べし。

さて南無なも弥陀みだぶつといへる*ぎょうたいには、 一切いっさい諸神しょじん諸仏しょぶつさつも、 その​ほか万善まんぜんまんぎょうも、 ことごとく​みな​こもれ​る​がゆゑに、 なにのそくありて​か、 しょぎょう諸善しょぜんに​こころ​を​とどむ​べき​や。 すでに南無なも弥陀みだぶつといへるみょうごうは、 万善まんぜんまんぎょう総体そうたいなれば、 いよいよ​たのもしき​なり。

これ​によりて、 その弥陀みだ如来にょらいをば​なにと​たのみ、 なにとしんじ​て、 かの極楽ごくらくおうじょうを​とぐ​べき​ぞ​なれば、 なにのやうも​なく、 ただ​わが極悪ごくあくじんじゅうの​あさましき​もの​なれば、 ごくならでは​おもむく​べき​かた​も​なきなる​を、 かたじけなく1123弥陀みだ如来にょらいひとり​たすけ​ん​といふ誓願せいがんを​おこし​たまへ​り​と​ふかくしんじ​て、 一念いちねんみょう信心しんじんを​おこせ​ば、 まことに宿しゅくぜん開発かいほつに​もよほさ​れ​て、 ぶっよりりき信心しんじんを​あたへ​たまふ​がゆゑに*仏心ぶっしん凡心ぼんしんと​ひとつ​に​なる​ところ​を​さし​て、 信心しんじんぎゃくとくぎょうじゃと​は​いふ​なり。

この​うへには、 ただ​ね​ても​おき​ても​へだて0110なく念仏ねんぶつを​となへ​て、 だいぜいおんを​ふかく報謝ほうしゃす​べき​ばかり​なり​と​こころう​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六歳ろくさい三月さんがつじゅう七日しちにちこれ​をく。

(10) 仏心凡心一体章

 それ、 とうりゅう親鸞しんらんしょうにんの​すすめ​まします​ところのいちの​こころ​といふは、 まづりき信心しんじんをもつて肝要かんようと​せ​られ​たり。 このりき信心しんじんといふ​こと​を​くはしく​しら​ずは、 こんいちだいおうじょう極楽ごくらくは​まことに​もつて​かなふ​べから​ず​と、 きょうしゃくともに​あきらかに​みえ​たり。 されば​そのりき信心しんじんの​すがた​をぞんして、 真実しんじつほうおうじょうを​とげ​ん​と​おもふ​について​も、 いかやうに​こころ​をも​もち、 また​いかやうにをも​もち​て、 かの極楽ごくらくおうじょうをば​とぐ​べき​やらん。 その​むね​を​くはしく​しり​はんべら​ず。 ねんごろに​をしへ​たまふ​べし。 それ​をちょうもん1124して​いよいよけん信心しんじんを​とら​ん​と​おもふ​なり。

 こたへ​て​いはく、 そもそもとうりゅうりき信心しんじんの​おもむき​ともうす​は、 あながちに​わがつみの​ふかき​にも​こころ​を​かけ​ず、 ただ弥陀みだ如来にょらい一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり0111て、 かかるじゅうあくぎゃく罪人ざいにんも、 しょうさんしょう女人にょにんまで​も、 みな​たすけ​たまへ​る思議しぎの誓願力がんりきぞ​と​ふかくしんじ​て、 さらに一念いちねん本願ほんがんうたがふ​こころ​なけれ​ば、 かたじけなく​も​そのこころ如来にょらいの​よく​しろしめし​て、 すでにぎょうじゃの​わろき​こころ​を如来にょらいの​よきおんこころ​と​おなじ​もの​に​なし​たまふ​なり。

この​いはれ​をもつて仏心ぶっしん凡心ぼんしん一体いったいに​なる​といへる​は​この​こころ​なり。 これ​によりて、 弥陀みだ如来にょらいへんじょうこうみょうの​なか​におさら​れ​まゐらせ​て、 いちの​あひだ​は​このこうみょうの​うち​に​すむなり​と​おもふ​べし。 さて​いのち​もき​ぬれ​ば、 すみやかに真実しんじつほうへ​おくり​たまふ​なり。

しかれば、 この​ありがたさ​たふとさ​の弥陀みだだいおんをば、 いかが​してほうず​べき​ぞ​なれば、 ちゅうちょうには​ただ称名しょうみょう念仏ねんぶつばかり​を​となへ​て、 かの弥陀みだ如来にょらいおんほうじ​たてまつる​べき​ものなり。 この​こころ​すなはち、 とうりゅうに​たつる​ところの一念いちねんぽっ平生へいぜいごうじょうといへるこれ​なり​と​こころう​べし。

されば​かやうに弥陀みだ一心いっしんに​たのみ​たてまつる​も、 なにのろう1125も​いら​ず。 また信心しんじんを​とる​といふ​も​やすけれ​ば、 ぶつ極楽ごくらくおうじょうする​こと​も​なほ​やすし。 あら、 たふと​の弥陀みだ本願ほんがんや、 あら、 たふと​のりき信心しんじんや。 さらにおうじょうにおいて​そのうたがいなし。

しかるに​この​うへ​において、 なほの​ふるまひ​について​この​むね​を​よく​こころう0112べき​みち​あり。 それ、 一切いっさいかみほとけもうす​も、 いま​この​うる​ところのりき信心しんじんひとつ​を​とら​しめ​んがため​の方便ほうべんに、 もろもろ​のかみ・もろもろ​の​ほとけ​と​あらはれ​たまふ​いはれ​なれば​なり。 しかれば、 一切いっさいぶつさつも、 もとより弥陀みだ如来にょらい分身ぶんしんなれば、 みな​ことごとく、 一念いちねん南無なも弥陀みだぶつみょうし​たてまつる​うち​に​みな​こもれ​る​がゆゑに、 おろかに​おもふ​べから​ざる​ものなり。

また​この​ほか​に​なほ​こころう​べき​むね​あり。 それ、 くにに​あらばしゅほう、 ところ​に​あらばとうほうにおいて、 われ​は仏法ぶっぽうを​あがめ信心しんじんを​え​たるなり​と​いひ​て、 りゃく*ゆめゆめ​ある​べから​ず。 いよいよ公事くじを​もつぱらに​す​べき​ものなり。 かくのごとく​こころえ​たるひとを​さし​て、 信心しんじん発得ほっとくしてしょうを​ねがふ念仏ねんぶつぎょうじゃの​ふるまひ​のほんと​ぞ​いふ​べし。

これ​すなはち仏法ぶっぽう王法おうぼうを​むねと​まもれ​るひとと​なづく​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねんがつじゅう三日さんにちこれ​をく。

(111126) 五重義章

 ^それ、 とうりゅう親鸞しんらんしょうにんかんの​おもむき、 近年きんねん諸国しょこくにおいて*種々しゅじゅどうなり。 これ​おほきに0113あさましきだいなり。

^そのゆゑは、 まづとうりゅうには、 りき信心しんじんをもつてぼんおうじょう*さきと​せ​られ​たる​ところ​に、 その信心しんじんの​かた​をば​おしのけ​て*沙汰さたせず​して、 その​すすむる​ことば​に​いはく、 「*十劫じっこうしょうがくの​はじめ​より​われら​がおうじょう弥陀みだ如来にょらいさだめ​ましまし​たまへ​る​こと​を​わすれ​ぬ​が​すなはち信心しんじんの​すがた​なり」 といへり。 これ​さらに、 弥陀みだみょうしてりき信心しんじんを​え​たるぶんは​なし。

^されば​いかに十劫じっこうしょうがくの​はじめ​より​われら​がおうじょうさだめ​たまへ​る​こと​を​しり​たり​といふとも、 われら​がおうじょうす​べきりき信心しんじんの​いはれ​を​よく​しら​ずは、 極楽ごくらくにはおうじょうす​べから​ざる​なり。

^また​ある​ひと​の​ことば​に​いはく、 「たとひ弥陀みだみょうす​といふともぜんしきなく​は​いたづらごと​なり、 この​ゆゑに​われら​において​はぜんしきばかり​を​たのむ​べし」 と云々うんぬん

^これ​も​うつくしくとうりゅう信心しんじんを​え​ざるひとなり​と​きこえ​たり。

^そもそも、 ぜんしき*のうといふは、 一心いっしん一向いっこう弥陀みだみょうし​たてまつる​べし​と、 ひと​を​すすむ​べき​ばかり​なり。 これ​によりてじゅうを​たて​たり。 ひとつ​には宿しゅくぜんふたつ​にはぜんしきつ​にはこうみょうつ​には信心しんじんいつつ​には*みょうごう このじゅうじょうじゅせずはおうじょうは​かなふ​べから​ず1127と​みえ​たり。

^さればぜんしきといふは、 弥陀みだぶつみょうせよ​と​いへ​る​つかひ​なり。 宿しゅくぜん開発かいほつしてぜんしきに​あは​ずは、 おうじょうは​かなふ​べから​ざる0114なり。 しかれども、 する​ところの弥陀みだを​すて​て、 ただぜんしきばかり​をほんと​す​べき​こと、 おほきなる​あやまり​なり​と​こころう​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねんがつ二十はつ

(12) 人間五十年章

 それ、 人間にんげんじゅうねんを​かんがへみる​に、 *王天おうてんといへるてん一日いちにちいちに​あひ​あたれ​り。 また​この天王てんのうじゅうねんをもつて、 *等活とうかつごく一日いちにちいちと​する​なり。

これ​によりて、 みな​ひと​のごくに​おち​てけ​ん​こと​をば​なに​とも​おもは​ず、 またじょうへ​まゐり​てじょうらくけ​ん​こと​をも分別ふんべつせず​して、 いたづらに​あかし、 むなしくつきおくり​て、 さらに​わが一心いっしんをもけつじょうするぶんも​しかしかと​も​なく、 また一巻いっかん聖教しょうぎょうを​まなこ​に​あて​て​みる​こと​も​なく、 いっ法門ほうもんを​いひ​てもんかんするも​なし。 ただちょうせきは、 ひま​を​ねらひ​て、 まくらを​とも​と​してねむせ​らん​こと、 まことに​もつて​あさましきだいに​あらず​や。 しづかにあんを​めぐらす​べき​ものなり。

この​ゆゑに今日こんにちこんより​して、 *ほうだい1128に​あら​ん​ひとびと​は、 いよいよしん0115じんけつじょうして真実しんじつほうおうじょうを​とげ​ん​と​おもは​ん​ひと​こそ、 まことに​そのとくとも​なる​べし。 これ​また*ぎょう化他けたどうに​かなへ​り​と​おもふ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

とき*文明ぶんめい第六だいろく六月ろくがつ*なかふつかのひ、 あまりの炎天えんてんあつさ​に、 これ​をふでに​まかせ​てき​しるし​をはり​ぬ。

(13) 我宗名望章

 それ、 とうりゅうさだむる​ところのおきてを​よくまもる​といふは、 しゅうにもけんにもたいし​ては、 わがいっしゅうの​すがた​を​あらはにひとに​みえ​ぬ​やう​に​ふるまへ​る​をもつてほんと​する​なり。

しかるに​ちかごろ​はとうりゅう念仏ねんぶつしゃの​なか​において、 わざとひとに​みえ​ていちりゅうの​すがた​を​あらはし​て、 これ​をもつて​わがしゅう*名望めいぼうの​やう​に​おもひ​て、 ことにしゅう*こなし​おとしめ​ん​と​おもへ​り。 これごんどうだんだいなり。 *さらにしょうにん (親鸞)さだめ​ましまし​たるぎょに​ふかく​あひ​そむけ​り。

そのゆゑは、 「すでにうしぬすみ​たるひとと​は​いは​る​とも、 とうりゅうの​すがた​を​みゆ​べから​ず」 (改邪鈔・意) と​こそおおせ​られ​たり。 このおんことば​をもつて​よくよく​こころう​べし。

つぎ​にとうりゅう安心あんじんの​おもむき​を0116くはしく​しら​ん​と​おもは​ん​ひと1129は、 あながちに智慧ちえ才学さいかくも​いら​ず、 男女なんにょせんも​いら​ず、 ただ​わがつみふかき​あさましき​もの​なり​と​おもひとり​て、 かかるまで​も​たすけ​たまへ​る​ほとけ​は弥陀みだ如来にょらいばかり​なり​と​しり​て、 なにのやうも​なく、 ひとすぢに​この弥陀みだほとけ​の御袖おんそで*ひしと​すがり​まゐらする​おもひ​を​なし​て、 しょうを​たすけ​たまへ​と​たのみ​まうせ​ば、 この弥陀みだ如来にょらいは​ふかく​よろこび​ましまし​て、 そのおんより八万はちまんせんの​おほきなるこうみょうはなち​て、 そのこうみょうの​なか​に​その​ひと​をおされ​て​おき​たまふ​べし。

されば​この​こころ​を ¬きょう¼ (観経) には、 まさに 「こうみょうへんじょう 十方じっぽうかい 念仏ねんぶつしゅじょう 摂取せっしゅしゃ」 と​はか​れ​たり​と​こころう​べし。

さては​わがの​ほとけ​にら​んずる​こと​は、 なにの​わづらひ​も​なし。 あら、 しゅしょうちょう本願ほんがんや、 ありがた​の弥陀みだ如来にょらいこうみょうや。 このこうみょうえんに​あひ​たてまつら​ずは、 *無始むしより​このかた​のみょう*ごっしょうの​おそろしきやまいの​なほる​といふ​こと​は、 さらに​もつて​ある​べから​ざる​ものなり。

しかるに​このこうみょうえんに​もよほさ​れ​て、 宿しゅくぜんありて、 りき信心しんじんといふ​こと​をば​いま​すでに​え​たり。 これ*しかしながら、 弥陀みだ如来にょらい御方おんかたより​さづけ​ましまし​たる信心しんじんと​は​やがて​あらはに​しら​れ​たり。

かるがゆゑに、 ぎょうじゃの​おこす​ところの信心しんじんに​あらず1130弥陀みだ如来にょらいりきだい信心しんじんといふ​こと0117は、 いま​こそ​あきらかに​しら​れ​たり。

これ​によりて、 かたじけなく​も​ひとたびりき信心しんじんを​え​たらんひとは、 みな弥陀みだ如来にょらいおんの​ありがたき​ほど​を​よくよく​おもひはかり​て、 仏恩ぶっとん報謝ほうしゃのために​は​つね​に称名しょうみょう念仏ねんぶつもうし​たてまつる​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん七月しちがつみっこれ​をく。

(14) 秘事法門章

 それ、 越前えちぜんのくにに​ひろまる​ところの*秘事ひじ法門ぼうもんといへる​こと​は、 さらに仏法ぶっぽうにて​は​なし、 あさましきどうほうなり。 これ​をしんずる​もの​は​ながくけんごくしずむ​べきごうにて、 いたづらごと​なり。 この秘事ひじを​なほ​もしゅうしんして肝要かんようと​おもひ​て、 *ひと​を​へつらひ​たらさ​ん​もの​には、 あひかまへて​あひかまへて*随逐ずいちくす​べから​ず。 いそぎ​その秘事ひじを​いは​んひとを​はなれ​て、 はやく​さづくる​ところの秘事ひじを​ありのまま​にさんして、 ひと​に​かたり​あらはす​べき​ものなり。

そもそも、 とうりゅうかんの​おもむき​を​くはしく​しり​て、 極楽ごくらくおうじょうせん​と​おもは​ん​ひと​は、 まづりき信心しんじんといふ​こと​をぞんす​べき​なり。 それ、 りき信心しんじんといふは​なにのようぞ​といへ​ば、 かかる​あさましき0118われら​ごとき​のぼんが、 たやすくじょうへ​まゐる1131べき*ようなり。 そのりき信心しんじんの​すがた​といふは​いかなる​こと​ぞ​といへ​ば、 なにのやうも​なく、 ただ​ひとすぢに弥陀みだ如来にょらい一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 たすけ​たまへ​と​おもふ​こころ​の一念いちねんおこる​とき、 かならず弥陀みだ如来にょらい摂取せっしゅこうみょうはなち​て、 そのしゃに​あら​ん​ほど​は、 このこうみょうの​なか​に​をさめ​おき​まします​なり。 これ​すなはち​われら​がおうじょうさだまり​たる​すがた​なり。

されば*南無なも弥陀みだぶつもうたいは、 われら​がりき信心しんじんを​え​たる​すがた​なり。 この信心しんじんといふは、 この南無なも弥陀みだぶつの​いはれ​を​あらはせ​る​すがた​なり​と​こころう​べき​なり。 されば​われら​が​いま​のりき信心しんじんひとつ​を​とる​に​より​て、 極楽ごくらくに​やすくおうじょうす​べき​こと​の、 さらに​なにのうたがいも​なし。 あら、 しゅしょう弥陀みだ如来にょらいりき本願ほんがんや。

この​ありがたさ​の弥陀みだおんをば、 いかが​してほうじ​たてまつる​べき​ぞ​なれば、 ただ​ね​ても​おき​ても南無なも弥陀みだぶつ南無なも弥陀みだぶつと​となへ​て、 かの弥陀みだ如来にょらい仏恩ぶっとんほうず​べき​なり。 されば南無なも弥陀みだぶつと​となふる​こころ​は​いかん​ぞ​なれば、 弥陀みだ如来にょらいおんたすけ​あり​つる​こと​の​ありがたさ​たふとさ​よ​と​おもひ​て、 それ​を​よろこび​まうす​こころ​なり​と​おもふ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

0119*文明ぶんめい六年ろくねん七月しちがついつ

(151132) 九品長楽寺章

 そもそも、 日本にっぽんにおいてじょうしゅう家々いえいえを​たて​て、 *西山せいざん*鎮西ちんぜい*ぼん*ちょうらくとて、 その​ほか​あまた​に​わかれ​たり。 これ​すなはち法然ほうねんしょうにんの​すすめ​たまふ​ところのいちなり​と​いへども、 あるいはしょうどうもんにて​あり​し人々ひとびとの、 しょうにん (源空) へ​まゐり​てじょう法門ほうもんちょうもんし​たまふ​に、 うつくしく​そのことわりみみに​とどまら​ざる​に​より​て、 わがほんしゅうの​こころ​を​いまだ​すてやら​ず​して、 かへりて​それ​をじょうしゅうに​ひきいれ​ん​と​せし​に​より​て、 そのどうこれ​あり。

しかり​と​いへども、 あながちに​これ​をほうする​こと​ある​べから​ず。 肝要かんようは、 ただ​わがいっしゅう安心あんじんを​よく​たくはへ​て、 しんけつじょうひとをもかんす​べき​ばかり​なり。

それ、 とうりゅう安心あんじんの​すがた​は​いかん​ぞ​なれば、 まづ​わがじゅうあくぎゃくしょうさんしょうの​いたづらもの​なり​と​ふかく​おもひつめ​て、 その​うへ​に​おもふ​べき​やう​は、 かかる​あさましきほんと​たすけ​たまへ​る弥陀みだ如来にょらい思議しぎ本願ほんがんりきなり​と​ふかくしんじ​たてまつり​て、 すこし​もしんなけれ​ば、 かならず弥陀みだ摂取せっしゅし​たまふ​べし。

この​こころ​こそ、 すなはちりき真実しんじつ信心しんじんを​え​たる​すがた​と​は​いふ​べき​なり0120。 かくのごとき​の信心しんじんを、 一念いちねんとら​んずる​こと​は​さらに​なにのやうも​いら​ず。 あら、 こころえやす​のりき信心しんじんや、 あら、 ぎょうじやす​のみょうごうや。

1133しかれば、 この信心しんじんを​とる​といふ​もべつの​こと​には​あらず、 南無なも弥陀みだぶつつ​のを​こころえわけ​たる​が、 すなはちりき信心しんじんたいなり。

また南無なも弥陀みだぶつといふは​いかなる​こころ​ぞ​といへ​ば、 「南無なも」 といふ二字にじは、 すなはち極楽ごくらくおうじょうせん​と​ねがひ​て弥陀みだを​ふかく​たのみ​たてまつる​こころ​なり。 さて 「弥陀みだぶつ」 といふは、 かくのごとく​たのみ​たてまつるしゅじょうを​あはれみ​ましまし​て、 無始むし曠劫こうごうより​このかた​の​おそろしきつみとが​のなれども、 弥陀みだ如来にょらいこうみょうえんに​あふ​に​より​て、 ことごとくみょうごっしょうの​ふかきつみとが​たちまちにしょうめつする​に​より​て、 すでに正定しょうじょうじゅかずじゅうす。 かるがゆゑに*凡身ぼんしんを​すて​て仏身ぶっしんしょうする​といへる​こころ​を、 すなはち弥陀みだ如来にょらいと​はもうす​なり。

されば 「弥陀みだ」 といふさんをば、 *をさめ・たすけ・すくふ​と​よめ​る​いはれ​ある​がゆゑなり。

かやうに信心しんじんけつじょうして​の​うへには、 ただ弥陀みだ如来にょらい仏恩ぶっとんの​かたじけなき​こと​を​つね​に​おもひ​て称名しょうみょう念仏ねんぶつもうさ​ば、 それ​こそ​まことに弥陀みだ如来にょらい仏恩ぶっとんほうじ​たてまつる​ことわり​に​かなふ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいろく七月しちがつここぬこれ​をく。

0121しゃくしょうにょ(花押)

 

1134 三 帖

(1)0122 其名ばかり章

 そもそも、 とうりゅうにおいて、 *そのばかり​を​かけ​ん​ともがら​も、 また​もとよりもんたらんひとも、 安心あんじんの​とほり​を​よく​こころえ​ずは、 あひかまへて、 今日こんにちより​して、 りきだい信心しんじんの​おもむき​を​ねんごろにひとに​あひ​たづね​て、 ほうおうじょうけつじょうせしむ​べき​なり。

それ、 いちりゅう安心あんじんを​とる​といふ​も、 なにのやうも​なく、 ただひとすぢに弥陀みだ如来にょらいを​ふかく​たのみ​たてまつる​ばかり​なり。

しかれども、 この弥陀みだぶつもうす​は、 いかやうなる​ほとけ​ぞ、 また​いかやうなるしゅじょうを​すくひ​たまふ​ぞ​といふ​に、 さん諸仏しょぶつに​すて​られ​たる​あさましき​われらぼん女人にょにんを、 われ​ひとり​すくは​ん​といふ大願だいがんを​おこし​たまひ​て、 こうが​あひだ​これ​をゆいし、 永劫ようごうが​あひだ​これ​をしゅぎょうして、 それしゅじょうつみにおいて​は、 いかなるじゅうあくぎゃく謗法ほうぼう闡提せんだいの​ともがら​なり​といふとも、 すくは​ん​とちかひ​ましまし​て、 すでに諸仏しょぶつがんに​こえ​すぐれ​たまひ​て、 そのがんじょうじゅして弥陀みだ如来にょらいと​は​なら​せたまへ​る​を、 すなはち弥陀みだぶつと​はもうす​なり。

これ​によりて、 このほとけをば​なに1135と​たのみ、 なに​と​こころ​をも​もち​て​か​たすけ​たまふ​べき​ぞ​といふ​に、 それ​わがつみの​ふかき​こと​をば​うちおき​て、 ただ​かの弥陀みだぶつを​ふたごころなく一向いっこうに​たのみ​まゐらせ​て、 一念いちねんうたがこころなく​は、 かならず​たすけ​たまふ​べし。 0123しかるに弥陀みだ如来にょらいには、 すでに摂取せっしゅこうみょうといふふたつ​の​ことわり​をもつて、 しゅじょうをばさいし​たまふ​なり。 まづ​このこうみょう宿しゅくぜんの​ありてらさ​れ​ぬれ​ば、 つもる​ところのごっしょうつみみなえ​ぬる​なり。

さて摂取せっしゅといふは​いかなる​こころ​ぞ​といへ​ば、 このこうみょうえんに​あひ​たてまつれ​ば、 ざいしょうことごとくしょうめつする​によりて、 やがてしゅじょうを​このこうみょうの​うち​におさめ​おか​るる​によりて、 摂取せっしゅと​はもうす​なり。 この​ゆゑに、 弥陀みだぶつには摂取せっしゅこうみょうと​のふたつ​をもつて肝要かんようと​せ​らるる​なり​と​きこえ​たり。 されば一念いちねんみょう信心しんじんさだまる​といふ​も、 この摂取せっしゅこうみょうに​あひ​たてまつるこくを​さし​て、 信心しんじんさだまる​と​はもうす​なり。

しかれば、 南無なも弥陀みだぶつといへるぎょうたいは、 すなはち​われら​がじょうおうじょうす​べき​ことわり​を、 このろくに​あらはし​たまへ​るおんすがた​なり​と、 いま​こそ​よく​は​しら​れ​て、 いよいよ​ありがたく​たふとく​おぼえ​はんべれ。

さて​この信心しんじんけつじょうの​うへには、 ただ弥陀みだ如来にょらいおん雨山あめやまにかうぶり​たる​こと​を​のみ​よろこび​おもひ​たてまつり1136て、 その報謝ほうしゃのために​は、 ね​ても​さめ​ても念仏ねんぶつもうす​べき​ばかり​なり。 それ​こそ​まことに仏恩ぶっとん報尽ほうじんの​つとめ​なる​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいろく七月しちがつじゅうよっこれ​をく。

(2)0124 如説修行章

 それ、 しょしゅうの​こころ​まちまちに​して、 いづれ​もしゃ一代いちだいせっきょうなれば、 まことに​これしゅしょうほうなり。 もつとも*如説にょせつに​これ​をしゅぎょうせん​ひと​は、 じょうぶつ得道とくどうす​べき​こと、 さらにうたがいなし。 しかるに末代まつだいこのごろ​のしゅじょうは、 *こん最劣さいれつにして如説にょせつしゅぎょうせんひとまれなるせつなり。

ここ​に弥陀みだ如来にょらいりき本願ほんがんといふは、 いまにおいて、 かかるときしゅじょうを​むねと​たすけ​すくは​んがために、 こうが​あひだ​これ​をゆいし、 永劫ようごうが​あひだ​これ​をしゅぎょうして、 「造悪ぞうあくぜんしゅじょうを​ほとけ​に​なさ​ずは、 われ​もしょうがくら​じ」 と、 *ちかごと​を​たて​ましまし​て、 そのがんすでにじょうじゅして弥陀みだと​なら​せたまへ​る​ほとけ​なり。 末代まつだいいまときしゅじょうにおいて​は、 この​ほとけ​の本願ほんがんに​すがり​て弥陀みだを​ふかく​たのみ​たてまつら​ずんば、 じょうぶつする​といふ​こと​ある​べから​ざる​なり。

 そもそも、 弥陀みだ如来にょらいりき本願ほんがんをば​なにとやうにしんじ、 また​なにとやうに1137を​もち​て​か​たすかる​べき​ぞ​なれば、 それ弥陀みだしんじ​たてまつる​といふは、 なにのやうも​なく、 りき信心しんじんといふ​いはれ​を​よく​しり​たらん​ひと​は、 *たとへばじゅうにんじゅうにんながら、 みな​もつて極楽ごくらくおうじょうす​べし。

さて​そのりき信心しんじんといふは​いかやうなる​こと0125ぞ​といへ​ば、 ただ南無なも弥陀みだぶつなり。 この南無なも弥陀みだぶつつのの​こころ​を​くはしく​しり​たる​が、 すなはちりき信心しんじんの​すがた​なり。 されば、 南無なも弥陀みだぶつといふろくたいを​よくよく​こころう​べし。

まづ 「南無なも」 といふ二字にじは​いかなる​こころ​ぞ​といへ​ば、 やう​も​なく弥陀みだ一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 しょうたすけ​たまへ​と​ふたごころなくしんじ​まゐらする​こころ​を、 すなはち南無なもと​はもうす​なり。

つぎ​に 「弥陀みだぶつ」 といふ四字しじは​いかなる​こころ​ぞ​といへ​ば、 いま​の​ごとくに弥陀みだ一心いっしんに​たのみ​まゐらせ​て、 うたがいの​こころ​の​なきしゅじょうをば、 かならず弥陀みだおんよりこうみょうはなち​てらし​ましまし​て、 その​ひかり​の​うち​におさめ​おき​たまひ​て、 さていちの​いのちき​ぬれ​ば、 かの極楽ごくらくじょうへ​おくり​たまへ​る​こころ​を、 すなはち弥陀みだぶつと​はもうし​たてまつる​なり。

さればけん沙汰さたする​ところの念仏ねんぶつといふは、 ただくちに​だに​も南無なも弥陀みだぶつと​となふれ​ば、 たすかる​やう​に​みなひとの​おもへ​り。 それ​は*おぼつかなき​こと​なり1138

さりながら、 *じょういっにおいて​さやうに沙汰さたする​かた​も​あり、 是非ぜひす​べから​ず。 これ​は​わがいっしゅう開山かいさん (親鸞) の​すすめ​たまへ​る​ところのいちりゅう安心あんじんの​とほり​をもうす​ばかり​なり。 宿しゅくえんの​あら​ん​ひと​は、 これ​を​きき​て​すみやかにこん極楽ごくらくおうじょうを​とぐ​べし。

かくのごとく​こころえ​たらん​ひと、 みょう0126ごうを​となへ​て、 弥陀みだ如来にょらいの​われら​を​やすく​たすけ​たまへ​るおん雨山あめやまに​かうぶり​たる、 その仏恩ぶっとん報尽ほうじんのために​は、 称名しょうみょう念仏ねんぶつす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん八月はちがついつこれ​をく。

(3) 性光門徒章

 このほう*河尻かわじり*しょうこうもん面々めんめんにおいて、 仏法ぶっぽう信心しんじんの​こころえ​は​いかやうなる​らん。 まことに​もつて*こころもとなし。 しかり​と​いへども、 いまとうりゅういちの​こころ​を​くはしく沙汰さたす​べし。 おのおのみみを​そばだて​て​これ​を​きき​て、 この​おもむき​をもつてほんと​おもひ​て、 こん極楽ごくらくおうじょうじょうす​べき​ものなり。

それ、 弥陀みだ如来にょらい念仏ねんぶつおうじょう本願ほんがん (第十八願)もうす​は、 いかやうなる​こと​ぞ​といふ​に、 ざい無智むちの​もの​も、 またじゅうあくぎゃくの​やから​に​いたる​まで​も、 なにのやうも​なくりき信心しんじんといふ​こと​を​ひとつけつじょうすれば、 みな​ことごとくごく1139らくおうじょうする​なり。

されば​その信心しんじんを​とる​といふは、 いかやうなる​むつかしき​こと​ぞ​といふ​に、 なにの​わづらひ​も​なく、 ただ​ひとすぢに弥陀みだ如来にょらいを​ふたごころなく​たのみ​たてまつり​て、 へ​こころ​をらさ​ざらん0127ひと​は、 たとへばじゅうにんあらばじゅうにんながら、 みな​ほとけ​にる​べし。 この​こころ​ひとつ​を​たもた​ん​は​やすき​こと​なり。

ただこえし​て念仏ねんぶつばかり​を​となふる​ひと​は*おほやうなり、 それ​は極楽ごくらくにはおうじょうせず。 この念仏ねんぶつの​いはれ​を​よく​しり​たるひとこそ​ほとけ​にはる​べけれ。 なにのやうも​なく、 弥陀みだを​よくしんずる​こころ​だに​も​ひとつ​にさだまれ​ば、 やすくじょうへ​は​まゐる​べき​なり。

この​ほか​には、 わづらはしき*秘事ひじといひ​て、 ほとけ​をもおがま​ぬもの​は​いたづらもの​なり​と​おもふ​べし。

これ​によりて、 弥陀みだ如来にょらいりき本願ほんがんもうす​は、 すでに末代まつだいいまときつみふかきほんとして​すくひ​たまふ​がゆゑに、 ざいじゅうの​われら​ごとき​のために​は相応そうおうし​たるりき本願ほんがんなり。 あら、 ありがた​の弥陀みだ如来にょらい誓願せいがんや、 あら、 ありがた​のしゃ如来にょらい*金言きんげんあおぐ​べし、 しんず​べし。

しかれば、 いふ​ところの​ごとく​こころえ​たらん人々ひとびとは、 これ​まことにとうりゅう信心しんじんけつじょうし​たる念仏ねんぶつぎょうじゃの​すがた​なる​べし。

さて​この​うへにはいちの​あひだもう念仏ねんぶつの​こころ​は、 弥陀みだ如来にょらいの​われら1140を​やすく​たすけ​たまへ​る​ところの雨山あめやまおんほうじ​たてまつら​んがため​の念仏ねんぶつなり​と​おもふ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん八月はちがつむゆこれ​をく。

(4)0128 大聖世尊章

 ^それ、 *つらつら人間にんげん*あだなるていあんずる​に、 しょうある​もの​は​かならずし、 さかんなる​もの​は​つひにおとろふる​ならひ​なり。 されば​ただ​いたづらに​あかし、 いたづらに​くらして、 年月ねんげつおくる​ばかり​なり。 これ​まことに​なげき​ても​なほ​かなしむ​べし。

^この​ゆゑに、 かみだいしょうそん (*釈尊) より​はじめ​て、 しもあくぎゃくだいに​いたる​まで、 のがれがたき​はじょうなり。

^しかれば、 まれに​もけがたき​は人身にんじん、 あひ​がたき​は仏法ぶっぽうなり。 たまたま仏法ぶっぽうに​あふ​こと​をたり​といふとも、 りきしゅぎょうもんは、 末代まつだいなれば、 いまとき*しゅつしょうの​みち​は​かなひがたき​あひだ、 弥陀みだ如来にょらい本願ほんがんに​あひ​たてまつら​ずは​いたづらごと​なり。

^しかるに​いま​すでに​われらがん一法いっぽうに​あふ​こと​をたり。 この​ゆゑに、 ただ​ねがふ​べき​は極楽ごくらくじょう、 ただ​たのむ​べき​は弥陀みだ如来にょらい、 これ​によりて信心しんじんけつじょうして念仏ねんぶつもうす​べき​なり。

^しかれば、 の​なか​に​ひと​の​あまねく​こころえおき​たる​とほり​は、 ただ1141こえし​て南無なも弥陀みだぶつと​ばかり​となふれ​ば、 極楽ごくらくおうじょうす​べき​やう​に​おもひ​はんべり。 それ​は​おほきに​おぼつかなき​こと​なり。

^されば南無なも弥陀みだぶつもうろくたいは​いかなる​こころ​ぞ​といふ​に、 弥陀みだ如来にょらい一向いっこうに​たのめ​ば、 ほとけ​そのしゅじょうを​よく​しろしめし​て、 すくひ0129たまへ​るおんすがた​を、 この南無なも弥陀みだぶつろくに​あらはし​たまふ​なり​と​おもふ​べき​なり。

^しかれば、 この弥陀みだ如来にょらいをば​いかが​してしんじ​まゐらせ​て、 しょういちだいをば​たすかる​べき​ぞ​なれば、 なにの​わづらひ​も​なく、 もろもろ​のぞうぎょう雑善ぞうぜんを​なげすて​て、 一心いっしん一向いっこう弥陀みだ如来にょらいを​たのみ​まゐらせ​て、 ふたごころなくしんじ​たてまつれ​ば、 その​たのむしゅじょうこうみょうはなち​て​その​ひかり​の​なか​におされ​おき​たまふ​なり。

^これをすなはち弥陀みだ如来にょらい*摂取せっしゅ光益こうやくに​あづかる​と​はもうす​なり。 また​は*しゃ誓益せいやくとも​これ​を​なづくる​なり。

^かくのごとく弥陀みだ如来にょらいこうみょうの​うち​におさめ​おか​れ​まゐらせ​て​の​うへには、 いちの​いのちき​なば​ただちに真実しんじつほうおうじょうす​べき​こと、 そのうたがいある​べから​ず。

^この​ほか​にはべつぶつをも​たのみ、 またどく善根ぜんごんしゅし​ても​なに​にか​は​せん。 あら、 たふと​や、 あら、 ありがた​の弥陀みだ如来にょらいや。 かやう​の雨山あめやまおんをば​いかが​してほうじ​たてまつる​べき​ぞや。

^ただ南無なも1142弥陀みだぶつ南無なも弥陀みだぶつこえに​となへ​て、 その恩徳おんどくを​ふかく報尽ほうじんもうす​ばかり​なり​と​こころう​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねん八月はちがつじゅう八日はちにち

(5)0130 諸仏悲願章

 そもそも、 諸仏しょぶつがん弥陀みだ本願ほんがんの​すぐれ​ましまし​たる、 その​いはれ​を​くはしく​たづぬる​に、 すでに十方じっぽう諸仏しょぶつもうす​は、 いたりてつみふかきしゅじょうと、 しょうさんしょう女人にょにんをば​たすけ​たまは​ざる​なり。 この​ゆゑに諸仏しょぶつがん弥陀みだぶつ本願ほんがんは​すぐれ​たり​ともうす​なり。

さて弥陀みだ如来にょらいちょう大願だいがんは​いかなるしゅじょうを​すくひ​まします​ぞ​ともうせ​ば、 じゅうあくぎゃく罪人ざいにんも、 しょうさんしょう女人にょにんに​いたる​まで​も、 みな​ことごとく​もらさ​ず​たすけ​たまへ​る大願だいがんなり。 されば一心いっしん一向いっこうに​われ​を​たのま​んしゅじょうをば、 かならずじゅうにんあらばじゅうにんながら、 極楽ごくらく*いんじょうせん​と​のたまへ​るりきだい誓願せいがんりきなり。

これ​によりて、 かの弥陀みだぶつ本願ほんがんをば、 われら​ごとき​の​あさましきぼんは、 なにとやうに​たのみ、 なにとやうにを​もち​て、 かの弥陀みだをば​たのみ​まゐらす​べき​ぞや。 その​いはれ​を​くはしく​しめし​たまふ​べし。 その​をしへ​の​ごとく信心しんじんを​とり​て、 弥陀みだをもしんじ、 極楽ごくらくをも1143ねがひ、 念仏ねんぶつをももうす​べき​なり。

 こたへ​て​いはく、 まづけんに​いま流布るふして​むねと​すすむる​ところの念仏ねんぶつもうす​は、 ただ*なにの分別ふんべつも​なく南無なも弥陀みだぶつと​ばかり​となふれ​ば、 みな​たすかる​べき​やう​に​おもへ​り。 それ​は​おほきに​おぼつかなき​こと​なり。 きょう田舎いなかの​あひだ​において0131じょうしゅうりゅうまちまちに​わかれ​たり。 しかれども、 それ​を是非ぜひする​には​あらず、 ただ​わが開山かいさん (親鸞)*いちりゅう相伝そうでんの​おもむき​をもうし​ひらく​べし。

それ、 だつみみを​すまし​て*渇仰かつごうの​かうべ​を​うなだれ​て​これ​を​ねんごろに​きき​て、 信心しんじんかんの​おもひ​を​なす​べし。 それ、 ざいじゅうの​やからいっしょう造悪ぞうあくの​もの​も、 ただ​わがつみの​ふかき​にはを​かけ​ず​して、 それ弥陀みだ如来にょらい本願ほんがんもうす​は​かかる​あさましきほんと​すくひ​まします思議しぎ願力がんりきぞ​と​ふかくしんじ​て、 弥陀みだ一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 りき信心しんじんといふ​こと​をひとつ​こころう​べし。

さてりき信心しんじんといふたいは​いかなる​こころ​ぞ​といふ​に、 この南無なも弥陀みだぶつろくみょうごうたいは、 弥陀みだぶつの​われら​を​たすけ​たまへ​る​いはれ​を、 この南無なも弥陀みだぶつみょうごうに​あらはし​ましまし​たるおんすがた​ぞ​と​くはしく​こころえわけ​たる​をもつて、 りき信心しんじんを​え​たるひとと​は​いふ​なり。

この 「南無なも」 といふ1144は、 しゅじょう弥陀みだぶつ一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 たすけ​たまへ​と​おもひ​て、 ねんなき​こころ​をみょうと​は​いふ​なり。

つぎ​に 「弥陀みだぶつ」 といふつ​のは、 南無なもと​たのむしゅじょうを、 弥陀みだぶつの​もらさ​ず​すくひ​たまふ​こころ​なり。 この​こころ​を​すなはち摂取せっしゅしゃと​はもうす​なり。

摂取せっしゅしゃ」 といふは、 念仏ねんぶつぎょうじゃ弥陀みだ如来にょらいこうみょうの​なか​に​をさめとり​て​すて​たまは​ず​といへる0132こころ​なり。

されば​この南無なも弥陀みだぶつたいは、 われら​を弥陀みだぶつの​たすけ​たまへ​る*しょうの​ため​に、 御名みなを​この南無なも弥陀みだぶつろくに​あらはし​たまへ​る​なり​と​きこえ​たり。 かくのごとく​こころえわけ​ぬれ​ば、 われら​が極楽ごくらくおうじょうじょうなり。

あら、 ありがた​や、 たふと​や​と​おもひ​て、 この​うへには、 はや​ひとたび弥陀みだ如来にょらいに​たすけ​られ​まゐらせ​つる​のち​なれば、 おんたすけ​あり​つるおんうれしさ​の念仏ねんぶつなれば、 この念仏ねんぶつをば仏恩ぶっとん報謝ほうしゃ称名しょうみょうとも​いひ、 またしんの​うへ​の称名しょうみょうとももうし​はんべる​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい六年ろくねんがつむゆこれ​をく。

(6) 唯能常称章

 ^それ、 南無なも弥陀みだぶつもうす​は​いかなる​こころ​ぞ​なれば、 まづ 「南無なも」 といふ1145は、 みょう発願ほつがんこうと​の​ふたつ​の​こころ​なり。 また 「南無なも」 といふはがんなり、 「弥陀みだぶつ」 といふはぎょうなり。

^さればぞうぎょう雑善ぞうぜんを​なげすて​て専修せんじゅ専念せんねん弥陀みだ如来にょらいを​たのみ​たてまつり​て、 たすけ​たまへ​と​おもふみょう一念いちねんおこる​とき、 かたじけなく​もへんじょうこうみょうはなち​てぎょうじゃ摂取せっしゅし​たまふ​なり。 この​こころ​すなはち弥陀みだぶつつ​の0133の​こころ​なり。 また発願ほつがんこうの​こころ​なり。

^これ​によりて、 「南無なも弥陀みだぶつ」 といふろくは、 ひとへに​われら​がおうじょうす​べきりき信心しんじんの​いはれ​を​あらはし​たまへ​る御名みななり​と​みえ​たり。

^この​ゆゑに、 がんじょうじゅもん (*大経・下) には、 「もんみょうごう信心しんじんかん」 とか​れ​たり。 このもんの​こころ​は、 「そのみょうごうを​きき​て信心しんじんかんす」 といへり。

^「そのみょうごうを​きく」 といふは、 ただ​おほやうに​きく​に​あらず。 ぜんしきに​あひ​て、 南無なも弥陀みだぶつつ​のの​いはれ​を​よく​ききひらき​ぬれ​ば、 ほうおうじょうす​べきりき信心しんじんどうなり​と​こころえ​られ​たり。 かるがゆゑに、 「信心しんじんかん」 といふは、 すなはち信心しんじんさだまり​ぬれ​ば、 じょうおうじょううたがいなく​おもう​て​よろこぶ​こころ​なり。

^この​ゆゑに弥陀みだ如来にょらい*こうちょうさい永劫ようごうろうあんずる​にも、 われら​を​やすく​たすけ​たまふ​こと​の​ありがたさ、 たふとさ​を​おもへ​ば​なかなかもうす​も​おろかなり。

^されば1146 ¬さん¼ (正像末和讃) に​いはく、 「南無なも弥陀みだぶつこうの 恩徳おんどく広大こうだい思議しぎにて 往相おうそうこうやくには 還相げんそうこうにゅうせ​り」 といへる​は​この​こころ​なり。

^また 「*しょうしん」 には​すでに 「唯能ゆいのう常称じょうしょう如来にょらいごう 応報おうほうだいぜいおん」 と​あれば、 ^いよいよ行住ぎょうじゅう坐臥ざがしょ諸縁しょえんを​きらは​ず、 仏恩ぶっとん報尽ほうじんの​ため​に​ただ称名しょうみょう念仏ねんぶつす​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

0134*文明ぶんめい六年ろくねんじゅうがつ二十はつこれ​をく。

(7) 彼此三業章

 そもそも、 親鸞しんらんしょうにんの​すすめ​たまふ​ところのいちの​こころ​は、 ひとへに​これ末代まつだいじょくざい無智むちの​ともがら​において、 なにの​わづらひ​も​なく、 すみやかにじょうおうじょうす​べきりき信心しんじんいちばかり​をもつて*ほんと​をしへ​たまへ​り。 しかれば、 それ弥陀みだ如来にょらいは、 すでにじゅうあくぎゃくにんしょうさんしょう女人にょにんに​いたる​まで、 ことごとく​すくひ​まします​といへる​こと​をば、 いかなるひとも​よく​しり​はんべり​ぬ。

しかるに​いま​われらぼんは、 弥陀みだぶつをば​いかやうにしんじ、 なにとやうに​たのみ​まゐらせ​て、 かの極楽ごくらくかいへ​はおうじょうす​べき​ぞ​といふ​に、 ただ​ひとすぢに弥陀みだ如来にょらいしんじ​たてまつり​て、 そのは​なにごと​も​うちすて1147て、 一向いっこう弥陀みだし、 一心いっしん本願ほんがんしんじ​て、 弥陀みだ如来にょらいにおいて​ふたごころなく​は、 かならず極楽ごくらくおうじょうす​べし。 このどうをもつて、 すなはちりき信心しんじんを​え​たる​すがた​と​は​いふ​なり。

そもそも、 信心しんじんといふは、 弥陀みだぶつ本願ほんがんの​いはれ​を​よく分別ふんべつして、 一心いっしん弥陀みだみょうする​かた​をもつて、 りき安心あんじんけつじょうす​と​はもうす​なり。 されば南無なも弥陀みだぶつろく0135の​いはれ​を​よく​こころえわけ​たる​をもつて、 信心しんじんけつじょう*たいと​す。

しかれば、 南無なも」 の二字にじは、 しゅじょう弥陀みだぶつ*しんずるなり。 つぎ​に 「弥陀みだぶつ」 といふつ​のの​いはれ​は、 弥陀みだ如来にょらいしゅじょう*たすけ​たまへ​るほうなり。 この​ゆゑに、 ほう一体いったい南無なも弥陀みだぶつといへる​は​この​こころ​なり。

これ​によりて、 しゅじょう三業さんごう弥陀みだ三業さんごう一体いったいに​なる​ところ​を​さし​て、 *善導ぜんどうしょうは 「彼此ひし三業さんごうそうしゃ(*定善義)しゃくし​たまへ​る​も、 この​こころ​なり。

されば一念いちねんみょう信心しんじんけつじょうせしめ​たらんひとは、 かならず​みなほうおうじょうす​べき​こと、 さらに​もつて​そのうたがいある​べから​ず。 あひかまへてりきしゅうしん*わろきの​かた​をば​ふりすて​て、 ただ思議しぎ願力がんりきぞ​と​ふかくしんじ​て、 弥陀みだ一心いっしんに​たのま​ん​ひと​は、 たとへばじゅうにんじゅうにんながら、 みな真実しんじつほうおうじょうを​とぐ​べし。

この​うへには、 ひたすら弥陀みだ如来にょらい1148おんの​ふかき​こと​を​のみ​おもひ​たてまつり​て、 つね​に報謝ほうしゃ念仏ねんぶつもうす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい七年しちねんがつじゅう三日さんにち

(8) 当国他国十劫邪義章

 そもそも、 このごろ当国とうごくこくの​あひだ​において、 とうりゅう安心あんじんの​おもむき、 ことのほかそうし​て、 みなひとごと0136に​われ​は​よくこころたり​とおもひ​て、 さらにほうに​そむく​とほり​をも​あながちにひとに​あひ​たづね​て、 真実しんじつ信心しんじんを​とら​ん​と​おもふひとすくなし。 これ​まことに​あさましきしゅうしんなり。

すみやかに​このこころ*がいさんして、 とうりゅう真実しんじつ信心しんじんじゅうし​て、 こんほうおうじょうけつじょうせず​は、 まことにたからやまり​て、 を​むなしく​して​かへら​ん​に​ことなら​ん​ものか。

この​ゆゑに​その信心しんじんそうし​たることばに​いはく、 「それ、 弥陀みだ如来にょらいは​すでに*十劫じっこうしょうがくの​はじめ​より​われら​がおうじょうさだめ​たまへ​る​こと​を、 いまに​わすれ​ずうたがは​ざる​が​すなはち信心しんじんなり」 と​ばかり​こころえ​て、 弥陀みだし​て信心しんじんけつじょうせしめ​たるぶんなく​は、 ほうおうじょうす​べから​ず。 されば*そばさま​なる​わろき​こころえ​なり。

これ​によりて、 とうりゅう安心あんじんの​その​すがた​を​あらはさ​ば、 すなはち南無なも弥陀みだぶつたい1149よく​こころうる​をもつて、 りき信心しんじんを​え​たる​と​は​いふ​なり。

されば 「南無なも弥陀みだぶつ」 のろく善導ぜんどうしゃくし​て​いはく、 「南無なもといふはみょう、 また​これ発願ほつがんこうなり」 (玄義分) といへり。 そのこころいかん​ぞ​なれば、 弥陀みだ如来にょらい*いんちゅうにおいて、 われらぼんおうじょうぎょうさだめ​たまふ​とき、 ぼんの​なす​ところのこうりきなる​がゆゑにじょうじゅしがたき​に​より​て、 弥陀みだ如来にょらいぼんの​ため​に身労しんろうありて、 このこうを​われら​に​あたへ​んがためにこうじょうじゅし​たまひ​て、 一念いちねん南無なもみょうする​ところ​にて、 このこうを​われらぼんに​あたへ​まします0137なり。

かるがゆゑに、 ぼんかたより​なさ​ぬこうなる​がゆゑに、 これ​をもつて如来にょらいこうをばぎょうじゃの​かた​より​はこうと​はもうす​なり。

この​いはれ​ある​がゆゑに、 「南無なも」 の二字にじみょうの​こころ​なり、 また発願ほつがんこうの​こころ​なり。 この​いはれ​なる​がゆゑに、 南無なもみょうするしゅじょうを​かならず摂取せっしゅし​てて​たまは​ざる​がゆゑに、 南無なも弥陀みだぶつと​はもうす​なり。 これ​すなはち一念いちねんみょうりき信心しんじんぎゃくとくする平生へいぜいごうじょう念仏ねんぶつぎょうじゃといへる​は​この​こと​なり​と​しる​べし。

かくのごとく​こころえ​たらん人々ひとびとは、 いよいよ弥陀みだ如来にょらい恩徳おんどく深遠じんじんなる​こと​をしんし​て、 行住ぎょうじゅう坐臥ざが称名しょうみょう念仏ねんぶつす​べし。 これ​すなはち 「憶念おくねん弥陀みだぶつ本願ほんがん ねん1150そくにゅうひつじょう 唯能ゆいのう常称じょうしょう如来にょらいごう 応報おうほうだいぜいおん(正信偈) といへるもんの​こころ​なり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいしちがつじゅうにち

(9) 御命日章

 そもそも、 今日こんにちらんしょうにん (親鸞)命日めいにちとして、 かならず報恩ほうおん謝徳しゃとくの​こころざし​を​はこば​ざるひと、 これ​すくなし。 しかれども、 かの諸人しょにんの​うへ​において、 あひ​こころう​べき​おもむき​は、 もし本願ほんがんりき真実しんじつ信心しんじんぎゃくとくせ​ざらん安心あんじんの​ともがら​は、 今日こんにち0138かぎり​て​あながちに*しゅっを​いたし、 このこうちゅうしきを​ふさぐ​をもつてしんしゅう肝要かんようと​ばかり​おもは​んひとは、 いかでか​わがしょうにんぎょには​あひ​かなひがたし。

しかり​と​いへども、 わが在所ざいしょに​ありて報謝ほうしゃの​いとなみ​をも​はこば​ざらん​ひと​は、 *しょうにもしゅっを​いたし​ても​よろしかる​べき​か。 されば毎月まいがつじゅう八日はちにちごと​に​かならずしゅっを​いたさ​ん​と​おもは​ん​ともがら​においては、 あひかまへて、 ごろ​の信心しんじんの​とほりけつじょうせ​ざらん安心あんじんの​ひと​も、 すみやかに本願ほんがん真実しんじつりき信心しんじんを​とり​て、 わがこんほうおうじょうけつじょうせしめ​ん​こそ、 まことにしょうにん報恩ほうおん謝徳しゃとく*こんに​あひ​かなふ​べけれ。

また1151しん極楽ごくらくおうじょういちじょうし​をはり​ぬ​べきどうなり。 これ​すなはち​まことに 「しんきょうにんしん なんちゅうてんきょうなん だいでん普化ぷけ しんじょうほう仏恩ぶっとん(*礼讃) といふしゃくもんの​こころ​にもごうせ​る​ものなり。

それ、 しょうにんにゅうめつは​すでに*いっぴゃくさいと​いへども、 かたじけなく​も目前もくぜんにおいて真影しんねいはいし​たてまつる。 また*徳音とくいんは​はるかにじょうかぜに​へだつ​と​いへども、 まのあたり*じつそうじょうけちみゃくして​あきらかにみみそこに​のこし​て、 いちりゅうりき真実しんじつ信心しんじんいまに​たえ​せ​ざる​ものなり。

これ​によりて、 いま​このせつに​いたり​て、 本願ほんがん真実しんじつ信心しんじんぎゃくとくせしむるひとなく​は、 まことに宿しゅくぜんの​もよほし​に​あづから​ぬと​おもふ​べし。 *もし宿しゅくぜん開発かいほつにても0139われら​なく​は、 むなしくこんおうじょうじょうなる​べき​こと、 なげき​ても​なほ​かなしむ​べき​は​ただ​このいちなり。 しかるに​いま本願ほんがん一道いちどうに​あひ​がたく​して、 まれにじょう本願ほんがんに​あふ​こと​をたり。 まことに​よろこび​の​なか​の​よろこび、 なにごと​か​これ​に​しか​ん。 たふとむ​べし、 しんず​べし。

これ​によりて、 年月としつきごろ​わが​こころ​の*わろき迷心めいしんを​ひるがへし​て、 たちまちに本願ほんがん一実いちじつりき信心しんじんに​もとづか​ん​ひと​は、 真実しんじつしょうにんぎょに​あひ​かなふ​べし。 これ​しかしながら、 今日こんにちしょうにん報恩ほうおん謝徳しゃとくおんこころざし​にも​あひ​そなはり1152つ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい七年しちねんがつじゅう八日はちにちこれ​をく。

(10) 神明六ヶ条章

 そもそも、 とうりゅうもんちゅうにおいて、 このろくじょう篇目へんもくの​むね​を​よくぞんして、 仏法ぶっぽう内心ないしんに​ふかくしんじ​て、 そうに​その​いろ​を​みせ​ぬ​やう​に​ふるまふ​べし。 しかれば、 このごろとうりゅう念仏ねんぶつしゃにおいて、 わざといちりゅうの​すがた​をしゅうたいし​て​これ​を​あらはす​こと、 もつてのほか​の​あやまり​なり。 所詮しょせんきょうこうこの題目だいもくだいを​まもり​て、 仏法ぶっぽうをばしゅぎょう0140べし。 もし​この​むね​を​そむか​ん​ともがら​は、 ながくもんちゅう*一列いちれつたる​べから​ざる​ものなり。

 一 神社じんじゃを​かろしむる​こと​ある​べから​ず。
 一 諸仏しょぶつさつならびに諸堂しょどうを​かろしむ​べから​ず。
 一 しょしゅう諸法しょほうほうす​べから​ず。
 一 しゅとうりゃくに​す​べから​ず。
 一 くに仏法ぶっぽうだい*非義ひぎたる​あひだ、 しょうに​おもむく​べきこと
 一 とうりゅうに​たつる​ところのりき信心しんじんをば内心ないしんに​ふかくけつじょうす​べし。

 1153ひとつ​には、 一切いっさい神明しんめいもうす​は、 ほんぶつさつへんにて​ましませ​ども、 このかいしゅじょうを​みる​に、 ぶつさつには​すこし​ちかづきにくく​おもふ​あひだ、 神明しんめい方便ほうべんに、 かりかみと​あらはれ​て、 しゅじょうえんむすび​て、 その​ちから​をもつて​たより​として、 つひに仏法ぶっぽうに​すすめいれ​んがため​なり。

これ​すなはち 「こう同塵どうじん結縁けちえんの​はじめ、 八相はっそうじょうどうもつの​をはり」 (*摩訶止観) といへる​は​この​こころ​なり。 さればいましゅじょう仏法ぶっぽうしん念仏ねんぶつをももうさ​んひとをば、 神明しんめい*あながちに​わがほんと​おぼしめす​べし。 この​ゆゑに、 弥陀みだ一仏いちぶつがんすれ​ば、 とりわけ神明しんめいを​あがめ0141しんぜ​ね​ども、 その​うち​に​おなじくしんずる​こころ​は​こもれ​る​ゆゑなり。

 ふたつ​には、 諸仏しょぶつさつもうす​は、 神明しんめいほんなれば、 いまときしゅじょう弥陀みだ如来にょらいしん念仏ねんぶつもうせ​ば、 一切いっさい諸仏しょぶつさつは、 わがほん弥陀みだ如来にょらいしんずる​に、 その​いはれ​ある​によりて、 わが本懐ほんがいと​おぼしめす​がゆゑに、 べっして諸仏しょぶつをとりわきしんぜ​ね​ども、 弥陀みだぶつ一仏いちぶつしんじ​たてまつる​うち​に、 一切いっさい諸仏しょぶつさつも​みな​ことごとく​こもれ​る​がゆゑに、 ただ弥陀みだ如来にょらい一心いっしん一向いっこうみょうすれば、 一切いっさい諸仏しょぶつ智慧ちえどくも、 弥陀みだ一体いったいせ​ず​といふ​こと​なき​いはれ​なれば1154なり​と​しる​べし。

 つ​には、 しょしゅう諸法しょほうほうする​こと​おほきなる​あやまり​なり。 その​いはれ​すでに*じょうさんきょうに​みえ​たり。 またしょしゅう学者がくしゃも、 念仏ねんぶつしゃをば​あながちにほうす​べから​ず。 しゅうしゅうともに​その​とが​のがれがたき​ことどう必然ひつぜんせ​り。

 つ​には、 しゅとうにおいて​は、 かぎり​あるねん*所当しょとうを​ねんごろに沙汰さたし、 その​ほか*じんをもつてほんと​す​べし。

 いつつ​には、 くに仏法ぶっぽうだいとうりゅうしょうに​あらざる​あひだ、 かつは邪見じゃけんに​みえ​たり。 所詮しょせんこん以後いごにおいて​は、 とうりゅう真実しんじつしょうを​きき​て、 ごろ​の悪心あくしんを​ひるがへし​て0142善心ぜんしんに​おもむく​べき​ものなり。

 つ​には、 とうりゅう真実しんじつ念仏ねんぶつしゃといふは、 開山かいさん (親鸞)さだめおき​たまへ​るしょうを​よくぞんして、 造悪ぞうあくぜんながら極楽ごくらくおうじょうを​とぐる​をもつてしゅうほんと​す​べし。

それいちりゅう安心あんじんしょうの​おもむき​といふは、 なにのやうも​なく、 弥陀みだ如来にょらい一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 われ​は​あさましき悪業あくごう煩悩ぼんのうなれども、 かかる​いたづらもの​をほんと​たすけ​たまへ​る弥陀みだ願力がんりき強縁ごうえんなり​と不可ふか思議しぎに​おもひ​たてまつり​て、 一念いちねんしんなく、 おもふ​こころ​だに​もけん1155なれば、 かならず弥陀みだ無礙むげこうみょうはなち​て​その摂取せっしゅし​たまふ​なり。

かやうに信心しんじんけつじょうし​たらん​ひと​は、 じゅうにんじゅうにんながら、 みな​ことごとくほうおうじょうす​べし。 この​こころ​すなはちりき信心しんじんけつじょうし​たる​ひと​なり​といふ​べし。

この​うへ​に​なほ​こころう​べき​やう​は、 まことに​ありがたき弥陀みだ如来にょらい広大こうだいおんなり​と​おもひ​て、 その仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの​ため​に​は、 ね​ても​おき​ても​ただ南無なも弥陀みだぶつと​ばかり​となふ​べき​なり。 されば​この​ほか​には、 またしょうの​ため​とて​は、 なにのそくありて​か、 相伝そうでんも​なき​しら​ぬ*えせ法門ぼうもんを​いひ​て、 ひと​をも​まどはし、 *あまつさへほうりゅうをも​けがさ​ん​こと、 まことに​あさましきだいに​あらず​や。 よくよく​おもひ​はからふ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あ0143なかしこ。

*文明ぶんめい七年しちねん七月しちがつじゅうにち

(11) 毎年不闕章

 そもそも、 今月こんがつじゅう八日はちにち開山かいさんしょうにん (親鸞) *しょうとして、 毎年まいねん*けつに​かのおん報徳ほうとくおんぶつにおいて​は、 あらゆる国郡こくぐんその​ほか​いかなるれつの​ともがら​まで​も、 そのおんを​しら​ざる​もの​は​まことに木石ぼくせきに​ことなら​ん​ものか。

これ​について*ろう、 この四五しごねんの​あひだ​は、 なにとなく*北陸ほくりく山海さんかいの​かたほとり1156きょじゅうす​と​いへども、 はからざるに​いまに存命ぞんめいせしめ、 *この当国とうごくに​こえ、 はじめて今年こんねんしょうにんしょう報恩ほうおんこうに​あひ​たてまつるじょう、 まことに​もつて不可ふか思議しぎ宿しゅくえん、 よろこび​ても​なほ​よろこぶ​べき​ものか。

しかれば、 こくこくよりらいじゅう諸人しょにんにおいて、 まづ開山かいさんしょうにんさだめ​おか​れ​しおんおきての​むね​を​よくぞんす​べし。

そのおんことば​に​いはく、 「たとひうし盗人ぬすびとと​は​よば​る​とも、 仏法ぶっぽうしゃ後世ごせしゃと​みゆる​やう​にふるふ​べから​ず。 またほかには*じんれいしんを​まもり​て王法おうぼうをもつてさきと​し、 内心ないしんには​ふかく本願ほんがんりき信心しんじんほんと​す​べき」 よし​を、 ねんごろにおおさだめ​おか​れ​し​ところ0144に、

近代きんだいこのごろ​のひと仏法ぶっぽうがおていたらく​を​みおよぶ​に、 そうには仏法ぶっぽうしんずる​よし​を​ひと​に​みえ​て、 内心ないしんには​さらに​もつてとうりゅう安心あんじんいちけつじょうせしめ​たるぶんなく​して、 あまつさへ相伝そうでんも​せざる聖教しょうぎょうを​わが*ぢから​をもつて​これ​を​よみ​て、 しら​ぬ​えせ法門ぼうもんを​いひ​て、 自他じたもんちゅう経回けいがいして虚言きょごんを​かまへ、 *けっほんより​の成敗せいばいごうし​てひとを​たぶろかし、 ものを​とり​てとうりゅういちを​けがすじょう真実しんじつ真実しんじつあさましきだいに​あらず​や。

これ​によりて、 今月こんがつじゅう八日はちにちしょう七日しちにち報恩ほうおんこうちゅうにおいて、 わろきしんちゅうの​とほり​をがいさんして、 おのおのしょうに​おもむか​ずは、 たとひ1157この七日しちにち報恩ほうおんこうちゅうにおいて、 *あしを​はこび、 ひとまね​ばかり​に報恩ほうおん謝徳しゃとくの​ため​とごうす​とも、 さらに​もつて​なにの*所詮しょせんも​ある​べから​ざる​ものなり。

されば弥陀みだ願力がんりき信心しんじんぎゃくとくせしめ​たらんひとの​うへ​において​こそ、 仏恩ぶっとん報尽ほうじんとも、 またとく報謝ほうしゃなんど​とももうす​こと​は​ある​べけれ。 このどうを​よくよく​こころえ​てあしをも​はこび、 しょうにんをも​おもんじ​たてまつら​んひとこそ、 真実しんじつ*みょうりょにも​あひ​かなひ、 またべっして​は、 当月とうがつしょう報恩ほうおん謝徳しゃとくこんにも​ふかく​あひ​そなはり​つ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい七年しちねんじゅう一月いちがつじゅう一日いちにちこれ​をく。

(120145) 宿善有無章

 そもそも、 いにしへ近年きんねんこのごろ​の​あひだ​に、 諸国しょこく在々ざいざい所々しょしょにおいて、 随分ずいぶん仏法ぶっぽうしゃごうし​て法門ほうもん讃嘆さんだんかんを​いたす​ともがら​の​なか​において、 さらに真実しんじつに​わが​こころとうりゅうしょうに​もとづか​ず​と​おぼゆる​なり。

その​ゆゑ​を​いかん​といふ​に、 まづ​かのしんちゅうに​おもふやう​は、 われ​は仏法ぶっぽう*根源こんげんを​よくがおていにて、 しかも​たれ​に相伝そうでんし​たるぶんも​なく​して、 あるいはえんはししょうそとにて、 ただねん*ききとり法門ぼうもん分斉ぶんざいをもつて、 真実しんじつ仏法ぶっぽうに​その​こころざし1158は​あさく​して、 われ​より​ほか​は仏法ぶっぽうだいぞんし​たる​もの​なき​やう​に​おもひ​はんべり。

これ​によりて、 たまたま​もとうりゅうしょうを​かたのごとく讃嘆さんだんせしむる​ひと​を​みて​は、 あながちに​これ​を*へんじゅうす。 すなはち​われ​ひとり​よくがおぜいは、 第一だいいちきょうまんの​こころ​に​あらず​や。

かくのごとき​のしんちゅうをもつて、 諸方しょほうもんちゅう経回けいがいし​て聖教しょうぎょうを​よみ、 あまつさへ​わたくし​のをもつてほんより​の​つかひ​とごうし​て、 ひと*へつらひ、 虚言きょごんを​かまへ、 もの​を​とる​ばかり​なり。 これら​の​ひと​をば、 なにと​して​よき仏法ぶっぽうしゃ、 また聖教しょうぎょうよみ​と​は​いふ​べき​をや。 あさまし​あさまし。 なげき​ても​なほ​なげく​べき​は​ただ​このいちなり。

これ​によりて、 まづとうりゅうを​たて、 ひと​をかんせん​と​おもは0146ん​ともがら​において​は、 そのかんだいを​よくぞんす​べき​ものなり。

 それ、 とうりゅうりき信心しんじんの​ひととほり​を​すすめ​ん​と​おもは​ん​には、 まづ宿しゅくぜん宿しゅくぜん*沙汰さたす​べし。 されば​いかにむかしよりとうもんに​そのを​かけ​たる​ひと​なり​とも、 宿しゅくぜん信心しんじんを​とり​がたし。 まことに宿しゅくぜん開発かいほつは​おのづからしんけつじょうす​べし。 されば宿しゅくぜんの​まへ​において​は、 しょうぞうぎょう沙汰さたを​する​とき​は、 かへりてほう*もとゐ​と​なる​べき​なり。 この宿しゅくぜん宿しゅく1159ぜんどう分別ふんべつせず​して、 びろ​にけんの​ひと​をも​はばから​ずかんを​いたす​こと、 もつてのほか​のとうりゅうおきてに​あひ​そむけり。

されば ¬だいきょう¼ (下) に​のたまはく、 「にゃくにん善本ぜんぽんとくもんきょう」 とも​いひ、 「にゃくもんきょう しんぎょうじゅ なんちゅうなん 無過むかなん」 とも​いへ​り。

また善導ぜんどうは 「過去かこぞう しゅじゅうほう 今得こんとくじゅうもん そくしょうかん(*定善義) ともしゃくせ​り。

いづれのきょうしゃくに​よる​とも、 すでに宿しゅくぜんに​かぎれ​り​と​みえ​たり。 しかれば、 宿しゅくぜんを​まもり​て、 とうりゅうほうをば​あたふ​べし​と​きこえ​たり。 この​おもむき​を​くはしくぞんして、 ひと​をばかんす​べし。

ことに​まづ王法おうぼうをもつてほんと​し、 じんを先として、 *けんつうじゅんじ​て、 とうりゅう安心あんじんをば内心ないしんに​ふかく​たくはへ​て、 そうほうりゅうの​すがた​をしゅう他家たけに​みえ​ぬ​やう​に​ふるまふ​べし。 この​こころ​をもつてとうりゅう真実しんじつしょうを​よくぞんせしめ​たる​ひと0147と​は​なづく​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい八年はちねんしょうがつじゅう七日しちにち

(13) 夫当流門徒中章

 それ、 とうりゅうもんちゅうにおいて、 すでに安心あんじんけつじょうせしめ​たらんひとの​うへ​にも、 またけつじょうひと安心あんじんを​とら​ん​と​おもは​んひとも、 こころう​べきだいは、 まづ1160ほか​には王法おうぼうほんと​し、 諸神しょじん諸仏しょぶつさつを​かろしめ​ず、 またしょしゅう諸法しょほうほうぜ​ず、 くにところ​に​あらばしゅとうに​むき​てはりゃくなく、 かぎり​あるねん所当しょとう*つぶさに沙汰さたを​いたし、 その​ほかじんをもつてほんと​し、 またしょうのために​は内心ないしん弥陀みだ如来にょらい一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 自余じよぞうぎょう雑善ぞうぜんに​こころ​をば​とどめ​ず​して、 一念いちねんしんなくしんじ​まゐらせ​ば、 かならず真実しんじつ極楽ごくらくじょうおうじょうす​べし。

この​こころえ​の​とほり​をもつて、 すなはち弥陀みだ如来にょらいりき信心しんじんを​え​たる念仏ねんぶつぎょうじゃの​すがた​と​は​いふ​べし。

かくのごとく念仏ねんぶつ信心しんじんを​とり​て​の​うへ​に、 なほ​おもふ​べき​やう​は、 さても​かかる​われら​ごとき​の​あさましきいっしょう造悪ぞうあくつみふかきながら、 ひとたび一念いちねんみょう信心しんじんを​おこせ​ば、 ぶつ願力がんりきに​より​て​たやすく​たすけ0148たまへる弥陀みだ如来にょらい思議しぎに​ましますちょう本願ほんがん強縁ごうえんの​ありがたさ​よ​と、 ふかく​おもひ​たてまつり​て、 そのおん報謝ほうしゃの​ため​に​は、 ね​ても​さめ​ても​ただ念仏ねんぶつばかり​を​となへ​て、 かの弥陀みだ如来にょらい仏恩ぶっとんほうじ​たてまつる​べき​ばかり​なり。

この​うへにはしょうの​ため​に​なに​を​しり​ても所用しょようなき​ところ​に、 ちかごろ​もつてのほか、 みなひとの​なにのそくありて​か、 相伝そうでんも​なき​しら​ぬ*くせ法門ぼうもんを​いひ​てひとをも​まどはし、 またじょうほうりゅうをも​けがさ​ん​こと1161、 まことに​もつて​あさましきだいなり。 よくよく​おもひ​はからふ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめい八年はちねん七月しちがつじゅう八日はちにち

しゃくしょうにょ(花押)

 

 四 帖

(1)0149 真宗念仏行者章

 それ、 しんしゅう念仏ねんぶつぎょうじゃの​なか​において、 ほうについて​その​こころえ​なきだいこれ​おほし。

しかるあひだ、 大概たいがいその​おもむき​を​あらはし​をはり​ぬ。 所詮しょせんこん以後いごは、 同心どうしんぎょうじゃは​この​ことば​をもつてほんと​す​べし。 これ​について​ふたつ​の​こころ​あり。 ひとつ​には、 しんおうじょうす​べき安心あんじんを​まづじょうす​べし。 ふたつ​には、 ひと​をかんせん​に宿しゅくぜん宿しゅくぜんの​ふたつ​を分別ふんべつしてかんを​いたす​べし。 このどうしんちゅうけつじょうして​たもつ​べし。

しかれば、 わがおうじょう一段いちだんにおいて​は、 内心ないしんに​ふかく一念いちねんぽっ信心しんじんを​たくはへ​て、 しかもりき仏恩ぶっとん称名しょうみょう*たしなみ1162、 その​うへ​には​なほ王法おうぼうさきとし、 じんほんと​す​べし。 また諸仏しょぶつさつとうりゃくに​せず、 諸法しょほうしょしゅう*きょうせんせず、 ただけんつうじゅんじ​て、 そうとうりゅうほうの​すがた​を*しゅうもんの​ひと​に​みせ​ざる​をもつて、 とうりゅうしょうにん (親鸞)おきてを​まもるしんしゅう念仏ねんぶつぎょうじゃと​いひ​つ​べし。

ことにとうこのごろ​は、 あながちにへんじゅうす​べきみみを​そばだて、 謗難ぼうなんの​くちびる​を​めぐらす​をもつてほんと​するぶんたる​あひだ、 かたく​その用捨ようしゃある​べき​ものなり。

そもそも、 とうりゅうに​たつる​ところのりき三信さんしんといふは、 だいじゅうはちがんに 「しんしんぎょうよくしょうこく」 といへり。 これ​すなはち三信さんしんと​は​いへども、 ただ弥陀みだを​たのむ​ところの0150ぎょうじゃみょう一心いっしんなり。

そのゆゑは​いかん​といふ​に、 宿しゅくぜん開発かいほつぎょうじゃ一念いちねん弥陀みだみょうせん​と​おもふ​こころ​の一念いちねんおこる*きざみ、 ぶつ*心光しんこう、 かの一念いちねんみょうぎょうじゃ摂取せっしゅし​たまふ。 そのせつを​さし​てしんしんぎょうよくしょう三信さんしんとも​いひ、 また​この​こころ​をがんじょうじゅもん (*大経・下) には 「即得そくとくおうじょうじゅ退転たいてん」 とけ​り。 あるいは​このくらいを、 すなはち真実しんじつ信心しんじんぎょうにんとも、 宿しゅくいん深厚じんこうぎょうじゃとも、 平生へいぜいごうじょうひととも​いふ​べし。 されば弥陀みだみょうす​といふ​も、 信心しんじんぎゃくとくす​といふ​も、 宿しゅくぜんに​あらず​といふ​こと​なし。

しかれば、 念仏ねんぶつおうじょうこんは、 宿しゅくいん1163の​もよほし​に​あらず​は、 われらこんほうおうじょう不可ふかなり​と​みえ​たり。

この​こころ​をしょうにんおんことば​には 「ぎゃく信心しんじんおんきょう宿しゅくえん(*文類聚鈔)おおせ​られ​たり。 これ​によりて、 とうりゅうの​こころ​は、 ひとかんせん​と​おもふ​とも、 宿しゅくぜん宿しゅくぜんの​ふたつ​を分別ふんべつせず​は​いたづらごと​なる​べし。 この​ゆゑに、 宿しゅくぜん有無うむこんを​あひ​はかり​てひとをばかんす​べし。

しかれば、 近代きんだいとうりゅう仏法ぶっぽうしゃぜいは、 是非ぜひ分別ふんべつなくとうりゅう*こうりょう讃嘆さんだんせしむる​あひだ、 しんしゅうしょう、 この​いはれ​に​より​て​あひ​すたれ​たり​と​きこえ​たり。 かくのごとき​ら​のだいさいぞんして、 とうりゅういちをば讃嘆さんだんす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

0151 *文明ぶんめいねんひのとのとりしょうがつよう

(2) 定命章

 それ、 人間にんげん寿じゅみょうを​かぞふれ​ば、 *いまとき定命じょうみょうじゅうろくさいなり。 しかるにとうにおいて、 としじゅうろくまでび​たらんひとは、 まことに​もつて*いかめしき​こと​なる​べし。

これ​によりて、 すでに*頽齢たいれいろくじゅうさんさいに​せまれ​り。 *勘篇かんべんすればとしは​はや七年しちねんまでび​ぬ。 これ​につけて​も、 前業ぜんごう所感しょかんなれば、 いかなるびょうげんを​うけ​て​かえんに​のぞま​ん​と​おぼつかなし。 これ​さらに​はから​ざる1164だいなり。 ことに​もつてとうていたらく​を​みおよぶ​に、 *じょうそうなきぶんなれば、 人間にんげんの​かなしさ​は​おもふやう​にも​なし。 あはれな​ばや​と​おもは​ば、 やがてな​れ​なんにても​あらば、 などか​いま​まで​このに​すみ​はんべり​なん。

ただ​いそぎ​てもうまれ​たき​は極楽ごくらくじょう、 ねがう​ても​ねがひ​え​ん​もの​は無漏むろ仏体ぶったいなり。 しかれば、 一念いちねんみょうりき安心あんじんぶっよりぎゃくとくせしめ​んうえにおいて​は、 *ひつみょう為期いごまで仏恩ぶっとん報尽ほうじんの​ため​に称名しょうみょうを​つとめ​ん​に​いたり​ては、 あながちに​なにのそくありて​か、 *せんしょうよりさだまれ​る​ところの死期しごを​いそが​ん​も、 かへりて​おろかに​まどひ​ぬる​か​とも​おもひ0152はんべる​なり。 この​ゆゑにろうしんじょうに​あて​て​かくのごとく​おもへ​り。 たれの​ひとびと​も​このしんちゅうじゅうす​べし。

ことに​もつて、 このかいの​ならひ​はろうしょうじょうにして電光でんこうちょうの​あだなるなれば、 いま​もじょうかぜきたら​ん​こと​をば​しら​ぬていにて​すぎゆき​て、 しょうをば​かつて​ねがは​ず、 ただこんじょうをば​いつ​まで​もび​んずる​やう​に​こそ​おもひ​はんべれ。 あさまし​といふ​も​なほ​おろかなり。 いそぎ今日こんにちより弥陀みだ如来にょらいりき本願ほんがんを​たのみ、 一向いっこうりょう寿じゅぶつみょうして、 真実しんじつほうおうじょうを​ねがひ、 称名しょうみょう念仏ねんぶつせしむ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

 とき1165*文明ぶんめいねんがつじゅう七日しちにちにはかにおもづる​の​あひだ、 *たつのこくぜん早々そうそうこれ​をしるし​をはり​ぬ。

*しんしょういんろくじゅうさんさい

  かきおく​も​ふで​に​まかする​ふみ​なれば ことば​の​すゑ​ぞ​をかしかり​ける

(3) 当時世上章

 それ、 *とうじょうていたらく、 いつ​の​ころ​にか*落居らっきょす​べき​とも​おぼえ​はんべら​ざるぜいなり。

しかるあひだ、 諸国しょこく往来おうらいつうに​いたる​まで​も、 たやすから​ざるぶんなれば、 仏法ぶっぽうほうにつけて​も千万せんばん迷惑めいわくの​をりふし​なり。 これ​によりて、 あるいは霊仏れいぶつ0153霊社れいしゃ参詣さんけい諸人しょにんも​なし。 これ​につけて​も、 人間にんげんろうしょうじょうと​きく​とき​は、 いそぎ​いかなるどく善根ぜんごんをもしゅし、 いかなるだいはんをも​ねがふ​べき​こと​なり。

しかるにいま末法まっぽうじょくらんと​は​いひ​ながら、 ここ​に弥陀みだ如来にょらいりき本願ほんがんは、 いませつは​いよいよ不可ふか思議しぎに​さかりなり。 されば​この広大こうだいがんに​すがり​て、 ざいじゅうの​ともがら​において​は、 一念いちねん信心しんじんを​とり​てほっしょうじょうらくじょうせつおうじょうせず​は、 まことに​もつてたからやまに入り​て、 を​むなしく​して​かへら​ん​にたる​もの​か。 よくよく​こころ​を​しづめ​て​これ​をあんず​べし1166

しかれば、 諸仏しょぶつ本願ほんがんを​くはしく​たづぬる​に、 しょう女人にょにんぎゃく悪人あくにんをば​すくひ​たまふ​こと​かなは​ず​と​きこえ​たり。 これ​につけて​も弥陀みだ如来にょらいこそ​ひとりじょうしゅしょうがんを​おこし​て、 あくぎゃくぼんしょう女質にょしつをば、 われ​たすく​べき​といふ大願だいがんをば​おこし​たまひ​けり。 ありがたし​といふ​も​なほ​おろかなり。

これ​によりて、 むかししゃくそん*りょうじゅせんに​ましまし​て、 *いちじょうほっみょうでんか​れ​し​とき、 *だい*じゃぎゃくがいを​おこし、 しゃ*だいをしてあんにょうを​ねがは​しめ​たまひ​し​によりて、 かたじけなく​もりょうぜんほっ*会座えざもっし​ておう降臨ごうりんして、 だいにんの​ため​にじょうきょうを​ひろめ​ましまし​し​によりて、 弥陀みだ本願ほんがんこの​とき​に​あたり​て​さかんなり。

このゆゑに*ほっ念仏ねんぶつどう0154きょうといへる​こと​は、 この​いはれ​なり。 これ​すなはち末代まつだいぎゃく女人にょにんあんにょうおうじょうを​ねがは​しめ​んがため​の方便ほうべんに、 しゃだい調じょうだつ (提婆達多)じゃぎゃくを​つくり​て、 かかるなれども、 思議しぎ本願ほんがんすれ​ば、 かならずあんにょうおうじょうを​とぐる​ものなり​と​しら​せ​たまへ​り​と​しる​べし。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいさいがつじゅう七日しちにちこれ​をしるす。

(41167) 三首詠歌章

 それ、 あきはるり​て、 年月としつきおくる​こと、 昨日きのう今日こんにちぐ。 いつ​の​ま​にか​は年老ねんろうの​つもる​らん​とも​おぼえ​ず​しら​ざり​き。

しかるに​その​うち​には、 さりとも、 あるいは*ちょう風月ふうげつの​あそび​にも​まじはり​つらん。 また歓楽かんらくつう悲喜ひきにも​あひ​はんべり​つらん​なれども、 いまに​それ​とも​おもひ​いだす​こと​とて​は​ひとつ​も​なし。 ただ​いたづらに​あかし、 いたづらに​くらし​て、 おいしらと​なりはて​ぬるの​ありさま​こそ​かなし​けれ。 されども今日こんにちまで​はじょうの​はげしきかぜにも​さそは​れ​ず​して、 *わがありがほ​のていを​つらつらあんずる​に、 ただゆめの​ごとし、 まぼろしの​ごとし。 いま​において​は、 しょうしゅつ一道いちどうならでは、 ねがふ​べき​かた​とて​は​ひとつ​も​なく0155、 また​ふたつ​も​なし。

これ​によりて、 ここ​に*らいあくの​われら​ごとき​のしゅじょうを​たやすく​たすけ​たまふ弥陀みだ如来にょらい本願ほんがんの​まします​と​きけ​ば、 まことに​たのもしく、 ありがたく​も​おもひ​はんべる​なり。 この本願ほんがんを​ただ*一念いちねん無疑むぎしんみょうし​たてまつれ​ば、 わづらひ​も​なく、 *その​ときりんじゅうせばおうじょうじょうす​べし。 もし​その​いのち​のび​なば、 いちの​あひだ​は仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの​ため​に念仏ねんぶつしてひつみょうと​す​べし。 これ​すなはち平生へいぜいごうじょうの​こころ​なる​べし​と、 たしかにちょうもんせしむる​あひだ、 そのけつじょう信心しんじんの​とほり、 いまにみみそこ1168退転たいてんせしむる​こと​なし。 ありがたし​といふ​も​なほ​おろかなる​ものなり。

されば弥陀みだ如来にょらいりき本願ほんがんの​たふとさ​ありがたさ​のあまり、 かくのごとくくちに​うかむ​に​まかせ​て​この​こころ​をえいに​いはく、

  ひとたび ほとけ​を​たのむ​こころ​こそ まこと​の​のり​に​かなふ​みち​なれ

  つみ​ふかく如来にょらいを​たのむに​なれば のり​の​ちから​に西にしへ​こそ​ゆけ

  のりを​きく​みち​に​こころ​の​さだまれ​ば 南無なも弥陀みだぶつと​となへ​こそ​すれ と。

 わがながら​も本願ほんがん一法いっぽうしゅしょうなる​あまり、 かくもうし​はんべり​ぬ。 この三首さんしゅうたの​こころ​は、 はじめ​は、 一念いちねんみょう信心しんじんけつじょうの​すがた​を​よみ​はんべり。 のち0156うたは、 *にゅう正定しょうじょうじゅやく*ひっめつの​こころ​を​よみ​はんべり​ぬ。 つぎ​の​こころ​は、 *きょう金剛こんごう信心しんじんの​うへには、 おん報徳ほうとくの​こころ​を​よみ​はんべり​し​なり。

さればりき信心しんじん発得ほっとくせしむる​うへ​なれば、 せめて​は​かやうに​くちずさみ​ても、 仏恩ぶっとん報尽ほうじんの​つとめ​にも​や​なり​ぬ​べき​とも​おもひ、 また​きく​ひと​も宿しゅくえんあらば、 などや​おなじ​こころ​に​なら​ざらん​と​おもひ​はんべり​し​なり。

しかるにすでに*しちしゅんの​よはひ​に​および、 ことにあんさいとして、 *片腹かたはらいたく​も​かくのごとく*しら​ぬ​えせ法門ぼうもんもうす​こと、 かつはしんしゃくをも​かへりみ​ず、 ただ1169本願ほんがんの​ひとすぢ​の​たふとさ​ばかり​のあまり、 れつの​この*ことのふでに​まかせ​てきしるし​をはり​ぬ。 のち​に​み​んひと、 そしり​を​なさ​ざれ。 これ​まことに*さんぶつじょうえんてん法輪ぼうりんいんとも​なり​はんべり​ぬ​べし。 あひかまへてへんじゅうを​なす​こと​ゆめゆめ​なかれ。

あなかしこ、 あなかしこ。

 とき*文明ぶんめいねんちゅうひのとのとり*とう仲旬ちゅうじゅんの​ころ、 へんにおいてざんに​これ​をしるす​ものなり​と云々うんぬん

 みぎこのしょは、 当所とうしょ*はりのはらへんより*けんざい*ぶっしょう所用しょようありて出行しゅつぎょうの​とき、 路次ろしにて​このしょを​ひろひ​て*当坊とうぼうへ​もちきたれ​り。

*文明ぶんめいねんじゅうがつふつ

(5)0157 中古以来章

 それ、 *ちゅうらいとうに​いたる​まで​も、 とうりゅうかんを​いたす​その人数にんじゅの​なか​において、 さらに宿しゅくぜん有無うむといふ​こと​を​しらず​してかんを​なす​なり。

所詮しょせんこん以後いごにおいて​は、 この​いはれ​をぞんせしめ​て、 たとひ聖教しょうぎょうをも​よみ、 またざん法門ほうもんを​いは​ん​とき​も、 この​こころ​をかくしていちりゅうほうをば讃嘆さんだん、 あるいは​また仏法ぶっぽうちょうもんの​ため​に​とて人数にんじゅおほく​あつまり​たらん​とき​も、 このにんじゅ1170の​なか​において、 もし宿しゅくぜんや​ある​らん​と​おもひ​て、 いちりゅう真実しんじつほう沙汰さたす​べから​ざる​ところ​に、 近代きんだい人々ひとびとかんするていたらく​を​みおよぶ​に、 このかくは​なく、 ただ​いづれのなり​とも​よくかんせば、 などかとうりゅう安心あんじんに​もとづか​ざらん​やう​に​おもひ​はんべり​き。 これ​あやまり​と​しる​べし。 かくのごとき​のだいを​ねんごろにぞんして、 とうりゅうかんをば​いたす​べき​ものなり。

ちゅうこのごろ​に​いたる​まで、 さらに​その​こころ​をて​うつくしくかんするひとなし。 これら​の​おもむき​を​よくよくかくして、 かたのごとく​のかんをば​いたす​べき​ものなり。

そもそも、 今月こんがつじゅう八日はちにちは、 毎年まいねんとして、 だいなく開山かいさんしょうにん (親鸞)報恩ほうおん謝徳しゃとくの​ため​に念仏ねんぶつごんぎょうを​いたさ​ん​とする人数にんじゅこれ​おほし。 まことに​もつてながれん​で本源ほんげんを​たづぬるどう0158ぞんせ​る​がゆゑなり。 ひとへに​これしょうにんかんの​あまねき​が​いたす​ところ​なり。

しかるあひだ、 近年きんねんことのほかとうりゅう讃嘆さんだんせざる*ひが法門ぼうもんを​たて​て、 諸人しょにんを​まどは​しめ​て、 あるいは​その​ところ​のとうりょうしゅにも​とがめ​られ、 わが悪見あくけんじゅうして、 とうりゅう真実しんじつなる安心あんじんの​かた​も​ただしから​ざる​やう​に​みおよべ​り。 あさましきだいに​あらず​や。 かなしむ​べし、 おそる​べし。

所詮しょせん今月こんがつ報恩ほうおんこうしちちゅうの​うち​において、 各々かくかくがい1171こころを​おこし​て、 わがの​あやまれ​る​ところ​のしんちゅう心底しんていに​のこさ​ず​して、 *とう*影前えいぜんにおいて、 しんさんして、 諸人しょにんみみに​これ​を​きか​しむる​やう​に毎日まいにちまいに​かたる​べし。

これ​すなはち 「謗法ほうぼう闡提せんだいしん皆往かいおう(*法事讃・上)おんしゃくにも​あひ​かなひ、 また 「しんきょうにんしん(*礼讃)にも相応そうおうす​べき​ものなり。 しからば​まことに​こころ​あら​ん人々ひとびとは、 このしんさんを​きき​ても、 げにも​と​おもひ​て、 おなじくごろ​の悪心あくしんを​ひるがへし​て善心ぜんしんに​なりかへるひとも​ある​べし。 これ​ぞ​まことに今月こんがつしょうにんぎょ本懐ほんがいに​あひ​かなふ​べし。 これ​すなはち報恩ほうおん謝徳しゃとくこんたる​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいじゅうねんじゅう一月いちがつじゅう一日いちにち

(6)0159 三ヶ条章

 そもそも、 当月とうがつ報恩ほうおんこうは、 開山かいさんしょうにん (親鸞)*せんしょうとして、 例年れいねんきゅうと​す。

これ​によりて、 遠国えんごく近国きんごくもんの​たぐひ、 このせつに​あひ​あたり​て、 参詣さんけいの​こころざし​を​はこび、 報謝ほうしゃの​まこと​を​いたさ​ん​とほっす。 しかるあひだ、 毎年まいねん*しちちゅうの​あひだ​において、 念仏ねんぶつごんぎょうを​こらし​はげます。 これ​すなはち真実しんじつ信心しんじんぎょうじゃはんじょうせしむる​ゆゑ​なり。 まことに​もつて*念仏ねんぶつとくけんせつ1172到来とうらいと​いひ​つ​べき​ものか。

この​ゆゑに、 いちしちにちの​あひだ​において参詣さんけいを​いたす​ともがら​の​なか​において、 まことにひとまね​ばかり​に影前えいぜんしゅっを​いたす​やから​これ​ある​べし。 かの*仁体じんたいにおいて、 はやく影前えいぜんに​ひざまづい​てしんさんの​こころ​を​おこし​て、 本願ほんがんしょうにゅうして、 一念いちねんぽっ真実しんじつ信心しんじん*まうく​べき​ものなり。

それ、 南無なも弥陀みだぶつといふは、 すなはち​これ念仏ねんぶつぎょうじゃ*安心あんじんたいなり​と​おもふ​べし。 その​ゆゑは、 「南無なも」 といふはみょうなり。 「そくみょう」 といふは、 われら​ごとき​の*ぜん造悪ぞうあくぼんの​うへ​において、 弥陀みだぶつを​たのみ​たてまつる​こころ​なり​と​しる​べし。 その​たのむ​こころ​といふは、 すなはち​これ、 弥陀みだぶつの、 しゅじょう八万はちまんせんだいこうみょうの​なか​に摂取せっしゅして、 往還おうげんしゅこうしゅじょうに​あたへ​まします​こころ​なり。

されば信心しんじんといふ​もべつの​こころ​に​あらず0160。 みな南無なも弥陀みだぶつの​うち​に​こもり​たる​もの​なり。

ちかごろ​は、 ひとべつの​こと​の​やう​に​おもへ​り。 これ​について諸国しょこくにおいて、 とうりゅう門人もんにんの​なか​に、 おほく祖師そし (親鸞)さだめ​おか​るる​ところの聖教しょうぎょう所判しょはんに​なき​くせ法門ぼうもん沙汰さたしてほうを​みだすじょう、 もつてのほか​のだいなり所詮しょせんかくのごとき​の​やから​において​は、 あひかまへて、 このいちしちにち報恩ほうおんこうの​うち​にありて、 その​あやまり​を1173ひるがへし​てしょうにもとづく​べき​ものなり。

 一 *仏法ぶっぽうとうりょうし、 かたのごとくぼうぶんを​もち​たらんひとしんじょうにおいて、 いささか​もそうじょうも​せざる​しら​ぬ​えせ法門ぼうもんをもつてひとに​かたり、 われものしり​と​おもは​れ​ん​ため​に​とて、 近代きんだい在々ざいざい所々しょしょはんじょうす​と云々うんぬん。 これごんどうだんだいなり。

 一 *きょう本願ほんがんえい参詣さんけいもうなり​と​いひ​て、 いかなるひとの​なか​とも​いは​ず、 大道だいどうおおにても、 また*せきわたりせんちゅうにても、 はばからず*仏法ぶっぽうがたの​こと​をひとけんに​かたる​こと、 おほきなる​あやまり​なり。

 一 ひとありて​いはく、 「わがは​いかなる仏法ぶっぽうしんずるひとぞ」 と​あひ​たづぬる​こと​あり​とも、 しかと 「とうりゅう念仏ねんぶつしゃなり」 とこたふ​べから​ず。 ただ 「なにしゅうとも​なき、 念仏ねんぶつばかり​は​たふとき​こと​とぞんじ​たる​ばかり​なる​もの​なり」 とこたふ​べし。 これ​すなはちとうりゅう0161しょうにん (親鸞) の​をしへ​まします​ところの、 仏法ぶっぽうしゃと​みえ​ざるひとの​すがた​なる​べし。

されば​これら​の​おもむき​を​よくよくぞんして、 そうに​その​いろ​を​みせ​ざる​をもつて、 とうりゅうしょうと​おもふ​べき​ものなり。 これ​について、 このりょう三年さんねんの​あひだ報恩ほうおんこうちゅうにおいて、 *しゅちゅうとしてさだめおく1174ところのひとつ​としてへんある​べから​ず。 このしゅちゅうにおいて万一まんいちそうせしむるさいこれ​あらば、 ながき開山かいさんしょうにん (親鸞)もんたる​べから​ざる​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいじゅうねんじゅう一月いちがつ にち

(7) 六ヶ条章

 そもそも、 今月こんがつ報恩ほうおんこうの​こと、 例年れいねんきゅうとして七日しちにちごんぎょうを​いたす​ところ、 いまに​その退転たいてんなし。

しかるあひだ、 このせつに​あひ​あたり​て、 諸国しょこく*門葉もんようの​たぐひ、 報恩ほうおん謝徳しゃとくこんを​はこび、 称名しょうみょう念仏ねんぶつ*ほんぎょうつくす。 まことに​これ専修せんじゅ専念せんねんけつじょうおうじょうとくなり。 この​ゆゑに諸国しょこく参詣さんけいの​ともがら​において、 いち安心あんじんじゅうするひとまれなる​べし​と​みえ​たり。 そのゆゑは真実しんじつ仏法ぶっぽうに​こころざし​は​なく​して、 ただひとまね​ばかり、 あるいは*じんまで​のぜいならば、 まことに​もつて​なげかしきだいなり。

その0162いはれ​いかん​といふ​に、 安心あんじんの​ともがら​はしんだいをも沙汰さたせざる​とき​は、 しんの​いたり​とも​おぼえ​はんべれ。 されば​はるばる​とばんえんを​しのぎ、 また莫大ばくだいろうを​いたし​てじょうらくせしむる​ところ、 さらに​もつて​その所詮しょせんなし。 かなしむ​べし、 かなしむ​べし。 ただし*宿しゅく1175ぜんならばようと​いひ​つ​べき​ものか。

 一 近年きんねん仏法ぶっぽうはんじょうとも​みえ​たれ​ども、 まことに​もつてぼうぶんひとに​かぎり​て、 信心しんじんの​すがた一向いっこう*沙汰さたなり​と​きこえ​たり。 もつてのほか​なげかしきだいなり。

 一 *すゑずゑ​のもんの​たぐひ​は、 りき信心しんじんの​とほりちょうもんの​ともがら​これ​おほき​ところ​に、 ぼうより​これ​を*ふくりゅうせしむる​よし​きこえ​はんべり。 ごんどうだんだいなり。

 一 田舎いなかより参詣さんけい面々めんめんしんじょうにおいて​こころう​べきむねあり。 そのゆゑは、 にんの​なか​とも​いは​ず、 また大道だいどう路次ろしなんど​にても、 *せきせんちゅうをも​はばから​ず、 仏法ぶっぽうがた讃嘆さんだんを​する​こと*勿体もったいなきだいなり。 かたくちょうす​べき​なり。

 一 とうりゅう念仏ねんぶつしゃを、 あるいはひとありて、 「なにしゅうぞ」 と​あひ​たづぬる​こと​たとひ​あり​とも、 しかと 「とうしゅう念仏ねんぶつしゃ」 とこたふ​べから​ず。 ただ 「なにしゅうとも​なき念仏ねんぶつしゃなり」 とこたふ​べし。 これ​すなはち​わがしょうにん (親鸞)おおせおか​るる​ところの、 *仏法ぶっぽうしゃしょくみえ​ぬ0163ふるまひ​なる​べし。 この​おもむき​を​よくよくぞんして、 そうに​その​いろ​を​はたらく​べから​ず。 まことに​これとうりゅう念仏ねんぶつしゃの​ふるまひ1176しょうたる​べき​ものなり。

 一 仏法ぶっぽうらいを、 しょう・かき​ごし​にちょうもんして、 内心ないしんに​さぞ​と​たとひりょうす​といふ​とも、 かさねてひとにその​おもむき​を​よくよく​あひ​たづね​て、 信心しんじんの​かた​をばじょうす​べし。 その​まま​わがこころに​まかせ​ば、 かならず​かならず​あやまり​なる​べし。 ちかごろ​これら​のさいとうさかんなり​と云々うんぬん

 一 信心しんじんを​え​たる​とほり​をば、 いくたび​も​いくたび​もひとに​たづね​てりき安心あんじんをばじょうす​べし。 *一往いちおうちょうもんして​は​かならず​あやまり​ある​べき​なり。

 みぎこのろっじょうの​おもむき​よくよくぞんす​べき​ものなり。 近年きんねん仏法ぶっぽうひとみなちょうもんす​と​は​いへども、 一往いちおうを​きき​て、 真実しんじつ信心しんじんけつじょうひとこれ​なき​あひだ、 安心あんじん*うとうとしき​がゆゑなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいじゅう六年ろくねんじゅう一月いちがつじゅう一日いちにち

(8) 八ヶ条章

 そもそも、 今月こんがつじゅう八日はちにち報恩ほうおんこう*しゃくねんより​の*れいたり。 これによりて、 近国きんごく遠国えんごく門葉もんよう0164報恩ほうおん謝徳しゃとくこんを​はこぶ​ところ​なり。 *ろくちゅう称名しょうみょう念仏ねんぶつこん退転たいてんなし。

これ​すなはち開山かいさんしょうにん (親鸞)ほうりゅう*一天いってんかいかんるい1177なき​が​いたす​ところ​なり。 この​ゆゑにしちちゅうせつに​あひ​あたり、 ほうしんこんにおいて​は、 おうじょうじょう信心しんじんぎゃくとくせしむ​べき​ものなり。 これ​しかしながら、 今月こんがつしょうにん*しょう報恩ほうおんたる​べし。 しからざら​ん​ともがら​において​は、 報恩ほうおん謝徳しゃとくの​こころざし​なき​にたる​ものか。

これ​によりて、 このごろしんしゅう念仏ねんぶつしゃごうする​なか​に、 まことに心底しんていよりとうりゅう安心あんじんけつじょうなき​あひだ、 あるいはみょうもん、 あるいは​ひとなみ​に報謝ほうしゃを​いたす​よし​のぜいこれ​あり。 もつてのほか​しかるべから​ざるだいなり。

そのゆゑは、 すでにばんえんを​しのぎ莫大ばくだい辛労しんろうを​いたし​てじょうらくの​ともがら、 いたづらにみょうもんひとなみ​のしんちゅうじゅうする​ことくちしきだいに​あらず​や。 すこぶる*そく所存しょぞんと​いひ​つ​べし。 ただし宿しゅくぜんに​いたり​ては​ちから​およば​ず。 しかり​と​いへども、 *無二むにさんを​いたし、 一心いっしんしょうねんに​おもむか​ば、 いかでかしょうにんほんたっせ​ざらん​ものを​や。

 一 諸国しょこく参詣さんけいの​ともがらの​なか​において、 在所ざいしょを​きらは​ず、 いかなる大道だいどうおお、 またせきわたりせんちゅうにても、 さらに​その​はばかり​なく仏法ぶっぽうがただいけんひとに​かたる0165こと、 しかるべから​ざること

 一 在々ざいざい所々しょしょにおいて、 とうりゅうに​さらに沙汰さたせざる*めづらしき法門ほうもん讃嘆さんだんし、 1178おなじくしゅうに​なき*おもしろきみょうもくなんど​を​つかふひとこれ​おほし。 もつてのほか​の*僻案へきあんなり。 こん以後いご、 かたくちょうす​べき​ものなり。

 一 このしちにち報恩ほうおんこうちゅうにおいて​は、 一人いちにんも​のこら​ず信心しんじんじょうの​ともがら​は、 しんちゅうを​はばから​ずがいさんこころを​おこし​て、 真実しんじつ信心しんじんぎゃくとくす​べき​ものなり。

 一 もとより​わが安心あんじんの​おもむき​いまだけつじょうせしむるぶんも​なき​あひだ、 そのしんを​いたす​べき​ところ​に、 しんちゅうを​つつみ​て​ありのまま​に​かたら​ざる​たぐひ​ある​べし。 これ​を​せめ​あひ​たづぬる​ところ​に、 ありのまま​にしんちゅうを​かたら​ず​して、 *とうを​いひぬけ​ん​と​するひとのみ​なり。 勿体もったいなきだいなり。 しんちゅうを​のこさ​ず​かたり​て、 真実しんじつ信心しんじんに​もとづく​べき​ものなり。

 一 近年きんねん仏法ぶっぽうとうりょうたるぼうたち、 わが信心しんじんは​きはめてそくにて、 *けっもん同朋どうぼう信心しんじんけつじょうする​あひだ、 ぼう信心しんじんそくの​よし​をもうせ​ば、 もつてのほかふくりゅうせしむるじょうごんどうだんだいなり。 以後いごにおいて​は、 ていともにいち安心あんじんじゅうす​べきこと

 0166一 ぼうぶんひと、 ちかごろ​は​ことのほか*じゅうはいの​よし、 その​きこえ​あり。 ごんどうだんしかるべから​ざるだいなり。 あながちにさけひとちょうせよ​といふ​には1179あらず。 仏法ぶっぽうに​つけもんに​つけ、 じゅうはいなれば、 かならず​ややもすればすいきょうのみしゅつらいせしむる​あひだ、 しかるべから​ず。 *さ​あら​ん​とき​は、 ぼうぶんちょうせ​られ​ても、 まことに*こうりゅう仏法ぶっぽうとも​いひ​つ​べき​か。 しからずは、 *一盞いっさんにても​しかるべき​か。 これ​も仏法ぶっぽうに​こころざし​の​うすき​に​より​て​の​こと​なれば、 これ​を​とどま​ら​ざる​もどうか。 ふかくあんある​べき​ものなり。

 一 信心しんじんけつじょうの​ひと​も、 *細々さいさいどうぎょう会合かいごうの​とき​は、 あひ​たがひに*信心しんじん沙汰さたあらば、 これ​すなはちしんしゅうはんじょう根元こんげんなり。

 一 とうりゅう信心しんじんけつじょうす​といふたいは、 すなはち南無なも弥陀みだぶつろくの​すがた​と​こころう​べき​なり。 すでに善導ぜんどうしゃくし​て​いはく、 「ごん南無なもしゃ そくみょう やく発願ほつがんこう ごん弥陀みだぶつしゃ そくぎょう(*玄義分) といへり。 「南無なも」 としゅじょう弥陀みだみょうすれば、 弥陀みだぶつの​そのしゅじょうを​よく​しろしめし​て、 万善まんぜんまんぎょう恒沙ごうじゃどくを​さづけ​たまふ​なり。 この​こころ​すなはち 「弥陀みだぶつそくぎょう」 といふ​こころ​なり。 この​ゆゑに、 南無なもみょうする弥陀みだぶつの​たすけ​ましますほうと​が一体いったいなる​ところ​を​さし​て、 0167ほう一体いったい南無なも弥陀みだぶつと​はもうす​なり。

かるがゆゑに、 弥陀みだぶつの、 むかし法蔵ほうぞう比丘びくたり​し​とき、 「しゅじょうぶつら​ずは1180われ​もしょうがくら​じ」 とちかひ​まします​とき、 そのしょうがくすでにじょうじ​たまひ​し​すがた​こそ、 いま​の南無なも弥陀みだぶつなり​と​こころう​べし。 これ​すなはち​われら​がおうじょうさだまり​たるしょうなり。 さればりき信心しんじんぎゃくとくす​といふ​も、 ただ​このろくの​こころ​なり​と*落居らっきょす​べき​ものなり。

 そもそも、 このはちじょうの​おもむき​かくのごとし。 しかるあひだ、 *とうこんりゅうは​すでにねんに​およべ​り。 毎年まいねん報恩ほうおんこうちゅうにおいて、 面々めんめん各々かくかく随分ずいぶん信心しんじんけつじょうの​よし*りょうのうあり​と​いへども、 昨日きのう今日きょうまで​も、 その信心しんじんの​おもむきどうなる​あひだ、 所詮しょせんなき​ものか。 しかり​と​いへども、 当年とうねん報恩ほうおんこうちゅうに​かぎり​て、 信心しんじんの​ともがら、 今月こんがつ報恩ほうおんこうの​うち​に早速さっそく真実しんじつ信心しんじんぎゃくとくなく​は、 年々ねんねんといふ​とも*同篇どうへんたる​べき​やう​に​みえ​たり。

しかるあひだろう年齢ねんれいすでに*しちしゅんに​あまり​て、 来年らいねん報恩ほうおんこうをもし​がたきなる​あひだ、 各々かくかく真実しんじつけつじょうしんを​え​しめ​んひとあらば、 ひとつはしょうにん今月こんがつ報謝ほうしゃの​ため、 ひとつ​はろうが​この七八しちはっねんの​あひだ​の本懐ほんがいとも​おもひ​はんべる​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*文明ぶんめいじゅう七年しちねんじゅう一月いちがつじゅう三日さんにち

(91181) 疫0168癘章

 とうこのごろ、 ことのほか​に*疫癘えきれいとて​ひときょす。 これ​さらに疫癘えきれいによりて​はじめてする​には​あらず。 うまれ​はじめ​し​より​してさだまれる*じょうごうなり。 さのみ​ふかく​おどろく​まじき​こと​なり。

しかれども、 いまぶんに​あたり​てきょする​とき​は、 *さも​あり​ぬ​べき​やう​に​みな​ひと​おもへ​り。 これ​まことにどうぞかし。

この​ゆゑに弥陀みだ如来にょらいおおせ​られ​ける​やう​は、 「末代まつだいぼん罪業ざいごうの​われら​たらん​もの、 つみは​いかほど​ふかく​とも、 われ​を一心いっしんに​たのま​んしゅじょうをば、 かならず​すくふ​べし」 とおおせ​られ​たり。 かかる​とき​は​いよいよ弥陀みだぶつを​ふかく​たのみ​まゐらせ​て、 極楽ごくらくおうじょうす​べし​と​おもひとり​て、 一向いっこう一心いっしん弥陀みだを​たふとき​こと​とうたがふ​こころつゆちり​ほど​も​もつ​まじき​こと​なり。

かくのごとく​こころえ​の​うへには、 ね​ても​さめ​ても南無なも弥陀みだぶつ南無なも弥陀みだぶつもうす​は、 かやうに​やすく​たすけ​ましますおんありがたさおんうれしさ​をもう御礼おんれいの​こころ​なり。 これ​を​すなはち仏恩ぶっとん報謝ほうしゃ念仏ねんぶつと​はもうす​なり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*延徳えんとくねん六月ろくがつ にち

(100169) 今の世章

 ^いまに​あら​ん女人にょにんは、 みなみな​こころ​をひとつ​にして弥陀みだ如来にょらいを​ふかく​たのみ1182たてまつる​べし。 その​ほか​には、 いづれのほうしんず​といふ​とも、 しょうの​たすかる​といふ​こと​ゆめゆめ​ある​べから​ず​と​おもふ​べし。

^されば弥陀みだをば​なにとやうに​たのみ、 またしょうをば​なにと​ねがふ​べき​ぞ​といふ​に、 なにの​わづらひ​も​なく、 ただ一心いっしん弥陀みだを​たのみ、 しょうたすけ​たまへ​と​ふかく​たのみ​まうさ​んひとをば、 かならずおんたすけ​あら​ん​こと​は、 さらさら​つゆ​ほど​もうたがいある​べから​ざる​ものなり。

^この​うへには、 はや、 しかとおんたすけ​ある​べき​こと​の​ありがたさ​よ​と​おもひ​て、 仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの​ため​に念仏ねんぶつもうす​べき​ばかり​なり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*はちじゅう三歳さんさい 御判

(11) 機法一体章

 ^南無なも弥陀みだぶつもうすは、 いかなるこころにてそうろふ​や。 しかれば、 なにと弥陀みだを​たのみ​てほうおうじょうをば​とぐ​べくそうろふ​やらん。

^これ​をこころべき​やう​は、 まづ南無なも弥陀みだぶつろくの​すがた​をよくよくこころわけ​て、 弥陀みだをば​たのむ​べし。

^そもそも、 南無なも弥陀みだぶつたいは、 すなはち0170われらしゅじょうしょうたすけ​たまへ​と​たのみ​まうすこころなり。 すなはち​たのむしゅじょう弥陀みだ如来にょらいの​よく​しろしめし​て、 すでに*じょうだいどくを​あたへ​まします​なり。 これ​をしゅじょうこうし​たまへ​る​といへる1183は​このこころなり。

^されば弥陀みだを​たのむ弥陀みだぶつの​たすけ​たまふほうなる​がゆゑに、 これ​をほう一体いったい南無なも弥陀みだぶつといへる​は​この​こころ​なり。 これ​すなはち​われら​がおうじょうさだまり​たるりき信心しんじんなり​と​はこころべき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*明応めいおう六年ろくねんがつじゅうにちこれ​をき​をはり​ぬ。       はちじゅう三歳さんさい

(12) 毎月両度章

 ^そもそも、 *毎月まいがつりょう寄合よりあいらいは​なにの​ため​ぞ​といふ​に、 さらにの​こと​に​あらず。 しんおうじょう極楽ごくらく信心しんじんぎゃくとくの​ため​なる​がゆゑなり。

^しかれば、 *おうよりいまに​いたる​まで​も、 毎月まいがつ寄合よりあいといふ​こと​は、 いづく​にも​これ​あり​と​いへども、 さらに*信心しんじん沙汰さたとて​は、 かつて​もつて​これ​なし。 ことに近年きんねんは、 いづく​にも寄合よりあいの​とき​は、 ただ*しゅはんちゃなんど​ばかり​にて​みなみな退散たいさんせ​り。 これ​は仏法ぶっぽうほんには​しかるべから​ざるだいなり。

^いかにもしん面々めんめんは、 *一段いちだんしんをも​たて​て、 信心しんじん有無うむ0171沙汰さたす​べき​ところ​に、 なにの所詮しょせんも​なく退散たいさんせしむるじょう、 しかるべから​ず​おぼえ​はんべり。 よくよくあんを​めぐらす​べき​こと​なり。

^所詮しょせんこん以後いごにおいて​は、 しん面々めんめんは​あひ​たがひに信心しんじんさん1184だんある​べき​こと肝要かんようなり。

 ^それ、 とうりゅう安心あんじんの​おもむき​といふは、 あながちに​わがざいしょうの​ふかき​に​よら​ず、 ただ​もろもろ​のぞうぎょうの​こころ​を​やめ​て、 一心いっしん弥陀みだ如来にょらいみょうして、 こんいちだいしょうたすけ​たまへ​と​ふかく​たのま​んしゅじょうをば、 ことごとく​たすけ​たまふ​べき​こと、 さらにうたがいある​べから​ず。 かくのごとく​よく​こころえ​たるひとは、 まことにひゃくそく百生ひゃくしょうなる​べき​なり。

^この​うへには、 毎月まいがつ寄合よりあいを​いたし​ても、 報恩ほうおん謝徳しゃとくの​ため​と​こころえ​なば、 これ​こそ真実しんじつ信心しんじん*そくせしめ​たるぎょうじゃとも​なづく​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*明応めいおう七年しちねんがつじゅうにちこれ​をく。

毎月まいがつりょうこうしゅちゅうへ はちじゅうさい

(130172) 孟夏仲旬章

 それ、 あきはるり、 すでに当年とうねん明応めいおう第七だいしち*もう仲旬ちゅうじゅんごろ​に​なり​ぬれ​ば、 年齢ねんれいつもり​てはちじゅうさいぞかし。 しかるに当年とうねんに​かぎり​て、 ことのほかびょうに​をかさるる​あひだ、 もく手足しゅそく身体しんたいこころやすから​ざる​あひだ、 これ​しかしながら*ごうびょうの​いたり​なり。 また​はおうじょう極楽ごくらく*先相せんそうなり​とかくせしむる​ところ1185なり。

これ​によりて、 法然ほうねんしょうにんおんことば​に​いはく、 「*じょうを​ねがふぎょうにんは、 びょうげんて​ひとへに​これ​を​たのしむ」 と​こそおおせ​られ​たり。 しかれども、 あながちにびょうげんを​よろこぶ​こころ、 さらに​もつて​おこら​ず。 あさましきなり。 はづ​べし、 かなしむ​べき​ものか。

さりながら安心あんじんいち一念いちねんぽっ平生へいぜいごうじょうしゅうにおいて​は、 いまいちじょうの​あひだ仏恩ぶっとん報尽ほうじん称名しょうみょう行住ぎょうじゅう坐臥ざがに​わすれ​ざる​こと間断けんだんなし。

これ​について、 ここ​にろう一身いっしんじゅっかいこれ​あり。 その​いはれ​は、 われらきょじゅう在所ざいしょ在所ざいしょもんの​ともがら​において​は、 おほよそしんちゅうを​みおよぶ​に、 *とりつめ​て信心しんじんけつじょうの​すがた​これ​なし​と​おもひ​はんべり。 おほきに​なげき​おもふ​ところ​なり。

そのゆゑは、 ろうすでに*はちしゅんよわいすぐる​までぞんめいせしむる​しるし​には、 信心しんじんけつじょうぎょうじゃはんじょうありて​こそ、 いのち​ながき​しるし​とも​おもひ​はんべる​べき​に、 0173さらに​しかしかと​もけつじょうせしむる​すがた​これ​なし​と​みおよべ​り。 その​いはれ​を​いかん​といふ​に、 そもそも人間にんげんかいろうしょうじょうの​こと​を​おもふ​につけて​も、 いかなるやまいを​うけ​て​かせん​や。

かかるのなか​のぜいなれば、 いかにも一日いちにち*へんも​いそぎ​て信心しんじんけつじょうして、 こんおうじょう極楽ごくらくいちじょうして、 その​のち人間にんげんの​ありさま​に​まかせ​て、 すごす​べき​ことかんよう1186なり​と​みなみな​こころう​べし。

この​おもむき​をしんちゅうに​おもひいれ​て、 一念いちねん弥陀みだを​たのむ​こころ​を​ふかく​おこす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

*明応めいおう七年しちねん*しょ*仲旬ちゅうじゅんだい一日いちにち

はちじゅうさい*老衲ろうのうこれ​をく。

  弥陀みだを​きき​うる​こと​の​ある​ならば 南無なも弥陀みだぶつと​たのめ​みな​ひと

(14) 一流安心章

 ^いちりゅう安心あんじんたいといふこと

 ^南無なも弥陀みだぶつろくの​すがた​なり​と​しる​べし。

^このろく善導ぜんどうだいしゃくし​て​いはく、 「ごん南無なもしゃ そくみょう やく発願ほつがんこう ごん弥陀みだぶつしゃ そくぎょう  必得ひっとくおうじょう(玄義分) 0174といへり。

^まづ 「南無なも」 といふ二字にじは、 すなはちみょうといふ​こころ​なり。 「みょう」 といふは、 しゅじょう弥陀みだぶつしょうたすけ​たまへ​と​たのみ​たてまつる​こころ​なり。

また 「発願ほつがんこう」 といふは、 たのむ​ところのしゅじょう摂取せっしゅして​すくひ​たまふ​こころ​なり。 これ​すなはち*やがて 「弥陀みだぶつ」 の四字しじの​こころ​なり。

^されば​われら​ごとき​の*愚痴ぐち闇鈍あんどんしゅじょうは、 なにと​こころ​を​もち、 また弥陀みだをば​なにと​たのむ​べき​ぞ​といふ​に、 もろもろ​のぞう1187ぎょうを​すて​て一向いっこう一心いっしんしょうたすけ​たまへ​と弥陀みだを​たのめ​ば、 けつじょう極楽ごくらくおうじょうす​べき​こと、 さらに​そのうたがいある​べから​ず。

^この​ゆゑに南無なも二字にじは、 しゅじょう弥陀みだを​たのむの​かた​なり。 また弥陀みだぶつ四字しじは、 たのむしゅじょうを​たすけ​たまふ​かた​のほうなる​がゆゑに、 これ​すなはちほう一体いったい南無なも弥陀みだぶつもうす​こころ​なり。

^このどうある​がゆゑに、 われら一切いっさいしゅじょうおうじょうたい南無なも弥陀みだぶつと​きこえ​たり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*明応めいおう七年しちねんがつ にち

(15) 大坂建立章

 ^そもそも、 当国とうごくせっしゅう*ひがし成郡なりのこおり生玉いくたましょうない大坂おおざかといふ在所ざいしょは、 おうより​いかなる約束やくそく0175ありける​にや、 さんぬる*明応めいおうだいあきじゅんの​ころ​より、 *かりそめ​ながら​この在所ざいしょを​みそめ​し​より、 すでに​かたのごとく*いち坊舎ぼうしゃこんりゅうせしめ、 当年とうねんは​はや​すでに三年さんねん星霜せいそうを​へ​たり​き。 これ​すなはち*おうじゃく宿しゅくえんあさから​ざる因縁いんねんなり​と​おぼえ​はんべり​ぬ。

^それ​について、 この在所ざいしょきょじゅうせしむる根元こんげんは、 あながちにいっしょうがいを​こころやすくすごし、 えい栄耀えいようを​このみ、 またちょう風月ふうげつにも​こころ​を​よせ​ず、 *あはれじょうだいのために​は信心しんじんけつじょうぎょうじゃ1188はんじょうせしめ、 念仏ねんぶつをももうさ​ん​ともがら​もしゅつらいせしむる​やう​にも​あれ​かし​と、 おもふ*一念いちねんの​こころざし​を​はこぶ​ばかり​なり。 また​いささか​もけんひとなんど​もへんじゅうの​やから​も​あり、 *むつかしき題目だいもくなんど​もしゅつらいあら​ん​とき​は、 すみやかに​この在所ざいしょにおいて*しゅうしんの​こころ​を​やめ​て、 退たいしゅつす​べき​ものなり。

^これ​によりて、 いよいよせん道俗どうぞくを​えらば​ず、 金剛こんごうけん信心しんじんけつじょうせしめ​ん​こと、 まことに弥陀みだ如来にょらい本願ほんがんに​あひ​かなひ、 べっして​はしょうにん (親鸞)ほん*たり​ぬ​べき​ものか。

^それ​について、 ろうすでに当年とうねんはちじゅうさいまで存命ぞんめいせしむるじょう思議しぎなり。 まことにとうりゅうほうにも*あひ​かなふ​か​の​あひだ、 本望ほんもうの​いたり​これ​に​すぐ​べから​ざる​ものか。

^しかれば、 ろう当年とうねんなつごろ​より*れいせしめて、 いま​において*本復ほんぷくの​すがた​これ​なし。 つひに​は当年とうねんかんちゅうには0176かならずおうじょう本懐ほんがいを​とぐ​べきじょういちじょうと​おもひ​はんべり。

^あはれ、 あはれ、 存命ぞんめいの​うち​に​みなみな信心しんじんけつじょうあれ​かし​と、 *ちょうせきおもひ​はんべり。 まことに宿しゅくぜんまかせ​と​は​いひ​ながら、 じゅっかいの​こころ​しばらく​も​やむ​こと​なし。

^また​は​この在所ざいしょ三年さんねんきょじゅうを​ふる​その甲斐かいとも​おもふ​べし。 あひかまへて​あひかまへて、 このいちしちにち報恩ほうおんこうの​うち​において、 信心しんじんけつじょうありて、 われ​ひと一同いちどうおうじょう1189極楽ごくらくほんを​とげ​たまふ​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

 *明応めいおう七年しちねんじゅう一月いちがつじゅう一日いちにちより​はじめ​て、 これ​を​よみ​て人々ひとびとしんを​とら​す​べき​ものなり。

しゃくしょうにょ(花押)

 

 五 帖

(1)0177 末代無智章

 ^末代まつだい無智むちざいじゅう男女なんにょたらん​ともがら​は、 こころ​を​ひとつ​にして弥陀みだぶつを​ふかく​たのみ​まゐらせ​て、 さらにの​かた​へ​こころ​を​ふら​ず、 一心いっしん一向いっこうぶつたすけ​たまへ​ともうさんしゅじょうをば、 たとひ罪業ざいごうじんじゅうなり​とも、 かならず弥陀みだ如来にょらいは​すくひ​まします​べし。

^これ​すなはちだいじゅうはち念仏ねんぶつおうじょう誓願せいがんの​こころ​なり。

^かくのごとくけつじょうして​の​うへには、 ね​ても​さめ​ても​いのち​の​あら​ん​かぎり​は、 称名しょうみょう念仏ねんぶつす​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(21190) 八万法蔵章

 ^それ、 *八万はちまん法蔵ほうぞうを​しる​といふ​とも、 *後世ごせを​しら​ざるひとしゃと​す。 たとひ*一文いちもん不知ふち*あまにゅうどうなり​といふ​とも後世ごせを​しる​をしゃと​す​といへり。

^しかれば、 とうりゅうの​こころ​は、 あながちに​もろもろ​の聖教しょうぎょうを​よみ、 もの​を​しり​たり​といふ​とも、 一念いちねん信心しんじんの​いはれ​を​しらざるひとは、 いたづらごと​なり​と​しる​べし。

^さればしょうにん (親鸞)おんことば​にも、 「一切いっさい男女なんにょたらんは、 弥陀みだ本願ほんがんしんぜ​ず​して​は、 *ふつと​たすかる​といふ​こと​ある​べから​ず」 とおおせ​られ​たり。

^この​ゆゑに​いかなる女人にょにんなり​といふ0178とも、 もろもろ​のぞうぎょうを​すて​て、 一念いちねん弥陀みだ如来にょらいこんしょうたすけ​たまへ​と​ふかく​たのみ​まうさ​んひとは、 じゅうにんひゃくにんも​みな​ともに弥陀みだほうおうじょうす​べき​こと、 さらさらうたがいある​べから​ざる​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(3) 在家尼女房章

 ^それ、 ざい*あまにょうぼうたらんは、 なにのやうも​なく、 一心いっしん一向いっこう弥陀みだぶつを​ふかく​たのみ​まゐらせ​て、 しょうたすけ​たまへ​ともうさ​ん​ひと​をば、 みなみなおんたすけ​ある​べし​と​おもひとり​て、 さらにうたがいの​こころ​ゆめゆめ​ある​べから​ず。

^これ​すなはち*弥陀みだ如来にょらいおんちかひ​のりき本願ほんがんと​はもうす​なり。

^この​うへには、 なほ1191しょうの​たすから​ん​こと​の​うれしさ​ありがたさ​を​おもは​ば、 ただ南無なも弥陀みだぶつ南無なも弥陀みだぶつと​となふ​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(4) 抑男子女人章

 ^そもそも、 なん女人にょにんつもの​ふかから​ん​ともがら​は、 諸仏しょぶつがんを​たのみ​ても、 いまぶん末代まつだいあくなれば、 諸仏しょぶつおんちから​にて​は、 なかなか​かなは​ざるときなり。 これ​によりて0179弥陀みだ如来にょらいもうし​たてまつる​は、 諸仏しょぶつに​すぐれ​て、 じゅうあくぎゃく罪人ざいにんを​われ​たすけ​ん​といふ大願だいがんを​おこし​ましまし​て、 弥陀みだぶつと​なり​たまへ​り。

^「このぶつを​ふかく​たのみ​て、 一念いちねんおんたすけそうらへ​ともうさ​んしゅじょうを、 われ​たすけ​ずはしょうがくら​じ」 とちかひ​まします弥陀みだなれば、 われら​が極楽ごくらくおうじょうせん​こと​は​さらにうたがいなし。

^この​ゆゑに、 一心いっしん一向いっこう弥陀みだ如来にょらいたすけ​たまへ​と​ふかく心にうたがいなくしんじ​て、 わがつみの​ふかき​こと​をば*うちすて、 ぶつに​まかせ​まゐらせ​て、 一念いちねん信心しんじんさだまら​んともがらは、 じゅうにんじゅうにんながらひゃくにんひゃくにんながら、 みなじょうおうじょうす​べき​こと、 さらにうたがいなし。

^この​うへには、 なほなほ​たふとく​おもひ​たてまつら​ん​こころ​の​おこら​ん​とき​は、 南無なも弥陀みだぶつ南無なも弥陀みだぶつと、 ときをも​いは​ず、 ところ​をも​きらは​ず、 念仏ねんぶつもうす​べし。 これ​を​すなはちぶっ1192とん報謝ほうしゃ念仏ねんぶつもうす​なり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

*南无といふ 二字の​うち​には 弥陀を​たのむ
こゝろ​あり​と​は たれ​も​しる​べし

ほれぼれと 弥陀を​たのま​ん ひと​は​みな
つみ​は​ほとけ​に まかす​べき​なり

つみ​ふかき ひと​を​たすくる のり​なれば
弥陀​に​まされる ほとけ​あら​じ​な

(5) 信心獲得章

 ^信心しんじんぎゃくとくす​といふはだいじゅうはちがんを​こころうる​なり。 このがんを​こころうる​といふは、 南無なも弥陀みだぶつ*すがたを​こころうる​なり。 この​ゆゑに、 南無なもみょうする一念いちねんところ発願ほつがんこうの​こころ​ある​べし。 これ​すなはち弥陀みだ如来にょらいぼんこうし​まします0180こころ​なり。

^これ​を ¬*だいきょう¼ (上) には、 「りょうしょしゅじょうどくじょうじゅ」 とけ​り。 されば無始むしらいつくり​と​つくる悪業あくごう煩悩ぼんのうを、 のこる​ところ​も​なく願力がんりき思議しぎをもつてしょうめつする​いはれ​ある​がゆゑに、 正定しょうじょうじゅ退たいくらいじゅうす​となり。

^これ​によりて、 「煩悩ぼんのうだんぜ​ず​してはんをう」 といへる​は​この​こころ​なり。 この*とうりゅういち所談しょだんなる​ものなり。 りゅうひとたいし​て、 かくのごとく*沙汰さたある​べから​ざる​ところ​なり。 よくよく​こころう​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(6) 一念大利章

 ^一念いちねん弥陀みだを​たのみ​たてまつるぎょうじゃには、 じょうだいどくを​あたへ​たまふ​こころ​を、 ¬さん¼ (*正像末和讃)しょうにん (親鸞) の​いはく、 「じょくあくじょうの せんじゃく本願ほんがんしんずれ​ば 不可ふかしょう不可ふかせつ不可ふか思議しぎの どくぎょうじゃに​みて​り1193」。

^このさんこころは、 「じょくあくしゅじょう」 といふは一切いっさいわれら女人にょにん悪人あくにんの​こと​なり。

^されば​かかる​あさましきいっしょう造悪ぞうあくぼんなれども、 弥陀みだ如来にょらい一心いっしん一向いっこうに​たのみ​まゐらせ​て、 しょうたすけ​たまへ​ともうさ​ん​もの​をば、 かならず​すくひ​まします​べき​こと、 さらにうたがふ​べから​ず。

^かやうに弥陀みだを​たのみ​まうす​もの0181には、 不可ふかしょう不可ふかせつ不可ふか思議しぎだいどくを​あたへ​まします​なり。 「不可ふかしょう不可ふかせつ不可ふか思議しぎどく」 といふ​こと​は、 かず​かぎり​も​なきだいどくの​こと​なり。

^このだいどくを、 一念いちねん弥陀みだを​たのみ​まうす​われらしゅじょうこうし​まします​ゆゑに、 過去かこらい現在げんざいさんごっしょういちつみえ​て、 正定しょうじょうじゅくらい、 またとうしょうがくくらいなんど​にさだまる​ものなり。

^この​こころ​を​また ¬さん¼ (正像末和讃・意) に​いはく、 「弥陀みだ本願ほんがんしんず​べし 本願ほんがんしんずる​ひと​は​みな 摂取せっしゅしゃやくゆゑ とうしょうがくに​いたる​なり」 といへり。

^摂取せっしゅしゃ」 といふは、 これ​も、 一念いちねん弥陀みだを​たのみ​たてまつるしゅじょうこうみょうの​なか​に​をさめとり​て、 しんずる​こころ​だに​も​かはら​ねば、 すて​たまは​ず​といふ​こころ​なり。

^この​ほか​に​いろいろ​の法門ほうもんども​あり​と​いへども、 ただ一念いちねん弥陀みだを​たのむしゅじょうは​みな​ことごとくほうおうじょうす​べき​こと、 ゆめゆめうたがふ​こころ​ある​べから​ざる​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(71194) 五障三従章

 それ、 女人にょにんは、 しょうさんしょうとて、 おとこに​まさり​て​かかる​ふかきつみの​ある​なり。 この​ゆゑに一切いっさい女人にょにんをば、 十方じっぽうに​まします諸仏しょぶつも、 わが​ちから​にて​は女人にょにんをば0182ほとけ​に​なし​たまふ​こと、 さらに​なし。

しかるに弥陀みだ如来にょらいこそ、 女人にょにんをば​われ​ひとり​たすけ​ん​といふ大願だいがん (第三十五願) を​おこし​て​すくひ​たまふ​なり。 この​ほとけ​を​たのま​ずは、 女人にょにんの​ほとけ​にる​といふ​こと​ある​べから​ざる​なり。

これ​によりて、 なにと​こころ​をも​もち、 また​なにと弥陀みだほとけ​を​たのみ​まゐらせ​て​ほとけ​にる​べき​ぞ​なれば、 なにのやうも​いら​ず、 ただ​ふたごころなく一向いっこう弥陀みだぶつばかり​を​たのみ​まゐらせ​て、 しょうたすけ​たまへ​と​おもふ​こころ​ひとつ​にて、 やすく​ほとけ​にる​べき​なり。

この​こころ​の*つゆちり​ほど​もうたがいなけれ​ば、 かならず​かならず極楽ごくらくへ​まゐり​て、 *うつくしき​ほとけ​と​はる​べき​なり。

さて​この​うへ​に​こころう​べき​やう​は、 ときどき念仏ねんぶつもうし​て、 かかる​あさましき​われら​を​やすく​たすけ​まします弥陀みだ如来にょらいおんを、 おんうれしさ​ありがたさ​をほうぜ​ん​ため​に、 念仏ねんぶつもうす​べき​ばかり​なり​と​こころう​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

(81195) 五劫思惟章

 それ、 *こうゆい本願ほんがんといふ​も、 *ちょうさい永劫ようごうしゅぎょうといふ​も、 ただ​われら一切いっさいしゅじょうを​あながちに​たすけ​たまは​んがため​の方便ほうべんに、 弥陀みだ如来にょらい身労しんろうありて、 南無なも弥陀みだ0183ぶつといふ本願ほんがん (第十八願) を​たて​ましまし​て、 「まよひ​のしゅじょう一念いちねん弥陀みだぶつを​たのみ​まゐらせ​て、 もろもろ​のぞうぎょうを​すて​て一向いっこう一心いっしん弥陀みだを​たのま​んしゅじょうを​たすけ​ずんば、 われしょうがくら​じ」 とちかひ​たまひ​て、 南無なも弥陀みだぶつと​なり​まします。 これ​すなはち​われら​が​やすく極楽ごくらくおうじょうす​べき​いはれ​なり​と​しる​べし。

されば南無なも弥陀みだぶつろくの​こころ​は、 一切いっさいしゅじょうほうおうじょうす​べき​すがた​なり。 この​ゆゑに南無なもみょうすれば、 やがて弥陀みだぶつの​われら​を​たすけ​たまへ​る​こころ​なり。 この​ゆゑに 「南無なも」 の二字にじは、 しゅじょう弥陀みだ如来にょらいに​むかひ​たてまつり​てしょうたすけ​たまへ​ともうす​こころ​なる​べし。 かやうに弥陀みだを​たのむひとを​もらさ​ず​すくひ​たまふ​こころ​こそ、 「弥陀みだぶつ」 の四字しじの​こころ​にて​ありけり​と​おもふ​べき​ものなり。

これ​によりて、 いかなるじゅうあくぎゃくしょうさんしょう女人にょにんなり​とも、 もろもろ​のぞうぎょうを​すて​て、 ひたすらしょうたすけ​たまへ​と​たのま​んひとをば、 たとへばじゅうにんも​あれひゃくにんも​あれ、 みな​ことごとく​もらさ​ず​たすけ​たまふ​べし。 この​おもむき​をうたがいなくしんぜ​んともがらは、 しんじつ1196弥陀みだじょうおうじょうす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

(9)0184 一切聖教章

 ^とうりゅう安心あんじんいちといふは、 ただ南無なも弥陀みだぶつろくの​こころ​なり。

^たとへば南無なもみょうすれば、 やがて弥陀みだぶつの​たすけ​たまへ​る​こころ​なる​がゆゑに、 「南無なも」 の二字にじみょうの​こころ​なり。

^みょう」 といふは、 しゅじょうの、 もろもろ​のぞうぎょうを​すて​て、 弥陀みだぶつしょうたすけ​たまへ​と一向いっこうに​たのみ​たてまつる​こころ​なる​べし。

^この​ゆゑにしゅじょうを​もらさ​ず弥陀みだ如来にょらいの​よく​しろしめし​て、 たすけ​まします​こころ​なり。 これ​によりて、 南無なもと​たのむしゅじょう弥陀みだぶつの​たすけ​ましますどうなる​がゆゑに、 南無なも弥陀みだぶつろくの​すがた​は、 すなはち​われら一切いっさいしゅじょうびょうどうに​たすかり​つる​すがた​なり​と​しら​るる​なり。

^さればりき信心しんじんを​うる​といふ​も、 これ​しかしながら南無なも弥陀みだぶつろくの​こころ​なり。 この​ゆゑに一切いっさい聖教しょうぎょうといふ​も、 ただ南無なも弥陀みだぶつろくしんぜ​しめ​んがため​なり​といふ​こころ​なり​と​おもふ​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(10) 聖人一流章

 ^しょうにん (親鸞) いちりゅうかんの​おもむき​は、 信心しんじんをもつて*ほんと​せ​られそうろふ。 その1197ゆゑは、 もろもろ0185ぞうぎょうを​なげすて​て、 一心いっしん弥陀みだみょうすれば、 不可ふか思議しぎ願力がんりきとして、 ぶつの​かた​よりおうじょうじょうせしめ​たまふ。

^そのくらいを 「一念いちねんぽっにゅう正定しょうじょうじゅ(*論註・上意) ともしゃくし、 その​うへ​の称名しょうみょう念仏ねんぶつは、 如来にょらいわがおうじょうさだめ​たまひ​しおん報尽ほうじん念仏ねんぶつと​こころう​べき​なり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(11) 御正忌章

 ^そもそも、 このしょうの​うち​に参詣さんけいを​いたし、 こころざし​を​はこび、 報恩ほうおん謝徳しゃとくを​なさ​ん​と​おもひ​て、 *しょうにんおんまへ​に​まゐら​ん​ひと​の​なか​において、 信心しんじんぎゃくとくせしめ​たる​ひと​も​ある​べし、 また信心しんじんの​ともがら​も​ある​べし。 *もつてのほかのだいなり。

^そのゆゑは、 信心しんじんけつじょうせず​はこんほうおうじょうじょうなり。 さればしんの​ひと​も​すみやかにけつじょうの​こころ​を​とる​べし。

^*人間にんげんじょうの​さかひ​なり。 *極楽ごくらく常住じょうじゅうくになり。 さればじょう人間にんげんに​あら​ん​より​も、 常住じょうじゅう極楽ごくらくを​ねがふ​べき​ものなり。 さればとうりゅうには信心しんじんの​かた​をもつてさきと​せ​られ​たる​その​ゆゑ​を​よく​しら​ずは、 いたづらごと​なり。 いそぎ​て安心あんじんけつじょうし​て、 じょうおうじょうを​ねがふ​べき​なり。

^それ*人間にんげん流布るふして​みなひとの​こころえ​たる​とほり​は、 なにの分別ふんべつも​なくくちに​ただしょう0186みょうばかり​を​となへ​たら​ば、 極楽ごくらく1198おうじょうす​べき​やう​に​おもへ​り。 それ​は​おほきに​おぼつかなきだいなり。

^りき信心しんじんを​とる​といふ​も、 べつの​こと​には​あらず。 南無なも弥陀みだぶつつ​のの​こころ​を​よく​しり​たる​をもつて、 信心しんじんけつじょうす​と​は​いふ​なり。

^そもそも、 信心しんじんたいといふ​は、 ¬きょう¼ (大経・下) に​いはく、 「もんみょうごう信心しんじんかん」 といへり。

^*善導ぜんどうの​いはく、 「ª南無なもº といふはみょう、 また​これ発願ほつがんこうなり。 ª弥陀みだぶつº といふは​すなはち​そのぎょう(*玄義分) といへり。

^南無なも」 といふ二字にじの​こころ​は、 もろもろ​のぞうぎょうを​すて​て、 うたがいなく一心いっしん一向いっこう弥陀みだぶつを​たのみ​たてまつる​こころ​なり。

^さて 「弥陀みだぶつ」 といふつ​のの​こころ​は、 一心いっしん弥陀みだみょうするしゅじょうを、 やう​も​なく​たすけ​たまへ​る​いはれ​が、 すなはち弥陀みだぶつつ​のの​こころ​なり。

^されば南無なも弥陀みだぶつたいを​かくのごとく​こころえわけ​たる​を、 信心しんじんを​とる​と​は​いふ​なり。 これ​すなはちりき信心しんじんを​よく​こころえ​たる念仏ねんぶつぎょうじゃと​はもうす​なり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(12) 御袖章

 ^とうりゅう安心あんじんの​おもむき​を​くはしく​しら​ん​と​おもは​ん​ひと​は、 あながちに智慧ちえ才学さいかく0187も​いら​ず、 ただ​わがつみふかき​あさましき​もの​なり​と​おもひとり​て1199、 かかるまで​も​たすけ​たまへ​る​ほとけ​は弥陀みだ如来にょらいばかり​なり​と​しり​て、 なにのやうも​なく、 ひとすぢに​この弥陀みだほとけ​の御袖おんそでに​ひしと​すがり​まゐらする​おもひ​を​なし​て、 しょうを​たすけ​たまへ​と​たのみ​まうせ​ば、 この弥陀みだ如来にょらいは​ふかく​よろこび​ましまし​て、 そのおんより八万はちまんせんの​おほきなるこうみょうはなち​て、 そのこうみょうの​なか​に​そのひとおされ​て​おき​たまふ​べし。

^されば​この​こころ​を ¬きょう¼ (*観経) には、 「こうみょうへんじょう 十方じっぽうかい 念仏ねんぶつしゅじょう 摂取せっしゅしゃ」 と​はか​れ​たり​と​こころう​べし。 さては​わがの​ほとけ​にら​んずる​こと​は、 なにの​わづらひ​も​なし。

^あら、 しゅしょうちょう本願ほんがんや、 ありがた​の弥陀みだ如来にょらいこうみょうや。 このこうみょうえんに​あひ​たてまつら​ずは、 無始むしより​このかた​のみょうごっしょうの​おそろしきやまいの​なほる​といふ​こと​は、 さらに​もつて​ある​べから​ざる​ものなり。

^しかるに​このこうみょうえんに​もよほさ​れ​て、 宿しゅくぜんありて、 りき信心しんじんといふ​こと​をば​いま​すでに​え​たり。 これ​しかしながら、 弥陀みだ如来にょらいおんかた​より​さづけ​ましまし​たる信心しんじんと​は​やがて​あらはに​しら​れ​たり。

^かるがゆゑにぎょうじゃの​おこす​ところの信心しんじんに​あらず、 弥陀みだ如来にょらいりきだい信心しんじんといふ​こと​は、 いま​こそ​あきらかに​しら​れ​たり。

^これ​によりて、 かたじけなく​も​ひとたび0188りき信心しんじんを​え​たらん1200ひとは、 みな弥陀みだ如来にょらいおんを​おもひはかり​て、 仏恩ぶっとん報謝ほうしゃの​ため​に​つね​に称名しょうみょう念仏ねんぶつもうし​たてまつる​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(13) 無上甚深章

 ^それ、 南無なも弥陀みだぶつもうもんは、 そのかずわづかにろくなれば、 さのみのうの​ある​べき​とも​おぼえ​ざる​に、 このろくみょうごうの​うち​にはじょう甚深じんじんどくやく広大こうだいなる​こと、 さらに​その​きはまり​なき​ものなり。

^されば信心しんじんを​とる​といふ​も、 このろくの​うち​に​こもれ​り​と​しる​べし。 さらにべつ信心しんじんとてろくの​ほか​には​ある​べから​ざる​ものなり。

 ^そもそも、 この 「南無なも弥陀みだぶつ」 のろく善導ぜんどうしゃくして​いはく、 「ª南無なもº といふ​はみょうなり、 また​これ発願ほつがんこうなり。 ª弥陀みだぶつº といふ​は​そのぎょうなり。 このをもつて​の​ゆゑに​かならずおうじょうする​こと​を(玄義分) といへり。

^しかれば、 このしゃくの​こころ​を​なにと​こころう​べき​ぞ​といふ​に、 たとへば​われら​ごとき​の悪業あくごう煩悩ぼんのうなり​といふ​とも、 一念いちねん弥陀みだぶつみょうせば、 かならず​そのを​しろしめし​て​たすけ​たまふ​べし。

^それ0189みょうといふは​すなはち​たすけ​たまへ​ともうす​こころ​なり。 されば一念いちねん弥陀みだを​たのむしゅじょうじょうだい1201どくを​あたへ​たまふ​を、 発願ほつがんこうと​はもうす​なり。

^この発願ほつがんこう大善だいぜんだいどくを​われらしゅじょうに​あたへ​まします​ゆゑに、 無始むし曠劫こうごうより​このかた​つくりおき​たる悪業あくごう煩悩ぼんのうをばいちしょうめつし​たまふ​ゆゑに、 われら​が煩悩ぼんのう悪業あくごうは​ことごとく​みなえ​て、 すでに正定しょうじょうじゅ退転たいてんなんど​いふくらいじゅうす​と​は​いふ​なり。

^この​ゆゑに、 南無なも弥陀みだぶつろくの​すがた​は、 われら​が極楽ごくらくおうじょうす​べき​すがた​を​あらはせ​る​なり​と、 いよいよ​しら​れ​たる​ものなり。 されば安心あんじんといふ​も、 信心しんじんといふ​も、 このみょうごうろくの​こころ​を​よくよく​こころうる​もの​を、 りきだい信心しんじんを​え​たる​ひと​と​は​なづけ​たり。

^かかるしゅしょうどうある​がゆゑに、 ふかくしんじ​たてまつる​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(14) 上臈下主章

 それ、 一切いっさい女人にょにんは、 ひとしれ​ずつみの​ふかき​こと、 *じょうろうにも*下主げすにも​よら​ぬ​あさましきなり​と​おもふ​べし。

それ​につきて​は、 なにとやうに弥陀みだしんず​べき​ぞ​といふ​に、 なにの​わづらひ​も​なく、 弥陀みだ如来にょらいを​ひしと​たのみ​まゐらせ​て、 こんいち0190だいしょうたすけ​たまへ​ともうさ​ん女人にょにんをば、 *あやまたず​たすけ​たまふ​べし。

さて​わがつみの​ふかき​こと​をば​うちすて​て、 弥陀みだに​まかせ​まゐらせ​て1202、 ただ一心いっしん弥陀みだ如来にょらいしょうたすけ​たまへ​と​たのみ​まうさ​ば、 そのを​よく​しろしめし​て​たすけ​たまふ​べき​こと、 うたがいある​べから​ず。 たとへばじゅうにんあり​ともひゃくにんあり​とも、 みな​ことごとく極楽ごくらくおうじょうす​べき​こと、 さらに​そのうたがふ​こころ​つゆ​ほど​も​もつ​べから​ず。

かやうにしんぜ​ん女人にょにんじょううまる​べし。 かくのごとく​やすき​こと​を、 いま​までしんじ​たてまつら​ざる​こと​の​あさましさ​よ​と​おもひ​て、 なほなほ​ふかく弥陀みだ如来にょらいをたのみ​たてまつる​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

(15) 弥陀如来本願章

 それ、 弥陀みだ如来にょらい本願ほんがんもうす​は、 なにたるしゅじょうを​たすけ​たまふ​ぞ。 また​いかやうに弥陀みだを​たのみ、 いかやうに心を​もち​て​たすかる​べき​やらん。

まづを​いへ​ば、 じゅうあくぎゃく罪人ざいにんなり​とも、 しょうさんしょう女人にょにんなり​とも、 さらに​その罪業ざいごうじんじゅう*こころ​をば​かく​べから​ず。 ただりきだい信心しんじんひとつ​にて、 真実しんじつ極楽ごくらくおうじょうを​とぐ​べき​ものなり。

されば​その信心しんじんといふは、 いかやうに​こころ​を​もち​て、 弥陀みだをば​なにと0191やう​に​たのむ​べき​やらん。 それ、 信心しんじんを​とる​といふは、 やう​も​なく、 ただ​もろもろ​のぞうぎょう雑修ざっしゅりきなんど​いふ​わろきこころを​ふりすて​て、 一心いっしんに​ふかく弥陀みだするこころ​のうたがいなき​を真実しんじつ信心しんじんと​はもうす​なり1203

かくのごとく一心いっしんに​たのみ、 一向いっこうに​たのむしゅじょうを、 かたじけなく​も弥陀みだ如来にょらいは​よく​しろしめし​て、 このを、 こうみょうはなち​て​ひかり​の​なか​におさめ​おき​ましまし​て、 極楽ごくらくおうじょうせしむ​べき​なり。 これ​を念仏ねんぶつしゅじょう摂取せっしゅし​たまふ​といふ​こと​なり。

この​うへには、 たとひいちの​あひだもう念仏ねんぶつなり​とも、 仏恩ぶっとん報謝ほうしゃ念仏ねんぶつと​こころう​べき​なり。

これ​をとうりゅう信心しんじんを​よく​こころえ​たる念仏ねんぶつぎょうじゃといふ​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

(16) 白骨章

 ^それ、 人間にんげん*しょうなるそうを​つらつら*かんずる​におほよそ​はかなき​もの​は​この*ちゅうじゅう、 まぼろし​の​ごとくなるいちなり。 されば​いまだ万歳まんざい人身にんじんけ​たり​といふ​こと​を​きか​ず、 いっしょうぎ​やすし。

^いま​に​いたり​て​たれ​か*ひゃくねんぎょうたいを​たもつ​べき​や。 われ​やさきひとさき今日きょうとも​しら​ず、 明日あすとも​しら​ず、 *おくれ​さきだつひと*もと0192の​しづく​すゑ​のつゆより​も*しげし*といへり。 されば*あしたには紅顔こうがんありてゆうべには白骨はっこつと​なれるなり。

^すでにじょうかぜきたり​ぬれ​ば、 すなはちふたつ​の​まなこ​たちまちにぢ、 ひとつ​のいきながく​たえ​ぬれ​ば、 紅顔こうがんむなしくへんじ​て*とうの​よそほひ​をうしなひ​ぬる​とき​は、 六親ろくしん眷属けんぞくあつまり​て​なげき​かなしめ1204ども、 さらに​その甲斐かいある​べから​ず。

^*さて​しも​ある​べき​こと​なら​ね​ば​とて、 *がいに​おくり​て*夜半よわけむりと​なしはて​ぬれ​ば、 ただ白骨はっこつのみ​ぞ​のこれ​り。 あはれ​といふ​も​なかなか​おろかなり。

^されば人間にんげんの​はかなき​こと​はろうしょうじょう*さかひ​なればたれ​のひとも​はやくしょういちだいこころに​かけ​て、 弥陀みだぶつを​ふかく​たのみ​まゐらせ​て念仏ねんぶつもうす​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(17) 一切女人章

 ^それ、 一切いっさい女人にょにんは、 しょうだいに​おもひ、 仏法ぶっぽうを​たふとく​おもふこころあらば、 なにのやうも​なく、 弥陀みだ如来にょらいを​ふかく​たのみ​まゐらせ​て、 もろもろ​のぞうぎょうを​ふりすて​て、 一心いっしんしょうおんたすけそうらへ​と​ひしと​たのま​ん女人にょにんは、 かならず極楽ごくらくおうじょうす​べき​こと、 さらにうたがいある​べから​ず。

^かやうに*おもひとり​て​の​のち​は、 0193ひたすら弥陀みだ如来にょらいの​やすくおんたすけ​に​あづかる​べき​こと​の​ありがたさ、 また​たふとさ​よ​と​ふかくしんじ​て、 ね​ても​さめ​ても南無なも弥陀みだぶつ南無なも弥陀みだぶつもうす​べき​ばかり​なり。 これ​を信心しんじんとり​たる念仏ねんぶつしゃと​はもうす​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(181205) 当流聖人章

 ^とうりゅうしょうにん (親鸞) の​すすめ​まします安心あんじんといふは、 なにのやうも​なく、 まづ​わがの​あさましきつみの​ふかき​こと​をば​うちすて​て、 もろもろ​のぞうぎょう雑修ざっしゅの​こころ​を*さしおき​て、 一心いっしん弥陀みだ如来にょらいしょうたすけ​たまへ​と、 一念いちねんに​ふかく​たのみ​たてまつら​ん​もの​をば、 たとへばじゅうにんじゅうにんひゃくにんひゃくにんながら、 みな​もらさ​ず​たすけ​たまふ​べし。

^これ​さらにうたがふ​べから​ざる​ものなり。 かやうに​よく​こころえ​たるひと信心しんじんぎょうじゃといふ​なり。

^さて​この​うへには、 なほ​わがしょうの​たすから​ん​こと​の​うれしさ​を​おもひいださ​ん​とき​は、 ね​ても​さめ​ても南無なも弥陀みだぶつ南無なも弥陀みだぶつと​となふ​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(190194) 末代悪人章

 それ、 末代まつだい悪人あくにん女人にょにんたらんともがらは、 みなみなこころひとつ​にして弥陀みだぶつを​ふかく​たのみ​たてまつる​べし。 その​ほか​には、 いづれのほうしんず​といふ​とも、 しょうの​たすかる​といふ​こと​ゆめゆめ​ある​べから​ず。 しかれば、 弥陀みだ如来にょらいをば​なにとやうに​たのみ、 しょうをば​ねがふ​べき​ぞ​といふ​に、 なにの​わづらひ​も​なく、 ただ一心いっしん弥陀みだ如来にょらいを​ひしと​たのみ、 しょうたすけ​たまへ​と​ふかく​たのみ​まうさ​んひとをば、 かならずおんたすけ​ある​べき​こと、 さらさらうたがいある​べから​ざる​ものなり1206

あなかしこ、 あなかしこ。

(20) 女人成仏章

 それ、 一切いっさい女人にょにんたらんは、 弥陀みだ如来にょらいを​ひしと​たのみ、 しょうたすけ​たまへ​ともうさ​ん女人にょにんをば、 かならずおんたすけ​ある​べし。 さるほどに、 *諸仏しょぶつの​すて​たまへ​る女人にょにんを、 弥陀みだ如来にょらいひとり、 われ​たすけ​ずんば​また​いづれのぶつの​たすけ​たまは​ん​ぞ​と​おぼしめし​て、 じょう大願だいがんを​おこし​て、 われ諸仏しょぶつに​すぐれ​て女人にょにんを​たすけ​ん​とて、 こうが​あひだゆいし、 永劫ようごうが​あひだしゅぎょうし​て、 *に​こえ​たる大願だいがんを​おこし​て、 女人にょにんじょうぶつ0195といへるしゅしょうがん (第三十五願) を​おこし​まします弥陀みだなり。

この​ゆゑに​ふかく弥陀みだを​たのみ、 しょうたすけ​たまへ​ともうさ​ん女人にょにんは、 みなみな極楽ごくらくおうじょうす​べき​ものなり。

あなかしこ、 あなかしこ。

(21) 経釈明文

 ^とうりゅう安心あんじんといふ​は、 なにのやうも​なく、 もろもろ​のぞうぎょう雑修ざっしゅの​こころ​を​すて​て、 わがは​いかなる罪業ざいごうふかく​とも、 それ​をばぶつに​まかせ​まゐらせ​て、 ただ一心いっしん弥陀みだ如来にょらい一念いちねんに​ふかく​たのみ​まゐらせ​て、 おんたすけそうらへ​ともうさ​んしゅじょうをば、 じゅうにんじゅうにんひゃくにんひゃくにんながら、 ことごとく​たすけ​たまふ​べし。 これ1207さらにうたがふ​こころ​つゆ​ほど​も​ある​べから​ず。

^かやうにしんずる安心あんじんを​よくけつじょうせしめ​たるひとと​は​いふ​なり。 この​こころ​を​こそ*きょうしゃく明文めいもんには、 「一念いちねんぽっじゅう正定しょうじょうじゅ」 とも 「平生へいぜいごうじょうぎょうにん」 とも​いふ​なり。

^されば​ただ弥陀みだぶつ一念いちねんに​ふかく​たのみ​たてまつる​こと肝要かんようなり​と​こころう​べし。 この​ほか​には、 弥陀みだ如来にょらいの​われら​を​やすく​たすけ​ましますおんの​ふかき​こと​を​おもひ​て、 行住ぎょうじゅう坐臥ざがに​つね​に念仏ねんぶつもうす​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

(220196) 当流勧化章

 ^そもそも、 とうりゅうかんの​おもむき​を​くはしく​しり​て、 極楽ごくらくおうじょうせ​ん​と​おもは​ん​ひと​は、 まづりき信心しんじんといふ​こと​をぞんす​べき​なり。

^それ、 りき信心しんじんといふは​なにのようぞ​と​いへ​ば、 かかる​あさましき​われら​ごとき​のぼんが、 たやすくじょうへ​まゐる​べき*ようなり。

^そのりき信心しんじんの​すがた​といふは​いかなる​こと​ぞ​と​いへ​ば、 なにのやうも​なく、 ただ​ひとすぢに弥陀みだ如来にょらい一心いっしん一向いっこうに​たのみ​たてまつり​て、 たすけ​たまへ​と​おもふ​こころ​の一念いちねんおこる​とき、 かならず弥陀みだ如来にょらい摂取せっしゅこうみょうはなち​て、 そのしゃに​あら​ん​ほど​は、 このこうみょうの​なか​におさめ​おき​まします​なり。 これ​すなはち​われら​がおうじょうさだまり​たる1208すがた​なり。

^されば*南無なも弥陀みだぶつもうたいは、 われら​がりき信心しんじんを​え​たる​すがた​なり。 この信心しんじんといふは、 この南無なも弥陀みだぶつの​いはれ​を​あらはせ​る​すがた​なり​と​こころう​べき​なり。 されば​われら​が​いま​のりき信心しんじんひとつ​を​とる​によりて、 極楽ごくらくに​やすくおうじょうす​べき​こと​の、 さらに​なにのうたがいも​なし。

^あら、 しゅしょう弥陀みだ如来にょらい本願ほんがんや。 この​ありがたさ​の弥陀みだおんをば、 いかが​してほうじ​たてまつる​べき​ぞ​なれば、 ただ​ね​ても​おき​ても南無なも弥陀みだぶつと​となへ​て、 かの弥陀みだ如来にょらい仏恩ぶっとんほうず​べき​なり。

^されば0197弥陀みだぶつと​となふる​こころ​は​いかん​ぞ​なれば、 弥陀みだ如来にょらいおんたすけ​あり​つる​ありがたさ​たふとさ​よ​と​おもひ​て、 それ​を​よろこび​まうす​こころ​なり​と​おもふ​べき​ものなり。

^あなかしこ、 あなかしこ。

しゃく*しょうにょ(花押)

 

底本は和歌山県鷺森別院蔵証如上人開版本ˆ聖典全書と同一ˇ。
手次 教えを人々にとりつぐこと。 ここでは所属する寺をいう。
し。/く[御文章集成(9)]
如来の御代官 如来に代って教えを伝える者。
とも同行 同朋同行というのに同じ。
信心の沙汰 信心しんじんについて話し合うこと。
あひささへ さまたげて。
古歌にいはく… ¬かん朗詠ろうえいしゅう¼ 等にみえる歌。
正雑の分別をききわけ 他力の正行と自力のぞうぎょうをはっきりと聞きひらいて。 自力をすてて他力に帰すべき道理を聞きひらいて。
一念発起… 「一念発起すれば正定の聚に入る」 信心が初めておこった時、 浄土に往生することがまさしく定まり、 仏になることがけつじょうしている仲間となる。
不来迎の談 臨終の来迎をたのまないという法義。 →来迎らいこう
すがりて たよりとして。 阿弥陀如来の本願にすべてをまかせること。
たすけましませ 「たすけたまへ」 に同じ。
執せられ候はぬ こだわらりなさらない。
当家 浄土真宗を指す。
期し 期待して。
きこえたり うけたまわっている。
心もとなく 気がかりで。 おぼつかなく。
師匠坊主 師にあたる僧侶。
こころざし こん
あぢきなく やるせなく。
以後までも 私 (蓮如) が亡きあとも。
退転 ここでは無くなること、 途絶えることの意。
この分にては 私 (蓮如) については。
子細なく さしつかえなく。 問題なく。
さもありぬらんとみえつる 身分が高いと見受けられた。
一宇の坊舎 一軒の僧坊。
おもしろき すばらしい。
きこえかくれなし うわさが広く知れわたっている。
山中のひと 吉崎よしざきの僧侶のこと。
たつてもゐても 立ってもすわっても。
殊勝の法 とくにすぐれた教え。 阿弥陀如来の本願をいう。
なかなか 容易には。 とても。
江州志賀郡大津 現在の滋賀県大津市。
三井寺南別所辺 三井寺はおんじょうの通称。 南別所は同寺五別所の一つ近松寺のこと。 寛正6年 (1465)、 えんりゃくの衆徒によって大谷本願寺が破却された後、 蓮如上人はこの近松寺の傍に御坊 (後の顕証寺。 現在の近松ちかまつ別院べついんの起源) を建て親鸞聖人の御影を安置した。
さらになにへんともなき体 全く何のかいもないようす。
成敗 ここでは諸人の出入りを止めたこと。
当宗 浄土真宗を指す。
をかしくきたなき宗 物忌ものいみをしない浄土真宗を非難していう。
他門他宗 浄土真宗以外をいう。 他門は浄土門内の西せいざん鎮西ちんぜい等の諸流、 他宗はしょうどうもん諸宗。
ものいまはぬ 物忌ものいみをしない。
 一部分。
浄土一家 浄土往生を説いた法然ほうねん上人の流れを汲む一門。
なにとやうに機を… 救いの対象である人や人のきょうがいをどのように心得て。
おもひとりて 十分に理解して。 心に思い定めて。
たのみおきつる あてにしていた。
門徒のかたより… 物とり安心あんじんとかもつだのみといわれる異義を指す。
そもそも 右傍に 「これは超勝寺にて」 と註記する異本がある。
座衆 座主 (講の中心人物) とする説、 講の中の特定の人々とする説などがある。
座上 上席。
いみじく 大変立派に。
毎月の会合 毎月、 定められた日に門徒が集まり、 こうと呼ばれる会合が開かれた。
そもそも 右傍に 「これも超勝寺にて」 と註記する異本がある。
不思議の名言 正しい根拠のないあやしげな言葉や文句。
十劫正覚の… 時宗等の影響を受けた十劫じっこう秘事ひじ (十劫安心あんじん) の異義に対する批判。 十劫のむかし阿弥陀仏が正覚成就し、 しゅじょうの往生を定めたと知ることを信であると主張するのは、 自力ぞうぎょうをすてて他力をたのむはいりゅうの信心が欠けていると批判する。
諸法 諸宗の教え。
立山 富山県南部にある山で、 修験道の霊場。
白山 石川・岐阜両県境にある山で、 修験道の霊場。
平泉寺 福井県勝山市にあった天台てんだいしゅうの寺で、 白山の別当寺。
豊原寺 福井県坂井郡丸岡町にあった天台宗の寺で白山の別当寺。
八宗の祖師 龍樹菩薩の教学は広く諸宗の基礎となっているので、 このようにいう。 →はっしゅう
自法愛染故… 「みづからの法を愛染するがゆゑに他人の法を毀呰きしすれば、 戒行を持つ人なりといへども地獄の苦を免れず」
勿体なき もってのほか。
一所の坊主分 一つの道場寺院を支配する僧侶。
別して 特別に。
自余の浄土宗 法然ほうねん上人の流れを汲む宗派のうち浄土真宗以外のもの。 西山せいざん流・鎮西ちんぜい流・ぼん流・ちょうらく流などを指す。
無名無実に 実質のともなわないこと。 ここでは、 名号の実義を心にかけないこと。
一七箇日 満七昼夜。 報恩講の行われる期間。
めでたく 結構なことで。
細々に しばしば。 たびたび。
諸仏にもすてられたる 諸仏の本願に女人成仏の願がないので、 このようにいう。 →補註14
よそへても つけても。
おろかに 疎かに。 いいかげんに。
当山 吉崎よしざき御坊のこと。
所送寒暑 寒暑 (冬と夏のことで、 一年の意) を送るところ。
五十九歳 底本に 「五十八歳」 とあるのを改めた。
御判 ここに蓮如上人のおうが記されていたことを示す。
のりのことの葉 教えの言葉の意。
無善造悪 ぜんぎょう善根ぜんごんがなく悪のみを行うという意。
出立 用意。 したく。
今生のいのり 利己的なげんやくがんすること。
その名をかけんともがら 門徒としてその名をつらねる人々。
ならふ そうじょうする。 うけたまわる。
他門 浄土門内の西山せいざん鎮西ちんぜい等の異流を指す。
正本 正しいよりどころ。
件のごとし 文書や書状などの末尾に記す慣用語。 前述の通りである。 右の通りである。
文明六年二月十五日 真宗寺本には 「文明六年三月 日」 とある。
入滅 釈尊の入滅は二月十五日と伝えられている。
珠数 数珠とも書く。
 ようす。
うつくしく 見事に。 立派に。 申し分なく。
勝事 ここでは残念なこと、 悲しむべきことの意。
讃嘆 ここでは法話、 法談の意。
盛者必衰… 勢いの盛んな者にも必ず衰える時があり、 出会った者には必ず離れる時がくるということ。
仏心と凡心 ぼん煩悩ぼんのうの心の全体に仏心がいたりとどいて、 煩悩具足の凡夫を仏に成るべき身とならしめることで、 信心のやくをいう。 これをまた仏凡一体という。
信心発得 信心を得ること。
種々不同 いろんな異義があること。 ここではぜんしきだのみ、 十劫じっこう秘事ひじなどを批判している。
 第一。
沙汰せずして 問題にしないで。 なおざりにするという意。
 役目。 はたらき。
名号 ここでは信心を得た後の称名のこと。
四王天 天王てんのうのいる天界。 ろく欲天よくてんの最下。
不法 仏法に背くこと。
中の二日 中旬の第二日。 十二日。
こなしおとしめん けなしみくだしてやろう。
ひとを… 人に取り入ってだまそうとする者。
用意 前から準備しておくこと。 ここでは信心が往生の正因であることをいう。
南無阿弥陀仏と申す体は 南無阿弥陀仏というものは。
をさめたすけすくふ くう作と伝える ¬ろくでん¼ の語を依用したものといわれるが、 ここでの意は、 親鸞聖人の 「摂取せっしゅしてすてざれば阿弥陀となづけたてまつる」 (浄土和讃・82) という文などによっている。
その名ばかりをかけんともがら 他宗派から真宗門徒になり、 まだ法義をよく聞いていないもの。
たとへば 例をもうけて示せばという意。
浄土一家 浄土往生を説いた法然ほうねん上人の流れを汲む一門。
性光門徒 蓮如上人の弟子の性光坊の門徒。
おほやう 大まかな。 細かさがないこと。
秘事 秘事ひじ法門ぼうもん。 ここでは越前えちぜん (現在の福井県) にひろまっていた不拝おがまずの秘事ひじをいう。
摂取の光益・不捨の誓益 摂取せっしゅしゃやくのこと。 阿弥陀仏のこうみょうによってめぐまれるものであるから光益といい、 阿弥陀仏の誓願せいがんにもとづくものであるから誓益という。 
なにの分別もなく 本願みょうごうのいわれを聞きひらくこともなく。
一流相伝のおもむき 浄土真宗に伝えられる法義。
五劫兆載永劫 →こうゆいちょうさい永劫ようごう
 根本。 肝要。
信ずる機 ここでの機は、 救われるべきもの (機) の上に与えられている信心そのもののこと。
たすけたまへる法 衆生を救う道理 (法) をあらわしているから、 阿弥陀仏を法という。
わろき機 本願にそむく自力疑心のことをいう。
そばさま そば (傍) さま。 真実に背き外れたこと。
不請にも 気に入らないけれど。 いやいやながら。
一百余歳を経 文明七年は1475年であるから、 親鸞聖人のじゃくよりすでに二百余歳を経ていることになる。
実語 真実の言葉。 親鸞聖人の言葉。
もし…なくは  「われらもし宿善開発の機にてもなくは」、 または 「もし宿善開発の機にてもなくはわれら」 の顚倒法。
わろき迷心 本願を疑ってしゅつの道に迷う自力の心。
一列 なかま。
非義 宗義にそむいていること。
不闕に 欠かさずに。
愚老 ここでは蓮如上人の自称。
北陸の山海のかたほとり 吉崎よしざきを指す。
この当国にこえ 蓮如上人はこの年八月に吉崎よしざきから河内かわちぐちに移った。
仁義礼智信 →じょう
字ちから ことばを理解する能力。
結句本寺よりの成敗… あげくのはてには、 本山よりの命令であるといって他人をだまして。
足手をはこび ここでは参詣するという意。
冥慮 仏祖のおぼしめし。 ここでは親鸞聖人のおぼしめし。
ききとり法門 正式に教授されることなく、 自然に聞き覚えた法義。
へつらひ とり入り。
沙汰 ここでは考えわきまえる、 見定めるというほどの意。
世間通途の義 世間一般の風習。
つぶさに沙汰をいたし もれなく処置し。
たしなみ つとめて。 こころがけて。
他宗他門 真宗教団以外をいう。 他門とは浄土門内の西せいざん鎮西ちんぜい等の諸流、 他宗とはしょうどうもん諸宗を指す。
今の時の定命は… 釈尊のにゅうめつ時を起点として、 時代が百年を経過するごとに人寿が一歳減少するという説にもとづいたもの。 当時は釈尊の入滅後、 約二千四百年と考えられていたから、 釈尊の寿命八十歳より、 二十四歳を減じて、 定命を五十六歳と計算した。
いかめしきこと なみなみでないこと。
定相なき時分 秩序が乱れて定まりのない時代。
当時世上の体たらく この頃、 土一揆、 いくさなどで世の中が騒乱状態であった。
五障 →補註14
一乗法華の妙典 一乗の理を明かす ¬法華ほけきょう¼ のこと。
会座を没して 説法を中止して。
法華と念仏と… 釈尊がりょうじゅせんでの ¬法華ほけきょう¼ の説法を一時中止して王宮において ¬観経¼ の念仏の教えを説かれたことをいう。 覚如かくにょ上人の ¬口伝鈔¼ (15) 等にみえる。
花鳥風月のあそび 春は花鳥を、 秋は風月を楽しむこと。 風流な遊び。
わが身ありがほ いかにも自分は死とは無縁であるかのように思っていること。
未来悪世 釈尊が出現した時を基準にして、 現在のことを未来という。 現在が、 釈尊から遠く時代のくだった、 悪のはびこる時代であるということ。
そのとき臨終… 往生治定は、 往生することに定まること。 ここでは 「臨終せば」 とあり、 短命な臨終の機についていったもの。
入正定聚の益 現生十種益の第十益。 →正定しょうじょうじゅ
必至滅度 必ず仏のさとりを得ること。 第十一願によって与えられるやく
慶喜金剛の信心 第十八願の信心をあらわした語。
七旬のよはひにおよび 六十歳を過ぎて、 第七旬に入ったということ。 旬は十年の意。
片腹いたくも 見苦しくも。
しらぬえせ法門 ここでは自分でさとりきわめた法門ではなく、 教えられたとおりを、 口まねして説いている形ばかりの教えに過ぎないと卑謙した言葉。
ことの葉 前掲の三首の詠歌を指す。
文明年中丁酉 文明九年。
はりの木原 地名。 現在の大阪府茨木市。
九間在家 地名。 現在の大阪府茨木市。
仏照寺 ぶっしょうの住持、 きょうこうを指すものか。
当坊 蓮如上人が吉崎よしざきより移ったぐちの坊をいう。 光善こうぜんがその跡を伝える。
中古 古 (むかし) を上古・中古・下古と三分したことによるが、 下古をいわない場合もある。 浄土真宗では親鸞聖人より第三代の覚如かくにょ上人までを上古、 それ以後を中古という。
当寺 山科やましな本願寺を指す。
懇志 ねんごろなこころざし。
七昼夜 満七昼夜。 報恩講の行われる期間。
念仏得堅固 念仏の教えが盛んになること。
安心の体 信心の本体。 信心そのもの。
仏法を棟梁し… 仏法興隆の上で中心的役割を果すべき人のこと。 棟梁は、 人を建物のむねはりに喩えたもの。
京都本願寺 山科やましな本願ほんがんのこと。
関渡の船中 関は関所。 渡の船中は渡し船の中。
仏法方 法義の問題。
衆中として 報恩講に参詣した坊主衆や門徒衆の仲間として。
仁義 ここでは世間体をつくろうこと。
不宿善の機 宿しゅくぜんなきもの。
無沙汰 なおざりにすること。
勿体なき もってのほか。 ふとどきな。 不都合な。
仏法者気色 仏法者らしい様子。
不足の所存 行き届かない考え。 考えが足りないこと。
無二の懴悔 徹底してあやまちを悔い改めること。 ここでは自力心をひるがえすこと。
めづらしき法門 変った教え。 浄土真宗の教義とは異なる教え。
おもしろき名目 そうじょうにないめずらしい変った言葉 (異義のこと)。
さあらんとき そうである時は。
興隆仏法 仏法を盛んにすること。
細々に しばしば。
当寺建立はすでに九箇年 当寺は山科やましな本願寺を指す。 蓮如上人が山科の地に本願寺の造営を決定してから九箇年という意。
七旬 旬は十年の意。
さもありぬべきやうに (疫癘で死ぬ) かのようにという意。
八十三歳 明応六年 (1497)。
毎月両度の寄合 毎月、 親鸞聖人の命日の二十八日と法然ほうねん上人の命日の二十五日に会合をもった。
酒飯茶なんどばかり… 飲食だけで終ってしまうという意。
一段の 一つの。
具足 たしかにそなえていること。
業病 ここでは老衰のことをいう。 →補註5
先相 先だってあらわれる相。 まえぶれ。
浄土をねがふ… しょうげいの ¬でんつうにゅうしょう¼ 巻四十三、 ぎょうの ¬せんちゃくしゅうしゅうしょう¼ 巻四にこの旨がみえる。
とりつめて たしかに。
八旬の齢 旬は十年の意。
仲旬第一日 十一日。
老衲 ここでは蓮如上人の自称。
愚痴闇鈍 真実の道理がわからず、 心が暗く愚かで、 仏法に対する反応が鈍いこと。
東成郡生玉の庄内大坂 現在の大阪城付近。 蓮如上人は明応五年 (1496)、 この地に坊舎を造営した。 後の大阪石山本願寺。
かりそめ 一時的であること。 偶然であること。
一宇の坊舎 一軒の僧坊。
あはれ ああ。 何とかして、 是非ともという意を含む。
一念のこころざし 深く念願する心。
むつかしき題目 無理難題のことがら。
執心 執着心。 ここでは是非ともこの土地にとどまりたいという執着心。
たりぬべきものか 十分に添うことができるはずであろうか。
あひかなふかのあひだ かなうかと思うと。
一定 確かに定まっていること。
八万の法蔵 八万は多数の意。 仏の説いた教法全体のこと。
後世をしらざる人 しょうの一大事について関心のない者。
弥陀如来の御ちかひ 第十八願のこと。 →本願ほんがん
末代悪世 末法まっぽうじょくの世。
南无といふ… 実如本(本誓寺)。
すがた いわれ。 おもむき。
当流一途の所談 浄土真宗独自の特別な教え。
沙汰あるべからざる 説いてはならない。
露ちりほども ほんの少しも。
たとへば 例をもうけて示せばという意。
 根本。 肝要。
聖人の御まへ 親鸞聖人の真影しんねいの前。
もつてのほかの大事 なによりも大事なこと。
人間は不定のさかひ 人間界は生滅変化する無常のきょうがいであるという意。
極楽は常住の国 極楽浄土は永遠に変らない真実の世界であるという意。
人間に流布して 世間にひろまって。 世間一般に。
こころをば… (罪の重さを) 気にしてはならない、 心配してはいけないという意。
観ずるに 心をしずめて考えてみると。
始中終 始は少年期、 中は壮年期、 終は老年期のこと。 人の一生をいう。
百年の形体 百歳の身体。
おくれさきだつ人 人より後に生き残る人と、 人より先に死ぬ人。 生き残る人と死ぬ人。
もとのしづくすゑの露 草木の根もとにおちるしずく、 草の葉の末にやどる露のことで、 人の死の先後は予想できないことをあらわす。
といへり 以上の文は ¬存覚ぞんかくほう¼ に引く鳥羽とば上皇の ¬じょう講式こうしき¼ からの引用であるため 「といへり」 という。
朝には… ¬かん朗詠ろうえいしゅう¼ (下) の義孝よしたか少将の詩に 「朝に紅顔ありて世路に誇れども、 暮に白骨となりて郊原に朽ちぬ」 とある。
桃李のよそほひ 桃や李 (スモモ) の花のように美しいすがた。
さてしも… いつまでもそうしてはいられないので。
野外におくりて 野辺の送りをして。 遺骸を火葬場に送ること。
夜半の煙 夜のけむり。 遺骸を火葬するようすをいう。
おもひとりてののちは 信心けつじょうしたうえは。
さしおきて 捨て去って。
諸仏のすてたまへる女人 諸仏の本願に女人成仏の願がないので、 このようにいう。 →補註14
世にこえたる くらべようのない。
経釈の明文 ¬大経¼ (下) の第十一願成就文、 第十八願成就文、 「易行品」 の 「即の時に必定に入る」、 ¬論註¼ (上) の 「すなはち大乗小乗の聚に入る」 などの文を指す。
用意 前から準備しておくこと。 ここでは信心が往生の正因であることをいう。
南無阿弥陀仏と申す体は 南無阿弥陀仏というものは。