1083◎御0069文章
○ 一 帖
(1) 門徒弟子章
◎▼或人いはく、 *当流のこころは、 門徒をばかならずわが弟子とこころえおくべく候ふやらん、 如来・聖人 (*親鸞) の御弟子と申すべく候ふやらん、 その分別を存知せず候ふ。 また*在々所々に小門徒をもちて候ふをも、 *このあひだは*手次の坊主にはあひかくしおき候ふやうに心中をもちて候ふ。 これもしかるべくもなきよし、 人の申され候ふあひだ、 おなじくこれも不審*千万に候ふ。 御ねんごろに承りたく候ふ。
答へていはく、 この不審*もつとも肝要とこそ存じ候へ。 *かたのごとく耳にとどめおき候ふ分、 申しのぶべ%し。 きこしめされ候へ。
故聖人の仰せには、 「▲親鸞は弟子一人ももたず」 とこそ仰せられ候ひつれ。 「1084そのゆゑは、 *如来の教法を十方衆生に説ききかしむるときは、 ただ▲如来の御代官を申しつるばかりなり。 さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、 如来の教法をわれも信じ、 ひとにもをしへきかしむるばかりなり。 そのほかは、 なにををしへて弟0070子といはんぞ」 と仰せられつるなり。
されば*とも同行なるべきものなり。 これによりて、 ▼聖人は 「御同朋・御同行」 とこそ、 *かしづきて仰せられけり。
さればちかごろは*大坊主分の人も、 われは*一流の安心の次第をもしらず、 たまたま弟子のなかに*信心の沙汰する在所へゆきて聴聞し候ふ人をば、 ことのほか*説諫をくはへ候ひて、 あるいはなかをたがひなんどせられ候ふあひだ、 坊主も*しかしかと信心の一理をも聴聞せず、 また弟子をばかやうに*あひささへ候ふあひだ、 われも信心決定せず、 弟子も信心決定せずして、 一生はむなしくすぎゆくやうに候ふこと、 まことに*自損損他のとが、 のがれがたく候ふ。 *あさましあさまし。
*古歌にいはく、
▼うれしさをむかしはそでにつつみけり こよひは身にもあまりぬるかな
「うれしさをむかしはそでにつつむ」 といへるこころは、 むかしは雑行・正行1085の分別もなく、 念仏だにも申せば、 往生するとばかりおもひつるこころなり。
「こよひは身にもあまる」 といへるは、 *正雑の分別をききわけ、 *一向一心になりて、 信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、 おほきに各別なり。 かるがゆゑに身のおきどころもなく、 をどりあがるほどにおもふあひだ、 よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。
*あなかしこ、 あなかしこ。
0071*文明三年七月十五日
(2) 出家発心章
^▼当流、 親鸞聖人の一義は、 *あながちに出家発心のかたちを本とせず、 *捨家棄欲のすがたを標せず、 ただ一念帰命の他力の信心を決定せしむるときは、 さらに男女老少をえらばざるものなり。
^さればこの信をえたる位を、 ¬経¼ (*大経・下) には 「▲即得往生住不退転」 と説き、 ¬釈¼ (*論註・上意) には 「▲*一念発起入正定之聚」 ともいへり。 ^これすなはち*不来迎の談、 平生業成の義なり。
^¬和讃¼ (*高僧和讃) にいはく、 「▲弥陀の報土をねがふひと 外儀のすがたはことなりと 本願名号信受して 寤寐にわするることなかれ」 といへり。
^「外1086儀のすがた」 といふは、 在家・出家、 男子・女人をえらばざるこころなり。
^つぎに 「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」 といふは、 かたちはいかやうなりといふとも、 また罪は十悪・五逆、 謗法・闡提のともがらなれども、 *回心懴悔して、 ふかく、 かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して、 *ふたごころなく如来をたのむこころの、 ねてもさめても憶念の心つねにしてわすれざる0072を、 本願たのむ*決定心をえたる信心の行人とはいふなり。
^さてこのうへには、 たとひ行住坐臥に称名すとも、 弥陀如来の御恩を報じまうす念仏なりとおもふべきなり。 これを真実信心をえたる決定往生の行者とは申すなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
あつき日にながるるあせはなみだかな かきおくふでのあとぞをかしき
*文明三年七月十八日
(3) 猟すなどり章
^▼まづ当流の安心のおもむきは、 あながちにわがこころのわろきをも、 また妄念妄執のこころのおこるをも、 とどめよといふにもあらず。
^ただあきなひをもし、 奉公をもせよ、 猟・*すなどりをもせよ、 かかるあさましき罪業にのみ1087、 *朝夕まどひぬるわれらごときの*いたづらものを、 たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、 一心にふたごころなく、 弥陀一仏の悲願に*すがりて、 *たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、 かならず如来の御たすけにあづかるものなり。
^このうへには、 なにとこころえて念仏申すべきぞなれば、 往0073生はいまの*信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、 わがいのちあらんかぎりは、 報謝のためとおもひて念仏申すべきなり。
^これを当流の安心決定したる信心の行者とは申すべきなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
*文明三年十二月十八日
(4) 自問自答章
▼そもそも、 親鸞聖人の一流においては、 平生業成の義にして、 来迎をも*執せられ候はぬよし、 承りおよび候ふは、 いかがはんべるべきや。 その平生業成と申すことも、 不来迎なんどの義をも、 さらに存知せず。 くはしく聴聞つかまつりたく候ふ。
答へていはく、 まことにこの不審もつとももつて一流の肝要とおぼえ候ふ。 お1088ほよそ*当家には、 一念発起平生業成と談じて、 平生に弥陀如来の本願のわれらをたすけたまふことわりをききひらくことは、 宿善の開発によるがゆゑなりとこころえてのちは、 わがちからにてはなかりけり、 仏智他力のさづけによりて、 本願の由来0074を存知するものなりとこころうるが、 すなはち平生業成の義なり。
されば平生業成といふは、 いまのことわりをききひらきて、 往生*治定とおもひ定むる位を、 一念発起住正定聚とも、 平生業成とも、 即得往生住不退転ともいふなり。
問うていはく、 一念往生発起の義、 くはしくこころえられたり。 しかれども、 不来迎の義いまだ分別せず候ふ。 ねんごろにしめしうけたまはるべく候ふ。
答へていはく、 不来迎のことも、 一念発起住正定聚と沙汰せられ候ふときは、 さらに来迎を*期し候ふべきこともなきなり。 そのゆゑは、 来迎を期するなんど申すことは、 諸行の機にとりてのことなり。 真実信心の行者は、 一念発起するところにて、 *やがて摂取不捨の光益にあづかるときは、 来迎までもなきなりとしらるるなり。
されば聖人の仰せには、 「▲来迎は諸行往生にあり。 真実信心の行人は、 摂取不捨のゆゑに正定聚に住す。 正定聚に住するがゆゑに1089、 かならず滅度に至る。 かるがゆゑに臨終まつことなし、 来迎たのむことなし」 (*御消息・一意) といへり。 この御ことばをもつてこころうべきものなり。
問うていはく、 正定と滅度とは一益とこころうべきか、 また二益とこころうべきや0075。
答へていはく、 一念発起のかたは正定聚なり。 これは穢土の益なり。 つぎに滅度は浄土にて得べき益にてあるなりとこころうべきなり。 されば二益なりとおもふべきものなり。
問うていはく、 かくのごとくこころえ候ふときは、 往生は治定と存じおき候ふに、 なにとてわづらはしく信心を具すべきなんど沙汰候ふは、 いかがこころえはんべるべきや。 これも承りたく候ふ。
答へていはく、 まことにもつて、 このたづねのむね肝要なり。 さればいまのごとくにこころえ候ふすがたこそ、 すなはち信心決定のこころにて候ふなり。
問うていはく、 信心決定するすがた、 すなはち平生業成と不来迎と正定聚との道理にて候ふよし、 *分明に聴聞つかまつり候ひをはりぬ。 しかりといへども、 信心治定してののちには、 自身の往生極楽のためとこころえて念仏申1090し候ふべきか、 また仏恩報謝のためとこころうべきや、 いまだそのこころを得ず候ふ。
答へていはく、 この不審また肝要とこそおぼえ候へ。 そのゆゑは、 一念の*信心発得0076以後の念仏をば、 自身往生の業とはおもふべからず、 ただひとへに仏恩報謝のためとこころえらるべきものなり。 されば*善導和尚の 「▲上尽一形下至一念」 (*礼讃・意) と釈せり。 「下至一念」 といふは信心決定のすがたなり、 「上尽一形」 は仏恩報尽の念仏なりと*きこえたり。 これをもつてよくよくこころえらるべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明四年十一月二十七日
(5) 雪中章
^▼そもそも、 当年より、 ことのほか、 *加州・*能登・*越中、 両三箇国のあひだより道俗男女、 *群集をなして、 この*吉崎の山中に参詣せらるる面々の心中のとほり、 いかがと*心もとなく候ふ。
^そのゆゑは、 まづ当流のおもむきは、 このたび極楽に往生すべきことわりは、 他力の信心をえたるがゆゑなり。 しかれども、 この一流のうちにおいて、 しかしかとその信心のすがたをもえたる人1091これなし。 かくのごとくのやからは、 いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。 一大事といふはこれなり。
^幸ひに五里・十里の遠路をしのぎ、 この雪のうちに参詣のこころざしは、 いかやうにこころえられたる心中0077ぞや。 千万心もとなき次第なり。
^所詮以前はいかやうの心中にてありといふとも、 これよりのちは心中にこころえおかるべき次第をくはしく申すべし。 よくよく耳をそばだてて聴聞あるべし。
^そのゆゑは、 他力の信心といふことを*しかと心中にたくはへられ候ひて、 そのうへには、 仏恩報謝のためには行住坐臥に念仏を申さるべきばかりなり。 このこころえにてあるならば、 このたびの往生は一定なり。 このうれしさのあまりには、 *師匠坊主の在所へもあゆみをはこび、 *こころざしをもいたすべきものなり。
^これすなはち当流の義をよくこころえたる信心の人とは申すべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
*文明五年二月八日
(6) 睡眠章
^▼そもそも、 当年の夏このごろは、 なにとやらんことのほか睡眠にをかされて、 ねむたく候ふはいかんと案じ候へば、 不審もなく往生の死期もちかづくか1092とおぼえ候ふ。 まことにもつて*あぢきなく名残をしくこそ候へ。 さりながら、 今日までも、 往生の期もいまや来らんと油断なくその*かまへは候ふ。
^それにつけて0078も、 この在所において、 *以後までも信心決定するひとの*退転なきやうにも候へかしと、 念願のみ昼夜不断におもふばかりなり。
^*この分にては往生つかまつり候ふとも、 いまは*子細なく候ふべきに、 それにつけても、 面々の心中もことのほか油断どもにてこそは候へ。 いのちのあらんかぎりは、 われらはいまのごとくにてあるべく候ふ。 よろづにつけて、 みなみなの心中こそ*不足に存じ候へ。
^明日もしらぬいのちにてこそ候ふに、 なにごとを申すもいのちをはり候はば、 *いたづらごとにてあるべく候ふ。 いのちのうちに不審も疾く疾くはれられ候はでは、 さだめて後悔のみにて候はんずるぞ、 御こころえあるべく候ふ。
^あなかしこ、 あなかしこ。
^この障子のそなたの人々のかたへまゐらせ候ふ。 のちの年にとり出して御覧候へ。
*文明五年卯月二十五日これを書く。
(71093) 弥生中半章
▼さんぬる*文明第四の暦、 *弥生中半のころかとおぼえはんべりしに、 *さもありぬらん0079とみえつる女性一二人、 男なんどあひ具したるひとびと、 この山のことを沙汰しまうしけるは、 そもそもこのごろ吉崎の山上に*一宇の坊舎をたてられて、 *言語道断*おもしろき在所かなと申し候ふ。 なかにもことに、 加賀・越中・能登・越後・信濃・出羽・奥州七箇国より、 かの門下中、 この当山へ道俗男女参詣をいたし、 群集せしむるよし、 その*きこえかくれなし。 これ末代の不思議なり。 ただごとともおぼえはんべらず。
さりながら、 かの門徒の面々には、 さても念仏法門をばなにとすすめられ候ふやらん。 とりわけ信心といふことをむねとをしへられ候ふよし、 ひとびと申し候ふなるは、 いかやうなることにて候ふやらん。 くはしくききまゐらせて、 われらもこの罪業深重のあさましき女人の身をもちて候へば、 その信心とやらんをききわけまゐらせて、 往生をねがひたく候ふよしを、 かの*山中のひとにたづねまうして候へば、
しめしたまへるおもむきは、 「*なにのやうもなく、 ただわが身は十悪・五逆、 *五障・三従のあさましきものぞとおもひて、 ふかく、 阿弥陀如来はかかる機をたすけまします御すがたなりとこころえまゐらせて、 ふたごころなく弥陀をたのみ1094たてまつりて、 たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、 かたじけなくも如来は▲八万四千の光明0080を放ちて、 その身を摂取したまふなり。 これを弥陀如来の念仏の行者を摂取したまふといへるはこのことなり。
摂取不捨といふは、 をさめとりてすてたまはずといふこころなり。 このこころを信心をえたる人とは申すなり。 さてこのうへには、 ねてもさめても*たつてもゐても、 南無阿弥陀仏と申す念仏は、 弥陀に*はやたすけられまゐらせつるかたじけなさの、 弥陀の御恩を、 南無阿弥陀仏ととなへて報じまうす念仏なりとこころうべきなり」 とねんごろにかたりたまひしかば、
この女人たち、 そのほかのひと、 申されけるは、 「まことにわれらが根機にかなひたる弥陀如来の本願にてましまし候ふをも、 いままで信じまゐらせ候はぬことのあさましさ、 申すばかりも候はず。 いまよりのちは一向に弥陀をたのみまゐらせて、 ふたごころなく一念にわが往生は如来のかたより御たすけありけりと信じたてまつりて、 そののちの念仏は、 仏恩報謝の称名なりとこころえ候ふべきなり。 かかる不思議の宿縁にあひまゐらせて、 *殊勝の法をききまゐらせ候ふことのありがたさたふとさ、 *なかなか申すばかりもなくおぼえはんべるなり。 いまははやいとま申すなり1095」 とて、 涙をうかめて、 みなみなかへりにけり。
あなかしこ、 あなかしこ。
0081*文明五年八月十二日
(8) 吉崎建立章
^▼*文明第三*初夏上旬のころより、 *江州志賀郡大津*三井寺南別所辺より、 なにとなく*ふとしのび出でて、 越前・加賀諸所を経回せしめをはりぬ。
^よつて当国細呂宜郷内吉崎といふこの在所、 すぐれておもしろきあひだ、 年来虎狼のすみなれしこの山中をひきたひらげて、 *七月二十七日よりかたのごとく一宇を建立して、 昨日今日と過ぎゆくほどに、 はや三年の春秋は送りけり。
^さるほどに道俗男女群集せしむといへども、 *さらになにへんともなき体なるあひだ、 *当年より諸人の出入をとどむるこころは、 この在所に居住せしむる*根元はなにごとぞなれば、 そもそも人界の生をうけてあひがたき仏法にすでにあへる身が、 *いたづらにむなしく*捺落に沈まんは、 まことにもつてあさましきことにはあらずや。
^しかるあひだ念仏の信心を決定して極楽の往生をとげんとおもはざらん人々は、 なにしにこの在所へ来集せんこと、 かなふべからざるよしの*成敗をくはへをはりぬ。 これひとへに名聞・利養を本とせず、 ただ後生1096菩提をこととするがゆゑなり。
^しかれば0082、 見聞の諸人、 *偏執をなすことなかれ。
^あなかしこ、 あなかしこ。
*文明五年九月 日
(9) 物忌章
▼そもそも、 *当宗を、 昔より人こぞりて*をかしくきたなき宗と申すなり。 これまことに道理のさすところなり。
そのゆゑは、 当流人数のなかにおいて、 あるいは*他門・他宗に対してはばかりなくわが家の義を申しあらはせるいはれなり。 これおほきなるあやまりなり。 それ、 当流の掟をまもるといふは、 わが流に伝ふるところの義をしかと内心にたくはへて、 外相にそのいろをあらはさぬを、 よくものにこころえたる人とはいふなり。
しかるに当世はわが宗のことを、 他門・他宗にむかひて、 その*斟酌もなく*聊爾に沙汰するによりて、 当流を人の*あさまにおもふなり。 かやうにこころえのわろきひとのあるによりて、 当流をきたなくいまはしき宗と人おもへり。 さらにもつてこれは他人わろきにはあらず、 自流の人わろきによるなりとこころうべし。
つぎに*物忌といふことは、 わが流には仏法について*ものいまはぬといへることなり。 他宗にも*公1097方にも対しては、 などか物をいまざらんや。 他宗0083・他門にむかひてはもとよりいむべきこと勿論なり。 またよその人の物いむといひてそしることあるべからず。
しかりといへども、 仏法を修行せんひとは、 念仏者にかぎらず、 物*さのみいむべからずと、 あきらかに諸経の文にもあまたみえたり。
まづ ¬*涅槃経¼ (梵行品) にのたまはく、 「如来法中無有選択吉日良辰」 といへり。 この文のこころは、 「如来の法のなかに吉日良辰をえらぶことなし」 となり。
また ¬*般舟経¼ にのたまはく、 「▲優婆夷聞↢是三昧↡欲↠学者 乃至 自帰↢命仏↡帰命↢法↡帰命↢比丘僧↡ 不↠得↠事↢余道↡不↠得↠拝↢於天↡不↠得↠祠↢鬼神↡不↠得↠視↢吉良日↡」 以上 といへり。 この文のこころは、 「優婆夷この三昧を聞きて学ばんと欲せんものは、 みづから仏に帰命し、 法に帰命せよ、 比丘僧に帰命せよ、 余道に事ふることを得ざれ、 天を拝することを得ざれ、 鬼神を祠ることを得ざれ、 吉良日を視ることを得ざれ」 といへり。
かくのごとくの経文どもこれありといへども、 この*分を出すなり。 ことに念仏行者はかれらに事ふべからざるやうにみえたり。 よくよくこころうべし。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明五年九月 日
(101098) 当0084山多屋内方章
▼そもそも、 吉崎の当山において*多屋の坊主達の*内方とならんひとは、 まことに先世の宿縁あさからぬゆゑとおもひはんべるべきなり。 それも後生を一大事とおもひ、 信心も決定したらん身にとりてのうへのことなり。 しかれば、 内方とならんひとびとは、 *あひかまへて信心をよくよくとらるべし。
それ、 まづ当流の安心と申すことは、 おほよそ*浄土一家のうちにおいて、 あひかはりてことにすぐれたるいはれあるがゆゑに、 他力の大信心と申すなり。 さればこの信心をえたるひとは、 十人は十人ながら百人は百人ながら、 今度の往生は一定なりとこころうべきものなり。 その安心と申すは、 いかやうにこころうべきことやらん、 くはしくもしりはんべらざるなり。
答へていはく、 まことにこの不審肝要のことなり。 おほよそ当流の信心をとるべきおもむきは、 まづわが身は女人なれば、 罪ふかき五障・三従とてあさましき身にて、 すでに十方の如来も三世の諸仏にもすてられたる女人なりけるを、 かたじけなくも弥陀如来ひとりかかる機をすくはんと誓ひたまひて、 すでに四十八願をおこしたまへり。 そのうち第十八の願において、 一切の悪人・女人を0085たすけたまへるうへに、 なほ女人は罪ふかく疑のこころふかきによりて1099、 またかさねて第三十五の願になほ女人をたすけんといへる願をおこしたまへるなり。 かかる弥陀如来の御苦労ありつる御恩のかたじけなさよと、 ふかくおもふべきなり。
問うていはく、 さてかやうに弥陀如来のわれらごときのものをすくはんと、 たびたび願をおこしたまへることのありがたさを*こころえわけまゐらせ候ひぬるについて、 *なにとやうに機をもちて、 弥陀をたのみまゐらせ候はんずるやらん、 くはしくしめしたまふべきなり。
答へていはく、 信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、 まづ*人間はただ夢幻のあひだのことなり、 後生こそまことに*永生の楽果なりと*おもひとりて、 人間は五十年百年のうちのたのしみなり、 後生こそ一大事なりとおもひて、 もろもろの雑行をこのむこころをすて、 あるいはまた、 もののいまはしくおもふこころをもすて、 *一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、 そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、 ただひとすぢに弥陀に帰して、 このたびの往生は治定なるべしとおもはば、 そのありがたさのあまり念仏を申して0086、 弥陀如来のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつるべきなり。
これ1100を信心をえたる多屋の坊主達の内方のすがたとは申すべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明五年九月十一日
(11) 電光朝露章
▼それおもんみれば、 人間はただ*電光朝露の夢幻のあひだのたのしみぞかし。 たとひまた栄華栄耀にふけりて、 おもふさまのことなりといふとも、 それはただ五十年乃至百年のうちのことなり。 もしただいまも無常の風きたりてさそひなば、 いかなる病苦にあひてかむなしくなりなんや。 まことに死せんときは、 かねて*たのみおきつる妻子も財宝も、 わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。 されば死出の山路のすゑ、 三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。
これによりて、 ただふかくねがふべきは後生なり、 またたのむべきは弥陀如来なり、 信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。 これについてちかごろは、 この方の念仏者の坊主達、 仏法の次第もつてのほか相違す。
そのゆゑ0087は、 *門徒のかたよりものをとるをよき弟子といひ、 これを信心のひとといへり。 これおほきなるあやまりなり。 また弟子は坊主にものをだにも1101おほくまゐらせば、 わがちからかなはずとも、 坊主のちからにてたすかるべきやうにおもへり。 これもあやまりなり。 かくのごとく坊主と門徒のあひだにおいて、 さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。 まことにあさましや。 師・弟子ともに極楽には往生せずして、 むなしく地獄におちんことは疑なし。 なげきてもなほあまりあり、 かなしみてもなほふかくかなしむべし。
しかれば、 今日よりのちは、 他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、 信心決定して、 その信心のおもむきを弟子にもをしへて、 もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明五年九月中旬
(12) 年来超勝寺章
▼*そもそも、 年来*超勝寺の門徒において、 仏法の次第もつてのほか相違せり。
そのいはれは、 まづ*座衆とてこれあり。 いかにもその*座上にあがりて、 さかづきなんどまでも0088ひとよりさきに飲み、 座中のひとにもまたそのほかたれたれにも、 *いみじくおもはれんずるが、 まことに仏法の肝要たるやうに心中にこころえおきたり。 これさらに往生極楽のためにあらず、 ただ世間の名聞に似1102たり。
しかるに当流において*毎月の会合の由来はなにの用ぞなれば、 在家無智の身をもつて、 いたづらにくらし、 いたづらにあかして、 *一期はむなしく過ぎて、 つひに三途に沈まん身が、 一月に一度なりとも、 せめて念仏修行の人数ばかり道場にあつまりて、 わが信心は、 ひとの信心は、 いかがあるらんといふ信心沙汰をすべき用の会合なるを、 ちかごろはその信心といふことはかつて是非の沙汰におよばざるあひだ、 言語道断あさましき次第なり。
所詮*自今以後は、 かたく会合の座中において信心の沙汰をすべきものなり。 これ真実の往生極楽をとぐべきいはれなるがゆゑなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明五年九月下旬
(13) 此方十劫邪義章
^▼*そもそも、 ちかごろは、 この方念仏者のなかにおいて、 *不思議の名言をつかひて、 これこそ0089信心をえたるすがたよといひて、 しかもわれは当流の信心をよく知り顔の*体に心中にこころえおきたり。
^そのことばにいはく、 「*十劫正覚のはじめより、 われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ」 といへり。 これおほきなるあやまりなり。 *そも弥陀如来の正覚を成り1103たまへるいはれをしりたりといふとも、 われらが往生すべき他力の信心といふいはれをしらずは、 いたづらごとなり。
^しかれば、 *向後においては、 まづ当流の真実信心といふことをよくよく存知すべきなり。
その信心といふは、 ¬大経¼ には三信と説き、 ¬*観経¼ には三心といひ、 ¬*阿弥陀経¼ には一心とあらはせり。
^三経ともにその名かはりたりといへども、 そのこころはただ他力の一心をあらはせるこころなり。
^されば信心といへるそのすがたはいかやうなることぞといへば、 まづもろもろの雑行をさしおきて、 一向に弥陀如来をたのみたてまつりて、 *自余の一切の諸神・諸仏等にもこころをかけず、 一心にもつぱら弥陀に帰命せば、 如来は光明をもつてその身を摂取して捨てたまふべからず。 これすなはちわれらが一念の信心決定したるすがたなり。
^かくのごとくこころえてののちは、 弥陀如来の他力の信心をわれらにあたへたまへる御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべし。
^これをもつて信心決0090定したる念仏の行者とは申すべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
*文明第五、 九月下旬のころこれを書く云々。
(14)1104 誡誹謗章
▼そもそも、 当流念仏者のなかにおいて、 *諸法を*誹謗すべからず。 まづ越中・加賀ならば、 *立山・*白山そのほか諸山寺なり。 越前ならば、 *平泉寺・*豊原寺等なり。
されば ¬経¼ (大経) にも、 すでに 「▲唯除五逆誹謗正法」 とこそこれをいましめられたり。 これによりて、 念仏者はことに諸宗を謗ずべからざるものなり。
また聖道諸宗の学者達も、 あながちに念仏者をば謗ずべからずとみえたり。 そのいはれは、 経釈ともにその文これおほしといへども、 まづ*八宗の祖師龍樹菩薩の ¬智論¼ (*大智度論) にふかくこれをいましめられたり。 その文にいはく、 「*自法愛染故 毀呰他人法 雖持戒行人 不免地獄苦」 といへり。
かくのごとくの論判分明なるときは、 いづれも仏説なり。 あやまりて謗ずることなかれ。 それ、 みな一宗一宗のことなれば、 わがたのまぬばかりにてこそあるべけれ。 ことさら当流のなかにおいて、 なにの分別もなきもの、 他宗をそしること*勿体なき次第なり。 あひかまへてあひかまへて、 *一0091所の坊主分たるひとは、 この成敗をかたくいたすべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明五年九月下旬
(15)1105 宗名章
▼問うていはく、 当流をみな世間に流布して、 一向宗となづけ候ふは、 いかやうなる子細にて候ふやらん、 不審におぼえ候ふ。
答へていはく、 あながちにわが流を一向宗となのることは、 *別して祖師 (親鸞) も定められず。 おほよそ阿弥陀仏を一向にたのむによりて、 みな人の申しなすゆゑなり。 しかりといへども、 経文 (大経・下) に 「▲一向専念無量寿仏」 と説きたまふゆゑに、 一向に無量寿仏を念ぜよといへるこころなるときは、 一向宗と申したるも子細なし。
さりながら*開山 (親鸞) はこの宗をば浄土真宗とこそ定めたまへり。 されば一向宗といふ名言は、 さらに本宗より申さぬなりとしるべし。 されば*自余の浄土宗はもろもろの雑行をゆるす。 わが聖人 (親鸞) は雑行をえらびたまふ。 このゆゑに真実報土の往生をとぐるなり。 このいはれあるがゆゑに、 別して真の字を入れたまふなり。
またのたまはく、 当宗をすでに浄土真宗となづけられ候ふことは分明にきこえぬ。 しかるにこの*宗体にて、 在家の罪ふかき*悪逆の機なりといふとも、 弥陀の願力にすがりてたやすく極楽に往生すべきやう、 くはしく承りはんべらんとおもふ0092なり。
1106答へていはく、 当流のおもむきは、 信心決定しぬればかならず真実報土の往生をとぐべきなり。 さればその信心といふはいかやうなることぞといへば、 なにの*わづらひもなく、 弥陀如来を一心にたのみたてまつりて、 その余の仏・菩薩等にもこころをかけずして、 一向にふたごころなく弥陀を信ずるばかりなり。 これをもつて信心決定とは申すものなり。
信心といへる二字をば、 まことのこころとよめるなり。 まことのこころといふは、 行者のわろき自力のこころにてはたすからず、 如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、 まことのこころとは申すなり。
また名号をもつてなにのこころえもなくして、 ただとなへてはたすからざるなり。 されば ¬経¼ (大経・下) には、 「▲聞其名号 信心歓喜」 と説けり。 「その名号を聞く」 といへるは、 南無阿弥陀仏の六字の名号を*無名無実にきくにあらず。 善知識にあひて0093そのをしへをうけて、 この南無阿弥陀仏の名号を南無とたのめば、 かならず阿弥陀仏のたすけたまふといふ道理なり。 これを ¬経¼ に 「信心歓喜」 と説かれたり。 これによりて、 南無阿弥陀仏の体は、 われらをたすけたまへるすがたぞとこころうべきなり。
かやうにこころえてのちは、 行住坐臥に口にとなふる称名をば、 ただ弥陀如来1107のたすけまします御恩を報じたてまつる念仏ぞとこころうべし。 これをもつて信心決定して極楽に往生する他力の念仏の行者とは申すべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明第五、 九月下旬第二日*巳剋に至りて加州山中湯治の内にこれを書き集めをはりぬ。
釈*証如(花押)
○ 二 帖
(1)0094 御さらへ章
▼そもそも、 今度*一七箇日報恩講のあひだにおいて、 多屋内方もそのほかの人も、 大略信心を決定したまへるよしきこえたり。 *めでたく本望これにすぐべからず。
さりながら、 そのままうちすて候へば、 信心もうせ候ふべし。 *細々に信心の溝をさらへて、 弥陀の法水を流せといへることありげに候ふ。
それについて、 女人の身は十方三世の*諸仏にもすてられたる身にて候ふを、 阿弥陀如来1108なればこそ、 かたじけなくもたすけましまし候へ。
そのゆゑは、 女人の身はいかに真実心になりたりといふとも、 疑の心はふかくして、 また物なんどのいまはしくおもふ心はさらに失せがたくおぼえ候ふ。 ことに在家の身は、 *世路につけ、 また子孫なんどのことに*よそへても、 ただ今生にのみふけりて、 これほどに、 はや目にみえて*あだなる人間界の*老少不定のさかひとしりながら、 ただいま三途・八難に沈まんことをば、 露ちりほども心にかけずして、 いたづらにあかしくらすは、 これつねの人のならひなり。 あさましといふも*おろかなり。
これによりて、 一心一向に弥陀一仏の悲願に帰して、 ふかくたのみたてまつりて、 もろもろの雑行を修する心をすて、 また諸神・諸仏に追従申す心をもみなうちすてて、 さて弥陀如来と申すは、 かかるわれらごときのあさ0095ましき女人のためにおこしたまへる本願なれば、 まことに仏智の不思議と信じて、 わが身はわろきいたづらものなりとおもひつめて、 ふかく如来に*帰入する心をもつべし。
さてこの信ずる心も念ずる心も、 弥陀如来の御方便よりおこさしむるものなりとおもふべし。 かやうにこころうるを、 すなはち他力の信心をえたる人とはいふなり。 またこの位を、 あるいは正定聚に住すとも、 滅度に至るとも1109、 等正覚に至るとも、 弥勒にひとしとも申すなり。 またこれを一念発起の往生定まりたる人とも申すなり。
かくのごとくこころえてのうへの称名念仏は、 弥陀如来のわれらが往生をやすく定めたまへる、 その御うれしさの御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
これについて、 まづ当流の掟をよくよくまもらせたまふべし。 そのいはれは、 あひかまへていまのごとく信心のとほりをこころえたまはば、 身中にふかくをさめおきて、 他宗・他人に対してそのふるまひをみせずして、 また信心のやうをもかたるべからず。 一切の諸神なんどをもわが信ぜぬまでなり、 *おろかにすべからず。
かくのごとく信心のかたもそのふるまひもよき人をば、 聖人 (親鸞) も 「よくこころえたる信心の行者なり」 と仰せられたり。 ただふかくこころをば仏法にとどむべき0096なり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明第五、 十二月八日これを書きて*当山の多屋内方へまゐらせ候ふ。 このほかなほなほ不審のこと候はば、 かさねて問はせたまふべく候ふ。
*所送寒暑 *五十九歳 *御判
のちの代のしるしのためにかきおきし *のりのことの葉かたみともなれ
(2)1110 出立章
▼そもそも、 開山聖人 (親鸞) の御一流には、 それ信心といふことをもつて先とせられたり。
その信心といふはなにの用ぞといふに、 *無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、 たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立なり。 この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、 無間地獄に堕在すべきものなり。
これによりて、 その信心をとらんずるやうはいかんといふに、 それ弥陀如来一仏をふかくたのみたてまつりて、 自余の諸善万行にこころをかけず、 また諸神・諸菩薩において、 *今生のいのりをのみなせるこころを失ひ、 またわろき自力なんどいふ*ひがおもひをもなげすて0097て、 弥陀を一心一向に信楽してふたごころのなき人を、 弥陀はかならず*遍照の光明をもつて、 その人を摂取して捨てたまはざるものなり。
かやうに信をとるうへには、 ねてもおきてもつねに申す念仏は、 かの弥陀のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべし。 かやうにこころえたる人をこそ、 まことに当流の信心をよくとりたる正義とはいふべきものなり。 このほかになほ信心といふことのありといふ人これあらば、 おほきなるあやまりなり。 すべて*承引すべからざるものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
1111いまこの文にしるすところのおもむきは、 当流の親鸞聖人すすめたまへる信心の正義なり。 この分をよくよくこころえたらん人々は、 あひかまへて他宗・他人に対してこの信心のやうを沙汰すべからず。 また自余の一切の仏・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり。 あながちにこれをかろしむべからず。 これまことに弥陀一仏の功徳のうちに、 みな一切の諸神はこもれりとおもふべきものなり。 総じて一切の*諸法においてそしりをなすべからず。 これをもつて当流の掟をよくまもれる人となづくべし。
されば聖人のいはく、 「▲たとひ牛盗人とはいはるとも、 もしは後世者、 もしは善人、 もしは仏法者とみゆるやう0098にふるまふべからず」 (*改邪鈔) とこそ仰せられたり。 このむねをよくよくこころえて念仏をば修行すべきものなり。
*文明第五、 十二月十二日夜これを書く。
(3) 神明三ヶ条章
▼それ、 当流開山聖人 (親鸞) のひろめたまふところの一流のなかにおいて、 みな勧化をいたすにその不同これあるあひだ、 所詮向後は、 当山多屋坊主以下そのほか一巻の聖教を読まん人も、 また来集の面々も、 各々に当門下1112に*その名をかけんともがらまでも、 この三箇条の*篇目をもつてこれを存知せしめて、 自今以後、 その*成敗をいたすべきものなり。
一 諸法・諸宗ともにこれを誹謗すべからず。
一 諸神・諸仏・菩薩をかろしむべからず。
一 信心をとらしめて報土往生をとぐべき事。
右この三箇条の旨をまもりて、 ふかく心底にたくはへて、 これをもつて本とせざらん人々においては、 この当山へ出入を停止すべきものなり。
そもそも、 さんぬる*文0099明第三の暦、 *仲夏のころより*花洛を出でて、 おなじき年七月下旬の候、 すでにこの当山の風波あらき在所に草庵をしめて、 この四箇年のあひだ居住せしむる根元は、 別の子細にあらず。 この三箇条のすがたをもつて、 かの北国中において、 当流の信心未決定のひとを、 おなじく*一味の安心になさんがためのゆゑに、 今日今時まで*堪忍せしむるところなり。 よつてこのおもむきをもつてこれを信用せば、 まことにこの年月の在国の本意たるべきものなり。
一 *神明と申すは、 それ仏法において信もなき衆生のむなしく地獄におちんことをかなしみおぼしめして、 これをなにとしてもすくはんがために、 仮に神1113とあらはれて、 いささかなる縁をもつて、 それをたよりとして、 つひに仏法にすすめ入れしめんための方便に、 神とはあらはれたまふなり。
しかれば、 今の時の衆生において、 弥陀をたのみ信心決定して念仏を申し、 極楽に往生すべき身となりなば、 一切の神明は、 かへりてわが本懐とおぼしめしてよろこびたまひて、 念仏の行者を守護したまふべきあひだ、 *とりわき神をあがめねども、 ただ弥陀一仏をたのむうちにみなこもれるがゆゑに、 別してたのまざれども信ずるいはれのあるがゆゑなり。
0100一 当流のなかにおいて、 諸法・諸宗を誹謗することしかるべからず。 いづれも釈迦一代の説教なれば、 *如説に修行せばその益あるべし。 さりながら末代われらごときの*在家止住の身は、 聖道諸宗の教におよばねば、 それをわがたのまず、 信ぜぬばかりなり。
一 諸仏・菩薩と申すことは、 それ弥陀如来の分身なれば、 十方諸仏のためには*本師*本仏なるがゆゑに、 阿弥陀一仏に帰したてまつれば、 すなはち諸仏・菩薩に帰するいはれあるがゆゑに、 阿弥陀一体のうちに諸仏・菩薩はみなことごとくこもれるなり。
1114一 開山親鸞聖人のすすめましますところの弥陀如来の他力真実信心といふは、 もろもろの雑行をすてて専修専念・一向一心に弥陀に帰命するをもつて、 本願を信楽する*体とす。 されば*先達より承りつたへしがごとく、 弥陀如来の真実信心をば、 いくたびも他力よりさづけらるるところの仏智の不思議なりとこころえて、 一念をもつては往生治定の*時剋と定めて、 そのときの命のぶれば自然と*多念におよぶ道理なり。
これによりて、 平生のとき一念往生治定のうへの仏恩報尽の多念の称名と*ならふところなり。 しかれば、 祖師聖人 (親鸞) 御相伝一流の肝要は、 ただ0101この信心ひとつにかぎれり。 これをしらざるをもつて*他門とし、 これをしれるをもつて真宗のしるしとす。 そのほかかならずしも外相において当流念仏者のすがたを他人に対してあらはすべからず。 これをもつて真宗の信心をえたる行者のふるまひの*正本となづくべきところ*件のごとし。
*文明六年甲午正月十一日これを書く。
(4) 横截五悪趣章
^▼それ、 弥陀如来の*超世の本願と申すは、 末代濁世の造悪不善のわれらごとき1115の凡夫のためにおこしたまへる無上の誓願なるがゆゑなり。
^しかれば、 これをなにとやうに心をももち、 なにとやうに弥陀を信じて、 かの浄土へは往生すべきやらん、 さらにその分別なし。 くはしくこれををしへたまふべし。
^答へていはく、 末代今の時の衆生は、 ただ一すぢに弥陀如来をたのみたてまつりて、 余の仏・菩薩等をもならべて信ぜねども、 一心一向に弥陀一仏に帰命する衆生をば、 いかに罪ふかくとも仏の*大慈大悲をもつてすくはんと誓ひたまひて、 大光明を放ちて、 その光明のうちに摂め取りましますゆゑに、 このこころを ¬経¼ (*観経) には0102、 「▲光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」 と説きたまへり。
^されば五道・六道といへる悪趣にすでにおもむくべきみちを、 弥陀如来の願力の不思議としてこれをふさぎたまふなり。
^このいはれをまた ¬経¼ (*大経・下) には、 「▲横截五悪趣悪趣自然閉」 と説かれたり。
^かるがゆゑに、 如来の誓願を信じて一念の疑心なきときは、 いかに地獄へおちんとおもふとも、 弥陀如来の摂取の光明に摂め取られまゐらせたらん身は、 わがはからひにて地獄へもおちずして極楽にまゐるべき身なるがゆゑなり。
^かやうの道理なるときは、 *昼夜朝暮は、 如来大悲の御恩を*雨山にかうぶりたるわれらなれば1116、 ただ口につねに称名をとなへて、 かの仏恩を報謝のために念仏を申すべきばかりなり。
^これすなはち真実信心をえたるすがたといへるはこれなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
**文明六、 二月十五日の夜、 大聖世尊 (釈尊) *入滅の昔をおもひいでて、 灯の下において老眼を拭ひ筆を染めをはりぬ。
満六十 御判
(5)0103 珠数章
^▼そもそも、 この三四年のあひだにおいて、 当山の念仏者の*風情をみおよぶに、 まことにもつて他力の安心決定せしめたる分なし。
^そのゆゑは、 *珠数の一連をももつひとなし。 さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり。 聖人 (親鸞)、 まつたく 「珠数をすてて仏を拝め」 と仰せられたることなし。 さりながら珠数をもたずとも、 往生浄土のためにはただ他力の信心一つばかりなり。 それにはさはりあるべからず。
^まづ大坊主分たる人は、 袈裟をもかけ、 珠数をもちても子細なし。 これによりて真実信心を獲得したる人は、 かならず口にも出し、 また*色にもそのすがたはみゆるなり。 しかれば、 *当時はさらに真実信心を*うつくしく1117えたる人、 いたりてまれなりとおぼゆるなり。
^それはいかんぞなれば、 弥陀如来の本願のわれらがために相応したるたふとさのほども、 身にはおぼえざるがゆゑに、 いつも信心のひととほりをば、 われこころえ顔のよしにて、 なにごとを聴聞するにも、 そのこととばかりおもひて、 耳へもしかしかともいらず、 ただ人まねばかりの*体たらくなりとみえたり。
^この分にては、 自身の往生極楽もいまはいかがとあやふくおぼゆるなり。 いはんや門徒・同朋を勧化の儀も、 なかなかこれあるべからず。 かくのごときの心中にては0104今度の報土往生も不可なり。
^*あらあら*勝事や。 ただふかくこころをしづめて思案あるべし。 まことにもつて人間は出づる息は入るをまたぬならひなり。 あひかまへて油断なく仏法をこころにいれて、 信心決定すべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
*文明六、 二月十六日早朝ににはかに筆を染めをはりぬのみ。
(6) 掟章
▼そもそも、 当流の他力信心のおもむきをよく聴聞して、 決定せしむるひとこれあらば、 その信心のとほりをもつて心底にをさめおきて、 他宗・他人に対して沙汰すべからず。 また*路次・大道われわれの在所なんどにても、 あらはに人1118をもはばからずこれを*讃嘆すべからず。 つぎには*守護・*地頭方にむきても、 われは信心をえたりといひて疎略の儀なく、 いよいよ*公事をまつたくすべし。 また諸神・諸仏・菩薩をもおろそかにすべからず。 これみな南無阿弥陀仏の六字のうちにこもれるがゆゑなり。 ことにほかには*王法をもつておもてとし、 内心には他力の信心をふかくたくはへて、 世間の*仁義をもつて本とすべし。
これすなはち当流に定むるところの掟のおも0105むきなりとこころうべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明六年二月十七日これを書く。
(7) 易往無人章
^▼しづかにおもんみれば、 それ人間界の生を受くることは、 まことに五戒をたもてる*功力によりてなり。 これおほきにまれなることぞかし。 ただし人界の生はわづかに*一旦の*浮生なり、 後生は永生の楽果なり。
^たとひまた栄華にほこり栄耀にあまるといふとも、 *盛者必衰会者定離のならひなれば、 ひさしくたもつべきにあらず。 ただ五十年百年のあひだのことなり。 それも老少不定ときくときは、 まことにもつてたのみすくなし。
^これによりて、 今の時の衆生は1119、 他力の信心をえて浄土の往生をとげんとおもふべきなり。
^そもそも、 その信心をとらんずるには、 さらに智慧もいらず、 *才学もいらず、 富貴も貧窮もいらず、 善人も悪人もいらず、 男子も女人もいらず、 ただもろもろの雑行をすてて正行に帰するをもつて本意とす。
^その正行に帰するといふは、 なにのやうもなく弥陀如来を一心一向にたのみたてまつる理ばかりなり。
^かやうに信ずる衆生をあまねく光明のなかに摂取して0106捨てたまはずして、 *一期の命尽きぬればかならず浄土におくりたまふなり。
^この一念の安心一つにて浄土に往生することの、 あら、 やうもいらぬとりやすの安心や。 されば安心といふ二字をば、 「やすきこころ」 とよめるはこのこころなり。
^さらになにの造作もなく、 一心一向に如来をたのみまゐらする信心ひとつにて、 極楽に往生すべし。
^あら、 こころえやすの安心や、 また、 あら、 往きやすの浄土や。
^これによりて ¬大経¼ (下) には、 「▲易往而無人」 とこれを説かれたり。
^この文のこころは、 「安心をとりて弥陀を一向にたのめば、 浄土へはまゐりやすけれども、 信心をとるひとまれなれば、 浄土へは往きやすくして人なし」 といへるはこの経文のこころなり。
^かくのごとくこころうるうへには、 昼夜朝暮にとなふるところの1120名号は、 大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。
^かへすがへす仏法にこころをとどめて、 とりやすき信心のおもむきを存知して、 かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
*文明六年三月三日これを清書す。
(8)0107 本師本仏章
▼それ、 十悪・五逆の罪人も、 五障・三従の女人も、 むなしくみな十方三世の諸仏の悲願にもれて、 すてはてられたるわれらごときの凡夫なり。 しかれば、 ここに弥陀如来と申すは、 三世十方の諸仏の本師本仏なれば、 久遠実成の古仏として、 いまのごときの諸仏にすてられたる末代不善の凡夫、 五障・三従の女人をば、 弥陀にかぎりてわれひとりたすけんといふ超世の大願をおこして、 われら一切衆生を平等にすくはんと誓ひたまひて、 無上の誓願をおこして、 すでに阿弥陀仏となりましましけり。
この如来をひとすぢにたのみたてまつらずは、 末代の凡夫、 極楽に往生するみち、 ふたつもみつもあるべからざるものなり。 これによりて、 親鸞聖人のすすめましますところの他力の信心といふことをよく存知せしめんひとは、 かならず十人は十人ながら、 みなかの1121浄土に往生すべし。 さればこの信心をとりてかの弥陀の報土にまゐらんとおもふについて、 なにとやうにこころをももちて、 なにとやうにその信心とやらんをこころうべきや。 ねんごろにこれをきかんとおもふなり。
答へていはく、 それ、 当流親鸞聖人のをしへたまへるところの他力信心のおもむき0108といふは、 なにのやうもなく、 わが身はあさましき罪ふかき身ぞとおもひて、 弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、 もろもろの雑行をすてて専修専念なれば、 かならず遍照の光明のなかに摂め取られまゐらするなり。 これまことにわれらが往生の決定するすがたなり。
このうへになほこころうべきやうは、 一心一向に弥陀に帰命する一念の信心によりて、 はや往生治定のうへには、 行住坐臥に口に申さんところの称名は、 弥陀如来のわれらが往生をやすく定めたまへる大悲の御恩を報尽の念仏なりとこころうべきなり。 これすなはち当流の信心を決定したる人といふべきなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明六年三月中旬
(9) 忠臣貞女章
▼そもそも、 阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、 自余の万善万行をば、 1122すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、 それ弥陀仏の誓ひましますやうは、 一心一向にわれをたのまん衆生をば、 いかなる罪ふかき機なりとも、 すくひたまはんといへる大願なり。
しかれば、 一心一向といふは、 阿弥陀仏において0109、 二仏をならべざるこころなり。
このゆゑに人間においても、 まづ主をばひとりならではたのまぬ道理なり。 されば*外典のことばにいはく、 「忠臣は二君につかへず、 貞女は二夫をならべず」 (*史記・意) といへり。 阿弥陀如来は三世諸仏のためには本師師匠なれば、 その師匠の仏をたのまんには、 いかでか弟子の諸仏のこれをよろこびたまはざるべきや。 このいはれをもつてよくよくこころうべし。
さて南無阿弥陀仏といへる*行体には、 一切の諸神・諸仏・菩薩も、 そのほか万善万行も、 ことごとくみなこもれるがゆゑに、 なにの不足ありてか、 諸行諸善にこころをとどむべきや。 すでに南無阿弥陀仏といへる名号は、 万善万行の総体なれば、 いよいよたのもしきなり。
これによりて、 その阿弥陀如来をばなにとたのみ、 なにと信じて、 かの極楽往生をとぐべきぞなれば、 なにのやうもなく、 ただわが身は極悪深重のあさましきものなれば、 地獄ならではおもむくべきかたもなき身なるを、 かたじけなく1123も弥陀如来ひとりたすけんといふ誓願をおこしたまへりとふかく信じて、 一念帰命の信心をおこせば、 まことに宿善の開発にもよほされて、 仏智より他力の信心をあたへたまふがゆゑに、 *仏心と凡心とひとつになるところをさして、 信心獲得の行者とはいふなり。
このうへには、 ただねてもおきてもへだて0110なく念仏をとなへて、 大悲弘誓の御恩をふかく報謝すべきばかりなりとこころうべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明六歳三月十七日これを書く。
(10) 仏心凡心一体章
▼それ、 当流親鸞聖人のすすめましますところの一義のこころといふは、 まづ他力の信心をもつて肝要とせられたり。 この他力の信心といふことをくはしくしらずは、 今度の一大事の往生極楽はまことにもつてかなふべからずと、 経釈ともにあきらかにみえたり。 さればその他力の信心のすがたを存知して、 真実報土の往生をとげんとおもふについても、 いかやうにこころをももち、 またいかやうに機をももちて、 かの極楽の往生をばとぐべきやらん。 そのむねをくはしくしりはんべらず。 ねんごろにをしへたまふべし。 それを聴聞1124していよいよ堅固の信心をとらんとおもふなり。
答へていはく、 そもそも当流の他力信心のおもむきと申すは、 あながちにわが身の罪のふかきにもこころをかけず、 ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつり0111て、 かかる十悪・五逆の罪人も、 五障・三従の女人までも、 みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞとふかく信じて、 さらに一念も本願を疑ふこころなければ、 かたじけなくもその心を如来のよくしろしめして、 すでに行者のわろきこころを如来のよき御こころとおなじものになしたまふなり。
このいはれをもつて仏心と凡心と一体になるといへるはこのこころなり。 これによりて、 弥陀如来の遍照の光明のなかに摂め取られまゐらせて、 一期のあひだはこの光明のうちにすむ身なりとおもふべし。 さていのちも尽きぬれば、 すみやかに真実の報土へおくりたまふなり。
しかれば、 このありがたさたふとさの弥陀大悲の御恩をば、 いかがして報ずべきぞなれば、 昼夜朝暮にはただ称名念仏ばかりをとなへて、 かの弥陀如来の御恩を報じたてまつるべきものなり。 このこころすなはち、 当流にたつるところの一念発起平生業成といへる義これなりとこころうべし。
さればかやうに弥陀を一心にたのみたてまつるも、 なにの功労1125もいらず。 また信心をとるといふもやすければ、 仏に成り極楽に往生することもなほやすし。 あら、 たふとの弥陀の本願や、 あら、 たふとの他力の信心や。 さらに往生においてその疑なし。
しかるにこのうへにおいて、 なほ身のふるまひについてこのむねをよくこころう0112べきみちあり。 それ、 一切の神も仏と申すも、 いまこのうるところの他力の信心ひとつをとらしめんがための方便に、 もろもろの神・もろもろのほとけとあらはれたまふいはれなればなり。 しかれば、 一切の仏・菩薩も、 もとより弥陀如来の分身なれば、 みなことごとく、 一念南無阿弥陀仏と帰命したてまつるうちにみなこもれるがゆゑに、 おろかにおもふべからざるものなり。
またこのほかになほこころうべきむねあり。 それ、 国にあらば守護方、 ところにあらば地頭方において、 われは仏法をあがめ信心をえたる身なりといひて、 疎略の儀*ゆめゆめあるべからず。 いよいよ公事をもつぱらにすべきものなり。 かくのごとくこころえたる人をさして、 信心発得して後生をねがふ念仏行者のふるまひの本とぞいふべし。
これすなはち仏法・王法をむねとまもれる人となづくべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明六年五月十三日これを書く。
(111126) 五重義章
^▼それ、 当流親鸞聖人の勧化のおもむき、 近年諸国において*種々不同なり。 これおほきに0113あさましき次第なり。
^そのゆゑは、 まづ当流には、 他力の信心をもつて凡夫の往生を*先とせられたるところに、 その信心のかたをばおしのけて*沙汰せずして、 そのすすむることばにいはく、 「*十劫正覚のはじめよりわれらが往生を弥陀如来の定めましましたまへることをわすれぬがすなはち信心のすがたなり」 といへり。 これさらに、 弥陀に帰命して他力の信心をえたる分はなし。
^さればいかに十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることをしりたりといふとも、 われらが往生すべき他力の信心のいはれをよくしらずは、 極楽には往生すべからざるなり。
^またあるひとのことばにいはく、 「たとひ弥陀に帰命すといふとも善知識なくはいたづらごとなり、 このゆゑにわれらにおいては善知識ばかりをたのむべし」 と云々。
^これもうつくしく当流の信心をえざる人なりときこえたり。
^そもそも、 善知識の*能といふは、 一心一向に弥陀に帰命したてまつるべしと、 ひとをすすむべきばかりなり。 これによりて五重の義をたてたり。 一つには宿善、 二つには善知識、 三つには光明、 四つには信心、 五つには*名号。 この五重の義、 成就せずは往生はかなふべからず1127とみえたり。
^されば善知識といふは、 阿弥陀仏に帰命せよといへるつかひなり。 宿善開発して善知識にあはずは、 往生はかなふべからざる0114なり。 しかれども、 帰するところの弥陀をすてて、 ただ善知識ばかりを本とすべきこと、 おほきなるあやまりなりとこころうべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
*文明六年五月二十日
(12) 人間五十年章
▼それ、 人間の五十年をかんがへみるに、 *四王天といへる天の一日一夜にあひあたれり。 またこの四天王の五十年をもつて、 *等活地獄の一日一夜とするなり。
これによりて、 みなひとの地獄におちて苦を受けんことをばなにともおもはず、 また浄土へまゐりて無上の楽を受けんことをも分別せずして、 いたづらにあかし、 むなしく月日を送りて、 さらにわが身の一心をも決定する分もしかしかともなく、 また一巻の聖教をまなこにあててみることもなく、 一句の法門をいひて門徒を勧化する義もなし。 ただ朝夕は、 ひまをねらひて、 枕をともとして眠り臥せらんこと、 まことにもつてあさましき次第にあらずや。 しづかに思案をめぐらすべきものなり。
このゆゑに今日今時よりして、 *不法懈怠1128にあらんひとびとは、 いよいよ信0115心を決定して真実報土の往生をとげんとおもはんひとこそ、 まことにその身の徳ともなるべし。 これまた*自行化他の道理にかなへりとおもふべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
時に*文明第六、 六月*中の二日、 あまりの炎天の暑さに、 これを筆にまかせて書きしるしをはりぬ。
(13) 我宗名望章
▼それ、 当流に定むるところの掟をよく守るといふは、 他宗にも世間にも対しては、 わが一宗のすがたをあらはに人の目にみえぬやうにふるまへるをもつて本意とするなり。
しかるにちかごろは当流念仏者のなかにおいて、 わざと人目にみえて一流のすがたをあらはして、 これをもつてわが宗の*名望のやうにおもひて、 ことに他宗を*こなしおとしめんとおもへり。 これ言語道断の次第なり。 *さらに聖人 (親鸞) の定めましましたる御意にふかくあひそむけり。
そのゆゑは、 「▲すでに牛を盗みたる人とはいはるとも、 当流のすがたをみゆべからず」 (改邪鈔・意) とこそ仰せられたり。 この御ことばをもつてよくよくこころうべし。
つぎに▽当流の安心のおもむきを0116くはしくしらんとおもはんひと1129は、 あながちに智慧・才学もいらず、 男女・貴賎もいらず、 ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて、 かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、 なにのやうもなく、 ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖に*ひしとすがりまゐらするおもひをなして、 後生をたすけたまへとたのみまうせば、 この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、 その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、 その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし。
さればこのこころを ¬経¼ (観経) には、 まさに 「▲光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」 とは説かれたりとこころうべし。
さてはわが身のほとけに成らんずることは、 なにのわづらひもなし。 あら、 殊勝の超世の本願や、 ありがたの弥陀如来の光明や。 この光明の縁にあひたてまつらずは、 *無始よりこのかたの無明*業障のおそろしき病のなほるといふことは、 さらにもつてあるべからざるものなり。
しかるにこの光明の縁にもよほされて、 宿善の機ありて、 他力の信心といふことをばいますでにえたり。 これ*しかしながら、 弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。
かるがゆゑに、 行者のおこすところの信心にあらず1130、 弥陀如来他力の大信心といふこと0117は、 いまこそあきらかにしられたり。
これによりて、 かたじけなくもひとたび他力の信心をえたらん人は、 みな弥陀如来の御恩のありがたきほどをよくよくおもひはかりて、 仏恩報謝のためにはつねに称名念仏を申したてまつるべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明六年七月三日これを書く。
(14) 秘事法門章
▼それ、 越前国にひろまるところの*秘事法門といへることは、 さらに仏法にてはなし、 あさましき外道の法なり。 これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべき業にて、 いたづらごとなり。 この秘事をなほも執心して肝要とおもひて、 *ひとをへつらひたらさんものには、 あひかまへてあひかまへて*随逐すべからず。 いそぎその秘事をいはん人の手をはなれて、 はやくさづくるところの秘事をありのままに懴悔して、 ひとにかたりあらはすべきものなり。
▽そもそも、 当流勧化のおもむきをくはしくしりて、 極楽に往生せんとおもはんひとは、 まづ他力の信心といふことを存知すべきなり。 それ、 他力の信心といふはなにの要ぞといへば、 かかるあさましき0118われらごときの凡夫の身が、 たやすく浄土へまゐる1131べき*用意なり。 その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、 なにのやうもなく、 ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、 たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、 かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちて、 その身の娑婆にあらんほどは、 この光明のなかにをさめおきましますなり。 これすなはちわれらが往生の定まりたるすがたなり。
されば*南無阿弥陀仏と申す体は、 われらが他力の信心をえたるすがたなり。 この信心といふは、 この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。 さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、 極楽にやすく往生すべきことの、 さらになにの疑もなし。 あら、 殊勝の弥陀如来の他力の本願や。
このありがたさの弥陀の御恩をば、 いかがして報じたてまつるべきぞなれば、 ただねてもおきても南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏ととなへて、 かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。 されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば、 阿弥陀如来の御たすけありつることのありがたさたふとさよとおもひて、 それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
0119*文明六年七月五日
(151132) 九品長楽寺章
▼そもそも、 日本において浄土宗の家々をたてて、 *西山・*鎮西・*九品・*長楽寺とて、 そのほかあまたにわかれたり。 これすなはち法然聖人のすすめたまふところの義は一途なりといへども、 あるいは聖道門にてありし人々の、 聖人 (源空) へまゐりて浄土の法門を聴聞したまふに、 うつくしくその理耳にとどまらざるによりて、 わが本宗のこころをいまだすてやらずして、 かへりてそれを浄土宗にひきいれんとせしによりて、 その不同これあり。
しかりといへども、 あながちにこれを誹謗することあるべからず。 肝要は、 ただわが一宗の安心をよくたくはへて、 自身も決定し人をも勧化すべきばかりなり。
それ、 当流の安心のすがたはいかんぞなれば、 まづわが身は十悪・五逆、 五障・三従のいたづらものなりとふかくおもひつめて、 そのうへにおもふべきやうは、 かかるあさましき機を本とたすけたまへる弥陀如来の不思議の本願力なりとふかく信じたてまつりて、 すこしも疑心なければ、 かならず弥陀は摂取したまふべし。
このこころこそ、 すなはち他力真実の信心をえたるすがたとはいふべきなり0120。 かくのごときの信心を、 一念とらんずることはさらになにのやうもいらず。 あら、 こころえやすの他力の信心や、 あら、 行じやすの名号や。
1133しかれば、 この信心をとるといふも別のことにはあらず、 南無阿弥陀仏の六つの字をこころえわけたるが、 すなはち他力信心の体なり。
また南無阿弥陀仏といふはいかなるこころぞといへば、 「南無」 といふ二字は、 すなはち極楽へ往生せんとねがひて弥陀をふかくたのみたてまつるこころなり。 さて 「阿弥陀仏」 といふは、 かくのごとくたのみたてまつる衆生をあはれみましまして、 無始曠劫よりこのかたのおそろしき罪とがの身なれども、 弥陀如来の光明の縁にあふによりて、 ことごとく無明業障のふかき罪とがたちまちに消滅するによりて、 すでに正定聚の数に住す。 かるがゆゑに*凡身をすてて仏身を証するといへるこころを、 すなはち阿弥陀如来とは申すなり。
されば 「阿弥陀」 といふ三字をば、 *をさめ・たすけ・すくふとよめるいはれあるがゆゑなり。
かやうに信心決定してのうへには、 ただ弥陀如来の仏恩のかたじけなきことをつねにおもひて称名念仏を申さば、 それこそまことに弥陀如来の仏恩を報じたてまつることわりにかなふべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明六、 七月九日これを書く。
0121釈証如(花押)
○1134 三 帖
(1)0122 其名ばかり章
▼そもそも、 当流において、 *その名ばかりをかけんともがらも、 またもとより門徒たらん人も、 安心のとほりをよくこころえずは、 あひかまへて、 今日よりして、 他力の大信心のおもむきをねんごろに人にあひたづねて、 報土往生を決定せしむべきなり。
それ、 一流の安心をとるといふも、 なにのやうもなく、 ただ一すぢに阿弥陀如来をふかくたのみたてまつるばかりなり。
しかれども、 この阿弥陀仏と申すは、 いかやうなるほとけぞ、 またいかやうなる機の衆生をすくひたまふぞといふに、 三世の諸仏にすてられたるあさましきわれら凡夫女人を、 われひとりすくはんといふ大願をおこしたまひて、 五劫があひだこれを思惟し、 永劫があひだこれを修行して、 それ衆生の罪においては、 いかなる十悪・五逆、 謗法・闡提のともがらなりといふとも、 すくはんと誓ひましまして、 すでに諸仏の悲願にこえすぐれたまひて、 その願成就して阿弥陀如来とはならせたまへるを、 すなはち阿弥陀仏とは申すなり。
これによりて、 この仏をばなに1135とたのみ、 なにとこころをももちてかたすけたまふべきぞといふに、 それわが身の罪のふかきことをばうちおきて、 ただかの阿弥陀仏をふたごころなく一向にたのみまゐらせて、 一念も疑ふ心なくは、 かならずたすけたまふべし。 0123しかるに弥陀如来には、 すでに摂取と光明といふ二つのことわりをもつて、 衆生をば済度したまふなり。 まづこの光明に宿善の機のありて照らされぬれば、 つもるところの業障の罪みな消えぬるなり。
さて摂取といふはいかなるこころぞといへば、 この光明の縁にあひたてまつれば、 罪障ことごとく消滅するによりて、 やがて衆生をこの光明のうちに摂めおかるるによりて、 摂取とは申すなり。 このゆゑに、 阿弥陀仏には摂取と光明との二つをもつて肝要とせらるるなりときこえたり。 されば一念帰命の信心の定まるといふも、 この摂取の光明にあひたてまつる時剋をさして、 信心の定まるとは申すなり。
しかれば、 南無阿弥陀仏といへる行体は、 すなはちわれらが浄土に往生すべきことわりを、 この六字にあらはしたまへる御すがたなりと、 いまこそよくはしられて、 いよいよありがたくたふとくおぼえはんべれ。
さてこの信心決定のうへには、 ただ阿弥陀如来の御恩を雨山にかうぶりたることをのみよろこびおもひたてまつり1136て、 その報謝のためには、 ねてもさめても念仏を申すべきばかりなり。 それこそまことに仏恩報尽のつとめなるべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明六、 七月十四日これを書く。
(2)0124 如説修行章
▼それ、 諸宗のこころまちまちにして、 いづれも釈迦一代の説教なれば、 まことにこれ殊勝の法なり。 もつとも*如説にこれを修行せんひとは、 成仏得道すべきこと、 さらに疑なし。 しかるに末代このごろの衆生は、 *機根最劣にして如説に修行せん人まれなる時節なり。
ここに弥陀如来の他力本願といふは、 今の世において、 かかる時の衆生をむねとたすけすくはんがために、 五劫があひだこれを思惟し、 永劫があひだこれを修行して、 「造悪不善の衆生をほとけになさずは、 われも正覚成らじ」 と、 *ちかごとをたてましまして、 その願すでに成就して阿弥陀とならせたまへるほとけなり。 末代今の時の衆生においては、 このほとけの本願にすがりて弥陀をふかくたのみたてまつらずんば、 成仏するといふことあるべからざるなり。
そもそも、 阿弥陀如来の他力本願をばなにとやうに信じ、 またなにとやうに機1137をもちてかたすかるべきぞなれば、 それ弥陀を信じたてまつるといふは、 なにのやうもなく、 他力の信心といふいはれをよくしりたらんひとは、 *たとへば十人は十人ながら、 みなもつて極楽に往生すべし。
さてその他力の信心といふはいかやうなること0125ぞといへば、 ただ南無阿弥陀仏なり。 この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、 すなはち他力信心のすがたなり。 されば、 南無阿弥陀仏といふ六字の体をよくよくこころうべし。
まづ 「南無」 といふ二字はいかなるこころぞといへば、 やうもなく弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、 後生たすけたまへとふたごころなく信じまゐらするこころを、 すなはち南無とは申すなり。
つぎに 「阿弥陀仏」 といふ四字はいかなるこころぞといへば、 いまのごとくに弥陀を一心にたのみまゐらせて、 疑のこころのなき衆生をば、 かならず弥陀の御身より光明を放ちて照らしましまして、 そのひかりのうちに摂めおきたまひて、 さて一期のいのち尽きぬれば、 かの極楽浄土へおくりたまへるこころを、 すなはち阿弥陀仏とは申したてまつるなり。
されば世間に沙汰するところの念仏といふは、 ただ口にだにも南無阿弥陀仏ととなふれば、 たすかるやうにみな人のおもへり。 それは*おぼつかなきことなり1138。
さりながら、 *浄土一家においてさやうに沙汰するかたもあり、 是非すべからず。 これはわが一宗の開山 (親鸞) のすすめたまへるところの一流の安心のとほりを申すばかりなり。 宿縁のあらんひとは、 これをききてすみやかに今度の極楽往生をとぐべし。
かくのごとくこころえたらんひと、 名0126号をとなへて、 弥陀如来のわれらをやすくたすけたまへる御恩を雨山にかうぶりたる、 その仏恩報尽のためには、 称名念仏すべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明六年八月五日これを書く。
(3) 性光門徒章
▼この方*河尻*性光門徒の面々において、 仏法の信心のこころえはいかやうなるらん。 まことにもつて*こころもとなし。 しかりといへども、 いま当流一義のこころをくはしく沙汰すべし。 おのおの耳をそばだててこれをききて、 このおもむきをもつて本とおもひて、 今度の極楽の往生を治定すべきものなり。
それ、 弥陀如来の念仏往生の本願 (第十八願) と申すは、 いかやうなることぞといふに、 在家無智のものも、 また十悪・五逆のやからにいたるまでも、 なにのやうもなく他力の信心といふことをひとつ決定すれば、 みなことごとく極1139楽に往生するなり。
さればその信心をとるといふは、 いかやうなるむつかしきことぞといふに、 なにのわづらひもなく、 ただひとすぢに阿弥陀如来をふたごころなくたのみたてまつりて、 余へこころを散らさざらん0127ひとは、 たとへば十人あらば十人ながら、 みなほとけに成るべし。 このこころひとつをたもたんはやすきことなり。
ただ声に出して念仏ばかりをとなふるひとは*おほやうなり、 それは極楽には往生せず。 この念仏のいはれをよくしりたる人こそほとけには成るべけれ。 なにのやうもなく、 弥陀をよく信ずるこころだにもひとつに定まれば、 やすく浄土へはまゐるべきなり。
このほかには、 わづらはしき*秘事といひて、 ほとけをも拝まぬものはいたづらものなりとおもふべし。
これによりて、 阿弥陀如来の他力本願と申すは、 すでに末代今の時の罪ふかき機を本としてすくひたまふがゆゑに、 在家止住のわれらごときのためには相応したる他力の本願なり。 あら、 ありがたの弥陀如来の誓願や、 あら、 ありがたの釈迦如来の*金言や。 仰ぐべし、 信ずべし。
しかれば、 いふところのごとくこころえたらん人々は、 これまことに当流の信心を決定したる念仏行者のすがたなるべし。
さてこのうへには一期のあひだ申す念仏のこころは、 弥陀如来のわれら1140をやすくたすけたまへるところの雨山の御恩を報じたてまつらんがための念仏なりとおもふべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明六年八月六日これを書く。
(4)0128 大聖世尊章
^▼それ、 *つらつら人間の*あだなる体を案ずるに、 生あるものはかならず死に帰し、 盛んなるものはつひに衰ふるならひなり。 さればただいたづらにあかし、 いたづらにくらして、 年月を送るばかりなり。 これまことになげきてもなほかなしむべし。
^このゆゑに、 上は大聖世尊 (*釈尊) よりはじめて、 下は悪逆の提婆にいたるまで、 のがれがたきは無常なり。
^しかれば、 まれにも受けがたきは人身、 あひがたきは仏法なり。 たまたま仏法にあふことを得たりといふとも、 自力修行の門は、 末代なれば、 今の時は*出離生死のみちはかなひがたきあひだ、 弥陀如来の本願にあひたてまつらずはいたづらごとなり。
^しかるにいますでにわれら弘願の一法にあふことを得たり。 このゆゑに、 ただねがふべきは極楽浄土、 ただたのむべきは弥陀如来、 これによりて信心決定して念仏申すべきなり。
^しかれば、 世のなかにひとのあまねくこころえおきたるとほりは、 ただ1141声に出して南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、 極楽に往生すべきやうにおもひはんべり。 それはおほきにおぼつかなきことなり。
^されば南無阿弥陀仏と申す六字の体はいかなるこころぞといふに、 阿弥陀如来を一向にたのめば、 ほとけその衆生をよくしろしめして、 すくひ0129たまへる御すがたを、 この南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまふなりとおもふべきなり。
^しかれば、 この阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、 後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、 なにのわづらひもなく、 もろもろの雑行雑善をなげすてて、 一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、 ふたごころなく信じたてまつれば、 そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。
^これをすなはち弥陀如来の*摂取の光益にあづかるとは申すなり。 または*不捨の誓益ともこれをなづくるなり。
^かくのごとく阿弥陀如来の光明のうちに摂めおかれまゐらせてのうへには、 一期のいのち尽きなばただちに真実の報土に往生すべきこと、 その疑あるべからず。
^このほかには別の仏をもたのみ、 また余の功徳善根を修してもなににかはせん。 あら、 たふとや、 あら、 ありがたの阿弥陀如来や。 かやうの雨山の御恩をばいかがして報じたてまつるべきぞや。
^ただ南無阿1142弥陀仏、 南無阿弥陀仏と声にとなへて、 その恩徳をふかく報尽申すばかりなりとこころうべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
*文明六年八月十八日
(5)0130 諸仏悲願章
▼そもそも、 諸仏の悲願に弥陀の本願のすぐれましましたる、 そのいはれをくはしくたづぬるに、 すでに十方の諸仏と申すは、 いたりて罪ふかき衆生と、 五障・三従の女人をばたすけたまはざるなり。 このゆゑに諸仏の願に阿弥陀仏の本願はすぐれたりと申すなり。
さて弥陀如来の超世の大願はいかなる機の衆生をすくひましますぞと申せば、 十悪・五逆の罪人も、 五障・三従の女人にいたるまでも、 みなことごとくもらさずたすけたまへる大願なり。 されば一心一向にわれをたのまん衆生をば、 かならず十人あらば十人ながら、 極楽へ*引接せんとのたまへる他力の大誓願力なり。
これによりて、 かの阿弥陀仏の本願をば、 われらごときのあさましき凡夫は、 なにとやうにたのみ、 なにとやうに機をもちて、 かの弥陀をばたのみまゐらすべきぞや。 そのいはれをくはしくしめしたまふべし。 そのをしへのごとく信心をとりて、 弥陀をも信じ、 極楽をも1143ねがひ、 念仏をも申すべきなり。
答へていはく、 まづ世間にいま流布してむねとすすむるところの念仏と申すは、 ただ*なにの分別もなく南無阿弥陀仏とばかりとなふれば、 みなたすかるべきやうにおもへり。 それはおほきにおぼつかなきことなり。 京・田舎のあひだにおいて0131、 浄土宗の流義まちまちにわかれたり。 しかれども、 それを是非するにはあらず、 ただわが開山 (親鸞) の*一流相伝のおもむきを申しひらくべし。
それ、 解脱の耳をすまして*渇仰のかうべをうなだれてこれをねんごろにききて、 信心歓喜のおもひをなすべし。 それ、 在家止住のやから一生造悪のものも、 ただわが身の罪のふかきには目をかけずして、 それ弥陀如来の本願と申すはかかるあさましき機を本とすくひまします不思議の願力ぞとふかく信じて、 弥陀を一心一向にたのみたてまつりて、 他力の信心といふことを一つこころうべし。
さて他力の信心といふ体はいかなるこころぞといふに、 この南無阿弥陀仏の六字の名号の体は、 阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるいはれを、 この南無阿弥陀仏の名号にあらはしましましたる御すがたぞとくはしくこころえわけたるをもつて、 他力の信心をえたる人とはいふなり。
この 「南無」 といふ二1144字は、 衆生の阿弥陀仏を一心一向にたのみたてまつりて、 たすけたまへとおもひて、 余念なきこころを帰命とはいふなり。
つぎに 「阿弥陀仏」 といふ四つの字は、 南無とたのむ衆生を、 阿弥陀仏のもらさずすくひたまふこころなり。 このこころをすなはち摂取不捨とは申すなり。
「摂取不捨」 といふは、 念仏の行者を弥陀如来の光明のなかにをさめとりてすてたまはずといへる0132こころなり。
さればこの南無阿弥陀仏の体は、 われらを阿弥陀仏のたすけたまへる*支証のために、 御名をこの南無阿弥陀仏の六字にあらはしたまへるなりときこえたり。 かくのごとくこころえわけぬれば、 われらが極楽の往生は治定なり。
あら、 ありがたや、 たふとやとおもひて、 このうへには、 はやひとたび弥陀如来にたすけられまゐらせつるのちなれば、 御たすけありつる御うれしさの念仏なれば、 この念仏をば仏恩報謝の称名ともいひ、 また信のうへの称名とも申しはんべるべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明六年九月六日これを書く。
(6) 唯能常称章
^▼それ、 南無阿弥陀仏と申すはいかなるこころぞなれば、 まづ 「南無」 といふ二1145字は、 帰命と発願回向とのふたつのこころなり。 また 「南無」 といふは願なり、 「阿弥陀仏」 といふは行なり。
^されば雑行雑善をなげすてて専修専念に弥陀如来をたのみたてまつりて、 たすけたまへとおもふ帰命の一念おこるとき、 かたじけなくも遍照の光明を放ちて行者を摂取したまふなり。 このこころすなはち阿弥陀仏の四つの字0133のこころなり。 また発願回向のこころなり。
^これによりて、 「南無阿弥陀仏」 といふ六字は、 ひとへにわれらが往生すべき他力信心のいはれをあらはしたまへる御名なりとみえたり。
^このゆゑに、 願成就の文 (*大経・下) には、 「▲聞其名号信心歓喜」 と説かれたり。 この文のこころは、 「その名号をききて信心歓喜す」 といへり。
^「その名号をきく」 といふは、 ただおほやうにきくにあらず。 善知識にあひて、 南無阿弥陀仏の六つの字のいはれをよくききひらきぬれば、 報土に往生すべき他力信心の道理なりとこころえられたり。 かるがゆゑに、 「信心歓喜」 といふは、 すなはち信心定まりぬれば、 浄土の往生は疑なくおもうてよろこぶこころなり。
^このゆゑに弥陀如来の*五劫兆載永劫の御苦労を案ずるにも、 われらをやすくたすけたまふことのありがたさ、 たふとさをおもへばなかなか申すもおろかなり。
^されば1146 ¬和讃¼ (正像末和讃) にいはく、 「▲南無阿弥陀仏の回向の 恩徳広大不思議にて 往相回向の利益には 還相回向に回入せり」 といへるはこのこころなり。
^また 「*正信偈」 にはすでに 「▲唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」 とあれば、 ^いよいよ行住坐臥時処諸縁をきらはず、 仏恩報尽のためにただ称名念仏すべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
0134*文明六年十月二十日これを書く。
(7) 彼此三業章
▼そもそも、 親鸞聖人のすすめたまふところの一義のこころは、 ひとへにこれ末代濁世の在家無智のともがらにおいて、 なにのわづらひもなく、 すみやかに疾く浄土に往生すべき他力信心の一途ばかりをもつて*本とをしへたまへり。 しかれば、 それ阿弥陀如来は、 すでに十悪・五逆の愚人、 五障・三従の女人にいたるまで、 ことごとくすくひましますといへることをば、 いかなる人もよくしりはんべりぬ。
しかるにいまわれら凡夫は、 阿弥陀仏をばいかやうに信じ、 なにとやうにたのみまゐらせて、 かの極楽世界へは往生すべきぞといふに、 ただひとすぢに弥陀如来を信じたてまつりて、 その余はなにごともうちすて1147て、 一向に弥陀に帰し、 一心に本願を信じて、 阿弥陀如来においてふたごころなくは、 かならず極楽に往生すべし。 この道理をもつて、 すなはち他力信心をえたるすがたとはいふなり。
そもそも、 信心といふは、 阿弥陀仏の本願のいはれをよく分別して、 一心に弥陀に帰命するかたをもつて、 他力の安心を決定すとは申すなり。 されば南無阿弥陀仏の六字0135のいはれをよくこころえわけたるをもつて、 信心決定の*体とす。
しかれば、 「南無」 の二字は、 衆生の阿弥陀仏を*信ずる機なり。 つぎに 「阿弥陀仏」 といふ四つの字のいはれは、 弥陀如来の衆生を*たすけたまへる法なり。 このゆゑに、 機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。
これによりて、 衆生の三業と弥陀の三業と一体になるところをさして、 *善導和尚は 「▲彼此三業不相捨離」 (*定善義) と釈したまへるも、 このこころなり。
されば一念帰命の信心決定せしめたらん人は、 かならずみな報土に往生すべきこと、 さらにもつてその疑あるべからず。 あひかまへて自力執心の*わろき機のかたをばふりすてて、 ただ不思議の願力ぞとふかく信じて、 弥陀を一心にたのまんひとは、 たとへば十人は十人ながら、 みな真実報土の往生をとぐべし。
このうへには、 ひたすら弥陀如来の1148御恩のふかきことをのみおもひたてまつりて、 つねに報謝の念仏を申すべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明七年二月二十三日
(8) 当国他国十劫邪義章
▼そもそも、 このごろ当国他国のあひだにおいて、 当流安心のおもむき、 ことのほか相違して、 みな人ごと0136にわれはよく心得たりと思ひて、 さらに法義にそむくとほりをもあながちに人にあひたづねて、 真実の信心をとらんとおもふ人すくなし。 これまことにあさましき執心なり。
すみやかにこの心を*改悔懴悔して、 当流真実の信心に住して、 今度の報土往生を決定せずは、 まことに▲宝の山に入りて、 手をむなしくしてかへらんにことならんものか。
このゆゑにその信心の相違したる詞にいはく、 「それ、 弥陀如来はすでに*十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへることを、 いまにわすれず疑はざるがすなはち信心なり」 とばかりこころえて、 弥陀に帰して信心決定せしめたる分なくは、 報土往生すべからず。 されば*そばさまなるわろきこころえなり。
これによりて、 当流安心のそのすがたをあらはさば、 すなはち南無阿弥陀仏の体を1149よくこころうるをもつて、 他力信心をえたるとはいふなり。
されば 「南無阿弥陀仏」 の六字を善導釈していはく、 「▲南無といふは帰命、 またこれ発願回向の義なり」 (玄義分) といへり。 その意いかんぞなれば、 阿弥陀如来の*因中において、 われら凡夫の往生の行を定めたまふとき、 凡夫のなすところの回向は自力なるがゆゑに成就しがたきによりて、 阿弥陀如来の凡夫のために御身労ありて、 この回向をわれらにあたへんがために回向成就したまひて、 一念南無と帰命するところにて、 この回向をわれら凡夫にあたへまします0137なり。
かるがゆゑに、 凡夫の方よりなさぬ回向なるがゆゑに、 これをもつて如来の回向をば行者のかたよりは不回向とは申すなり。
このいはれあるがゆゑに、 「南無」 の二字は帰命のこころなり、 また発願回向のこころなり。 このいはれなるがゆゑに、 南無と帰命する衆生をかならず摂取して捨てたまはざるがゆゑに、 南無阿弥陀仏とは申すなり。 これすなはち一念帰命の他力信心を獲得する平生業成の念仏行者といへるはこのことなりとしるべし。
かくのごとくこころえたらん人々は、 いよいよ弥陀如来の御恩徳の深遠なることを信知して、 行住坐臥に称名念仏すべし。 これすなはち 「▲憶念弥陀仏本願 自然1150即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」 (正信偈) といへる文のこころなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明七、 二月二十五日
(9) 御命日章
▼そもそも、 今日は鸞聖人 (親鸞) の御命日として、 かならず報恩謝徳のこころざしをはこばざる人、 これすくなし。 しかれども、 かの諸人のうへにおいて、 あひこころうべきおもむきは、 もし本願他力の真実信心を獲得せざらん未安心のともがらは、 今日に0138かぎりてあながちに*出仕をいたし、 この講中の座敷をふさぐをもつて真宗の肝要とばかりおもはん人は、 いかでかわが聖人の御意にはあひかなひがたし。
しかりといへども、 わが在所にありて報謝のいとなみをもはこばざらんひとは、 *不請にも出仕をいたしてもよろしかるべきか。 されば毎月二十八日ごとにかならず出仕をいたさんとおもはんともがらにおいては、 あひかまへて、 日ごろの信心のとほり決定せざらん未安心のひとも、 すみやかに本願真実の他力信心をとりて、 わが身の今度の報土往生を決定せしめんこそ、 まことに聖人報恩謝徳の*懇志にあひかなふべけれ。
また自1151身の極楽往生の一途も治定しをはりぬべき道理なり。 これすなはちまことに 「▲自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」 (*礼讃) といふ釈文のこころにも符合せるものなり。
それ、 聖人御入滅はすでに*一百余歳を経といへども、 かたじけなくも目前において真影を拝したてまつる。 また*徳音ははるかに無常の風にへだつといへども、 まのあたり*実語を相承血脈してあきらかに耳の底にのこして、 一流の他力真実の信心いまにたえせざるものなり。
これによりて、 いまこの時節にいたりて、 本願真実の信心を獲得せしむる人なくは、 まことに宿善のもよほしにあづからぬ身とおもふべし。 *もし宿善開発の機にても0139われらなくは、 むなしく今度の往生は不定なるべきこと、 なげきてもなほかなしむべきはただこの一事なり。 しかるにいま本願の一道にあひがたくして、 まれに無上の本願にあふことを得たり。 まことによろこびのなかのよろこび、 なにごとかこれにしかん。 たふとむべし、 信ずべし。
これによりて、 年月日ごろわがこころの*わろき迷心をひるがへして、 たちまちに本願一実の他力信心にもとづかんひとは、 真実に聖人の御意にあひかなふべし。 これしかしながら、 今日聖人の報恩謝徳の御こころざしにもあひそなはり1152つべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明七年五月二十八日これを書く。
(10) 神明六ヶ条章
▼そもそも、 当流門徒中において、 この六箇条の篇目のむねをよく存知して、 仏法を内心にふかく信じて、 外相にそのいろをみせぬやうにふるまふべし。 しかれば、 このごろ当流念仏者において、 わざと一流のすがたを他宗に対してこれをあらはすこと、 もつてのほかのあやまりなり。 所詮向後この題目の次第をまもりて、 仏法をば修行す0140べし。 もしこのむねをそむかんともがらは、 ながく門徒中の*一列たるべからざるものなり。
一 神社をかろしむることあるべからず。
一 諸仏・菩薩ならびに諸堂をかろしむべからず。
一 諸宗・諸法を誹謗すべからず。
一 守護・地頭を疎略にすべからず。
一 国の仏法の次第、 *非義たるあひだ、 正義におもむくべき事。
一 当流にたつるところの他力信心をば内心にふかく決定すべし。
1153一つには、 一切の神明と申すは、 本地は仏・菩薩の変化にてましませども、 この界の衆生をみるに、 仏・菩薩にはすこしちかづきにくくおもふあひだ、 神明の方便に、 仮に神とあらはれて、 衆生に縁を結びて、 そのちからをもつてたよりとして、 つひに仏法にすすめいれんがためなり。
これすなはち 「和光同塵は結縁のはじめ、 八相成道は利物のをはり」 (*摩訶止観) といへるはこのこころなり。 されば今の世の衆生、 仏法を信じ念仏をも申さん人をば、 神明は*あながちにわが本意とおぼしめすべし。 このゆゑに、 弥陀一仏の悲願に帰すれば、 とりわけ神明をあがめ0141ず信ぜねども、 そのうちにおなじく信ずるこころはこもれるゆゑなり。
二つには、 諸仏・菩薩と申すは、 神明の本地なれば、 今の時の衆生は阿弥陀如来を信じ念仏申せば、 一切の諸仏・菩薩は、 わが本師阿弥陀如来を信ずるに、 そのいはれあるによりて、 わが本懐とおぼしめすがゆゑに、 別して諸仏をとりわき信ぜねども、 阿弥陀仏一仏を信じたてまつるうちに、 一切の諸仏も菩薩もみなことごとくこもれるがゆゑに、 ただ阿弥陀如来を一心一向に帰命すれば、 一切の諸仏の智慧も功徳も、 弥陀一体に帰せずといふことなきいはれなれば1154なりとしるべし。
三つには、 諸宗・諸法を誹謗することおほきなるあやまりなり。 そのいはれすでに*浄土の三部経にみえたり。 また諸宗の学者も、 念仏者をばあながちに誹謗すべからず。 自宗・他宗ともにそのとがのがれがたきこと道理必然せり。
四つには、 守護・地頭においては、 かぎりある年貢*所当をねんごろに沙汰し、 そのほか*仁義をもつて本とすべし。
五つには、 国の仏法の次第、 当流の正義にあらざるあひだ、 かつは邪見にみえたり。 所詮自今以後においては、 当流真実の正義をききて、 日ごろの悪心をひるがへして0142、 善心におもむくべきものなり。
六つには、 当流真実の念仏者といふは、 開山 (親鸞) の定めおきたまへる正義をよく存知して、 造悪不善の身ながら極楽の往生をとぐるをもつて宗の本意とすべし。
それ一流の安心の正義のおもむきといふは、 なにのやうもなく、 阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、 われはあさましき悪業煩悩の身なれども、 かかるいたづらものを本とたすけたまへる弥陀願力の強縁なりと不可思議におもひたてまつりて、 一念も疑心なく、 おもふこころだにも堅固1155なれば、 かならず弥陀は無礙の光明を放ちてその身を摂取したまふなり。
かやうに信心決定したらんひとは、 十人は十人ながら、 みなことごとく報土に往生すべし。 このこころすなはち他力の信心を決定したるひとなりといふべし。
このうへになほこころうべきやうは、 まことにありがたき阿弥陀如来の広大の御恩なりとおもひて、 その仏恩報謝のためには、 ねてもおきてもただ南無阿弥陀仏とばかりとなふべきなり。 さればこのほかには、 また後生のためとては、 なにの不足ありてか、 相伝もなきしらぬ*えせ法門をいひて、 ひとをもまどはし、 *あまつさへ法流をもけがさんこと、 まことにあさましき次第にあらずや。 よくよくおもひはからふべきものなり。
あなかしこ、 あ0143なかしこ。
*文明七年七月十五日
(11) 毎年不闕章
▼そもそも、 今月二十八日は開山聖人 (親鸞) *御正忌として、 毎年*不闕にかの知恩報徳の御仏事においては、 あらゆる国郡そのほかいかなる卑劣のともがらまでも、 その御恩をしらざるものはまことに木石にことならんものか。
これについて*愚老、 この四五箇年のあひだは、 なにとなく*北陸の山海のかたほとり1156に居住すといへども、 はからざるにいまに存命せしめ、 *この当国にこえ、 はじめて今年、 聖人御正忌の報恩講にあひたてまつる条、 まことにもつて不可思議の宿縁、 よろこびてもなほよろこぶべきものか。
しかれば、 自国他国より来集の諸人において、 まづ開山聖人の定めおかれし御掟のむねをよく存知すべし。
その御ことばにいはく、 「▲たとひ牛盗人とはよばるとも、 仏法者・後世者とみゆるやうに振舞ふべからず。 また外には*仁・義・礼・智・信をまもりて王法をもつて先とし、 内心にはふかく本願他力の信心を本とすべき」 よしを、 ねんごろに仰せ定めおかれしところ0144に、
近代このごろの人の仏法知り顔の体たらくをみおよぶに、 外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、 内心にはさらにもつて当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、 あまつさへ相伝もせざる聖教をわが身の*字ぢからをもつてこれをよみて、 しらぬえせ法門をいひて、 自他の門徒中を経回して虚言をかまへ、 *結句本寺よりの成敗と号して人をたぶろかし、 物をとりて当流の一義をけがす条、 真実真実あさましき次第にあらずや。
これによりて、 今月二十八日の御正忌七日の報恩講中において、 わろき心中のとほりを改悔懴悔して、 おのおの正義におもむかずは、 たとひ1157この七日の報恩講中において、 *足手をはこび、 人まねばかりに報恩謝徳のためと号すとも、 さらにもつてなにの*所詮もあるべからざるものなり。
されば弥陀願力の信心を獲得せしめたらん人のうへにおいてこそ、 仏恩報尽とも、 また師徳報謝なんどとも申すことはあるべけれ。 この道理をよくよくこころえて足手をもはこび、 聖人をもおもんじたてまつらん人こそ、 真実に*冥慮にもあひかなひ、 また別しては、 当月御正忌の報恩謝徳の懇志にもふかくあひそなはりつべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明七年十一月二十一日これを書く。
(120145) 宿善有無章
▼そもそも、 いにしへ近年このごろのあひだに、 諸国在々所々において、 随分、 仏法者と号して法門を讃嘆し勧化をいたすともがらのなかにおいて、 さらに真実にわがこころ当流の正義にもとづかずとおぼゆるなり。
そのゆゑをいかんといふに、 まづかの心中におもふやうは、 われは仏法の*根源をよく知り顔の体にて、 しかもたれに相伝したる分もなくして、 あるいは縁の端、 障子の外にて、 ただ自然と*ききとり法門の分斉をもつて、 真実に仏法にそのこころざし1158はあさくして、 われよりほかは仏法の次第を存知したるものなきやうにおもひはんべり。
これによりて、 たまたまも当流の正義をかたのごとく讃嘆せしむるひとをみては、 あながちにこれを*偏執す。 すなはちわれひとりよく知り顔の風情は、 第一に憍慢のこころにあらずや。
かくのごときの心中をもつて、 諸方の門徒中を経回して聖教をよみ、 あまつさへわたくしの義をもつて本寺よりのつかひと号して、 人を*へつらひ、 虚言をかまへ、 ものをとるばかりなり。 これらのひとをば、 なにとしてよき仏法者、 また聖教よみとはいふべきをや。 あさましあさまし。 なげきてもなほなげくべきはただこの一事なり。
これによりて、 まづ当流の義をたて、 ひとを勧化せんとおもは0146んともがらにおいては、 その勧化の次第をよく存知すべきものなり。
それ、 当流の他力信心のひととほりをすすめんとおもはんには、 まづ宿善・無宿善の機を*沙汰すべし。 さればいかに昔より当門徒にその名をかけたるひとなりとも、 無宿善の機は信心をとりがたし。 まことに宿善開発の機はおのづから信を決定すべし。 されば無宿善の機のまへにおいては、 正雑二行の沙汰をするときは、 かへりて誹謗の*もとゐとなるべきなり。 この宿善・無宿1159善の道理を分別せずして、 手びろに世間のひとをもはばからず勧化をいたすこと、 もつてのほかの当流の掟にあひそむけり。
されば ¬大経¼ (下) にのたまはく、 「▲若人無善本不得聞此経」 ともいひ、 「▲若聞此経 信楽受持 難中之難 無過斯難」 ともいへり。
また善導は 「▲過去已曽 修習此法 今得重聞 則生歓喜」 (*定善義) とも釈せり。
いづれの経釈によるとも、 すでに宿善にかぎれりとみえたり。 しかれば、 宿善の機をまもりて、 当流の法をばあたふべしときこえたり。 このおもむきをくはしく存知して、 ひとをば勧化すべし。
ことにまづ王法をもつて本とし、 仁義を先として、 *世間通途の義に順じて、 当流安心をば内心にふかくたくはへて、 外相に法流のすがたを他宗・他家にみえぬやうにふるまふべし。 このこころをもつて当流真実の正義をよく存知せしめたるひと0147とはなづくべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明八年正月二十七日
(13) 夫当流門徒中章
▼それ、 当流門徒中において、 すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、 また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、 こころうべき次第は、 まづ1160ほかには王法を本とし、 諸神・諸仏・菩薩をかろしめず、 また諸宗・諸法を謗ぜず、 国ところにあらば守護・地頭にむきては疎略なく、 かぎりある年貢所当を*つぶさに沙汰をいたし、 そのほか仁義をもつて本とし、 また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、 自余の雑行雑善にこころをばとどめずして、 一念も疑心なく信じまゐらせば、 かならず真実の極楽浄土に往生すべし。
このこころえのとほりをもつて、 すなはち弥陀如来の他力の信心をえたる念仏行者のすがたとはいふべし。
かくのごとく念仏の信心をとりてのうへに、 なほおもふべきやうは、 さてもかかるわれらごときのあさましき一生造悪の罪ふかき身ながら、 ひとたび一念帰命の信心をおこせば、 仏の願力によりてたやすくたすけ0148たまへる弥陀如来の不思議にまします超世の本願の強縁のありがたさよと、 ふかくおもひたてまつりて、 その御恩報謝のためには、 ねてもさめてもただ念仏ばかりをとなへて、 かの弥陀如来の仏恩を報じたてまつるべきばかりなり。
このうへには後生のためになにをしりても所用なきところに、 ちかごろもつてのほか、 みな人のなにの不足ありてか、 相伝もなきしらぬ*くせ法門をいひて人をもまどはし、 また無上の法流をもけがさんこと1161、 まことにもつてあさましき次第なり。 よくよくおもひはからふべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明八年七月十八日
釈証如(花押)
○ 四 帖
(1)0149 真宗念仏行者章
▼それ、 真宗念仏行者のなかにおいて、 法義についてそのこころえなき次第これおほし。
しかるあひだ、 大概そのおもむきをあらはしをはりぬ。 所詮自今以後は、 同心の行者はこのことばをもつて本とすべし。 これについてふたつのこころあり。 一つには、 自身の往生すべき安心をまづ治定すべし。 二つには、 ひとを勧化せんに宿善・無宿善のふたつを分別して勧化をいたすべし。 この道理を心中に決定してたもつべし。
しかれば、 わが往生の一段においては、 内心にふかく一念発起の信心をたくはへて、 しかも他力仏恩の称名を*たしなみ1162、 そのうへにはなほ王法を先とし、 仁義を本とすべし。 また諸仏・菩薩等を疎略にせず、 諸法・諸宗を*軽賎せず、 ただ世間通途の義に順じて、 外相に当流法義のすがたを*他宗・他門のひとにみせざるをもつて、 当流聖人 (親鸞) の掟をまもる真宗念仏の行者といひつべし。
ことに当時このごろは、 あながちに偏執すべき耳をそばだて、 謗難のくちびるをめぐらすをもつて本とする時分たるあひだ、 かたくその用捨あるべきものなり。
そもそも、 当流にたつるところの他力の三信といふは、 第十八の願に 「▲至心信楽欲生我国」 といへり。 これすなはち三信とはいへども、 ただ弥陀をたのむところの0150行者帰命の一心なり。
そのゆゑはいかんといふに、 宿善開発の行者、 一念弥陀に帰命せんとおもふこころの一念おこる*きざみ、 仏の*心光、 かの一念帰命の行者を摂取したまふ。 その時節をさして至心・信楽・欲生の三信ともいひ、 またこのこころを願成就の文 (*大経・下) には 「▲即得往生住不退転」 と説けり。 あるいはこの位を、 すなはち真実信心の行人とも、 宿因深厚の行者とも、 平生業成の人ともいふべし。 されば弥陀に帰命すといふも、 信心獲得すといふも、 宿善にあらずといふことなし。
しかれば、 念仏往生の根機は、 宿因1163のもよほしにあらずは、 われら今度の報土往生は不可なりとみえたり。
このこころを聖人の御ことばには 「▲遇獲信心遠慶宿縁」 (*文類聚鈔) と仰せられたり。 これによりて、 当流のこころは、 人を勧化せんとおもふとも、 宿善・無宿善のふたつを分別せずはいたづらごとなるべし。 このゆゑに、 宿善の有無の根機をあひはかりて人をば勧化すべし。
しかれば、 近代当流の仏法者の風情は、 是非の分別なく当流の義を*荒涼に讃嘆せしむるあひだ、 真宗の正意、 このいはれによりてあひすたれたりときこえたり。 かくのごときらの次第を委細に存知して、 当流の一義をば讃嘆すべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
0151 *文明九年丁酉正月八日
(2) 定命章
▼それ、 人間の寿命をかぞふれば、 *今の時の定命は五十六歳なり。 しかるに当時において、 年五十六まで生き延びたらん人は、 まことにもつて*いかめしきことなるべし。
これによりて、 予すでに*頽齢六十三歳にせまれり。 *勘篇すれば年ははや七年まで生き延びぬ。 これにつけても、 前業の所感なれば、 いかなる病患をうけてか死の縁にのぞまんとおぼつかなし。 これさらにはからざる1164次第なり。 ことにもつて当時の体たらくをみおよぶに、 *定相なき時分なれば、 人間のかなしさはおもふやうにもなし。 あはれ死なばやとおもはば、 やがて死なれなん世にてもあらば、 などかいままでこの世にすみはんべりなん。
ただいそぎても生れたきは極楽浄土、 ねがうてもねがひえんものは無漏の仏体なり。 しかれば、 一念帰命の他力安心を仏智より獲得せしめん身の上においては、 *畢命為期まで仏恩報尽のために称名をつとめんにいたりては、 あながちになにの不足ありてか、 *先生より定まれるところの死期をいそがんも、 かへりておろかにまどひぬるかともおもひ0152はんべるなり。 このゆゑに愚老が身上にあててかくのごとくおもへり。 たれのひとびともこの心中に住すべし。
ことにもつて、 この世界のならひは老少不定にして電光朝露のあだなる身なれば、 いまも無常の風きたらんことをばしらぬ体にてすぎゆきて、 後生をばかつてねがはず、 ただ今生をばいつまでも生き延びんずるやうにこそおもひはんべれ。 あさましといふもなほおろかなり。 いそぎ今日より弥陀如来の他力本願をたのみ、 一向に無量寿仏に帰命して、 真実報土の往生をねがひ、 称名念仏せしむべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
時1165に*文明九年九月十七日にはかに思ひ出づるのあひだ、 *辰剋以前に早々これを書き記しをはりぬ。
*信証院六十三歳
かきおくもふでにまかするふみなれば ことばのすゑぞをかしかりける
(3) 当時世上章
▼それ、 *当時世上の体たらく、 いつのころにか*落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。
しかるあひだ、 諸国往来の通路にいたるまでも、 たやすからざる時分なれば、 仏法・世法につけても千万迷惑のをりふしなり。 これによりて、 あるいは霊仏0153・霊社参詣の諸人もなし。 これにつけても、 人間は老少不定ときくときは、 いそぎいかなる功徳善根をも修し、 いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。
しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、 ここに阿弥陀如来の他力本願は、 今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。 さればこの広大の悲願にすがりて、 在家止住のともがらにおいては、 一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、 まことにもつて宝の山に入りて、 手をむなしくしてかへらんに似たるものか。 よくよくこころをしづめてこれを案ずべし1166。
しかれば、 諸仏の本願をくはしくたづぬるに、 五障の女人、 五逆の悪人をばすくひたまふことかなはずときこえたり。 これにつけても阿弥陀如来こそひとり無上殊勝の願をおこして、 悪逆の凡夫、 五障の女質をば、 われたすくべきといふ大願をばおこしたまひけり。 ありがたしといふもなほおろかなり。
これによりて、 むかし釈尊、 *霊鷲山にましまして、 *一乗法華の妙典を説かれしとき、 *提婆・*阿闍世の逆害をおこし、 釈迦、 *韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、 かたじけなくも霊山法華の*会座を没して王宮に降臨して、 韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、 弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。
▲このゆゑに*法華と念仏と同0154時の教といへることは、 このいはれなり。 これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、 釈迦、 韋提・調達 (提婆達多)・闍世の五逆をつくりて、 かかる機なれども、 不思議の本願に帰すれば、 かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明九歳九月二十七日これを記す。
(41167) 三首詠歌章
▼それ、 秋も去り春も去りて、 年月を送ること、 昨日も過ぎ今日も過ぐ。 いつのまにかは年老のつもるらんともおぼえずしらざりき。
しかるにそのうちには、 さりとも、 あるいは*花鳥風月のあそびにもまじはりつらん。 また歓楽苦痛の悲喜にもあひはんべりつらんなれども、 いまにそれともおもひいだすこととてはひとつもなし。 ただいたづらにあかし、 いたづらにくらして、 老の白髪となりはてぬる身のありさまこそかなしけれ。 されども今日までは無常のはげしき風にもさそはれずして、 *わが身ありがほの体をつらつら案ずるに、 ただ夢のごとし、 幻のごとし。 いまにおいては、 生死出離の一道ならでは、 ねがふべきかたとてはひとつもなく0155、 またふたつもなし。
これによりて、 ここに*未来悪世のわれらごときの衆生をたやすくたすけたまふ阿弥陀如来の本願のましますときけば、 まことにたのもしく、 ありがたくもおもひはんべるなり。 この本願をただ*一念無疑に至心帰命したてまつれば、 わづらひもなく、 *そのとき臨終せば往生治定すべし。 もしそのいのちのびなば、 一期のあひだは仏恩報謝のために念仏して畢命を期とすべし。 これすなはち平生業成のこころなるべしと、 たしかに聴聞せしむるあひだ、 その決定の信心のとほり、 いまに耳の底に1168退転せしむることなし。 ありがたしといふもなほおろかなるものなり。
されば弥陀如来他力本願のたふとさありがたさのあまり、 かくのごとく口にうかむにまかせてこのこころを詠歌にいはく、
ひとたびもほとけをたのむこころこそ まことののりにかなふみちなれ
つみふかく如来をたのむ身になれば のりのちからに西へこそゆけ
法をきくみちにこころのさだまれば 南無阿弥陀仏ととなへこそすれ と。
わが身ながらも本願の一法の殊勝なるあまり、 かく申しはんべりぬ。 この三首の歌のこころは、 はじめは、 一念帰命の信心決定のすがたをよみはんべり。 のち0156の歌は、 *入正定聚の益、 *必至滅度のこころをよみはんべりぬ。 つぎのこころは、 *慶喜金剛の信心のうへには、 知恩報徳のこころをよみはんべりしなり。
されば他力の信心発得せしむるうへなれば、 せめてはかやうにくちずさみても、 仏恩報尽のつとめにもやなりぬべきともおもひ、 またきくひとも宿縁あらば、 などやおなじこころにならざらんとおもひはんべりしなり。
しかるに予すでに*七旬のよはひにおよび、 ことに愚闇無才の身として、 *片腹いたくもかくのごとく*しらぬえせ法門を申すこと、 かつは斟酌をもかへりみず、 ただ1169本願のひとすぢのたふとさばかりのあまり、 卑劣のこの*ことの葉を筆にまかせて書きしるしをはりぬ。 のちにみん人、 そしりをなさざれ。 これまことに*讃仏乗の縁・転法輪の因ともなりはんべりぬべし。 あひかまへて偏執をなすことゆめゆめなかれ。
あなかしこ、 あなかしこ。
時に*文明年中丁酉*暮冬仲旬のころ、 炉辺において暫時にこれを書き記すものなりと云々。
右この書は、 当所*はりの木原辺より*九間在家へ*仏照寺所用ありて出行のとき、 路次にてこの書をひろひて*当坊へもちきたれり。
*文明九年十二月二日
(5)0157 中古以来章
▼それ、 *中古以来当時にいたるまでも、 当流の勧化をいたすその人数のなかにおいて、 さらに宿善の有無といふことをしらずして勧化をなすなり。
所詮自今以後においては、 このいはれを存知せしめて、 たとひ聖教をもよみ、 また暫時に法門をいはんときも、 このこころを覚悟して一流の法義をば讃嘆し、 あるいはまた仏法聴聞のためにとて人数おほくあつまりたらんときも、 この人数1170のなかにおいて、 もし無宿善の機やあるらんとおもひて、 一流真実の法義を沙汰すべからざるところに、 近代人々の勧化する体たらくをみおよぶに、 この覚悟はなく、 ただいづれの機なりともよく勧化せば、 などか当流の安心にもとづかざらんやうにおもひはんべりき。 これあやまりとしるべし。 かくのごときの次第をねんごろに存知して、 当流の勧化をばいたすべきものなり。
中古このごろにいたるまで、 さらにそのこころを得てうつくしく勧化する人なし。 これらのおもむきをよくよく覚悟して、 かたのごとくの勧化をばいたすべきものなり。
そもそも、 今月二十八日は、 毎年の儀として、 懈怠なく開山聖人 (親鸞) の報恩謝徳のために念仏勤行をいたさんと擬する人数これおほし。 まことにもつて▲流を汲んで本源をたづぬる道理を0158存知せるがゆゑなり。 ひとへにこれ聖人の勧化のあまねきがいたすところなり。
しかるあひだ、 近年ことのほか当流に讃嘆せざる*ひが法門をたてて、 諸人をまどはしめて、 あるいはそのところの地頭・領主にもとがめられ、 わが身も悪見に住して、 当流の真実なる安心のかたもただしからざるやうにみおよべり。 あさましき次第にあらずや。 かなしむべし、 おそるべし。
所詮今月報恩講七昼夜のうちにおいて、 各々に改悔1171の心をおこして、 わが身のあやまれるところの心中を心底にのこさずして、 *当寺の*御影前において、 回心懴悔して、 諸人の耳にこれをきかしむるやうに毎日毎夜にかたるべし。
これすなはち 「▲謗法闡提回心皆往」 (*法事讃・上) の御釈にもあひかなひ、 また 「▲自信教人信」 (*礼讃) の義にも相応すべきものなり。 しからばまことにこころあらん人々は、 この回心懴悔をききても、 げにもとおもひて、 おなじく日ごろの悪心をひるがへして善心になりかへる人もあるべし。 これぞまことに今月聖人の御忌の本懐にあひかなふべし。 これすなはち報恩謝徳の懇志たるべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明十四年十一月二十一日
(6)0159 三ヶ条章
▼そもそも、 当月の報恩講は、 開山聖人 (親鸞) の御*遷化の正忌として、 例年の旧儀とす。
これによりて、 遠国近国の門徒のたぐひ、 この時節にあひあたりて、 参詣のこころざしをはこび、 報謝のまことをいたさんと欲す。 しかるあひだ、 毎年*七昼夜のあひだにおいて、 念仏勤行をこらしはげます。 これすなはち真実信心の行者繁昌せしむるゆゑなり。 まことにもつて*念仏得堅固の時節1172到来といひつべきものか。
このゆゑに、 一七箇日のあひだにおいて参詣をいたすともがらのなかにおいて、 まことに人まねばかりに御影前へ出仕をいたすやからこれあるべし。 かの*仁体において、 はやく御影前にひざまづいて回心懴悔のこころをおこして、 本願の正意に帰入して、 一念発起の真実信心を*まうくべきものなり。
それ、 南無阿弥陀仏といふは、 すなはちこれ念仏行者の*安心の体なりとおもふべし。 そのゆゑは、 「南無」 といふは帰命なり。 「即是帰命」 といふは、 われらごときの*無善造悪の凡夫のうへにおいて、 阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなりとしるべし。 そのたのむこころといふは、 すなはちこれ、 阿弥陀仏の、 衆生を八万四千の大光明のなかに摂取して、 往還二種の回向を衆生にあたへましますこころなり。
されば信心といふも別のこころにあらず0160。 みな南無阿弥陀仏のうちにこもりたるものなり。
ちかごろは、 人の別のことのやうにおもへり。 これについて諸国において、 当流門人のなかに、 おほく祖師 (親鸞) の定めおかるるところの聖教の所判になきくせ法門を沙汰して法義をみだす条、 もつてのほかの次第なり。 所詮かくのごときのやからにおいては、 あひかまへて、 この一七箇日報恩講のうちにありて、 そのあやまりを1173ひるがへして正義にもとづくべきものなり。
一 *仏法を棟梁し、 かたのごとく坊主分をもちたらん人の身上において、 いささかも相承もせざるしらぬえせ法門をもつて人にかたり、 われ物しりとおもはれんためにとて、 近代在々所々に繁昌すと云々。 これ言語道断の次第なり。
一 *京都本願寺御影へ参詣申す身なりといひて、 いかなる人のなかともいはず、 大道・大路にても、 また*関・渡の船中にても、 はばからず*仏法方のことを人に顕露にかたること、 おほきなるあやまりなり。
一 人ありていはく、 「わが身はいかなる仏法を信ずる人ぞ」 とあひたづぬることありとも、 しかと 「当流の念仏者なり」 と答ふべからず。 ただ 「なに宗ともなき、 念仏ばかりはたふときことと存じたるばかりなるものなり」 と答ふべし。 これすなはち当流0161聖人 (親鸞) のをしへましますところの、 仏法者とみえざる人のすがたなるべし。
さればこれらのおもむきをよくよく存知して、 外相にそのいろをみせざるをもつて、 当流の正義とおもふべきものなり。 これについて、 この両三年のあひだ報恩講中において、 *衆中として定めおく1174ところの義ひとつとして違変あるべからず。 この衆中において万一相違せしむる子細これあらば、 ながき世、 開山聖人 (親鸞) の御門徒たるべからざるものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明十五年十一月 日
(7) 六ヶ条章
▼そもそも、 今月報恩講のこと、 例年の旧儀として七日の勤行をいたすところ、 いまにその退転なし。
しかるあひだ、 この時節にあひあたりて、 諸国*門葉のたぐひ、 報恩謝徳の懇志をはこび、 称名念仏の*本行を尽す。 まことにこれ専修専念決定往生の徳なり。 このゆゑに諸国参詣のともがらにおいて、 一味の安心に住する人まれなるべしとみえたり。 そのゆゑは真実に仏法にこころざしはなくして、 ただ人まねばかり、 あるいは*仁義までの風情ならば、 まことにもつてなげかしき次第なり。
その0162いはれいかんといふに、 未安心のともがらは不審の次第をも沙汰せざるときは、 不信のいたりともおぼえはんべれ。 さればはるばると万里の遠路をしのぎ、 また莫大の苦労をいたして上洛せしむるところ、 さらにもつてその所詮なし。 かなしむべし、 かなしむべし。 ただし*不宿1175善の機ならば無用といひつべきものか。
一 近年は仏法繁昌ともみえたれども、 まことにもつて坊主分の人にかぎりて、 信心のすがた一向*無沙汰なりときこえたり。 もつてのほかなげかしき次第なり。
一 *すゑずゑの門下のたぐひは、 他力の信心のとほり聴聞のともがらこれおほきところに、 坊主よりこれを*腹立せしむるよしきこえはんべり。 言語道断の次第なり。
一 田舎より参詣の面々の身上においてこころうべき旨あり。 そのゆゑは、 他人のなかともいはず、 また大道・路次なんどにても、 *関屋・船中をもはばからず、 仏法方の讃嘆をすること*勿体なき次第なり。 かたく停止すべきなり。
一 当流の念仏者を、 あるいは人ありて、 「なに宗ぞ」 とあひたづぬることたとひありとも、 しかと 「当宗念仏者」 と答ふべからず。 ただ 「なに宗ともなき念仏者なり」 と答ふべし。 これすなはちわが聖人 (親鸞) の仰せおかるるところの、 *仏法者気色みえぬ0163ふるまひなるべし。 このおもむきをよくよく存知して、 外相にそのいろをはたらくべからず。 まことにこれ当流の念仏者のふるまひ1176の正義たるべきものなり。
一 仏法の由来を、 障子・かきごしに聴聞して、 内心にさぞとたとひ領解すといふとも、 かさねて人にそのおもむきをよくよくあひたづねて、 信心のかたをば治定すべし。 そのままわが心にまかせば、 かならずかならずあやまりなるべし。 ちかごろこれらの子細当時さかんなりと云々。
一 信心をえたるとほりをば、 いくたびもいくたびも人にたづねて他力の安心をば治定すべし。 *一往聴聞してはかならずあやまりあるべきなり。
右この六箇条のおもむきよくよく存知すべきものなり。 近年仏法は人みな聴聞すとはいへども、 一往の義をききて、 真実に信心決定の人これなきあひだ、 安心も*うとうとしきがゆゑなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明十六年十一月二十一日
(8) 八ヶ条章
▼そもそも、 今月二十八日の報恩講は*昔年よりの*流例たり。 これによりて、 近国遠国の門葉0164、 報恩謝徳の懇志をはこぶところなり。 *二六時中の称名念仏、 今古退転なし。
これすなはち開山聖人 (親鸞) の法流、 *一天四海の勧化比類1177なきがいたすところなり。 このゆゑに七昼夜の時節にあひあたり、 不法不信の根機においては、 往生浄土の信心獲得せしむべきものなり。 これしかしながら、 今月聖人の*御正忌の報恩たるべし。 しからざらんともがらにおいては、 報恩謝徳のこころざしなきに似たるものか。
これによりて、 このごろ真宗の念仏者と号するなかに、 まことに心底より当流の安心決定なきあひだ、 あるいは名聞、 あるいはひとなみに報謝をいたすよしの風情これあり。 もつてのほかしかるべからざる次第なり。
そのゆゑは、 すでに万里の遠路をしのぎ莫大の辛労をいたして上洛のともがら、 いたづらに名聞ひとなみの心中に住すること口惜しき次第にあらずや。 すこぶる*不足の所存といひつべし。 ただし無宿善の機にいたりてはちからおよばず。 しかりといへども、 *無二の懴悔をいたし、 一心の正念におもむかば、 いかでか聖人の御本意に達せざらんものをや。
一 諸国参詣のともがらのなかにおいて、 在所をきらはず、 いかなる大道・大路、 また関屋・渡の船中にても、 さらにそのはばかりなく仏法方の次第を顕露に人にかたる0165こと、 しかるべからざる事。
一 在々所々において、 当流にさらに沙汰せざる*めづらしき法門を讃嘆し、 1178おなじく宗義になき*おもしろき名目なんどをつかふ人これおほし。 もつてのほかの*僻案なり。 自今以後、 かたく停止すべきものなり。
一 この七箇日報恩講中においては、 一人ものこらず信心未定のともがらは、 心中をはばからず改悔懴悔の心をおこして、 真実信心を獲得すべきものなり。
一 もとよりわが安心のおもむきいまだ決定せしむる分もなきあひだ、 その不審をいたすべきところに、 心中をつつみてありのままにかたらざるたぐひあるべし。 これをせめあひたづぬるところに、 ありのままに心中をかたらずして、 *当場をいひぬけんとする人のみなり。 勿体なき次第なり。 心中をのこさずかたりて、 真実信心にもとづくべきものなり。
一 近年仏法の棟梁たる坊主達、 わが信心はきはめて不足にて、 *結句門徒・同朋は信心は決定するあひだ、 坊主の信心不足のよしを申せば、 もつてのほか腹立せしむる条、 言語道断の次第なり。 以後においては、 師弟ともに一味の安心に住すべき事。
0166一 坊主分の人、 ちかごろはことのほか*重杯のよし、 そのきこえあり。 言語道断しかるべからざる次第なり。 あながちに酒を飲む人を停止せよといふには1179あらず。 仏法につけ門徒につけ、 重杯なれば、 かならずややもすれば酔狂のみ出来せしむるあひだ、 しかるべからず。 *さあらんときは、 坊主分は停止せられても、 まことに*興隆仏法ともいひつべきか。 しからずは、 *一盞にてもしかるべきか。 これも仏法にこころざしのうすきによりてのことなれば、 これをとどまらざるも道理か。 ふかく思案あるべきものなり。
一 信心決定のひとも、 *細々に同行に会合のときは、 あひたがひに*信心の沙汰あらば、 これすなはち真宗繁昌の根元なり。
一 当流の信心決定すといふ体は、 すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。 すでに善導釈していはく、 「▲言南無者 即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者 即是其行」 (*玄義分) といへり。 「南無」 と衆生が弥陀に帰命すれば、 阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、 万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。 このこころすなはち 「阿弥陀仏即是其行」 といふこころなり。 このゆゑに、 南無と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法とが一体なるところをさして、 機0167法一体の南無阿弥陀仏とは申すなり。
かるがゆゑに、 阿弥陀仏の、 むかし法蔵比丘たりしとき、 「衆生仏に成らずは1180われも正覚成らじ」 と誓ひましますとき、 その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、 いまの南無阿弥陀仏なりとこころうべし。 これすなはちわれらが往生の定まりたる証拠なり。 されば他力の信心獲得すといふも、 ただこの六字のこころなりと*落居すべきものなり。
そもそも、 この八箇条のおもむきかくのごとし。 しかるあひだ、 *当寺建立はすでに九箇年におよべり。 毎年の報恩講中において、 面々各々に随分信心決定のよし*領納ありといへども、 昨日今日までも、 その信心のおもむき不同なるあひだ、 所詮なきものか。 しかりといへども、 当年の報恩講中にかぎりて、 不信心のともがら、 今月報恩講のうちに早速に真実信心を獲得なくは、 年々を経といふとも*同篇たるべきやうにみえたり。
しかるあひだ愚老が年齢すでに*七旬にあまりて、 来年の報恩講をも期しがたき身なるあひだ、 各々に真実に決定信をえしめん人あらば、 一つは聖人今月の報謝のため、 一つは愚老がこの七八箇年のあひだの本懐ともおもひはんべるべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*文明十七年十一月二十三日
(91181) 疫0168癘章
▼当時このごろ、 ことのほかに*疫癘とてひと死去す。 これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。 生れはじめしよりして定まれる*定業なり。 さのみふかくおどろくまじきことなり。
しかれども、 今の時分にあたりて死去するときは、 *さもありぬべきやうにみなひとおもへり。 これまことに道理ぞかし。
このゆゑに▼阿弥陀如来の仰せられけるやうは、 「末代の凡夫罪業のわれらたらんもの、 罪はいかほどふかくとも、 われを一心にたのまん衆生をば、 かならずすくふべし」 と仰せられたり。 かかるときはいよいよ阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、 極楽に往生すべしとおもひとりて、 一向一心に弥陀をたふときことと疑ふこころ露ちりほどももつまじきことなり。
かくのごとくこころえのうへには、 ねてもさめても南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏と申すは、 かやうにやすくたすけまします御ありがたさ御うれしさを申す御礼のこころなり。 これをすなはち仏恩報謝の念仏とは申すなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*延徳四年六月 日
(100169) 今の世章
^▼今の世にあらん女人は、 みなみなこころを一つにして阿弥陀如来をふかくたのみ1182たてまつるべし。 そのほかには、 いづれの法を信ずといふとも、 後生のたすかるといふことゆめゆめあるべからずとおもふべし。
^されば弥陀をばなにとやうにたのみ、 また後生をばなにとねがふべきぞといふに、 なにのわづらひもなく、 ただ一心に弥陀をたのみ、 後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人をば、 かならず御たすけあらんことは、 さらさらつゆほども疑あるべからざるものなり。
^このうへには、 はや、 しかと御たすけあるべきことのありがたさよとおもひて、 仏恩報謝のために念仏申すべきばかりなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
*八十三歳 御判
(11) 機法一体章
^▼南無阿弥陀仏と申すは、 いかなる心にて候ふや。 しかれば、 なにと弥陀をたのみて報土往生をばとぐべく候ふやらん。
^これを心得べきやうは、 まづ南無阿弥陀仏の六字のすがたをよくよく心得わけて、 弥陀をばたのむべし。
^そもそも、 南無阿弥陀仏の体は、 すなはち0170われら衆生の後生たすけたまへとたのみまうす心なり。 すなはちたのむ衆生を阿弥陀如来のよくしろしめして、 すでに*無上大利の功徳をあたへましますなり。 これを衆生に回向したまへるといへる1183はこの心なり。
^されば弥陀をたのむ機を阿弥陀仏のたすけたまふ法なるがゆゑに、 これを機法一体の南無阿弥陀仏といへるはこのこころなり。 これすなはちわれらが往生の定まりたる他力の信心なりとは心得べきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
*明応六年五月二十五日これを書きをはりぬ。 八十三歳
(12) 毎月両度章
^▼そもそも、 *毎月両度の寄合の由来はなにのためぞといふに、 さらに他のことにあらず。 自身の往生極楽の信心獲得のためなるがゆゑなり。
^しかれば、 *往古より今にいたるまでも、 毎月の寄合といふことは、 いづくにもこれありといへども、 さらに*信心の沙汰とては、 かつてもつてこれなし。 ことに近年は、 いづくにも寄合のときは、 ただ*酒・飯・茶なんどばかりにてみなみな退散せり。 これは仏法の本意にはしかるべからざる次第なり。
^いかにも不信の面々は、 *一段の不審をもたてて、 信心の有無0171を沙汰すべきところに、 なにの所詮もなく退散せしむる条、 しかるべからずおぼえはんべり。 よくよく思案をめぐらすべきことなり。
^所詮自今以後においては、 不信の面々はあひたがひに信心の讃1184嘆あるべきこと肝要なり。
^それ、 当流の安心のおもむきといふは、 あながちにわが身の罪障のふかきによらず、 ただもろもろの雑行のこころをやめて、 一心に阿弥陀如来に帰命して、 今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、 ことごとくたすけたまふべきこと、 さらに疑あるべからず。 かくのごとくよくこころえたる人は、 まことに▲百即百生なるべきなり。
^このうへには、 毎月の寄合をいたしても、 報恩謝徳のためとこころえなば、 これこそ真実の信心を*具足せしめたる行者ともなづくべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
*明応七年二月二十五日これを書く。
毎月両度講衆中へ 八十四歳
(130172) 孟夏仲旬章
▼それ、 秋去り春去り、 すでに当年は明応第七*孟夏仲旬ごろになりぬれば、 予が年齢つもりて八十四歳ぞかし。 しかるに当年にかぎりて、 ことのほか病気にをかさるるあひだ、 耳目・手足・身体こころやすからざるあひだ、 これしかしながら*業病のいたりなり。 または往生極楽の*先相なりと覚悟せしむるところ1185なり。
これによりて、 法然聖人の御ことばにいはく、 「*浄土をねがふ行人は、 病患を得てひとへにこれをたのしむ」 とこそ仰せられたり。 しかれども、 あながちに病患をよろこぶこころ、 さらにもつておこらず。 あさましき身なり。 はづべし、 かなしむべきものか。
さりながら予が安心の一途、 一念発起平生業成の宗旨においては、 いま一定のあひだ仏恩報尽の称名は行住坐臥にわすれざること間断なし。
これについて、 ここに愚老一身の述懐これあり。 そのいはれは、 われら居住の在所在所の門下のともがらにおいては、 おほよそ心中をみおよぶに、 *とりつめて信心決定のすがたこれなしとおもひはんべり。 おほきになげきおもふところなり。
そのゆゑは、 愚老すでに*八旬の齢すぐるまで存命せしむるしるしには、 信心決定の行者繁昌ありてこそ、 いのちながきしるしともおもひはんべるべきに、 0173さらにしかしかとも決定せしむるすがたこれなしとみおよべり。 そのいはれをいかんといふに、 そもそも人間界の老少不定のことをおもふにつけても、 いかなる病をうけてか死せんや。
かかる世のなかの風情なれば、 いかにも一日も*片時もいそぎて信心決定して、 今度の往生極楽を一定して、 そののち人間のありさまにまかせて、 世を過すべきこと肝要1186なりとみなみなこころうべし。
このおもむきを心中におもひいれて、 一念に弥陀をたのむこころをふかくおこすべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
*明応七年*初夏*仲旬第一日
八十四歳*老衲これを書く。
弥陀の名をききうることのあるならば 南無阿弥陀仏とたのめみなひと
(14) 一流安心章
^▼一流安心の体といふ事。
^南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。
^この六字を善導大師釈していはく、 「▲言南無者 即是帰命 亦是発願回向之義 言阿弥陀仏者 即是其行 以斯義故 必得往生」 (玄義分) 0174といへり。
^まづ 「南無」 といふ二字は、 すなはち帰命といふこころなり。 「帰命」 といふは、 衆生の阿弥陀仏後生たすけたまへとたのみたてまつるこころなり。
また 「発願回向」 といふは、 たのむところの衆生を摂取してすくひたまふこころなり。 これすなはち*やがて 「阿弥陀仏」 の四字のこころなり。
^さればわれらごときの*愚痴闇鈍の衆生は、 なにとこころをもち、 また弥陀をばなにとたのむべきぞといふに、 もろもろの雑1187行をすてて一向一心に後生たすけたまへと弥陀をたのめば、 決定極楽に往生すべきこと、 さらにその疑あるべからず。
^このゆゑに南無の二字は、 衆生の弥陀をたのむ機のかたなり。 また阿弥陀仏の四字は、 たのむ衆生をたすけたまふかたの法なるがゆゑに、 これすなはち機法一体の南無阿弥陀仏と申すこころなり。
^この道理あるがゆゑに、 われら一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏ときこえたり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
*明応七年四月 日
(15) 大坂建立章
^▼そもそも、 当国摂州*東成郡生玉の庄内大坂といふ在所は、 往古よりいかなる約束の0175ありけるにや、 さんぬる*明応第五の秋下旬のころより、 *かりそめながらこの在所をみそめしより、 すでにかたのごとく*一宇の坊舎を建立せしめ、 当年ははやすでに三年の星霜をへたりき。 これすなはち*往昔の宿縁あさからざる因縁なりとおぼえはんべりぬ。
^それについて、 この在所に居住せしむる根元は、 あながちに一生涯をこころやすく過し、 栄華栄耀をこのみ、 また花鳥風月にもこころをよせず、 *あはれ無上菩提のためには信心決定の行者1188も繁昌せしめ、 念仏をも申さんともがらも出来せしむるやうにもあれかしと、 おもふ*一念のこころざしをはこぶばかりなり。 またいささかも世間の人なんども偏執のやからもあり、 *むつかしき題目なんども出来あらんときは、 すみやかにこの在所において*執心のこころをやめて、 退出すべきものなり。
^これによりて、 いよいよ貴賎道俗をえらばず、 金剛堅固の信心を決定せしめんこと、 まことに弥陀如来の本願にあひかなひ、 別しては聖人 (親鸞) の御本意に*たりぬべきものか。
^それについて、 愚老すでに当年は八十四歳まで存命せしむる条不思議なり。 まことに当流法義にも*あひかなふかのあひだ、 本望のいたりこれにすぐべからざるものか。
^しかれば、 愚老当年の夏ごろより*違例せしめて、 いまにおいて*本復のすがたこれなし。 つひには当年寒中には0176かならず往生の本懐をとぐべき条一定とおもひはんべり。
^あはれ、 あはれ、 存命のうちにみなみな信心決定あれかしと、 *朝夕おもひはんべり。 まことに宿善まかせとはいひながら、 述懐のこころしばらくもやむことなし。
^またはこの在所に三年の居住をふるその甲斐ともおもふべし。 あひかまへてあひかまへて、 この一七箇日報恩講のうちにおいて、 信心決定ありて、 われひと一同に往生1189極楽の本意をとげたまふべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
*明応七年十一月二十一日よりはじめて、 これをよみて人々に信をとらすべきものなり。
釈証如(花押)
○ 五 帖
(1)0177 末代無智章
^▼末代無智の在家止住の男女たらんともがらは、 こころをひとつにして阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、 さらに余のかたへこころをふらず、 ▼一心一向に仏たすけたまへと申さん衆生をば、 たとひ罪業は深重なりとも、 かならず弥陀如来はすくひましますべし。
^これすなはち第十八の念仏往生の誓願のこころなり。
^かくのごとく決定してのうへには、 ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、 称名念仏すべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
(21190) 八万法蔵章
^▼それ、 *八万の法蔵をしるといふとも、 *後世をしらざる人を愚者とす。 たとひ*一文不知の*尼入道なりといふとも、 後世をしるを智者とすといへり。
^しかれば、 当流のこころは、 あながちにもろもろの聖教をよみ、 ものをしりたりといふとも、 一念の信心のいはれをしらざる人は、 いたづらごとなりとしるべし。
^されば聖人 (親鸞) の御ことばにも、 「一切の男女たらん身は、 弥陀の本願を信ぜずしては、 *ふつとたすかるといふことあるべからず」 と仰せられたり。
^このゆゑにいかなる女人なりといふ0178とも、 もろもろの雑行をすてて、 一念に弥陀如来今度の後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人は、 十人も百人もみなともに弥陀の報土に往生すべきこと、 さらさら疑あるべからざるものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
(3) 在家尼女房章
^▼それ、 在家の*尼女房たらん身は、 なにのやうもなく、 一心一向に阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、 後生たすけたまへと申さんひとをば、 みなみな御たすけあるべしとおもひとりて、 さらに疑のこころゆめゆめあるべからず。
^これすなはち*弥陀如来の御ちかひの他力本願とは申すなり。
^このうへには、 なほ後1191生のたすからんことのうれしさありがたさをおもはば、 ただ南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏ととなふべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
(4) 抑男子女人章
^▼そもそも、 男子も女人も罪のふかからんともがらは、 諸仏の悲願をたのみても、 今の時分は末代悪世なれば、 諸仏の御ちからにては、 なかなかかなはざる時なり。 これによりて0179、 阿弥陀如来と申したてまつるは、 諸仏にすぐれて、 十悪・五逆の罪人をわれたすけんといふ大願をおこしましまして、 阿弥陀仏となりたまへり。
^「この仏をふかくたのみて、 一念御たすけ候へと申さん衆生を、 われたすけずは正覚成らじ」 と誓ひまします弥陀なれば、 われらが極楽に往生せんことはさらに疑なし。
^このゆゑに、 一心一向に阿弥陀如来たすけたまへとふかく心に疑なく信じて、 わが身の罪のふかきことをば*うちすて、 仏にまかせまゐらせて、 一念の信心定まらん輩は、 十人は十人ながら百人は百人ながら、 みな浄土に往生すべきこと、 さらに疑なし。
^このうへには、 なほなほたふとくおもひたてまつらんこころのおこらんときは、 南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏と、 時をもいはず、 ところをもきらはず、 念仏申すべし。 これをすなはち仏1192恩報謝の念仏と申すなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
*南无といふ 二字のうちには 弥陀をたのむ
こゝろありとは たれもしるべし
ほれぼれと 弥陀をたのまん ひとはみな
つみはほとけに まかすべきなり
つみふかき ひとをたすくる のりなれば
弥陀にまされる ほとけあらじな
(5) 信心獲得章
^▼信心獲得すといふは第十八の願をこころうるなり。 この願をこころうるといふは、 南無阿弥陀仏の*すがたをこころうるなり。 このゆゑに、 南無と帰命する一念の処に発願回向のこころあるべし。 これすなはち弥陀如来の凡夫に回向しまします0180こころなり。
^これを ¬*大経¼ (上) には、 「▲令諸衆生功徳成就」 と説けり。 されば無始以来つくりとつくる悪業煩悩を、 のこるところもなく願力不思議をもつて消滅するいはれあるがゆゑに、 正定聚不退の位に住すとなり。
^これによりて、 「▲煩悩を断ぜずして涅槃をう」 といへるはこのこころなり。 この義は*当流一途の所談なるものなり。 他流の人に対して、 かくのごとく*沙汰あるべからざるところなり。 よくよくこころうべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
(6) 一念大利章
^▼一念に弥陀をたのみたてまつる行者には、 無上大利の功徳をあたへたまふこころを、 ¬和讃¼ (*正像末和讃) に聖人 (親鸞) のいはく、 「▲五濁悪世の有情の 選択本願信ずれば 不可称不可説不可思議の 功徳は行者の身にみてり1193」。
^この和讃の心は、 「五濁悪世の衆生」 といふは一切われら女人・悪人のことなり。
^さればかかるあさましき一生造悪の凡夫なれども、 弥陀如来を一心一向にたのみまゐらせて、 後生たすけたまへと申さんものをば、 かならずすくひましますべきこと、 さらに疑ふべからず。
^かやうに弥陀をたのみまうすもの0181には、 不可称不可説不可思議の大功徳をあたへましますなり。 「不可称不可説不可思議の功徳」 といふことは、 かずかぎりもなき大功徳のことなり。
^この大功徳を、 一念に弥陀をたのみまうすわれら衆生に回向しましますゆゑに、 過去・未来・現在の三世の業障一時に罪消えて、 正定聚の位、 また等正覚の位なんどに定まるものなり。
^このこころをまた ¬和讃¼ (正像末和讃・意) にいはく、 「▲弥陀の本願信ずべし 本願信ずるひとはみな 摂取不捨の利益ゆゑ 等正覚にいたるなり」 といへり。
^「摂取不捨」 といふは、 これも、 一念に弥陀をたのみたてまつる衆生を光明のなかにをさめとりて、 信ずるこころだにもかはらねば、 すてたまはずといふこころなり。
^このほかにいろいろの法門どもありといへども、 ただ一念に弥陀をたのむ衆生はみなことごとく報土に往生すべきこと、 ゆめゆめ疑ふこころあるべからざるものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
(71194) 五障三従章
▼それ、 女人の身は、 五障・三従とて、 男にまさりてかかるふかき罪のあるなり。 このゆゑに一切の女人をば、 十方にまします諸仏も、 わがちからにては女人をば0182ほとけになしたまふこと、 さらになし。
しかるに阿弥陀如来こそ、 女人をばわれひとりたすけんといふ大願 (第三十五願) をおこしてすくひたまふなり。 このほとけをたのまずは、 女人の身のほとけに成るといふことあるべからざるなり。
これによりて、 なにとこころをももち、 またなにと阿弥陀ほとけをたのみまゐらせてほとけに成るべきぞなれば、 なにのやうもいらず、 ただふたごころなく一向に阿弥陀仏ばかりをたのみまゐらせて、 後生たすけたまへとおもふこころひとつにて、 やすくほとけに成るべきなり。
このこころの*露ちりほども疑なければ、 かならずかならず極楽へまゐりて、 *うつくしきほとけとは成るべきなり。
さてこのうへにこころうべきやうは、 ときどき念仏を申して、 かかるあさましきわれらをやすくたすけまします阿弥陀如来の御恩を、 御うれしさありがたさを報ぜんために、 念仏申すべきばかりなりとこころうべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
(81195) 五劫思惟章
▼それ、 *五劫思惟の本願といふも、 *兆載永劫の修行といふも、 ただわれら一切衆生をあながちにたすけたまはんがための方便に、 阿弥陀如来、 御身労ありて、 南無阿弥陀0183仏といふ本願 (第十八願) をたてましまして、 「まよひの衆生の一念に阿弥陀仏をたのみまゐらせて、 もろもろの雑行をすてて一向一心に弥陀をたのまん衆生をたすけずんば、 われ正覚取らじ」 と誓ひたまひて、 南無阿弥陀仏となりまします。 これすなはちわれらがやすく極楽に往生すべきいはれなりとしるべし。
されば南無阿弥陀仏の六字のこころは、 一切衆生の報土に往生すべきすがたなり。 このゆゑに南無と帰命すれば、 やがて阿弥陀仏のわれらをたすけたまへるこころなり。 このゆゑに 「南無」 の二字は、 衆生の弥陀如来にむかひたてまつりて後生たすけたまへと申すこころなるべし。 かやうに弥陀をたのむ人をもらさずすくひたまふこころこそ、 「阿弥陀仏」 の四字のこころにてありけりとおもふべきものなり。
これによりて、 いかなる十悪・五逆、 五障・三従の女人なりとも、 もろもろの雑行をすてて、 ひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、 たとへば十人もあれ百人もあれ、 みなことごとくもらさずたすけたまふべし。 このおもむきを疑なく信ぜん輩は、 真実1196の弥陀の浄土に往生すべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
(9)0184 一切聖教章
^▼当流の安心の一義といふは、 ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり。
^たとへば南無と帰命すれば、 やがて阿弥陀仏のたすけたまへるこころなるがゆゑに、 「南無」 の二字は帰命のこころなり。
^「帰命」 といふは、 衆生の、 もろもろの▼雑行をすてて、 阿弥陀仏後生たすけたまへと一向にたのみたてまつるこころなるべし。
^このゆゑに衆生をもらさず弥陀如来のよくしろしめして、 たすけましますこころなり。 これによりて、 南無とたのむ衆生を阿弥陀仏のたすけまします道理なるがゆゑに、 南無阿弥陀仏の六字のすがたは、 すなはちわれら一切衆生の平等にたすかりつるすがたなりとしらるるなり。
^されば他力の信心をうるといふも、 これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。 このゆゑに一切の聖教といふも、 ただ南無阿弥陀仏の六字を信ぜしめんがためなりといふこころなりとおもふべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
(10) 聖人一流章
^▼聖人 (親鸞) 一流の御勧化のおもむきは、 信心をもつて*本とせられ候ふ。 その1197ゆゑは、 もろもろ0185の雑行をなげすてて、 一心に弥陀に帰命すれば、 不可思議の願力として、 仏のかたより往生は治定せしめたまふ。
^その位を 「▲一念発起入正定之聚」 (*論註・上意) とも釈し、 そのうへの称名念仏は、 如来わが往生を定めたまひし御恩報尽の念仏とこころうべきなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
(11) 御正忌章
^▼そもそも、 この御正忌のうちに参詣をいたし、 こころざしをはこび、 報恩謝徳をなさんとおもひて、 *聖人の御まへにまゐらんひとのなかにおいて、 信心を獲得せしめたるひともあるべし、 また不信心のともがらもあるべし。 *もつてのほかの大事なり。
^そのゆゑは、 信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。 されば不信のひともすみやかに決定のこころをとるべし。
^*人間は不定のさかひなり。 *極楽は常住の国なり。 されば不定の人間にあらんよりも、 常住の極楽をねがふべきものなり。 されば当流には信心のかたをもつて先とせられたるそのゆゑをよくしらずは、 いたづらごとなり。 いそぎて安心決定して、 浄土の往生をねがふべきなり。
^それ*人間に流布してみな人のこころえたるとほりは、 なにの分別もなく口にただ称0186名ばかりをとなへたらば、 極楽に1198往生すべきやうにおもへり。 それはおほきにおぼつかなき次第なり。
^他力の信心をとるといふも、 別のことにはあらず。 南無阿弥陀仏の六つの字のこころをよくしりたるをもつて、 信心決定すとはいふなり。
^そもそも、 信心の体といふは、 ¬経¼ (大経・下) にいはく、 「▲聞其名号信心歓喜」 といへり。
^*善導のいはく、 「▲ª南無º といふは帰命、 またこれ発願回向の義なり。 ª阿弥陀仏º といふはすなはちその行」 (*玄義分) といへり。
^「南無」 といふ二字のこころは、 もろもろの雑行をすてて、 疑なく一心一向に阿弥陀仏をたのみたてまつるこころなり。
^さて 「阿弥陀仏」 といふ四つの字のこころは、 一心に弥陀を帰命する衆生を、 やうもなくたすけたまへるいはれが、 すなはち阿弥陀仏の四つの字のこころなり。
^されば南無阿弥陀仏の体をかくのごとくこころえわけたるを、 信心をとるとはいふなり。 これすなはち他力の信心をよくこころえたる念仏の行者とは申すなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
(12) 御袖章
^▼当流の安心のおもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、 あながちに智慧・才学0187もいらず、 ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて1199、 かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、 なにのやうもなく、 ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、 後生をたすけたまへとたのみまうせば、 この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、 その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、 その光明のなかにその人を摂め入れておきたまふべし。
^さればこのこころを ¬経¼ (*観経) には、 「▲光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」 とは説かれたりとこころうべし。 さてはわが身のほとけに成らんずることは、 なにのわづらひもなし。
^あら、 殊勝の超世の本願や、 ありがたの弥陀如来の光明や。 この光明の縁にあひたてまつらずは、 無始よりこのかたの無明業障のおそろしき病のなほるといふことは、 さらにもつてあるべからざるものなり。
^しかるにこの光明の縁にもよほされて、 宿善の機ありて、 他力信心といふことをばいますでにえたり。 これしかしながら、 弥陀如来の御かたよりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。
^かるがゆゑに行者のおこすところの信心にあらず、 弥陀如来他力の大信心といふことは、 いまこそあきらかにしられたり。
^これによりて、 かたじけなくもひとたび0188他力の信心をえたらん1200人は、 みな弥陀如来の御恩をおもひはかりて、 仏恩報謝のためにつねに称名念仏を申したてまつるべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
(13) 無上甚深章
^▼それ、 南無阿弥陀仏と申す文字は、 その数わづかに六字なれば、 さのみ功能のあるべきともおぼえざるに、 この六字の名号のうちには無上甚深の功徳利益の広大なること、 さらにそのきはまりなきものなり。
^されば信心をとるといふも、 この六字のうちにこもれりとしるべし。 さらに別に信心とて六字のほかにはあるべからざるものなり。
^そもそも、 この 「南無阿弥陀仏」 の六字を善導釈していはく、 「▲ª南無º といふは帰命なり、 またこれ発願回向の義なり。 ª阿弥陀仏º といふはその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生することを得」 (玄義分) といへり。
^しかれば、 この釈のこころをなにとこころうべきぞといふに、 たとへばわれらごときの悪業煩悩の身なりといふとも、 一念阿弥陀仏に帰命せば、 かならずその機をしろしめしてたすけたまふべし。
^それ0189帰命といふはすなはちたすけたまへと申すこころなり。 されば一念に弥陀をたのむ衆生に無上大利の功1201徳をあたへたまふを、 発願回向とは申すなり。
^この発願回向の大善大功徳をわれら衆生にあたへましますゆゑに、 無始曠劫よりこのかたつくりおきたる悪業煩悩をば一時に消滅したまふゆゑに、 われらが煩悩悪業はことごとくみな消えて、 すでに正定聚不退転なんどいふ位に住すとはいふなり。
^このゆゑに、 南無阿弥陀仏の六字のすがたは、 われらが極楽に往生すべきすがたをあらはせるなりと、 いよいよしられたるものなり。 されば安心といふも、 信心といふも、 この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、 他力の大信心をえたるひととはなづけたり。
^かかる殊勝の道理あるがゆゑに、 ふかく信じたてまつるべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
(14) 上臈下主章
▼それ、 一切の女人の身は、 人しれず罪のふかきこと、 *上臈にも*下主にもよらぬあさましき身なりとおもふべし。
それにつきては、 なにとやうに弥陀を信ずべきぞといふに、 なにのわづらひもなく、 阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて、 今度の一0190大事の後生たすけたまへと申さん女人をば、 *あやまたずたすけたまふべし。
さてわが身の罪のふかきことをばうちすてて、 弥陀にまかせまゐらせて1202、 ただ一心に弥陀如来後生たすけたまへとたのみまうさば、 その身をよくしろしめしてたすけたまふべきこと、 疑あるべからず。 たとへば十人ありとも百人ありとも、 みなことごとく極楽に往生すべきこと、 さらにその疑ふこころつゆほどももつべからず。
かやうに信ぜん女人は浄土に生るべし。 かくのごとくやすきことを、 いままで信じたてまつらざることのあさましさよとおもひて、 なほなほふかく弥陀如来をたのみたてまつるべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
(15) 弥陀如来本願章
▼それ、 弥陀如来の本願と申すは、 なにたる機の衆生をたすけたまふぞ。 またいかやうに弥陀をたのみ、 いかやうに心をもちてたすかるべきやらん。
まづ機をいへば、 十悪・五逆の罪人なりとも、 五障・三従の女人なりとも、 さらにその罪業の深重に*こころをばかくべからず。 ただ他力の大信心一つにて、 真実の極楽往生をとぐべきものなり。
さればその信心といふは、 いかやうにこころをもちて、 弥陀をばなにと0191やうにたのむべきやらん。 それ、 信心をとるといふは、 やうもなく、 ただもろもろの雑行雑修自力なんどいふわろき心をふりすてて、 一心にふかく弥陀に帰するこころの疑なきを真実信心とは申すなり1203。
かくのごとく一心にたのみ、 一向にたのむ衆生を、 かたじけなくも弥陀如来はよくしろしめして、 この機を、 光明を放ちてひかりのなかに摂めおきましまして、 極楽へ往生せしむべきなり。 これを念仏衆生を摂取したまふといふことなり。
このうへには、 たとひ一期のあひだ申す念仏なりとも、 仏恩報謝の念仏とこころうべきなり。
これを当流の信心をよくこころえたる念仏行者といふべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
(16) 白骨章
^▼それ、 人間の*浮生なる相をつらつら*観ずるに、 ▲おほよそはかなきものはこの世の*始中終、 まぼろしのごとくなる一期なり。 さればいまだ万歳の人身を受けたりといふことをきかず、 一生過ぎやすし。
^▲いまにいたりてたれか*百年の形体をたもつべきや。 われや先、 人や先、 今日ともしらず、 明日ともしらず、 *おくれさきだつ人は*もと0192のしづくすゑの露よりも*しげし*といへり。 されば*朝には紅顔ありて夕には白骨となれる身なり。
^すでに無常の風きたりぬれば、 すなはち▲ふたつのまなこたちまちに閉ぢ、 ひとつの息ながくたえぬれば、 ▲紅顔むなしく変じて*桃李のよそほひを失ひぬるときは、 六親眷属あつまりてなげきかなしめ1204ども、 さらにその甲斐あるべからず。
^*さてしもあるべきことならねばとて、 ▲*野外におくりて*夜半の煙となしはてぬれば、 ただ白骨のみぞのこれり。 あはれといふもなかなかおろかなり。
^されば人間のはかなきことは老少不定の*さかひなれば、 たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、 阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、 念仏申すべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
(17) 一切女人章
^▼それ、 一切の女人の身は、 後生を大事におもひ、 仏法をたふとくおもふ心あらば、 なにのやうもなく、 阿弥陀如来をふかくたのみまゐらせて、 もろもろの雑行をふりすてて、 一心に後生を御たすけ候へとひしとたのまん女人は、 かならず極楽に往生すべきこと、 さらに疑あるべからず。
^かやうに*おもひとりてののちは、 0193ひたすら弥陀如来のやすく御たすけにあづかるべきことのありがたさ、 またたふとさよとふかく信じて、 ねてもさめても南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏と申すべきばかりなり。 これを信心とりたる念仏者とは申すものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
(181205) 当流聖人章
^▼当流聖人 (親鸞) のすすめまします安心といふは、 なにのやうもなく、 まづわが身のあさましき罪のふかきことをばうちすてて、 もろもろの雑行雑修のこころを*さしおきて、 一心に阿弥陀如来後生たすけたまへと、 一念にふかくたのみたてまつらんものをば、 たとへば十人は十人百人は百人ながら、 みなもらさずたすけたまふべし。
^これさらに疑ふべからざるものなり。 かやうによくこころえたる人を信心の行者といふなり。
^さてこのうへには、 なほわが身の後生のたすからんことのうれしさをおもひいださんときは、 ねてもさめても南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏ととなふべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
(190194) 末代悪人章
▼それ、 末代の悪人・女人たらん輩は、 みなみな心を一つにして阿弥陀仏をふかくたのみたてまつるべし。 そのほかには、 いづれの法を信ずといふとも、 後生のたすかるといふことゆめゆめあるべからず。 しかれば、 阿弥陀如来をばなにとやうにたのみ、 後生をばねがふべきぞといふに、 なにのわづらひもなく、 ただ一心に阿弥陀如来をひしとたのみ、 後生たすけたまへとふかくたのみまうさん人をば、 かならず御たすけあるべきこと、 さらさら疑あるべからざるものなり1206。
あなかしこ、 あなかしこ。
(20) 女人成仏章
▼それ、 一切の女人たらん身は、 弥陀如来をひしとたのみ、 後生たすけたまへと申さん女人をば、 かならず御たすけあるべし。 さるほどに、 *諸仏のすてたまへる女人を、 阿弥陀如来ひとり、 われたすけずんばまたいづれの仏のたすけたまはんぞとおぼしめして、 無上の大願をおこして、 われ諸仏にすぐれて女人をたすけんとて、 五劫があひだ思惟し、 永劫があひだ修行して、 *世にこえたる大願をおこして、 女人成仏0195といへる殊勝の願 (第三十五願) をおこしまします弥陀なり。
このゆゑにふかく弥陀をたのみ、 後生たすけたまへと申さん女人は、 みなみな極楽に往生すべきものなり。
あなかしこ、 あなかしこ。
(21) 経釈明文
^▼当流の安心といふは、 なにのやうもなく、 もろもろの雑行雑修のこころをすてて、 わが身はいかなる罪業ふかくとも、 それをば仏にまかせまゐらせて、 ただ一心に阿弥陀如来を一念にふかくたのみまゐらせて、 御たすけ候へと申さん衆生をば、 十人は十人百人は百人ながら、 ことごとくたすけたまふべし。 これ1207さらに疑ふこころつゆほどもあるべからず。
^かやうに信ずる機を安心をよく決定せしめたる人とはいふなり。 このこころをこそ*経釈の明文には、 「一念発起住正定聚」 とも 「平生業成の行人」 ともいふなり。
^さればただ弥陀仏を一念にふかくたのみたてまつること肝要なりとこころうべし。 このほかには、 弥陀如来のわれらをやすくたすけまします御恩のふかきことをおもひて、 行住坐臥につねに念仏を申すべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
(220196) 当流勧化章
^▼そもそも、 当流勧化のおもむきをくはしくしりて、 極楽に往生せんとおもはんひとは、 まづ他力の信心といふことを存知すべきなり。
^それ、 他力の信心といふはなにの要ぞといへば、 かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、 たやすく浄土へまゐるべき*用意なり。
^その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、 なにのやうもなく、 ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、 たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、 かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちて、 その身の娑婆にあらんほどは、 この光明のなかに摂めおきましますなり。 これすなはちわれらが往生の定まりたる1208すがたなり。
^されば*南無阿弥陀仏と申す体は、 われらが他力の信心をえたるすがたなり。 この信心といふは、 この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。 さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、 極楽にやすく往生すべきことの、 さらになにの疑もなし。
^あら、 殊勝の弥陀如来の本願や。 このありがたさの弥陀の御恩をば、 いかがして報じたてまつるべきぞなれば、 ただねてもおきても南無阿弥陀仏ととなへて、 かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。
^されば南0197無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば、 阿弥陀如来の御たすけありつるありがたさたふとさよとおもひて、 それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
釈*証如(花押)
底本は和歌山県鷺森別院蔵証如上人開版本ˆ聖典全書と同一ˇ。
手次 教えを人々にとりつぐこと。 ここでは所属する寺をいう。
し。/く[御文章集成(9)]
如来の御代官 如来に代って教えを伝える者。
とも同行 同朋同行というのに同じ。
あひささへ さまたげて。
古歌にいはく… ¬和漢朗詠集¼ 等にみえる歌。
正雑の分別をききわけ 他力の正行と自力の雑行をはっきりと聞きひらいて。 自力をすてて他力に帰すべき道理を聞きひらいて。
一念発起… 「一念発起すれば正定の聚に入る」 信心が初めておこった時、 浄土に往生することが正しく定まり、 仏になることが決定している仲間となる。
すがりて たよりとして。 阿弥陀如来の本願にすべてをまかせること。
執せられ候はぬ こだわらりなさらない。
当家 浄土真宗を指す。
期し 期待して。
きこえたり うけたまわっている。
心もとなく 気がかりで。 おぼつかなく。
師匠坊主 師にあたる僧侶。
こころざし 懇志。
あぢきなく やるせなく。
以後までも 私 (蓮如) が亡きあとも。
退転 ここでは無くなること、 途絶えることの意。
この分にては 私 (蓮如) については。
子細なく さしつかえなく。 問題なく。
さもありぬらんとみえつる 身分が高いと見受けられた。
一宇の坊舎 一軒の僧坊。
おもしろき すばらしい。
きこえかくれなし うわさが広く知れわたっている。
山中のひと 吉崎の僧侶のこと。
たつてもゐても 立ってもすわっても。
殊勝の法 とくにすぐれた教え。 阿弥陀如来の本願をいう。
なかなか 容易には。 とても。
江州志賀郡大津 現在の滋賀県大津市。
三井寺南別所辺 三井寺は
園城寺の通称。 南別所は同寺五別所の一つ近松寺のこと。 寛正6年 (1465)、
延暦寺の衆徒によって大谷本願寺が破却された後、 蓮如上人はこの近松寺の傍に御坊 (後の顕証寺。 現在の
近松別院の起源) を建て親鸞聖人の御影を安置した。
さらになにへんともなき体 全く何のかいもないようす。
成敗 ここでは諸人の出入りを止めたこと。
当宗 浄土真宗を指す。
をかしくきたなき宗 物忌をしない浄土真宗を非難していう。
ものいまはぬ 物忌をしない。
分 一部分。
浄土一家 浄土往生を説いた法然上人の流れを汲む一門。
なにとやうに機を… 救いの対象である人や人の境界をどのように心得て。
おもひとりて 十分に理解して。 心に思い定めて。
たのみおきつる あてにしていた。
そもそも 右傍に 「これは超勝寺にて」 と註記する異本がある。
座衆 座主 (講の中心人物) とする説、 講の中の特定の人々とする説などがある。
座上 上席。
いみじく 大変立派に。
毎月の会合 毎月、 定められた日に門徒が集まり、
講と呼ばれる会合が開かれた。
そもそも 右傍に 「これも超勝寺にて」 と註記する異本がある。
不思議の名言 正しい根拠のないあやしげな言葉や文句。
十劫正覚の… 時宗等の影響を受けた
十劫秘事 (十劫
安心) の異義に対する批判。 十劫のむかし阿弥陀仏が正覚成就し、
衆生の往生を定めたと知ることを信であると主張するのは、 自力
雑行をすてて他力をたのむ
廃立の信心が欠けていると批判する。
諸法 諸宗の教え。
立山 富山県南部にある山で、 修験道の霊場。
白山 石川・岐阜両県境にある山で、 修験道の霊場。
平泉寺 福井県勝山市にあった天台宗の寺で、 白山の別当寺。
豊原寺 福井県坂井郡丸岡町にあった天台宗の寺で白山の別当寺。
八宗の祖師 龍樹菩薩の教学は広く諸宗の基礎となっているので、 このようにいう。 →
八宗
自法愛染故… 「みづからの法を愛染するがゆゑに他人の法を毀呰すれば、 戒行を持つ人なりといへども地獄の苦を免れず」
勿体なき もってのほか。
一所の坊主分 一つの道場寺院を支配する僧侶。
別して 特別に。
自余の浄土宗 法然上人の流れを汲む宗派のうち浄土真宗以外のもの。 西山流・鎮西流・九品寺流・長楽寺流などを指す。
無名無実に 実質のともなわないこと。 ここでは、 名号の実義を心にかけないこと。
一七箇日 満七昼夜。 報恩講の行われる期間。
めでたく 結構なことで。
細々に しばしば。 たびたび。
諸仏にもすてられたる 諸仏の本願に女人成仏の願がないので、 このようにいう。 →
補註14
よそへても つけても。
おろかに 疎かに。 いいかげんに。
所送寒暑 寒暑 (冬と夏のことで、 一年の意) を送るところ。
五十九歳 底本に 「五十八歳」 とあるのを改めた。
御判 ここに蓮如上人の花押が記されていたことを示す。
のりのことの葉 教えの言葉の意。
無善造悪 善行善根がなく悪のみを行うという意。
出立 用意。 したく。
今生のいのり 利己的な現世の利益を祈願すること。
その名をかけんともがら 門徒としてその名をつらねる人々。
ならふ 相承する。 うけたまわる。
他門 浄土門内の西山・鎮西等の異流を指す。
正本 正しいよりどころ。
件のごとし 文書や書状などの末尾に記す慣用語。 前述の通りである。 右の通りである。
文明六年二月十五日 真宗寺本には 「文明六年三月 日」 とある。
入滅 釈尊の入滅は二月十五日と伝えられている。
珠数 数珠とも書く。
色 ようす。
うつくしく 見事に。 立派に。 申し分なく。
勝事 ここでは残念なこと、 悲しむべきことの意。
讃嘆 ここでは法話、 法談の意。
盛者必衰… 勢いの盛んな者にも必ず衰える時があり、 出会った者には必ず離れる時がくるということ。
仏心と凡心 凡夫の煩悩の心の全体に仏心がいたりとどいて、 煩悩具足の凡夫を仏に成るべき身とならしめることで、 信心の利益をいう。 これをまた仏凡一体という。
信心発得 信心を得ること。
種々不同 いろんな異義があること。 ここでは善知識だのみ、 十劫秘事などを批判している。
先 第一。
沙汰せずして 問題にしないで。 なおざりにするという意。
能 役目。 はたらき。
名号 ここでは信心を得た後の称名のこと。
不法 仏法に背くこと。
中の二日 中旬の第二日。 十二日。
こなしおとしめん けなしみくだしてやろう。
ひとを… 人に取り入ってだまそうとする者。
用意 前から準備しておくこと。 ここでは信心が往生の正因であることをいう。
南無阿弥陀仏と申す体は 南無阿弥陀仏というものは。
をさめたすけすくふ 空也作と伝える ¬
六字口伝¼ の語を依用したものといわれるが、 ここでの意は、 親鸞聖人の 「
摂取してすてざれば阿弥陀となづけたてまつる」 (浄土和讃・82) という文などによっている。
その名ばかりをかけんともがら 他宗派から真宗門徒になり、 まだ法義をよく聞いていないもの。
たとへば 例をもうけて示せばという意。
浄土一家 浄土往生を説いた法然上人の流れを汲む一門。
性光門徒 蓮如上人の弟子の性光坊の門徒。
おほやう 大まかな。 細かさがないこと。
秘事 秘事法門。 ここでは越前 (現在の福井県) にひろまっていた不拝秘事をいう。
摂取の光益・不捨の誓益 摂取不捨の
利益のこと。 阿弥陀仏の
光明によってめぐまれるものであるから光益といい、 阿弥陀仏の
誓願にもとづくものであるから誓益という。
なにの分別もなく 本願名号のいわれを聞きひらくこともなく。
一流相伝のおもむき 浄土真宗に伝えられる法義。
本 根本。 肝要。
信ずる機 ここでの機は、 救われるべきもの (機) の上に与えられている信心そのもののこと。
たすけたまへる法 衆生を救う道理 (法) をあらわしているから、 阿弥陀仏を法という。
わろき機 本願にそむく自力疑心のことをいう。
そばさま 側 (傍) さま。 真実に背き外れたこと。
不請にも 気に入らないけれど。 いやいやながら。
一百余歳を経 文明七年は1475年であるから、 親鸞聖人の示寂よりすでに二百余歳を経ていることになる。
実語 真実の言葉。 親鸞聖人の言葉。
もし…なくは 「われらもし宿善開発の機にてもなくは」、 または 「もし宿善開発の機にてもなくはわれら」 の顚倒法。
わろき迷心 本願を疑って出離の道に迷う自力の心。
一列 なかま。
非義 宗義にそむいていること。
不闕に 欠かさずに。
愚老 ここでは蓮如上人の自称。
この当国にこえ 蓮如上人はこの年八月に
吉崎から
河内の
出口に移った。
字ちから ことばを理解する能力。
結句本寺よりの成敗… あげくのはてには、 本山よりの命令であるといって他人をだまして。
足手をはこび ここでは参詣するという意。
冥慮 仏祖のおぼしめし。 ここでは親鸞聖人のおぼしめし。
ききとり法門 正式に教授されることなく、 自然に聞き覚えた法義。
へつらひ とり入り。
沙汰 ここでは考えわきまえる、 見定めるというほどの意。
世間通途の義 世間一般の風習。
つぶさに沙汰をいたし もれなく処置し。
たしなみ つとめて。 こころがけて。
他宗他門 真宗教団以外をいう。 他門とは浄土門内の西山・鎮西等の諸流、 他宗とは聖道門諸宗を指す。
今の時の定命は… 釈尊の入滅時を起点として、 時代が百年を経過するごとに人寿が一歳減少するという説にもとづいたもの。 当時は釈尊の入滅後、 約二千四百年と考えられていたから、 釈尊の寿命八十歳より、 二十四歳を減じて、 定命を五十六歳と計算した。
いかめしきこと なみなみでないこと。
定相なき時分 秩序が乱れて定まりのない時代。
当時世上の体たらく この頃、 土一揆、 戦などで世の中が騒乱状態であった。
会座を没して 説法を中止して。
法華と念仏と… 釈尊が霊鷲山での ¬法華経¼ の説法を一時中止して王宮において ¬観経¼ の念仏の教えを説かれたことをいう。 覚如上人の ¬口伝鈔¼ (15) 等にみえる。
花鳥風月のあそび 春は花鳥を、 秋は風月を楽しむこと。 風流な遊び。
わが身ありがほ いかにも自分は死とは無縁であるかのように思っていること。
未来悪世 釈尊が出現した時を基準にして、 現在のことを未来という。 現在が、 釈尊から遠く時代のくだった、 悪のはびこる時代であるということ。
そのとき臨終… 往生治定は、 往生することに定まること。 ここでは 「臨終せば」 とあり、 短命な臨終の機についていったもの。
必至滅度 必ず仏のさとりを得ること。 第十一願によって与えられる利益。
慶喜金剛の信心 第十八願の信心をあらわした語。
七旬のよはひにおよび 六十歳を過ぎて、 第七旬に入ったということ。 旬は十年の意。
片腹いたくも 見苦しくも。
しらぬえせ法門 ここでは自分でさとりきわめた法門ではなく、 教えられたとおりを、 口まねして説いている形ばかりの教えに過ぎないと卑謙した言葉。
ことの葉 前掲の三首の詠歌を指す。
文明年中丁酉 文明九年。
はりの木原 地名。 現在の大阪府茨木市。
九間在家 地名。 現在の大阪府茨木市。
中古 古 (むかし) を上古・中古・下古と三分したことによるが、 下古をいわない場合もある。 浄土真宗では親鸞聖人より第三代の覚如上人までを上古、 それ以後を中古という。
当寺 山科本願寺を指す。
懇志 ねんごろなこころざし。
七昼夜 満七昼夜。 報恩講の行われる期間。
念仏得堅固 念仏の教えが盛んになること。
安心の体 信心の本体。 信心そのもの。
仏法を棟梁し… 仏法興隆の上で中心的役割を果すべき人のこと。 棟梁は、 人を建物の棟、 梁に喩えたもの。
関渡の船中 関は関所。 渡の船中は渡し船の中。
仏法方 法義の問題。
衆中として 報恩講に参詣した坊主衆や門徒衆の仲間として。
仁義 ここでは世間体をつくろうこと。
無沙汰 なおざりにすること。
勿体なき もってのほか。 ふとどきな。 不都合な。
仏法者気色 仏法者らしい様子。
不足の所存 行き届かない考え。 考えが足りないこと。
無二の懴悔 徹底してあやまちを悔い改めること。 ここでは自力心をひるがえすこと。
めづらしき法門 変った教え。 浄土真宗の教義とは異なる教え。
おもしろき名目 相承にないめずらしい変った言葉 (異義のこと)。
さあらんとき そうである時は。
興隆仏法 仏法を盛んにすること。
細々に しばしば。
当寺建立はすでに九箇年 当寺は山科本願寺を指す。 蓮如上人が山科の地に本願寺の造営を決定してから九箇年という意。
七旬 旬は十年の意。
さもありぬべきやうに (疫癘で死ぬ) かのようにという意。
八十三歳 明応六年 (1497)。
毎月両度の寄合 毎月、 親鸞聖人の命日の二十八日と法然上人の命日の二十五日に会合をもった。
酒飯茶なんどばかり… 飲食だけで終ってしまうという意。
一段の 一つの。
具足 たしかにそなえていること。
先相 先だってあらわれる相。 まえぶれ。
浄土をねがふ… 聖冏の ¬伝通記糅鈔¼ 巻四十三、 尭慧の ¬選択集私集鈔¼ 巻四にこの旨がみえる。
とりつめて たしかに。
八旬の齢 旬は十年の意。
仲旬第一日 十一日。
老衲 ここでは蓮如上人の自称。
愚痴闇鈍 真実の道理がわからず、 心が暗く愚かで、 仏法に対する反応が鈍いこと。
東成郡生玉の庄内大坂 現在の大阪城付近。 蓮如上人は明応五年 (1496)、 この地に坊舎を造営した。 後の大阪石山本願寺。
かりそめ 一時的であること。 偶然であること。
一宇の坊舎 一軒の僧坊。
あはれ ああ。 何とかして、 是非ともという意を含む。
一念のこころざし 深く念願する心。
むつかしき題目 無理難題のことがら。
執心 執着心。 ここでは是非ともこの土地にとどまりたいという執着心。
たりぬべきものか 十分に添うことができるはずであろうか。
あひかなふかのあひだ かなうかと思うと。
一定 確かに定まっていること。
八万の法蔵 八万は多数の意。 仏の説いた教法全体のこと。
後世をしらざる人 後生の一大事について関心のない者。
南无といふ… 実如本(本誓寺)。
すがた いわれ。 おもむき。
当流一途の所談 浄土真宗独自の特別な教え。
沙汰あるべからざる 説いてはならない。
露ちりほども ほんの少しも。
たとへば 例をもうけて示せばという意。
本 根本。 肝要。
聖人の御まへ 親鸞聖人の御真影の前。
もつてのほかの大事 なによりも大事なこと。
人間は不定のさかひ 人間界は生滅変化する無常の境界であるという意。
極楽は常住の国 極楽浄土は永遠に変らない真実の世界であるという意。
人間に流布して 世間にひろまって。 世間一般に。
こころをば… (罪の重さを) 気にしてはならない、 心配してはいけないという意。
観ずるに 心をしずめて考えてみると。
始中終 始は少年期、 中は壮年期、 終は老年期のこと。 人の一生をいう。
百年の形体 百歳の身体。
おくれさきだつ人 人より後に生き残る人と、 人より先に死ぬ人。 生き残る人と死ぬ人。
もとのしづくすゑの露 草木の根もとにおちるしずく、 草の葉の末にやどる露のことで、 人の死の先後は予想できないことをあらわす。
といへり 以上の文は ¬存覚法語¼ に引く後鳥羽上皇の ¬無常講式¼ からの引用であるため 「といへり」 という。
朝には… ¬和漢朗詠集¼ (下) の義孝少将の詩に 「朝に紅顔ありて世路に誇れども、 暮に白骨となりて郊原に朽ちぬ」 とある。
桃李のよそほひ 桃や李 (スモモ) の花のように美しいすがた。
さてしも… いつまでもそうしてはいられないので。
野外におくりて 野辺の送りをして。 遺骸を火葬場に送ること。
夜半の煙 夜のけむり。 遺骸を火葬するようすをいう。
おもひとりてののちは 信心決定したうえは。
さしおきて 捨て去って。
諸仏のすてたまへる女人 諸仏の本願に女人成仏の願がないので、 このようにいう。 →
補註14
世にこえたる くらべようのない。
経釈の明文 ¬大経¼ (下) の第十一願成就文、 第十八願成就文、 「易行品」 の 「即の時に必定に入る」、 ¬論註¼ (上) の 「すなはち大乗小乗の聚に入る」 などの文を指す。
用意 前から準備しておくこと。 ここでは信心が往生の正因であることをいう。
南無阿弥陀仏と申す体は 南無阿弥陀仏というものは。