光闡百首

 

近曽被↠犯↢病霧、傷人間浮生之身。疑雲立 ひて娑婆有待之心、無明闇夜法性之覚月。冥々 としてして寝床、身心不↠辨東西、宛たり↢ するに室穴之。爰厳師慈愍之徳風、 ありて誘引来化ふが於雲、真智之日月漸出期時至りて か↢  にせむと無光耀りて安慰 して本心、以けて法楽、治多罪・重病、歓喜満渇仰銘 りてけば暁鐘短夢速 めん矣。試 みに漢和之一章、憶白居易遺愛寺往事霊寺鐘声てて心中所願きて

 ゞしく うき世の夢を おどろかす 法のおしへや あかつきの鐘

、聖廟之神、同じく天之尊詩いで其高韻頓作。

遥仰↢霊場↡看↢瓦色↡ 唯帰↢於仏↡称↢名声↡ 栄名自是心永絶 深念↢仏恩↡口不↠言

身のあれば 又いかならん いつはりの なき世にん 命をぞおもふ
弥陀たのむ 心はたえぬ 慈に 世のよしあしも 忘れはてぬる

又於蟄居之机上、得古本太子「十七ヶ条憲法」。今日当りて御入滅之正日右筆之次 でに和漢之両篇べて卑懐、奉↢尊霊、伏 してはん慈悲加護焉。

至心信楽従↠何発 皆是弥陀廻向相 今日更思↢弘興徳↡ 和朝教主上宮王

たえせじと あふぐ仏の 法の道 まもらざらめや きみがめぐみに
身をすてゝ 法のためにと おもひ入 心のみちは あめつちもしる

弥陀智願首↢廻向↡ 太子来応慈愍明 観自在尊同勢至 艤↢船苦海↡度↢衆生↡

くるしみの 海をもわたす 法の船 弥陀の誓を たゞたのめ人

日得隆寛律師法語書↢写。奥書(一念多念分別事)「建長七歳乙卯四月廿三日、愚禿善信八十三歳書写之 則日んぬ今日祖母如了禅尼之逝日也。今年永禄丁卯歳、不↠期不↠自然所↠致也。

今師上人御誕生天文十二年正月七日癸卯、 にして当年又卯歳也。りて于↢此時↡顕諸徒勧誘之懇誠、示衆生得脱之要道絡。是併末代奇妙之化益、仏法繁昌之根源 なる者乎。況月中兎、世尊因位応化之其 なる乎。御寿算又当年同暦、 にして時節相応之表示 なる者乎。兼亦憲法書写之古本には「明応四年乙卯三月廿九日書之 吾雖りと未生以前之写本↡、今年入りて↢ げるは拝覧↡、 することを機感順熟 なる者歟。閑して憲章、写愚朦安慰之少解、太子哀憐 に↠ からん之乎。就中今日者、当山開壁之尊師兼寿法印円寂之忌辰、当流中興之明哲也。下愚雖在世↡、信↢順遺教、専行化。是則弥陀・釈迦二尊之矜哀、代々相承知識之厚恩也。りて亦記卑詞筆端矣。

老釈・弥陀二仏因 真茲唯仰下愚身 無明雲霧随↠風散 法性月輪耀新

廿あまり 五の年に あひにあふ 法のちぎりを たのむ今日哉

¬観経義¼(散善義)「仰 ぎて釈迦発遣 して して しめ たる ことを西、又籍りて弥陀悲心 をもて招喚↡、した まふに今信↢ して二尊之、不↠顧水火二河、念々 るる ことずと願力之道。」 唯憑 のみ真説。古語(韓非子)「千丈之堤螻蟻穴↡而潰。」ゆと れば近日りて悪徒↡招螻才 れん者為せり諆計、邪見放逸之企、是併仏法破滅之基也。彼螻虫在りて不↠辨明闇、適ぶも陸地、坐臥不↠安潤沢して、濁水漲来今既出奔、 するも言語非↠ ざれば是外道痴鈍之所為、天罰冥罰、在者乎。導和尚二河譬喩其証明白 なる者乎。所 ぶる毒虫類歟、無慚無愧畜生、何仏法修行之器乎。彼(散善義意)「正 しく↢ すれば↡、 らむと群賊・悪獣漸々 しく↢ すれば南北↡、 らむと悪獣・毒虫競 ひて しく↢ すればひて西ねて而去↡、 かむと復恐 くは↢ せむと水火二河りて惶怖 すること不↢復可から 人既きて↡ ばふを正↢当 にして身心、決定 してみて不↠怯退心 一心 みてじて而行けば須臾りて西岸、永、善友相見 えて慶楽 することしと。」 むこと 二尊之摂護、列祖之慈恩、夫 に からん乎。仍 りてえて悲喜之涙報謝之愚念而已。

永禄拾年十月廿八日早朝任せてぶに

をのづから 心にうかむ ことのはを かく水茎の あとぞおかしき
身につとめ 心にさとる 法ならば なにとたのまん 弥陀の誓を
かゝる世の ためにときをく 法なれば この比ことに 弥陀ぞたふとき
定なき うき世はつねの ならひにも ことはりすぎて つらきころかな
かねて聞 弥陀のちかひに まかすれば 世のうきふしも 身にはなげかず
みだれゆく 世をこそなげゝ 心には みだたのむ身の たのしみやこれ
法の師の かねてをしへし 道ならで 又おもふべき 心ともなし
生死の みちはのがれぬ 世をさらに なにとたのまん 弥陀たのむ身は
おさめとる 弥陀の光の うちにすむ 身のあかつきを 待ぞうれしき
たのもしな うき世の雲の あともなく さとりひらけん あかつきの空
とにかくに 弥陀のちかひを あふぐぞよ おろかなる身も たへぬたふとさ
いかにして おろかなる身に おもはまじ 弥陀のあたふる 恵ならずは
あふぎみば なをはかりなき めぐみかな 弥陀のちかひも 祖師のおしへも

今日従反古之中↡愚詠一首捜↢得。是者此清水之花亭、庭前之池れば花初開境節あり門主仏書拝覧之砌也。豫侍りて座下めて于其池辺して希奇之思年をへて花さかざりし蓮葉も いまぞひらくる法のにほひに」読詠草也。翌日廿九又存鏡筆跡之古詩一篇看 りて風景げり。彼、「倒風深菊、荒雪池蓮 ひて而当時寓居之亭、庭前歩行之次、 いでに池水みて愛玩せり今更恋慕之思不↠休亦此数年、荷葉雖一花↡。おも今年初 めて而蓮華開奇妙之瑞銘心肝。仍 りてひて往事

丹心帰↠仏仰↢哀憐↡ 深院独居更精専 近見↢寒庭載霜菊↡ 遠思↢夏日発風蓮↡
仏日・祖風化益遐 欲↠明↢長夜↡法薫加 一心専念↢無量徳↡ 本是如来正覚

玄冬晦暁、仏恩憶↢念称↣名 するにめるなり廿八日廿九日両日之間、当流之¬本書¼一部六巻奉拝読、翌日¬浄土文類聚鈔¼遂拝覧仏祖之広徳、報恩之思無 りて

なぐさみも 外にもとめず 弥陀たのむ 心ぞしるべ 御名をとなへて
いやましに あふげばたかき 法の師の をしへの外は なにかたづねん

同年十一月四日おもひつゞけゝる。

二なき 御法のみちを たづねゆく 心のすゑは 弥陀まもらん
みだれゆく 人の心は さもあらばあれ われはすぐなる みちを訪ん
にごる世の 人の心は すみやらぬ 水になづめる われぞかなしき
なき名にて しばししづみし 苦の 海にもうかむ 舟はあらずや
いにしへも なき名にしづむ 跡はあれど ひろまる法の 道はたえせず
たえせじと たのむ御法を さまたぐる 人の心は さていかにせん
釈迦・弥陀の 誓はいまも あきらけき 御法をたのむ 道はかはらじ

六日暁、 夢さめて後、 開山聖人の御詠歌に
「ありがたやたふとやとこそいはれしは みだたのむ身のひとりごとには」 とあそばされとをもひいでゝ、

ありがたや 老のねざめも 弥陀たのむ その嬉しさの ひとりごとして
法の道 君をおもひの へだてなき 心は弥陀ぞ みそなはすらん
法の師の めぐみをおもひ あけくれば 君につかふる こゝろのみして

同七日けふは亡父卒逝の日也。 去文明の比信証院法印北国行化のとき、 安芸法眼光業と云しものてううつをゑくしみ て、 真俗の道を申すかして、 加州みだれがはしかりしを、 其権威には、 はゞかりいさむる人もなかりしに、 故法印康兼やすかねきやう兼祐かねすけ法印にあひ談じ、 願成就法印をよびくだし奉り、 兄弟三人もろともに、 ひそかに信証院法印に申あげ奉りしかば、 おどろきおぼしめし、 にはかに光助法印の便船をまち、 順風をゑ給ひ、 一日のうちに若狭の小浜に著岸ありて、 それより都にのぼりましまし、 かのもう者を退られし後、 僧都一流の正意あらはし、 仏法繁昌のもとゐになりき。 もとより故法印は、 をろかなる身のはぢてよるづつゝしみありといへども、 法のためには身を忘れけるむねを、 つねにかたり侍し事を思いでゝ、

たらちねの をしへし道も 法の師の 恵みわすれぬ 跡をしぞおもふ
をろかなる 身にもおもひの 法の道 まもらざらめや 神もほとけも
ひるがへす 心ひとつに ゆく道を なをわけまよふ ひとぞかなしき
末の世に なをさかゆべき 弥陀の法 よしさまたぐる 人はありとも
まもれなを こゝろひとつの 法の道 尋ねゆくゆく 身をぞよろこぶ
ぬるがうちも 目ざめてみるも 夢なれば 何か常なる うつゝなの世や
かゝる世も ひとつまことの 道とては 弥陀のちかひを たのむばかりぞ

この比つけをかれし侍の中に、 河上のなにがしといへる人は、 故瑞泉寺賢心にわかき時よりなれむつびし人なれば、 そのゆかりなど申出て、 おりおり心をなぐさめ侍し。 かの賢心は実如上人にしたしみ奉り、 法義におひて他事なく侍しかば、 故法印もことにもてあつかひしうへ、 その子証心は兼順と叔姪のあひだに侍れば、 まじはりもよのつねならず、 ちかくは賢心跡をゆづり修誓坊兼乗とぞ申ける。 つねにむかしの事などかたり給し、 いにしへをもてきこえし、 古きこと、 絵賛もち来侍し、 その語かの韻をつぎ、 ふとおもひつゞけける。 古語  「学道参禅渡世計、 不如閉送残年

物いはで 心にをくる 年月も 法の道ぞ またるゝ

  絵賛
痩尽風相四十図 春光曽不到寒枝 莫教淪落西湖去 羞被官梅御柳知
  和韻
莫謂風光不到図 朝々映日照梅枝 仲冬薫馥遇時樹 周世昭王盛歳知
  同賛
可期無定両悠々 昏底黄沙日夜流 望断暮雲残照外 青楓吹落海門秋
  和韻
可期定裏意悠々 仏化自然法爾流 末世相応一称徳 弥陀本誓是春秋

河上や 法のこゝろの 玉椿 みれどもあかぬ 花の色香は
うれしくも 今夜あひみる 夢の友 ゑをすゝめし 春の盃
おもひ出る 心はたえぬ いにしへの 人やあはれむ 法の契を

後の二首の歌は、 この暁、 むかしの友とて樽をいだき尋来りて、 ともに盃をめぐらし侍ると覚て、 ゆめさめてよめる。 しかもけふは妙祐禅尼身まかり侍し日なり、 かたがた筆にあらはし書つけ侍る。

ことの葉も たえてうれしき 心かな 弥陀のたすくる 法をきく身は
罪ふかく 愚なる身を おもひしる 心も弥陀の 恩としられて
きく事も 心にうるも はかりなき 弥陀の誓の ふかき慈み
きけばなを わがはからひの 尽はてゝ 弥陀のたすくる 法の貴さ
いく度か 身をかへりみて 法を思 我はからひの ありやなしやと
われといふ 迷もなしや 六の道 よこびる弥陀の 法に任て
よしあしと われにとまりし 道もなし 弥陀たのむ身は うさもわすれて
一すぢに 弥陀たのむ身は をのづから うき世の道も それにまかせて

閑居のつれづれのあまり、 仏陀を遷侍る菩薩歓喜地より十地を経て補処覚の位にいたり侍る階次をみるにも、 自力修行の成じがたきことをきくに、 今弥陀の本願、 第十七の願の名号を信受する第十八の念仏往生の機は、 すなはち第十一の願、 住正定聚の益、 必至滅度の果をうるよし、 祖師の解釈、 他力易往の本誓、 いと尊くぞ覚え侍る。 今朝おき出侍れば、 寒風はげしく水こほり雪ふりて、 遠の□い山もみなしろたへにみえ侍るに、 かの越王勾践のむかし会けいの恥を雪めしふるごとおもひいでゝよめる。 しかもけふは十一日になりはんべりける。

手にむすぶ 水もこほりて うちむかふ 外山のみねの ふれる初雪
ふる雪も 恥をきよむる ためしとや 十地を越る ひとつさとりは

けふは十五日の日なり、 よのつねに弥陀・釈迦二尊感応の日と申しならはし侍る。 されば釈尊世に出給ふ事も、 ひとへに弥陀の本願をときのべましますべきためとみえ侍れば、 末の世のわれらまでも、 この御誓にあひ奉る、 仏恩かたじけなくぞ覚侍る。 又偏増院僧都の御家兄いゑあに中納言けう光円と申せしは、 故法印にしたしく仰あはせられ侍し、 その御ゆかりを忘れず、 としどし極月十五日には志をいたし給をも、 おもひつげず侍しを、 去永正十六の比も、 父いさゝか風病をわづらひし折ふし、 豫にかたり侍る。 かやうの心づかひまでも、 ねんごろなりしことまでおもひ出侍る。 ことさらすぎにし姉公あねぎみ誓賢は前のとしのしはすの二日身まかり侍る、 光円にさきだちてまいらせ侍しとなり。 そのきはにも蓮如上人あそばされし 「御文」 (五帖十四) に 「かくのごとくやすき事をいまゝで信じたてまつらざる事のあさましさよとおもひて、 なをなをふかく弥陀如来をたのみ奉べきものなり」 との御詞を申いだし念仏申、 そのまゝいきたえ侍るとなん。 いまだ十あまりの人の心ばせにたぐひなきよし申つたへ侍る事など、 いまおもひいでゝよめる。

釈迦・弥陀の 恵あまねき 法の道 ひろまる末の 世をばなげかじ
かりそめの 法の契も 忘ぬや そのたらちねの 残すことの葉
をろかなる 身をおもふにも いやましに ふかくぞたのむ 弥陀の誓を

今夜の月のことにくまなかりければ、

さやかなる 月にたぐへて 思やる 弥陀の御国の きよき光を
いかなれば 月はくもらぬ 中天に なにとうき世の 雲かゝるらん
慈の 光をうけて 法道 きくも仏の ちからなりけり
たゞたのめ あふげばたかき 法の道 心にたゑぬ 弥陀のひかりを
となふるも 弥陀のもよほす 御名なれば げにぞまことの 心とはしる
四十地あまり 八の誓も あきらけき こよひの月は 雲もかゝらず

かんがへ侍れば、 去九月廿七日より今日まで、 四十九日になんなり侍る。 これによりて弥陀の本願になぞらへてかく申侍る。 又子月仲旬第七日当初岡崎中納言と申せし人、 建暦元年の比勅免の宣旨をうけたまはり、 黒谷聖人御帰洛ありし往事をおもひ出で、 源中納言と申ける許へ消息のついでひとりごちし侍る。

法の道 おもふばかりに すぎし身の なにとうき世に まよう心ぞ
世のためと おもひしかども 身のうへに かゝる涙の つもる月日は
いかにせん をろかなる身を かこちても 老行末の 世のならひをば
ひたすらに 弥陀たのむ身の 心をば 法の師徳の 恵あらずや
世の浪も しづまる法の 海づらに うかぶ誓の 舟をしぞ思ふ

むかし大施太子と申せし人、 貧人をあはれみすくはんとの大願をおこし、 如意宝珠をもとめ給しを、 龍神おしみ奉りしかば、 ゑんしの貝を以巨海をくみ尽し、 つゐに宝珠をゑ給ふとなり。 志の深きをば仏神も感応あるためしに申つたへ侍る、 はをろかなる事に申侍れども、 仏祖の照覧を仰ぎ、 いさゝか法の道のみだれ行べき事をなげき、 朋友たがひに意旨をのべ、 おなじく和合の海に入、 ひとつ御法のうしほの味に帰せん事をねがひ侍りしに、 時のいたらざると心のつたなきゆへ、 かやうに成ゆく事身の志のおろそかなる所をよる・ひるかへりみるにも、 自楽をもとめず我身自心に著するおもひもなし、 たゞ祖師の御遺訓をしたひ、 仏智の本誓をたのみ奉るばかりなり。 しかれども邪見放逸さかりなる時なれば、 かへりて仏法瞋毒のたくみとも、 見聞につけて悲涙にむせび、 いとゞむかし恋しく、 庭の梢に枇杷の葉の中に花のつぼみのまじはるをみて、 きつのうたがひまで、 そのよせありて、 かく申侍る。

こぼすとも 人やみるらん 昔おもふ はなたち花の 袖のなみだは
いにしへも 管にてそらを はかりみつ 貝にて海を くみ尽しけん
愚なる 身にも御法の そのために 心をつくす 道はかわら

古き詩に、 白梅盧橘さめてかうばし、 夢はめぐる却月廊といへる事を思出て、

むかしたれ 月にかへりし 夢の間も とくさく梅の 花のにほひに
古も 冬ごほりせし 難波津に さくやこの花 香にほふらん

此歌は仁徳天皇のむかしをおもひ、 今師聖人法流御再興の嘉地によそへ奉る。 かねては去文明の末のとし、 椿禅尼 従三位雄子  俄に出家発心し給ひ、 善光寺へまうで給しが、 先妣をたづね越の ち津国にいたり、 をのづから法門聴聞耳にとゞまり、 康兼法印のをしへをうけて、 そのまゝ此寺にやどり給ひ、 但信念仏の行人となり給ぬ、 それよりこのかた加州へともなひ奉り、 まいおなじくすみ給へば、 手いとけなかりし時、 「とくさけよ千代をこめたる春なれば」 と梅の花をよみ侍し、 そのことの葉をあはれみ、 敷嶋の道にすゝめ入給。 それよりはじめて三十一もじのことの葉に心をかけ、 いま老の後のなぐさみとなり侍ゆかりの露もかうばしく、 むかしの風もなつかしう覚侍うへ、 御おとゞ小ぐら大納言しゆかうに ¬論語¼ の訓説をうけ奉り、 和歌の道までもかたり出たまひ、 逍遙院内府の御点など申うけ侍し古の事まで、 ひとりごとしてかきつけ侍るならん。 けふは又祖母如禅尼の卒逝の日にあたり給ふ。 すぎしに康正の昔亡父出生ののち、 仲冬下旬身まかり給けるとなん。 しかれば毎年この月十三日に、 とりこし、 志のつとめをなし給し、 今さらのやうにおもひ出侍る。 はやすでにとせあまりせにすぎ侍れども、 ことし身のうへにしられて、 あはれに覚え侍る。 父は平の貞牧と申せし人なり、 教恩院法印の女公も即かの御妹公にてましましければ、 幼少より同く伯母の御いつくしみにて、 ひとゝなり給しかば、 康兼は実如とことにしたしく、 御兄弟の中にもとりわき法友にてましましける。 先妣はもと権大納言持李卿の末女なりしが、 事の縁ありて越の国へくだり、 をのづから真俗の道ともにかしこく見仏し給へば、 信証院法印もつねに褒美しましましき。 されがかの考妣の跡をとぶらひ、 その道をまもるべきむね、 実如豫につねにをしへきかせられし事を、

たらちねの したひし道も 法の門 思いでゝも ぬるゝ袖かな

廿四日早朝、 和泉の国の法友一、 二人、 このやどをたづねて来れり。 ちかきあたりの人さへ、 たへをはゞかり、 をとづれもなきところに、 はるばるの志、 あわれにおぼへて、

心ざし ふかきや色に いづみなる 信太のもりの 木々のこずゑも

過にし禄の比、 加州みだれにより、 越の前州へこゑ廿とせばかり、 心をつくし侍る時、 和泉祐念といひしものと、 出雲守正家といへる青侍、 つきそひ侍り、 其外のものはちりぢりになりぬ。 しかるにこのあひだも、 彼和泉が息順信・信秀ふたり、 母子より外はわれにしたがふものなし。 されば二たびの難に心かはらぬこゝろざし、 父のあとをわすれ道あはれにおもひ侍る。 ことに弟信秀豫がやまひにおかされ是非をわかざるおりふし、 ちからをそへ侍事、 たぐひなくぞ覚し。 さすが名ある青侍のしるしと感気すくなからず、 この母子のなさけ、 事につくしがたくて、 老の心におもひつゞける。

身は老ぬ われひとりなる 後の世を たのむは法の ちぎりなるらん
かくてわれ さきだつとても かへり来て すくはん弥陀 誓たのもし

又土佐入道良誓といへるものは、 故法印にひさしくつかへしものなり。 この大坂御堂御建立の時も、 つかひとしてのぼり、 そのとき給りし法名良と実如御筆をくだしましましける。 亡父入寂の後は、 豫にしたがひ当寺帰参の時も、 心をつくせし法徒也き。 つゐにこの御山にして往生の本意をとげしことも不思議の宿縁にこそ、 其ゆかりのものしのびて来れり。 かの法名によせて、

まことある 誓の末や 今さらに 忘ぬ法を とふもなつかし
まことある 誓をたのむ 弥陀の名の 世にきこへたる 跡おしぞおもふ

けふは、 当山開基蓮如上人御命日也。 おなじく法然聖人御円寂の正日なれば、 いれも浄土弘興の明師にてましませば、 ふともひ出侍る。

たゞたのめ 弥陀の誓を 世におもふ 恵はおなじ すみぞめの袖
末の世に 生くる身も 弥陀の名の ひろまる道を 猶あふぐなり

亡父かきをけるふるき要文など、 むかし恋しくてひとりひらきみるに、 豫六歳のとき、 妙照禅尼にいざなはれ、 松岡寺へこえ侍るに、 蓮如上人つくらせおはします 「御文」 (五帖一 ) 「末代无智の在家止住の男女たらんともがらは」 とあそばれし御詞を、 そらによみ侍れば、 「聖人一流の御勧化のおもむきは信心をもて本とせられ候」 とのべ給 「御文」 (五帖一〇) ををしへさせ給しを、 光教寺へかへりて、 先にそらにかたり申しかば、 口づからかきとゞめさせ給し事の跡なり。

今さらに 思ぞ出る 法の道 をろかなるをも すてぬ昔を
愚なる 身にも忘ぬ ことの葉を いまみるからに ぬるゝ袖かな
むかしより ふかき恵の つもる身や わすれずのりの 道おまもらん

去年霜月廿六日、 今師聖人 ¬和讃¼ (正像末和讃 ) の事おほせいださる、 「像末五濁の世となりて 釈迦の遺教かくれしむ 弥陀の悲願ひろまりて 念仏往生さかりなり」 と申とを、 明日引はじめ奉るべきよしなり。 そのむね御堂衆に申べきか、 助言いかゞとうかゞひ申侍れば、 申べからず、 一家衆に我等こゝろえにて候とおほせられしまゝ、 みなみな稽古申、 あくる日その衆同音に申あはせ侍べり、 子細さらにわきまへ侍らず、 今朝その事を思出たてまつり、 ひそかにひとり誦したてまつりて、

思いでゝ ことしも袖を しぼるかな 君がをしへし 法のことのは
さかりなる 御法の花を 心なく 誘うあらしよ さていかにせん
みだりゆく 世にもさはらぬ 弥陀の名の 猶あらはれん 時や来らん

大唐念仏興行の祖師善導和尚は、 永隆二年三月廿七日に入滅したまふ。 その徳をほめていはく、 「仏法東行してよりこのかた、 いまだ禅師のさかんなる徳のごとくなるはあらず」 (端応伝) 云々。 鸞聖人は、 「善導ひとり仏の正意をあきらかにせり」 (行巻) ほめさせ給ふ。 其法譚によせ奉りて、

さまざまに ひろめし法 中になを よくみちびける 君ぞたへなる
たらちめの 残す言葉の 露うけて 昔の袖を いましぼるかな

後の歌は、 先妣如専禅尼、 去ぬる永正十一のとし十月廿七日身まかりける、 そのきわに、 豫に語ていはく、 真俗ともにうちやわらぎ、 法友かたりあはすべし、 談合するときはひとりのあやまりにはならぬものなり。 後生一大事なり、 仏法をもつぱらたしなみ、 ことさら仏前の義をまづゆだんなく心にかくべきよし、 ねんごろに遺言せし事を、 其比はいとけなかりしかば、 心にわきまへ侍らざりしが、 このごろ当寺にまいり、 一しほ此ことの葉をあけくれ思ひいだし侍る、 けふも懐旧の涙袖をうるほしける。 ことに今年はとしどし御影前に通夜せしめ、 朋友まじはり入て、 たがひに信不信の報恩の志をのべ侍る事、 往昔より流例たり。 しかるにおもはざる事によりて、 このやどにとゞまりて、 ひとり思やり奉るばかりなり。

心のみ かようはしるや 今夜なを 法の筵を しきしのぶ身に
晴にけり 天満星の 光まで 法の御空の かげくもりなく

ひるのほどは、 雨ふり侍るが、 暮にかゝり雲はれて、 ほしの光かゞやき、 一天くもなくみゑ侍れば、 かく申侍。 おりふし法友とひきたり、 世のことぐさなど語りきこえけるも、 かたがた慈恩ありがたくぞおぼえ侍る。 夜あけゝれば、 まさしく報恩講御結願成就の御正忌にて侍る。 しかるに讒またげにより、 つゐに法せきムシロにまうで侍らざる悲さ、 申てもつきがたし。 しかれども仏祖の照覧、 今師の御愛隣により、 いまゝで命ながらへて、 此御聖日に逢たてまつる事かたじけなくて、

めぐみありて けふに逢あふ うれしさは なにゝつゝまん 法の衣手

窮冬朔日、 なべていとなみしげき比に侍れども、 いたづらに日ををくり、 ひとり閑床にむかひしおりから、 夜ふけ人しづまり侍、 秀き酒をすゝめ世のことぐさなど語りいでゝなぐさめ侍りき。 やがてうちふし侍ども、 老の習ねぶりはやく覚て、 暁がたつくづく往事をおもふに、 けふは実如御命日、 又誓賢尼公の正忌なり、 ひそかに念仏のつとめをなし侍る。 ¬和讃¼ (浄土和讃) に 「無明の大夜をあわれみて」 と引はじめ奉れば、 六首は 「平等心をうるときを 一子地となづく」 とのべまします御詞にあたり、 是諸経の意よりてあらはし給ふ所也。 今年、 天王寺にて ¬称讃浄土経¼ と ¬涅槃経¼ を感得して拝見せし事まで思出侍る。 はじめに法身の光輪きはもなく、 安養界に影現しましまし、 又釈迦仏としめし、 迦耶城に応現したまふ、 法・報・応の三身のことはりもあらはれ、 易往無人、 浄信うたがふともがら、 名無眼人名無耳人とときまします金言、 真解脱にいたり無愛無疑とあらはるゝところ、 安養いたりてさとるべしとあきらかにのべ給ふ御ことの葉、 心肝に銘じありがたく覚え侍る。 時に門をたゝくものあり、 花洛よりのつてなり。 尊書をひらき、 喜悦きわまりなし。 かねては又いにし年霜月の比、 乗賢病により報恩講中出頭をこたれり。 しかれども ¬御伝¼ をばのぞみてよみ給ぬ、 しかるに当春元日の出仕これなし。 豫二日の朝御門主の貴前へまいりしおりふし、 家童物がたりしたまひしは、 乗賢病気快よからざるよし申されしとき、 今師上人、 それは去すべき旨のたまひしかば、 その人ことの葉なくして立さりぬ。 けさふと心にうかびおもひあはする事侍り、 そのほかたびたびおほいだし給ふ和讃、 しづかに思案をめぐらし侍れば、 所解のたよりなるべきを、 たゞなにとなくきゝすぐし奉ける、 をろかなる心をかへりみるばかりなり。 さりながらつたなき誠をばすて給はぬ大慈大悲、 たのもしく覚侍る。

をろかなる 身にも忘ぬ 弥陀の名の 誓をたのむ 法のまことは

もとより兼順は、 身つたなく心をろかにして、 真俗の道をわきまへず、 ことにともすれば、 病におかされ、 そのちからたらざれば、 世俗の道にもたづさはる事もなく、 衆のまじはりをもこのまず。 しかれども家嫡蓮能法師、 去ぬる文亀第三 正月廿二日、 廿二歳にして身まかりぬ。 いまだ世子もなかりしかば、 その欠によりてしばらく妙照尼と母子のなぞらへにて、 松岡寺兼祐・真弟兼玄法印ともに親しくなれむつび侍る。 兼玄は、 かしこく世芸に心をかけ、 歌鞠の道までも、 家々の風をまなび給、 豫も婭熱のよしみあれば、 たがひにまじはりうとからざりし。 これによりて大永五年正月廿八日、 ¬六要鈔¼ 読書ののぞみもおなじく実如に申あげ、 恩恕に預り、 一部十巻伝授せしめをはりぬ。 抑幼稚の時より先考の教へをうけ奉り、 一歳のとき 「浄土三部妙典」・¬選択集¼ 授与のゝち、 和漢両朝の祖師先徳の所釈等ならひつたへ、 廿三歳にいたるまで、 常随給仕の勤めをこたらず、 十八歳の時出家得度の本意をとげ、 貴寺にをひて、 ¬浄土文類聚鈔¼・¬愚禿鈔¼ の両部、 慶聞坊龍玄にしたがひ伝授、 おなじく廿五歳にして本書 ¬教行信証¼ 一部六巻、 誓願寺了祐相伝、 いづれも実如上人恩許にあづかり奉るゆへ也。 又念仏勤修法門合の余暇、 龍花院梵朝蔵王、 万年山よりくだり給ひ、 談話のつゐでおもひよるふしをつらね侍りし。 もとよりたしかにならびつたふる道もなければ、 自然と心にうかぶばかりを、 ことの葉にのべ、 筆にしるすのみなり。 これ他見のためにあらず、 みづからのなぐさみとするばかりにこそ。 さても今ぱんはからざる横難にあひて、 身心を痛ましむ。 我ひとりの案立、 衆人の讒言、 口筆にもつくしがたし。 しかれども、 今師上人の厚恩、 仏祖の照覧ましましけるにや、 虚説やうやくあらはれゆくこと、 かつは又三公労功の恩致、 別しては両君哀憐の芳情なり。 古語に、 「家にわざはいある時は、 親にあらざればすくはず」 と 云々。 此言まことなるかな。 真俗二公蓮如上の曾孫、 法印純恵はおなじき玄孫にこそ。 彼曾祖師光真法印は、 先考と他にことなる法友なりき、 其孫弟光恵僧都は、 豫と従父なりしかば、 世々の芳契たえず、 中にもとりわき身をくだき心をつくし給ふ御志、 たぐひすくなくぞ覚え侍る。 そのほかぢゝあまたありといへども、 かたえにはゞかりて口をとぢ、 かへりて讒訴のともがらにともなふ類ひおほし。 こゝにいまだ志学ばかりなる奇童のよしみを通じ、 おなじくちからを加て真俗二たいのたすけをなし給ふ。 このほか志を通ずる信男・信女あはせて七仁、 晋の七賢が竹林の交遊にもまさり侍るべし。 誠現在聞法の親友、 当来倶会一処、 法楽うたがひなくぞ覚る。 これしかしながら今師上人十月十五日、 五人の使節に法りよ二人をくわへ給ふ、 御智慮よりをこれり。 かの常楽寺法印は光恵僧都の真弟、 教行寺佐栄は、 兼詮法印の真弟也。 この詮公は、 豫若年の比よりたがひに昔をかたり、 真俗のたゞしきをともにしたひし法友なり。 ればこのたび門主もわきておほせあはせられしにこそ、 父の道をたがへず、 力をくわへたまふ事、 ことの葉にものべ尽しがたし、 角て漸正理もあらはれ、 保公世俗の仁政のをも、 よりよりかたり出ましますにより、 上やはらぎ下むつまじくして、 是非のことはり誰かわきまへざらんや。 その余は日々月々かはり、 たゞ我慢邪見をむねとして、 内外の両典ともにたづさはらざる人なり。 ある ¬疏¼ (序分義) にいはく、 「事典にあづからざるは、 君子のはづる所なり」 と。 しかれば無慚無愧のやからに対しては、 真俗の正義、 ことばをつくし心をつゐやしても、 その所詮なきものをや。 すでに篭居数日を経、 人のまじはりをたえて、 二七有余なりし比、 便りをもとめ、 ある人のかたへ、 よみてつかはしける。

老が身の かゝる思の 露涙 くち行袖に つもる日かずは
もろくちる 庭の木の葉の 色みても 老のなみだの 袖おもひやれ
なにとかく へだつる道ぞ 法の師の 教のまゝと おもふわが身を
法の師の 心の月ぞ 照しみん 世のいつはりの 雲おほふとも
ふたつなき 心は君も みそなはせ 法の恵を 弥陀にまかせて
法の師の をしへのまゝと たのむぞよ 世のよしあしぞ 道もわすれて
いつまでぞ まよう心の 雲霧も 法の恵の かぜにはれずや

すなはちこの日、 今師上人はじめて御尋をなされ、 翌日に清水のつぼねへうつり侍りぬ。 いにしへ亡父毎朝念仏勤行の後、 常の屋にかへり、 しばらく仏場にむかひ、 安座する事たえず、 北地にしては南方にむかふ。 今は東方にむかひ奉る。 我も又おなじく霊場信敬恋慕のおもひは、 かはらざるものをや、 しかれば東南に雲おさまり、 西北に風しづかにして、 真如の月光かゞやき、 法性の水に影をやどす、 これ機縁相応真俗繁栄の嘉端なるをや。 法然聖人の云、 「浄土の教時機をたゝきて、 行運にあたれり、 念仏の行、 水月を感じて昇降を得たり」 (選択集) と。 今まさしく時いたれるかな。

ながらへて すむ御法の 水からも くもらぬ月の かげうつるかに

 

るに れば者弥 りて、 さむと へばたり獣・毒虫↡、ふに亦不↠恐火之難 るのみ願力之道。殊更保公為 むが師加へて二尊之影、一心正念 にしてちて再興之期、悲喜交流又百首之詠者、准じて人寿之譬、行事一分二分 する者、歳月日時。仍 りてひて与↠涙共 りぬ

永禄十載十二月廿二日書之

欣求浄土沙門顕誓

于時天正拾四 九月下旬奉写⊂⊃

⊂⊃法橋

 

底本は◎龍谷大学蔵天正十四年書写本。 ◎の湮滅箇所は原則として ¬仏教古典叢書¼ によって補い、で示した。