◎▲今古独語
◎朧月初八の暁、 明星を見てよめる。
あかぼしを みるも悟と いでそめし 山やうき世の 光りなりけん
昔し大聖世尊、 中天竺迦毘羅城浄飯大王の御子に生れさせたまひ、 四月八日天上天下唯我独尊と唱へましまし、 十九にして城をこゑ檀特山にこもり、 阿私仙人に仕へ、 難行苦行十二年の功をつみて、 三十にして成道し、 釈迦牟尼如来とあらはれたまふ。 今南閻浮提に普く衆生得脱の道をきくこと、 併ら今日出山の悟道より起れり。
こゝに古へ実如上人御在世の時、 蓮如上人二十五年忌の歳、 八月廿八日法談ほおりふし仰せられしは、 八の字につきて殊勝の徳あり、 ことに御一流にをきて、 規模としましますと云云。 この旨始て承るによりて、 内内ゑらび奉る蓮如上人の御法語、 九巻におよび侍るを、 八冊につゞめ奉る。 ¬釈迦譜¼ をみるにも、 御誕生より逾城出山にいたるまでも、 この日をもちゐたまふ。 御入滅は十五日、 これは満月の形、 成就の表示なるをや。 その外諸宗ともに八の字を用る法門、 定ていはれあることにや。 又九の字も内典・外典共にもて吉兆とす。 王位を九五飛龍の位とほめ奉るをや。
こゝに十月廿日、 豫が病霧はれゆく暁、 往事を思ひ和歌を詠吟す。 それより同き廿五日にいたるまで、 漢和をまじへ十三首、 所解の趣き筆にまかせてしるす。 そののち廿八日より時時の頓作を書あつめて、 九十九首におよび、 先百首に一首をのこし筆をさしをき侍る砌、 信秀来ていはく、 加州より北地わづらひなく上れるものあり、 加・越和談のあつかひこれありと云云。 けう心みに真俗繁栄の嘉端とかけりき、 仍もて吉祥とす、 内心に歓悦きはまりなし。 件ソノ の日極月五日なり、 これ実如上人御母君円寂の明日、 しかも御正忌なり。 又五の字も王卦クワなるをや。 そのうへ釈門におきて其例これおほし。 五智の如来をはじめ、 五時・八教・五根・五力・八正道・五重唯識・八不正観等、 大乗・小乗いづれも名目其数多し。 ことに浄土宗におきて、 五種の正行・五種の嘉誉・五乗斉入等、 自他宗の所談のべつくしがたし。
しかるに今日常楽寺へ妙意をまいらす。 時に北地より信乗法師上洛、 摂州より乘心来キタリ儀、イタル もとより上公参会、 善友あひみて慶楽きはまりなし。 この時今師上人御懇意の旨たしかに伝語、 賢哲両君の御芳情きくにしたがひて感涙袖にあまり、 報恩まことに謝しがたし。 去月十一日初雪のおりふし、 同き廿五日雪ふりし時、 豫定て吟詠あるべしと尊言ありしとなり。 今も所詠にをよぶべしやと、 なを窮屈のおりからは思ひよるべき由、 閑談ましましけるとなん。 愚なる身も独吟つねに心肝に銘ずること侍り。 そのゆへは、 去九日端坊におひて、 西入と同聞衆あひ決し、 西入虚説あらはれ、 諸人の疑心はれ畢ぬ。 我いまだこれをしらず、 十日の夜、 或人来り、 ひそかにこの旨を告侍る。
かくて寝床により暁をき出侍れば、 白雪遠山にあまねく庭上白たへにみゑ侍る。 かの越王勾践のむかし、 会稽の恥を雪むるとかける文字おもひ出られ、 よみ侍りし歌に、 「▲古へも恥を雪よめしためしとや 十地を越る一つさとりは」 と申し侍りしことのは、 御心にもかよひ奉るにや。 その前の夜、 明公いで来て、 やがて帰路ありき。 その後十七・十八・十一の願の意、 よもすがら思ひ出で、 近日うつし侍る弥陀の一紙のおもてに合せ観ずるに、 自力修行の品位階次を経て、 十地より等覚補処の位に至り侍るところに、 念仏の行者は、 一念発起のとき正定聚不退の位にさだまり、 等正覚にいたるとも、 弥勒に同じとものべまします。 他力不思議の妙教、 信敬きはまりなし。 御釈に、 「真◗知◗弥勒大士◗窮↢ 等覚金剛心↡故、竜華三会之暁、当↠極↢無上覚位↡。念仏衆生◗窮↢ 横超金剛心↡故、臨終一念之夕、当↢超↢証大般涅槃↡。故曰↢便同↡也」 (信巻) 云云。 この御釈亡父筆跡にて写し奉るを、 このほど拝見し、 思案日をかさね侍る。 ¬和讃¼ (正像末和讃) にも、 「五十六億七千万 弥勒菩薩はとしをへん まことの信心うるひとは このたびさとりをひらくべし」 と。 又 「往生浄土のためには信心をさきとす、 そのほかをばかへりみざるなり。 すべて凡夫にかぎらず、 補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはかふべきにあらず、 まして凡夫の浅智をや。 かへすばへす如来の御誓にまかせ奉るべし」 (執持鈔) と云云。
抑純公とりわき懇情たぐひなく、 真俗のまさしき道をまもりたまふ、 衆人渇仰の思をいたす。 まづ平生兄弟親昵の芳好、 余人にこゑたり。 当時親子不和の事、 世にみち侍るところに、 正路をしたひ給ふ懇念、 数年感慨すくなからず、 況や豫に対し連年の芳情、 かの親族までも同じ心にかたり合せ給ふ、 不思議の宿縁にこそ。
就↠中明応八年三月九日、 蓮如上人御病注、 賢息五人の御兄弟に対して被↠仰◗のたまはく、 御在世の間におきて、 開山聖人の御法流たておほせられ畢ぬ。 この趣きかたく末代に至るまで、 あひまもりたまふべし。 第一兄弟の中よく、 真俗ともに仰せあはせらるべきむね、 ねんごろに命じましましければ、 実如上人並に蓮綱・蓮誓・蓮淳・蓮悟、 一同に御請をなされ侍りぬ。 その時手を合せられ、 いよいよ御一流の儀御繁昌あるべきとの仰なりき。 そのうへに重て被↠仰けるに、 いかにをのをの仰せ合せらるといふとも、 つきしたがふもの中言をいふことあるべし、 この儀をよくよく心え給ふべし。 すでに 「六親不和にして、 三宝の加護なし」 (羅什訳仁王経嘱類品意不空訳仁王経嘱類品意) といへり、 猶々あひたがひに仏法を讃歎し、 一味同心肝要たるべきよし、 かたく御遺言ありけり。 その時蓮芸も御得度ありといへども、 若年のあひだ、 御成仁五人をさしまふされしとなり。 この御人数都鄙仰合せられ、 仏法興隆専一の旨、 こまやかに仰せをかれければ、 御入滅の後は、 いさゝか粗略の輩もたちまちしりぞけられしかば、 華ミヤコ夷イナカともに真俗恢弘いやましなり。 この趣亡父つねづね実玄・顕誓に対して教訓あり。 しかれば一生この遺言の旨、 日夜朝暮心にかけ奉るものなり。 ことさらこの金言、 御門弟たる徒衆あひまもるべし、 況や其御子孫におひてをやと、 ふかく誡められき。
又永正十五年の比、 北国の面々御掟の旨心がけなきにより、 国みだりがはしく、 他家の偏執あひやまず。 然れば向後異見あるべからざる由仰出さる。 ことに三箇条の旨これあり。 一には攻セメ戦・防戦フセギ 具足懸之事。 一には贔負偏頗之事。 一には年貢所当無沙汰之事。 各在々所々に相談し、 この趣たしなみをなし、 御掟を守るべき由、 紙面にのせ連署をあげられしかば、 即上覧にそなへ奉り、 各心中改めらるべき段、 御本懐の由にて、 悉く御赦免なされ畢ぬ。 時に永正十六年、 蓮誓参洛の折節にて、 円如上人・蓮淳仰合せられ、 一決し侍り、 同く三井寺公事の義も、 もろともに申あつかひ、 円城寺懇望の旨、 将軍家へ申あげられ、 一和成就し顕証寺還住し給ひぬ。 これは去る永正十四年、 伐木往反の事に、 慧林院殿御下知をなされけるを、 三井寺上意を用ひず強訴ありしかば、 本願寺へ仰付られ、 小山の嶺切平げられ、 新く道をひらかれ、 逢坂往来の義、 本願寺門弟の衆を止められしかば、 寺門迷惑に及しゆへなり。 その後上意として、 北陸道あけられ、 即中堂供養事ゆへなく成就、 都鄙これより静謐、 人民歓喜この時にあるをや。
然に大永五年正月中旬、 実如上人御不例もてのほかの由告来る。 これによて蓮悟・蓮慶・顕誓上洛せられ、 そのほか南北の一族、 諸国の徒衆、 みなもて来集す。 廿四日蓮淳・蓮悟に対しましまし、 御夢をかたり給ひしは、 蓮如上人のたまはく、 病床辛労の趣いたみおぼしめさる、 はや御参りあるべしとて、 左の御手にて招かせ給ふ。 往生の期近き由仰られぬ。 又のたまはく、 御自ら無智の身なりといへども、 前住の御詞の如く、 弥陀をたのみ信心決定し往生疑ひなし、 かまへて義ばし思ひたまふな、 義と云ははからひの詞なり、 小知智は菩提の妨げと云ことありと云云。 同廿八日、 実円・蓮淳・蓮悟・蓮慶・顕誓五人を召寄られ、 御入滅の後は、 真俗ともに別してこの人数申合せ、 御掟の義守り奉るべし、 その趣普く申とゞけ仏法繁昌の道、 こゝろにかけ申すべし。 今師上人幼少につきて、 直に御相承の義委しからず。 然ども遊しをかれ、 又たとひ御申なくとも、 御智慧うたがひなし。 但し御若年につきて仰きかせられずは、 信仰の思や、 うすくあるべき、 をのをの諸人に、 御掟の旨よく申達すべし、 御掟みだれば不慮の題目出来すべし。 然る処に、 御掟いるべからざる旨、 都鄙に申出すものあるべし。 さりながらあひたゝずは、 この霊場忽ち馬の蹄にかゝるべし、 正く明匠権者の立まします処、 空くなるべきこと、 一身の嘆これにあり。 然ども時刻到来は力をよばず、 その時は命を全くして何方にも遁れ、 堪忍して今師上人仏法再興の時の御便となり奉るべき由まで、 こまやかに御遺言ありけり。 其後実英をして、 御一流の義、 五人に仰をかる。 第一仏法・世法御掟をよくよくまもるべし、 諸国共に無事に申調られ、 加・越も一和の扱あるべしと云云。 本覚寺それより後そのあつかひありとなん。
かゝりし処に、 享禄初の比より、 実英加州の所領の義申あつかはれ、 剰へ越中大田保知行あるべき企ていできたる。 超勝寺実顕、 又国の成敗を用ひず、 連々本寺へ讒訴これありと云云。 これによて蓮如・実如仰せ定めまします六箇条・三箇条の御掟やぶれ、 国中みだりがはしく、 この御掟と申は、 往古より開山聖人定めましますといへども、 別して蓮如上人吉崎御在国の時仰付られ、 かたく末代までこの趣を守り奉るべき由、 御門弟中へ示し給ひ、 実如上人かの御詞の奥に御判を加へられ、 此旨をそむかん輩は、 門弟たるべからざる由、 定めましまし畢ぬ。
ことに去文明の比、 高田門徒、 加州の諸武士をかたらひ、 吉崎山上へ障礙をなし、 そのわざはいゆへ国みだれしかば、 御門徒の面々、 根本の守護富樫次郎政親を引出し、 国静謐せしめし砌、 公武の御本意これにありとて、 将軍家奉書を国の面々にくだし給ひ、 本願寺へ綸旨をなされ、 先方の武士、 寺社所領横領いはれなし、 前々の如く門弟として異見をなし帰しつけらるべき旨、 右中辨政顕承りにて、 後正月 日謹上本願寺法印の坊と書出され侍りぬ。 同く慈照院殿御下知、 その外管領已下、 武家・公家・寺社の本立懇望しきりなり。 然どもこれさらに仏法領の事に非るあひだ、 蓮如斟酌ありと雖も、 勅定の上は国の面々談合すべき旨内々仰下されしかば、 公家心を合せ、 当守護正親に懇望せしめ、 寺社本所領かへし付られ畢ぬ。 此に由て諸家いよいよ当家の義入魂ありし事、 偏にこの御掟を守り奉る故なり。 然を今さらやぶらるゝ義、 しからざる旨、 最前御遺言のすぢめをもて、 五人の衆、 都鄙心を合せ連々申上侍る。 然ども調らず、 すでに越中の諸侍神保・椎名領中までその望をなす族出る。 これによて隣国の武士いよいよあやぶみをなし、 諸州穏ならず。 この旨加州の老者心を同くして、 本寺へその嘆をなし奉ると雖も、 却て本寺違背にとりなされ、 悪徒の讒訴あひかさなり、 執奏の人これなし。 されば隣国の武士よしみを通じ、 加・越・能州の守護和談の道を扱ひ、 越前の朝倉六郎左衛門教景大将として、 一勢合力国ざかひに打出ぬ。 これは松岡寺兼玄、 数年知音他に異なり、 今度山の内より打入、 父法印其外一類山中へ召篭申せし故なり。 これさらに兼順のぞむ所に非ず。 然りと雖も国ざかひ山田に居住せしうへは、 是非に及ばず、 加・越両国和談の義、 近日国の面々申し扱ひ、 成就の上は、 真俗の正路相立ち、 本寺御一和の筋目申たて、 吉崎再興すべきなど、 内々今師の旧好申をくりしかば、 力なく同心せしめぬ。 然れば讒者力を得て、 既に本宗寺実円・下間源七頼盛、 その外同名諸傍輩はせ下り、 蓮慶も子息実慶・慶助以下、 下間上総法橋頼宣・同名次郎等、 山中におきて霜月十八日生害せしめ畢ぬ。 父法印は十月十八日病床に臥して逝したまふ。 されば豫も力なく、 まづ命をのがれ、 武士の憐によりて越前へこゑ侍り。
蓮悟はもとより能州守護多年の芳好なれば、 其国に申付られ、 法徒を引付られ、 一宗の法度申談じ、 本寺御再興の便成べしとて、 その煩ひなし。 遂には本寺に対し私しなき旨あひ達すべき由、 義統仰せ合せらると云云。 然れども讒者の謀か、 真弟実教は毒にあひて命終あり、 あはれなりし事なり。 勝興寺実玄、 初は各同心なりしかども、 内縁にひかれ、 又は讒者の調略に由て、 その息証玄も能州の張陣などに力を合せ、 粉骨をいたされしかども、 本来心質直にて、 正義を守る人なりしかば、 猛悪の輩これをそねみて、 終に鴆せしめぬ。 それより後は、 都鄙共に乱れ、 山科の貴坊も回禄ありしかば、 いよいよ敵軍威を振ひ、 大坂の霊場へも諸勢をさしむかへ、 様々に御心を尽し給しとなり。 かの証玄はしばらく光教寺に同宿せしめ、 豫が猶子の義申合せしを、 実玄の嫡男遠行の後、 成仁の子相続その望あり。 実玄は連ツヾケ年ドシ病気の身なればとて、 強て懇望もだしがたくて、 勝興寺へ帰し参ぜし人なり。 幼少より蓮誓の庭訓を受し人にて、 真俗につけても正路を心にかけたまひき。 今に至るまで実教・証玄の事慕ひ思ふところなり。
又大坂も数月囲み攻奉りしかども、 城中堅固なれば、 遂に扱をなして軍勢引退きぬ。 この折節、 教行寺実誓・同舎弟式部卿賢勝・興正寺蓮秀、 忠功をいたし和談の儀とゝのへ給ひしとなり。 その勲労に由て、 賢勝は内陣へ出仕を許されたまひ、 蓮秀は一家の列に加へられ畢ぬ。 かくて諸侍等一和成就し、 御一流の御掟、 証如上人いよいよ諸国へ仰下されければ、 天下をのづから静謐せしなり。
然ども加州には超勝寺実顕・子息実照なを権威に誇り、 真俗の道たゞしからず。 近曽長享の比、 富樫正親謀叛の事も、 そのかみ応仁一乱の後、 加州先方衆国人等、 寺社本所領を抑へをきしを、 御懇労もだし難きにより、 内々御門弟の衆正親に申わけられ、 昔しの如く守護領の外は、 本領を諸家へ渡し申されし処を、 又正親忠節により、 上意を経て守護職一同に御下知を申うけられ、 江州鉤の御陣より御暇を申され、 事を左右によせて本願寺門弟の国衆をしりぞけ、 本家領ををとすべき企ありしゆへなり。 此義自他申むすび事やぶれしかば、 同名泰高を大将として、 かの被官人等あひかたらひ、 各々諸家の申状を立侍りぬ。 初は越前・越中諸侍も、 心を合せし輩も、 常徳院殿近江の国にて薨御ありし後は、 諸家憤り猶々さかんにして、 遂に六月の比、 高尾の城にてはて給ひぬ。 それより以来、 あひかはらず寺社本所領わたし申されしを、 実顕はからひとして思のまゝに所領を渡し与へ、 自分の知行過分になりしまゝ、 国の守護侍等までもなきが如し。 剰へ能・越両州へ軍勢を差し遣はし、 国中も穏かならず、 人民あやぶみをなし、 真俗ともにみだれゆきしかば、 邪悪身につもり、 父兄は病死し、 その弟超勝寺教芳は遂に国の中を立さりぬ。
就↠中本善寺実孝、 五十九歳にして天文廿二年正月六日往生、 その真弟証祐も同廿三年遠行、 これに由て順興寺実従の長子その跡をつぎ給ふ。 本徳寺実円は弘治元年十二月十八日に卒逝、 その孫弟証専相続あり。 然れば則顕誓も極月二十日播州へ下向せしめ、 かの国におひて葬礼中陰とりをこなひ、 五旬すぎて上著。 それより当寺に安住せしめ、 聞法歓喜の思念、 仏祖の照覧、 一生の喜楽、 これにすぐべからざるものか。 然に弘治第三の年、 厳師御祝儀の喜兆、 晴元より御契約あひ調り、 諸人千秋万歳を祝し奉る。 其比妙祐禅尼もかの役に従ひ侍しかば、 とりわき親く御詞をそへ給き。
永禄元年戊午七月十七日、 今師上人の御母公顕能禅尼御薨去、 御年いまだ三十七歳、 証如上人に別れさせ給ひしをさへ、 哀れなる御事に申侍りしに、 僅に五とせの中になくならせ給ふ。 言の葉もたへたる事にこそ。 其年九月十六日、 厳師御嫡男生れさせおはします。 この折節まで、 世にましまさゞりし事よと、 ほいなく人皆申あひ侍る。
その年冬の初◗順興寺実従枚方へ移り給ひ、 住持しおはします。 この砌より顕誓めしいだされ、 慶寿院殿御申をなされ、 御堂の勤行調声の事つとめ申べき旨仰出さる。 同く御影堂御鎰の事、 大蔵卿頼良御使として仰出さる。 ふかく斟酌をなし申すと雖も、 御前へめし、 直に先つとめ申べき由仰付られ畢ぬ。 即実従にこの旨申入、 様体をうかゞひ申侍る。 十二月九日これ始なり。 巡讃は弘治[ ]霜月報恩講より仰付られ、 その後御式も御免許にてよみ奉り侍る。
抑開山聖人三百年忌、 永禄四辛酉年に当り給ふ。 これに由て諸国御門弟、 御一門一家、 その外坊主衆参洛。 但し三月の比、 引上られ勤修あるべき由、 年内よりその沙汰これあり、 兼てはまた、 今師上人禁裏より門跡になし申さる。 勅使は万里小路前内府秀房公なり。 されば下間一党も坊官の准拠たるべしとて、 大蔵卿法橋御使節として、 内裏出仕の儀前々にかはれり。 然れば左衛門太夫頼資も落髪ありて上野頼充と号し、 即法橋に叙す。 丹後頼総も法眼に叙せり。 それに付て、 本宗寺・顕証寺・願証寺、 院家の望み天気を経られ、 門跡へ申入られ、 永禄第三の冬の比、 素絹・紫袈裟にて出仕あり。 それより後、 教行寺・順興寺・慈敬寺・勝興寺・常楽寺、 院家に定りぬ。 然ば御仏寺の儀式、 当分御門跡になし申され候と申し、 院家各々出頭、 ことさら御年忌邂逅タマサカの御事なれば、 他宗の衆参詣もあるべし。 先聖道の衣装しかるべき由にて、 法服・衲袈裟用意あり。 青蓮院門跡の周世松泉院法印に御談合と云云。
法事の作法は、 日中 「三部経」 一巻づゝ伽陀あり。 讃誦の後、 まづ導師礼盤に向ひ三礼、 其後 「十四行偈」 を始め行道、 次に漢音の ¬阿弥陀経¼、 念仏回向なり。 導師は御堂衆賢勝・教明・明覚寺・光徳寺かはるがはる勤めらる。 内陣行道の衆は、 御門主・本宗寺・願証寺・顕証寺・教行寺・慈敬寺・常楽寺に御堂衆なり。 役者は常の如し。 南の御座敷も、 畳まはり敷になされ、 著座の衆、 順興寺・光教寺・願得寺・光善寺・本善寺等、 その外一家衆坂東の阿佐布の善福寺在京の間、 末座に候せらる。 坊官衆も、 白袈裟・裳付衣にて、 侍衆の前に出仕、 坊主衆も白袈裟・裳付衣なり。 連経の衆と云云。 衣裳は、 行道衆、 法服・金襴衲袈裟・横被裳・水精七装束数珠・檜扇・草鞋。 御堂衆同前。 但し行道より前は、 後戸の縁に祗候、 導師の衆ばかり著座。 南座敷の衆の出仕も同じ。 去ながら太夜は織袈裟・素絹・裳付衣。 但し南座の衆は絹袴を著せず。 朝勤・斎非時も同じ。 坊主衆も白袈裟・裳付衣にて、 そのまゝ御堂へ出仕ありき。 浄照坊は所労の事なれば、 出頭これなし。
次に堂荘厳の様、 まづ御厨子の内を金になされ、 外の彫もの綵色なをされ、 釣灯台も金に拵へらる。 前の机大になされて、 それに随ひ打敷・水引用意あり。 華束は十合、 仏壇にまいる。 香立も金に、 金地の上に著色に唐華を書せらる。 両の脇には、 大なる卓に経をすへ置れ、 日中の前に面へ出さる。
南座敷の衆は懐中ありて出仕。 御仏事は十日の間なり。 御影堂の内には坊主衆相伴の衆候して、 其外は矢埒の外に参集。 広縁の通より平張を高く打せられ、 阿弥陀堂と同くやねを仮葺にせられしかば、 諸人もその中に祗候ありけり。 他宗の僧徒交り、 紛はしく、 かたがた御用捨にや、 例年の如く法義懇談に及ばず。 法事結願成就の後、 御影前におきて、 猿楽宴酒の儀も寝殿の前にてこれあり。
その後霜月御正忌は、 去春御取越の間、 三箇日とり行はる。 浄照坊望申さるゝにより、 法服・衲袈裟著用にて導師勤仕あり。 綾の袈裟・裳付衣、 一家衆の如し。 又始て散華のこと申され、 内陣の衆華籠これをもつ。 北座は顕証寺・教行寺・慈敬寺・常楽寺・豫なり。 南座は浄照坊・法専寺・教明・明覚寺・乗賢・教宗なり。 南座敷衆、 所労出仕無↠之、 与著座去春の如し。 去ながら一家衆、 絹袴各々著用。 浄照坊は望申されしかども、 その儀なし。 坊官衆、 絹袴・裳付衣・白袈裟にて正面に著座、 丹後・上野・大蔵卿・筑後等なり。 御講中は、 御式太夜にこれありと雖も、 当日には、 法服にて日中に読せらる。 毎夜改悔讃歎もあるべき由なり。
翌年は報恩講行道これなし、 衣裳は去年の如し。 勤行は例年にかはらず。 一七日坊主衆頭人の勤め等も前々の如し。 御式は初・中・後御門主遊ばされ、 そのあひだ顕証寺・教行寺・順興寺・慈敬寺・常楽寺・手勤め奉る。
同六年、 御仏事に鈍色の事仰出され、 太夜にこれを著用。 御堂衆同前。 座配は例年の如し。 丹州を始め、 各々法服・鈍色・衲袈裟等用意ありけり。 これより後毎年の儀式となりぬ。
然る処に、 永禄七年十二月廿六日はからざるに回禄の事ありて、 御坊中一宇も残らず焼失ありしかども、 程なく御再興、 造立事ゆへなく成就せしかば、 霜月報恩講には、 昔の如く法事執行ひおはします。 されば近年御一流御掟の義、 その沙汰なき事いはれなし。 この砌より前住の御在世の如く、 毎朝御法義五会以前に於て讃歎あるべき旨、 御堂衆に仰出され畢ぬ。 法事の作法も同。
八年報恩講は、 太夜・日中、 素絹・綾袈裟・絹袴、 朝勤・非時、 直裰・絹袈裟。 總一家衆、 絹袴。 御堂衆、 日中白袈裟・裳付衣、 太夜同前。 南の座敷の畳もつめしきになりぬ。 内陣には廻り敷の外に左右に二帖づゝ敷かる。 これは興正寺当年始て内陣出仕の故歟。 その上に、 中将・侍従・少将著座、 翌年よりこれなし。 坊主衆衣裳は先の如し。
同九年八月十三日証如上人御十三年忌、 一七日勤行。 衣裳は日中、 素絹・絹袴・綾袈裟、 太夜、 直裰・絹袈裟、 朝勤同前。 坊主衆は裳付衣停止の由仰せらる、 白袈裟はかけらる。 報恩講には太夜・日中、 素絹・絹袴・織物袈裟、 内陣の衆ばかりなり。 南座敷の一家衆は、 太夜、 直裰・絹袈裟、 日中は裳付衣・綾袈裟、 衣も所持に随ふべき旨仰らる。 御堂衆も太夜は直裰・白袈裟、 裳付衣は日中ばかり也、 坊主衆は斎非時共に布袈裟旧儀の如し。 一家衆は直裰・絹袈裟、 ・木数珠・末広の扇なり。 斎非時同前。 又当年報恩講、 御厨子の扉も御戸両方へ開き申、 華束は二合まいる、 株立金なり。 華続も金にせられ、 絵をば書せられぬ。 八月には華続白く株立はあかゝりき。
茲に十三日御正忌のまへ、 勢州より願証寺佐玄上洛、 先師教幸遷去の後、 院家相続その望あるゆへなり。 去ぬる夏の比、 教行寺佐栄、 彼先考チヽ遺言の筋目申上られ、 今師上人恩許ありしかば、 同く懇望。 然る処に両人若年たり、 豫老齢の身数年参仕、 その座配いかゞの由思召よられ、 佐玄出頭よりまへに院家たるべき旨仰出され畢ぬ。 御恩恕一しほ忝く存じ奉る者也。 其後又本善寺佐順も父公兼智の例申入られ、 院家に補せられ、 皆紫地の織袈裟にて出仕あり。 同下旬、 顕証寺教忠法印加階の儀御望により、 本宗寺教什・慈敬寺教清・常楽寺純慧、 一度に法印に叙す。 豫も同日に同官に叙す。 超涯の極位、 厳師の高恩、 真俗にあづけて慈愍、 報謝しがたきものをや。 よりて由来の縁をしるし、 いよいよ師徳の大いなる趣を、 筆にあらはし奉るところなり。
右此両冊今古独語者、最前数日之蟄居、徒然之余暇、所↠記之吟詠、至↢于九十九首↡、先擱↠筆訖。是者始之一巻、二河白道之釈云、是道自↢東岸↡到↢西岸↡、長百歩者、人寿百歳譬↠之、行↢一分二分↡者、年歳時節喩↠之云云。准↠之奉↠待↢其時↡者也。然当月始◗比、又任↠筆一生◗往事記↠之。是者数年代々師恩恋慕報謝之為也、兼亦生平憂喜之行状呈↠之。殊◗今度随身之聖教本書、数返奉↢拝読↡、弥仏祖之御恩徳信↢知之↡。随而先考所↠記之要文、蓮如・実如・円如之御書、先年火事之時、纔一筺相残在↢其中↡。此度静拝↢見之↡、深奉↠仰↢往昔之芳契↡者也。報恩講式云、悪時悪世界之今、常没常流之族、若不↠受↢聖人之勧化↡、争悟↢無上之大利↡。既揮↢一声正念之利剣↡、忽截↢無明果業之苦因↡、忝乗↢三仏菩提之願船↡、将↠到↢涅槃常楽之彼岸↡。弥陀難思之本誓、釈迦慇懃之付属、不↠可不↠仰。諸仏誠実之証明、祖師矜哀之引入、不↠可不↠憑。因↠茲各持↢本願↡称↢名号↡、弥協↢二尊之悲懐↡、戴↢仏恩↡荷↢師徳↡、特呈↢一心之懇念↡。已上 併聞↢持此師説↡、弥所↠蓄↢信心↡也。尤可↠貴↠之、専可↠仰↠之。
于時永禄十年十二月十五日書之
本に
元亀三年二月十三日書写之
今古独語
元禄十五年壬午歳二月四日写↠之正本在↢性応時↡
今由↢転写本↡写↠之 光瀬寺雲堂乗貞