(134)
▼そもそも今月二十八日の報恩講者、 昔年よりの流例たり。 これによりて近国遠国の門葉、 報恩謝徳の懇志をはこぶところなり。 二六時中の称名念仏、 今古退転なし。 これすなはち開山聖人の法流、 一天四海の勧化比類なきがいたすところなり。 このゆゑに七昼夜の時節にあひあたり、 不法不審の根機においては、 往生浄土の信心獲得せしむべきものなり。 これしかしながら今月聖人の御正忌の報恩たるべし。 しからざらん輩においては、 報恩謝徳の志なきににたるものか。 これによりてこのごろ真宗の念仏者と号する中に、 誠に心底より当流の安心決定なきあひだ、 あるいは名聞、 あるいは人並に報謝をいたす由の風情これあり。 もつてのほかしかるべからざる次第なり。 そのゆゑはすでに万里の遠路を凌ぎ莫太の辛労をいたして上洛の輩、 いたづらに名聞人並の心中に住すること口惜しき次第にあらずや、 すこぶる不足の所存といひつべし。 ただし無宿善の機に至りては力及ばず。 しかりといへども無二の懺悔をいたし、 一心の正念に趣かば、 いかでか聖人の御本意に達せざらんや。
抑今月廿八日之報恩講者、 従↢昔年↡為↢流例↡。 因↠茲近国遠国之門葉、 運↢報恩謝徳之懇志↡処也。 二六時中之称名念仏、 今古无↢退転↡。 是則開山聖人之法流、 一天四海之勧化所↠致↠无↢比類↡也。 此故相↢当七昼夜之時節↡、 於↢不法不審之根機↡、 往生浄土之信心可↠令↢獲得↡者也。 是併今月聖人之御正忌之可↠為↢報恩↡。 於↢不↠然輩↡者、 似↠无↢報恩謝徳之志↡者歟。 依↠之此比号↢真宗の念仏者↡中、 誠自↢心底↡当流之安心无↢決定↡間、 或名聞、 或人並に致↢報謝↡由之風情在↠之。 以外不↠可↠然次第也。 其故者既凌↢万里之遠路↡致↢ 莫太之辛労↡上洛之輩、 徒住↢名聞人並之心中↡事非↢口惜次第↡哉、 頗 可↠謂↢不足之所存↡。 但至↢无宿善之機↡者不↠及↠力。 雖↠然致↢无二之懺悔↡、 趣↢一心之正念↡、 争聖人之不↠達↢御本意↡哉。
一 諸国参詣之輩の中にをいて、 在所をきらはず、 何なる大道・大路、 又関屋・渡之船中にても、 更无↢其憚↡仏法方之次第を顕露人にかたる事、 不↠可↠然事。
一 在々所々にをいて、 当流に更に沙汰せざるめづらしき法門を讃嘆し、 をなじく宗義になき面白き名目なんどをつかふ人これおほし。 以外の僻案なり。 自今已後、 堅可↢停止↡者也。
一 此七ヶ日報恩講中にをいては、 一人ものこらず信心未定の輩は、 心中をはゞからず改悔懺悔の心ををこして、 真実信心を獲得すべきものなり。
一 本より我安心のおもむきいまだ決定せしむる分もなきあひだ、 其の不審をいたすべきところに、 心中につゝみてありのまゝにかたらざる類あるべし。 これをせ0421めあひたづぬるところに、 ありのまゝに心中をかたらずして、 当場をいひぬけんとする人のみなり、 无↢勿体↡次第なり。 心中をのこさずかたりて、 真実信心にもとづくべきものなり。
一 近年仏法之棟梁たる坊主達、 我信心はきはめて不足にて、 結句門徒・同朋は信心は決定するあひだ、 坊主の信心不足の由を申せば以外令↢立腹↡条、 言語道断の次第なり。 已後にをいては師弟ともに可↠住↢一味之安心↡事。
一 坊主分之人、 近比は事外重坏之由、 有↢其聞↡。 言語道断不↠可↠然次第なり。 あながちに酒をのむ人を停止せよといふにはあらず。 仏法につけ門徒につけ、 重坏なればかならずやゝもすれば酔狂のみ令↢出来↡あひだ、 不↠可↠然。 さあらんときは坊主分は停止せられても、 誠に興隆仏法とも可↠謂歟。 不↠然者一盞にても可↠然歟。 これも仏法に志のうすきによりての事なれば、 是をとゞまらざるも道理歟。 ふかく思案あるべきものなり。
一 信心決定の人も、 細々に同行に会合之時は、 相互に信心の沙汰あらば、 これすなはち真宗繁昌之根源也。
一 当流の信心決定すといふ体は、 すなはち南无阿弥陀仏の六字のすがたとこゝろうべきなり。 既善導釈して云、 「言南无者即是帰命亦是発願廻向之義言阿弥陀仏者即是其行」 (玄義分) といへり。 南无と衆生が弥陀に帰命すれば、 阿弥陀仏のその衆生をよくしろしめして、 万善万行恒沙の功徳をさづけたまふなり。 このこゝろすなはち 「阿弥陀仏即是其行」 といふこゝろなり。 このゆへに南无と帰命する機と阿弥陀仏のたすけまします法0422とが一体となるところをさして、 機法一体の南无阿弥陀仏とは申すなり。 故に阿弥陀仏之昔法蔵比丘たりしとき、 衆生仏にならずは我も正覚ならじとちかひましますとき、 その正覚すでに成じたまひしすがたこそ、 いまの南无阿弥陀仏なりとこゝろうべし。 これすなはちわれらが往生のさだまりたる証拠なり。 されば他力の信心獲得すといふも、 たゞこの六字のこゝろなりと落居すべきものなり。
抑この八ヶ条之趣如↠此。 然間当寺建立は既に九ヶ年にをよべり。 毎年之報恩講中にをひて、 面々各々に随分信心決定のよし領納ありといへども、 昨日今日までも、 その信心のおもむき不同なるあひだ、 所詮なきもの歟。 雖↠然当年之報恩講中にかぎりて、 不信心のともがら、 今月報恩講の中に早速に真実信心を獲得なくは、 年々を経といふとも同篇たるべき様にみえたり。 しかるあひだ愚老が年齢既に七旬にあまりて、 来年之報恩講をも期しがたき身なるあひだ、 各々に真実に決定信をえしめん人あらば、 一は聖人今月の報謝のため、 一は愚老がこの七、 八ヶ年之あひだの本懐ともおもひはんべるべきものなり。 穴賢、 穴賢。
*文明十七年十一月廿三日