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▼如来の御弟子か我弟子か之事
▲或人いはく、 当流のこゝろは、 門徒をばかならずわが弟子とこゝろえおくべく候やらん、 如来・聖人の御弟子とまふすべく候やらん、 委細存知せず候。 また在々所0234々にわが弟子なんどをもちて候をも、 てつぎの坊主にはあひかくしをくやうに候は、 愚身これもわろきことにて候よしうけたまはりおよぶやうに候はいかん、 委細しめしうけたまはり候て、 日ごろの不審をはれたく候。 肝要ばかりにて候。 答ていはく、 まことにこの御不審は宿善も純熟し候かとおぼへて、 殊勝にそゞろにありがたく存じ候。 いさゝか聴聞つかまつりをき候をもむきいかでかまふしはんべらざるべき。
故上人おほせにのたまはく、 「親鸞は弟子一人ももたず」 とこそおほせられ候ひつれ。 そのゆへは如来の教法を十方衆生にとききかしむるは、 たゞ如来の御代管を申しつるなり。 さらに親鸞めづらしき法をもひろめず、 如来の教法をわれも信じ、 人にもをしへきかしむるばかりなり。 そのほかはなにををしへて弟子といはんぞとおほせられけり。 さればとも同朋なるべきものなり。 これによりて上人は御同朋・御同行とこそ、 かしづきておほせられけり。 ちかごろは大坊主分の人も、 われは一流の安心の次第をもしらず、 たまたま弟子のありて、 信心の沙汰のあるところへちかづきて聴聞し候人をば、 ことのほか説諌をくはへ候て、 あるひはなかをたがひなんどせられ候あひだ、 坊主もしかしかと信心の一理をも聴聞せず、 また弟子をばかくのごとくあひさゝへられ候あひだ、 我も信心決定せず、 弟子も信心決定せずして、 一生はむなしくすぎゆくやに候はんこと、 まことにもて自障障他の道理のとがのがれがたく候。 あなかしこ、 あなかしこ。
答て、 この御不審もとも肝要と存候て殊勝におぼへ候。 かたのごとくみゝにとゞめをき候おもむき申のぶべく候。
近比加州片山里居住仕候。