0649第八祖御物語空善聞書

 

行頭の「」が太いオレンジの条は、 ¬御一代記¼ に見られないもの。

(1)

 *延徳元年八月廿八日、 南殿へ御隠居の御事とて御うつり候。 その夜のたまはく、 「劫成名とげて身しりぞくは天のみち」 (老子) とあり。 さればはや代をのがれて心やすきなり。 いよいよ仏法三昧までなりと言へり。

(2)

 大勢のなかにて聖教をよむは大事也、 必ずそしる人あるべしと用心すべし。

(3)

 仏恩のために名号となへて仏にまいらするは、 かへもの也、 自力也。 名号となふるは御たすけのありがたやありがたやと申こゝろ也。

(4)

 本願の心は 「願力无窮にましませば 悪業深重もをもからず」 といふ ¬賛¼ (正像末和讃) の心なり。

(5)

 こなたよりとなへ行じて往生はせざるなり。 されば須の文点は、 用のもんてんといふことあるなり。 南無阿弥陀仏ははや凡夫の往生を成就めされたる体なれば、 とかくはからはずたのむばかりなり。

(6)

 言く、 月の十六日に善をなすをもてしんぬ、 かならずたすからざるなる也。 十六日は炎魔王の縁日なれば、 その日善をなして炎魔王にまいらせて、 もしかへものにくるしみの優免すこしもあらんずるやうにみなお0650もへり。 世界の人の心このこゝろなり。 あさましきこと也。

(7)

 安心とは、 弥陀を一向一心にたのみ申せば、 やがて御たすけあるなり。 さればこそやすきこゝろ也。 誠にやすき也。

(8)

 御前に上々様皆々御座の夜言く、 あらそらおそろしや、 世間に物をくわずさむきものおほきに、 くひたきまゝきたきまゝにさふらふ事、 聖人の御恩にてあるぞとよ、 この御恩をおろそかに思ひ申事あさましきこと也と、 くれぐれ仰ありけり。
又番匠なんど仕候時も、 いさゝかなる木のきれはしをとりをかせ大切にするは、 仏法のものとおもふゆへなり。 この心すなはち冥加に叶ひたるといふなりと、 くれぐれ御定あり。

(9)

 言く、 奉法領解の心、 すなはち仏願の体にかへるすがたなり、 発願廻向の心なり。 また信心をうるすがたすなはち仏恩を報ずるなり。 九月十月まで也。

(10)

 同年十一月廿一日夜より報恩講の次第。

(11)

 廿二日朝の御時、 浄恵・福田寺・誓願寺。 夕部は慶乗。 ¬御式¼ は御坊様、 御念仏は上様。

(12)

 廿三日御時、 本遇寺。 夕部は浄顕の衆。 ¬講式¼ は今小路殿なり。

(13)

 廿四日御時、 道顕。 夕部は仏照寺。 夜るのつとめすぎて、 福田寺の福松・才松とかみをそる。

0651(14)

 後生をば弥陀をたのみ、 今生をば諸神をたのむべきやうにおもふ者あり。 あさましき也。 また内心に仏法を信じ、 外相にその色をかくすべきよし、 くれぐれ仰ありけり。

(15)

 浄土門に四ヶの流々あれども、 浄土門の本意は上人の御流ばかりなり。 かるがゆへに繁昌あるべし。

(16)

 言、 たれたれも聖教を一巻よみては、 はやくものしりがほおもへり。 あさましき也。 上人の仰には、 内典・外典にわたりたまひて、 ことに弥陀の化身にてましませども、 名を碩才・道人のきゝにてらはんことをいたみ、 ほかに至愚の相を現じて、 御身を田夫・野叟の類にひとしと仰ありけり。 よくよくこゝろうべきなり。

(17)

 廿五日、 出口対馬。 夕部は吉野衆。 ¬講式¼ は上様、 仏光寺殿御時にめしけり。

(18)

 言、 一切衆生の往生は、 弥陀如来の成就めされたれども、 衆生うたがひふかくして、 信ぜずしていまに流転しけり。 されば日光は四天下にあまねけれども、 盲目はしらずみず。 日光てらさゞるにあらず、 をのが目のしゐたるによりてなり。 そのごとく南無阿弥陀仏の正覚なりたまひたるうへは往生は決定なれども、 信ぜずして生死に流転しけり。

(19)

 廿六日、 大和祐淳。 夕部は美濃・尾張両国。 ¬御式0652¼ は御坊様、 御念仏は上様。

(20)

 廿八日、 御点心と御時のあひだに、 五時より四時半時まで、 ¬講式¼ は上様、 御念仏御坊様、 御荘厳は五具足、 しんにはあひおひの松・菊・みやましきび、 下草は水仙花、 いづれも上様の御たて候。

(21)

 供具には、 餅・蜜柑・かき、 ひとへづゝつみませ。

(22)

 かみにも仏にもなれぬれば、 信仰なし。 されば熊野・伊勢の神主は神をばまことに信ぜず、 たゞまいる人にぜにまいらせよかしとばかりなり。 それがごとく、 これにあるものも、 あまりになれなれしく思て信仰申かたはなし。 さればはじめに手にてなをしたるものを、 次第に足にてなをすべし。 あらあらあさましやと、 くれぐれ仰ありけり。

(23)

 言、 念仏の流まちまちなれども、 此聖人の御すゝめの如くなるはなし。 さればこの御すゝめによりて、 信をとること大果報人なりと。 さればこれほどに殊勝なる流儀をそしる人、 あさましき也。 さればそしる人はかくのごとくとて、 「菩提をうまじきひとはみな 専修念仏にあだをなす」 との ¬和讃¼ (正像末和讃) の心を仰られて、 「生死の大海きはもなし」 とあり。 あさましあさまし。

(24)

 上様、 御うしろに腫物いでき候に、 三位殿そのうみをのごひたまへと仰の時、 杉原をおしたゝみ、 すでにのごはせたまはんとの時、 仰に、 わが身はその紙をばいづくよりいできたると心得て、 さやうにじゆんたく( 潤 沢 )にするぞやと。 そのとき杉原を三つにさき切てのごはせたまひ候時、 かやうにいふときばかり也、 かげが本に0653てある也、 かまへて仏法の冥加をよくよくおもへとのたまへり。

(25)

 聖教わたくしにいづれをもかくべきやうにおもへり、 機をまもりてゆるすことなり。 世間・仏法共に総じてゆるさぬことある也。 女人のよく人にかくるゝは、 よく人におもはれんとなり。 聖教をおしむは、 よくひろめんがため也。

(26)

 聖人の御掟のごとく、 信ぜずしてすえずえにわろきこといでけるは、 本寺のなん(難)になる也。 世間・仏法共によくよくつゝしみ候はゞ仏法たつべし。

(27)

 仏法には捨身の行をするが本なれば、 たれに恩にきせはせねども、 身をすてゝ聖人の御流をすゝめましますとおもひ入て、 信ずるひとなしと御述懐を仰ありけり。 わが御身ほど身をすてゝ仏法すゝめたるはなきなりと仰候き。

(28)

 无光の御本尊かけたまひて、 これは先年炎上の時、 火の中にあり。 まはりばかりやけ、 十字の文字一字もやけず、 奇特にてあるぞと仰ありて、 そのいはれを御うらがきにあそばされて美濃殿に御付属あり。 不思議の御事也。

(29)

 ずいりん( 瑞 林 )庵に仰られ候き。 まもるによりていきもし死するにもあらず、 たゞ因果のめぐる相なり。 ずいりんあんもさにて候と申されけり。

0654(30)

 言、 神は済度のむねをこがし、 利生のたもとをしぼるといふは、 神はもとは仏にて、 衆生をたすけたくおぼしめせども、 衆生のまよひにひかれて、 神となりたまふにありて、 三熱のくるしみをうけたまふ也。 利生のたもとをしぼるといふは、 たゞちに仏を信ぜずして、 神を信ずるをかなしみてなきたまふとしめすこゝろなり。

(31)

 開山上人は弥陀如来の化身にてましませども、 愚禿と御なのりありて、 天帝へ 「僧にあらず俗にあらず。 禿の字をもて姓とす」 (化身土巻) と奏聞ありけりと仰候き。

(32)

 *延徳二年十一月、 報恩講はかねてより御たくみに御動座の御事なれば、 いかにもひそかに御勤行ありたきよし也。 しかるに廿一日の夜、 大勢参候間、 順誓御使にて、 かねての御定をやぶり、 みなみな参る曲事と御使申され候へ共、 下向の方もなし、 かさねて慶聞坊御使にて、 往古よりいまに一年もかけざる御勤行をやぶるは、 面々の御定をやぶるあひだ、 御勤行あるまじき也。 下向ありて、 ひそやかに御勤行可然候か、 仰なりとも祗候ありて、 勤行かき申さるべきか、 御返事申されよとあり。 その時皆々下向ありて、 思召如く御沙汰あり。 しかれども日々になを次第に群集ぜひなくて、 七日七夜無為にはてまいらせ、 なをなをしづかにて仏法の御本意共種々御掟ありけり。

(33)

 われはわかき時よりいかなる芸能なんどもたしなまば、 さこそあらんずれども、 わかき時よりいま八旬におよぶまでののぞみは、 たゞ一切の衆生、 弥陀をたのみ他力の信をとりて、 報土往生あれかしとばかりの念仏にて、 七十七歳ををくりたり。 その外はさらに別の0655のぞみなしと仰ありけり。 御前の衆生老少みなみななみだをながしけり。 又そのあくる日、 丹後殿御時にて慶聞さても先夜の仰ありがたさとて、 かさねがさね御讃嘆ありて、 この御こゝろざしなればこそ、 この御代には奥州・ゑぞまでもきこえ繁昌ある御事、 たゞ不思議なりとて、 また皆々落涙ありけり。

(34)

 ある夜仰に、 おれは身をすてたり。 ゆへは先住も行儀をも声名をもかたく御をしへ候しかども、 田舎の衆にても常住の衆にても対めされて、 平座にて一首の和讃のこゝろをも、 また御雑談なんど仰られたることはなし。 しかるにおれは寒夜にも、 蚊のおほき夏も、 平座にてたれたれのひとにも対して、 雑談をもするは、 仏法の不審をとへかし、 信をよくとれかしとおぼしめして、 御辛労をかへりみず、 御堪忍ある事也。 しかるにさと思入たるひとは一人もなし。 結句さむげにとく御しづまりあれかしなんどばかりにて、 かたかげにねむりゐたるばかりなり。 さらにわがためにかやうに御辛労をめされ候とおもふもの一人もなし。 又よひよりとくぬること、 ひるねなんどもなし、 たゞ仏法をたしなみ、 大事と思召ばかりなりと仰候き。

(35)

 仰に、 親鸞上人の仰せに、 われは人師・戒師といふことすまじきと、 法然上人の御前にて御誓言ありけり。 まことに殊勝なる御ことなりとて、 御感ありけり。

(36)

 また諸宗には、 名聞なくては仏法たゝずといひて、 慢の字をかきて、 まもりにかくといふなり。 さればおほ0656きにかはりたるうしろあはせなることかなと言へり。

(37)

 仰に、 われ往生してのち、 たれのひとねんごろにいふべきや、 いまいふところなにごとも金言なり。 よくこゝろうべしと、 くれぐれ仰に候き。

(38)

 大身は小身に身をもてば、 その家をうしなふ。 小人大人に身をもてば、 その身をうしなふといふことあり。

(39)

 加賀より出口殿・山科殿までの御作の 「御文」 の一々に、 美濃殿みよませまいらせたまひてのたまはく、 おれがしたるものなれども殊勝なりとて、 御機嫌にて色々御雑談共也。

(40)

 諸宗の人は、 諸堂神の前にては礼拝、 まきぜにして信仰するに、 こなた宗は、 雑行といひてをがみもせず、 そら目にてあること、 さながら真宗を他宗にあらはすこと、 御掟にそむく也。 しかればまたこれの御本尊・御影様へをがみやうの、 いかにもそさう( 麁 相 )なること、 中々申に不及候。 すでに経には、 五体を地になげて拝せよとも、 また頭面に礼し奉つれともあり。 いづれもいづれもちがひなりと仰せありけり。

(41)

 ある時仰に、 おれほど名号かきたる人は、 日本にあるまじきぞと仰候き。 ときに美濃殿、 三国にもまれにあるべく候と申上たまへば、 さやうにあるべしと仰候き。 まことに不思議なる御事也。

(42)

 上様御夢に、 法然上人・親鸞聖人御同行にて、 上様も御あとに御同行なり。 上様へ対しましまして法然上人ののたまはく、 御流こそ誠に繁昌にて候へ、 されば御のぞみのごとくわが衣すみぞめになして候へ、 いま0657こそ 「一心専念」 (散善義) の文には、 あひかなひ候へとのたまへりと、 御ゆめに御覧じて候。 不思議におぼしめし、 あくる日東山知恩院へ法光を御使に参り、 なにごとか御入ある、 上人の御衣はなに色にて御座候ぞ、 見まいらせてかへれと仰候き。 法光帰りまいりて申上られけり。 上人の御衣はすみ染にて御座候と申されけり。 その時仰に、 根本黒衣にて御入候を、 近年き衣になし申さるゝこといはれぬ事と数年おぼしめしつるに、 すみの御衣になをし申され候こと御本意なりとて、 その後、 東山殿にてすみぞめにはいつなをし御申の事候哉と、 上様たづね御申の時、 住持その御返事に、 その事にて候、 先年御出の時承候しには、 根本すみぞめの御衣にて御座候はんずるが御本堂のよしを法印仰られ候し間、 かくのごとくなをして候。 如仰、 本はすみぞめにて候しを、 だいよの代に、 黄衣になされて候を、 いま依↠仰にすみぞめになをし申して候と御返事の時、 上様仰に、 当寺御繁昌の瑞相にてめでたく候と仰候。 又その時千疋香代をもたせまいられけり。 そのあくる日、 太内様より御信仰にて金を過分に御もたせ候あひだ、 やがて御堂を造り直し、 弥御繁昌にて候き。 その後知恩院へ本願寺殿御礼とて御参り候時、 御雑談に法印の仰に、 必繁昌あるべきと山科殿仰候しに、 そのあくる日、 太内様より御信仰にていよいよ繁昌にて候と御申の事にて候き。 この御ゆめは*文明十九年正月比の御ゆめなりと、 延徳年中に御掟候き。

(43)

 *延徳四 五月、 大雨にて候き。 にはかに御上洛あり度とて御上洛あり。 その五時ほどに出口殿つゝみきれ0658候。 水は御堂なげしまであがり候。 舟をついぢのうへをこぎての御上洛、 不思議なりとおしわたし申事にて候し。

(44)

 仰に、 細川の竜安寺殿は臨終の時、 あきばをめして、 われ死すとも小法師があり、 ゆへはあたご( 愛 宕 )にていのりまうけたるなり。 聖徳太子、 小法師が母が枕に御座ありと覚ゆ。 七日目の事にて、 ある夜よりやがて九郎をはらみたり。 必威勢あるべきぞと、 ひそかに申されたるよしなり。 されば細川はこれへもよく候なりと仰候き。

(45)

 延徳四 五月初比、 大津近松殿にほうがしはの花五つさき、 みのなりたるを御持参あり。 やがてあそばし候き。 仰に、 東山慈照院殿には花一本さきたるを御詠にあそばされけり。

ふたつとも みつともさかぬ 花なれば
たゞ一乗の ほうがしは哉

とあそばしけり。 其のごとくわが御身もおぼしめしよれりとて、

ほうの木に みこそなりぬれ 世中に
ひろまる物は 弥陀の本願

とあそばされけり。 まことにいつゝさきたる事も不思議なり、 たゞ仏法繁昌すべき瑞相なりと仰候き。

(46)

 疫癘とて人おほく死す、 うつるによりてやみもし死することにてはなし、 たゞ因果にてやみもし死にもするなりと仰ありて、 やがて当座にてそのことはりを 「御文」 につくりたまひて、 順誓御前へ参り候に、 やがてあそばしけり。

(47)

 高田方より申され事に、 即得と即便と同くらゐ也と0659心え候に、 本願寺方に別なるよし沙汰候と申て、 こなたへかゝりて申達すべきよし申候と、 内儀にしらせ候、 対して問答可仕候かいかゞと、 われわれ罷上候事にて候へば、 内儀うかゞひ申かしと皆々御門徒衆申由野寺申され候処に、 仰に、 无益の問答なり、 なにとしても一人づゝもこなたへは参るべし、 こなたの人高田へは不可行候也と、 かまへてかまへて問答无益なりと候へき。

(48)

一 のたまはく、 開山聖人の仰に、 舟によひまします事あり、 その時かち地のあるところへは舟にはのるまじきこと也と。 又くさびらにすこしよひたまふことあり。 その時もくさびらはくうまじきもの也と仰候き。 その時より高田の顕智は一期ふねにのらず、 くさびらくはずといふなり。 されば暫時に仰の候ひしをも、 信じて候き。 いまわが御身は真実におもひいれてをしふることなまぎゝにし信ぜずとて、 御述懐にて御座候き。

(49)

 加賀の西山殿御不審にのたまはく、 因願は 「十念」 とちかひまします。 成就の文には 「一念」 と成ぜられたるをば、 なにとこゝろえ申すべきや、 されば 「乃至」 といづれにもある。 中を略するなり。 しかれども上人の御流儀は、 一念発起肝要也。

(50)

 仰に、 諸行は、 自力にてたのみてこそ他力もあらはせとたてたり。 この一流は、 はじめをはりひしと他力也。 一心に弥陀をたのむも、 わがかしこくてたのむにあらず。 過去の宿善によりてたのむゆへにはじめをは0660りみな他力なり。

(51)

 仰に、 たれかはじめたるところへゆくべき、 无始よりこのかたむまれぬところもなく、 うけぬかたちもなきに、 このたび信心を決定して浄土へまいるは、 はじめたるところなり。 三有のめぐりたてたる也、 みなみな老若祗候の衆落涙申事なり。

(52)

 仰に、 三恒河沙の諸仏の出世にもあひ、 いかほど菩提心をもおこせども、 自力かなはず、 无始よりこのかた流転せり。 いまも一心のとをり、 上人の御すゝめのごとく決定なくは、 また流転せんことあさましやと仰候て、 その敷居のそなたに往生する人四人か五人かあるべきか、 五人まではあるまじきかと仰候き。 このこと、 *明応元 十一月廿六日御非時の御座にて、 わかさの二郎三郎も人数なり、 しかれば四人五人々数にてもなくは、 あさましさよとうち案じ申候へば、 みなみな下向候へどもくだりもうちわすれ、 上様へ安心をこゝろえ申たる分、 改悔申上て下向可↠申かと日々夜々に案じ候て、 十二月二日の夜、 南殿にて申上候処に、 改悔は御すゝめのごとくに候。 さりながらみなみな口には改悔を御すゝめのごとく申せども、 こゝろえおちつきかぬる也。 改悔のことばのごとくこゝろねあらば、 往生すべきなり、 よきなりと仰候き。

(53)

 仰に、 加賀のあき、 あやまりをもなをしたるよしを御門徒してわび候はゞゆるすこともあるべきに、 細川の玄番の頭へつげて、 げんにてわび候あひだ、 ゆるさずと仰候き。

(54)

 仰に、 自力の念仏といふは、 念仏おほく申て、 弥陀にまいらせてつみをけしうしなはんとの心也。 御一流0661には、 弥陀をたのみまいらせて、 弥陀にたすけられまいらせてのち、 御たすけのありがたさありがたさよとおもひまいらするこゝろを、 口にいだして南無阿弥陀仏と申まいらする也。 たゞわれをたすけたまへるすがた、 すなはち南無阿弥陀仏なりと、 こゝろえてよろこびまいらするばかりなりと、 かへすがへす仰候き。

(55)

 仰に、 「遇獲信心とをく宿縁をよろこべ」 (文類聚鈔) とあそばされたり。 「たまたま」 といふは、 過去にあふといふこゝろ也。 又 「とをく宿縁をよろこぶ」 といふは、 いまはじめてうる信心にあらず。 過去遠々よりこのかたの御あはれみにて、 いまうる信心也。 さればこそ、 いまうることは申すに及ばず。 とをく宿縁をよろこべといふこと、 まことに不思議のこゝろなり。 しかればとをくよろこぶといふこと、 こゝろをとゞめて信仰申べきと候き。

(56)

 のたまはく、 法然上人の仰に、 わが菩提所をつくるまじき、 わがあとは称名ある処すなはちわがあとなりと仰ありけり。 またあとをとぶらふといひて、 いはひ・そとばをたつるは輪廻するものゝすること也と。

(57)

一 勧修寺道徳、 *明応二年正月一日に御前えまいりたるにのたまはく、 道徳はいくつになるぞ。 道徳念仏申さるべし。 自力念仏といふは、 念仏おほく申て仏にまいらせ、 この申たる功徳にて仏のたすけ給はんずるやうにおもうてとなふる也。 他力といふは、 弥陀をたのむ一念のおこるとき、 やがて御たすけにあづかる也。 其0662後念仏申は、 御たすけありたるありがたさありがたさと思ふこゝろをよろこびて、 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と申す也。 これをのづからわがちからをくわへざる心也。 されば他力とは他のちからといふ心也。 此一念、 臨終までとをりて往生する也と仰候也。

(58)

一 仰に、 南無といふは帰命也、 帰命といふは弥陀を一念たのみまいらするこゝろなり。 また発願廻向といふは、 たのむ機にやがて大善大功徳をあたへたまふなり。 その体すなはち阿弥陀仏也と仰候き。

(59)

一 加賀願生と又四郎とに対して、 信心といふは弥陀を一念御たすけ候へとたのむとき、 やがて御たすけあるすがたを南無阿弥陀仏と申也。 総じてつみはいかほどあるとも、 一念の信力にてけしうしなひたまふなり。 されば 「无始已来輪転六道の亡業、 一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智无生の名願力にほろぼされて、 涅槃畢竟の真因はじめてきざすところをさす也」 (真要鈔巻本) といふ御言をひきたまひて仰候き。 さればこのこゝろを御かけ字にあそばされて、 願生にくだされけり。

(60)

一 御つとめのとき順讃御わすれあり。 南殿へ御かへりありて、 仰に、 上人御すゝめの和讃あまりにあまりに殊勝にて、 あげばをわすれたりと仰候き。 さればありがたき御すゝめを信じて往生するひとすくなしと御述懐ありけり。

(61)

一 念称是一といふことしらずと人申候時、 仰に、 思ひ内にあれば、 いろほかにあらはるゝとあるは、 されば信をえたる体すなはち南無阿弥陀仏なりとこゝろうれば、 くちも心もひとつなり。

0663(62)

一 朝の御つとめに、 「五つの不思議をとくなかに」 (高僧和讃) より 「尽十方の无光は 无明のやみをてらしつゝ 一念歓喜するひとを かならず滅度にいたらしむ」 と候 ¬讃¼ (高僧和讃) の心を御讃嘆のとき、 「光明遍照十方世界」 (観経) の文の心と、 また 「月かげのいたらぬさとはなけれども ながむる人の心にぞすむ」 (続千載集) とある歌を引よせ御讃嘆。 中々ありがたさ申ばかりなし。 また上様御立の御あとにて北殿様の仰に、 夜前の御讃嘆、 今夜の御讃嘆とをひきあはせて仰候き、 ありがたさ中々不及是非候、 御掟候て、 御落涙の御事どもなり。

(63)

一 三河の教賢、 伊勢の空賢とにたいして、 仰に、 南無といふは帰命、 帰命の心は御たすけ候へとたのむ也。 この帰命のこゝろやがて発願廻向は合するなりと仰候き。

(64)

一 「他力の願行をひさしく身にたもちながら、 よしなき自力の執心にほだされて、 いまゝで流転しけるなり」 (安心決定鈔巻末意) と候、 え存ぜず候よし申上候処に、 仰に、 きゝわけてえ信ぜぬものゝことなりと仰候き。

(65)

一 「弥陀大悲のむねのうちに、 かの常没の衆生みちみちたる」 (安心決定鈔巻本意) といへること不審に候と、 福田寺申上られ候。 仰に、 仏心の蓮華はむねにこそひらくべけれ、 はらにあるべきかや。 「弥陀の身心の功徳、 法界衆生の身のうち、 こゝろのそこに入みつ」 (安心決定鈔巻本) ともあ0664り。 しかればたゞ領解の心中をさしての事なりと仰に候き。 みなみなありがたきよし申上候。

(66)

一 十月廿八日の迨夜にのたまはく、 「正信偈和讃」 をよみて、 仏にも聖人にもまいらせんとおもふか、 あさましや。 他宗にはつとめをして廻向する也。 御流には他力信心をよくしれとおぼしめして、 聖人の和讃にそのこゝろをあそばされたり。 ことに七高祖の御ねんごろなる御釈のこゝろを、 和讃にきゝわくるやうにあそばされて、 その恩をよくよく存知して、 あらたふとやと念仏するは、 仏恩の御事を聖人の御前にてよろこびまうすこゝろなりと、 くれぐれ仰候き。

(67)

一 仰に、 聖教をよくおぼえたりとも、 他力の安心をしかと決定なくはいたづらごと也。 弥陀をたのむところにて往生決定と信じて、 ふたごゝろなく臨終までとほり候ばみな往生すべき也。

(68)

一 *明応三 十一月、 報恩講の廿四日あかつき八つ時におきて、 聖人の御前に参拝申て候しに、 すこしねぶり候うちに、 ゆめともうつゝともわかず、 空善おがみ申候やうは、 御づしの後門よりわたをつみひろげたるやうなるうちより、 上様あらはれ御出あるとをがみまうす処に、 御相好、 開山聖人にてをはします。 あら不思議やとおもひ、 やがてみづしのうちをおがみ申せば、 聖人御座なし。 さては開山聖人、 上様に現じましまして、 御一流を御再興にて御座候とまうしいだすべきと存ずるところに、 慶聞坊の御讃嘆に、 聖人の御流義は、 「たとへば木石の縁をまちて火を生じ、 瓦礫のをすりて玉をなすがごとし」 と、 ¬御式¼ (報恩講私記) のうへを讃嘆あるとおぼえて夢さめて候き。 さては開山聖人の御再誕と、 それより信仰申事にて候き。

0665(69)

 *四年十一月十九日、 富田殿より上様御上洛にて、 仰に、 当年よりひそやかに御仏事を御さたありたきとの御事、 頭人はまへの日のぼりて、 つぎの日下るべしと御定あり。 御堂には常住衆と頭人の衆ばかりとまるべしとの御事也。

(70)

一 教化するひと、 まづ信心をよく決定して、 そのうへにて聖教をよみかたらば、 きく人も信をとるべし。

(71)

一 仰に、 弥陀をたのみて御たすけを決定して、 御たすけのありがたさたうとさよとよろこぶこゝろあれば、 そのうれしさに念仏申ばかりなり。 すなはちこれ仏恩報謝なり。

(72)

一 大津近松殿に対しましましてのたまはく、 信心をよく決定して、 人にもとらせよと仰候き。

(73)

一 十二月六日に富田殿へ御下向にて候間、 五日の夜は大勢御前へ参候に、 仰に、 今夜はなに事に人おほくきたりたるぞと。 順誓申され事に、 此間の聴聞申すありがたさの御礼のため、 又明日御下向にて御座候。 春は御目にかゝりまうすべしかのあひだ、 歳末の御礼には信心をとりて礼にせよと仰候き。

(74)

一 仰に、 ときどき懈怠することあるとも、 往生すまじきかとうたがひなげくものあるべし。 しかれども、 はや弥陀如来をひとたびたのみまいらせて往生0666決定ののちなれば、 懈怠おほふなることのあさましや。 かゝる懈怠おほふなるものなれども、 御たすけは治定なり。 ありがたやありがたやとよろこぶ心を、 他力大行の催促なりとまうすと仰候き。

(75)

一 御たすけありたる事のありがたさよと念仏可申候や、 又御たすけあらうずことのありがたさよと念仏申べく候やと、 申上候時、 仰に、 いづれもよし。 たゞし正定聚のかたは、 御たすけありたるとよろこぶこゝろ、 滅度さとりの方は、 御たすけあらうずことのありがたさよと申心なり。 いづれも仏になることをよろこぶこゝろ、 よしと仰候き。

(76)

一 *明応五年正月廿三日に富田殿より御上洛ありて言く、 当年よりいよいよ信心なき人には御あひあるまじきと、 かたく仰候き。 安心の通いよいよ仰きかせられて、 又誓願寺に能をさせられけり。 二月十七日にやがて富田殿へ御下向ありて、 三月廿七日に堺殿より御上洛にて、 廿八日に言く、 「自信教人信」 (礼讃) のこゝろを仰きかせられんがために、 上下辛労なれども、 御出あるところは、 信をとりよろこぶよしまうすほどに、 うれしさに又上りたりと仰候き。

(77)

一 四月九日に言く、 安心をとりてものをいはゞよし。 用なゐことをばいふまじきなり。 一心のところをよく人にもいへと、 空善に御定なり。

(78)

一 同十二日堺殿へ御下向あり。

(79)

一 七月廿日御上洛にて、 その日のたまはく、 「五濁悪世のわれらこそ 金剛の信心ばかりにて ながく生死をすてはてて 自然の浄土にいたるなれ」。 このつぎ0667をも御讃嘆ありて、 この二首の ¬讃¼ (高僧和讃) のこゝろをいひてきかせんとてのぼりたりと仰候き。 さて 「自然の浄土にいたる也」、 「ながく生死をへだてけり」、 さてさてあらあらおもしろやおもしろやと、 くれぐれ御定ありけり。

(80)

一 言く、 南無の无の字は聖人の儀にかぎりてあそばしけり。 南無阿弥陀仏をでいにてうつさせられて、 御座敷にかけさせられてのたまひけるは、 不可思議光仏、 无光仏もこの南無阿弥陀仏をほめたまふ得号なり。 しかれば南無阿弥陀仏を本とすべしと仰候き。

(81)

一 「十方无量の諸仏の 証誠護念のみことにて 自力の大菩提心の かなはぬほどはしりぬべし」。 この ¬讃¼ (正像末和讃) のこゝろを聴聞申たきと、 順誓申上られけり。 仰に、 諸仏の弥陀に帰せらるゝことよ、 されば諸仏は弥陀に帰せらるゝを能としたまへりと。

(82)

一 「世の中にあまのこゝろをすてよかし めうしのつのはさもあらばあれ」 と。 これは御開山の御詠歌なり。 さればかたちはいらぬこと、 一心を本とすべしと也。 世にも 「かうべをそるといへどもこゝろをそらず」 といふことがあるはと仰候き。

(83)

一 「鳥部野をおもひやるこそあはれなれ ゆかりのひとのあとゝおもへば」。 これも聖人の御歌。

(84)

 御児様御得度、 八月十五日悲願の結願なり。 ときに0668北殿、 事の外に御辞退のよし南殿へ御まうし事に、 開山聖人の御家をつぎ、 御留守まうす事は器量なくては、 一大事にて候へば、 われさへ御隠居ありたく候に、 あこが事はこれさまにて法師に御なし候てとの二、 三度まで、 三位殿して南殿へ申候ところに、 御定に、 昔よりその例ある事を勿体なし、 その上へ器量はいらぬこと也、 それはわたくしなりと、 御述懐どもにて御座候き。 しかれば青蓮院殿にて佳例にまかせ御得度なり。 八月十五日名月の夜八つ時に御かへりあり。 南殿様・近松様も御大慶無申計御座候。 御坊様・照如様、 南殿へ御参りの事也。 やがてそのあかつき、 境殿へ御下向ありけり。

(85)

一 明応五年九月廿日、 御開山の御影様、 空善に御免。 中々ありがたさ申にかぎりなきことなり。

(86)

一 同十一月報恩講の廿五日に、 御開山の ¬御伝¼ を上人の御まへにて上様あそばされて、 いろいろ御讃嘆。 なかなかありがたさ無申計候。

(87)

 あるときずいりんあん( 瑞 林 庵 )、 上様へ申されけり。 本願寺をわろくおもふものは、 その人わろくなり候、 法印様のそのものはわろきものよとおぼしめすもの、 かならずそのひと罰あたり候と申されたれば、 上様御手をはたとうちたまひて、 おれは人に罰をばあてず候と仰候へば、 ずいりん、 上様のあながちわろかれとはおぼしめさねども、 これの御事わろくおもひいふものかならずわろくなり候、 まづせんどひろさは方見仏のためにまいり候に、 御寝殿所望候に、 御見せ候はぬとて散々にわろく申、 以の外に腹立仕て帰京いたし、 別の事にてこれへ参り、 かへりてあくる次日、 上意にちがひその0669まゝ高野へ上り遁世し候き。 されば本願寺殿をかりにもわろくおもひ悪言するもの、 かやうにばちをあたり候。 境の代官高西も同前の事にて候へば、 たゞ不思議と存ずる計と申され候時仰に、 それはさある事も候はんずると仰候て、 御譏嫌共にて色々の御雑談なり。

(88)

一 *明応六年四月十六日御上洛にて、 その日御開山聖人の御影の正本、 あつがみ一枚に、 御自らの御筆にて御座候とて、 上様御手に御ひろげ候て、 みなにおがませたまへり。 この正本、 誠宿善なくてはえ拝見申さぬ事なりと仰候き。 つぎに法然上人の御筆の名号、 ぼきの絵、 いづれも同時に拝見申し候き。

(89)

一 言く、 「諸仏三業荘厳して 畢竟平等なることは 衆生虚誑の身口意を 治せんがためとのべたまふ」 (高僧和讃) といふは、 諸仏の弥陀に帰して衆生たすけらるゝことよと仰候き。

(90)

一 一念の信心を得てのちの相続といふは、 さらに別にあらず、 はじめ発起するところの安心に相続せられてたふとくなる一念の心のとをるを、 「憶念の心つねに」 (浄土和讃) とも 「仏恩報謝」 ともいふなり。 いよいよ帰命の一念、 発起する事肝要なりと仰候き。

(91)

言く、 朝夕、 「正信偈和讃」 にて念仏まうす、 往生のたねになるべきか、 たねにはなるまじきかと、 をのをの坊主に御たづねあり。 みな申されけるは、 往生のたねになるべしとまうしたるひともあり、 往生のたねに0670はなるまじきといふ人もありけるとき、 仰に、 いづれもわろし、 「正信偈和讃」 は、 衆生の弥陀如来を一念にたのみまひらせて、 後生たすかりまうせとのことはりをあそばされたり。 よくきゝわけて信をとりて、 ありがたやありがたやと聖人の御まへにて念仏まうしよろこぶ事なりと、 くれぐれ仰候き。

(92)

一 南無阿弥陀仏の六字を、 他宗には大善大功徳にてあるあひだ、 となへてこの功徳を諸仏・菩薩・諸天にまいらせて、 その功徳をわがものにするなり。 一流にはさなし。 この六字の名号わがものにてありてこそ、 となへて仏・菩薩にまいらすべけれ。 一念一心に後生たすけたまへとたのめば、 やがて御たすけにあづかることのありがたやありがたやと申ばかりなりと仰候き。

(93)

 細川大心殿をば、 みな人申候、 聖徳太子の化身と申す。 そのゆへは観音とやわた八幡との申子にてあり、 細川九郎殿十二の年に、 丹波一の宮が、 九郎殿をぬすみくだり候、 その夜のあかつき、 あたごよりのゆめにいはく、

君が代を 久しかれとぞ いのりける
念彼観音の りきにまかせて

細川九郎殿ゆめに返歌あり、

白たへの 雪はつもれど やわた山
ゆくへ久く 神にまかせん

とよまれけり。 されば竜安寺どの、 臨終のときあきばをめして、 われ死すとも小法師があるほどに、 家はくるしかるまじきぞ、 そのゆへは観音にいのり申すあかつき、 われは聖徳太子ぞと仰られて、 はゝが口へとび入たまふ、 その夜より懐妊の子なりといひけるなり。 かやうの人なれば、 このこなたの守護になりて候へ、 加賀の国の中たがひをもわれにまかせよとて、 これとか0671の門徒の中をなをし永代の御門徒のよしまで申しさたしけりと仰候き。

(94)

一 三河の国より、 あさいの後室、 御いとまごひにとてまいりて候に、 富田殿へ御下向のあしたの事なれば、 事のほかの御とりみだしにて御座候に、 仰に、 名号をたゞとなへて仏にまいらするこゝろにてはゆめゆめなし。 阿弥陀仏をしかと御たすけ候へとたのみまいらすれば、 やがて仏の御たすけにあづかるを南無阿弥陀仏とまうすなり。 しかれば御たすけにあづかりたる事のありがたさよありがたさよと、 心におもひまいらするを、 口にいだして南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とまうすを、 仏恩の報ずると申すことなりと仰候き。

(95)

一 順誓申上られ候。 一念発起のところにて、 つみみな消滅して正定聚不退のくらゐにさだまると、 「御文」 にあそばされたり。 しかるに罪はいのちのあるあひだ、 つみもあるべしと仰候。 「御文」 と別にきこえ申候やと申上候時、 仰に、 一念のところにて罪みなきえてとあるは、 一念の信力にて往生さだまるときは、 つみはさはりとならず、 さればなきぶんなり。 今娑婆にあらんかぎりは、 つみはつくる也。 順誓は、 はやさとりてつみはなきかや。 聖教には、 一念のところにて罪きえてとかくなりと仰候き。 つみのありなしのさたをせんよりは、 信心をとりたるかとらざるかのさた、 いくたびもいくたびもよし。 つみきえて御たすけあらんとも、 つみきえずして御たすけあるべしとも、 弥陀の御はから0672ひなり、 はからふべからず。 たゞ信心肝要なりと、 くれぐれ仰られ候き。

(96)

一 「真実信心の称名は 弥陀廻向の法なれば 不廻向となづけてぞ 自力の称念きらはるゝ」 (正像末和讃) といふは、 弥陀のかたより、 たのむこゝろも、 たふとやありがたやと念仏申こゝろも、 みなあたへたまふゆへに、 とやせんかくやせんとはからふて念仏まうすは、 自力なればきらふなりと仰候き。

(97)

一 无生の生とは、 極楽の生は三界へめぐる心にてあらざれば、 極楽の生は无生の生といふなり。

(98)

一 廻向といふは、 弥陀如来の衆生を御たすけあるをいふなりと仰られ候き。

(99)

一 仰に、 一念発起の機、 往生は決定なり。 つみけしてたすけたまはんとも、 つみけさずしてたすけ給はんとも、 弥陀如来の御はからひなり。 罪のさた无益なり。 たゞたのむ衆生を本にたすけたまふ事なりと仰られ候き。

(100)

一 仰に、 身をすてゝ平座にてみなと同座するは、 聖人の仰に、 四海の信心のひとはみな兄弟と仰られたれば、 われもその御ことばのごとくなり。 又同座をもしてあらば、 不審なる事をもとへかし、 信をよくとれかしとのねがひなりと仰候き。

(101)

 仰に、 おれは門徒にもたれたりと、 ひとへに門徒にやしなはるゝなり。 聖人の仰には、 弟子一人ももたずと、 たゞともの同行なりと仰候きとなり。

0673(102)

一 「愛欲の広海に沈没し、 名利の大山に迷惑して、 定聚のかずにいることをよろこばず、 真証の証にちかづくことをたのしまず」 (行巻) とまうすさたに、 不審のあつかひどもにて、 往生せんずるか、 すまじきなんどたがひに申あひけるを、 ものごしにきこしめされて、 愛欲も名利もみな煩悩也、 されば機のあつかひをするは雑修なりと仰候き。 たゞ信ずるほかは別の事なしと。

(103)

一 夕さりに、 案内をも申さず、 ひとびとおほくまいりたるを、 美濃殿、 みなまかり出候へと、 あらあらと御申候処に、 仰に、 さやうにいはんことばにて、 一念の事をいひてきかせてかへせかしと。 東西をはしりまはりてもいひたき事也と仰候時、 慶聞房なみだをながし、 あやまりて候とて御讃嘆ありけり。 皆々落涙申事かぎりなかりけり。

(104)

 明応六 十月十四日に、 御寿像御免にて、 同十八日御うらがき大上様富田殿にてあそばされて、 十九日野村殿の御目に入申候ところに、 野村殿の仰に、 をれにのぞむ所の泥仏の六字の名号、 御うらがきめされくだしたまはり頂戴申て候き。

(105)

一 *明応六 十一月、 報恩講に御上洛なく候間、 法慶坊御使として、 当年は御在国にて御座候間、 御講を何と御さたあるべきやと、 たづね御申候に、 当年より夕べの六時、 朝の六時をかぎり、 みな退散あるべしとの 「御文」 をつくりて、 かくのごとくめされべきよし御さだ0674めあり。 御堂の夜のとまり衆もその日の頭人ばかりと御定めなり。 又上様は七日のうちを富田殿にて三日御つとめありて、 廿四日には大坂殿へ御下向にて、 大坂殿にて四日の御勤行なり。

(106)

一 *同七年の夏よりまた御違例にて御座候間、 *五月七日に御いとまごひに聖人へ御まいりあり度と仰られて、 御上洛にて、 やがて仰に、 信心なき人にはふつとあふまじきと、 信をうるものにはめしてもみたく候、 あふべし。

(107)

 ある時仰に、 わが御身の御母は西国の人なりときゝ及候ほどに、 空善をたのみはりままでなりともくだりたきなり。 わが母は、 *我身六の年にすてゝ、 行きかたしらざりしに、 年はるか後に、 備後にあるよし、 四条の道場よりきこえぬ。 これによりてはりまへくだりたきといひければ、 空善はしりまはり造作し候よし候。 命あらばひとたびくだりたきなりと仰候き。

(108)

 御堂衆、 信心いかにもよくとられて候らんと、 田舎の人はいきぼとけのやうにおもふなり。 しかるに無道心なり、 あさまし事なり。

(109)

 仰に、 信をしかととりたるひとすくなし、 その時南殿の御えんへをはりの巧念まいられけるを、 やがて仰に、 あの巧念なんどこそ、 よくよくすえの人なれども、 信をとり、 河野九門徒をもとりたてなんどしければ、 すえずえのものなれども信心のあるによて座敷をもあげたり、 よくよく御こゝろえあれと、 北殿へ仰られけり。

(110)

 信のなきものをみれば、 ひとへにかなしきなり。 ま0675た仏法をわろくあつかひふるまひ、 仏法のあだをなすひとをきけば、 やむよりなをかなしきなり。

(111)

 信心決定する段をば、 つぎにして御恩しれとみないひけり。 御恩をしれといはんよりは、 信心決定してうへには、 只あらたうとやたうとや、 ありがたやとおもふこゝろをもちて念仏まうす、 すなはちこれ仏恩なりと仰候き。

(112)

 仰に、 衣墨ぐろにすること、 しかるべからず、 衣はねずみ色なり。 凡夫にて在家にての一宗御興行なれば、 いづくまでも、 うへしたたうとげせぬ。 衣の袖をながく、 たけをもながくすべからずと仰候き。

(113)

 信のなきものにあふまじきといへば、 おれを二そく三まいにして、 をさへてわれがまへゝ信のなきものをつれてくると仰候き。

(114)

 六月十三日あかつきに、 前住様よりこれの小五郎を御使にて、 猿楽をするぞ、 みよと仰候間、 畏て候よし申候ところに、 そのあくる日、 堺衆能をしたきといひて大勢上り候間、 十五日には北殿させられ候。 十六日には坊主させ候。 又その能にうぐひすの鳥さしのきやうげんを色くろ四郎二郎仕候。 太刀刀のをつるもいはず、 ひとのしかるも耳にいらず、 鳥をさすに念のいりたるを御覧じて、 世間かりの事にも念力をいれねばならず、 されば仏法もあのごとく念をいれてこそと、 お0676もしろくおぼしめして、 あくる日の能にもめしかへして鶯のきやうげんさせられけり。

(115)

 七月に光闡坊様御上洛候ところに、 仰に、 よく上りたり、 必わが身往生すべきなり、 いま一度いきがほをみてはと仰候き。 御坊様御涙ばかり也。

(116)

 それ信をとりて人にも信をとらせよ、 われは奥州へ御下向の時、 前下向に一人聴聞してよろこびしその仁、 もしあるやと御たづねあり。 夫婦ともに信をえてよろこぶよしきこしめして、 二日路のあひだを御下向あり。 しかるにかのあるじ申事に御下向はかたじけなきに、 なにをくごにそなへ申すべきとかなしみけり。 きこしめして、 なんぢらはなにを食するぞと御たずねあり、 ひえと申物ばかりたべ候よし申候とき、 なんぢらがしよくする物をこしらへてまいらせよと仰候間、 ひゑのかゆをきこしめして、 一夜御かたりありてきかせけりと仰候き。 さればかやうに御身をすて御辛労ありて御すゝめありたる御事と思ひたてまつりて、 しるし申候也。

(117)

 四月初比より、 去年のごとくまた御違例にて、 慶道御薬師にまいり候、 十七日にはなからゐ参候、 十九日には板坂参候。 きこしめし候物はおもゆばかり也。

(118)

 *五月廿五日、 御堂へ御まいりあり。 同廿八日にはかたくみなみな御申候間、 朝には御出なし。 御日中には御参ありて、 ¬御式¼ を一度あそばされて、 つぎより御坊様あそばされけり。 五月七日より六月一日まで六日御参りなし。

(119)

 六日、 姉が小路殿、 上池院をめし具し、 御下向あり0677けり。

(120)

 御堂の南の座がしらにわが御身御なをり候て、 北のいつもの御座敷に北殿をなをし御申ありけり。

(121)

 あるとき御のりものにて御つとめへ御参りありて、 御門徒衆なごりをしきとて、 うしろさまに御輿をかゝせ御かへりありけり。

(122)

 *明応七年閏十月十六日参り候夜、 「御文」 を十通ばかり慶聞坊によませられたまひて、 一念の信心をしかととりつめ候へと、 色々仰候き。

(123)

 この大坂殿のこと建立するは、 もし信心の人もいでき候へかしとおもひてなすなり。 されば三井寺やけゝれば再興して繁昌しけり。 そのとき寺法師の夢に、 これによりて生死はなるゝこと肝要也。 さればやけたるにて後生のこと思ふものいかほどもあり。 寺建立よりも後生たすかるやうに建立したきよしゆめにもあり。 其ごとく寺中繁昌するとも、 たゞ信心をとる人なくは何の篇もなしと仰候き。

(124)

 この流儀、 在家にて建立あるにて平等繁昌するなりと仰候き。

(125)

 改悔せよといへども、 心中をありのまゝにいはざるものは、 まことに无宿善なりと仰候き。

0678(126)

 「御文」 のこと、 文言をかしく、 てにはわろくとも、 もし一人も信をえよかしとおもふばかりにてあそばしをくなり、 てにはのわろきをおれがとがといへ。

(127)

 十二月まいり候ところに、 よく下りたりと仰候き。 その夜、 教行証の名目のごとくなる 「御文」 を経文坊によませられたまひて、 色々仰候き。 ありがたさ無申計事也。

(128)

 あるとき、 御さまのうちへめして仰に、 あかぬは君の仰といふ事があるはとばかり仰られて、 やがているりに御足をあぶり御しんありけり。 野村殿様、 南の御座敷に御座ありけり、 御歓楽御事のうち。

(129)

 信心をえたる人は、 わが御身のをとゝなりと仰候き。

(130)

 *明徳八年二月に、 御往生一定にて御座あるべきやうに御談合にて、 御葬所御用意あり。 然に俄に御談合かはり、 山科殿へ御上洛候て御往生あるべきよしとて、 はや御日どり十八日に御さだめあり。 然れば御さうのために空善上るべきよし仰出され候間、 十六日まかり上り申上候。 御むかひ御用意どもなり。 しかれば*同十八日に御たちにて、 三日のあひだ御こしにて、 いかにもしづかに御上洛、 廿日に野村殿様へ御付あり。

(131)

 *同廿一日に、 御影様へ御参あり。 御まへにて仰に、 御目にかゝり事かたく存候処に、 只今御目にかゝり申事、 中ゝありがたさ無申計候と仰候き。

(132)

 同廿二日には、 御往生めさるべき御所とて御造作させられけり。

0679(133)

 *同廿五日には、 まはりのどゐを御覧あり。 ほりのうへを御のりものにかゝれさせたまひて御めぐりあり。 伊勢の宿のどひにて御こしたち、 水をきこしめしけり。 御ためとてあたらしき茶碗、 空善もちて候。 おりふし御用にたちありがたさ申計なく候き。

(134)

 同廿七日に、 また御堂へ御参りあり。 御かへりのとき、 御門徒の人々名ごりおしきとて、 御のりものをうしろさまにかゝせられて、 諸万人を御覧ありけり。

(135)

 また二十九日にも、 ほりのどゐへ御出ありけり。

(136)

 三月一日には、 北殿様へ御出あり。 御亭にて北殿様、 其外御兄弟様、 皆々御座ありて、 御機嫌にて御雑談、 乗きくけんげう色々申上けり。

(137)

 御遺言にてあるぞ、 一念の信心をよくよくとられ候へと、 皆々へ御兄弟様へ別而仰候き。

(138)

 同二日に、 花を御覧ありたきよし空善申付よとて、 駿河殿承候間、 走舞花を進上申候也。

(139)

 御くすしには藤左衛門参候也。 又せいじゆう( 誓 従 )参候也。

(140)

 七日の晩、 御脈を自らとらせたまひて、 ちがうところありと仰られて、 藤左衛門をめされてとらせられけ0680り。 いのきの御脈わろきよし申上候。

(141)

 七日、 御影様へ御いとまごひに、 御参りあり度とて、 御行水をめされ、 御いしやうを御あらためありて、 御のりものにて、 御堂の南より阿弥陀堂へ御参りあるとて、 花の本に御こしをたて、 まづ花を御ながめありて御きげんなり。 阿弥陀堂より御庭へ御下向ありて面より御参りあり。 御輿ともに上壇へ御参ありて、 仰に、 極楽へ参る御いとまごひにて候、 必ず極楽にて御目にかゝりかへり候と、 たからかに御申の事にて、 諸万人なみだをながしけり。

(142)

 *同九日に、 御座を御うへより御亭へ御出ありて、 仰に、 九日の日法敬坊と空善、 かゞの了珍めされて、 久きなじみなれば、 さぞわが御身のすがたみたかるらんと仰にて、 法敬坊・空善御しん所の御そばに祗候申て、 何事もかたり候へ、 又わが御こえをもうけたまはり候へと仰候き。
又空善くれ候うぐひすのこゑになぐさみたり。 このうぐひすは、 法ほきゝよとなく也。 されば鳥類だにも法をきけとなくに、 まして人間にて、 聖人の御弟子也、 法をきかではあさましきぞと仰られて、 慶聞坊なにぞをよみてきかせよと仰あり。 畏て 「御文」 を次第に三通あそばしければ、 あら殊勝や殊勝やと御定ありけり。 しかれば両人御そばに、 九日より二十四日まで祗候申候き。

(143)

 同九日に、 御臨終めさるべき御枕一間のをし板に開山聖人かけまいらせ、 頭北面西に御臥したまひけり。

(144)

 このあひだめされたる御馬を御覧ぜられたきと仰候間、 四間のうちの御たゝみ二でうあげさせられて、 御馬を御臥の御そばへひきたて申に、 この御馬前えだを0681すこしのばし、 なみだをながし、 かしらをいたまでさげたり、 尾をすこしもふらずたてり。 やゝ御覧じてひきかへせば、 いかにもしづかに御縁の板をもふみてかへりけり。 御馬とつき御馬のあとに居てよくよくみ申て候也。 御馬はぜうくり毛にて候き。

(145)

 十七日の暁に、 四反がへし御念仏、 御調声は上様、 和讃三首、 御子兄弟様みな同音に御申あり。

(146)

 十八日の仰に、 かまへて我なきあとに、 御兄弟たち中よかれ、 たゞし一念の信心一味ならば中もよくて、 聖人の御流義もたつべしと、 くれぐれ御掟ありけり。

(147)

 おなじき日より、 御脈少し御なをり候とくすし申也。

(148)

 同十九日より、 御をもゆ・御薬もいなと仰ごとにて、 まいらず候。 たゞ御念仏ばかり、 はやはや御往生ありたきとの御念願と御掟候き。

(149)

 廿二日より、 御開山聖人の御相好にて御座候と御兄弟御諚にて、 法敬坊も空善も参り拝申せと仰候て拝申候也。

(150)

 同廿三日には、 御脈も御座なく候間、 はや御往生と皆々申候処に、 又八時ばかりより御脈御なをり候。 不思議と、 みなみな仰られ候き。

0682(151)

 廿四日あかつきには御往生の御時分なり。 法敬坊・空善もそと御そばへ参り候へと御諚候あひだ、 右の御手を法敬坊すこしかゝへ申て、 いたゞき申。 空善は両方の御足をかゝへ、 いたゞき申たる事にて、 心もをくれ目くれ候き。

(152)

 *廿五日の正中に御往生、 いかにも御しづかに御ねぶり候ごとくに御臨終候き。

(153)

 御往生の後御堂へ入申て、 聖人の御前にて人にも見せよと、 御遺言に仰候き。 廿五の晩景に数万人をがみたてまつる。

(154)

 御だびは来月二日と申ふれて、 俄に*三月廿六日の日中に御座候き。

(155)

 蝋燭は廿四挺みちの両方に立候。 又火屋の四の角に四挺、 卓のむかひ扉の脇に二挺、 奉行は空善也。

(156)

 花は紙、 けそくは十二合、 提灯はあとさき、 四花瓶・香炉みなみな下間党の十二、 十三の人々持給る也。

(157)

 御供の女房衆、 御輿十四丁、 御こしのさき。

(158)

 上様は御輿のさき、 同御一家衆三十五人計歟。

(159)

 御勤の御人数けいごの衆十五人計歟。

(160)

 御輿は御堂の内にて上様・波佐谷殿様御かたを御入候。

0683(161)

 御輿のまはりには下間儻、 また御庭より御輿に参る衆は、 慶善・祐専・浄了・正専・賢誓・慶善、 つぎには国々の坊主衆。

(162)

 ひやの松明の火は、 さき・あと丹後殿と駿河殿と也。

(163)

 御勤の調声は慶聞坊、 御焼香は上様。

(164)

 「无始流転の苦をすてゝ」、 「南無阿弥陀仏の廻向の」、 「如来大悲の恩徳は」 (正像末和讃) と此三首なり。

(165)

 御勤の後、 焼香は上様・御兄弟衆・御一家衆まで也。

(166)

 御勤の御人数、 上の外御一家衆・御堂衆、 其外慶聞坊・法敬坊・空善・本遇寺・福田寺・正乗・越中、 いづれもみなもつけ衣・きぬ袈裟也。

(167)

 御取骨の時は、 御輿たゞ五丁也、 蝋燭七丁也。

(168)

 御取骨の事は、 一夜御番を二見ばかりにて申候処に、 御上様取骨めされ候て後、 人々火屋へ入候て取候間、 はいをも土をもほりとり候て、 国々へ帰候。

(169)

 御荼毘の日二十六日より日御めぐり候。 朝日と日中と夕日と三度づゝ、 又五色の花二尺ばかりかの御堂の上0684に七日中ふり申候て目を驚ろかし、 大坂殿にもふり候。 七ヶ日の間は如此候。

(170)

 今度の御遺言、 いさゝかも御たがえあるまじきよし、 堅く御兄弟様御談合をはりまいらせ候て目出度候。 しかれば総坊主衆へも、 此一念の御遺言をしかと決定なくは、 あさましきことなり。 すでに古上様へはや御うけを申て候事にて候ほどに、 しかと信心を決定して仏法興行なくは、 御住持を御斟酌あるべしと、 近松殿を御使にて諸坊主衆へくれぐれ被仰けり。 みなみな御うけを申されけり。

(171)

 御中陰は廿五日より四月十七日にまづめされ、 あけて内々は五十日まで御つとめあそばしけり。 三七日の間天気もよく御座候て、 御中陰あがりてあくる十八日大雨ふり候。 されば万づたゞ不思議なる御事どもにて御入候なり。

右一冊者空善聞書也不可漫許書写者也

 

此一冊在櫃底而不見尚奥今改換表紙者也

蓮池堂釈宝沢

于時延享第三丙寅年林鐘下旬二日

 

底本は大谷大学蔵江戸時代転写本(船橋水哉氏旧蔵)。