1279蓮如上人遺徳記 巻上 蓮悟撰 実悟記

 

それせん法印ほふいんだいくわしやう兼寿けんじゆ蓮如れんによしやうにんとくをあげて、 およそみつこゝろをとりりやくして大体たいていをしめすべし。 一には真宗しんしゆ再興さいこうとく、 二にはざい思議しぎ、 三にはめちやくなり。

第一だいゐち真宗しんしゆ再興さいこうとくといふは、 ぞくしやうあまつ児屋こやねのみこと、 二十一苗裔べうえいたい織冠しよくくわんぐゑんそんこんだいしやう大臣だいじん 内麿うちまろこう だい後胤こういんひつさいしやう有国ありくにの五代のまごくわうぐう大進だいしん有範ありのり息男そくなん真宗しんしゆの大親鸞しんらんしやうにんまごさうじようをいへばだいだいなり。 御母おむはゝ何国いづくひとともしらず、 ひとたづね何国いづくの人ぞとまうすといへども、 つゐにいゝあらはたまことなしと 云云そもそも称光しようくわういん いみな実仁さねひと ぎよ*応永わうえい廿二 きのとのひつじ 落陽らくようひがしやま大谷おおたににして、 蓮如れんによ上人たんじやうしましましけり。 日々にちにち歳々せいせいおくりたまへり。 しかれば幼童ようどうかたちよりこゝろぎよくにして、 どう卓礫たくらくせり。 興法こうぼふのこゝろざし深厚じんかうにして、 つゐそのこゝろ融通ゆうづうして、 一てんかいにおひてしやうにんの一りう再興さいこうしたまへり。 さればしやうにん御時おむときもん其化そのくえけ、 慇懃ねんごろに其のおしへをまもるやからわづか六輩ろくはいにだにもたらずと1280 云云いまときまことなるもの希有けうなりといへども、 万国ばんこく群類ぐんるいことごとくぐわん真信しんしんにかたぶき、 りきわう宗門しゆもん此時このときいたりさかんなり。  れ ち蓮如上人の淵源ゑんげんこんいたすところなり。 しかるに*寛正くわんしやう初暦しよれきころより、 末代まつだいれつかんがみて、 きやうろんしやうしよ師資ししめいしやくえつして、 ぼんそくしやうかん撰取せんしゆしてつう要文えうもんをつくり玉へり。  れ末代の明灯めいとうなり。 ひとへじよく目足もくそくなり。 しかれば祖師そししやうにんより以来このかた、 一ねんみやうのことはりをすゝむといへどもねんおしへず。 こゝに先師上人このつまびらかにして、 无智むちの凡るいをしてあきらかに難信なんしん金剛こんがう真信しんしんぎやくとくせしむることをいたす。 まことに是れ先師上人の恩徳おんどくなり。 もしこのすゝめあらずはいかにしてかかつたぐ生潤しやうじゆんあらんや。 ふかくきやうすべし。

*応永おうえい廿七 先師六歳 やうじゆんだい八日に、 どう六歳ろくさい少童せうどうたいしてかたりたまひけるは、 ねがはくはちご一代ゐちだいしやうにんりう再興さいこうしたまへとて、 ねんごろしんのべたまふが、 そのまゝいづかたともなくでたまひき。 ひとそのうん四方よもにたなびき、 そう虚空こくにありと 云云ふたゝきたり玉ふことなし。 これを見聞けんもんする人、 ほとんどあやしまずといふことなし。 これによりて先師廿八日をもて命日めいにちとし玉ひて、 おむこゝろざしはこびたまひけり。 しかるに六さいぞうれいいたりぐわせらる。 其のめいに云く、

1281 を名↢なづく袋↡ていと のりを す幸亭↡かうていと  に離↠はなる に  にベシ明応めいおうねんに 終↢をはる八十五歳↡さいに

ある人の云く、 どうたちでたまふとき六角ろくかくどうしやうじやけいし玉ふと 云々しかるときは久世くぜくわんをんげんたるものか。 どく思議しぎことなり。

先師*十五さいよりはじめて真宗しんしゆこうぎやうこゝろざしきりにして、 一しゆ中絶ちうぜちせるを前代ぜんだいおふてられざることこん し召し、 如何いかゞしてかわれ一代におひてしやうにんの一りう諸方しよほうあらはさんと、 つねに念ぐわんしたまひ、 つゐ再興さいこうし玉へり。 さればじやうぐわんげん上人もさん御歳おむとしより无常のことはりかくして、 すみやかだいみち通入つうにふまします。 是即ちだいせいおうなりといふこと炳焉へいえんなり。 嗚呼あゝ思議しぎなるかなや、 聖人 源空 いづれのとしぞや、 かれも十五歳。 蓮如れんによいづれのとしぞや、 これも十五歳。 彼此ひしたいと云ふことを。 又らんしやうにんしんとも云ふべきをや。

*永享えいかう第三 かのとの れき、 先師十七歳にしてしやう蓮院れんいん門室もんしちいたりて鬢髪びんぱつていじよす。 則ち広橋ひろはしちうごん兼郷かねさときやうやうとして、 其のちうごん兼寿けんじゆがうたてまつる。 それより以来このかた学問がくもんにこゝろをつくし、 研精けんせいならびなく、 せつにことなり。 りやうえんときをわかたず、 あるひえんたんにはほたるあつめ車胤しやいん古事こじとぶらひ、 玄冬げんとうかんにはゆきたづさへて1282せんきうこゝろむ。 しかるにのころはいまだ一りうしかしかとしるひとおほからざるあひだ、 もん他家たけおぼへゆうなり。 しかればつねに人におそれはゞかり玉へり。 しやうてんはいするにもひそか人看じんかんしのび、 是をえつし玉ふにも或は隔壁かくへきとぼしびのすきまより光を ひ閑晴かんせいなるせいしようすめげつをもてもんじやくひらきしやくこゝろをつくし、 かくのごとくして ¬けう行証ぎやうしようの文るい¼ に ¬六要鈔¼ 四部のしやく引合ひきあはせ是を渉猟せうれうし、 つぶさこんして深旨をきはめ、 しよかんぬきいの要文をばつくりいだせるなり。 つねにはかくのごとく怖懼し、 論釈をもよるならでは玉ふ事なし。 この故に禅扃ぜんけいえつする門輩も希有けうなれば、 教興けうこうえんくはだてがたし。 こゝに江州金森かねがもりといふところに、 道西だうさい  て す↢善 とと云真弟しんていあり。 このひとせんつね眤近ぢゝきんせしめて仏法興行のむねよりより閑談かんだんし、 金森かねがもりの道場にかうせ、 御門えうをあつめてほふちやうもんさせけり。 そうじて此のひとくわんいたして御門えう建立こんりうせしむ。 それよりこのかた三十有ぶんいたりて、 仏法ぶちぽふづうしてじんやうやくあらはれて、 上人の御本意すでにたつせんとす。 たとへばがん雨露うろうるをひうくるがごとし、 えんのぞみあくころいづるがごとし。

*宝徳ほうとく 先師五歳 はじめほくに下向し玉ひて、 或はきう蘭若れんにやをあかし、 或は醶首けんしゆようくらして、 もはせんし、 ひとへに緇素しそみちびい居諸きよしよおくり、 其の後ちえち1283くにに下りましまして、 聖人のしんかさねたまひしこくに居住し、 つらつらわうじやく尊跡そんせき歴覧れきらんし、 聖人このところにしていくばく群類ぐんるいをかし玉ふらんとおぼしめすつけても、 またたういたりもんはんじやう道俗だうぞくぶくすることむかしだうがふせることと思召て、 くわんのあまり、 また一つは聖人のざいしたひつゝ、 それより北山きたやま鳥屋とやゐん浄光寺に入玉ひ、 なを尊跡そんせき玉ひて感涙かんるいをまじえたまへりと 云々しばら下鄙かひさかひこゝかしこに休息きうそくし玉ひて華落くわらくかへり玉ひけり。

*ちやうろくぐわんねん ひのとのうし 六月十八日げん法印ほういん円兼えんけん 存如上人于時六十二歳 くわくりんおよびたまひぬ。 しかれども兼寿けんじゆ上人の興法こうぼふこゝろざしかんじて、 後代こうだいたのもしく思召けり。 つゐじやくし玉ひぬ。 一けい愁涙しうるいしづ列衆れつしゆそでしぼる。 しかれば葬送さうそういんあひだ、 念仏報恩ほうおん経営けいえいふたごゝろなく、 ごんぎやう丹誠たんせい でゝじゆんしんおはりぬ。

こゝひとつ験乱けんらんおこれり。 そのたいは、 ちう以来このかたいちしるしかりしりういさゝおとろふるにたり。 しかれば先師の出世によつてほふるいうるほし、 ぶち日四かいにあふぐ。 故にはゞかこれかくすといへども、 いよいよ時機じき相続さうおうけうなるがゆへに、 そのくわんのひろまることむかし超過てうくわせり。 これによつて叡山えいざん学侶がくりよほんぎやくくわだつ。 それ聖道の諸宗しようしがたく、 末代のれつなるがゆへに、 瑜伽ゆがみつつきまへにはくわんさうをこらし、 三たい相即さうそくまどのう1284ちにしてめうあらはさんこと、 いまこんにおひては最もかなひがたし。 是故このゆへをそむきときにあらざる宗門しゆもんはいよいよすたり、 教法けうぼふすでにかくれんとす。 しかれば浄土のさかんなるを偏執へんしゆして、 じちぶんをもて、 ひがしやま大谷おゝたに禅房ぜんばうぎやくせり。 しかるに聖人の影像えいぞうをばれん輿にのせ奉り、 江州志賀しがこほりおゝと云ふところへうつし奉り、 おくすえ奉り、 先師もおなじくこのところしのびたまひつゝ、 むなしくそうとぢくわういんおくり玉ふ。 らいおゝみなみほとりに少坊を近松御坊なりかまへて御影聖人をもすえ奉り、 御門弟のこんをもてせいをつくのひ禅室ぜんしちをしつらひて居住きよぢゆし玉へり。 かくのごとくして年序ねんじよおくり玉ふことしばらくなり。

*文明ぶんめいだい かのとの れき初夏そか上旬のころ、 おゝの小坊をしのいで北邦ほくはうおもむき玉ふ。 しかれば国郡の男女そうちやうの心をはこび、 捨邪帰正のたぐきやうしんもとももはらにしてかしこに群集す。 それつらつら往年わうねんの事をあんずるに、 そもそも空聖人の御時おんときしやうだう諸宗しよしゆみな真宗しんしゆしければ、 こうそねみ南北なんぼくがくじちそうて、 忽焉こつえんとして浄土の元祖黒谷くろだに聖人を南海なんかい遠境えんけいはいし、 祖師聖人も同く北陸ほくりく遥郷ようけいはいせらる。 されば御ことばにの玉はく、 「大師聖人 源空 もしけいしよせられ玉はずは、 われまた配所はいしよおもむかんや。 し我れ配所はいしよにおもむかずんば、 なにによつてかへん群類ぐんるいを化せん。 こ1285れなほけうおんなり」 (御伝鈔巻上) といへり。 これによりて門葉もさかりなることおほくは北邦にあり。 まことに文明第三の御下向はひとへに真宗繁昌の先しようなり。

あるとき所々しよしよじゆんけんみぎり、 越前のくに坂北さかきたこほり吉崎よしざきと云ところきよをしめばやと思召て、 すで*同き初秋しよしう下旬第七日よりはじめて一かく建立こんりふし玉へり。 しかればせん緇素しそろんぜず、 門葉につらな禅室ぜんしちちかづたぐひ、 あげてかぞふべからず。 是よりして一流の宗儀さかんにして、 自他宗をゑらばずぶくすることかぜなびくさの如し。

*文明第七の暦、 所々歴覧れきらんのおりふし、 きうことなれば再覲さいきん大切なりとて、 加州ほくのかたほとり二俣ふたまたしやう立寄たちより、 しばらくあしいこひ、 あんのためにいしへ玉ふ。 そのにはかたちいまにのこれり、 遺跡ゆいせき尤もしたふべきものをや。

* き南呂なんりよ下旬頽齢たいれい六十一にして吉崎よしざき禅室ぜんしつをたち玉ひ、 じゆんをあげひそかにわかばまふねをよせ、 たんけんとほりつゝせつくにでたまひ、 それより河内かはちくにまつ り中振なかふりがうぐち光善寺 さといふところいたり玉ひ、 幽栖ゆうせいしめ玉ふことすでに三年なりき。

*文明九年玄律げんりつころ の森の善従ぜんじゆぐち閑窗かんそうえつしてまふしけるは、 じやうしう宇治うぢこほりひんがしばうたてらるべきよろしき在所ざいしよありと時々ときどき ふされければ、 先師のおふせには、 わ1286れ一しよぢゆにしてしやうがいはたすべしとおもふなりと 云々。 しかりといへども善従ぜんじゆなをけいじゆちありつるむねは、 むかしきやうひがし山にさへましししき、 宇治うぢこほりへん道俗だうぞく参入さんにふ便たよりもともあるかのよしさいおよぶあひだ、 先師そのこゝろを玉ひて、  ぎこのところ歴覧れきらんあるべしとて、 * く十年先師六十四歳初陽しよやう下旬第九日河内かはちの国まつ りぐちさとをいでゝ上らくましまして、 山 のくに宇治うぢこほり小野をのといふしやう山科やましな ちむr西にしなかれん輿をたてられ、 少時しばらくめぐり玉ひて、 しからばこゝ居住きよぢゆ時宜じぎをもこゝろむむべしとて、 まづ少屋せうおくたて玉ひ、 *そのとしは江州近松ちかまつ弊坊へいばうにて越年えつねんし、 *翌年よくねん六十五歳にして三月せん ろ連続れんぞくしてさくくはだてたまふ。 こゝに先師あはぞんしやうあひだ影堂えいだう建立こんりふせばやと思召けり。  ちえう忽焉たちまちにそのくはだてをなしけり。

*文明第十二 庚子 六十六歳かうしよう上旬ころより営作えいさくをはじめられ、 おなじき仲秋のころすで造畢ざうひつしきなり。 先師の御心にくわん ひふ して、 まことねんぐわんもうこゝにたつすと、 満足まんぞくこのときくわんいろほかあらはれたまへり。  の*ちやう十月げつ十八 のいりて、 おゝ御座ましましける根本こんぽん影像えいぞうをうつりたてまつり玉へり。 しかふしてのち報恩ほうをんかうもはじまり、 无二むにごんぎやう退転たいてんなし。 謝徳しやとくをこらする門えふまことことあたらしく、 渇仰かつがうせんぎやうおもひ止事やむことなし。 しんどん真信しんしんぎやくとくし、 びやくけん邪輩じやはいこゝろひるがへして忽焉たちまちに正見におもむきけり。 そもそも1287一乱以後いごじやうなにとなるべきと各々おのおのりやうするところに、 このれいらん建立こんりふしてえいしやうにんをまのあたりはいし奉ること、 一宗の大慶たいけい、 御門弟の群類ぐんるいえつまゆをひらきけり。

*文明十四年 先師六十八歳 はるころ思召けるは、 たうこれ くも亀山かめやまふしりやうだいより勅願ちよくぐわんじよせんかうむりて、 わたくしならざるてらなれば、 本堂ほんだうなくしてはせんなし。 しかあひだ、 しきりに建立こんりふのこゝろざしましまして、 すで く仲旬より相続さうぞくしてぼくくわだてをなし、 たちまちりんしよう下旬のてんおよび建立こんりふじやうじゆせり。 しかれば ち先師じやくれいよりこのかた怱劇そうげき已後いご都鄙とひおんこゝろをつくし玉ひしことも、 一度法流を再興さいこうし一処をもむすび、 諸国しよこく門葉もんえふたぐひこゝろやすく参詣さんけいいたし念仏をもしゆせしめ玉はんと、 是をのみ思召けるに、 御心のごとくこと成就せしめ、 聖人の一流日本六十余州に残処のこるところなく、 門葉せつ充満みちみてり。 仏法づうの本ぐわいこゝにじやうじゆし、 衆生やく宿念しふねむたちまちにあらはれけり。 然則先師上人は黒谷くろだに聖人のげんともいひ、 又祖師聖人のしんともしようす。 まことにしんぬ、 自身の動困どうこんをかへりみずかうねいにやくるいをこしらへ、 无漏むろろうしよくをかゝげてぢよく迷闇めいあんしよう導引だういんし玉ふことを。

 1288

蓮如上人遺徳記 巻上

 

1289蓮如上人遺徳記 巻中

 

第二に在世の不思議といふは、 ほん開山かいさんよりこのかた代々祖師そしおほしといへども、 そのりうさかりなることせんあとすくな当世たうせいまたたぐひなし。 ほのかにく、 高祖聖人かならず蓮如上人と再誕さいたんして出世したまふべしといへるらいとうくわんよりのぼりしをせんかたくかたりたまはぬによりて人これをしらずと 云々 れば則ちそのしんといふことうたがひなく、 もとももてあきらかなるものをや。 それ上人のごんいはく、 なにたることきくといへどもこゝろに叶事なし、 もし一人なりとも信心しんじんけちぢやうせしめんことをきこしめしたくおぼしめすおふせごとありき。 さればこれよろこび玉ふことかぎりなし。 あるかたりけるは、 一人にても心をひるがへしほふにかたぶきたるといふことあれば、 聖人よろこび玉ふことかぎりなく、 そのおむかたちをうつされける。 その真影しんえいのごとく唇口くちびるうそぶきたまふにたりと 云々。 かの御ぞう ち仏法づうし、 もんおほくそのしたがふことさかりなりしときえいなり。 又仏恩の高大かうだいなること迷ki7めい八万のいただきにこえ、 とく深厚じんかうなること蒼海さうかい三千のそこよりすぎたり。 故にぶつ恩徳おんどくふかことをおもふに、 或はしよくむかへばかれをじきするごとおくし、 或1290は一衣をうくるにもこれちやくするごとねんず。  れば ちちうだんこれわすれずとのたまへり。 又つねにの玉はく、 聖人の恩徳をんどくをばよるゆめひるいさゝかわすれずと仰事ありけり。 それよる通霄よもすがらいぬるほどきふ、 しかしながらねん仏のこえなりと 云々。 しかればごん再誕さいたんたるえいしやうなをしかなり。 いわんやわれら迷倒めいたうぼんをひてをや。 いよいよその恩徳おんどくおもん報謝ほうしやこゝろざしもはらにすべきものをや。

先師あるとき御夢をんゆめに、 ほふね 聖人先師にたいして墨染すみぞめころもちやくがんいろほのかにあらはれ、 墨染すみぞめころもぞうを先師にみせ玉ひくわいぜんしやうし玉ふとおぼえゆめさめ畢。をはりぬ しかればこのこと不思議に思召し、 翌朝よくてうしやくのじゆんせいめして云く、 恩院おんいんまいり聖人のをんころもいろかはりけるかきたるべしとおふせごとありけるあひだ ち順誓かのてらまいり拝見はいけんせしめてかへまいり すやうちうじゆげうをもて袈裟げさごろもに御 ち彩色さいしきしたてまつる。 しかれどもむかしごとくならでは祖意そいはゞかりあるとて、 このたびはじめて御衣のいろをなをさるゝの し僧侶そうりよかたりけると 云々。 しづかにこのさうおもふに、 あるなかにもげん聖人、 兼寿けんじゆ上人にがうみやうし玉ふこと、 これおそらくはらん聖人けつさうじようじつことなることしめし、 かつは末世凡夫の行じやうをあらはし玉ふしようなり。 こゝをもて碩才せきさい道人だうにんきゝてらはんことをいたみ、 ほかにたゞ至愚しぐの相をげんでんそうるいひとしくせんと1291ほつす。 もとたいれいいひつべし。 けいすべし、 しんずべし。

 き先師しうけ ありしきざみ、 そのくに住人じゆにん 観音示現と云云 ずい夢をかんずることありて、 先師をくつしやうし奉る。 先師ふかし玉ふといへども、 こんもだしがたくしてひそかより玉ふ。 重畳ぢうらう飲食をんじきもり、 種々のちん調とゝのへけり。 こゝにかのぞくゆめ旨趣しいしゆじゆつす。 先師かたしゆつせいし玉ふと 云々。 しかればこれをつたくものほとんしんきやうせずといふことなし。 されば聖人の御時に、 はこ社廟しやべうにしてむかしげんおもひあわされて尊重そんぢうこゝろやすめがたし。

先師上人*七旬有余にして寺務じむを光兼僧都にゆづりて、 隣壁りんぺきに一とうかまへ隠居いんきよし玉ふ。 有時くわうこんおよびて、 おくせきこうしよくなくてましましけり。 北国ほくこくこゝろざしせちなる門弟もんていありき。 このひと上洛して先師に申ければ ち対面たいめんし玉ふ。 かんましますおぼへひかり御身のほとりにかがやき、 忽に尊容そんようはいし奉けり。 加↠ 之しかのみならずあんしやうげうぜんおきけることあり。 つらつらこれをあんずるに、 光明は智恵のかたちをもてせいとす。 しかれば黒谷くろだに聖人は大勢至菩薩の化現にてましましけり。 この聖人こそあんともしびなくして、 遍身へんしんより光明をはなちきやうてんはいせりといへり。 今この兼寿上人も光明のさうましまことじつにもて不可思議のことなり。 いよいよぶつおうにてましますと云こと顕然けんねんなり。

*めい1292おう第五の天、 しうころ、 先師年齢ねんれい八十二歳にして、 せつしうひがしなりのこほし生玉いくたましやうない大坂おゝざかと云しようもとめ坊舎ばうしや建立こんりふし、 こゝ隠居いんきよじよとしたまへり。  ち先師上人をしんしよういんがうす。 およそぎやうしゆの法門をだんりきせふしやうしゆをすゝめ玉ふに、 あまねそんきやうひとことごと仰信がうしんすることおくりかさなついしげし。 しかれば先師をはいし奉る道俗、 亦おもむき玉ふところ衆類しゆるいおのおのぶくすることそのかずをしらず。 或時 の龍玄りうげんたいしてのたまはく、 われいまは諸方へりんくわいすべしとおもふ、 そのゆへはわれにちかづくところともがらかなら真信しんしんきす 云々。 それきやうらくへん幽栖ゆうせいをしめし玉ふごとに万民むらがこと、 百川のかい鱗介りんかいれうつくがごとし。

*明応七年朱明しゆめいころ 先師八十四歳 はじめれいいさゝしゆつらいせり。 玄陰げんゐんおよびおふせられけるは、 れ今の分にてはあかさアケナかなら弥生やよいには閉眼へいがんすべしと、 時々よりより仰られけり。 しかるに玄天げんてんはやくあけ*明応八年 つちのとのひつじ はるきたりかうしよう のころに光けんそうより御迎をくだし玉ひける。  ち二月廿日に入洛し玉ふ。 しかるにかのびやうちう演説えんぜちし玉ふことあたか金言きんげんならずと云事いふことなし。 或はわうかたりのたまはく、 むかしは小屋の貧窓ひんそうしめ窮屈きうくつすといへども、 まことに聖人の一流再興さいこうこゝろざしてつせしによりて、 いま真宗しんしゆひろまり末弟まつてい安穏あんおんじゆすることひとへ矜哀こうあい念力ねんりきよりてなりとしようありけりと。 まかくわうけんそうはじめて兄弟の1293しゆたいしてのたまはく、 幼年ようねんより仏法興隆こうりうのこゝろざしあるがゆへに、 くるしみかへりみずこゝろかなしみいたまず、 都鄙とひあひdろうせしがゆへに、 いま聖人のゆうより心安こゝろやすく満足まんぞくていたり。 われざいあひだろうみやうにかなふがゆへに、 きやうだいしゆ以下いげ瀝用れきやうをもて一けいたのしむ。 われさりのちは動静こゝろのごとくならん。 そのときをいまよりおもふにあやうし。 これをりよしてふかみやうしりて聖人をおもんじ奉り、 仏法をたしなみ仏物をおろそかおもふことなかれと、 つねおゝせごとありと 云々

同年三月しゆんの天 先師八十五歳 連日れんじち長病ちやうびやうにおかされ垂老すいろうしよくし玉ひ、 身体むかしのごとくならず。 しかりといへども心性ゆうみやうにして二こん眼耳あきらかなりしことごろこえたり。 しかれば青陽せいようはるの日かげしづかにして世上暖和だんくわなりしかば、 へきはなをつくづくとらんありて、

さきつゞく はなみるたびに なほもまた いとねがはしき 西にしのかのきし
おひらくの いつまでかくや やみなまし むかえたまへや 弥陀みだじやう
今日けふまでは やそぢいつゝに あまるの ひさしくいきじと しれやみなひと

くちずさみ玉ひけり。

しかれば き*三月七日いま影前えいぜんけいせんとて、 老邁ろうまいのうたりながら、 病牀のしやう脱捨ぬぎすて新裁しんさいふくちやくし玉ひて、 よう輿じようじつゝ先づ1294本堂へけいし、 それより御影前へけいし玉へり。 即ち先師聖人の尊像そんぞうむかひ給ひて、 今生にての拝顔はいがんれまでなり、 必ず彼国かのくににして真形をはいたてまつるべしと、 ねんごろのたまひけるあひだ、 きく人みなそでしぼらぬはなかりけり。 しかうして堂ぜんはな看見かんけんし玉ふに、 かんばせてうにふかく、 またほうみゆよそほ白雲はくうん靉靆たなびくがごとし。 しばらくこれを歴覧れきらんあつて、 面白おもしろけいやとおゝせられ、 堂閣だうかくしやうめんよりよう輿じようじつゝかへり玉ふ。 今はほんぐわい満足まんぞくなりとて病牀にふし玉ひて、 辞世じせえいとて、

われせば いかなる人も みなともに 雑行すてゝ 弥陀をたのめよ
やそぢいつゝ 定業きはまる わがかな 明応八年 往生こそすれ

この二しゆかき け玉ひて、 又めつことまでをへうして往昔そのかみよみ玉へる御詠、

のちの しるしのために かきおきし のりのことのは かたみともなれ
われなくは たれもこゝろを ひとつにて 南无阿弥陀仏と たのめみな人
なきあとに われをわすれぬ ひともあらば たゞ弥陀たのむ こゝろおこせよ
かたには 六字の御名みなを とゞめをく なからんには たれももちゐ
極楽へ われゆくなりと きくならば いそぎて弥陀を たのめみな人

此歌このうたこゝろとほ遺訓ゆいくんとゞめて、 末代のけいにそなへんことをじゆつし、 ことには此界の1295化縁つきてかならず安養の本土にかへるべきごんのこして、 なを滅後の遺弟をすゝむ れ恐くは西方ごん化の来現といふべきをや。 こゝを以て思に、 ¬弥陀経義集¼ (意) に 「これ西葉の尊なり、  く の土に来てことに一門をえらべり、 おのおのあやま宣言せんげんをろそかにすることなかれ、  しかたくあふひしんぜば定て往生をえん」 といへる先賢せんけん哲言てつごん ひ合せられてむねにそみ、 しんきやうこゝろきもめいず。 そうじてさき所々に於て吟詠ぎんえいし玉ふうた けこれをゝしといへども、 すこぶしよするにあたはず。 たゞ安養のくわいをおもひ、 報謝ほうしや念仏ねんぶちたゆることなし。 ことばごんをまじえず、 つねほふべてやくほどこし玉ふ。 或は終焉しゆえんときことまでも、 又滅後の作法等、 ねんごろかね存日ぞんじつあひだおふせおかれけり。

* き九日 の龍玄りうげんたいしなにものよめおゝせられけるあひだ、 「ふみ」 をよみ申すべきやとありしかば、 やがれうしやうおゝせらるゝあひだ、 「御文」 をよみ奉る。 つくづくときこし召し、 嗚呼あゝ不思議なるかなや、 わがつくりたる 「ふみ」 なりといへどもしゆしようおぼゆあひだ、 なをよむべしとおゝせける。 五、 六返読誦どくじゆせさせられ、 是実にじゆつしてさくせなりといへどもがふせり、  も聖教となづくべしといへどもそのはゞかりありとて 「ふみ」 とがうせり。 是即けんの御ことばおそらくは先師のせんじゆちとおもふなをおろそかなり、 たゞこれ如来の金言きむげんなりとぎやうそうすべしとなり。

 く十日ひるの比、 きよし玉ひてぼく召寄めしよせられ、 御病中の容貌ようばうぐわせらる。 真影しんえい1296書付かきつけ玉ふ其御詞に云く、

ぎやくねんしん 今詣こんけい安養あんやう しん永絶やうぜつ ほふしやうそくしよう

 き中旬におよんれいぞうし玉へば、 みなたんして参集さんじふす。 しかるにおのおのおゝせおかるゝむねは、 われらきよせば大坂おゝざかよりもたせらるゝところきよくろくのせて、 「正信偈」  く念仏して御影前へうつし申すべし。 年来としごろ同行のしるし仏法ぶつぽふのよしみなればみたくもあるべし、 またられたくもおもふなり。 あながちみやうもんにはあらず。 われを門葉もんえふたんするたぐひこれあらば、  き↠是のことえんとしても人々しんをとるべき だ、 暫くかやうにおもひよるなりとおゝせられて、 又龍玄りうげんたいしてのたまはく、 「乞食こつじきの沙門はしゆ死期しごあらはし、 賊縛ぞくばくの比丘は王遊わうゆうさうまぬかる」 と云戒文までひき玉ひ、 御入滅の以後不思議を現じ玉ふべきと云事いふことしめし玉へり。 又云く、 「功成こうなりとげて退 しりぞくは天のみちなり」 (老子) と云ことも、 わがうへにてあるべしと仰らる。 まことに仏法を再興さいこうし、 をしりぞき、 衰老すゐらうびやうのうながら心安こゝろやすく安養あんやうくわいとげ玉ふべきことよとおぼしめしかくごと越陶えつたう故時こじまでおゝせいだされける。 まことに是れ末世相応さうおうしき、 凡愚引入のめいなり。

 き下旬にいたりて御病気とりしきるあひだ親族しんぞくるいきふるいし玉ふことなゝめならず。 されど1297も先師法語つねたゆることなし、 要言ようごんのべ所集しよしゆるいにきかしめ玉ふ。 およそ御病中の宣説せんぜち金言きんげん毛挙もうきよいとまあらず。 しかれば*廿五日あかつき大地鳴動めいどうしけり。 聞人きくひと思議しぎ ひあり。  れ ちごん入滅にふめつ瑞想ずいさうなり。 それをきくひと或はしようしやし、 或はどくおもひあり。 ときうつりぬれば、 日光東嶺とうれいよりほのめいて、 清虚せいきよくもはれて金色にへんず。 しかふしてやうやめいをよぶみえしかば、 一ぞく或は親厚しんかう所衆しよしゆ、 五たいとう涕泣ていきふ嗚咽あういんせしむることかぎりなし。 然してむまの正中に、 ほく面西めんさいふし玉ひ、 ねむえるがごとくにてつゐに念仏のいきたへ る。 時にしゆんじう八十五歳、 身体しんたい柔軟にうなんにしてそうみやうつねごとし。 かなしきかなや、 日月西雲さいうん還隠げんいんし、 法灯ほふとうたちまち消失せうしつすと、 国郡こくぐんしゆしやうをいだき、 いきの門ぱい哀働あいだうにしづむ。 まこといくかうをうしなへるにすぎたり。

 

蓮如上人遺徳記 巻中

 

1298蓮如上人遺徳記 巻下

 

第三にめつやくふは、 ぼんわう経文けうもんをのこして失道のものゝなんとし、 もつやくげんくわうかゞやかしてあんみやうのものゝにちとし玉ふ。 然に遺言ゆいげんまかせて、  ち二十六日のあさ、 きよくろくにのせ奉り御影前へうつし、 聖人のましましゆ弥座みざみぎおき奉りける。 門葉群集くんじふしてことごとく感涙かんるいにむせぶ。  おの愁悃しうこんそでしぼりぬ。 そもそもかのめんみよう奉るに、 えい聖人の尊げん毛端もうたんほどもさうせず。 しかれば万人はいし奉るともがら、 祖師聖人の再誕さいたんといよいよ敬信けうしんをいだけり。

こゝあるひとれいかんずることあり。 さんぬるかうしよう上旬第八日いさゝか睡眠すいめんしけるに、 ある人の云く、 今 の本願寺上人は黒谷くろだに聖人のしんとしてましまあひだ、 必ず廿五日には入滅にふめつし玉ふべしといへるとあらたにけり。 此人このひと思議しぎおもひをなし、 いそぎ上洛して人々ひとびとかたりあへり。 しかるに日限にちげんたがはず入滅し玉ふことどくなりと、 めつこんいたて思 せける。 それ三春いづれのときぞ、 かれはしゆん下旬五日、 これはしゆん下旬五日。 かれは浄土のぐわん、 これは末法のめいなり。 こむいづれとせんや。 だう1299思議しぎなるものをや。

* き廿六日 たつの に 葬喪さうそうおくり玉ふ。 しかれば日光万山にかゞやき、 ようしよく衆木しゆぼくにうつり、 うん四方にすいし、 ことに西のそらにあたり金色の光雲かさなれり。 また諸仏しよぶちさち音楽をんがくをきゝ、 れい妙花めうくわふりくだること、 まのあたり諸人これをはいせり。 諸方しよはうじやう日域じちいき門流もんりう来集らいじふして、 こう山谷さんこくをいはず群攀ぐんぽんして不思議の霊瑞れいずいを見奉り、 屈敬くっけい哽絶かうぜつす。 自他宗これを見聞けんもんしてぎやうそうおもひをなせり。 しかればほどなくさうじやうけむりとなり青帝せいていそら立登たちのぼりけるに、 はく充満じうまんしてとびめぐり、 又白龍はくりうげんじてしばらけむりをさらず。 これしかしなが結縁けちえんのゆへか、 又臨葬りんさうたんずるゆへか、 たいことなり。 又かの葬煙さうえん肉親にくしんかつてこれなし、 きやうかう紛馥ふんぷくなること、 人間のぢんだんことなり。 かたがたもて霊瑞れいずい思議しぎことなり。 それ尊老植置うへをき玉へる万樹ばんじゆ花葉くわえふことごとくずいせり、 ことに草木さうもくじやうたぐひまでも彼入滅をたんせるものをや。 むかし釈迦大師入滅のとき、 慕風ぼふア ラ シおこり天くもり樹木じゆもく双林さうりんいろへんだいながれきけり。 もともかれおなじかるべし。 実にとすべし。 権化の方便はうべん、 末代の衆生にしらせんとなり。 仰ぐべし、 信ずべし。

こゝせんの長老かたられけるは、 本願寺の上人は開山聖人のしんなりとあらたにさうかうぶりけるよし、 たしかきゝしよりどくおもひけるほどに、 こんかの闍維じやゆいにおよぶ1300あひだ、 このてらのうしろのみねにのぼり、 はるかにかの葬喪さうそうはいするに、 けむりうちたちまち白龍はくりうふたかしらげんじ、 うんたちはなふりければ、 唯事たゞごとならずおぼへて紅涙こうるい連々れんれんとしてとゞまらず。 まことにかくのごときのめうみゝにきゝてまなこには見ず、 老齢らうれい七十年のあひだに、 このたびはじめ思議しぎどくはいしたりとて、 ものがたりありきと 云々

 き廿七日こつをひろいて、  ち廿八日より仲呂ちうりよ十七日まで、 しんかずをつゞめて念仏勤行をはげまし、 しや真文しんもん読誦どくじゆし、 本式にまかせて五旬の中いんいたし玉ふべしといへども、 仏事供やうえうとせず、 たゞみやうしん心をほんと思召、 存日ぞんにちときたゞ三七日ばかりそのいとなみをなすべしとおゝせおかれしむねまかせてかくのごとく、  そ報恩ほうをんまこといたこんぬきんづるるい、 いよいよしようすべからず。 稟教ほんげうやから謝徳しやとくもはらにして遺訓ゆいくんをまもり、 あゆみはこはなはだをゝし。 しかるに終焉しゆゑんみぎりより四月二日まで、 うんちうにおゝひき。 同き日よりまた七日たちて、 本堂・御影堂の上にほう充満じうまんしてふりくだり、 仏庭ぶつていちかづく道俗、 法莚ほふえんにのぞむ老少らうせう、 これをはいし、 ずいなみだながし、 渇仰かつがういろふかかりけり。 接州せつしうひがしなりこほり大坂おゝざか坊閣ばうかくほとりにも、 同く七日うんたち二尺ばかりなるはなふりくだること自他じたしゆこれをはい瞻仰せんがういたす。 思議しぎなりとしようせること、 人口にのこれり。

1301金闕きんけつにのぞむ月卿げつけいせいはし雲客うんかく、 そのほか大樹たいじゆゆう武、 そうじてみんそうたぐひまでも、 さんせずといふことなし。

明応九年、 かのしゆをむかへてごんぎやう忠心ちうしんいたし、 ひとへ報謝ほうしや丹誠たんせいをこらす。 そのかんさかんなることすこぶる在世のむかしこえたり。 かのをんおもんずる門葉在々所々にへんして、 末流国郡にはんじやうせり。 然るに の一回のしんいたりて、 又はなふり ること、 一所にかぎらずきやうおよべり。 其後そののちまたねんをむかうるごとに、 如↠是のずい見事みることしげかりき。 後弟しようせきしたひ報恩ほうをんのまことをいたし、 えんくわい雲涛うんたうしのいで懇念こんねむをはこび、 しゆんだう万程ばんていせいしやうあゆみ廟堂べうだうけいす。 花夷の皀白かうはく遠近おんごんせん、 その旧好きうかうをたづね遺誡ゆいかいを重じて、 年々しやうりんげんけいすること清々せいせいえんたり。 しかればわれら无始よりこのかた生死のかいしづみて三毒のあいしのぎがたく、 无明の長夜にまどひて三黒闇こくあんいでがたし。 これて大聖悲れんしてひろく一代をらんで、 西土の真教しんけうあかしてとほく末代にかぶらしめ、 法滅百歳をさいし玉ふ。 実に釈尊出世の本懐、 諸ぶつじやうたいの金説なり。 是即ちぼんわう捷径せふけいけんのうせんなり。 このゆへに五祖東漢とうかんにいでゝひとへにこのほふをしめし、 本朝にまた源信・源空その教をつたへて、 あまねく浄土の教門をひらいて安養の往生をすゝむ。 こゝに祖1302師聖人出世し玉ひて真宗を弘こうし、 教行のえうをのべて濁世の群もうしぬ。 されば先師こくに生をうけ、 一流の中ぜつせるを再興さいこうし、  ろざすところの衆類しゆるい化度けどし、 我てうにのこるところなく、 聖人の御代ごよきゝざる遠邦えんぱうぐわいへんいたるまで教法けうぼふをひろめ玉ひ、 なを滅後に於て利益をあらはさんとて、 明応第八弥生やよいそらくもがくれし玉ひ、 まのあたりれいをみせしめ玉ひけり。 滅後のいたりてその遺徳ゆいとくおほき中に、 先師翰墨かんぼくをなげうち玉ふ六字の尊号そんがうの中にどく思議しぎあり。 権筆ごんひつとしてたとへをとるにものなし。 いまりやくしてその不思議を云に、 たとへば門葉のうちにだうじやうしようしつしけるに、 或は名号燌集ふんしふしておほく仏像となり玉へるあり、 或は名号しようrんせしがその字形ばかりあきらかのこり、 或は名号ねんせしが漸々にいゑかへるもあり。 滅後の勝相もとも感ずべし。

名号の焦燃せうねんして仏像ぶつぞうとなることは在世にもありしことなり。 じゆんせい先師に し げけるは、 こゝ思議しぎあり。 ひつの名号しようせうして六たい仏像ぶつぞうとなり玉へると 云々 のときおゝせられけるは、 ほとけほとけとなり玉ふは不思議とするにたらず、 凡夫のながら一念の信をもてとんしようをとることこそ不思議の第一なれと仰られけり。 入滅已後十箇年をすぎて門葉の中にかの尊翰そんかんあんたてまつるに、 つねとうみやうをかゝげざるに、 名号のほとりかゞやき玉ふ事あり。 おどろきこれはいするに、 くわうえうあざやかにして1303阿弥陀仏の四字のうへたちまちに方便法身の尊形いでき玉へり。 如↠ のはいするあひだに、 南無なむ二字にじのとおりに本師親鸞聖人の尊形鮮覈せんけうとして現じ玉ふ。 其後また先師蓮如上人の容貌ようばうしゆつらいし玉ふ。 居諸きよしよをへ星霜せいさうをかさねていよ々そのかたちあきらかにして、 仏像あまたいでき玉へり。 上古にも季世きせにも、 かくのごとくの特あるべからず。 実に是れ滅後の利益を且は末代にしらせんとの善巧思議しぎしるしなり。

ふして 以、 おもんみれば釈迦せんじやくけう惑染わくぜんしやううんをはらうといへども、 正像春夏の天、 朦朧もうろうとして光りあきらかならず。 然るに末法のあきそら寂静じやくじやうにして、 浄土円満えんまんの月ほがらかなり。 こゝにしんぬ、 西方のけうじゆん高峯かうほうよりいでけいぢよくをすゝぎ、 弥陀の法水りやう減劫げんこふながれて、 あまねく六趣四生のけんをうるをす。 上来三の不同ありといへどもわづかにそのしようをしるす。 きよくするにいとまあらず。 しかしながらこれをりやくするところなり。

 

蓮如上人遺徳記 巻下

1304 の↠録冊篇 ど り↠憚。 但思頗有僻之恐、  に染↢黄子之挙墨↡、 烈↢鳥 の之疎 を↡、 有↠恥有憚。  て に楚忽短慮弥惑、 豈非↠受↢呵 を↡乎、 寧非↠招↢毀哢↡乎。 雖↠然憶↢ ふに の を め、 而難↠覆↢ の譽↡、 難↠謝↢ の を↡。 因↠茲挙↢九 が を↡、 拾↢ひろふ の↠聞之 なる肯↡むねを して乞、 文体卑劣言辞誹謬、 尤譲↢他 に↡而加↢取捨通局↡而已。
*大永第四暦南呂初三日同第五之天終早書篇畢

 の遺徳記、 本泉寺兼縁蓮 の所↠集、 其後実悟記↠之。  の兼与 七十歳 先年豫馳 の之次、 早 に記↠之。  の後者擬↢ して反古 に↡令↢棄置↡之 に、 尚 の書有↢座 に↡。 然間為↠消↢閑 の之徒然永 の之懶 を↡、 聊加↢添 を書↢改之↡。 愚 の之短慮、 不↠及↢再 に↡、 慚↢ す を↡。
天文 癸巳 年蕤賓下旬日
  延宝七 己未 年正月吉日

 

底本は龍谷大学蔵延宝七年刊本。