蓮如上人事
◎凡親鸞聖人浄土真宗御興行座てより以来、 諸国辺鄙の群類、 雖帰此一流事凡也。 然に蓮如上人御時は、 既日本六十余州渡て御門弟有之。 剰外国荊旦迄も、 依夢告彼堺人越日域御勧化を請て帰き。 当流、 前代に未聞之奇代不思議事也。 忽権化の再来と云事支証明鏡、 其奇瑞不可勝計。 或者所々に建↢
夫蓮如上人者、 称光院御宇*応永廿二年乙未誕生、 童名号幸亭。 鎌足内大臣より廿六代円兼 *長禄元 六月十八日円寂六十二 存如上人 法印真弟、 永孝院贈内府秀光公依早世
若年の比、 為南都大乗院法務大僧正経覚門跡参候。 累年学窓にして、 蛍雪の勤をはげます。 此門主後に者隠遁しましましては、 号安位寺家門九条殿。
北堂は生所を不知人也。 存如上人先妣の御方に常随宮仕人に侍りき。 蓮
その後継母御方座して、 応玄法印 為青蓮院号円光院、 准后尊応資法名蓮照、 遁世号学本坊 大貳蓮康等母儀也。 かくて経年序、 長禄元年六月十八日に、 円兼法印、 円寂に入給ぬ。 兼寿法印は 蓮
如円禅尼は寛正元年十月四日、 逝去しましましてけり。 其後越前国吉崎坊にて*文明第四 十月四日、 十三年忌さまざまな仏事等行ひ給ける。 雖為継母、 如実母御存生の折々は連日種々上人被奉養育ければ、 禅尼も古の事ども後悔の涙をながし、 つねづねは懺悔せさせ給てあさましかりし事共恨思給、 信心歓喜せしめ給、 往生の素懐をとげさせたまふ。 則葬送の時は、 上人御肩かけさせ給、 御堂の庭まで供奉し給ひけるとぞ。
本願寺の御住持は、 鸞上人の御修行の例として、 必御一代に一度関東・奥州下向せしめ給事也。 然而蓮如上人は、 御一期に三ヶ度可有下向御所存たりし。 両度は如御本意、 三ヶ度めには越中瑞泉寺まで御下ありし。
一番には奥州下郡まで御下向也。 其時善鸞御房の坊跡の辺を御通の時は、 御笠をかたぶけ、 彼坊跡を人目も無御覧侍しとなり。 これ鸞聖人御不快の人の事なれば、 彼坊跡をも御覧有間敷との事也。 其時は鸞聖人御修行の例をまなばれしにや。 御かちなれば、 御供の人も一両輩とぞきこえし。 御足にわらんづくゐ入たる跡ましまして、 御往生の砌もとり出し各にみせしめ給ひ、 かゝる0754御辛労ありつる故にいま各心安く侍るぞとの仰事ありしと也。
二ヶ度の時、 国々所々御逗留ありて、 仏法の邪正をたゞされ、 御勧化をうくるやからも、 その時は多かりければ、 所々に逗留申され、 路次中も高駕を進め申されしと 云云。 此度の御下向は、 ひとへに連祐禅尼の忌中よりも思召立けるとぞ。
三ヶ度に及ては、 越中州利波郡井波の瑞泉寺まで御下向也。 此寺は綽如聖人御建立、 異朝よりわたる所の
又吉崎といへるは、 文明三年夏江州より御下向後、 越前国坂北郡細呂宜郷 吉久名之内 吉崎の御坊は、 七月廿七日より建立。 然而寺内・寺外繁昌して、 諸人群集幾千万と云不知数侍しかば、 加賀・越前両国の守護諸山寺の偏執も以外の事なりき。 殊には平泉寺・豊原寺、 賀州には白山寺・那多・八韻等を始として、 しきりのもよをしありて当寺の偏執ありしか共、 仏法の不思議にや、 終に無別儀いよいよ繁昌し侍りき。 其後此寺は賀州・越前の取合出来て、 文亀三年七月回録してけり。 敷地は越前守護朝倉弾正左衛門尉之入道
応仁二年四月廿二日夜夢想に曰、
「このごろの信心がほの行者たち、 あらあさましや、 真宗の法をえたるしるしには学生沙汰のえせ法文、 わが身のほかは信心のくらゐをしりたるものなしとおもふこゝろは、 憍慢のすがたにてはなきかとよ。 そのこゝろむきはよきとおもふ安心か。 これよく経釈をしりたるふたつの勘文かや。
たとへば俗人二人ありけるが、 その姿はいはめていやしげなりけるが、 その一人の俗に対してこの文を二三返ばかり誦しければ、 かの俗人この文のこゝろをうちきゝていふやう、 あさましや、 さては年比我等がこゝろえつるをもむきはあしかりけりとおもふ也と云はんべると覚て夢さめをはりぬ」 (御文章集成五) とあそばした、 本文別にあり 取意。
一 越前国坂北郡細呂宜郷内吉崎の坊は、 文明三年七月廿七日一宇建立、 これ又蓮
一 文明九年十二月二日御作文の時、 一念帰命の信心決定の心を、
ひとたびもの
入正定聚の益、 必至滅度のこゝろを、
0756つみふかく
慶喜金剛の信心のうへには、 知恩報徳のこゝろを、
のりをきく
(空白)
文明七年 乙未 八月下旬に、 尊老法印六十一歳にして、 越前吉崎の弊坊より
六十あまり をくりし年の つもりにや
弥陀の御法に あふぞうれしき
明暮は 信心ひとつに なぐさみて
仏の恩を ふかくおもへば
とぞ口ずさみ給ふ。
文明十一年正月二十九日、 それより上洛ましまして、 山城国宇治郡小野村山科郷の内野村西中路といへる処にぞ御居住ありし。 和泉の国に小坊の侍りしをこぼち取上、 かろりどのとして造。 新造の所、 廊以下、 如形作とゝのへて春秋をも打すぎ給ふ、 これ祖師上人の御恩徳のふかき事を思召たまふに雨山の如し。 これによりてその比の御詠作に云、
ふる年も 暮る月日の 今日までも
いづれか祖師の 恩ならぬ身や
とぞあそばされける。 その年朧月の末に又御歌、
六十あまり 送むかふる 齢にて
春にやあはん 冬の夕暮
かくうち詠ぜさせ給ひつゝ、 其年もくれぬ。
明くれば文明八年の正月朔日に、 厳君法印 六十二歳 と同年にながらへ給ふ事を、 出口草坊にて、
たらちをと おなじ年まで いける身の
0757あけ
つらねさせ給ふに、 今月十八日は正忌なれば、 その日までの存命あらんこそ、 同年の同月日まで命のながらへたるしるしとも思ふべきに、 人間不定のならひなれば、 十八日にあひなんと思ふまことにまよふ心なりとおもひ給て、 又、
おやのとしと おなじくいきば 何かせん
月日をねがふ 身ぞをろかなる
六月二日のことなりき。 文明九年十二月廿八日にあはんことを思給て
いつまでと をくる月日の たちゆけば
また春やへん 冬のゆふぐれ
玄康と同年事也。 祖父の年御歌あり。 可入歟如何。
あくれば文明十二年三月頃より、
小野山や おほやけつゞく 山科の
光くまなき 庭の月影
然ば尊老法印、 六十有余のゆへにや、 年中普請・造作に諸人苦労をいたみ思食ゆへもありけるにや、 昼はひめもるに御隙なく御苦労共ましませしか共、 夜もよもすがらいね入給ふ事もなし。 もと老眼はねぶりのはやくさむるならひを思食けるにや、 かの ¬朗詠¼ (意) の詩にいはく、
老眼早覚常残夜 病力先衰不待年 と云
こ0758の詩を御口ずさみ給ひしもことはりなり。
かくて*文明十二年正月に、 御影堂御建立あるべきために、 先三帖敷の小御堂をかり殿にぞ立給ける。 既旧年より河内国門人、 和州芳野材木等少々調達す。 さて*二月三日より御影堂建立のこと始ありけり。 それより連日作事番匠もひまなく、 諸国門人の志を以、 法力の不思議なれば、 ほどなく*三月廿八日には、 棟上の儀式をぞ侍ける。 番匠以下の好荘厳重なり。 又かりぶきの条、 同八月四日よりもよほして十月十四日にはひはだ葺しても出来せり。 *八月廿八日には、 先絵像の御影をかり仏壇にこしらへてうつしたてまつらる。 則その夜は、 尊老法院も御堂に通夜せさせ給ひける。 其夜事、 尊老の御詞云、 「誠よろこびは身上にあまれり、 祝著千万なり。 されば豫が年来京・田舎とへめぶりしうちにも心中に思様は、 哀存命の間にをひて此御影堂建立成就して、 心やすく安養の往生をとげばやと念願せし事の今夜に成就せりと、 うれしくもたふとくも思奉る間、 其夜の暁方までは終に目もあはざりき」 (御文章集成119意) とぞ遊しをかれける。 尤殊勝に今以感涙肝に銘ずる事也。
其後将軍家慈照院贈政国御台妙善院殿 従一位富子 常徳院贈政国母儀 御成ありて、 御影堂御覧ぜられき。 此条則尊老の御詞にも前代未聞なり、 かれこれ不思議たる事とぞあそばされける。
其後造作以下調しかば、 *霜月十八日には夜に入て、 大津に御座ありける根本の御影像をうつしたてまつられける。 此事大津三井寺の大衆等、 申結る事侍りき。 其故は大津に御影像御座しかば、 地下・寺中繁昌する事なるを、 今又山科へうつし申さるべき事、 無其謂としきりに大衆一同いきどほりけり。 しかれども山科も以て不遠同前の事成なんと、 種々申噯て、 夜に入て根本御影像をば被出申ける事也。 其後山科へ被移申てより以来、 諸国門人、 弥一同渇仰の心古にまされり。 各懇志をはこばずと云ことなかりき。 然ば0759其年の霜月より始て、 於山科本願寺の御影堂、 報恩講被行ましまして、 一七日勤行無退転事ぞかし。 尊老御満足有。 此時き其時の御詞云、 「つらつら当寺濫觴の由来を案ずるに、 豫身上にをひて本懐満足何事かこれにしかんや、 随て諸国門葉のともがらも、 おなじく法喜禅悦の思ひを含まざらんや。 然間今月廿八日は祖師上人の御正忌として、 不↠謂↢毎
依之文明十三年正月中より、 阿弥陀堂造営の儀を催され、 *同二月四日より事始させ給て、 則*四月廿八日には棟上をくはだて、 大工・番匠等の祝言事畢ぬ。 仍作事周備の上、 *六月八日には先仮仏壇にして本尊をすへたてまつられけり。 尊老満足弥事足ぬ。 さるほどに善従存
享禄四年八月廿四日の乱にことごとく焼失て、 いまに野原となる。
一 大津・山科人々体たらく、 文詞可書入事あり。
又山科の郷内に音羽と云在所あり。 古人の旧跡なども侍りし各所也しに、 ある縁ありて、 一宇の草坊建立ありて、 北隣坊を院主とせらるべき由の尊老法印御内証たりき。 然ども又北隣坊兼祐は、 本泉寺兼鎮僧都の依誘引て北国に下向し、 賀州の山内池城と云所卜↠居侍しかば、 彼音羽の草坊は重て無↢造営↡、 只自然の休息の所の様にてぞ侍りき。 然るに此所に夏炎天の砌、 水のなき事を尊老思食、 井をほらせ、 清水をもてあそばまほしくぞ思食ける。 仍あたりに河原者の井の水など掘出す者の侍りしを召寄、 音羽の坊の庭中に井をほるべき由をの給ける。 彼者ども則両三日ばかり井をほる。 はや程なく三丈を及てぞほりけれども、 水は且てなかりけり。 猶をも深くほるべき由の給ひてほらせらる。 河原者共申、 此所は水のすぢもたがい侍ける。 三丈余に及てほりたるに、 水の出べき
明応の始つかた、 不思議なりし事の侍りしは、 和泉国とつとりと所に、 桑畠の志記大夫といふ男の五十余歳のものありしが、 成仁の子に離れて、 歎の余に同国の
永正二年の春の比、 加賀国石川郡はりの木かくちと云所に入道の侍りしが、 志ふかくして道場を年来持たりを、 麁相なるもいかゞと思、 作なをして、 尊老上人御筆の六字の名号を安置して、 朝暮信仰申して懸奉しを、 仏0763壇をも能してかけんと思志あり。 柱立をして侍る夜の夢に、 尊老上人を見奉りける。 その夢想に云、 此道場を作直ん思ふ志神妙也、 然ば内の作事如此すべしとをしへさせ給ふと覚て夢覚了。 然ば不思議に思て、 如夢告作事を仕て周備す。 其後無程して、 有夜灯明まいらせんと思ひて仏前に参りけるに、 光明かく赫たり。 不思議に思て仏前の戸を開みるに、 光明はきえたりけるが、 光は名号に少のこりたるやうなるに、 夜明て後、 昨夜・今朝の光は奇特とぞ申て見ければ、 名号に光ぞ立て其まゝ付たり。 其後二、 三日ありてみれば、 阿弥陀仏の左の方に座像の本尊、 明らかに出くる光が阿弥陀仏の四字をさしとほして、 名号の右の方へ指出る。 則名号の光のごとし。 又南の字には別の光如常たてり。 无の一字に光なし。 それも又同年秋の比は、 无の字にも光は出きにけり。 其以後本泉寺へ送、 彼寺にて弥光の色をましける。 明る年、 実
大永七年十二月廿五日夜、 能登国鳳生郡に釶打村之内多羅村と云所、 一の道場の主たる入道侍りき。 道慶と云ものあり。 是も志ふかき事限なし。 乱後なりしかば、 常住の屋半かこひ道場とす。 或時の夢に、 是も又老上人を見奉。 大永七年十二月廿五日の夜の夢に、 此屋へ光臨かたじけなしと申処、 事の外にけむしとぞ被仰。 尤さこそ御座候覧。 柴・薪を常にたく山中為屋なれば仰尤と思て、 本尊以下巻奉にをきたるに、 其夜火事出来て、 屋悉く焼也。 折節入道は隣屋へ行て侍しかば、 まき奉本尊・名号取出さんとするも不成して、 悉焼たりけり。 入道歎かなしむ所に、 焼はてゝ跡を見、 箱に入0764たる本尊・名号やけずして残、 其内に大幅の名号一ぷく別に置たるが、 ことごとくやけにけり。 かなしみてその灰計を取て、 箱に入置たりしに、 其夜悉小仏となる。 かねは唐金のごとし、 五百余になる。 大なるは二十体ばかり也。 たかさ七、 八分9分ばかりなるも侍り。 其外は二分三分一分計なるもあり。 皆御頭の形あり。 悉前後の形座侍り。 不思議の事なり。 于今所々へ安置すといへども、 いまに小仏悉まします也。
一 蓮
一
一 蓮
一 蓮
又或時蓮
一0766 弘治の比、 河内国玉くし里に、 同上人御筆の名号侍り。 いやしきものゝ栖なれば、 屋もをろそかにまばらなるに、 此名号時々に光明あり。 屋のひまより外へ光さして、 樗木の侍る梢までさしたり。 一人二人の見事にあらず、 諸人これら拝見したりし事也。
一 越中
0767御建立寺々事 次第不同
一 大和国芳野郡官上府郷飯貝村に一寺御建立あり。 これ寛正年中、 此所御覧ありし所也。 其後に蓮
一 同国同郡内五領郷内秋野河里下市の願行寺も、 同年明応第四春御建立、 是無御下向所也。 雖然蓮
一 摂津国東成郡生玉庄内大坂御坊は、 *明応第五秋九月廿四日に御覧始られて、 虎狼のすみか也。 家の一もなく、 畠ばかりなりし所也。 同廿八日くわ始らるべき御覚悟なれど、 日がらあしければ、 世間の人の外聞を思食て、 廿九日にくわ始也。 同廿九日番匠も初て、 *十月八日僧坊も立けり。 其年報恩講十月に三ヶ日あり。 よりして蓮
御建立の 「御文」 (四帖一五) にも、 「この在所に居住せしむる根元は、 あながちに一生涯を心安くすごし、 栄花栄耀をこのみ、 又花鳥風月にも心をよせず、 あはれ無上菩提のためには信心決の行者も繁昌せしめ、 念仏をも申さんともがらも出来せしむるやうにもあれかしと、 思一念の志をはこぶ計也」 とのたまへり。
一0768 近松は江州志賀郡大津三井寺の麓、 南別所近松の里也。 文明何比やらんの建立也。 一度は本願寺と被号し所也。 願成就院光助居住也。 其後山科へうつり給ける也。 しばし光助法印の居所として侍りし。 法印円寂の後は、 又兼誉法印居住せられける。 其後享禄四年の錯乱の八月廿四日、 野村の御坊も焼失したりしに、 近松顕証寺も炎上して、 いまに虎らうのすみかとなれり。
一 あまふの安芸の法眼蓮
一 越中国五ヶ山の内赤尾の浄徳いふ者、 をいに弥七郎と云へるもの侍り。 廿余歳の比、 延徳の比より毎年上洛して山科御坊へ参り、 聴聞して無二に法儀に心を懸け侍りしが、 出家して道宗といへる、 奇特の信心の行者にてぞ侍りし。
一 越中国利波郡斐せみ郷内井波村瑞泉寺は、 綽如上人御建立、 昔最初には山の上に立、 後に今の地也。 後小松院 勅願寺也。 北陸道七ヶ国武士に被仰付、 武家鹿苑院太相国 義満公 請 勅定、 武士の方譜辛せしめける被仰付事、 子細有多重、 明徳元年建立、 開山者綽
一 二又村坊 賀州河北郡 者如乗建立、 文明元歟 年中也。 号本泉寺と者、 瑞泉を以て為本号也、 仍如乗・蓮乗者瑞泉寺・本泉寺兼帯也。 蓮悟之代には万瑞泉寺をば被加下知、 作事等為計有之。
一0769 同国若松本泉寺者、 長享元年蓮悟開基、 彼等は二又村在所あしきにより、 谷新保と云所へ蓮乗の被引、 又平尾と云所に引、 蓮乗の十ヶ年ばかり居住、 其後若松に居する事は蓮悟也。 平尾・谷新保は蓮乗建立也、 但坊跡計也、 今は坊は無之所也。 只二又の坊は本泉寺也。 これ海道ちかくして所あしきにより、 引て若松に居住としるべし。 若松本泉寺は、 享禄四年の一乱七月晦日回録し、 いまに野原となる。 二又は坊如↠形残りけり。
賀州石川郡河内庄釼村之内上院 下院と云は下也 清沢の坊は、 本泉寺蓮悟開基也。 永正五年秋八月比より、 近所の輩申すゝむるにより建立して、 永正十年五月朔日より実悟居住す。 石川郡一円に寄力として住す。 其後河原寺・西縁寺、 六ヶ寺為与力、 米当寺・十人衆寺の両寺をば、 若松本泉寺へ付て侍りし也。 清沢の坊は享禄の乱に四年七月廿三日炎上す。 いまは野となる所也。 この清沢と云名は白山権現の付給ける名也といへり。 白山権現と云はいざなみの尊也。 大唐にしては--国の王たり、 日本へ移り仏法守護のため、 石動権現と夫婦として石動へうつり給て、 後に白山へうつり給時、 御手水を乞給とき、 此釼村の上院の水をまいらし、 世にあつぱれと清きさはかなと被仰しより、 此所を清沢と云也と云伝たる所也。 後ろの谷光明谷と云。 其時光明ありし元源あり。 依之光明山と山号と名付之所也。