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そもそも*文明ぶんめいだい十一じふゐちてんなつのころより寝殿しんでんやうやくたてをさまりて、 きう三伏さんぷくなつながしといへども、 うちくれ紅菊こうきくらんあきみじかきあひだ、 かみづきちうじゆんすえつかたにもなりはんべりぬれば、 今年ことしもはやいくほどあるべからずとおもひくらすまゝ、 いかにもして愚老存命のうちに影堂えいだう建立こんりふじやうじゆせしめんとおもひくわだつるところに、 そのこゝろざしあることをもんちうしりて、 すでに南方なむぱう河内かわちのくにもんちうよりしうよしおくへそまいれをして、 やがてじふぐわちちうじゆんごろかとよ、 まづはしらじふほんそのほか料取れうとり材木ざいもくをのぼせけり。 かくて年内ねんないもうちくれぬ。 しかるあひだとしもあくれば、 はや*文明十二年のしゆんになりにけり。 さるほどに正月七日なぬかもすぎ、 十六日にもなりはんべりぬれば、 まづ愚老はかりごとに、 かの影堂ゑいだうをつくりたてまつらんがためのこゝろみに、 所詮しよせんむねづくりに三帖さむでうしきだうをつくりはんべりぬ。 さすればはや正月も下旬ごろにすぎゆくほどになりければ、 そののちやがて*二月三日みかよりことはじめをして、 影堂ゑいだう造作ざうさくをくわだてにけり0398。 そのまゝひた造作にてすぎゆくほどに、 当所の近内きんない近郷きんがう雑木ざふぼくかひあつめよせ、 にち十日じふにちと造作せしあひだ、 諸門しよもん法力ほふりきをもてまことに不思議に、 *三月廿八日にはむねあげのいわゐをしてばんしやうがたのかうしやう美々びびかりき。 されどもその時分諸国の門徒中もたいりやくそのいわゐにあひはんべりぬ。 まことに不可思議の宿縁あさからぬことどもなり。 そののちむねあげ已後はなげし・しきなんどは大概たいがいしうよし材木ざいもくをあつらへ、 そのほかてんじやう立物たてものなんどはひとびとのこゝろざしにまかせて請取うけとりこれを沙汰さたす。 またやねゐのだう板敷いたじきのたぐひは大概たいがいおほよりこれをこしらへてきたれり。 またほうえんなんどは藤森ふじもりみやにありけるすぎ買得ばいとくす。 つぎにやねをばまづたけおそゐにして杉槫すぎくれをもてかりぶきにして、 そののちひはだぶきをよびよせて、 そしきをとらせそのいるべきそくをあつらへそろへて、 すでに八月よちよりはじめてひはだぶきにふかせけるあひだ、 十月四日にはしゆつらいせり。 さるほどに造作ざうさくぐわちぐわちよりはちぐわちちうまではながきあひだ、 ばんしやう手間てまもさのみいらずしてほどなく出来せり。 しかるあひだ*八月廿八日にはまづざうゑいをかり仏壇ぶちだんにこしらへてうつしたてまつりけり。 すなはちそのは愚老もおなじくこもりをはりぬ。 まことによろこびはしんじやうにあまれりとてしうちやく千万せんばんなり。 されば年来ねんらいきやう田舎ゐなかとへめぐりしうちにも、 心中におもふやうは、 あはれ存命ぞんめいのあひだにをいて、 この影堂ゑいだう建立こんりふじやうじゆして、 こゝろやすく安養の往生をとげばやとねむぐわんせしことのこむに成就せりと、 うれしくもたふとくもおもひたてまつるあひだ、 そののあかつきがたまではつゐにもあはざりき。 またそのうちにもおもひいだすことは、 さんぬるころだいさまおんなりありて、 この影堂ゑいだうらんありしことをおもひつゞくれば、 前代ぜんだいもんのことゝいひながら、 たゞごとゝもおもはず、 かたじけなくもおもひ0399はんべりき。

かくて造作はたいりやくしゆ満足まんぞくのこゝちにて、 いま橋隠はしがくし・つま金物かなものなんども出来しければ、 白壁しらかべをぬりぎやうかうをなをしなんどするほどに、 霜月しもつきの報恩講もちかづきければ、 すでに*霜月十八日にはにいりておほ御座ござあるほん影像ゑいざうをうつしたてまつりぬ。 しかるあひだ報恩講もはじまりて、 諸国門徒のひとびと同心どうしむ渇仰かちがうのおもひあさからずして、 面々にこむをはこび、 まことに一七ヶ日の勤行その退転なし。 そのうちにをひて愚老このあひだの窮崛きうくち懇労こむらうをおもひいだして、 この御影堂の造立ざうりふことゆへなく成就せししうちやくのあまり、 かつは諸国の面々の懇心こむしむをよろこばしめ、 かつは他力の信心も決定してたうしやう来果らいくわをえしめんがために、 この報恩ほうをんかう七日しちにちちうによそへて愚意ぐいしゆをのべていはく。

そもそも当所たうしよ宇治うぢこほり山科やましながう小野をのしやうのうちむら西にし中路なかうぢといへるところなり。 しかればこの在所にをいていかなる宿縁ありてか、 不思議に文明第十の春のころよりかりそめながら居住し、 すでにゐちこうぎやうし、 そのまゝ相続さうぞくし、 おなじきつぎのとし文明十二歳 かのへ 二月はじめのころ、 御影堂かたのごとくはしらだてばかりとこゝろざすところに、 なにとなく仏法不思議の因縁によりけるか、 諸国門徒あまねく懇志をはこばしむるあひだ、 ほどなく造立成就してすでに十一月十八日には、 年来ねんらい御座ござありし根本こんぽん影像ゑいざうをうつしたてまつりぬ。 つらつらたうらんしやうらいを案ずるに、 身上にをいてほんぐわい満足まんぞくなにごとかこれにしかんや。 したがひて諸国門葉のともがらもおなじくほふ禅悦ぜんえちのおもひをふくまざらんや。 しかるあひだ今月廿八日は祖師聖人の御0400正忌として、 毎年をいはずしんをいはず、 道俗男女門下のたぐひこの御正忌をもて本と存ずること、 いまに退転なし。 これによりて当流にそのをかけ、 ひとたび弥陀如来の他力の信心を獲得せしめん行者は、 今月報恩講の御正忌にをいてそのこゝろをかけざらんともがらは、 まことに木石ぼくせきのたぐひたるべきもの歟。 しかるあひだかの聖人の御恩徳のふかきこと、 めい八万はちまんのいたゞき、 蒼瞑さうめい三千さむぜんそこにもこえすぎたり、 報ぜずんばあるべからず謝せずんばあるべからざるもの歟。 このゆへに毎年のれいとして、 わうよりこの一七ヶ日のあひだかたのごとくゐち同行の沙汰として、 報恩謝徳のために无二むに丹誠たんせいをこらし勤行の懇志をぬきいづるところなり。 しかるにこの七ヶ日報恩講のみぎりにあひあたりて、 門下のたぐひ来集することいまにその退転なし。 これについて不信心の行者にをいては報恩謝徳をいたすといふとも、 そのこゝろざしかつてもてつうずべからず。 まことに 「みずいりてあかおちず」 といへるそのたぐひたるべきもの歟。 ふしておもんみれば、 それ聖人の御入滅は年忌とをくへだゝりて、 すでに二百余歳の星霜ををくるといへども、 御遺訓ますますさかりにして、 いまに教行信証の名義耳のそこにとゞまりて人口じんこうにのこれり。 たふとむべし信ずべきはたゞこの一事なり。 しかるにちかごろ当流門下と号するやからのなかにをいて、 聖人の一流をけがし、 あまさえ自義をこちちやうし、 当流に沙汰せざる秘事ひじがましきくせ名言をつかひ、 ひとのなんをいひてこれを沙汰し、 わが身のびうをかくすたぐひのみ在々所々にこれおほし。 言語道断の次第なり。 たゞひとなみの仁義ばかりの仏法しりがほの風情にて、 名聞のこゝろをはなれず、 ひとまねに報恩謝徳のこゝろざしをいたすといふとも、 その所詮あるべからざるものなり。 しかるあひだ未決定の行者にをいてはこの一七ヶ日の報恩講中に、 御影前0401にありて改悔のこゝろをおこしてあひたがひに信不信の次第を懺悔せば、 まことに報恩謝徳の本意に達すべきものなり。 されば聖人のおほせには、 たゞ平生にをいて一念帰命の真実信心を獲得せしめたる身のうへにをひてこそ、 仏恩報尽の道理はこれあるべしとのたまへり。 これによりてこの一七ヶ日の報恩講のみぎりにをひて、 未安心の行者はすみやかに真実信心を決定せしめて、 一向専修の念仏行者とならんひとはまことにもて今月聖人の御正忌の報恩謝徳の肝要たるべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

しかるあひだこの一七ヶ日報恩講中にをひて、 近国近郷の門葉のともがら群集くんじふしていく千万せんばんといふかずなし。 これしかしながら宿善のもよほすいはれ歟ともおぼへはんべりしなかにも、 この一乱ゐちらんちうにをひて御影堂いまだたゝざるところに、 不思議にこく当来たうらいして当年中にをひて建立成就せしむる条、 一宗の大慶たいけい、 門徒の面々えちのまゆをひらく歟のあひだ、 来集の門下の心中もげにもとおもひしられたり。 しかれば一七日の勤行のあひだ、 ことゆへなく結願成就しをはりぬ。 さればいつの御年忌よりもことあたらしく殊勝にこそおぼへはんべりしなり。 さるほどに報恩講已後は諸門下中もひまのあきたる心中ともとみえたり。 しかれば愚老もよろづにこゝろやすく本望をとげて、 満足なにごとかこれにしかんや。 しかるあひだ兎角すればいよいよ寒天もいとゞはげしさまさりければ、 老体の身なれば連日れんじち造作ざうさくちう窮崛きうくちにをかされて、 手足しゆそくがふならざるあひだ、 へんにありてつくづくおもふやうは、 さてもすぎにししゆんしうをもなにとくらしけるぞと、 老のねぶりのあひ0402だにもやゝもすればおもひいでにけり。

かくてすぎゆくほどに、 今年ことしもいふもいくほどもなく、 十二月中旬ごろになりぬれば、 年内ねんないもはやねんがたになりぬべきあひだ、 つらつら愚老が心中におもふやう、 当年造作中の辛労をいたし、 すでにはや御影堂建立すといへども、 なをこともつきせず。 あはれとてものことならば、 豫がしやうぞんのうちに阿弥陀堂一宇をせめてかたのごとく柱立ばかりなりとも建立せばやとおもふなり。 そのゆへはいかんといふに、 そもそも当寺のことはかたじけなくも亀山かめやまゐん伏見ふしみのゐんりやうだいよりちよくぐわんじよせんをかうぶりて他にことなる在所なり。 しかるあひだ本堂とてそのかたちなければ所詮なし。 このゆへにしきりに建立のこゝろざしふかくもよほすところなり。 よてまづしう吉野よしのゝこほりにひとをくだし、 おほはしらを廿余本あつらへをきはんべりぬ。 さるほどにとしもあけぬれば文明十三年正月なか十日とふかになりぬれば、 ぜんあつらへをきしそのはしらをすでにになひもちきたれるあひだ、 まづ寝殿しんでん大門おほもんだうさひはいにようせしむるほどに、 これを*当月廿二日はしらだてをさせてかりぶきやねをこしらへて、 しかふしてのち*ぐわちよちより阿弥陀堂のことはじめをさせて、 すなはち柱どもをつくらせ、 そのまゝうちつゞき林木りむぼく料簡れうけんしてさくするほどに、 なにとなく法力の不思議によりて、 *四月廿八日にはすでにむねあげをくはだて、 だいばんしやうがた祝言しうげんことをはりぬ。 かくてをへるまゝにしゆんのあひだ日ながくして作事するあひだ、 ほどなく大概たいがいしゆちらいせり。

しかるあひだ*ろくぐわち八日やうかにはまづかり仏壇ぶちだんをこしらへて、 本尊をすえたてまつりけり。 いまははや日ごろの愚老本望ほんまうたちまちに満足まんぞくす。 さるほどに前住廿五年のえんにあひあたるあひだ、 このいとなみなさんとおもふなり。 これによりて一七日念仏ねむぶちごむぎやうをはじめければ、 遠国おんごく近国きんごく門徒中面々あゆみをはこびこゝろざしをいたし0403群集くんじゆし、 念仏の助音にこゝろをかけ、 あるひは一日あるひは二日なんど逗留しはんべりき。 かくてことゆへなく結願成就しをはりぬ。 しかるあひだ愚老本望かたがたをもてしゆ満足まんぞくなにごとかこれにしかんや。 つらつらことの次第を案ずるに、 当年前住廿五年にあひあたりて阿弥陀堂かたのごとく建立せしむること、 真実真実、 報恩謝徳の懇念こむねむみやうりよにあひかなふかともおもひ、 また愚老が連年れんねんのこゝろざしもたちまちにづうしけるゆへかともおもひあへり。 かたがたもて仏法のりき、 一身の宿縁のいたり不可思議なり。 これしかしながらまことにもてぶちぐわんなん強縁がうえん希有けうさいしよう直道ぢきだうにまふあへる徳なり。

文明十三年