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▼そもそも*文明第十一の天夏のころより寝殿やうやく立をさまりて、 九夏三伏の夏は日ながしといへども、 うちくれ紅菊芝蘭の秋は日みじかきあひだ、 神無月仲旬すえつかたにもなりはんべりぬれば、 今年もはやいくほどあるべからずとおもひくらすまゝ、 いかにもして愚老存命のうちに御影堂建立成就せしめんとおもひくわだつるところに、 そのこゝろざしあることを門下中しりて、 すでに南方河内国◗門徒中より和州吉野の奥へそまいれをして、 やがて十二月中旬ごろかとよ、 まづ柱五十余本そのほか料取の材木をのぼせけり。 かくて年内もうちくれぬ。 しかるあひだ年もあくれば、 はや*文明十二年の初春になりにけり。 さるほどに正月七日もすぎ、 十六日にもなりはんべりぬれば、 まづ愚老はかりごとに、 かの御影堂をつくりたてまつらんがためのこゝろみに、 所詮小棟づくりに三帖敷の小御堂をつくりはんべりぬ。 さすればはや正月も下旬ごろにすぎゆくほどになりければ、 そののちやがて*二月三日よりことはじめをして、 御影堂の造作をくわだてにけり0398。 そのまゝひた造作にてすぎゆくほどに、 当所の近内近郷の雑木を買あつめよせ、 五日十日と造作せしあひだ、 諸門下の法力をもてまことに不思議に、 *三月廿八日には棟あげのいわゐをして番匠がたの好粧美々敷かりき。 されどもその時分諸国の門徒中も大略そのいわゐにあひはんべりぬ。 まことに不可思議の宿縁あさからぬことどもなり。 そののち棟あげ已後はなげし・敷居なんどは大概和州吉野の材木をあつらへ、 そのほか天井・立物なんどはひとびとのこゝろざしにまかせて請取これを沙汰す。 またやねゐの道具・板敷のたぐひは大概大津よりこれをこしらへてきたれり。 また四方の縁なんどは藤森の宮にありける杉の木を買得す。 つぎにやねをばまづ竹おそゐにして杉槫をもてかり葺にして、 そののちひはだ葺をよびよせて、 そしきをとらせそのいるべき具足をあつらへそろへて、 すでに八月四日よりはじめてひはだ葺にふかせけるあひだ、 十月四日には出来せり。 さるほどに造作は四月五月より八月中までは日ながきあひだ、 番匠手間もさのみいらずしてほどなく出来せり。 しかるあひだ*八月廿八日にはまづ絵像の御影をかり仏壇にこしらへてうつしたてまつりけり。 すなはちその夜は愚老もおなじくこもりをはりぬ。 まことによろこびは身上にあまれりとて祝著千万なり。 されば豫が年来京・田舎とへめぐりしうちにも、 心中におもふやうは、 あはれ存命のあひだにをいて、 この御影堂を建立成就して、 こゝろやすく安養の往生をとげばやと念願せしことの今夜に成就せりと、 うれしくもたふとくもおもひたてまつるあひだ、 その夜のあかつき方まではつゐに目もあはざりき。 またそのうちにもおもひいだすことは、 さんぬるころ御臺様御なりありて、 この御影堂御覧ありしことをおもひつゞくれば、 前代未聞のことゝいひながら、 たゞごとゝもおもはず、 かたじけなくもおもひ0399はんべりき。
かくて造作は大略周備満足のこゝちにて、 いま橋隠し・妻戸の金物なんども出来しければ、 白壁をぬり地形の高下をなをしなんどするほどに、 霜月の報恩講もちかづきければ、 すでに*霜月十八日には夜にいりて大津に御座ある本の御影像をうつしたてまつりぬ。 しかるあひだ報恩講もはじまりて、 諸国門徒のひとびと同心に渇仰のおもひあさからずして、 面々に懇志をはこび、 まことに一七ヶ日の勤行その退転なし。 そのうちにをひて愚老このあひだの窮崛懇労をおもひいだして、 この御影堂の造立事ゆへなく成就せし祝著のあまり、 かつは諸国の面々の懇心をよろこばしめ、 かつは他力の信心も決定して当生の来果をえしめんがために、 この報恩講七日中によそへて愚意の旨趣をのべていはく。
▲そもそも当所は宇治◗郡山科◗郷小野◗庄のうち野村西中路といへるところなり。 しかればこの在所にをいていかなる宿縁ありてか、 不思議に文明第十の春のころよりかりそめながら居住し、 すでに一宇を興行し、 そのまゝ相続し、 おなじきつぎの年文明十二歳 庚子 二月はじめのころ、 御影堂かたのごとく柱立ばかりとこゝろざすところに、 なにとなく仏法不思議の因縁によりけるか、 諸国門徒あまねく懇志をはこばしむるあひだ、 ほどなく造立成就してすでに十一月十八日には、 年来御座ありし根本の御影像をうつしたてまつりぬ。 つらつら当寺濫觴の由来を案ずるに、 豫身上にをいて本懐満足なにごとかこれにしかんや。 したがひて諸国門葉のともがらもおなじく法喜禅悦のおもひをふくまざらんや。 しかるあひだ今月廿八日は祖師聖人の御0400正忌として、 毎年をいはず親疎をいはず、 道俗男女門下のたぐひこの御正忌をもて本と存ずること、 いまに退転なし。 これによりて当流にその名をかけ、 ひとたび弥陀如来の他力の信心を獲得せしめん行者は、 今月報恩講の御正忌にをいてそのこゝろをかけざらんともがらは、 まことに木石のたぐひたるべきもの歟。 しかるあひだかの聖人の御恩徳のふかきこと、 迷盧八万のいたゞき、 蒼瞑三千の底にもこえすぎたり、 報ぜずんばあるべからず謝せずんばあるべからざるもの歟。 このゆへに毎年の例時として、 往古よりこの一七ヶ日のあひだかたのごとく一味同行の沙汰として、 報恩謝徳のために无二の丹誠をこらし勤行の懇志をぬきいづるところなり。 しかるにこの七ヶ日報恩講のみぎりにあひあたりて、 門下のたぐひ来集することいまにその退転なし。 これについて不信心の行者にをいては報恩謝徳をいたすといふとも、 そのこゝろざしかつてもて通ずべからず。 まことに 「水いりてあかおちず」 といへるそのたぐひたるべきもの歟。 ふしておもんみれば、 それ聖人の御入滅は年忌とをくへだゝりて、 すでに二百余歳の星霜ををくるといへども、 御遺訓ますますさかりにして、 いまに教行信証の名義耳のそこにとゞまりて人口にのこれり。 たふとむべし信ずべきはたゞこの一事なり。 しかるにちかごろ当流門下と号するやからのなかにをいて、 聖人の一流をけがし、 あまさえ自義を骨張し、 当流に沙汰せざる秘事がましきくせ名言をつかひ、 ひとの難破をいひてこれを沙汰し、 わが身の批謬をかくすたぐひのみ在々所々にこれおほし。 言語道断の次第なり。 たゞひとなみの仁義ばかりの仏法しりがほの風情にて、 名聞のこゝろをはなれず、 ひとまねに報恩謝徳のこゝろざしをいたすといふとも、 その所詮あるべからざるものなり。 しかるあひだ未決定の行者にをいてはこの一七ヶ日の報恩講中に、 御影前0401にありて改悔のこゝろをおこしてあひたがひに信不信の次第を懺悔せば、 まことに報恩謝徳の本意に達すべきものなり。 されば聖人のおほせには、 たゞ平生にをいて一念帰命の真実信心を獲得せしめたる身のうへにをひてこそ、 仏恩報尽の道理はこれあるべしとのたまへり。 これによりてこの一七ヶ日の報恩講のみぎりにをひて、 未安心の行者はすみやかに真実信心を決定せしめて、 一向専修の念仏行者とならんひとはまことにもて今月聖人の御正忌の報恩謝徳の肝要たるべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。
しかるあひだこの一七ヶ日報恩講中にをひて、 近国近郷の門葉のともがら群集していく千万といふかずなし。 これしかしながら宿善のもよほすいはれ歟ともおぼへはんべりしなかにも、 この一乱中にをひて御影堂いまだたゝざるところに、 不思議に時剋当来して当年中にをひて建立成就せしむる条、 一宗の大慶、 門徒の面々喜悦のまゆをひらく歟のあひだ、 来集の門下の心中もげにもとおもひしられたり。 しかれば一七日の勤行のあひだ、 ことゆへなく結願成就しをはりぬ。 さればいつの御年忌よりもことあたらしく殊勝にこそおぼへはんべりしなり。 さるほどに報恩講已後は諸門下中もひまのあきたる心中ともとみえたり。 しかれば愚老もよろづにこゝろやすく本望をとげて、 満足なにごとかこれにしかんや。 しかるあひだ兎角すればいよいよ寒天もいとゞはげしさまさりければ、 老体の身なれば連日の造作中の窮崛にをかされて、 手足も合期ならざるあひだ、 炉辺にありてつくづく思様は、 さてもすぎにし春夏秋をもなにとくらしけるぞと、 老のねぶりのあひ0402だにもやゝもすればおもひいでにけり。
かくてすぎゆくほどに、 今年もいふもいくほどもなく、 十二月中旬ごろになりぬれば、 年内もはや年暮がたになりぬべきあひだ、 つらつら愚老が心中におもふやう、 当年造作中の辛労をいたし、 すでにはや御影堂建立すといへども、 なをこともつきせず。 あはれとてものことならば、 豫が生存のうちに阿弥陀堂一宇をせめてかたのごとく柱立ばかりなりとも建立せばやとおもふなり。 そのゆへはいかんといふに、 そもそも当寺のことはかたじけなくも亀山◗院・伏見院両御代より勅願所の宣をかうぶりて他にことなる在所なり。 しかるあひだ本堂とてそのかたちなければ所詮なし。 このゆへにしきりに建立のこゝろざしふかくもよほすところなり。 よてまづ和州吉野郡にひとをくだし、 大柱を廿余本あつらへをきはんべりぬ。 さるほどに年もあけぬれば文明十三年正月中の十日になりぬれば、 已前あつらへをきしその柱をすでにになひもちきたれるあひだ、 まづ寝殿の大門の道具さひはいに用意せしむるほどに、 これを*当月廿二日に柱立をさせてかりぶきやねをこしらへて、 しかふしてのち*二月四日より阿弥陀堂のことはじめをさせて、 すなはち柱どもをつくらせ、 そのまゝうちつゞき林木を料簡して作事するほどに、 なにとなく法力の不思議によりて、 *四月廿八日にはすでに棟あげをくはだて、 大工番匠方の祝言ことをはりぬ。 かくて日をへるまゝに春夏のあひだ日ながくして作事するあひだ、 ほどなく大概に出来せり。
しかるあひだ*六月八日にはまづかり仏壇をこしらへて、 本尊をすえたてまつりけり。 いまははや日ごろの愚老本望たちまちに満足す。 さるほどに前住廿五年の遠忌にあひあたるあひだ、 このいとなみなさんとおもふなり。 これによりて一七日念仏勤行をはじめければ、 遠国・近国門徒中面々あゆみをはこびこゝろざしをいたし0403て群集し、 念仏の助音にこゝろをかけ、 あるひは一日あるひは二日なんど逗留しはんべりき。 かくてことゆへなく結願成就しをはりぬ。 しかるあひだ愚老本望かたがたをもて周備満足なにごとかこれにしかんや。 つらつらことの次第を案ずるに、 当年前住廿五年にあひあたりて阿弥陀堂かたのごとく建立せしむること、 真実真実、 報恩謝徳の懇念も冥慮にあひかなふかともおもひ、 また愚老が連年のこゝろざしもたちまちに融通しけるゆへかともおもひあへり。 かたがたもて仏法の威力、 一身の宿縁のいたり不可思議なり。 これしかしながらまことにもて仏願難思の強縁、 希有最勝の直道にまふあへる徳なり。
文明十三年