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夫当所者宇治郡山科郷小野庄野村西中路也。 然者於此在所有何なる宿縁不思儀、 *文明十一年之春比一宇坊舎を0396たて、 其後あくる同き*文明十二歳二月初比より御影堂を如形柱立ばかりと志すところに、 誠に仏法不思議之因縁によりけるか、 諸国門徒中の懇志をはこばしむる間、 無程造立して既に*当月十八日には、 根本之御影像を奉移畢。 つらつら当寺濫觴之由来を案ずるに、 無事故早速に令造立之条、 豫於身上本懐満足何事如之哉。 同諸国門下之輩も定而法喜悦之思不深之哉。 而今月廿八日は祖師聖人之御正忌として、 毎年之例時、 信不信をいはず、 道俗男女門下之類此御正忌をもて本と存ずる事、 于今無其退転。 依之当流に其名字をかけ、 一たび弥陀如来之他力信心を獲得せしめん行者は、 今月之報恩講之御正忌に於て、 其志をはこばざらん輩は、 可為木石之類者歟。 然間彼聖人之御恩徳之深事、 迷盧八万之頂、 蒼瞑三千之底にも越過せり、 不可報不可謝。 此故毎年同往古此一七ヶ日之間如形一味同行之沙汰として、 為報恩謝徳無二之丹誠をこらし勤行之懇志をぬきいづる処也。 然に此七ヶ日報恩講之砌に当て、 門葉之類来集する事於于今無退転。 このゆへに不信心之行者に於ては報恩謝徳をいたすと云ども、 其志し且以徒事也。 誠に 「水入て垢おちず」 といへる可為其類者歟。 伏惟ば、 夫聖人之御入滅は年忌遠隔て、 すでに二百余歳之星霜を送といへども、 御遺訓ますますさかりにして、 於于今教行信証之名義耳の底に止て人口にのこれり。 可貴べきは信唯此一事也。 而間近代当流門下と号する族之中に於て、 聖人之一流をけがし、 あまさえ自義を骨張し、 当流になき秘事がましき曲名言をつかひ、 人之難破ばかり沙汰せしむるたぐひ在々所々に多之。 言語道断之次第也。 たゞ人並の仁義ばかりの仏法しりがほの風情にて、 名聞之心をはなれず、 人まねに報恩謝徳の為なんど号する輩は涜事也。 如此類は更以報恩謝徳之志をいたすといふとも、 不可有其所詮者也。 然則不信心之行者に於ては此一七ヶ日之報恩講中に、 御影前0397にありて改悔の意をおこして相互に信不信之次第を懺悔せば、 誠以報恩謝徳之本意に達すべし。 されば聖人の仰には、 たゞ平生に於て一念帰命之真実信心を獲得せしめたる身の上に於てこそ、 仏恩報尽の道理は可有之と仰せられたり。 依之此一七ヶ日報恩講之砌に於て、 未安心之行者はすみやかに真実信を決定せしめて、 一向専修の行者とならん人は誠以今月聖人之御正忌之可為報恩謝徳者也。 穴賢、 穴賢。

文明十二年 庚子 十一月廿一日