○巻上
1043◎本0075願寺聖人親鸞伝絵 上
一 出家学道
【1】 第一段
◗◎^それ聖人 (*親鸞) の▼俗姓は藤原氏、 *天児屋根尊二十一世の苗裔、 大織冠 *鎌子内大臣 の玄孫、 近衛大将右大臣 贈左大臣 従一位*内麿公 後長岡大臣と号し、 あるいは閑院大臣と号す。 贈正一位太政大臣*房前公孫、 大納言式部卿*真楯息なり 六代の後胤、 弼宰相*有国卿*五代の孫、 *皇太后宮大進*有範の子なり也 。
^しかあれば朝廷に仕へて*霜雪をも戴き、 *射0076山にわし趨 りて栄華をもひら発 くべかりし人なれども、 興法の因うちにきざ萌 し、 *利生の縁ほかに催ししによりて、 *九歳の春のころ、 阿伯従三位*範綱卿 時に従四位上前若狭守、 *後白河上皇の近臣なり、 上人 (親鸞) の養父 前大僧正 *慈円慈鎮和尚これなり、 *法性寺殿御息、 *月輪殿長兄 の貴坊へあひ具したてまつりて、 鬢髪を剃除したまひき。 *範宴少納言公と号す。
^それよりこ自爾以来のかた、 しばしば*南岳・天台の玄風を訪ひて、 ひろく*三観仏乗の理を達し、 とこしなへに*楞厳横川の余流を湛1044へて、 ふかく*四教円融の義にあきら明 かなり。
二 吉水入室
【2】 第二段
^**建仁第一三 の暦春のころ 上人 (親鸞) 二十九歳 隠遁の志にひかれて、 *源空聖人の*吉水の禅房にたづ尋 ねまゐ参 りたまひき。
^これ是 すなは即 ち世くだり、 人つたなくして、 難行の小路迷ひやすきによりて、 易行の大道におもむかん0077となり。 真宗紹隆の大祖聖人 (源空)、 ことに宗の淵源を尽し、 教の理致をきはめて、 これをのべたま給 ふに、 たちどころに他力摂生の旨趣を受得し、 あく飽 まで*凡夫直入の真心を決定しましましけり。
三 六角夢想
【3】 第三段
^*建仁三年 *癸亥 四月五日の夜*寅の時、 上人 (親鸞) 夢想の告げましましき。
^*かの彼 ¬記¼ にいはく、 ^▲*六角堂の*救世菩薩、 顔容端厳の聖僧の形を示現して、 *白衲の袈裟を着服せしめ、 広大の白蓮華に端坐して、 善信 (親鸞) に告命してのたまはく、 「▲*行者宿報設女犯 我成玉女身被犯 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」 といへ文 り。 救世菩薩、 善0078信にのたまはく、 「これ此 はこれ是 、 わが我 誓願なり也 。 善信この誓願の旨趣を宣説して、 一切群生にきかしむべし」 と云1045々。
^そのとき善信夢のうちにありながら、 御堂の正面にして東方をみれば、 *峨々たる岳山あり。 その高山に数千万億の有情群集せりとみゆ。 そのとき告命のごとく、 この文のこころを、 かの山にあつまれる有情に対して説ききかしめをはるとおぼえて、 夢さめをはりぬと云々。
^つらつ倩 らこの此 記録を披きてかの彼 夢想を案ずるに、 ひとへに真宗繁昌の奇瑞、 念仏弘興の表示なり也 。 しかあ然者れば聖人 (親鸞)、 後の時仰せられてのたまはく、 ^「仏教むかし西天 (印度) よりおこ興 りて、 経論いま東土 (日本) に伝はる。 これ是 ひと偏 へに上宮太子 (*聖徳太子) の広徳、 山よりもたかく海よりもふかし。 わが吾 朝欽明天皇の*御宇に、 これをわたされしによりて、 すなはち浄土の正依経論等この此 とき時 に来至す。 儲君 (聖徳太子) もし厚恩を施したまはずは、 凡愚いかでか0079弘誓にあふことを得ん。 救世菩薩はすなはち儲君の本地なれば、 *垂迹興法の願をあらはさんがために本地の尊容をしめすところなり。
^そもそ抑 も、 ▼また又 大師聖人 源空 もし流刑に処せられたまはずは、 われまた又 配所におも赴 むかんや。 もしわれ配所におもむかずんば、 なにによりてか辺鄙の群類を化せん。 これなほ猶 師教の恩致なり。
^大師聖人すなはち*勢至の化身、 太子また*観音の垂迹なり。 このゆゑにわれ二菩薩1046の引導に順じて、 如来の本願をひろむるにあり。 真宗これによ因茲 りて興じ、 念仏これによ由斯 りてさか煽 んなり也 。
^これ是*しかしながら、 聖者の教誨によりて、 さらに*愚昧の今案をかまへず、 かの二大士の重願、 ただ0080*一仏名を専念するにたれり。 今の行者、 錯りて*脇士に事ふることなかれ、 ただちに本仏 (*阿弥陀仏) を仰ぐべし」 と云々。
^かるがゆゑに上人親鸞、 傍らに皇太子 (聖徳太子) を崇めたまふ。 けだ蓋 しこれ斯 仏法弘通のおほいなる恩を謝せんがためなり。
四 ▼蓮位夢想
【4】 第四段
^*建長八年 丙辰 二月九日の夜寅の時、 釈*蓮位夢想の告げにいはく、 聖徳太子、 親鸞上人を礼したてまつり ましましてのたまはく、 ^「▼敬礼大慈阿弥陀仏 為妙教流通来生者 五濁悪時悪世界中 決定即得無上覚也」 。
^しかれば、 祖師上人 (親鸞) は、 弥陀如来の化身現 にてましますといふことあきらかなり。
康永第二載 癸未応鐘仲旬比終画図篇訖
五0081 選択付属
【5】 第五段
^*黒谷の先徳 源空 在世のむかし、 矜哀のあま余 り、 ある或 時は恩許を蒙りて*製作を見写し、 ある時は真筆を下して名字を書きたまはす。
^すなはち ¬顕浄土方便化身土文類¼ の六にのたまはく、 親鸞上人撰述 「^▲しかるに愚禿釈鸞、 建1047仁辛酉の暦、 雑行を棄てて本願に帰し、 元久乙丑の歳、 恩恕を蒙りて ¬選択¼ (*選択集) を書く。 おなじき年初夏中旬第四日、 ª選択本願念仏集º の内題の字、 ならびに ª▲南無阿0082弥陀仏 往生之業 念仏為本º と ª釈綽空º と、 空 (源空) の真筆をもつてこれを書かしめたまひ、
すなはち「顕浄土方便化身土文類」六云、 親鸞聖人選述 「然愚禿釈親鸞、 建仁 辛酉 暦、 棄雑行兮帰本願。 元久 乙丑 歳、 蒙恩恕兮書¬選択¼。 同年初夏仲旬第四日、 選択本願念仏集内題字、 南无阿弥陀仏往生之業念仏為本与釈綽空、 以空真筆令書之。
^◆おなじき日、 空の真影申し預かり、 図画したてまつる。 おなじき二年閏七月下旬第九日、 真影の銘は、 真筆をもつて ª南無阿弥陀仏º と ª若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生º (*礼賛) の真文とを書かしめたまひ、
同日、 空之真影申預、 奉図画。 同二年閏七月下旬第九日、 真影銘以真筆令書南无阿弥陀仏与若我成仏十方衆生称我名号下至十声若不生者不取正覚彼仏今現在成仏当知本誓重願不虚衆生称念必得往生之真文。
^◆また夢の告げによりて、 綽空の字を改めて、 おなじき日、 御筆をもつて名の字を書かしめたまひをはりぬ。 本師聖人 (源空) 今年七旬三の御歳なり。
又依夢告、 改綽空字、 同日以御筆令書名之字訖。 本師聖人今年七順三御歳也。
^◆¬選択本願念仏集¼ は、 禅定博陸 月輪殿兼実、 法名円照 の教命によりて選集せしめたまふところなり。 真宗の簡要、 念仏の奥義、 これに摂在せり。 見るもの諭りやすし。 まことにこれ希有最勝の華文、 無上甚深の宝典なり。
¬選択本願念仏集¼者、 依禅定博陸 月輪殿兼実法名円照 之教命所令選集也。 真宗之簡要、 念仏之奥義、 摂在于斯。 見者易諭。 誠是希有最勝之華文、 無上甚深之宝典也。
^◆年を渉り日を渉り、 その教誨を蒙るの人、 千万なりといへども、 親といひ疎といひ、 この見写を獲るの徒、 はなはだもつてかたし。 しかるにすでに製作を書写し、 真影を図画1048す。 これ専念正業の徳なり、 これ決定往生の徴なり。
渉年渉日、 蒙共教誨之人雖千万、 云親云疎、 獲此見写之徒甚以難。 爾既書写制作、 図画真影。 是専念正業之徳也、 是決定往生之徴也。
^◆よつて悲喜の涙を抑へて由来の縁を註す」 と云々。
仍抑悲喜之涙註由来之縁」 云々。
六0083 信行両座
【6】 第六段
^おほよそ源空聖人在生のいにしへ、 他力往生の旨をひろめたま給 ひしに、 世あまねくこれに挙り、 人ことごとくこれに帰しき。
^*紫禁・青宮の政を重くする砌にも、 まづ先 *黄金樹林の萼にこころをかけ、 *三槐・九棘の道をただしくする家にも、 ただちに四十八願の月をもてあそぶ。 しかのみならず*戎狄の輩、 *黎民の類、 これを仰ぎ、 これを貴びずといふことなし。 貴賎、 *轅をめぐらし、 門前、 *市をなす。 常随*昵近の*緇徒その数あり、 すべて三百八十余人と云々。 しかりといへども、 親りその*化をうけ、 ねんごろに0084その誨をまもる族、 はなはだまれなり。 わづかに五六輩にだにもたらず。
^善信聖人 (親鸞)、 あるとき申したまはく、 ^「予、 難行道を閣きて易行道にうつ移 り、 聖道門を遁れて浄土門に入りしよりこのかた、 *芳命をかうぶるにあらずよりは、 あに豈 出離解脱の良因を蓄へんや。 よろこ喜 びのなかのよろこ悦 び、 なにごとかこれにし如之 かん。 しかるに同室の好を結びて、 ともに一師の誨を仰ぐ輩、 これおほしといへども、 真実に報1049土得生の信心を成じたらんこと、 自他おなじくしりがたし。 かるがゆゑに、 かつは*当来の親友たるほどをもしり、 かつは*浮生の思出ともしはん侍 べらんがために、 御弟子参集の砌にして、 *出言つかうまつりて、 面々の意趣をも試みんとおもふ所望あり」 と云々。
^大師聖人 (源空) のたまはく、 「この此 条もつと尤 もしかる可然べし、 すなは即 ち明日人々来臨のとき仰せられ出すべし」 と。
^しかるに翌日集会のところに、 上人 親鸞 のたまはく、 「今日0085は*信不退・*行不退の御座を両方にわかたるべきなり。 いづれの座につきたまふべしとも、 おのおの示したま給 へ」 と。
^その時三百余人の門侶みなその其 意を得ざる気あり。 とき于時に法印大和尚位*聖覚、 ならび に釈*信空上人法蓮、 「信不退の御座に着くべ可著 し」 と云々。
^つぎに沙弥*法力 熊谷直実入道 遅参して申していはく、 「善信御房の御執筆なにご何事 とぞや」 と。 善信上人のたまはく、 「信不退・行不退の座をわけらるるなり也 」 と。 法力房申していはく、 「しから然者 ば法力もるべからず、 信不退の座にまゐるべし」 と云々。 よつてこれを0086書き載せたまふ。
^ここに数百人の門徒群居すといへども、 さらに一言をのぶる人なし。 これおそらくは自力の迷心に拘はりて、 金剛の真信に昏きがいたすところか。 人みな無音のあひだ1050、 執筆上人 親鸞 自名を載せたまふ。
^ややしばらくありて大師聖人仰せら被仰れてのたまはく、 「源空も信不退の座につらなりはん侍 べるべし」 と。 そのとき*門葉、 あるい 或 は屈敬の気をあらはし、 あるい 或 は*鬱悔の色をふくめり。
七 ▲信心諍論
【7】 第七段
^上人 親鸞 のたまはく、 ^いにしへわが我 大師聖人 源空 の御前に、 *正信房・*勢観房・*念仏房以下のひとび人々 とおほかりしとき時 、 *はかりなき諍論をしはん侍 べること事 ありき。
^そのゆゑは、 「▲聖人の御信心と善信 (親鸞) が信心と、 いささかもかはるところあるべからず、 ただひとつ 一 なり」 と申したりしに、 このひとびととがめていはく、 「善信房の0087、 聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるること事 いはれなし。 いかでかひとしかるべき」 と。
^善信申していはく、 「などかひとしと申さざるべきや。 そのゆゑは深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、 まことに*おほけなくもあらめ、 往生の信心にいたりては、 ひと一 たび他力信心のことわりをうけたま給 はりしよりこのかた、 まつたくわたくしなし。 しかれば、 聖人の御信心も他力よりたまはらせたまふ、 善信が信心も他力なり。 かるがゆゑにひとしくしてかはるところなしと申すなり也 」 と申しはんべり1051しところに、
^大師聖人まさしく0088仰せら被仰 れてのたまはく、 「信心のかはると申すは、 自力の信にとりてのこと事 なり也 。 すなはち智慧各別なる◗がゆゑに信また又 各別なり。 他力の信心は、 善悪の凡夫ともに仏のかたよりたまはる信心なれば、 源空が信心も善信房の信心も、 *さら更 にかはるべからず、 ただひとつなり。 わがかしこくて信ずるにあらず。 信心のかはりあうておはしまさんひとび人々 とは、 わがまゐらん浄土へは*よもまゐりたまはじ。 よくよくこころえらるべきこと事 なり也 」 と云々。
^ここに面々舌をまき、 口を閉ぢてやみにけり。
八 入西鑑察
【8】 第八段
^御弟子*入西房、 上人 親鸞 の真影を写したてまつらんとおもふこころざしありて、 *日ごろ来 をふるところに、 上人そのこころざしあることを*かが鑑 みて仰せられてのたまはく、 「*定禅法橋 七条辺に居住 に写さしむ0089べし」 と。
^入西房、 鑑察の旨を随喜して、 すなはちかの法橋を召請す。 定禅*左右なくまゐりぬ。 すなはち尊顔に向かひたてまつりて申していはく、 「去夜、 奇特の霊夢をなん感ずるところなり。 その夢のうちに拝したてまつるところの聖僧の面像、 いま向かひたてまつる容貌に、 すこしもたがふところなし」 といひて1052、 たちまちに随喜感歎の色ふかくして、 みづからその夢を語る。
^貴僧二人来入す。 一人の僧のたまはく、 「この*化僧の真影を写さしめんとおもふこころざしあり。 ねがはくは*禅下筆をくだすべし」 と。 定禅問ひていはく、 「かの化僧たれびと人 ぞや0090」 。 件の僧のいはく、 「*善光寺の本願の御房これなり」 と。 ここに定禅掌を合せ跪きて、 夢のうちにおもふやう様 、 さては生身の弥陀如来にこそと、 身の毛よだちて恭敬尊重をいたす。 また、 「*御ぐしばかりを写されんに足りぬべし」 と云々。 かくのごとく問答往復して夢さめをはりぬ。
^しかるにいまこの貴坊にまゐりてみたてまつる尊容、 夢のうちの聖僧にすこしもたがはずとて、 ^随喜のあまり涙を流す。 しかれば、 「夢にまかすべし」 とて、 いまも御ぐしばかりを写したてまつりけり。 夢想は*仁治三年九月二十日の夜なり也 。
^つらつらこの奇瑞をおもふに、 聖人 (親鸞)、 弥陀如来の来現といふこと*炳焉なり。 しかればすなはち、 弘通したまふ教行、 おそらくは弥陀の直説といひつべし。 あきらかに無漏の慧灯をかかげて、 とほく*濁世の迷闇を晴らし0091、 あまねく甘露の法雨をそそぎて、 はるかに枯渇の凡惑を潤さんがたと めなりと。 仰ぐべし、 信ずべし。
康永二歳 癸未 十月仲旬比、 依発願終画図之功畢。 而間頽齢覃八旬算、 両眼朦朧。 雖然憖厥詞、 如形染紫毫之処、 如向闇夜不辨筆点。 仍散々無極、 後見招恥辱者也而已。
大和尚位宗昭 七十四
画工康楽寺沙弥円寂
○巻下
1053本0092願寺聖人親鸞伝絵 下
一 師資遷謫
【9】 第一段
^浄土宗興行によりて、 聖道門廃退す。 これ是 空師 (源空) の所為なりとて、 たちまちに罪科せらるべきよし、 *南北の碩才憤りまうしけり。
^「顕化身土文類」 の六にいはく、 ^「▲ひそかにおもんみれば、 聖道の諸教は行証ひさしく廃れ、 浄土の真宗は証道いま盛んなり。
「顕化身土文類」六云、 「窃以、 聖道の諸教行証久廃、 浄土の真宗証道今盛。
^◆しかるに諸寺の釈門、 教に昏くして真仮の門戸を知らず、 洛都の儒林、 行に迷ひて邪正の道路を弁ふることなし。 ここをもつて、 興福寺の学徒、 太上天皇 諱尊成、 *後鳥羽院と号す 今上 諱為仁、 *土御門院と号す 聖暦、 承元丁卯の歳、 仲春上旬の候に奏達す。
然諸寺釈門、 昏教兮不知真仮門戸、 洛都儒林、 迷行兮無弁邪正道路。 斯以興福寺学徒、 奏達
太上天皇 諱尊成号後鳥羽院 今上 諱為仁号土御門院 聖暦承元 丁卯 歳、 仲春上旬之候。
^◆主上臣下、 法に背き義に違し、 忿りをなし怨を結ぶ。 これによりて、 真宗興隆の大祖源空法師ならびに門徒数輩、 罪科を考へず、 みだりがはしく死罪に坐す。 あるいは僧の儀を改め姓名を賜ひて遠流に処す。 予はその0093一つなり。
主上臣下、 背法違義、 成忿結怨、 因茲真宗興隆大祖源空法師并門徒数輩、 不考罪科、 猥坐死罪。 或改僧儀賜姓名処遠流、 豫其一也。
^◆しか1054れば、 すでに僧にあらず俗にあらず。 このゆゑに禿の字をもつて姓とす。 空師 (源空) ならびに弟子等、 諸方の辺州に坐して五年の居諸を経たり」 と云々。
爾者已非僧非俗。 是故以禿字為姓。 空師并弟子等、 坐諸方辺州経五年之居諸」 云々。
^▲空聖人罪名藤井元彦、 配所土佐国 幡多 鸞聖人 (親鸞) 罪名藤井善信、 配所越後国 国府 このほか門徒、 死罪流罪みなこれを略す。
空聖人罪名藤井元彦、 配所土佐国 幡多 鸞聖人罪名藤井善信、 配所越後国 国府 此外の門徒、 死罪流罪みな略之。
^皇帝 諱守成、 *佐渡院と号す 聖代、 *建暦辛未の歳、 *子月中旬第七日、 *岡崎中納言範光卿をもつて勅免。 この此 とき時 聖人右のごとく禿の字を書きて*奏聞したま給 ふに、 陛下*叡感をくだし、 侍臣おほきに褒美す。 勅免ありといへども、 *かしこに化を施さんがために、 なほしばらく在国したま給 ひけり。
二0094 稲田興法
【10】第二段
^聖人 (親鸞) 越後国より常陸国に越えて、 笠間郡*稲田郷といふところに隠居したまふ。 *幽棲を占むといへども道俗あと跡 をたづね、 *蓬戸を閉づといへども貴賎ちま衢たにあふる。 仏法弘通の本懐ここに成就し、 衆生利益の宿念たちまちに満足す。 この此 時聖人仰せら被仰れてのたま云 はく、 「△*救世菩薩の告命を受けしいにし往 への夢、 すで既 にいま◗と符合せり」 と。
三 弁円済度
【11】第三段
^1055聖人 (親鸞) 常陸国にして専修念仏の義をひろめたま給 ふに、 おほよそ疑謗の輩は少なく、 信順の族はおほし。
^しかるに一人の僧 *山臥と云々 ありて、 ややも動 すれば仏法に*怨をなしつつ、 *結句害心をさしはさ挿で みて、 聖人を*よりよ時々 りうかがひたてまつる。 聖人*板敷山といふ深山をつね恒 に往反したま給 ひけるに、 かの彼 山にして度々あひま相待 つといへども、 さらに0095*その其 節をとげず。 つらつ倩 らことの*参差を案ずるに、 すこぶ頗 る奇特のおもひあり。 よつて聖人に謁せんとおもふここ心 ろつきて、 *禅室にゆき行 て尋ねまうすに、 上人左右なく出であひ会 たまひけり。
^すなはち尊顔にむかひたてまつるに、 害心たちま忽 ちに消滅して、 あまつ剰 さへ後悔の涙禁じがたし。 ややしばらくありて、 あり有 のままに日ごろの*宿鬱を述すといへども、 聖人また又 おどろける色なし。 たちどころに弓箭をきり、 刀杖をすて、 頭巾をとり、 *柿の衣をあらためて、 仏教に帰しつつ、 つひに素懐をとげき。 不0096思議なりしこと事 なり也 。 すなはち*明法房これ是 なり也 。 上人 (親鸞) これをつけたま給 ひき。
康永二歳 癸未 十一月一日絵師染筆訖
沙門宗昭 七十四
四0097 ▼箱根霊告
【12】第四段
^聖人 (親鸞) 東関の堺を出でて、 *華城の路におもむきましましけり。
^ある或 日*晩1056陰におよんで箱根の嶮阻にかかりつつ、 はる遥 かに行客の蹤を送りて、 やうや漸 く人屋の*枢にちかづくに、 夜もすでに*暁更におよんで、 月もはや孤嶺にかたぶきぬ。
^とき于時に聖人歩み寄りつつ*案内したまふに、 まことに*齢傾きたる翁のうるはしく装束したるが、 いと*こととなく出であひ会 たてまつりていふやう様 、 ^「*社廟0098ちかき所のならひ、 *巫どもの終夜あそびしはん侍 べるに、 翁もまじはりつるが、 いまなんいささか仮寝はんべるとおもふほどに、 夢にもあらず、 うつつにもあらで、 *権現仰せら被仰れていは云 く、 ªただ只 いま今 われ尊敬をいたすべき客人、 この此 路を過ぎたま給 ふべきこと事 あり、 かならず慇懃の忠節を抽んで、 こと殊 に丁寧の饗応をまう儲 くべしº と云々。
^示現いまだ覚めをはらざるに、 貴僧*忽爾として影向したま給 へり。 なんぞただ人にましまさん。 神勅これ是 炳焉なり也 。 感応もつと最 も恭敬すべし」 といひて、 ^尊重*屈請したてまつりて、 さまざまに飯食を粧ひ、 いろい色々 ろに珍味を調へ」けり。
五 熊野霊告
【13】第五段
^聖人 (親鸞) 故郷に帰りて往事をおもふに、 年々歳々夢のごとし、 幻のごとし。
^*長安・洛陽の棲も*跡をとどむるに懶しとて、 *扶風馮翊ところどころに移住1057したまひ0099き。 五条西洞院*わたり、 これ一つの勝地なり也 とて、 しばらく居を占めたまふ。 このごろ、 いにしへ*口決を伝へ、 面受をとげ遂 し門徒等、 おのおの好を慕ひ、 路を尋ねて参集したまひけり。
^そのこ其比 ろ常陸国那荷西郡*大部郷に、 *平太郎なにがしといふ庶民あり。 聖人の◗御訓を信じて、 もつぱ専 らふたご貳 ころなかりき。 しかる而 にある或 時、 件の平太郎、 *所務に駈られて*熊野に詣すべしとて、 こと事 のよしを尋ねまうさんがために、 聖人へまゐりたるに、 仰せら被仰れてのたま云 はく、
^「▼それ夫 聖教万差なり也 、 いづれも機に相応すれば巨益あり。 ただ但 し末0100法の今の時、 聖道門の修行においては成ずべからず。 すなはち ª▲我末法時中億々衆生 起行修道 未有一人得者º (*安楽集・上) といひ、 ª▲唯有浄土一門可通入路º (同・上) と云々。 これ是 みな経釈の明文、 如来の金言なり也 。 しかる而 にいま今 唯有浄土の真説について、 かたじけなくかの彼 *三国の祖師、 おのお各 のこの此 一宗を興行す。 このゆゑに、 愚禿すすむるところ、 さらに私なし。
^しかるに一向専念の義は往生の肝腑、 自宗の骨目なり也 。 すなは即 ち三経に隠顕ありといへども、 文とい云文 ひ義とい云義 ひ、 とも共 にもつてあきらかなるを哉 や。 ¬*大経¼ の三輩にも一向とすすめて、 流通にはこれを*弥勒に付属し、 ¬*観経1058¼ の九品にもしばらく三心と説きて、 これまた*阿難に付属す、 ¬*小経¼ の一心つひに諸仏これを証誠す。 これによ依之 りて論主 (*天親) 一心と判じ、 和尚 (*善導) 一向と釈す。 しかれ然 ばすなは則 ち、 いづれの文によるとりても、 一向専念専修 の義を立すべからざるぞや。
^*証誠殿の本地すなはちいまの教主 (阿弥陀仏) なり。 かるが0101ゆゑに、 *とてもかくても衆生に結縁の志ふかきによりて、 *和光の垂迹を留めたまふ。 垂迹を留むる本意、 ただ結縁の群類をして願海に引入せんとなり。 しかあれば本地の誓願を信じて一向偏 に念仏をこととせん輩、 公務にもしたがひ、 領主にも駈仕して、 その其 霊地をふみ、 その社廟に詣せんこと、 さらに自心の発起するところにあらず。 しかれば、 垂迹において*内懐虚仮の身たりながら、 あながちに*賢善精進の威儀を標すべからず。 ただ唯 本地の誓約にまかすべし、 あなか穴賢しこ、 あなか穴賢しこ。 神威をかろしむるに0102あらず、 ゆめゆ努力努力め*冥眦をめぐらしたま給 ふべからず」 と云々。
^これによりて平太郎熊野に参詣す。 *道の作法*とりわ別 き整ふる儀なし。 ただ常没の凡情にしたがひて、 さら更 に*不浄をも刷ふこと事 なし。 行住坐臥に本願を仰ぎ、 *造次顛沛に師教をまも憑 るに、 はたして*無為に参着の夜、 件の男夢に告げて 夢告云 いはく、 証誠殿の扉を排きて、 衣冠1059ただしき俗人仰せられて 被仰云 いはく、 「なんぢなんぞわれ我 を*忽緒して汚穢不浄にして参詣するや」 と。
^その爾 時かの俗人に対座して、 聖人忽爾としてまみえた見給 まふ。 その其 詞にのたま云 はく、 「かれ彼 は善信 (親鸞) が訓によりて念仏するもの者 なり也 」 と云々。 ここ爰 に俗人*笏をただしくして、 ことに敬屈の礼を著しつつ、 かさねて述ぶるところなしとみるほどに、 夢さめをはりぬ。 おほよそ奇異のおもひをなすこと、 いふべからず。
^下向の後、 貴坊にまゐりて、 くはしくこの此 旨を申すに、 聖人 「そのこと 其事也 なり」 とのたまふ。 これ此 また又 不思議のことなりかし。
六0103 洛陽遷化
【14】第六段
^聖人 (親鸞) *弘長二歳 壬戌 仲冬下旬の候より、 いささか*不例の気まします。
^それよりこ自爾以来のかた、 口に世事をまじへず、 ただ仏恩のふかきことをのぶ。 声に余言をあらはさず、 もつぱら称名たゆることなし。 しかうして*おなじき第八日 *午時 *頭北面西右脇に臥したま給 ひて、 つひに念仏の息たえ ましましをはりぬ。 とき于時に頽齢*九旬にみち満 たまふ。
^*禅房は長安馮翊の辺 押小路の南、 万里小路より東 なれば、 はるかに河東の路を歴て、 洛陽東山の西の麓、 *鳥部野の南の辺、 *延仁寺に葬したてまつる。 遺骨を拾ひて、 おなじき山0104の麓、 鳥部野1060の北の辺、 *大谷にこれををさめ たてまつりをはりぬ。
^しかる而 に終焉にあふ門弟、 勧化をうけし老若、 おのおの在世のいにしへをおもひ、 滅後のいまを悲しみて、 恋慕涕泣せずといふことなし。
七 廟堂創立
【15】第七段
^*文永九年冬のころ比 、 東山西の麓、 鳥部野の北、 大谷の墳墓をあらためて、 おなじき麓よりなほ猶 西、 吉水の北の辺に遺骨を掘り渡して仏閣を立て、 影像を安ず。
^この此 時に当りて、 聖人 (親鸞) 相伝の宗義いよいよ興じ、 遺訓ますます盛りなること、 すこぶ頗 る在世のむか昔 しに超えたり。 すべて門葉国郡に充満し、 末流処々に遍布して、 幾千万といふことをしらず。 その其 *稟教をおもくしてかの彼 報謝を抽んづる輩、 *緇素老少、 面々に歩みを運んで年々廟堂に詣す。
^おほよそ聖人在生のあひだ、 奇特これおほしといへども、 *羅縷に遑あらず。 しかしながらこれを略するところなり。
^奥書にいはく
0105右縁起図画の志、 ひとへに知恩報徳のためにして戯論狂言のためにせず。 あまつさへまた*紫毫を染めて*翰林を拾ふ。 その体もつとも拙し、 その詞これいやし。 *冥に付け*顕に1061付け、 痛みあり恥あり。 しかりといへども、 ただ後見賢者の取捨を憑みて、 当時愚案の*謬を顧みることなしならくのみ。
時に*永仁第三の暦、 *応鐘*中旬第二天、 *晡時に至りて草書の篇を終へをはりぬ。
画工 法眼*浄賀 号*康楽寺
^*暦応二歳己卯四月二十四日、 ある本をもつてにはかにこれを書写したてまつる。 先年愚筆の後、 一本所持の処、 世上に闘乱0106のあひだ炎上の刻、 焼失し行方知れず。 しかるにいま*慮らず荒本を得て記し、 これを留むるものなり。
*康永二載癸未十一月二日筆を染めをはりぬ。
*桑門 釈*宗昭
画工 大法師宗舜 康楽寺弟子
右縁起画図之志、 偏為知恩報徳不為戯論狂言。 剰又染紫毫拾翰林。 其体尤拙、 厥詞是苟。 付冥付顕、 有痛有恥。 雖然只馮後見賢者之取捨、 無顧当時愚案之誹謬而已。
執筆法印宗昭
于時永仁第三暦、 応鐘仲旬第二天、 至哺時終草書之篇訖。
画工法眼浄賀 号康楽寺
暦応二歳 己卯 四月廿四日、 以或本俄奉書写之。 先年愚草之後、 一本所持之処、 世上闘乱之間炎上之刻、 焼失不知行方。 而今不慮得荒本、 註留之者也耳。
桑門宗昭
康永二載 癸未 十一月二日染筆訖 釈宗昭
画工大法師宗舜 康楽寺弟子
底本は◎
本派本願寺蔵版本。 浄聖全上段の底本○
真宗大谷派蔵本願寺聖人伝絵と対校し、 ○にない語句は青の点下線、 表現の異なる場合は赤の点下線(下に細字で○の本文)として示した。 また、 ○が漢文である箇所および◎にない文言が茶色で収録してある。
五代の孫 有範は有国の六代の孫にあたる。 ここでは有範の父経伊を省いた系図によったと考えられる。
霜雪をも戴き 頭髪が白くなるまで朝廷に仕えるという意。 また、 天皇の側近く仕えるという意。
射山にわしりて 射山は上皇の御所をいう。 上皇に仕えて。
楞厳横川の余流 比叡山横川 (
首楞厳院はその中堂の称) に伝えられている
源信和尚の流れ。
四教円融の義 天台宗の根本的な教え。 蔵・通・別・円の四教を立てて釈尊一代の経説内容を判別し、 その究極である円教の内容を三諦円融の理で解説する。
建仁第 「建仁第三」とする異本がある。
癸亥 「辛酉」 とする異本がある。 辛酉は建仁元年にあたる。
行者宿報… 「行者、 宿報にてたとひ女犯すとも、 われ玉女の身となりて犯せられん。 一生のあひだ、 よく荘厳して、 臨終に引導して極楽に生ぜしめん」
垂迹興法の願 人間の姿を現して仏法を興隆させようとする願い。
愚昧の今案 愚かで道理に暗い自分の考え。
一仏名 南無阿弥陀仏の名号を指す。
紫禁青宮の政 朝廷の行う政治。
黄金樹林の萼 浄土の七宝樹林の華。
三槐九棘の道 三槐は三公 (大臣)、 九棘は九卿 (公家) のこと。 ここでは朝廷の大臣と高官の行う政道の意。
轅をめぐらし 訪れるという意。
市をなす 人がたくさん集まるという意。
出言つかうまつりて 質問を申しあげて。
正信 底本には 「聖信」 とある。 正信房
湛空のこと。
おほけなくもあらめ 身のほどをわきまえないということもあるだろうが。
さらにかはるべからず 少しも異なったところのあるはずがない。
日ごろをふるところに 日頃を過していたところ。
定禅法橋 伝未詳。 専阿弥陀仏 (袴殿。 鏡御影の作者) と同一人物であるともいわれるが不明。
化僧 教化僧。 あるいは権化の僧の意を含むか。
禅下 定禅法橋のこと。
御ぐし 御首、 御頭などと書く。 頭部。
炳焉なり 明らかなさま。
南北の碩才 奈良の興福寺や比叡山延暦寺のすぐれた学者。
岡崎中納言範光卿 式部少輔従三位範兼の子息。 ただし、 承元元年 (1207) に出家しており、 当時の赦免官は藤原光親であった。
かしこ 越後 (の人々)。
幽棲を占む ひっそりとかくれ住む。
蓬戸を閉づ 幽棲の庵の戸を閉ざす。 人との交際を断つ。
その節をとげず その目的を果たせない。
禅室 ここでは親鸞聖人の住いのこと。
枢 扉。 戸。
齢傾きたる 年老いた。
こととなく すみやかに。
社廟 (箱根権現の) 社。
巫 神に仕える人。
権現 箱根権現のこと。 箱根神社 (神奈川県足柄下郡箱根町) の祭神。 当時、 流布していた
本地垂迹説 (日本の神を仏・菩薩の仮
*の現れとする説) によって、 権現 (仮の現れという意の称号) と呼ばれた。
長安洛陽 いずれも中国の都。 ここでは転じて京都を指す。
跡をとどむるに懶し 跡を残すのは気が進まない。
扶風馮翊 中国の地名から転じて右京と左京をいう。
口決 (親鸞聖人から) 直接授けられた教え。
所務に駈られて… 領主の従者としての役務によって参詣するという意。 以下にも 「公務にもしたがひ、 領主にも駆使して」 とある。
熊野 本宮・新宮・那智の熊野三山。 本宮の証誠殿はとくに尊崇された。
証誠殿 熊野本宮の主殿の称。 ここではその祭神を指す。
内懐虚仮の身 内に虚仮 (うそいつわり) を懐く身。
冥眦 神が怒ってにらむこと。
道の作法 熊野詣の道中には独特の厳しい作法が定められていた。
不浄をも刷ふ 潔斎 (心身をきよめること) する。
造次顛沛に ちょっとした間にも。 いつも。
無為に 何事もなく。
笏をただしくして 威儀を正して。 笏は礼服や朝服を着用の際、 右手に持つ細長い板。
弘長二歳壬戌仲冬 弘長二歳壬戌は1262年、 仲冬は陰暦十一月の別称。
午時 正午頃。 示寂の時刻を未時 (午後二時頃) とする史料もある。
九旬 旬は十年の意。
冥・顕 冥は目にみえないもの。 顕は目にみえるもの。
中旬第二天 十二日。
晡時 午後四時頃。
慮らず 思いがけず。