一(863)、法然聖人御説法事
▲法然聖人御説法◗事
・仏身
○経証の中に、 仏の功徳をとけるに无量の身あり。 あるいは総じて一身をとき、 あるいは二身をとき、 あるいは半三身をとき、 乃至 ¬華厳経¼ には十身◗功徳とけり。 いま且真身・化身の二身をもて、 弥陀如来の功徳を讃嘆したてまつらむ。 この真化二身をわかつこと、 ▲¬双巻経¼ の三輩の文の中にみえたり。
・仏身 ・真身
◇まづ真身といふは、 真実の身なり。 弥陀如来の因位のとき、 世自在王仏のみもとにして四十八願をおこしてのち、 兆載永劫のあひだ、 布施・持戒・忍辱・精進等の六度万行を修して、 あらはしえたまへるところは、 修因感果の身なり。
◇¬観経¼ (意) にときていはく、 「▲その身量、 六十万億那由他恒河沙由旬なり。 ◆眉間の自毫、 右にめぐりて五須弥山のごとしと。 その一須弥山のたかさ、 出海・ウミヨリイデ 入海ウミニイおレルのコトおの八万四千那由他なり。 また青蓮慈悲の御まなこは、 四大海水のごとくして清白分明0864なり。 身のもろもろの毛孔より光明をはなちたまふこと、 須弥山のごとし。©◆うなじにめぐれる円光は、 百億の三千大千世界のごとし。©◆かくのごとくして八万四千の相まします。 一一の相におのおの八万四千の好あり、 一一の好にまた八万四千の光明まします。 その一一の光明、 あまねく十方世界の念仏の衆生を摂取してすてたまはず。 ▲御オム身 ミ のいろは、 夜摩天の閻浮檀金のいろのごとし」 といへり。
◇これ弥陀一仏にかぎらず、 一切諸仏はみな黄金のいろなり。 もろもろのいろの中には白色をもて本とすとまふせば、 仏の御いろも白色なるべしといゑども、 そのいろなほ損ずるいろなり。 たゞ黄金のみあて不変カワラヌのいろなり。 このゆへに、 十方三世の一切の諸仏、 みな常住不変の相をあらわさむがために、 黄金のいろを現じたまへるなり。 これ ¬観仏三昧経¼ のこゝろなり。
◇たゞし真言宗の中に五種の法あり。 その本尊の身色、 法にしたがふて各別なり。 しかれども暫時シバラク方便ノトキトのイフ化ナリ身なり、 仏の本色にはあらず。©このゆへに、 仏像をつくるにも、 白檀の採色なれども功徳をえざるにあらずといへども、 金色につくりつれば、 すなわち決定往生の業因なり。©即生の功徳、 略を存ずるにかくのごとし。 「即生乃至三スナワチワウジヤウスト 生に必得往生カナラズワウジヤウヲ」 といウルトナリ へり。 これ弥陀如来の真身の功徳、 略を存ずるにかくのごと0865し。
・仏身 ・化身
◇次に化身といふは、 无而欻有を化とカタチモナクシテイヅヲヲイフ いふ。 すなわち機にしたがふときに応じて身量を現ずること、 大小不同なり。 ¬経¼ (観経) に、 「▲あるいは大身を現じて虚空にみつ、 あるいは小身を現じて丈六、 八尺」 といへり。 化身につきて多種あり。
・仏身 ・化身 ・円光の化仏
◇まづ円光の化仏。 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲円光のなかにおいて、 百万億那由他恒河沙の化仏まします。 一一の化仏に衆多无数の化菩薩をもて、 侍者とせり」 といへり。
・仏身 ・化身 ・摂取不捨の化仏
◇つぎに摂取不捨の化仏。 「▲光明遍照、 十方世界、 念仏衆生、 摂取不捨」 (観経) といふは、 この真仏の摂取なり。 このほかに化仏の摂取あり。 卅六万億の化仏、 おのおの真仏とともに十方世界の念仏衆生を摂取したまふといへり。
・仏身 ・化身 ・来迎引接の化仏
◇次に来迎引接の化仏。 九品の来迎におのおの化仏まします。 品にしたがふて多少あり。 上品上生の来迎には、 ▲真仏のほかに无数の化仏まします。 上品中生には、 ▲千の化仏まします。 上品下生には、 ▲五百の化仏まします。 乃至かくのごとく次第におとりて、 下品上生には、 ▲真仏は来迎したまはず、 たゞ化仏と化観音・勢至とをつかはす。 その化仏の身量、 あるいは丈六、 あるいは八尺なり。 化菩薩の身量もそれにしたがふて、 下品中生は、 「▲天華の上に化仏・菩薩ましまして、 来迎したまふ0866」 (観経意) といへり。 下品下生は、 「▲命終してイノチオハルトナリのち、 金蓮華をみる。 猶如日輪ヒノゴトクシテ 住ソノヒ其トノ人前」マヘニアラ (観経) ワルトナリといへり。
◇文のごとくは、 化仏の来迎もなきやうにみえたれども、 善導の御心は、 ¬観経の疏¼ (散善義) の十一門の義によらば、 第九門に 「▲命終のとき、 聖衆の迎接したまふ不同、 去時の遅オソキ疾トキをあかす」 といへり。 また 「▲いまこの十一門の義は、 九品の文に約対せり。 一一の品のなかに、 みなこの十一あり」 といへり。 しかれば、 下品下生にも来迎あるべきなり。 しかるを五逆の罪人、 そのつみおもきによりて、 まさしく化仏・菩薩をみることあたはず、 たゞわが座すべきところの金蓮華ばかりをみるなり。 あるいはまた文に隠顕あるなり。
・仏身 ・化身 ・本尊のための化仏
◇次にまた十方の行者の本尊のために、 小身を現じたまへる化仏あり。 天竺の鶏頭摩寺の五通の菩薩、 神足通をして極楽世界にまうでて、 仏にまふしてまうさく、 娑婆世界の衆生、 往生の行を修せむとするに、 その本尊なし。 仏、 ねがわくは、 ために身相を現じたまへと。 仏、 すなわち菩薩の請におもむきて、 樹の上に化仏五十体を現じたまへり。 菩薩、 すなわちこれをうつして、 よにひろめたり。 鶏頭摩寺の五通の菩薩の曼陀羅といへる、 すなわちこれなり。 また智光の曼陀羅とて、 世間に流布したる本尊あり。 その因縁は人つねにしりたることなり、 つぶさにまふすべ0867からず。 ¬日本往生伝¼ をみるべし。
・仏身 ・化身 ・教化説法の化仏
◇また新生の菩薩を教化し、 説法せむがために、 化して小身を現じたまへることまします。 これはこれ、 弥陀如来の化身の功徳、 また略してかくのごとし。
・来迎
◇いまこの造立せられたまへる仏は、 祇薗精舎の風をつたへて三尺の立像をうつし、 最後終焉のゆふべを期して来迎引接につくれり。 おほよそ仏像を造画すツクリカクナリるに種種の相あり。 あるいは説法講堂の像あり、 あるいは池水沐浴の像あり、 あるいは菩提樹下成等正覚の像あり、 あるいは光明遍照摂取不捨の像あり。 かくのごときの形像を、 もしはつくり、 もしは画しカクナリたてまつる。 みな往生の業なれども、 来迎引接の形像は、 なほその便宜をえたるなり。
◇かの尽虚空界の荘厳をみ、 転妙法輪の音声をきゝ、 七宝講堂のみぎりにのぞみ、 八功徳池のはまにあそび、 おほよそかくのごとく種種微妙の依正二報をまのあたり視ミル聴 キク せむことは、 まづ終焉のゆふべに聖衆の来迎にあづかりて、 決定してかのくにに往生してのうえのことに候。 しかれば、 ふかく往生極楽のこゝろざしあらむ人は、 来迎引接の形像をつくりたてまつりて、 すなわち来迎引接の誓願をあおぐべきものなり。
◇その来迎引接の願といふは、 すなわちこの四十八願の中の▲第十九の願なり。 人師これ0868を釈するに、 おほくの義あり。
・来迎 ・臨終正念
◇まづ臨終正念のために来迎したまへり。 おもはく、 病苦みをせめて、 まさしく死せシヌル むとするときには、 かならず境界・自体・当生の三種の愛心をおこすなり。 しかるに阿 ア 弥 ミ 陀 ダ 如来、 大光明をはなちて行者のまへに現じたまふとき、 未曽有の事なるがゆへに、 帰敬の心のほかに他念なくして、 三種の愛心をほろぼして、 さらにおこることなし。 かつはまた仏、 行者にちかづきたまひて、 加持護念したまふがゆへなり。
◇¬称讃浄土経¼ (意) に 「▲慈悲加祐して、 ↓こゝろをしてみだらざらしむ。 すでに命をすておはりてすなわち往生をえ、 不退転に住す」 といへり。 ¬阿弥陀経¼ に 「▲阿弥陀仏、 もろもろの聖衆とそのまへに現ぜむ。 この人おわらむとき、 ↓心顛倒せずして、 すなわち阿弥陀仏国土に往生をえむ」 ととけり。 「↑令心不乱」 と 「↑心不顛倒」 とは、 すなわち正念に住せしむる義なり。
◇しかれば、 臨終正念なるがゆへに来迎したまふにはあらず、 来迎したまふがゆへに臨終正念なりといふ義、 あきらかなり。 在生のあひだ往生の行成就せむひとは、 臨終にかならず聖衆来迎をうべし。 来迎をうるとき、 たちまちに正念に住すべしといふこゝろなり。
◇しかるにいまのときの行者、 おほくこのむねをわきまえずして、 ひとへに尋常の行においては怯弱ヨワクヨワ生じてキココヽロナリ、 は0869るかに臨終のときを期して正念をいのる、 もとも僻韻なりヒガヰンノコヽロ。 ナリしかれば、 よくよくこのむねをこゝろえて、 尋常の行業において怯弱ヨワクヨワのキコこヽロゝろをおこさずして、 臨終正念において決定のおもひをなすべきなり。 これはこれ、 至要の義なり。 きかむ人、 こゝろをとゞむべし。 この臨終正念のために来迎すといふ義は、 静慮院の静照法橋の釈なり。
・来迎 ・道の先達
◇次に道の先達のために来迎したまふといへり。 あるいは ¬往生伝¼ (往生浄土伝巻中) に、 沙門志法が遺書にいはく、
「われ生死海に在て、 さいわいに聖の船筏に値へり。 われ顕すところの真聖、 卑穢の質を来迎せむ。
「我在↢生死海↡ | 幸値↢聖船筏↡ | 我所↠顕真聖 | 来↢迎卑穢質↡ |
もし浄土を忻求せば、 かならず形像を造画すべし。 臨終にその前に現じて、道路を示さむ。 心を摂して
若忻↢求浄土↡ | 必造↢画形像↡ | 臨終現↢其前↡ | 示↢道路↡摂↠心 |
念念すれば罪やうやく尽く。 業に随ふて九品に生ぜむ。 それ顕すところの聖衆、 さきだちて新生の輩を讃む。
念念罪漸尽 | 随↠業生↢九品↡ | 其所↠顕聖衆 | 先讃↢新生輩↡ |
仏道楽増進」 云云
◇これすなわち、 この界にして造画するところの形像、 先達となりて浄土におくりたまふ証拠なり。 また ¬薬師経¼ (玄奘訳) をみるに、 浄土をねがふともがら、 行業いまださだまらずして、 往生のみちにまどふことあり。 すなわち文にいはく、 「よく受↢持 八分斉戒↡あらむ。 あるいは一年をへ、 あるいはまた三月受持せむ0870。 まなぶところ、 この善根をもて西方極楽世界无量寿仏のみもとにむまれむと願じて、 正法を聴聞すれども、 いまださだまらざるもの、 もし世尊薬師瑠璃光如来の名号をきかむ。 命終のときにのぞみて、 八菩薩あて神通に乗じてきたりて、 その道路をしめさむ。 すなわちかの界にして、 種種の雑色衆宝華の中に自然に化生す」 といへり。 もしかの八菩薩その道ヒロキミチ路セバをしキミチ めさずは、 ひとり往生することえがたきにや。
◇これをもておもふにも、 弥陀如来もろもろの聖衆とともに行者のまへに現じてきたりて迎接したまふも、 みちびきて道路をしめしたまはむがためなりといふ義、 まことにいはれたることなり。 娑婆世界のならひも、 みちをゆくにはかならず先達といふものを具する事なり。 これによて御廟の僧正は、 この来迎の願おば現前導生の願となづけたまへり。
・来迎 ・対治魔事
◇次に対治魔事のために来迎すといふ義あり。 道さかりなれば、 魔さかりなりとまふして、 仏道修行するには、 かならず魔の障難のあひそふなり。 真言宗の中には、 「誓心決定すれば、 魔宮振動す」 (発菩提心論) といへり。 天臺 ¬止観¼ (巻八下意) の中には、 「四種三昧を修行するに、 十種の境界おこる中に魔事境来」キタル といへり。 また菩薩、 三祇百劫の行すでになりて正覚をとなふるときも、 第六天の魔王きたりて種種に0871障せり。
◇いかにいはむや、 凡夫具縛の行者、 たとひ往生の行業を修すといふとも、 魔の障難を対治せずは、 往生の素懐をとげむことかたし。 しかるに阿弥陀如来、 无数の化仏・菩薩聖衆に囲繞せられて、 光明赫奕として行者のまへに現じたまふときには、 魔王もこゝにちかづき、 これを障することあたはず。 しかればすなわち、 来迎引接は魔障を対治せむがためなり。 来迎の義、 略を存ずるにかくのごとし。 これらの義につきておもひ候にも、 おなじく仏像をつくらむには、 来迎の像をつくるべきとおぼえ候なり。 仏の功徳、 大概かくのごとし。
・浄土三部経
◇次に三部経は、 いま三部経となづくることは、 はじめてまふすにあらず、 その証これおほし。 いはく大日◗三部経は、 ¬大日の経¼・¬金剛頂経¼・¬蘇悉地経¼ 等これなり。 弥勒の三部経、 ¬上生経¼・¬下生経¼・¬成仏経¼ 等これなり。 鎮護国家の三部経は、 ¬法華経¼・¬仁王経¼・¬金光明経¼ 等これなり。 法華の三部経、 ¬无量義経¼・¬法華経¼・¬普賢経¼ 等これなり。 これすなわち、 三部経となづくる証拠なり。
◇いまこの弥陀の三部経は、 ある人師のいはく、 「浄土の教に三部あり。 いはく ¬双巻无量寿経¼・¬観无量寿経¼・¬阿弥陀経¼ 等これなり」。 こ0872れによて、 いま浄土の三部経となづくるなり。 あるいはまた弥陀の三部経ともなづく。 またある師のいはく、 「かの三部経に ¬鼓音声経¼ をくわえて四部となづく」 (慈恩小経疏意) といへり。
◇おほよそ諸経の中に、 あるいは往生浄土の法をとくあり、 あるいはとかぬ経あり。 ¬華厳経¼ にはこれをとけり、 すなわち ¬四十華厳¼ の中の普賢の十願これなり。 ¬大般若経¼ の中にすべてこれをとかず。 ¬法華経¼ (巻六) の中にこれをとけり、 すなわち 「薬王品」 の 「即往安楽世界」 の文これなり。 ¬涅槃経¼ にはこれをとかず。 また真言宗の中には、 ¬大日経¼・¬金剛頂経¼ に蓮華部にこれとくといゑども、 大日の分身なり。 別てとけるにはあらず。 もろもろの小乗経にはすべて浄土をとかず。 しかるに往生浄土をとくことは、 この三部経にはしかず。 かるがゆへに浄土の一宗には、 この三部経をもてその所縁とせり。
・浄土宗名
◇またこの浄土の法門において宗の名をたつること、 はじめてまふすにあらず、 その証拠これおほし。 少々これをいださば、 元暁の ¬遊心安楽道¼ に、
「浄土宗の意、本は凡夫のためなり、 兼ては聖人のためなり」
「浄土宗意、 本為↢凡夫↡、 兼為↢聖人↡也」
といへる、 その証なり。 かの元暁は華厳宗の祖師なり。 慈恩の ¬西方要決¼ に、 「依此コノシユ一宗ニヨルト」 といえるなり、 またその証なり。 かの慈恩は法相宗の祖師なり。 迦才の ¬浄土論¼ (序) には、 「此一宗窃要ヒソカニ路たり」 といへ0873る、 またその証なり。 善導 ¬観経の疏¼ (散善義) に、 「▲真宗叵↠カタシ遇アヒ」 といへる、 またその証なり。 かの迦才・善導は、 ともにこの浄土一宗をもはらに信ずる人なり。 自宗・他宗の釈すでにかくのごとし。
・師資相承
◇しかのみならず、 宗の名をたつることは、 天臺・法相等の諸宗、 みな師資相承による。 しかるに浄土宗に師資タスク相承血脈次第あり。 いはく菩提流支三蔵・恵寵法師・道場法師・曇鸞法師・法上法師・道綽禅師・善導禅師・懐感禅師・小康法師等なり。 菩提流支より法上にいたるまでは、 道綽の ▲¬安楽集¼ にいだせり。 自他宗の人師、 すでに浄土一宗となづけたり。 浄土宗の祖師、 また次第に相承せり。 これによて、 いま相伝して浄土宗となづくるものなり。
◇しかるを、 このむねをしらざるともがらは、 むかしよりいまだ八宗のほかに浄土宗といふことをきかずと難破することも候へば、 いさゝかまふしひらき候なり。 おほよそ諸宗の法門、 浅アサキ深フカキあり、 広ヒロキ狭セバキあり。 すなわち真言・天臺等の諸大乗宗は、 ひろくしてふかし。 倶舎・成実等の小乗宗は、 ひろくしてあさし。 この浄土宗は、 せばくしてあさし。 しかれば、 かの諸宗は、 いまのときにおいて機と教と相応せず。 教はふかし機はあさし。 教はひろくして機はせばきがゆへなり。 たとへば韻たかくしては、 和することすくなきがごとし。 また0874ちゐさき器に大なるものをいるゝがごとし。 たゞこの浄土の一宗のみ、 機と教と相応せる法門なり。 かるがゆへにこれを修せば、 かならず成就すべきなり。 しかればすなわち、 かの不相応の教においては、 いたはしく身 ミ 心コヽロをついやすことなかれ。 たゞこの相応の法に帰して、 すみやかに生死をいづべきなり。
◇今日講讃せホムルナリられたまへるところは、 この三部の中の ¬双巻无量寿経¼ と ¬阿弥陀経¼ となり。
・大経
◇まづ ¬无量寿経¼ には、 はじめに弥陀如来の因位の本願をとく、 次にはかの仏の果位の二報荘厳をとけり。 しかれば、 この ¬経¼ には阿弥陀仏の修因感果の功徳をとくなり。 乃至 一一の本誓悲願、 一一の願成就の文にあきらかなり。 つぶさに釈するにいとまあらず。
◇その中に衆生往生の因果をとくといふは、 すなわち念仏往生の願成就の 「▽諸有衆生聞其名号」 (大経巻下) の文、 および三輩の文これなり。 もし善導の御こゝろによらば、 この三輩の業因について正雑の二行をたてたまへり。 正行についてまた二あり、 正定・助業なり。 ▽三輩ともに 「▲一向専念」 (大経巻下) といへる、 すなわち正定業なり、 かの仏の本願に順シタガずるフナリ がゆへに。 またそのほかに助業あり、 雑行あり。 乃至
○おほよそこの三輩の中におのおの菩提心等の余善をとくといゑども、 上の本願をのぞむには、 もはら弥陀の名号を称念0875せしむるにあり。 かるがゆへに 「一向専念」 といへり。 上の本願といふは、 四十八願の中の▽第十八の念仏往生の願をさすなり。 一向のことば、 二、 三向に対する義なり。 もし念仏のほかにならべて余善を修せば、 一向の義にそむくべきなり。 往生をもとめむ人は、 もはらこの ¬経¼ によて、 かならずこのむねをこゝろうべきなり。
・小経
◇次に ¬阿弥陀経¼ は、 はじめには極楽世界の依正二報をとく、 次には一日七日の念仏を修して往生することをとけり、 のちには六方の諸仏念仏の一行において証誠護念したまふむねをとけり。 すなわちこの ¬経¼ には余行をとかずして、 えらびて念仏の一行をとけり。 乃至
○おほよそ念仏往生は、 これ弥陀如来の本願の行なり、 教主釈尊選要の法なり、 六方諸仏証誠の説なり。 余行はしからず。 そのむね、 ¬経¼ の文および諸師の釈つぶさなり。 乃至
○また経を釈するに、 仏の功徳もあらはれ、 仏を讃ずれば、 経の功徳もあらわるゝなり。 また疏は経のこゝろを釈したるものなれば、 疏を釈せむに、 経のこゝろあらはるべし。 みなこれおなじものなり、 まちまちに釈するにあたはず。 乃至
・観経
○いまこの ¬観无量寿経¼ に二のこゝろあり。 はじめには定散二善を修して往生す0876ることをあかし、 つぎには名号を称して往生することをあかす。 乃至
○¬清浄覚経¼ (第四巻) の信不信の因縁の文をひけり。 この文のこゝろは、 「▲浄土の法門をとくをきゝて、 信向してみのけいよだつものは、 過去にもこの法門をきゝて、 いまかさねてきく人なり。 いま信ずるがゆへに、 決定して浄土に往生すべし。 ◆またきけどもきかざるがごとくにて、 すべて信ぜぬものは、 はじめて三悪道よりきたりて、 罪障いまだつきずして、 こゝろに信向なきなり。 いま信ぜぬがゆへに、 また生死をいづることあるべからず」 といへるなり。 詮ずるところは、 往生人のこの法おば信じ候なり。 乃至
○天臺等のこゝろは、 十三観の上に九品の三輩観をくわへて、 十六想観となづく。 この定散二善をわかちて、 十三観を定善となづけ、 三福九品を散善となづくることは、 善導一師の御こゝろなり。 乃至
○抑近来の僧尼を、 破戒の僧、 破戒尼といふべからず。 持戒の人、 破戒を制することは正法・像法のときなり。 末法には無戒名字の比丘なり。◗伝教大師 ¬末法灯明記¼ 云、 「▼末法の中に持戒の者ありといはば、 これ怪異なり、 市に虎あらむがごとし。 たれかこれを信ずべき」 といへり。 またいはく、 「▼末法の中には、 たゞ言教0877のみあて行証なし。 もし戒法あらば破戒あるべし。 すでに戒法なし、 いづれの戒おか破せむによて破戒あらむ。 破戒なほなし、 いかにいはむや持戒おや」 といへり。
◇まことに受戒の作法は、 中国にはシムタンコクナリ 持戒の僧十人を請じて戒師とす。 辺地ハクサイには五カウライトウ人をヲヘンヂ請トイフじて戒師として、 戒おばうくるなり。 しかるにこのごろは、 持戒の僧一人もとめいださむに、 えがたきなり。 しかれば、 うけての上にこそ破戒とことばもあれば、 末代の近来は破戒なほなし、 たゞ无戒の比丘なりとまふすなり。 この ¬経¼ に破戒をとくことは、 正像に約してときたまへるなり。 乃至
・念仏往生
○次に名号を称して往生することをあかすといふは、 「▲仏、 阿難につげたまはく、 なんぢよくこの語をたもて。 この語◗たもてといふは、 すなわちこれ无量寿仏のみなをたもてとなり」 (観経) とのたまへり。 善導これを釈していはく、 「▲仏告阿難汝好持是語といふより已下はシモトイフ 、 まさしく弥陀の名号を付属して、 ↓遐代に流ハルカナルヨマデ通することをあかす。 かみよりこのかた、 定散両門の益をとくといゑども、 ↓仏の本願をのぞむには、 こゝろ、 衆生をして↓一向にもはら弥陀仏のみなを称するにあり」 (散善義) とのたまへり。
◇おほよそこの ¬経¼ の中には、 定散の諸行をとくといゑども、 その定散をもては付属したまはず、 たゞ念仏の一行をもて阿難に付属して、 未来0878に流通するなり。
◇「↑遐代に流通す」 といふは、 はるかに法滅の百歳までをさす。 すなわち末法万年ののち、 仏法みな滅して三宝の名字もきかざらむとき、 たゞこの念仏の一行のみとゞまりて百歳ましますべしとなり。 しかれば、 聖道門の法文もみな滅し、 十方浄土の往生もまた滅し、 上生都率もまたうせ、 諸行往生もみなうせたらむとき、 たゞこの念仏往生の一門のみとゞまりて、 そのときも一念にかならず往生すべしといへり。 かるがゆへにこれをさして、 とおき世とはいふなり。 これすなわち遠トホキをあげて、 近チカキを摂すオサムトるナリなり。
◇「↑仏の本願をのぞむ」 といふは、 弥陀如来の四十八願の中の第十八の願をおしふるなり。 いま教主釈尊、 定散二善の諸行をすてゝ念仏の一行を付属したまふことも、 弥陀の本願の行なるがゆへなり。
◇「↑一向専念」 といふは、 ¬双巻経¼ にとくところの△三輩のもんの中の一向専念をおしふるなり。 一向のことは、 余をすつることばなり。 この ¬経¼ には、 はじめにひろく定散をとくといゑども、 のちには一向に念仏をゑらびて付属し流通したまへるなり。 しかれば、 とおくは弥陀の本願にしたがひ、 ちかくは釈尊の付属をうけむとおもはゞ、 一向に念仏の一行を修して往生をもとむべきなり。
◇お0879ほよそ念仏往生は諸行往生にすぐれたること、 おほくの義あり。
◇一には、 因位の本願なり。 いはく弥陀如来の因位、 法蔵菩薩のとき、 四十八の誓願をおこして、 浄土をまふけて仏にならむと願じたまひしとき、 衆生往生の行をたてゝえらびさだめたまひしに、 余行おばえらびすてゝ、 たゞ念仏の一行を選定して往生の行にたてたまへり。 これを選択の願といふことは、 ▲¬大阿弥陀経¼ の説なり。
◇二には、 光明摂取なり。 これは阿弥陀仏因位の本願を称念して、 相好の光明をもて念仏の衆生を摂取してすてたまはずして、 往生せさせたまふなり。 余の行者おば摂取したまはず。
◇三には、 弥陀みづからのたまはく、 「▲これはこれ跋陀和菩薩◆極楽世界にまうでゝ、 いづれの行を修してかこのくにゝ往生し候べきと、 阿弥陀仏にとひたてまつりしかば、 ◆仏こたえてのたまはく、 わがくにに生ぜむとおもはゞ、 わが名を念じて休息ヤムコトするこナカレトナリとなかれ、 すなわち往生することをえてむ」 (一巻本般舟経問事品意) とのたまへり。 余行おばすゝめたまはず。
◇四には、 釈迦の付属にいはく、 いまこの ¬経¼ に念仏を付属流通したまへり。 余行おば付属せず。
◇五には、 諸仏証誠。 これは ¬阿弥陀経¼ にときたまへるところなり。 釈迦仏えらびて念仏往生のむねをときたまへば、 六方の諸仏おのおのおなじくほめ、 おなじくすゝめて0880、 広長のみしたをのべて、 あまねく三千大千世界におほふて証誠したまへり。 これすなわち一切衆生をして、 念仏して往生することは決定してうたがふべからずと信ぜしめむ料なり。 余行おばかくのごとく証誠したまはず。
◇六には、 法滅の往生。 いはく、
「▲万年に三宝滅せむに、 この経住せむこと百年せむ。 その時聞て一念せば、 皆まさにかしこに生を得べし」 (礼讃)
「万年三宝滅 | 斯経住百年 | 爾時聞一念 | 皆当↠得↠生↠彼」 |
といふて、 末法万年ののち、 たゞ念仏の一行のみとゞまりて、 往生すべしといへることなり。 余行はしからず。
◇しかのみならず、 下品下生の十悪の罪人、 臨終のとき聞経と称仏と、 二善をならべたりといゑども、 化仏来迎してほめたまふに、
「▲なんぢ仏名を称するゆへに諸罪消滅す。 われ来りてなんぢを迎ふ」 (観経)
「汝称↢仏名↡故諸罪消滅。 我来迎↠汝」
とほめて、 いまだ聞経の事おばほめたまはず。
◇また ¬双巻経¼ に三輩往生の業をとく中に、 菩提心および起立塔像等の余の行おもとくといゑども、 流通のところにいたりて、
「▲それかの仏の名号を聞ことを得て、 歓喜踊躍して乃至一念あらむ。 まさに知るべしこの人大利を得とす。 すなわちこれ无上の功徳を具足するなり」 (巻下)
「其有↧得↠聞↢彼仏名号↡、 歓喜踊躍乃至一念↥。 当↠知此人為↠得↢大利↡。 則是具↢足无上功徳↡」
とほめて、 余行をさして无上功徳とはほめたまはず。 念仏往生の旨要をとるに、 これにありと。
・名号功徳
○又云、 仏の功徳は百千万劫のあひだ、 昼ヒル夜ヨルにとくともきわめつくすべからず。 これによて、 教主釈尊、 かの阿弥陀仏の功徳を称揚したまふにも、 要の中の要をと0881りて、 略してこの三部妙典をときたまへり。 仏すでに略したまへり、 当座の愚僧いかゞくはしくするにたえむ。 たゞ善根成就のために、 かたのごとく讃嘆したてまつるべし。 阿弥陀如来の内証外用の功徳无量なりといゑども、 要をとるに名号の功徳にはしかず。 このゆへにかの阿弥陀仏も、 ことにわが名号をして衆生を済度し、 また釈迦大師も、 おほくかのほとけの名号をほめて未来に流通したまへり。
◇しかれば、 いまその名号について讃嘆したてまつらば、 阿弥陀といふは、 これ天竺の梵語なり。 こゝには翻訳して无量寿仏といふ。 ▲また↓无量光といへり。 または↓无辺光仏・↓无光仏・无対光仏・炎王光仏・↓清浄光仏・↓歓喜光仏・↓智慧光仏・不断光仏・難思光仏・无称光仏・超日月光仏といへり。 こゝにしりぬ、 名号の中に光明と寿命との二の義をそなえたりといふことを。 かの仏の功徳の中には、 寿命を本とし、 光明をすぐれたりとするゆへなり。 しかれば、 また光明・寿命の二の功徳をほめたてまつるべし。
・光明功徳 ・无量光
○まづ光明の功徳をあかさば、 はじめに↑无量光は、 ¬経¼ (観経) にのたまはく、 「△无量寿仏に八万四千の相あり。 一一の相におのおの八万四千の随形好あり。 一一の0882好にまた八万四千の光明あり。 一一の光明あまねく十方世界をてらす。 念仏の衆生を摂取して、 すてたまはず」 といへり。 ◇恵心、 これをかむがへていはく、 「▲一一の相の中におのおの七百五倶胝六百万の光明を具せり。 熾然赫奕たりサカリニシテカヾヤクトナリ」 (要集巻中意) といへり。 ◇一相よりいづるところの光明かくのごとし、 いはむや八万四千の相おや。 まことに算数のおよぶところにあらず。 かるがゆへに无量光といふ。
・光明功徳 ・无辺光
◇つぎに↑无辺光といふは、 かの仏の光明、 そのかずかくのごとし。 无量のみにあらず、 てらすところもまた辺際あることなきがゆへに无辺光といふ。
・光明功徳 ・无光
◇つぎに↑无光は、 この界の日月灯燭等のごときは、 ひとへなりといゑども、 ものをへだつれば、 そのひかりとほることなし。 もしかの仏の光明、 ものにさえらるれば、 この界の衆生、 たとひ念仏すといふとも、 その光摂をかぶることをうべからず。
◇そのゆへは、 かの極楽世界とこの娑婆世界とのあひだ、 十万億の三千大千世界をへだてたり。 その一一の三千大千世界におのおの四重の鉄囲山あり。 いはゆるまづ一四天下をめぐれる鉄囲山あり、 たかさ須弥山とひとし。 つぎに少千界をめぐれる鉄囲山あり、 たかさ第六天にいたる。 つぎに中千界をめぐれる鉄囲山あり、 たかさ色界の初禅にいたる。 次に大千界をめぐれる鉄囲山あり、 たかさ0883第二禅にいたれり。 しかればすなわち、 もし无光にあたらずは一世界をすらなほとほるべからず。 いかにいはむや、 十万億の世界おや。
◇しかるにかの仏の光明、 かれこれそこばくの大小諸山をとほりてらして、 この界の念仏衆生を摂取したまふに障あることなし。 余の十方世界を照摂しテラシオサムたまふことも、 またかくのごとし。 かるがゆへに无光といふ。
・光明功徳 ・清浄光
◇次に↑清浄光は、 人師釈していはく、 「▲无貪の善根より生ずるところのひかりなり」 (述文賛巻中意)。
◇貪に二あり、 淫貪・財貪なり。 清浄といふは、 たゞ汚穢不浄を除却すノゾクサグルトるイフにはあらず、 その二の貪を断除するなり。 貪を不浄となづくるゆへなり。 もし戒に約せば、 不淫戒と不慳貪戒とにあたれり。 しかれば法蔵比丘、 むかし不淫・不慳貪所生の光といふ。
◇この光にふるゝものは、 かならず貪欲のつみを滅す。 もし人あて、 貪欲さかりにして不淫・不慳貪の戒をたもつことえざれども、 こゝろをいたしてもはらこの阿弥陀仏の名号を称念すれば、 すなわちかの仏、 无貪清浄の光をはなちて照触摂取したまふゆへに、 の光の不浄のぞこる。 无戒・破戒の罪滅して、 无貪善根の身となりて、 持戒清浄の人とひとしきなり。
・光明功徳 ・歓喜光
◇次に↑歓喜光は、 これはこれ无瞋善根所生の光。 ひさしく不瞋恚戒をたもちて、 この光をえたまへり。 かるがゆ0884へに无瞋所生の光といふ。 この光にふるゝものは、 瞋恚のつみを滅す。 しかれば憎盛のソネムコヽロ 人なりといふとも、 もはら念仏を修すれば、 かの歓喜光をもて摂取したまふゆへに、 瞋恚のつみ滅して、 忍辱のひととおなじ。 これまたさきの清浄光の貪欲のつみ滅するがごとし。
・光明功徳 ・智慧光
◇次に↑智慧光は、 これはこれ无痴の善根所生の光なり。 ひさしく一切智慧をまなうで、 愚痴の煩悩をたちつくして、 この光をえたまへるがゆへに、 无痴所生の光といふ。 この光はまた愚痴のつみを滅す。 しかれば、 无智の念仏者なりといふとも、 かの智慧の光をしててらし摂たまふがゆへに、 すなわち愚痴のを滅して、 智慧は勝マサル 劣オトルあることなし。 またこの光のごとくしりぬべし。
◇かくのごとくして十二光の名ましますといふとも、 要をとるにこれにあり。
◇凡かの仏の光明功徳の中には、 かくのごときの義をそなえたり。 くはしくあかさば多種あるべし。 おほきにわかちて二あり。 一には常光、 二には神通光なり。
・光明功徳 ・常光
◇はじめに常光ツネノヒカリといふは、 諸仏の常光、 おのおの意楽にしオムコヽロニアリ たがふて、遠トオキ近チカキ・長ナガキ短あミジカキり。 あるいは常光おもて、 おのおの一尋相といへり。 釈迦仏の常光のごとき、 これなり。 あるいは七尺をてらし、 あるいは一里をてらし、 あるいは一由旬0885をてらし、 あるいは二・三・四・五、 乃至百千由旬をてらし、 あるいは一四天下をてらし、 あるいは一仏世界をてらし、 あるいは二仏・三仏、 乃至百千仏の世界をてらせり。
◇この阿弥陀仏の常光は、 八方上下无央数の諸仏の国土において、 てらさずといふところなし。 八方上下は、 極楽について方角をカタスミトイフおしふるなり。 この常光について異説あり。 すなわち ¬*平等覚経¼ には、 別して▲頭光をおしえたり。 ¬観経¼ にはすべて▲身光といへり。 かくのごとき異説あり、 ¬往生要集¼ に堪がへたり、 みるべし。 常光といふは、 長時不断にてらす光なり。
・光明功徳 ・神通光
◇次に神通光といふは、 ことに別時にてらす光なり。 釈迦如来の ¬法華経¼ をとかむとしたまひしとき、 東方万八千の土をてらしたまふしがごときは、 すなわち神通光なり。 阿弥陀仏の神通光は、 摂取不捨の光明なり。 念仏衆生あるときはてらし、 念仏の衆生なきときはてらすことなきがゆへなり。
◇善導和尚 ¬観経の疏¼ (定善義) にこの摂取の光明を釈したまへるしたに、 「▲光照の遠近をあかす」 といへり。 この念仏衆生の居ヰタ所のルトコロ遠トオキ近チカキについて、 摂取の光明も遠近あるべしといふ義なり。 たとひ一ついゑのうちに住したりとも、 東によりてゐたらむ人の念仏まふさむには、 摂取の光明とおくてらし、 西によりてゐたらむ人の念仏まふさむには、 光明0886ちかくてらすべし。 これをもてこゝろうれば、 一つ城のうち、 一国のうち、 一閻浮提のうち、 三千世界の内、 乃至他方各別の世界まで、 かくのごとしとしるべし。
◇しかれば、 念仏衆生について光照の遠近ありと釈したまへる、 まことにいわれたることとこそおぼえ候へ。 これすなわち阿弥陀仏の神通光なり。
◇諸仏の功徳はいづれの功徳もみな法界に遍すといゑども、 余の功徳はその相あらわるゝことなし。 たゞ光明のみ、 まさしく法界に遍する相をあらわせる功徳なり。 かるがゆへに、 もろもろの功徳の中には光明をもて最勝なりと釈したるなり。
◇また諸仏の光明の中には弥陀如来の光明なほまたすぐれたまへり。 このゆへに教主釈尊ほめてのたまはく、
「▲无量寿仏の威神光明、 最尊第一にして、 諸仏の光明の及ぶことあたはざるところなり」 (大経巻上)
「无量寿仏威神光明、 最尊第一、 諸仏光明所↠不↠能↠及」
とのたまへり。 またいはく、
「▲われ无量寿仏の光明威神巍巍殊妙なることを説かむに、 昼夜一劫すとも、 なほいまだ尽すことあたはじ」 (大経巻上)
「我説↢无量寿仏光明威神巍巍殊妙↡、 昼夜一劫、 尚未↠能↠尽」
とのたまへり。 これはこれ、 かの仏の光明と余の仏の光明とを相対してその勝劣を校量せむに、 弥陀仏におよばざる仏をかずえむに、 よる・ひる一劫すとも、 そのかずをしりつくすべからずとのたまへるなり。
◇かくのごとく殊勝の光をえたまふことは、 すなわち願行にこたへたり。 いはく、 かの仏、 法蔵比丘のむかし、 世自在王仏のみもとにして、 二百一十億0887の諸仏の光明をみたてまつりて、 選択思惟して願じていはく、
「▲たとひわれ仏を得むに、 光明よく限量あて、 下百千億那由他の諸仏の国を照さざるに至らば、 正覚を取らじ」 (大経巻上)
「設我得↠仏、 光明有↢能限量↡、 下至↠不↠照↢百千億那由他諸仏国↡者、 不↠取↢正覚↡」
とのたまへり。 この願をおこしてのち、 兆載永劫のあひだ積功累徳して、 願行ともにあらわして、 この光をえたまへり。
◇仏の在世に灯指比丘といふ人ありき。 生しとき、 指より光をはなちて十里をてらすことありき。 のちに仏の御弟子となりて、 出家して羅漢果をえたり。 指より光をはなつ因縁によりて、 なづけて灯指比丘といへり。 過去九十一劫のむかし、 毘婆尸仏のときに、 ふるき仏像の指の損じたまひたるを修理したてまつりたりし功徳によりて、 すなわち指より光をはなつ報をうけたるなり。
◇また梵摩比丘といふ人ありき。 身より光をはなちて一由旬をてらせり。 これ過去に仏に灯明をたてまつりたりしがゆへなり。
◇また仏の御弟子阿那律は、 仏の説法の座に睡眠したることありき。 仏、 これを種種に弾呵したまふ。 阿那律、 すなわち懺悔のこゝろをおこして睡眠断ず。 七日をへてのち、 その目開ながら、 そのまなこみずなりぬ。 これを医師にとふに、 医師こたえていはく、 人は食をもて命とす、 眼はねぶりをもて食とす。 もし人七日食せざらむに、 命あにつきざらむや。 しかればすなわち、 医療のおよぶところにあらず。 命つきぬ0888る人に医療よしなきがごとしといへり。 そのとき仏、 これをあわれみて天眼の法をおしえたまふ。 すなわちこれを修して、 かへりて天眼通をえたり。 すなわち天眼第一阿那律といへるこれなり。
◇過去に仏のものをぬすまむとおもふて塔の中にいたるに、 灯明すでにきえなむとするをみて、 弓のはずをもてこれをかきあぐ。 そのときに、 忽然として改悔のこゝろをおこして、 あまさへ无上道心をおこしたりき。 それよりこのかた、 生生世世に无量の福をえたり。 いま釈迦出世のとき、 ついに得脱して、 またかくのごとく天眼通をえたり。 これすなわち、 かの灯明をかゝげたりし功徳によてなり。 乃至
・寿命功徳
○次に寿命の功徳といふは、 諸仏寿命、 意楽にしたがふて長短あり。 これによて恵心僧都、 四句をつくれり。 「あるいは能化の仏は命ながく、 所化の衆生は命みじかきあり。 華光如来のごとし。 仏の命は十二小劫、 衆生の命は八小劫なり。 あるいは能化の仏は命みじかく、 所化の衆生は命ながきあり。 月面如来のごとし。 仏の命一日一夜、 衆生の命は五十歳なり。 あるいは能化・所化ともに命みじかきあり。 釈迦如来のごとし。 仏も衆生もともに八十歳なり。 あるいは能化・所化ともに命ながきあり。 阿弥陀如来のごとし。 仏も衆生もともに无量歳なり」 (小0889経略記意)。
◇かるがゆへに ¬経¼ (大経巻上) にのたまはく、
「▲仏阿難に告げたまはく、 无量寿仏寿命長久にして勝計すべからず。 なんぢむしろ知るや、 ◆たとひ十方世界の无量の衆生みな人身を得て、 ことごとく声聞・縁覚を成就せしめて、 すべてともに推し算計して思をもはらにし一心にその智力を竭して百千万劫において、 ことごとくともにその寿命の長遠の数を推し算計せむに、 窮尽してその限極を知ることあたはず。 ◆声聞・菩薩・天人之衆の寿命の長短またかくのごとし。 算数譬喩のよく知るところにあらざるなり」
「仏告↢阿難↡、 无量寿仏寿命長久不↠可↢勝計↡。 汝寧知乎、 仮使十方世界无量衆生皆得↢人身↡、 悉令↣成↢就声聞・縁覚↡、 都共推算計禅↠思一心竭↢其智力↡於↢百千万劫↡、 悉共推算↢計其寿命長遠之数↡、 不↠能↣窮尽知↢其限極↡。 声聞・菩薩・天人之衆寿命長短亦復如↠是。 非↣算数譬喩所↢能知↡也」
とのたまへり。
◇たゞもし神通の大菩薩等のかずへたまはむには、 一大恒沙劫なりと、 ¬大論¼ のこゝろをもて、 恵心勘たり。 この数、 二乗凡夫のかずへてしるべきかずにあらず。 かるがゆへに无量とはいへるなり。
◇すべて仏の功徳を論ずるに、 能持・所持の二の義あり。 寿命をもて能持といひ、 自余のもろもろの功徳をばことごとく所持といふなり。 寿命はよくもろもろの功徳をたもつ。 一切の万徳、 みなことごとく寿命にたもたるゝがゆへなり。 これは当座の道師がわたくしの義なり。 すなわちかの仏の相好・光明・説法・利生等の一切功徳、 および国土の一切荘厳等のもろもろの快楽のことら、 たゞかの仏の命のながくましますがゆへの事なり。 もし命なくは、 かれらの功徳・荘厳等なにゝよりてかとゞまるべき。
◇しかれば、 四十八願の中にも、 寿命无量の願に自余の諸願おばおさめたるなり。 たとひ第十八0890の念仏往生の願、 ひろく諸機を摂して済度するににたりといゑども、 仏の御命もしみじかくは、 その願なほひろまらじ。 そのゆへは、 もし百歳千歳、 もしは一劫二劫にてもましまさましかば、 いまのときの衆生はことごとくその願にもれなまし。 かの仏成仏してのち、 十劫をすぎたるがゆへなり。 これをもてこれをおもへば、 済度利生の方便は寿命の長遠なるにすぎたるはなく、 大慈大悲の誓願も寿命の无量なるにあらはるゝものなり。
◇これ娑婆世界の人も、 命をもて第一のたからとす。 七珍万宝をくらの内にみてたれども、 綾羅綿繍をはこのそこにたくわへたるも、 命のいきたるほどぞわが宝にてもある、 まなこ閉ぬるのちはみな人のものなり。
◇しかれば、 乃至 ○弥陀如来の寿命无量の願をおこしたまひけむも、 御身のため長寿の果報をもとめたまふにはあらず。 済度利生のひさしかるべきために、 また衆生をして忻求のこゝろをおこさしめんがためなり。 一切衆生はみな命ながゝらむことをねがふがゆへなり。 凡かの仏の功徳の中には、 寿命无量の徳をそなへたまふにすぎたることは候はぬなり。
◇このゆへに ¬双巻経¼ の題にも 「无量寿経」 といへども、 无量光経とはいはず。 隋朝よりさきの旧訳には、 みな経の中に宗とムネト あることをえらびて、 詮をぬき略を存じてその題目とす0891るなり。 すなわちこの ¬経¼ の詮には、 阿弥陀如来の功徳をとけるなり。 その功徳の中には、 光明无量・寿命无量の二の義をそなへたり。 その中にはまた寿命なを最勝なるゆへに、 「无量寿経」 となづくるなり。
◇また釈迦如来の功徳の中にも、 久遠実成の宗をあらわせるをもて殊勝甚深のこととせり。 すなわち ¬法華経¼ に 「寿量品」 とてとかれたり。 廿八品の中には、 この品をもてすぐれたりとす。 まさにしるべし、 諸仏の功徳にも寿命をもて第一の功徳とし、 衆生のたからにも命をもて第一のたからとすといふことを。
◇その命ながき果報をうることは、 衆生に飲食をあたへ、 またものゝ命をころさゞるを業因とするなり。 因と果と相応することなれば、 食はすなわち命をつぐがゆへに、 食をあたふるはすなわち命をあたふるなり。 不殺生戒をたもつもまた衆生の命をたすくるなり。 かるがゆへに、 飲食をもて衆生に施与し、 慈悲に住して不殺生戒をたもてば、 かならず長命の果報をえたり。
◇しかるにかの阿弥陀如来は、 すなわち願行あひたすけて、 この寿命无量の徳おば成就したまへるなり。 願といふは、 四十八願の中の第十三の願にいはく、
「▲たとひわれ仏を得むに、 寿命よく限量あて、 下百千億那由他劫に至らば、 正覚を取らじ」 (大経巻上)
「設我得↠仏、 寿命有↢能限量↡、 下至↢百千億那由他劫↡者、 不↠取↢正覚↡」
とのたまへり。 行といふは、 かの願をたてたまふてのち0892无央数劫のあひだ、 また不殺生戒をたもてり。 また一切の凡聖におひて、 飲食・医薬を供養し施与したまへるなり。 これは阿弥陀如来の寿命の功徳なり。 乃至
・弥陀入滅
○かの仏、 かくのごとく寿命无量なりといえども、 また涅槃隠没の期まします。 これについて、 あわれなることこそ候へ。 道綽禅師、 念仏の衆生におひて始終両益ありと釈したまへる。 その終益をあかすに、 すなわち ¬観音授記経¼ (意) をひきていはく、 「▲阿弥陀仏、 住世の命、 兆載永劫のゝち滅度したまひて、 たゞ観音・勢至、 衆生を接引したまふことあるべし。 そのときに、 一向にもはら念仏して往生したる衆生のみ、 つねに仏をみたてまつる、 滅したまはぬがごとし。 余行往生の衆生は、 みたてまつることあらず」 といへり。 往生をえてむ上に、 そのときまでのことはあまりごとぞ、 とてもかくてもありなむとおぼえぬべく候へども、 そのときにのぞみては、 かなしかるべきことにてこそ候へ。
◇かの釈迦入滅のありさまにても、 おしはかられ候なり。 証果の羅漢、 深位の大フカキクラヰトイフ士も、 非滅・現滅のことはりをしりながら、 当時別離のかなしみにたえず、 天にあおぎ地にふし、 哀哭し悲泣しき。 いはんや未証の衆生おや、 浅識の凡愚おや、 乃至竜神八部も五十二類も、 凡涅槃の一会悲歎のなみだをながさずといふことなし。 しかの0893みならず、 娑羅林のこずゑ、 抜提河の水、 すべて山川ヤマカワ・渓タニ谷・草木・樹林も、 みな哀傷のいろをあらはしき。
◇しかれば、 過去をきゝて未来をおもひ、 穢土になずらへて浄土をしるに、 かの阿弥陀仏の衆宝荘厳の国土をかくし、 涅槃寂滅の道場にいりたまひてのち、 八万四千の相好ふたゝび現ずることなく、 无量无辺の光明はながくてらすことなくは、 かの会の聖衆人天等、 悲哀のおもひ、 恋コヒ慕シタのこフトナリゝろざし、 いかばかりかは候べき。 七宝自然のはやしなりとも、 八功如意の水なりとも、 名華・軟草のクサノナヽリ いろも、 鳧雁・鴛鴦のこえも、 いかゞそのときをしらざらむや。 浄穢は土ことなりといへども、 世尊の滅度すでにことなることなし。 迷マドフ悟サトルはこゝろかわるといゑども、 所化の悲恋なんぞかはることあらむや。
◇この娑婆世界の凡夫、 具縛の人の心事、 コヽロトコトヽ相応せず。 意楽各別にて、 つねに違タガフ背ソムクし、 たがひに厭イトイ悪ニクムをするだにも、 あるいは夫妻のちぎりおもむすび、 あるいは朋友のトモトナルナリことばおもなして、 しばらくもなづさひ、 また馴ぬれば、 遠トオク近チカクのさかひをへだて、 前後の生をあらため、 かくのごとく生おも死おもわかれをつぐるときには、 なごりをおしむこゝろたちまちにもよおし、 かなしみにたえず、 なみだおさへがたきことにてこそは候へ。
◇いかにいはむや、 かの仏、 内には慈悲哀愍のこ0894ゝろをのみたくはへてましませば、 なれたてまつるにしたがふて、 いよいよむつまじく、 外には見者ミタテマツルモノ 无厭の徳をイトフコトナシトナリ そなへてましませば、 みまいらするごとに、 いやめづらなるおや。 まことに无量永劫があひだ、 あさゆふに万徳円満のみかほをおがみたてまつり、 昼夜に四辨无窮の御音になれたてまつりて、 恭敬瞻仰し、 随遂給仕して、 すぎたらむここちに、 ながくみたてまつらざらむことになりたらむばかり、 かなしかるべきことや候べき。 无有衆苦のさかひ、 離諸妄想のところなりといふとも、 このこと一事は、 さこそおぼへ候らめとぞおぼえ候。
◇それにもとのごとくみたてまつりて、 あらたまることなからむことは、 まことにあはれにありがたきこととこそおぼへ候へ。 これすなわち、 念仏一行、 かの仏の本願なるがゆへなり。 おなじく往生をねがはむ人は、 専修念仏の一門よりいるべきなり。
(895)・大経
▲次◗¬双巻无量寿経¼。 「浄土三部経」 の中には、 この ¬経¼ を根本とするなり。 其故は、 一切の諸善は願を根本とす。 而に此 ¬経¼ には弥陀如来の因位の願をときていはく、 ▲乃往過去久遠无量无央数劫に仏ましましき、 世自在王仏とまふしき。 ◆そのとき一人の国王ありき。 仏の説法をきゝて、 无上道心をおこして、 国をすて王をすてゝ、 家をいでゝ沙門となれり。 なづけて法蔵比丘といふ。 ◆すなわち世自在王仏の所◗詣て、 右にめぐること三帀して、 頂跪合掌して仏をほめたてまつりてまうしてまうさく、 ▲われ浄土をまうけて衆生を度せむとおもふ。 ◆ねがわくは、 わがために経法をときたまへと。
▲そのとき世自在王仏、 法蔵比丘のために二百一十億の諸仏の浄土の人天の善悪、 国土の麁妙をとき、 また現じてこれをあたへたまふ。 ◆法蔵比丘、 仏の所説をきゝ、 また厳浄の国土をことごとくみおはりてのち、 ▲五劫のあひだ思惟し取捨して、 二百一十億の浄土の中よりえらびとりて、 四十八の誓願をまうけたり。
◇この二百一十億の諸仏のくにの中より、 善悪の中には0896悪をすてゝ善をとり、 麁妙の中には麁をすてゝ妙をとる。 かくのごとく取捨し選択して、 この四十八願をおこせるがゆへに、 この ¬経¼ の同本異訳の △¬大阿弥陀経¼ には、 この願を選択の願ととかれたり。
◇その選択のやう、 おろおろまふしひらき候はむ。
・大経 ・无三悪趣の願
◇まづはじめの▲无三悪趣の願は、 かの諸仏の国土の中に、 三悪道あるおばえらびすてゝ、 三悪道なきおばえらびとりてわが願とせり。
・大経 ・不更悪趣の願
◇次に▲不更悪趣の願は、 かの諸仏のくにの中に、 たとひ三悪道なしといゑども、 かのくにの衆生、 また他方の三悪道におつることあるくにおばえらびすてゝ、 すべて三悪道にかへらざるくにをえらびとりてわが願とせるなり。
・大経 ・悉皆金色の願、无有好醜の願、…
◇次に▲悉皆金色の願、 次に▲无有好醜の願、 一一の願みなかくのごとしとしるべし。
・大経 ・念仏往生の願
◇第十八の▽念仏往生の願は、 かの二百一十億の諸仏の国土の中に、 あるいは布施をもて往生の行とするくにあり、 あるいは持戒および禅定・智慧等、 乃至発菩提心、 持経・持呪等、 孝養父母・奉事師長等、 かくのごときの種種の行をもて、 おのおの往生の行とするくにあり、 あるいはまた、 もはらそのくにの教主の名号を称念するをもて、 往生の行とするくにもあり。 しかるにかの法蔵比丘、 余行をもて往生の行とする国おばえらびすてゝ、 た0897ゞ名号を称念して往生の行とする国をえらびとりて、 わが国土の往生の行も、 かくのごとくならむとたてたまへるなり。
・大経 ・来迎引接の願、繋念定生の願、…
◇次に▲来迎引接の願、 次に▲係念定生の願、 みなかくのごとくえらびとりて願じたまへり。 凡はじめ△无三悪趣の願より、 おはり▲得三法忍の願にいたるまで思惟し選択するあひだ、 五劫おばおくりたるなり。 かくのごとく選択し摂取してのちに、 仏のみもとに詣マウデして、 一一にこれをとく。
◇その四十八願ときおはりてのち、 また偈をもてまふさく、
「▲われ超世の願を建つ、 かならず无上道に至らむ。 この願満足せずは、 誓ふ正覚を成らじと。 乃至
▲この願もし剋果すべくは、 大千感動すべし。 虚空のもろもろの天人、 まさに珍妙の華を雨べし」 (大経巻上)
「我建↢超世願↡ | 必至↢无上道↡ | 斯願不↢満足↡ | 誓不↠成↢正覚↡ 乃至 |
斯願若剋果 | 大千応↢感動↡ | 虚空諸天人 | 当↠雨↢珍妙華」 |
と。
◇かの比丘、 この偈をときおはるに、 ▲ときに応じてあまねく地、 六種に震動し、 天より妙華そのうえに散じて、 自然の音楽、 空の中にきこへ、 また空の中にほめていはく、 「決定してかならず无上正覚なるべし」 (大経巻上) と。
◇しかれば、 かの法蔵比丘の四十八願は、 一一に成就して決定して仏になるべしといふことは、 そのはじめ発願のとき、 世自在王仏の御まへにして、 諸魔・竜神八部、 一切大衆の中にして、 かねてあらわれたることなり。
◇しかれば、 かの世自在王仏の法の中には、 法蔵菩薩の四十八願経とて受持・読誦しき。 いま釈迦の法の中なりといふとも、 かの仏の願力をあおぎて、 か0898のくにゝむまれむとねがふは、 この法蔵菩薩四十八願の法門にいるなり。 すなわち道綽禅師・善導和尚等も、 この法蔵菩薩の四十八願法門にいりたまへるなり。
◇かの華厳宗の人は ¬華厳経¼ をたもち、 あるいは三論宗の人は ¬般若経¼ 等をたもち、 あるひは法相宗の人は ¬瑜伽¼・¬唯識¼ をたもち、 あるひは天臺宗の人は ¬法華¼ をたもち、 あるひは善无畏は ¬大日経¼ をたもち、 金剛智は ¬金剛頂経¼ をたもつ。 かくのごとく、 おのおの宗にしたがふて、 依経・依論をたもつなり。
◇いま浄土宗を宗とせむ人は、 この ¬経¼ によて四十八願法門をたもつべきなり。 この ¬経¼ をたもつといふは、 すなわち弥陀の本願をたもつなり。 弥陀の本願といふは、 法蔵菩薩の四十八願法門なり。
◇その四十八願の中に、 第十八の念仏往生の願を本体とするなり。 かるがゆへに善導のたまはく、
「▲弘誓多門にして四十八なり。 ひとへに念仏を標してもとも親とす」 (法事讃巻上)
「弘誓多門四十八 | 偏標↢念仏↡最為↠親」 |
といへり。 念仏往生といふことは、 みなもとこの本願よりおこれり。
◇しかれば、 ¬観経¼・¬弥陀経¼ にとくところの念仏往生のむねも、 乃至余の経の中にとくところも、 みなこの ¬経¼ にとけるところの本願を根本とするなり。 なにをもてかこれをしるとならば、 ¬観経¼ にとけるところの光明摂取を、 善導釈したまふに、
「▲ただ念仏のものあて光摂を蒙る、 まさに知るべし本願もとも強しとす」 (礼讃)
「唯有↢念仏↡蒙↢光摂↡ | 当↠知本願最為↠強」 |
とい0899へり。 この釈のこゝろ、 本願なるがゆへに光明も摂取すときこえたり。
◇またおなじ ¬経¼ に、 下品上生に聞経と称仏とをならべてとくといゑども、 化仏きたりてほめたまふには、 たゞ称仏の功をのみほめて、 聞経おばほめたまはずといへり。 善導釈していはく、
「▲仏の本願の意を望まば、 ただ正念称名を勧む。 往生の義疾きこと雑散の業に同からず」 (散善義)
「望↢仏本願意↡者、 唯勧↢正念称名↡。 往生義疾不↠同↢雑散之業↡」
といへり。 これまた本願なるがゆへに、 称仏おばほめたまふときこへたり。
◇またおなじ ¬経¼ の付属の文を釈したまふにも、
「▲仏の本願の意を望むには、 衆生をして一向にもはら弥陀仏の名を称するにあり」 (散善義)
「望↢仏本願意↡、 在↣衆生一向専称↢弥陀仏名↡」
といへり。 これまた弥陀の本願なるがゆへに、 釈尊も付属し流通せしめたまふときこへたり。
◇また ¬阿弥陀経¼ にとけるところの一日七日の念仏を善導ほめたまふに、
「▲直に弥陀の弘誓重れるによて、 凡夫念じてすなわち生ぜしむることを致す」 (法事讃巻下)
「直為↢弥陀弘誓重↡ | 致↠使↢凡夫念即生↡」 |
といへり。 これまた一日七日の念仏も、 弥陀の本願なるがゆへに往生すときこえたり。
◇乃至 ¬双巻経¼ の中にも、 三輩已下の諸文はみなかみの本願によるなり。 凡この 「三部経」 にかぎらず、 一切諸経の中にあかすところの念仏往生は、 みなこの ¬経¼ の本願をのぞまむとてとけるなりと、 しるべし。
◇抑法蔵菩薩、 いかなれば余行をすてゝ、 たゞ称名念仏の一行をもて本願にたて0900たまへるぞといふに、 これに二の義あり。 一には念仏は↓殊勝の功徳なるがゆへに、 二は念仏は↓行じやすきによて諸機にあまねきがゆへに。
◇はじめに↑殊勝の功徳なるがゆへにといふは、 かの仏の因果、 総別の一切の万徳、 みなことごとく名号にあらわるゝがゆへに、 一たびも南无阿弥陀仏ととなふるに、 大善根をうるなり。 こゝをもて ¬西方要決¼ にいはく、
「▲諸仏の願行はこの果の名を成ず、 たゞよく号を念ずるにつぶさに衆徳を包ぬ、 かるがゆへに大善と成て往生を廃せず」
「諸仏願行成↢此果名↡、 但能念↠号具包↢衆徳↡、 故成↢大善↡不↠廃↢往生↡」
といへり。 またこの ¬経¼ (大経巻下) に、 すなわち一念をさして 「▲无上功徳」 とほめたり。 しかれば、 殊勝の大善根なるがゆへに、 えらびて本願としたまへるなり。
◇二には↑修しやすきがゆへにといふは、 南无阿弥陀仏とまふすことは、 いかなる愚痴のものも、 おさなきも、 老たるも、 やすくまふさるゝがゆへに、 平等の慈悲の御こゝろをもて、 その行をたてたまへり。
◇もし布施をもて本願とせば、 貧窮困乏のともがら、 さだめて往生ののぞみをたゝむ。 もし持戒をもて本願とせば、 破戒・無戒のたぐひ、 また往生ののぞみをたつべし。 もし禅定をもて本願とせば、 散乱麁動のともがら、 往生すべからず。 もし智慧をもて本願とせば、 愚鈍下智のもの、 往生すべからず。 自余の諸行もこれになずらへてしるべし。 しかるに布施・持戒等の諸行にたえたるものは0901きわめてすくなく、 貧窮・破戒・散乱・愚痴のともがらははなはだおほし。 しかれば、 かみの諸行をもて本願としたまひたらましかば、 往生をうるものはすくなく、 往生せぬものはおほからまし。
◇これによて法蔵菩薩、 平等の慈悲にもよおされて、 あまねく一切を摂せむがために、 かの諸行をもては往生の本願とせず、 たゞ称名念仏の一行をもてその本願としたまへるなり。
◇かるがゆへに法照禅師のいはく、
「未来世の悪の衆生においては、 西方の弥陀の号を称念せよ。
仏の本願によて生死を出づ。 直心をもてのゆへに極楽に生ず」 と 云。
「於↢未来世悪衆生↡ | 称↢念西方弥陀号↡ |
依↢仏本願↡出↢生死↡ | 以↢直心↡故生↢極楽↡」 と。 |
◇又 (五会法事讃巻本) 云、
「▲かの仏の因中に弘誓を立てたまへり。 名を聞てわれを念ぜばすべて迎へ来しむ。
貧窮とまさに富貴とを簡ばず、 下智と高才とを簡ばず、
多聞と浄戒を持てるを簡ばず、 破戒と罪根深きとを簡ばず。
ただ廻心して多く念仏せしむれば、 よく瓦礫をして変じて金と成さしむ」 と。
「彼仏因中立↢弘誓↡ | 聞↠名念↠我総迎来 |
不↠簡↣貧窮将↢富貴↡ | 不↠簡↣下智与↢高才↡ |
不↠簡↣多聞持↢浄戒↡ | 不↠簡↢破戒罪根深 |
但使↢廻心多念仏↡ | 能令↢瓦礫変成↟金」。 |
◇かくのごとく誓願をたてたりとも、 その願成就せずは、 まさにたのむべきにあら0902ず。 しかるにかの法蔵菩薩の願は、 一一に成就してすでに仏になりたまへり。 その中に、 この念仏往生の願成就の文にいはく、
「▲あらゆる衆生、 その名号を聞て、 信心歓喜して、 乃至一念せむ。 至心廻向せしめたまへり。 かの国ゝ生むと願ずれば、 すなわち往生を得、 不退転に住せむ」 (大経巻下) と 云。
「諸有衆生、 聞↢其名号↡、 信心歓喜、 乃至一念。 至心廻向。 願↠生↢彼国↡、 即↢得往生↡、 住↢不退転↡」 云。
△次◗三輩の往生はみな、 「一向専念无量寿仏」 (大経巻下) といへり。 この中に菩提心等の諸善ありといゑども、 かみの本願をのぞむには、 一向にもはらかの仏の名号を念ずるなり。 例せばかの ¬観経の疏¼ (散善義) に釈せるがごとし。 「▲かみよりこのかた、 定散両門の益をとくといゑども、 ▽仏の本願をのぞむには、 こゝろ衆生をして一向にもはら弥陀仏のみなを称するにあり」 といへり。 「望仏本願」ホトケノホングワンヲといふノゾムトイフは、 この三輩の中の 「一向専念」 をさすなり。
◇次に流通にいたて、 「△其有得聞彼仏名号、 歓喜踊躍乃至一念。 当知此人為得大利。 則是具足无上功徳」 (大経巻下) といへり。 善導の御こゝろは、 「▲上尽一形下至一念」 (礼讃意)、 无上功徳なりと。 余師のこゝろによらば、 たゞ少をあげて多をあらはすなりといへり。
◇次に
「▲当来の世に経道滅尽せむに、 われ慈悲哀愍をもて、 ことにこの経を留て止住せむこと百歳せむ。 それ衆生あてこの経に値ふ者は、 意の所願に随てみな得度すべし」 (大経巻下)
「当来之世経道滅尽、 我以↢慈悲哀愍↡、 特留↢此経↡止住百歳。 其有↢衆生↡値↢此経↡者、 随↢意所願↡皆可↢得度↡」
といへり。 この末法万年ののち、 三宝滅尽のときの往生をおもふに、 一向専念の往生の義をあかすなり。
◇そのゆへは、 菩提心0903をときたる諸経みな滅しなば、 なにゝよてか菩提心の行相おもしらむ。 大小の戒経みなうせなば、 なにゝよてか二百五十戒おも、 五十八戒おもたもたむ。 仏像あるまじければ、 造像起塔の善根もあるべからず。 乃至、 持経・持呪等もまたかくのごとし。 そのときに、 なほ一念するに往生すといへり。
◇すなわち善導いはく、 「▲爾時聞一念、 皆当得生彼」 (礼讃) といへり。 かれをもていまをおもふに、 念仏の行者はさらに余の善根におひて一塵も具せずとも、 決定して往生すべきなり。
◇しかれば、 菩提心をおこさずはいかでか往生すべき、 戒をたもたずしてはいかゞ往生すべき、 智慧なくてはいかゞ往生すべき、 妄念をしづめずしてはいかゞ往生すべきなむど、 かくのごとくまふす人々候は、 この ¬経¼ をこゝろえぬにて候なり。 懐感禅師この文を釈せるに、 「説戒・受戒もみな成ずべからず、 甚深の大乗もしるべからず。 さきだちて隠カク没しカクル ぬれば、 たゞ念仏のみさとりやすくして、 浅識の凡愚なほよく修習して利益をうべし」 (群疑論巻三意) といへり。
◇まことに戒法滅しなば、 持戒あるべからず。 大乗みな滅しなば、 発菩提心・読誦大乗もあるべからずといふことあきらかなり。 浅識の凡愚といへり。 しるべし、 智慧にあらずといふことを。 かくのごときのともがらの、 たゞ称名念仏の一行を修して、 一声まで往生す0904べしといへるなり。 これすなわち弥陀の本願なるがゆへなり。 すなわち、 かの大悲本願のとおく一切を摂する義なり。
・小経
◇次に ¬阿弥陀経¼ は、
「▲少善根福徳の因縁をもてかの国に生を得べからず。 ◆舎利弗、 もし善男子・善女人あて、 阿弥陀仏を説を聞て、 名号を執持して、 もしは一日、 乃至七日」
「不↠可↧以↢少善根福徳因縁↡得↞生↢彼国↡。 舎利弗、 若有↢善男子・善女人↡、 聞↠説↢阿弥陀仏↡、 執↢持名号↡、 若一日、 乃至七日」
といへり。
◇善導和尚釈にいはく、
「▲随縁の雑善おそらくは生れがたし。 ゆへに如来要法を選ばしむ」
「随縁雑善恐難↠生。 故使↣如来選↢要法↡」
といへり。
◇こゝにしりぬ、 雑善をもては少善根となづけ、 念仏をもて多善根といふことを。 この ¬経¼ はすなわち、 少善根なる雑善をすてゝ、 もはら多善根の念仏をとけるなり。
◇ちかごろ唐よりわたりたる ¬竜舒浄土文¼ とまふす文候。 それに ¬阿弥陀経¼ の脱文とまふして、 廿一字ある文をいだせり。 「一心不乱」 の下に、
「▲もはら名号を持て、 称名をもてのゆへに諸罪消滅す、 すなわちこれ多善根福徳因縁なり」 (巻一)
「専持↢名号↡、 以↢称名↡故諸罪消滅、 則是多善根福徳因縁」
といへり。 すなわちかの文にこの文をいだしていはく、 「▲いまのよにつたわるところの本に、 この廿一字を脱せヌケリ り」 (龍舒浄土文巻一) といへり。 この脱文なしといふとも、 たゞ義をもておもふに、 多少の義ありといゑども、 まさしく念仏をさして多善根といへる文、 まことに大切なり。
◇次◗六方如来の証誠をとけり。 かの六方諸仏の証誠、 たゞこの ¬経¼ をのみかぎりて証誠したまふににたれども、 実をもて論ずれば、 この ¬経¼ のみにか0905ぎらず。 すべて念仏往生を証誠するなり。
◇しかれども、 もし ¬双巻経¼ について証誠せば、 かの経経に念仏往生の本願をとくといゑども、 三輩の中に菩提心等の行あるがゆへに、 念仏の一行証誠するむねあらわるべからず。 もし ¬観経¼ を証誠せば、 かの経にえらむで念仏を付属すといゑども、 まづは定散の諸行をとくがゆへに、 また念仏の一行にかぎるとみゆべからず。 こゝをもて、 たゞ一向にもはら念仏をときたるこの ¬経¼ を証誠したまふなり。
◇たゞ証誠のみことば、 この ¬経¼ にありといへども、 証誠の義はかの ¬双巻¼・¬観経¼ にも通ずべし。 ¬双巻¼・¬観経¼ のみにあらず、 もし念仏往生のむねをとかむ経おば、 ことごとく六方如来の証誠あるべしとこゝろうべきなり。
◇かるがゆへに天臺の ¬十疑論¼ にいはく、 「▲¬阿弥陀経¼・¬大无量寿経¼・¬鼓音声陀羅尼経¼ 等にいはく、 釈迦仏、 経をときたまふときに、
十方世界におのおの恒河沙の諸仏ましまして、 その舌相を舒べて、 あまねく三千世界に覆て、 一切衆生、 阿弥陀仏の本願大悲願力を念ずるがゆへに、 決定して極楽世界に生を得と証誠したまへり
有↢十方世界各恒河沙諸仏↡、 舒↢其舌相↡、 遍覆↢三千世界↡、 証↧誠一切衆生、 念↢阿弥陀仏本願大悲願力↡故、 決定得↞生↢極楽世界↡」
といへり。 乃至
・浄土五祖
○次に往生浄土の祖師の五の影像を図絵したまふに、 おほくこゝろあり。 まづ恩徳を報ぜむがため、 次には賢をみてはひとしからむことをおもふゆへなり。 天臺宗0906を学せむ人は、 南岳・天臺を見たてまつりて、 ひとしからばやとおもひ、 真言をならはむ人は、 不空・善无畏をみては、 ひとしからむとおもひ、 華厳宗の人は、 香象・恵遠のごとくならむとおもひ、 法相宗の人は、 玄奘・慈恩のごとくならむとおもひ、 三論の学者は、 浄影大師をもうらやみ、 持律の行者は、 道宣律師おもとおからずおもふべきなり。
◇しかれば、 いま浄土をねがはむ人、 その宗の祖師をまなぶべきなり。 しかるに浄土宗の師資相承に二の説あり。 △¬安楽集¼ のごときは、 菩提流支・恵寵法師・道場法師・曇鸞法師・斉朝◗法上法師等の六祖をいだせり。 今また五祖といふは、 曇鸞法師・道綽禅師・善導禅師・懐感禅師・小康法師等なり。
・浄土五祖 ・曇鸞法師
▲曇鸞法師は、 梁・魏両国のフタクニナリ 无双の学ナラビナシトナリ 生也。 はじめは寿長して仏道を行ぜむがために、 陶隠居にあふて仙経をならふて、 その仙方によて修行せんとしき。 のちに菩提流支三蔵にあひたてまつりて、 仏法の中に長生不死の法の、 この土の仙経にすぐれたるや候ととひたてまつりたまひければ、 三蔵唾を吐てこたえたまふやう、 とえることばをもていひならふべきにあらず。 この土いづれのところにか長生の方あらむ。 命ながくしてしばらくしなぬやうなれども、 ついにかへて0907三有に輪廻す。 たゞこの経によて修行すべし。 すなわち長生不死の所にいたるべしといふて、 ¬観経¼ を授たまへり。
◇そのときたちまちに改悔のこゝろをおこして、 仙経を焼て、 自行化他、 一向に往生浄土の法をもはらにしき。 ¬往生論の註¼、 また ¬略論安楽土義¼ 等の文造也。 并州の玄忠寺に三百余人門徒あり。 臨終のとき、 その門徒三百余人あつまりて、 自は香呂をとりて西に向て、 弟子ともに声を等◗して、 高声念仏して命終しぬ。 そのとき道俗、 おほく空中に音楽を聞といへり。
・浄土五祖 ・道綽禅師
▲道綽禅師は、 本は涅槃の学生なり。 并州の玄忠寺にして曇鸞の碑文をみて、 発心して云、 「かの曇鸞法師、 智徳高遠なり。 なほ講説をすてて浄土の業を修して、 すでに往生せり。 いはむやわが所解、サトルトコロ 所知シルトコロおほしとするにたらむや」 (迦才浄土論巻下意) と云て、 すなわち涅槃の講説をすてゝ、 一向にもはら念仏を修して相続してひまなし。 つねに ¬観経¼ を講じて、 人を勧たり。 并州の晋陽・大原・汶水の三県の道俗、 七歳已上は悉◗念仏をさとり往生をとげたり。 又人を勧て、 㖒唾便利西方に向はず、 行住坐臥西方を背ず。
◇又 ¬安楽集¼ 二巻これを造。 凡往生浄土の教弘通、 道綽の御力也。 往生伝等を見るにも、 多◗道綽の勧を受て往生をとげたり。 善0908導もこの道綽の弟子也。 しかれば、 終南山の道宣の伝に云、 「西方道教の弘ことは、 これより起」 (続高僧伝巻二〇意) と云り。 又曇鸞法師、 七宝の船に乗て空中に来をみる。 又化仏・菩薩空に住する事七日、 そのとき天華雨て、 来◗集◗人々袖にこれをうく。 かくのごとく不可思議の霊瑞多し。 終のとき、 白◗雲西方より来て、 三道の白光と成て房中を照す。 五色の光、 空中に現ず。 又墓の上に紫雲三度現ずる事あり。
・浄土五祖 ・善導和尚
▲善導和尚、 いまだ ¬観経¼ をえざるさきに、 三昧をえたまひたりけると覚候。 そのゆへは、 道綽禅師にあふて ¬観経¼ をゑてのち、 この経の所説、 わが所見におなじとのたまへり。 導和尚の念仏したまふには、 口より仏出たまふ。 曇省◗讃に云、 「善導念仏仏従口出」 といへり。 同◗念仏をまふすとも、 かまえて善導のごとく口より仏出たまふばかりまふすべきなり。 「欲如善導妙在純熟」 とまふして、 誰なりとも念仏をだにもまことに申て、 その功熟しなば、 口より仏は出たまふべき也。
◇道綽禅師は師なれども、 いまだ三昧を発得せず。 善導は弟子なれども、 三昧をえたまひたりしかば、 道綽、 わが往生は一定か不定かと仏にとひたてまつりたまへとのたまひければ、 善導禅師命をうけてすなわち定に入て阿弥陀仏にと0909ひたてまつりしに、 仏言、 道綽に三の罪あり、 すみやかに懺悔すべし。 その罪懺悔して、 定て往生すべし。 一には、 仏像・経巻おばひさしに安て、 わが身は房中に居す。 二には、 出家の人をつかふ。 三には、 造作のあひだ虫の命を殺す。 十方の仏前にして、 第一の罪を懺悔すべし。 諸僧の前にして、 第二の罪を懺悔すべし。 一切衆生の前にして、 第三の罪を懺悔すべしと。 善導すなわち定より出て、 このむねを道綽につげたまふに、 道綽云、 しづかにむかしのとがをおもふに、 これみな空からずと云て、 こゝろを至て懺悔すと云。 しかれば、 師に勝たるなり。
◇善導は、 ことに火急の小声念仏を勧て、 数をさだめたまへり。 一万・二万・三万・五万、 乃至十万と云り。
・浄土五祖 ・懐感禅師
▲懐感禅師は、 法相宗の学生也。 広経典をさとりて、 念仏おば信ぜず、 善導に問◗云、 念仏して仏を見たてまつりてむやと。 導和尚答て云、 仏の誠言なむぞうたがはむや。 懐感この事について忽に解をひらき、 信を起て道場に入て、 高声に念仏して見たてまつらむと願ずるに、 三七日までにその霊瑞をみず。 そのとき感禅師、 自罪障の深して仏をみたてまつらざることを恨て、 食を断じて死せんとす。 善導、 制してゆるさず。 のちに ¬群疑論¼ 七巻を造と 云々。 感師はことに高声0910念仏を勧たまへり。
・浄土五祖 ・小康法師
▲小康法師は、 本は持経者也。 年十五歳にして ¬法華¼・¬華厳¼ 等の経五部を読覚たり。 これによて、 ¬高僧伝¼ には読誦◗篇に入れたれども、 たゞ持経者のみにあらず、 瑜伽唯識の学生也。
◇のちに白馬寺に詣て堂内をみれば、 光はなちたる物あり。 これを探取て見ば、 善導の西方化導の文也。 小康これをみて、 こゝろ忽に歓喜して、 願を発て云、 われもし浄土に縁あらば、 この文再光を放と。 かくのごとく誓了て見ば、 重て光を放。 その光の中に、 化仏・菩薩まします。 歓喜やめがたくして、 ついに又長安の善導和尚の影堂に詣しマウデヽて善導の真像を見ば、 化して仏身となりて小康にのたまはく、 汝わが教によて衆生を利益し、 同◗浄土に生ずべしと。 これを聞て、 小康、 所証あるがごとし。
◇後に人を勧◗とするに、 人その教化にしたがはず。 しかるあひだ、 銭ゼニをまうけて、 まづ小童等を勧て、 念仏一返に銭ゼニ一文をあたふ。 のちに十遍に一文、 かくのごとくするあひだ、 小康の行に小童等ついておのおの念仏す。 又小童のみにあらず、 老少男女をきらはず、 みなことごとく念仏す。
◇かくのごとくしてのち、 浄土堂を造て、 昼夜に行道して念仏す。 所化にしたがふて道場に来◗集◗輩、 三千余人也。 又小康、 高声に念仏0911するを見ば、 口より仏出たまふこと、 善導のごとし。 このゆへに、 時の人、 後善導となづけたり。 浄土堂とは唐のならひ、 阿弥陀仏をすえたてまつりたる堂おば、 みな浄土堂となづけたる也。
◇五祖の御徳、 要をとるにかくのごとしと。
・念仏往生
◇又 ¬无量寿経¼ は、 如来の教をまうけたまふこと、 みな済度衆生のためなり。 かるがゆへに、 衆生の機根まちまちなるがゆへに、 仏の経教も又无量なり。 しかるに今の ¬経¼ は、 往生浄土のために衆生往生の法を説たまふ也。 阿弥陀仏、 修因感果の次第、 極楽浄土の二報荘厳のありやうをくはしく説たまへるも、 衆生の信心を勧て欣求のこゝろをおこさせむがため也。 しかるにこの ¬経¼ の詮にては、 われら衆生の往生すべきむねを説たまへる也。
◇たゞしこの ¬経¼ を釈するに、 諸師のこゝろ不同也。 今しばらく善導和尚の御こゝろをもてこゝろえ候に、 この ¬経¼ はひとへに専修念仏のむねを説を衆生往生の業としたまへるなり。
◇なにをもてこれをしるといふに、 まづかの仏の因位の本願を説中に、 「▲設我得仏、 十方衆生、 至心信楽、 欲生我国、 乃至十念。 若不生者、 不取正覚」 (大経巻上) と云。
◇かの仏の因位、 法蔵比丘のむかし、 世自在王仏のみもとにして、 二百一十億の諸仏妙0912土の中よりえらびて四十八の誓願を起て、 浄土をまふけて仏になりて、 衆生をしてわがくにに生さすべき行業をえらびて願じたまひしに、 またく行おばたてずして、 たゞ念仏の一行をたてたまへる也。
△かるがゆへに ¬大阿弥陀経¼ には、 すべてかの仏の願おば、 選択してたてたまふゆへなり。 ¬大阿弥陀経¼、 この経は同本異訳の経也。
◇しかるに往生の行は、 われらがさかしくいまはじめてはからふべきことにあらず、 みなさだめおけることなり。 法蔵比丘、 もし悪をえらびてたてたまはゞ、 世自在王仏、 なほさでおはしますべきかは。 かの願どもとかせてのち、 決定无上正覚なるべしと授記したまはむ。 法蔵菩薩、 かの願たてたまひて、 兆載永劫のあひだ難行・苦行積功累徳して、 すでに仏になりたまひたれば、 むかしの誓願一一にうたがふべからず。
◇しかるに善導和尚、 この本願の文を引てのたまはく、
「▲もしわれ成仏せむに、 十方の衆生、 わが名号を称せむこと下十声に至まで、 もし生ぜずは、 正覚を取らじと。 かの仏今現に在て成仏したまへり。 まさに知るべし本誓重願虚からず、 衆生称念すればかならず往生を得」 (礼讃)
「若我成仏、 十方衆生、 称↢我名号↡下至↢十声↡、 若不↠生者、 不↠取↢正覚↡。 彼仏今現在成仏。 当↠知本誓重願不↠虚、 衆生称念必得↢往生↡」
と云。
◇まことにわれら衆生、 自力ばかりにて往生をもとむるにとりてこそ、 この行業は仏の御こゝろにかなひやすらむ。 またなにとも不審にもおぼへ、 往生も不定には候べき。
◇念仏を申して往生を願はむ人は、 自力に0913て往生すべきにはあらず、 たゞ他力の往生也。 本より仏のさだめおきて、 わが名号をとなふるものは、 乃至十声・一声までもむまれしめたまひたれば、 十声・一声念仏にて一定往生すべければこそ、 その願成就して成仏したまふと云道理の候へば、 唯一向に仏の願力をあおぎて往生おば決定すべきなり。 わが自力の強コワキ弱ヨワキをさだめて不定におもふべからず。
◇かの願成就の文、 この ¬経¼ (大経) の下巻にあり。 その文◗云、 「△諸有衆生、 聞其名号、 信心歓喜、 乃至一念、 至心廻向、 願生彼国、 即得往生、 住不退転」 と云。 凡四十八願、 浄土を荘厳せり。 華・池・宝閣、 願力にあらずと云ことなし。 その中にひとり、 念仏往生の願のみうたがふべからず。 極楽浄土もし浄土ならば、 念仏往生も決定往生也。
◇次に往生の業因は念仏の一行定と云とも、 行者の根性にしたがふて上・中・下あり。 かるがゆへに三輩の往生を説。 すなわち上輩の文云く、
「▲それ上輩は、 家を捨て欲を棄てて沙門と作り、 菩提心を発し、 一向にもはら无量寿仏を念ず」 (大経巻下)
「其上輩者、 捨↠家棄↠欲而作↢沙門↡、 発↢菩提心↡、 一向専念↢无量寿仏↡」
と云り。 中輩の文云く、
「▲行じて沙門と作りおほきに功徳を修するにあたはずといゑども、 ◆まさに无上菩提心を発し、 一向に意をもはらにして、 乃至十念无量寿仏を念ずべし」 (大経巻下意)
「雖↠不↠能↧行作↢沙門↡大修↦功徳↥、 当↧発↢无上菩提心↡、 一向専↠意、 乃至十念念↦无量寿仏↥」
と云へり。
◇当座の道師、 私に一の釈をつくり候。 この三輩の文の中に、 菩提心等の余行あぐといゑども、 上の仏の本願を望には、 こゝろ0914衆生をして、 もはら无量寿仏を念ぜしむるにあり。 かるがゆへに 「一向」 と云。
◇又 ¬観念法門¼ に善導釈して云、
「▲またこの ¬経¼ の下巻の初に云く、 仏一切衆生の根性不同を説たまふに、 上・中・下あり。 その根性に随て、 みな勧てもはら无量寿仏の名を念ぜしめたまへり。 その人命終むと欲する時、 仏聖衆とみづから来て迎接して、 ことごとく往生を得しむ」
「又此 ¬経¼ 下巻初云、 仏説↢一切衆生根性不同↡、 有↢上・中・下↡。 随↢其根性↡、 皆勧専念↢无量寿仏名↡。 其人命欲↠終時、 仏与↢聖衆↡自来迎接、 尽得↢往生↡」
と云り。 この釈のこゝろ、 三輩ともに念仏往生也。 まことに一向の言は余をすつる言なり。
◇例せば、 かの五天竺の三の寺のごとし。 一には一向大乗寺、 二には一向小乗寺、 三には大小兼行寺。 かの一向大乗寺の中には、 小乗を学することなし。 一向小乗寺には、 大乗を学するものなし。 大小兼行寺の中には、 大乗・小乗ともに兼学する也。 大小の両寺はともに一向の言をおく、 二を兼たる寺には一向の言をおかず。
◇これをもてこゝろえ候に、 今の ¬経¼ の中に一向の言もまたしかなり。 もし念仏の外◗余行をならぶれば、 すなわち一向にあらず。 かの寺になずらへば、 兼行と云べし。 すでに一向と云り。 しるべし、 余行をすつといふ事を。
◇たゞこの三輩の文の中に余行を説について、 三の意あり。 一には、 諸行をすてゝ念仏に帰せしめむがためにならべて余行を説て、 念仏におひて一向の言をおく。 二には、 念仏の人をたすけむがために諸善を説。 三には、 念仏と諸行とをならべて、 ともに三品の差別を0915しめさむがために諸行を説。
◇この三の義の中には、 たゞはじめの義を正とす。 のちの二は傍義也。カタワラゴトナリ
◇次にこの ¬経¼ (大経巻下) の流通分の中に説て云く、 「▲仏語弥勒、 △其有得聞彼仏名号、 歓喜誦躍乃至一念。 当知此人為得大利。 則是具足无上功徳
」 と云り。
◇上の三輩の文の中に、 念仏のほかにもろもろの功徳を説といゑども、 余善おばほめず。 たゞ念仏の一善をあげて、 无上の功徳と讃嘆して未来に流通せり。 念仏の功徳は、 余の功徳に勝たることあきらかなり。
◇「大利」 と云は、 小利に対する言なり。 「无上」 と云は、 この功徳の上する功徳なしと云義也。 すでに一念を指て大利と云、 又无上と云。 いはむや、 二念・三念、 乃至十念おや。 いかにいはむや、 百念・千念、 乃至万念おや。 これ則、 少を上て多を決する也。
◇この文をもて余行と念仏と相対してこゝろうるに、 念仏すなわち大利也、 余善はすなわち小利也。 念仏は无上也、 余行は又有上也。 すべては往生を願ぜむ人、 なんぞ无上大利の念仏をすてて、 有上小利の余善を執せむや。
◇次にこの ¬経¼ (大経) の下巻の奥に云、 「△当来之世経道滅尽、 我以慈悲哀愍、 ↓特留此経止住百歳。 其有衆生値此経者、 随意所願皆可得度」 と云。
◇善導此◗文を釈して0916云く、 「△万年三宝滅、 此経住百年、 ↓爾時聞一念、 皆当得生彼」 (礼讃) といへり。
◇釈尊の遺法に三時の差別あり、 正法・像法・末法也。 その正法一千年のあひだ、 教行証の三ともに具足せり、 教のごとく行ずるにしたがふて証えたり。 像法一千年のあひだは、 教行はあれども証なし。 教にしたがふて行ずといゑども、 悉地をうることなし。 末法万年のあひだは、 教のみあて行証なし。 わづかに教門はのこりたれども、 教のごとく行ずるものなし、 行ずれどもまた証をうるものなし。
◇その末法万年のみちなむのちは、 如来の遺教みなうせて、 住持の三宝ことごとく滅して、 おほよそ仏像・経典もなく、 頭を剃、 衣を染◗僧もなし。 仏法と云こと、 名字をだにもきくべからず。 しかるに、 そのときまでたゞこの ¬双巻无量寿経¼ 一部二巻ばかりのこりとゞまりて、 百年まで住して衆生を済度したまふこと、 まことにあはれにおぼえ候。
◇¬華厳経¼ も ¬般若経¼ も ¬法華経¼ も ¬涅槃経¼ も、 おほよそ大小権実の一切諸経、 乃至 ¬大日¼・¬金剛頂¼ 等真言秘密の諸経も、 みなことごとく滅したらむとき、 たゞこの ¬経¼ ばかりとゞまりたまふことは、 なに事にかとおぼえ候。 釈尊の慈悲をもて、 とゞめたまふことさだめてふかきこゝろ候らむ。 仏智まことにはかりがたし。 たゞし阿弥陀仏の機縁、 この界の0917衆生にふかくましますゆへに、 釈迦大師もかの仏の本願をとゞめたまふなるべし。
◇この文について按じ候に、 四のこゝろあり。
◇一には、 聖道門の得脱は機縁あさく、 浄土門の往生のみ機縁ふかし。 かるがゆへに三乗・一乗の得脱をとける諸経はさきだちて滅して、 たゞ一念・十念の往生をとけるこの ¬経¼ ばかりひとりとゞまるべし。
◇二には、 往生につきて十方浄土は機縁あさく、 西方浄土は機縁ふかし。 かるがゆへに、 十方浄土を勧たる諸経はことごとく滅して、 たゞ西方の往生勧たるこの ¬経¼ ひとりとゞまるべし。
◇三には、 兜率の上生は機縁あさく、 極楽の往生は機縁ふかきゆへに、 ¬上生¼・¬心地¼ 等の兜率を勧たる諸経はみな滅して、 極楽を勧たるこの ¬経¼ ひとりとゞまるべし。
◇四には、 諸行の往生は機縁あさく、 念仏の往生は機縁ふかきゆへに、 諸行を説諸経はみな滅して、 念仏を説るこの ¬経¼ のみひとりとゞまりたまふべし。
◇この四の義の中に、 真実には第四の念仏往生のみとゞまるべしと云義の正義にて候也。 「↑特留此経止住百歳」 (大経下) ととかれたれば、 この二軸の経典、 ひとりのこるべきかときこえ候へども、 まことには経巻はうせたまひたれども、 たゞ念仏の一門ばかりとゞまりて、 百年0918あるべきにやとおぼえ候。
◇かの秦◗始皇が、 書を焼、 儒を埋しとき、 ¬毛詩¼ と申す文ばかりはのこりたりと申すこと候。 それも文はやかれたれども、 詩はとゞまりて口にありと申して、 詩おば人々そらにおぼへたりけるゆへに、 ¬毛詩¼ ばかりはのこりたりと申すこと候をもてこゝろえ候に、 この ¬経¼ とゞまりて百年あるべしと云も、 経巻はみな隠滅したりとも、 南无阿弥陀仏とまふすことは、 人の口にとゞまりて百年までもきゝつたへむずる事とおぼへ候。
◇経といふは、 また説ところの法を申すことなれば、 この ¬経¼ はひとへに念仏の一法を説り。 されば、 「↑爾時聞一念、 皆当得生彼」 (礼讃) とは善導も釈したまへる也。 これ秘蔵の義也、 たやすく申べからず。
◇すべてこの ¬双巻无量寿経¼ に、 念仏往生の文七所あり。 一には△本願の文、 二には△願成就の文、 三には上輩の中に△一向専念の文、 四には中輩の中の△一向専念の文、 五には下輩の中の▲一向専意の文、 六には△无上功徳の文、 七には△特留此経の文也。
◇この七所の文をまた合して三とす。 一には本願、 これに二つを摂す。 はじめの発願、 成就也。 二には三輩、 これに三を摂す。 上輩・中輩・下輩なり。 この下輩について二類あり。 三には流通、 これに二を摂す。 无上功徳、 特留此経なり。
◇本0919願は弥陀にあり。 三輩已下は釈迦の自説也、 それも弥陀の本願にしたがふて説たまへる也。 三輩の文の中に、 おのおの一向専念と勧たまへるも、 流通の中に无上功徳と讃嘆したまへるも、 特留此経ととゞめたまへるも、 みなもと弥陀の本願に随順したまへるゆへなり。
◇しかれば、 念仏往生とまふすことは、 本願を根本とする也。 詮ずるところ、 この ¬経¼ ははじめよりおはりまで、 弥陀の本願を説とこゝろうべき也。 ¬双巻経¼ の大意、 略してかくのごとし。
・観経
○次に ¬観无量寿経¼ は、 この大意をこゝろえむとおもはば、 かならず教相を知べき事也。 教相を沙汰せねば、 法門の浅アサキ深フカキ差別あきらかならざる也。
◇しかるに諸宗にみな立教開ヒラキ 示シメスあり。 法相宗には三時教をたてゝ一代の諸教を摂すオサムル。 三論宗には二蔵教をたてゝ大小の諸教を摂。セフス 華厳宗には五教をたて、 天臺宗には四教をたつ。
◇いまわが浄土宗には、 道綽禅師 ¬安楽集¼ に聖道・浄土の二教をたてたり。 一代聖教五千余軸、 この二門おばいでず。
◇はじめに聖道門は、 三乗・一乗の得道也。 すなわちこの娑婆世界にして、 断惑開悟する道なり。 すべて分ば二あり。 謂、 大乗の聖道、 小乗の聖道也。 別して論ずれば、 四乗の聖道あり。 謂、 声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗也。
◇浄土者、 まづこの娑婆穢悪のさかひをいでゝ、 か0920の安楽不退のくににむまれて、 自然に増進して仏道を証得せむともとむる道也。
◇この二門をたつる事は、 道綽一師のみにあらず。 曇鸞法師も龍樹菩薩の ¬十住毘婆沙論¼ を引て、 難行・易行の二道をたてたまへり。 「▲難行道は陸路より歩行するがごとし、 ▲易行道は水路を船に乗ずるがごとし」 (論註巻上意) とたとへたり。
◇この二道を立◗事、 曇鸞一師にかぎらず。 天臺の ¬十疑論¼ にもおなじく引て釈したまへり。 また迦才の ¬浄土論¼ にもおなじく引。 かの難行道者すなわち聖道門也、 易行道者すなわち浄土門也。
◇しかのみならず、 また慈恩大師云、
「まのあたり聖化に逢しもの、 道三乗を悟き。 福薄く因疎なるものは、 勧て浄土に帰せしむ」 (西方要決)
「親逢↢聖化↡、 道悟↢三乗↡。 福薄因疎、 勧帰↢浄土」
と云り。 この中に三乗といふ者すなわち聖道門也、 浄土者すなわち浄土門也。
◇難行・易行、 三乗・浄土、 聖道・浄土、 その言ことなりといゑども、 そのこゝろみなおなじ。 凡一代の諸教この二門をいでず。
◇経論のみこの二門に摂すオサムルるにあらず。 乃至諸宗の章疏みなこの二門おばいでざる也。
◇天臺宗には、 正は仏乗の聖道をあかす、 傍には往生浄土をあかす。 「即往安楽」 (法華経巻六薬王品) といへり。
◇華厳宗にもまた天臺宗のごとし。 聖道を修してえがたくは、 浄土に生ずべしと云へり。
「願はわれ命終せむと欲する時に臨てことごとく一切のもろもろの障を除く、 面にかの仏阿弥陀を見たてまつりてすなわち安楽国に往生を得」 (般若訳華厳経巻四〇行願品)
「願我臨↧欲↢命終↡時↥尽除↢一切諸障↡、 面見↢彼仏阿弥陀↡即得↣往↢生安楽国↡」
と0921云り。
○しかるに今、 この ¬経¼ は往生浄土の教也。 即身頓悟のむねをもあかさず、 歴劫迂廻の行おもとかず。 娑婆のほかに極楽あり、 わが身のほかに阿弥陀仏ましますと説て、 この界をいとひてかのくにに生◗て、 无生忍おもえむと願ずべきむねを明◗也。 善導◗釈に云く、
「▲定散等く廻向して、 すみやかに无生の身を証せよ」 (玄義分)
「定散等廻向、 速証↢无生身↡」
といへり。
◇凡この ¬経¼ には、 あまねく往生の行業を説り。 すなわちはじめには定散の二善を説て、 総じて一切の諸機にあたへ、 次には念仏の一行を選、 別して未来の群生に流通せり。 かるがゆへに ¬経¼ (観経) 云く、
「△仏阿難に告たまはく、 なんぢよくこの語持て」
「仏告↢阿難↡、 汝好持↢是語↡」
と等云。 善導これを釈◗云く、
「△仏告阿難汝好持是語より已下、 まさしく弥陀の名号を付属して、 遐代に流通することを明す」 (散善義)
「従↢仏告阿難汝好持是語↡已下、 正明↫付↢属弥陀名号↡、 流↪通於↩遐代↨」
と等云り。 しかれば、 この ¬経¼ のこゝろによりて、 今聖道をすてゝ浄土の一門に入也。
◇その往生浄土につきて、 又その行これおほし。 これによて、 善導和尚専雑二修を立、 諸行の勝劣得失を判じたまへり。 すなわちこの経の ¬疏¼ (散善義) に云く、
「▲行につきて信を立といふは、 行に就きて二種あり。 一には正行、 二には雑行」
「就↠行立↠信者、 就↠行有↢二種↡。 一正行、 二雑行」
と云り。 もはらかの正行を修するを専修の行者と云、 正行おば修せずして雑行を修するを雑修の者と申也。
◇その専雑二種の得失について、 今私0922に料簡するに、 五の義あり。 一には親疎対、 二には近遠対、 三には有間无間対、 四には廻向不廻向対、 五には純雑対也。
◇はじめに親疎対者、 正行を修するは阿弥陀仏に親、 雑行を修すればかの仏に疎ウトシなり。 すなわち ¬疏¼ (定善義) に云く、
「▲衆生行を起には、 口につねに仏を称へよ、 仏すなわちこれを聞す。 身につねに仏を礼敬すれば、 仏すなわちこれを見す。 心につねに仏を念ずれば、 仏すなわちこれを知す。 衆生仏を憶念すれば、 仏また衆生を憶念したまふ。 彼此の三業あひ捨離せず。 ゆへに親縁と名く」
「衆生起↠行、 口常称↠仏、 仏即聞↠之。 身常礼↢敬仏↡、 仏即見↠之。 心常念↠仏、 仏即知↠之。 衆生憶↢念仏↡者、 仏亦憶↢念衆生↡。 彼此三業不↢相捨離↡。 故名↢親縁↡」
と云。
◇その雑行◗者は、 口に仏を称せざれば、 仏すなわち聞たまはず。 身に仏を礼せざれば、 仏すなわち見たまはず。 心に仏を念ぜざれば、 仏しろしめさず。 仏を憶念せざれば、 仏又憶念したまはず。 彼此三業常◗捨離す、 かるがゆへに疎ウトシとなづくる也。
◇次に近遠対者、 正行はかの仏に近、 雑行はかの仏に遠なり。 ¬疏¼ (定善義) 又云く、
「▲衆生仏を見むと欲れば、 仏すなわち念に応じて現に目前に在す。 ゆへに近縁と名く」
「衆生欲↠見↠仏、 仏即応↠念現在↢目前↡。 故名↢近縁↡」
と云り。 雑行者、 仏を見たてまつらむとねがはざれば、 仏すなわち念に応じたまはず、 目の前にも現じたまはず。 かるがゆへに遠となづくる也。 たゞ常の義には親近と申つれば、 一事のやうにこそは聞れども、 善導和尚は、 親と近とのごとしと、 別しては釈したまへり。 これによて、 今又親近を分て二とするなり。
◇次に有間无間対者、 无間者、 正行を修するには、 かの仏◗おい0923て憶念无間なるがゆへに、 文◗「▲憶念不断名為无間」 (散善義) と云る、 これ也。 有間者、 雑行のものは、 阿弥陀仏にこゝろをかくる事間おほし。 かるがゆへに文に 「▲心常間断」 (散善義) と云、 これ也。
◇次に廻向不廻向対者、 正行は廻向をもちゐざれども、 自然に往生の業となる。 すなわち ¬疏¼ 第一 (玄義分) に云く、
「▲今 ¬観経¼ の中に十声称仏すれば、 すなわち十願・十行あて具足す。 いかんぞ具足。 南无と言はすなわちこれ帰命なり、 またこれ発願廻向の義なり。 阿弥陀仏と言はすなわちこれその行なり。 この義をもてのゆへにかならず往生を得」。
「今 ¬観経¼ 中十声称仏、 即有↢十願・十行↡具足。 云何具足。 言↢南无↡者則是帰命、 亦是発願廻向之義也。 言↢阿弥陀仏↡者則是其行。 以↢斯義↡故必得↢往生↡」。
不廻向といふ。
◇雑行は、 かならず廻向をもちゐるとき、 往生の業となる。 もし廻向せざれは、 往生の業とならず。 かるがゆへに文に
「▲廻向して生を得べしといゑども」
「雖↠可↢廻向得↟生」
と云、 これ也。
◇次に純雑対者、 正行は純に極楽の行也。 余の人天および三乗等の業に通ぜずカヨハヌナリ、 又十方浄土の業因ともならず。 かるがゆへに純となづく。 雑行は純に極楽の行にはあらず。 人天の業因にも通じ、 三乗の得果にも通じ、 又十方浄土の往生の業因ともなるがゆへに雑と云也。
◇しかれば、 この五の相対をもて二行を判ずるに、 西方の往生をねがはむ人は、 雑行をすてゝ正行を修すべき也。
◇又善導和尚 ¬往生礼讃¼ (意) の序に、 この専雑の得失を判じたまへり。 「▲専修の者は十即十生、 百即百生。 ◆雑修の者は百に一二、 千に五三」 と云へり。
◆「なにをもてのゆへ0924に。 専修の者は雑縁なし、 正念をえたるがゆへに、 又弥陀の本願に相応するがゆへに、 又釈迦の教にたがはざるがゆへに、 仏語に随順せるがゆへに」 と云へり。
「◆雑修の者は雑縁乱動す。 正念を失すウシナフるがゆへに、 又仏の本願と相応せざるがゆへに、 また仏語にしたがはざるがゆへに、 釈迦の教に違するがゆへに、 又係念相続せざるがゆへに、 廻願慇重真実ならざるがゆへに、 乃至、 名利と相応するがゆへに、 又自の往生を障のみにあらず、 他の往生の正行を障がゆへに」 と云へり。
◇しかのみならず、 やがてその文のつゞきに、 「▲餘、 ワレトイフこのごろ諸方の道俗を見聞するに、 解行不同にして専雑異ありコトナルコト。 しかるに専修の者は十は十ながら生じ、 雑修の者は千が中に一もなし」 とのたまへり。
◇さきの義をもて判じ候に、 千が中に五三とゆるしたまへりといゑども、 今正見には一もなしとのたまへる也。 そのときの行者だにも、 雑行にて往生する者なかりけるにこそ候なれ。 まして、 いよいよ時も機もくだりたる当世の行者、 雑行往生と云事はおもひすつべき事也。
◇たとひまた往生すべきにても、 百が中に一二、 千が中に五三の内にてこそ候はむずれ。 きわめて不定の事也。 百人に九十九人は往生して、 今一人すまじときかむだにも、 もしその一人にあたる身にてもやあるらむと、 不審に不定におぼえぬ0925べし。 いかにいはむや、 百が一二の内に一定入べしとおもはむ事、 かたくぞ候はむずる。
◇しかれば、 百即百生の専修をすてゝ、 千中无一の雑行を執すべからず。 唯一向に念仏を修して、 雑行をすつべきなり。 これすなわち、 この ¬経¼ の大意也。 「△望仏本願、 意在衆生、 一向専称、 弥陀仏名」 (散善義) と云り。 返も本願をあおぎて、 念仏をすべき也と。▽
平等覚経 ¬大阿弥陀経¼ の誤りか。