0162◎黒谷上人漢語灯録巻第八
厭欣沙門 了恵 集録
◎漢語第一の八
◎漢語第一之八
一一、逆修説法
逆修説法第十一の余 ▽四七日より六七日に至る
・第四七日
△第四七日。 ▽阿弥陀仏。 ▽¬観無量寿経¼。
・第四七日 仏功徳
△仏に総別の二功徳まします。
仏ニ有マス↢総別ノ二功徳↡。
・第四七日 仏功徳 総徳
まづ総とは、 四智・三身等の功徳なり。 一切の諸仏は内証等く具して一仏も異なることなきゆゑに、 諸経のなかに仏の功徳を説くに、 総じて内証の功徳をば説かず、 ただ別して外用の功徳を説くなり。 しかりといへども善根成就のために、 三身の功徳形のごとく説きたてまつるべし。
先ヅ総トハ者、四智・三身等ノ功徳ナリ也。一切ノ諸仏ハ内証等ク具シテ一仏モ無↠異コト故ニ、諸経之中ニ説ニ↢仏ノ功徳ヲ↡、総ジテ不説↢内証ノ功徳ヲバ↡、唯別シテ説ク↢外用ノ功徳ヲ↡也。雖↠爾ト為ニ↢善根成就ノ↡、三身ノ功徳如ク↠形ノ可シ↠奉ル↠説キ。
・第四七日 仏功徳 総徳 法身
まづ法身とは、 これ無相甚深の理なり。 一切の諸法畢竟空寂なるをすなはち法身と名づく。
先ヅ法身トハ者、是無相甚深ノ之理ナリ也。一切ノ諸法畢竟空寂ナルヲ即名ク↢法身ト↡。
・第四七日 仏功徳 総徳 報身
次に報身とは、 別物にあらず、 かの無相の妙理を解り知る智恵を報身とは名づくるなり。 所知をば法身と名づけ、 能知をば報身と名づくるなり。 この法報の功徳法界に周遍せり、 菩薩・二乗の上乃至六趣四生の上にも周遍せずといふことなし。
次ニ報身トハ者、非ズ↢別物ニ↡、解リ↢知ル彼ノ無相ノ之妙理ヲ↡智恵ヲ名ル↢報身トハ↡也。所知ヲバ名ケ↢法身ト↡、能知ヲバ名↢報身ト↡也0163。此ノ法報ノ之功徳周↢遍セリ法界ニ↡、無↠不云コト↣周↢遍菩薩・二乗ノ之上乃至六趣四生之上ニモ↡矣。
・第四七日 仏功徳 総徳 応身
次に応身とは、 衆生を済度せんがために、 無際限のなかにおいて際限を示し、 無功用のなかにおいて功用を現したまへるなり。 およそその仏の功徳においては、 等覚無垢の菩薩すら、 すなはちその覚知の境界にあらず、 いはんや薄地の凡夫をや。
次ニ応身トハ者、為↣済↢度センガ衆生ヲ↡、於テ↢無際限ノ中ニ↡示シ↢際限ヲ↡、於テ↢無功用ノ中ニ↡現シ↢功用ヲ↡給ヘル也。凡ソ於テハ↢其ノ仏ノ功徳ニ↡者、等覚無垢ノ菩薩スラ、則非ズ↢其ノ覚知ノ之境界ニ↡、況ヤ薄地ノ凡夫ヲヤ乎。
在世に応持菩薩と申しし菩薩如来釈尊の現したまへる御身の長丈六なるを見たてまつりて、 仏の御長はいくばくもましまさざりけりと思ひて、 竹杖をもつてその御長を計りたてまつるに、 その竹よりなほ高くましましければ、 また竹を続けて計らんと欲するに、 それに随ひてつひにその限りを知ることを得ず、 その竹を捨てて築き立てたるところにすなはち生へつきて竹林となれり、 これを杖林山と名づく。 玄奘三蔵天竺に渡りたまひし時、 その杖林山を見たまへり。
在世ニ応持菩薩ト申シヽ菩薩奉テ↠見↢如来釈尊ノ之現給ヘル御身ノ長丈六ナルヲ↡、思テ↢仏ノ御長ハ不リケリト↟有マサ↠幾モ、以テ↢竹杖ヲ↡奉ルニ↠計リ↢其ノ御長ヲ↡、従↢其ノ竹↡尚高ク坐マシケレバ者、又続テ↠竹ヲ欲スルニ↠計ント、随テ↠其ニ終ニ不↠得↠知コトヲ↢其ノ限リヲ↡、捨テヽ↢其ノ竹ヲ↡築キ立タル所ニ即生ヘ付キテ成レリ↢竹林ト↡、名ク↢之ヲ杖林山ト↡。玄奘三蔵渡タマヒシ↢天竺ニ↡時、見↢其ノ杖林山ヲ↡給ヘリ。
また目連尊者神通を得て、 仏の御音の聞こゆるところの際限を計りたてまつるに、 まづ小千界を遶れる鉄囲山に到りて、 なほ仏前のごとくにして異なることなし。 次に中千界乃至大千界を遶れる鉄囲山に到りてこれを聞くに、 なほ同じく仏前のごとし。
又目連尊者得テ↢神通ヲ↡、奉ルニ↠計リ↢仏ノ御音ノ所ノ↠聞ユル之際限ヲ↡、先ヅ到テ↧遶レル↢小千界ヲ↡之鉄囲山ニ↥、猶如ニシテ↢仏前ノ↡無シ↠異コト。次ニ到テ↧遶レル↢中千界乃至大千界ヲ↡之鉄囲山ニ↥聞クニ↠之、猶同ク如シ↢仏前ノ↡。
かくのごとくして西方九十九恒河沙の仏世界を過ぎて、 光明幡世界に到る。 その国の人はきはめて長高大なり。 目連鉢の縁に取りつけたるぞ、 箸をもつて箸み上りて虫なんどのやうに思へり。 その時にその国の教主の仏 光明王仏 告げてのたまはく、 これはこれより東方無量恒河沙世界を過ぎて世界あり、 名づけて娑婆世界といふ。 その国に仏あり、 釈迦牟尼と名づけたてまつる。 その仏の御弟子証果の大阿羅漢なり、 賎むべからずと。 これを聞きてたちまちに帰敬せり。
如シテ↠此ノ而過テ↢西方九十九恒河沙ノ之仏世界ヲ↡、到ル↢光明幡世界ニ↡。其ノ国ノ人ハ極テ長高大ナリ也。目連取↢付タルゾ鉢ノ縁ニ、以テ↠箸ヲ箸ミ上テ虫ナンドノ之様ニ思ヘリ。爾ノ時ニ其国ノ教主ノ仏 光明王仏 告テ言ハク、此ハ従リ↠此東方過テ↢無量恒河沙世界ヲ↡有リ↢世界↡、名テ曰フ↢娑婆世界ト↡。其ノ国ニ有リ↠仏、奉ル↠名ケ↢釈迦牟尼↡。其ノ仏ノ御弟子証果ノ大阿羅漢ナリ也、不ト↠可↠賎ム。聞テ↠之忽ニ帰敬セリ。
その時かの国の教主、 目連に教へてのたまはく、 小乗の神足は三千大千世界をば過ぎず。 しかるをなんぢが本師釈迦如来の神力によりてこの世界まで来れり。 自力をもつて還らん事叶ふべからず、 すみやかになほ釈迦如来を帰命したてまつりて、 その神力を受けて本国に還るべしと。 目連これを承けてすなはち娑婆世界に向ひて、 はるかに釈迦牟尼を礼したてまつる、 仏力によりて本国に還ることを得たりといふ事の候ふ。
其ノ時彼ノ国ノ教主、教テ↢目連ニ↡曰ク、小乗ノ神足ハ不↠過0164ギ↢三千大千世界ヲバ↡。然ヲ汝ガ依テ↢本師釈迦如来ノ神力ニ↡来レリ↢此ノ世界マデ↡。以テ↢自力ヲ↡還ラン事不↠可↠叶フ、速ニ尚奉テ↣帰↢命シ釈迦如来ヲ↡、受テ↢其ノ神力ヲ↡可シト↠還ル↢本国ニ↡也。目連承テ↠之ヲ即向テ↢娑婆世界ニ↡、遙ニ奉ル↠礼シ↢釈迦牟尼ヲ↡、依テ↢仏力ニ↡得リト↠還コトヲ↢本国ニ↡云事ノ候。
功徳の計りがたきことかくのごとし。 釈迦一仏に限らず、 一切諸仏もかくのごとし。
功徳ノ難コト↠計リ如シ↠是ノ。不↠限ラ↢釈迦一仏ニ↡、一切諸仏モ如シ↠此ノ。
・第四七日 仏功徳 別徳
次に阿弥陀如来の別徳とは、 かの仏に八万四千の相あり、 そのなかに白毫の一相をもつて最勝となす。 ゆゑに ¬観経¼ に説きてのたまはく、 「▲無量寿仏を観ぜんものは、 一の相好より入らん。 ただ眉間の白毫を観じてきはめて明了ならしめよ。 眉間の白毫を見たてまつれば、 八万四千の相好、 自然にまさに見るべし」 と。 云々 善導の御意 (観念法門意) は 「▲頭上の螺髪より足下の千輻輪に至るまで、 一々の相好において順逆に観ずること十六遍して後、 心を眉間の白毫に注めて、 雑乱することなかれ」 と。 云々。 しかればすなはちしばらく白毫一相の功徳を讃嘆したてまつるべし。
次ニ阿弥陀如来ノ別徳トハ者、彼仏ニ有↢八万四千ノ相↡、其ノ中ニ以テ↢白毫ノ一相ヲ↡為↢最勝ト↡。故ニ¬観経ニ¼説テ云ク、「観ン↢無量寿仏ヲ↡者ハ、従リ↢一ノ相好↡入ン。但観ジテ↢眉間白毫ヲ↡極テ令ヨ↢明了ナラ↡。見タテマツレバ↢眉間白毫↡者、八万四千ノ相好、自然ニ当ニ↠見。」云云 善導ノ御意ハ「従リ↢頭上ノ螺髪↡至マデ↢足下ノ千輻輪ニ↡、於テ↢一一ノ相好ニ↡順逆ニ観コト十六遍シテ後、注メテ↢心ヲ眉間白毫ニ↡、莫レト↢雑乱コト↡。」云云。然バ則且ク可シ↠奉ル↣讃↢嘆シ白毫一相ノ之功徳ヲ。
恵心の御意によりて白毫の功徳を讃じたてまつらば、 それ五あり。 いはく白毫の業因、 白毫の相貌、 白毫の作用、 白毫の体性、 白毫の利益なり。
依テ↢恵心ノ御意ニ↡奉ラバ↠讃ジ↢白毫ノ功徳ヲ↡者、夫有リ↠五。謂ク白毫ノ業因、白毫ノ相貌、白毫ノ作用、白毫ノ体性、白毫ノ利益也。
・第四七日 仏功徳 別徳 白毫業因
はじめに白毫の業因とは、 ¬大集経¼ (巻六宝女品意) に 「他の徳を隠さずしてその徳を称揚する功徳によりて白毫の相を得」 といへり。 云々 また ¬戒経¼ (優婆塞戒経巻一三十二相品意) に「不妄語の功徳白毫となる」 といへり。 ただしこれ一往随機の説なり。 また ¬観仏三昧経¼ (巻二観相品意) にいはく、 「無量劫の間、 身心精進にして昼夜に懈ることなく、 頭燃を払ふがごとく六度万行大慈大悲等のもろもろの功徳を勤修して、 この白毫の相を得」 と。 云々 しかればかの阿弥陀仏、 法蔵比丘の昔、 兆載永劫の間六度四摂の無量無辺の妙行を修して、 具足したまへるところのそこばくの功徳を集めて眉間の白毫をば顕したまへるなり。 これは真実の義にて候ふらん。
初ニ白毫ノ業因ト者、¬大集経ニ¼云ヘリ↪「由テ↧不シテ↠隠↢他ノ徳ヲ↡称↢揚スル其徳ヲ↡之功徳ニ↥得ト↩白毫ノ相ヲ↨。」云云 又¬戒経¼云ヘリ↣「不妄語ノ功徳成ト↢白毫ト↡。」但シ是一往随機ノ説ナリ也。又¬観仏三昧経ニ¼云、「無量劫ノ間、身心精進ニシテ昼夜ニ無ク↠懈ルコト、如ク↠払ガ↢頭燃ヲ↡勤↢修シテ六度万行大慈大悲等ノ諸ノ功徳ヲ↡、得ト↢此0165ノ白毫ノ相ヲ↡。」云云 然バ彼阿弥陀仏、法蔵比丘ノ昔、兆載永劫ノ間修シテ↢六度四摂ノ之無量無辺ノ之妙行ヲ↡、集テ↧所ノ↢具足タマヘル↡若干ノ功徳ヲ↥顕シタマヘル↢眉間ノ白毫ヲバ↡也。此ハ真実ノ義ニテ候覧。
・第四七日 仏功徳 別徳 白毫相貌
次に白毫の相貌は、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「△眉間白毫、 右旋婉転、 如五須弥山」 と。 云々 右旋婉転とは、 すなはち白毫の相貌を顕す。 譬へば白き絲を巻き出したらんがごとし。 如五須弥山とは、 すなはち勢の分を顕す。 あるいはまた (観仏三昧経巻一観相品) 「旋転して頗梨珠のごとし」 とも、 また 「軟かなること都羅綿のごとく、 白きこと珂雪のごとし」 (観弥勒上生経疏巻下意説無垢称経疏巻四本意) ともいへり。 これすなはち相貌なり。 譬を取らずんばその相顕しがたし、 ゆゑにかくのごとく譬を挙げて白毫の有様を示すなり。 かの龍樹菩薩 (十二礼) の仏を讃嘆したてまつるにも 「△面善円浄如満月」 なんどのたまへば、 これ弥陀如来の面貌円満したまへる事を満月に譬ふるなり。
次ニ白毫ノ相貌ハ者、¬経¼云、「眉間白毫、右旋婉転、如五須弥山。」云云 右旋婉転トハ者、則顕↢白毫ノ相貌ヲ↡也。譬バ如シ↢白キ絲ヲ巻出タランガ↡。如五須弥山トハ者、則顕ス↢於勢之分ヲ↡也。或ハ又云ヘリ↣「旋転シテ如シトモ↢頗梨珠ノ」↡、又「軟ナルコト如↢都羅綿ノ↡、白コト如シ↢珂雪ノ↡」。是則相貌也。不ンバ↠取↠譬ヲ者其ノ相難シ↠顕シ、故ニ如ク↠此ノ挙テ↠譬ヲ示ス↢白毫ノ有様ヲ↡也。彼ノ龍樹菩薩ノ奉ニモ↣讃↢嘆仏ヲ↡云ヘバ↢「面善円浄如満月ナンド」↡、是弥陀如来面貌円満シ給ヘル事ヲ譬ル↢満月ニ↡也。
またこの白毫一相のなかに八万四千の相好あり、 相と好とは大小の差別なり。 大にして吉き形を相といひ、 小にして吉き形を好といふとなり。 一々の好に八万四千の光明あり。 これをもつて恵心 (要集巻中) その白毫の一相より放たるるところの光明を勘へたまふに、 「△七百五倶胝六百万の光明あり」 といへり。
又此ノ白毫一相ノ中ニ有↢八万四千ノ相好↡、相ト与トハ↠好大小ノ差別也。大ニシテ而吉形ヲ云↠相ト、小ニシテ而吉形ヲ云ト↠好ト也。一一ノ好ニ有リ↢八万四千ノ光明↡。是以恵心勘タマフニ↢其ノ白毫ノ一相ヨリ所ノ↠放光明ヲ↡、云ヘリ↠「有ト↢七百五倶胝六百万ノ光明↡。」
・第四七日 仏功徳 別徳 白毫作用
次に白毫の作用とは、 いはく白毫より放たるるところの光明のなかに衆事を現ずるなり。 恵心の意 (白毫観意) に「その所現の境界十法界をば出でず」 といへり。 いはく仏身をもつて得度すべきには、 すなはちかの白毫の光を現して仏身となる。 その仏身につきて二あり。 一は始終応同の身、 二には無而欻有の身なり。
次ニ白毫ノ作用トハ者、謂ク白毫ヨリ所ノ↠放光明ノ中ニ現ズル↢衆事ヲ↡也。恵心ノ意云ヘリ↢「其ノ所現ノ之境界不ト↟出↢十法界ヲバ↡。」謂ク応キニハ↧以テ↢仏身ヲ↡得度ス↥者、即現テ↢彼ノ白毫ノ光ヲ↡作ル↢仏身ト↡。付テ↢其仏身ニ↡有↠二。一ハ始終応同ノ身、二ニハ無而欻有ノ身也。
・第四七日 仏功徳 別徳 白毫作用 始終応同
始終応同とは、 釈迦如来のごとく八相を現ずるなり。
始終応同トハ者、如↢釈迦如来↡現ズル↢八相ヲ↡也。
・第四七日 仏功徳 別徳 白毫作用 無而欻有
無而欻有とは、 託胎・出胎の相をも現ぜず、 出家・成道の相をも現ぜず、 ただ忽然として現ずる仏身なり。
無0166而欻有トハ者、不↠現ゼ↢託胎・出胎ノ之相ヲモ↡、不↠現ゼ↢出家・成道之相ヲモ↡、只忽然トシテ而現ズル之仏身也。
あるいはまた菩薩の身を現ず。 普賢・文殊・観音・勢至・地蔵等のごときのもの、 すなはち菩薩なり。 しかればかれらのもろもろの大菩薩も、 弥陀の白毫の所現にてもやましますらん。
或ハ又現ズ↢菩薩ノ身ヲ↡。如キノ↢普賢・文殊・観音・勢至・地蔵等ノ↡者、即菩薩也。然バ者彼等ノ諸ノ大菩薩モ、弥陀ノ白毫ノ所現ニテモヤ坐マス覧。
またあるいは辟支仏の身をもつて済度すべきものには、 かの白毫の光現じて辟支仏となる。 辟支仏とは、 前仏の法は滅し、 後仏はいまだ出でたまはざる中間に出でて、 仏の教にはあらず、 ただ飛花落葉を見て独り悟を開くなり。 ゆゑに独覚といふ。 この独覚に二あり。 一には麟喩独覚、 二には部行独覚なり。
又或ハ応↧以↢辟支仏身ヲ↡済度↥者ニハ、彼ノ白毫ノ光現ジテ作↢辟支仏ト↡。辟支仏ト者、前仏ノ法ハ滅シ、後仏ハ未ダル↠出タマハ之中間ニ而出デヽ、非↢仏教ニハ↡、唯見テ↢飛花落葉ヲ↡独開↠悟ヲ也。故ニ云フ↢独覚ト↡。此独覚ニ有↠二。一麟喩独覚、二ニハ部行独覚也。
あるいはまた声聞の身を現ず。 釈迦仏の御弟子舎利弗・目連・迦葉・阿難等のごときもの、 すなはち声聞なり。 知らず、 弥陀如来の白毫の光釈迦の化儀を助けんがためにかのもろもろの大声聞を現じたまふらん。
或又現ズ↢声聞身ヲ↡。如キ↢釈迦仏ノ御弟子舎利弗・目連・迦葉・阿難等ノ↡者、即声聞也。不↠知、弥陀如来ノ白毫ノ光為ニ↠助ンガ↢釈迦ノ化儀ヲ↡現ジ↢彼ノ諸大声聞↡給フ覧。
あるいは梵王の身を現じ、 あるいは帝釈の身を現じ、 あるいは国王・大臣の身とも現じ、 あるいは長者・居士の身をも現ず。 およそ比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・竜・夜叉・乾闥婆・緊那羅乃至地獄・鬼・畜生・修羅、 かくのごときらの一切の身、 よろしきに随ひて現ぜざるなし。
或ハ現ジ↢梵王ノ身ヲ↡、或ハ現ジ↢帝釈ノ身ヲ↡、或現↢国王・大臣ノ身トモ↡、或ハ現ズ↢長者・居士ノ身ヲモ↡。凡ソ比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷・天・竜・夜叉・乾闥婆・緊那羅乃至地獄・鬼・畜生・修羅、如↠是等一切ノ身、随テ↠宜ニ無シ↠不↠現。
これにつきて意得れば、 総じて六道四生一切の凡聖は、 しかしながら弥陀如来の毫光の所現かと疑はるるものなり、 ただこの白毫の一相のみにあらず、 総じて八万四千の相、 一々にみなかくのごとく一切の身と現ずるなり。 しかれば法界のなかにはただ弥陀一仏の遍したまへるなり。
就テ↠之得レバ↠意者、総ジテ六道四生一切ノ凡聖ハ、併ラ被ヽ疑ハ↢弥陀如来之毫光ノ所現歟ト↡者ナリ也。非↢啻此ノ白毫ノ一相ノミニ↡、総ジテ八万四千ノ相、一一ニ皆如ク↠此ク現↢一切ノ身ト↡也。然バ法界ノ中ニハ但弥陀一仏之遍シ給ヘル也。
・第四七日 仏功徳 別徳 白毫体性
次に白毫の体性とは、 ¬中論¼ (巻四観四諦品意) にいはく、 「因縁所生法、 我説即是空、 亦名為仮名、 亦是中道義」 と。 以上
次ニ白毫ノ体性ト者、¬中論ニ¼云、「因縁所生法、我説即是空、亦名為仮名、亦是中0167道義」。已上
白毫はすなはち因縁所生の法なるがゆゑに、 その性すなはち空すなはち仮すなはち中なり。 すなはち空のゆゑに因にあらず果にあらず、 畢竟空寂にして体用あることなし。 すなはち仮なるがゆゑに因果・体用万徳無辺なり。 三世の法門一切の諸法、 ことごとく具足して欠くることなし。 しかれば一切の諸仏・菩薩も、 一切の声聞・縁覚も、 一切の地獄・鬼・畜も、 一切の修羅・人・天も、 およそ百界千如三千世間、 みなこの弥陀白毫の一相に備はりたり。
白毫ハ即チ因縁所生ノ法ナルガ故ニ、其ノ性即チ空即仮即チ中也。即空ノ故ニ非↠因ニ非↠果ニ、畢竟空寂ニシテ而無シ↠有コト↢体用↡。即仮ガ故ニ因果・体用万徳無辺也。三世ノ法門一切ノ諸法、悉ク具足シテ無↠欠クルコト。爾バ者一切ノ諸仏・菩薩モ、一切ノ声聞・縁覚モ、一切ノ地獄・鬼・畜モ、一切ノ修羅・人・天モ、凡ソ百界千如三千世間、皆備タリ↢此ノ弥陀白毫ノ一相ニ↡。
すなはち中道なるがゆゑに有にもあらず無にもあらず、 具足にあらず具足せざるにもあらず、 因を離れ果を離れ、 また因果を離るるにもあらず、 体もなく用もなく、 また体用なきのもあらず。 たとへば如意珠のごとし。 ただこの白毫の一相のみ空仮中を備ふるにあらず、 余の一々の諸相もみなこの三諦を具す。
即チ中道ナルガ故ニ非ズ↠有ニモ非ズ↠無ニモ、非↢具足ニ↡非↠不ニモ↢具足↡、離レ↠因ヲ離↠果ヲ、亦不ズ離ニモ↢因果ヲ↡、無ク↠体モ無ク↠用モ、亦非↠無ニモ↢体用↡。譬バ如↢如意珠ノ↡。非↣啻此ノ白毫ノ一相ノミ備↢空仮中ヲ↡、余ノ一一ノ諸相モ皆具↢此ノ三諦ヲ↡。
ただこの弥陀一仏の功徳のみ三諦円融の義を備へたるにあらず、 余の一切の諸仏もことごとく具足して円融無礙なり。 また一切のもろもろの菩薩もみなことごとく備へたり。 またただ菩薩のみにあらず、 声聞・縁覚もまたかくのごとし。 乃至六趣四生の上にも、 一々にみな三諦の妙理を備へずといふことなし。
非↣啻此ノ弥陀一仏ノ功徳ノミ備タルニ↢三諦円融ノ義ヲ↡、余ノ一切ノ諸仏モ悉具足シテ円融無礙ナリ也。又一切ノ諸ノ菩薩モ皆悉備タリ。又非↢啻菩薩ノミニ↡、声聞・縁覚モ亦如↠是。乃至六趣四生ノ之上ニモ、一一ニ皆無シ↠不云コト↠備↢三諦ノ妙理ヲ↡。
およそこの三諦の理においては、 凡聖たがひに備へ、 迷悟ともに具せり。 しかれば阿鼻の依正はまつたく極聖の自心に処し、 毘盧の身土は凡下の一念を越えず。 これは天台宗の意なり。
凡ソ於テハ↢此ノ三諦ノ理ニ↡者、凡聖互ニ備ヘ、迷悟倶ニ具セリ。然バ者阿鼻ノ依正ハ全ク処↢極聖ノ自心ニ↡、毘盧ノ身土ハ不↠越↢凡下ノ一念ヲ↡。是ハ天臺宗ノ意ナリ也。
・第四七日 仏功徳 別徳 白毫利益
次に白毫の利益とは、 ¬観仏三昧経¼ (巻二観相品) にいはく、 「この相を観ずるものは、 九十六億那由他恒河沙微塵数劫の生死の罪を除却す」 といへり。 これすなはちかの三諦の観を具せざるも、 ただ白毫の相ばかりを観ずるに、 かくのごときの多劫の罪を滅するなり。 あるいは白き糸を巻き並べてこれを見るに、 なほ業罪を滅すといへり 云々。 これ恵心の御意なり、 また経の説なり。
次ニ白毫ノ利益トハ者、¬観仏三昧経ニ¼云ク、「観ル↢此ノ相ヲ↡者ハ、除↢却スト云リ九十六億那由他恒河沙微塵数劫ノ生死之罪ヲ↡。」是則不ルモ↠具↢彼ノ三諦ノ観ヲ↡、但観ルニ↢白毫ノ之相許リヲ↡、滅スル↢如ノ↠此ノ多劫之罪ヲ↡也。或ハ巻↢並テ白絲ヲ↡見ニ↠之、猶滅ト云リ↢業罪ヲ↡ 云云。此0168レ恵心ノ御意也、又経ノ説ナリ也。
白毫の功徳、 略を存ずるにかくのごとし。 仏、 螺髪・玉毫の二相をもつて人に殊なる事を顕したまへるなり。
白毫ノ功徳、存ズルニ↠略如シ↠斯ノ。仏以テ↢螺髪・玉毫ノ二相ヲ↡而顕ハシ↢人ニ於殊ナル事ヲ↡給ヘル也。
ただし人のなかにも現身に肉髻の相を得たる因縁の候ふなり。 天台宗の祖師南岳大師法華三昧を行じたまひし時、 普賢菩薩来りてその頂を摩でたまひしかば、 頂上にたちまちに肉髻を生ぜりといふ事候ふなり。
但シ人ノ中ニモ現身ニ得タル↢肉髻ノ之相ヲ↡因縁ノ候ナリ也。天臺宗ノ祖師南岳大師行タマヒシ↢法華三昧ヲ↡之時、普賢菩薩来テ摩タマヒシカバ↢其頂ヲ↡者、頂上ニ忽ニ生ゼリト↢肉髻ヲ↡云事候也。
沙門遵式はじめて般若三昧を行じて、 四十九日の間常行して坐臥せず。 しかる間病を受けて血を吐くことはなはだ多し。 しかりといへども死をもつてその期として、 つひに退転せず。 道場の四つの角におのおの灰を入れたる鉢を置きてその血を吐き入れ、 行道すること止めず。 時に夢のごとく幻のごとく白衣の観音を見たてまつり、 指を敍べて口の内より数十の虫を取り出したまふ。 指の前より甘露を出してその口に灑ぎたまふ。 遵式たちまちに愈えて身心清浄にして、 頂より肉髻を出すこと一寸余、 またその声高く出づること前のごとし 云々。
沙門遵式始行テ↢般若三昧ヲ↡、四十九日之間常行シテ不↢坐臥↡。然間受テ↠病ヲ吐クコト↠血甚多シ。雖↠爾ト以↠死ヲ為シテ↢其期ト↡、終ニ不↢退転↡。道場ノ之四ノ角ニ各ノ置テ↢入タル↠灰ヲ鉢ヲ↡吐キ↢入其ノ血ヲ↡、行道スルコト不↠止。于時ニ如ク↠夢如ク↠幻奉↠見↢白衣ノ観音ヲ↡、敍ベテ↠指ヲ従↢口ノ内↡取↢出シ数十ノ虫ヲ↡給フ。于従リ↢指ノ前出シテ↢甘露ヲ↡灑ギ↢其ノ口ニ↡給。遵式忽ニ愈テ身心清浄ニシテ、自リ↠頂出コト↢肉髻ヲ↡一寸余、又其ノ声高出コト如↠前也 云云。
かの遵式は、 これ逆修の間日々に行はれ候ふ ¬懺願儀¼ の作者なり。 人につきてもおのづからかやうの不思議の事候へども、 これは別縁の事なり、 常の事にはあらず。 その螺髻・玉毫の外は、 人も六根を具せり、 仏も六根を具したまへり。 その相みなかくのごとし。 ただし勝劣の差別・好醜の不同ばかりなり。 ただしその勝劣・好醜見交ふべくもなし、 懸隔にや候ふらん。
彼遵式ハ、此逆修ノ間日日ニ被↠行ハ候¬懺願儀¼之作者ナリ也。付テモ↠人ニ自加様ノ不思議ノ事候ヘドモ、此ハ別縁ノ事ナリ也、非↢常ノ事ニハ↡。其ノ螺髻・玉毫ノ外ハ、人モ具セリ↢六根ヲ↡、仏モ具シ↢六根ヲ↡給ヘリ。其ノ相皆如↠此。但シ勝劣ノ差別・好醜ノ不同計ナリ也。但シ其ノ勝劣・好醜無シ↠可クモ↢見交ウ↡、懸隔ニヤ候覧。
およそ仏の力用は不思議の事とは申しながら、 釈迦如来 ¬法華経¼ の本迹二門を説きおはりて後、 丈六の御身ながら、 しかも三千大千世界のなかに充満したる一切の諸菩薩の頂を、 一々に摩でたまふ事三度したまひけんこそ、 心も語も及ばれ候はね。 丈六の身なほしかり、 いはんや弥陀如来の六十万億那由他恒河沙由旬の御身をや。 仏の功徳、 大概かくのごとし。
凡ソ仏ノ力用ハ不思議ノ事トハ乍↠申シ、釈迦如来説キ↢¬法華経ノ¼本迹二門ヲ↡竟テ後、乍↢丈六ノ御身↡、而モ充↢満シタル三千大千世界ノ中ニ↡之一切ノ諸菩薩ノ頂ヲ、一一ニ摩給フ事三度シ給ケンコソ、被↠及↢心モ語モ↡候ハネ。丈六ノ身尚爾リ、況ヤ弥陀如来0169ノ六十万億那由他恒河沙由旬ノ御身ヲヤ耶。仏ノ功徳、大概如↠此。
・第四七日 観経
△次に ¬観無量寿経¼ とは、 この ¬経¼ には定散二門を説きて、 往生の行業を明かす。 いはゆる三福九品の散善、 十三の定善なり。
次ニ¬観無量寿経トハ¼者、此¬経ニハ¼説テ↢定散二門ヲ↡、明↢往生ノ行業ヲ↡。所謂ル三福九品ノ之散善、十三之定善也。
▲まづ三福とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「一者孝養父母」。 云々 「二者受持三帰」。 云々 「三者発菩提心」。 云々
先ヅ三福トハ者、¬経ニ¼云、「一者孝養父母。」云云 「二者受持三帰。」云云 「三者発菩提心。」云云
・第四七日 観経 孝養父母
△「孝養父母」 とは、 世間・出世の二の孝養あるべし。
「孝養父母トハ」者、可シ↠有ル↢世間・出世二ノ孝養↡。
・第四七日 観経 孝養父母 世間孝養
世間の孝養とは、 俗家に言ふところの ¬孝経¼ 等に説けるこれなり。 「身体髪膚父母に受けたり、 あへて毀ひ傷らざるを孝の始とするなり」 と。 身体髪膚父母に受くとは、 いまこれをもつて意得るに二義あり。
世間ノ孝養トハ者、俗家ニ所ノ↠言¬孝経¼等ニ説ル是ナリ也。「身体髪膚受タリ↢于父母ニ↡、不ルヲ↢敢テ毀ヒ傷ラ↡孝ノ始也。」身体髪膚受トハ↢父母ニ↡者、今以↠之意得ニ有↢二義↡。
一には人の懐妊の後、 われいかなるものをか妊みたるらん、 人にあらざるものにてもやあるらんと様々に不審く覚ゆるべき事にて候ふ。 はじめて生れたるを見れば、 身体髪膚父母に違ふことなし。 毀ひ傷りたる事なくて正しき子にてある時、 父母の心を悦ばしむるゆゑに、 これをもつて孝養の始とは申すにやと覚へ候ふ。
一ニハ人ノ懐妊ノ後、我妊ミタル↢何ナル物ヲカ↡覧、有ラント↢不↠人ニアラ物ニテモヤ↡様々ニ不審ク可キ↠覚事ニテ候。初テ見レバ↠生タルヲ者、身体髪膚無シ↠違フコト↢父母ニ↡。無クテ↢毀傷タル事↡有ル↢正シキ子ニテ↡之時、令ムル↠悦↢父母ノ心ヲ↡故ニ、以テ↠之申ニヤト↢孝養ノ始トハ覚ヘ候。
二には人の身はしかしながら父母の身体なり。 この身を悪しくして打ちも損じ、 あるいは人と口論をなして切り突かれ、 あるいは不治に振舞ひて病につき、 かくのごときものはもつぱらに父母を傷るなり。 しかればこの身を全じて、 わが身は父母の身分なれば構へて毀ひ傷らじと思ふを、 孝養の始と申すかと覚へ候ふ。
二ニハ人ノ身ハ併ラ父母ノ之身体也。此ノ身ヲ悪シテ而打モ損ジ、或ハ与↠人為シテ↢口論ヲ↡被↢切リ突カ、或ハ不治ニ振舞テ付キ↠病、如↠此ノ者ハ専ニ傷ル↢父母ヲ↡也。然バ者全ジテ↢此ノ身ヲ↡、我身ハ父母ノ身分ナレバ者思フヲ↣構ヘテ不ト↢毀傷↡、申ス↢孝養ノ始ト↡歟ト覚ヘ候。
身を立てて道を行ふとは、 おのが家に随ひておのおの学び、 学び習ふべき道を行ひて、 名を揚げ徳を開きて身を朝廷に仕へ、 誉を四海に施して、 これはその人の子ぞといはれて父母の名を顕すを、 孝養の終とは申すなり。
立テ↠身ヲ行トハ↠道ヲ者、随↢己ガ家ニ↡各学ビ、行テ↧可キ↢学ビ習フ↡之道ヲ↥、揚ゲ↠名ヲ開テ↠徳ヲ仕ヘ↢身ヲ朝廷ニ↡、施シテ↢誉ヲ四海ニ↡、被テ↠云ハ↢是ハ其ノ人ノ之子ゾト↡顕ハスヲ↢父母ノ名ヲ↡、申ス↢孝養ノ終トハ也。
¬孝経¼ には五等の孝養を挙げたり。 すなはち天子・諸侯卿・大士・士・庶人なり。 また水菽の孝養あり。 これは薪を採り水を結び、 菜を捻み菓を拾ひて、 朝暮に父母を養へる孝養なり。 また顔色の孝養あり。 これ父母の顔を守りて、 その趣に随ひて何事も心に違はざるなり。 孔子 (論語) のいはく、 「色難し」 と。 これみな世間の孝養なり。
¬孝経ニハ¼挙タリ↢五等ノ孝養ヲ↡。則チ天子・諸侯卿・大士・士・庶人也。又有リ↢水菽孝養↡。是ハ採リ薪ヲ結ビ↠水ヲ、捻ミ菜ヲ拾ヒテ↠菓ヲ、朝暮0170ニ養ヘル↢父母ヲ↡孝養也。又有リ↢顔色ノ孝養↡。是守テ↢父母ノ顔ヲ↡、随テ↢其ノ趣ニ↡何事モ不ル↠違ハ↠心ニ也。孔子曰、「色難ト。」是皆世間ノ孝養也。
・第四七日 観経 孝養父母 出世孝養
次に出世の孝養とは、 「流転三界中、 恩愛不能断、 恩を棄て無為に入る、 真実報恩者」 と申して、 父の道をも継がず、 母の心にも随はず、 水菽の志をも運ばず、 顔色の趣をも守らずしてあるいは山林にも交り、 あるいは蘭若にも住して仏道を修行するものは、 当時の思は恩を知らず徳を忘れたるに似たれども、 しばらく有漏の恩徳を棄てて、 つひに無為の報謝を求むるなり。 これを真実の孝養とは申すなり。
次ニ出世ノ孝養トハ者、「流転三界中、恩愛不能断、棄↠恩入↢無為↡、真実報恩者ト」申テ、不↠継ガ↢父ノ道ヲモ↡、不↠随↢母心ニモ、不↠運バ↢水菽ノ之志ヲモ↡、不シテ守ラ↢顔色ノ之趣ヲモ↡而或ハ交リ↢山林ニモ↡、或ハ住シテ↢蘭若ニモ↡修↢行スル仏道ヲ↡者ハ、当時ノ思ハ者似レドモ↢不↠知↠恩ヲ忘タルニ↟徳ヲ、暫ク棄テヽ↢有漏ノ恩徳ヲ↡、終ニ求ル↢無為ノ報謝ヲ↡也。是ヲ申ス↢真実ノ孝養トハ↡也。
ゆゑに ¬心地観経¼ にいはく、 「もし人父母の恩を報ぜんと欲はば、 父母に代りて誓願を発して、 阿蘭若菩提の場に入りて昼夜につねに妙道を修すべし」 と。 云々 また出世にも身を立て道を行ふ義あるべし。 智行内に積り、 名徳外に顕れて、 三蔵の法師・禅師・律師なんどいはるるは、 すなはちその意なり。 あるいは羅什三蔵・玄奘三蔵ともいはれ、 南岳大師・天台大師ともいはるる、 すなはちこれなり。
故ニ¬心地観経ニ¼云ハク、「若シ人欲ハヾ↠報ント↢父母ノ恩ヲ↡、代テ↢於父母ニ↡発シテ↢誓願ヲ↡、入テ↢阿蘭若菩提場ニ↡昼夜ニ常ニ修ベシ↢於妙道ヲ↡。」云云 又出世ニモ可↠有↢立↠身ヲ行フ↠道ヲ義↡。智行内ニ積リ、名徳外ニ顕テ、被↠云ハ↢三蔵法師・禅師・律師ナンド↡、即其ノ意ナリ也。或ハ被↠云ハ↢羅什三蔵・玄奘三蔵トモ↡、被↠云↢南岳大師・天臺大師トモ↡、即是也。
また出世の孝養は、 かならず父母を棄つべしといふ事も候はず。 すなはち律のなかに生縁奉事の法あり。 いはく 「父の貧しからんものをば寺の内に置きこれを養ふも、 母の貧しからんものをば寺の外に置きてこれを養ふ」 といへり。 云々 かれもこれも人の意楽に随ひて時のよろしきによるべきなり。 ¬梵網経¼ (巻下意) にも「父母・師僧に孝順するを戒と名づく」 と説けり。
又出世ノ孝養ハ、必可ト↠棄ツ↢父母ヲ↡云事モ不↠候ハ也。即律ノ中ニ有リ↢生縁奉事ノ法↡。謂ク「父ノ貧カラン者ヲバ置キ↢寺ノ内ニ↡養モ↠之ヲ、母ノ貧シカラン者ヲバ置テ↢寺ノ外ニ↡養ト云ヘリ↠之ヲ。」云云 彼モ此モ随テ↢人ノ意楽ニ↡可↠依↢時ノ宜ニ↡也。¬梵網経ニモ¼説ケリ↧「孝↢順スルヲ父母・師僧↡名ト↞戒ト」矣。
如来在世の時外道あり、 名づけて須跋陀といふ、 ながく仏法に帰せず。 しかるに仏阿難尊者を遣はして、 須跋陀を召しに遣はす。 そのゆゑは阿難過去に五百世の間、 須跋陀が子と生れたることあり。 その因縁によりて阿難の教化に随ふべきゆゑなり。 阿難仏勅を承けて須跋陀を誘ひて、 具して仏の所に詣でて仏の所説を聞かしむるに、 すなはち解を開きたりといふ因縁の候ふなり。
如来在世ノ時有↢外道↡、名テ曰フ↢須跋陀ト↡、永ク不↠帰↢仏法ニ↡。然ニ仏遣シテ↢阿難尊者ヲ↡、遣ハス↠召シニ↢須跋陀ヲ↡。其ノ故ハ阿難過去ニ五百世ノ間、有リ↠生タルコト↢須跋陀ガ子ト↡。依テ↢其因縁ニ↡可キ↠随フ↢阿難ノ教化ニ↡故0171也。阿難承テ↢仏勅ヲ↡誘テ↢須跋陀ヲ↡、具シテ詣テ↢仏ノ所ニ令ルニ↠聞カ↢仏ノ所説ヲ↡、即開タリト↠解ヲ云因縁ノ候也。
これをもつて思ふにも、 同じ善知識と申せども、 父母の間は宿縁深きによりて易かるべきにこそ、 教化にも随ひ候ふめれ。 しかるに大法主禅門、 ひとへに一人の孝子大徳のために勧められて、 深く往生浄土門に入りたまへる事も、 あはれに思ひ合はされ候ふなり。
以テ↠之ヲ思ニモ、同ジ善知識ト申セドモ、父母ノ之間ハ籍テ↢宿縁深ニ↡可キニコソ↠易カル、随ヒ↢教化ニモ↡候メレ。而ニ大法主禅門、偏ニ為ニ↢一人ノ孝子大徳ノ↡被レテ↠勧メ、深ク入リタマヘル↢往生浄土門ニ↡事モ、哀レニ被↢思ヒ合↡候也。
・第四七日 観経 奉事師長
△奉事師長とは、 これにまた世間の師あり出世の師あり。
奉事師長トハ者、此ニ又有↢世間ノ師↡有↢出世ノ師↡。
・第四七日 観経 奉事師長 世間師
世間の師とは、 仁・義・礼・智・信等をも教へ、 乃至道々に随ひて記伝・明経・医道・陰陽道等、 これらを教ふる師なり。 これにおいて孝順給仕する事、 父母のごとくするなり。 世に三尊あり。 いはく父・師・君なり。 「人中にある、 これに仕へんこと一のごとくすべし」 といへるこれなり。
世間師トハ者、教ヘ↢仁・義・礼・智・信等ヲモ↡、乃至随テ↢道々↡記伝・明経・医道・陰陽道等、教フル↢此等ヲ↡之師也。於テ↠之ニ孝順給仕スル事、如スル↢父母ノ↡也。世ニ有リ↢三尊↡。謂ク父・師・君也。云ル↧「在ル↢人中ニ↡、仕ヘンコト↠之ニ如スベシト↞一ノ↡」是也。
・第四七日 観経 奉事師長 出世師
出世の師とは、 生死を出でて菩提に趣くべき道を教ふる師なり。 あるいは聖道の得道を訓へ、 あるいは浄土の往生を教ふるなり。 おのおの宗に随ひて天台・真言・三論・法相等をも教へたらん師なり。 かくのごとく出離生死・成仏得脱の道を教へたる師僧の恩は、 父母の恩にも勝れたり。 ゆゑに道宣律師 (浄心誡観巻下) 「父母は七生、 師僧は累劫、 愚者知ることなし」 といへり。
出世ノ師トハ者、教フル↩可キ↧出テ↢生死ヲ↡趣↦菩提ニ↥之道ヲ↨師也。或ハ訓ヘ↢聖道ノ之得道ヲ↡、或ハ教ル↢浄土ノ之往生ヲ↡也。各随テ↠宗教ヘタラン↢天臺・真言・三論・法相等ヲモ↡師也。如ク↠是教タル↢出離生死・成仏得脱ノ之道ヲ↡師僧之恩ハ、勝タリ↢父母ノ恩ニモ↡。故ニ道宣律師云ヘリ↢「父母ハ七生、師僧ハ累劫、愚者無ト↟知コト」矣。
沙弥道衍といふものありき、 師僧に奉事して往生を遂げたる人なり。 仏の外は大羅漢に至るまで、 具足戒を受けたる僧をばこれを使はざるゆゑに、 道衍は一生涯の間具足戒を受けずして、 始終師に仕へる、 その功徳によりて往生を得たりと伝記に見えて候ふなり。 また舎利弗の弟子に均提沙弥といふものあり、 また師に事へんがために具足戒を受けざる人にて候ひき。
有リキ↢沙弥道衍ト云者↡、奉↢事シテ師僧ニ↡遂タル↢往生ヲ↡人ナリ也。仏ノ外ハ至マデ↢大羅漢ニ↡、受タル↢具足戒ヲ↡僧ヲバ不ル↠使ハ↠之ヲ故ニ、道衍ハ一生涯ノ間不シテ↠受↢具足戒ヲ↡、始終仕ヘル↠師ニ、依テ↢其ノ功徳ニ↡得タリト↢往生ヲ↡見テ↢伝記ニ↡候也。又舎利弗ノ弟子ニ有リ↢均提沙弥ト云者↡、亦為ニ↠事ヘンガ↠師ニ不ル↠受↢具足戒ヲ↡人ニテ候キ矣。
・第四七日 観経 慈心不殺
△「慈心不殺」 とは、 四無量心のなかのはじめの慈無量なり。 すなはちはじめの一戒を挙げて後の三をば摂するなり。 慈無量とは楽を与へ、 悲無量とは苦を救ふなり。 喜無量とは抜苦与楽を見て喜ぶなり。 捨無量とは不喜不苦なり。
「慈心不殺トハ」者、四無量心ノ中ノ初ノ慈無量也。即挙テ↢初ノ一戒ヲ↡摂スル↢後ノ三ヲバ↡也0172。慈無量トハ者与ヘ↠楽ヲ、悲無量トハ者救↠苦也。喜無量トハ者見テ↢抜苦与楽↡而喜也。捨無量トハ者不喜不苦ナリ也。
・第四七日 観経 修十善業
△修十善業とは、 一には不殺生、 二には不偸盗、 三には不邪婬、 四には不妄語、 五には不綺語、 六には不悪口、 七には不両舌、 八には不貪、 九には不瞋、 十には不邪見なり。
修十善業トハ者、一ニハ者不殺生、二ニハ者不偸盗、三ニハ者不邪婬、四ニハ者不妄語、五ニハ者不綺語、六ニハ者不悪口、七ニハ者不両舌、八ニハ者不貪、九者不瞋、十者不邪見也。
天台の意は、 四教の四無量ならびに十善業あるべし。 また真言宗を加へては、 五種の四無量ならびに十善業あるべし。 事相同様なれども、 観心の浅深によりてかくのごときの不同あるなり。
天臺ノ意、可シ↠有ル↢四教ノ之四無量并ニ十善業↡。又加テハ↢真言宗ヲ↡者、可↠有↢五種ノ之四無量并ニ十善業↡。事相同様ナレドモ、依テ↢観心ノ浅深ニ↡有↢如ノ↠是ノ不同↡也。
・第四七日 観経 受持三帰
△受持三帰とは、 仏法僧に帰依するなり。 これに多の三帰あり。 いはゆる翻邪の三帰、 八戒の三帰、 乃至声聞戒の三帰、 菩薩戒の三帰等なり。 大きに分ちては二を出でず。 一には大乗の三帰、 二には小乗の三帰なり。
受持三帰トハ者、帰↢依スルナリ仏法僧ニ↡也。此ニ有↢多ノ三帰↡。所謂ル翻邪ノ三帰、八戒ノ三帰、乃至声聞戒ノ三帰、菩薩戒三帰等也。大ニ分テハ不↠出↠二ヲ。一ニハ者大乗ノ三帰、二ニハ者小乗ノ三帰也。
・第四七日 観経 具足衆戒
△具足衆戒とは、 天台の意は、 二の具足戒あり。 いはく大乗の具足戒、 小乗の具足戒なり。 大乗は ¬梵網¼ によりて五十八戒を持つなり。 小乗は ¬四分¼・¬五分¼・¬十誦¼・¬僧祗¼ 等の小乗律によりて、 比丘は二百五十戒を持ち、 比丘尼は五百戒を持つなり。
具足衆戒者、天臺ノ意ハ者、有リ↢二ノ具足戒↡。謂ク大乗ノ具足戒、小乗ノ具足戒也。大乗ハ依テ↢¬梵網ニ¼持↢五拾八戒ヲ↡也。小乗ハ依テ↢¬四分¼・¬五分¼・¬十誦¼・¬僧祗¼等ノ小乗律ニ↡、比丘ハ持↢二百五十戒ヲ↡、比丘尼ハ持ツ↢五百戒ヲ↡也。
・第四七日 観経 不犯威儀
△不犯威儀とは、 これまた大乗の威儀あり小乗の威儀あり。 大乗には八万の威儀、 小乗は三千の威儀なり。
不犯威儀トハ者、是亦有↢大乗ノ威儀↡有↢小乗ノ威儀↡。大乗ニハ八万ノ威儀、小乗ハ三千ノ威儀也。
・第四七日 観経 発菩提心
△発菩提心とは、 諸師の意不同なり。 天台には四教の菩提心あり。 いはく蔵・通・別・円これなり。 つぶさには ¬止観¼ に説くがごとし。 ただし蔵通二教の菩提心は往生すべからず。 真言宗に三種の菩提心あり。 いはく行願・勝義・三摩地これなり。 つぶさには ¬菩提心論¼ に説くがごとし。 華厳にまた菩提心あり。 かの ¬菩提心義¼ および ¬遊心安楽道¼ 等に説くがごとし。 また善導所釈の菩提心あり。 つぶさには ▲¬観経の疏¼ に宣ぶるがごとし。 およそ発菩提心の句はその言一なりといへども、 おのおの諸宗に望むればその義不同なり。
発菩提心トハ者、諸師ノ意不同也。天臺ニハ有↢四教ノ菩提心↡。謂ク蔵・通・別・円是ナリ也。具ニハ如↢¬止観ニ¼説ガ↡。但シ蔵通二教ノ菩提心ハ不↠可↢往生↡。真言宗ニ有↢三種ノ菩提心↡。謂ク行願・勝0173義・三摩地是ナリ也。具ニハ如↢¬菩提心論ニ¼説ガ↡。華厳亦有↢菩提心↡。如↢彼ノ¬菩提心義¼及ビ¬遊心安楽道¼等ニ説ガ↡。又有↢善導所釈ノ菩提心↡。具ニ如↢¬観経ノ疏ニ¼宣ルガ↡。凡ソ発菩提心ノ句ハ其ノ言雖↠一ナリト、各望レバ↢諸宗ニ↡其ノ義不同也。
・第四七日 観経 深信因果
△深信因果とは、 これにつきて二あり。 一は世間の因果、 二は出世の因果。 世間の因果とは、 すなはち六道の因果なり。 ¬正法念経¼ に説くがごとし。 出世の因果とは、 すなはち四聖の因果なり。 もろもろの大小乗経に説くがごとし。 もしこの因果の二法をもつてあまねく諸経を摂せば、 諸宗の義不同なり。 しばらく天台によれば、 いはく ¬華厳経¼ には仏・菩薩二種の因果を説き、 ¬阿含経¼ には声聞・縁覚の二乗の因果を説きて、 もろもろの方等の諸経には四乗の因果を説き、 般若の諸経には通・別・円の因果を説き、 ¬法華経¼ にはただ仏の因果を説き、 ¬涅槃経¼ にはまた四乗の因果を説くなり。 しかるにこの深信因果の言のなかにあまねく一代の聖教を摂するなり。
深信因果トハ者、付テ↠之有↠二。一世間ノ因果、二ハ出世因果。世間因果トハ者、即六道ノ因果也。如↢¬正法念経ニ¼説ガ↡。出世ノ因果トハ者、即四聖ノ因果也。如↢諸ノ大小乗経ニ説ガ↡。若以テ↡此ノ因果ノ二法ヲ↡遍ク摂バ↢諸経↡者、諸宗ノ義不同也。且ク依バ↢天臺ニ↡者、謂ク¬華厳経ニハ¼説↢仏・菩薩二種ノ因果ヲ↡、¬阿含経ニハ¼説シテ↢声聞・縁覚ノ二乗ノ因果ヲ↡、諸ノ方等ノ諸経ニハ説↢四乗因果ヲ↡、般若ノ諸経ニハ説↢通・別・円ノ因果ヲ↡、¬法華経ニハ¼但説↢仏ノ因果ヲ↡、¬涅槃経ニハ¼又説↢四乗ノ因果ヲ↡也。然ニ此ノ深信因果ノ言ノ中ニ遍ク摂↢一代ノ聖教ヲ↡也。
深くこの世間・出世の二種の因果を信ずるものは、 余の行なしといへども往生すべきなり。 もしこの因果において疑謗を起すものは、 ただ往生せざるのみにあらず、 悪道に堕すべし。 法相宗の学生新羅国の順璟法師は、 ¬華厳¼ (晋訳巻八梵行品) の 「初発心時便成正覚」 の文の意を誹謗して、 たちまちに大地破烈して即身に地獄に堕したり。 その穴いまにあり、 人 (宋高僧伝巻四) これを 「順璟が奈洛迦」 といふと。 云々。これすなはち仏の因果を信ぜずして誹謗せしがゆゑに、 地獄に堕したる人なり。 あはれむべしおそるべし 云々。
深ク信ズル↢此ノ世間・出世二種ノ因果ヲ↡者ハ、雖↠無↢余ノ行↡可キ↢往生↡也。若シ於↢此ノ因果ニ↡起ス↢疑謗ヲ↡者ハ、非↣啻不ノミ↢往生↡、可シ↠堕↢悪道ニ↡。法相宗ノ学生新羅国ノ順璟法師ハ、誹↢謗シテ¬華厳ノ¼「初発心時便成正覚ノ」之文ノ意ヲ↡、忽ニ大地破烈シテ即身ニ堕タリ↢地獄ニ↡。其ノ穴宇今ニ在リ、人是ヲ云ト↢「順璟ガ之奈洛迦ト」云云。是則不↠信ゼ↢仏ノ因果ヲ↡而誹謗セシガ故ニ、堕↢地獄↡人也。可シ↠哀可↠畏云云。
・第四七日 観経 読誦大乗
△読誦大乗とは、 別して一経・二経に限らず、 広くもろもろの大乗を摂す。 また経のみに限らず、 総じて大乗の経律論においてみな受持・読誦するは、 往生の業なり。 ただ総て大乗といふがゆゑなり。 また顕密ともにこの大乗の一句に摂するなり。 ¬貞元入蔵の録¼ に大乗目録のなかに同じく顕密の諸大乗を列ねてそのなかに入れたるたるがゆゑなり。
読誦大乗トハ者、別シテ不↠限↢一経・二経0174ニ↡、広ク摂ス↢諸ノ大乗ヲ↡。又不↠限↠経ノミニ、総ジテ於テ↢大乗ノ経律論ニ↡皆受持・読誦スルハ者、往生ノ業也。但総テ云ガ↢大乗↡故也。又顕密倶摂↢此ノ大乗ノ一句ニ↡也。¬貞元入蔵ノ録ニ¼大乗目録ノ中ニ同ク列ネテ↢顕密ノ諸大乗ヲ↡入タルガ↢其中ニ↡故也。
読誦はつぶさにいはば受持・読誦・解説・書写等といふべし。 いますなはち五種の法師のなかに略して転読・諷誦の二種の法師を顕すなり。 もし十種の法師に約せば、 しばらく披読・諷誦の二種の法師を顕すなるべし。 すなはち往生を願はん人、 かの顕密の諸大乗経において受持・読誦等の行を修すべきなり。
読誦ハ具サニ云ハヾ者可↠云↢受持・読誦・解説・書写等ト↡。今則五種法師ノ中ニ略シテ顕↢転読・諷誦ノ二種ノ法師ヲ↡也。若シ約バ↢十種ノ法師ニ↡者、且ク可シ↠顕スナル↢披読・諷誦ノ二種法師ヲ↡。則願ハン↢往生ヲ↡人、於↢彼ノ顕密ノ諸大乗経ニ↡可キ↠修ス↢受持・読誦等ノ行ヲ↡也。
・第四七日 観経 勧進行者
△勧進行者とは、 道綽の御意によらば、 聖道の行者あり浄土の行者あり。 一に聖道の行者とは、 八宗の行者これなり。 浄土の行者とは、 もつぱら往生を求むる輩なり。 この二門の行者につきて勧進するは、 すなはち往生の業なり。 しかればまたこの勧進行者の一句にも、 一代の聖教、 諸宗の法門まで、 ことごとく摂むべきなり。
勧進行トハ者、依バ↢道綽ノ御意ニ↡者、有↢聖道ノ行者↡有↢浄土ノ行者↡。一ニ聖道ノ行者トハ者、八宗ノ行者是也。浄土ノ行者トハ者、専ラ求↢往生↡之輩也。就テ↢此ノ二門ノ行者ニ↡勧進スルハ者、則往生ノ業也。然バ者亦此ノ勧進行者ノ一句ニモ、一代ノ聖教、諸宗ノ法門マデ、悉ク可↠摂ム也。
三福の業、 大概かくのごとし。 浄土を宗とせん人も、 一切経はなほ大切なるべき事なり。 しかるゆゑはこの ¬観経¼ の三福業のなかに説くところの諸行の行相を、 余の諸経に顕さずはいかが知らんや。 受持三帰・具足衆戒も、 もろもろの大小乗の律をもつてこそ持戒の作法をも知り候はんずれ。 ただこの一句ばかりにては叶ふべからず候ふ。 発菩提心のやうも、 もろもろの菩提心の行相を説きたる諸経を開きてこそ知り候はんずれ。 深信因果もまたしかなり。 六道の因果も、 四聖の因果も、 一代の聖教を離れてはなにをもつてかこれを知らん。 読誦大乗もかくのごとく知るべし、 勧進行者もまた同じ。
三福ノ業、大概如シ↠斯。宗トセン↢浄土ヲ↡人モ、一切経ハ猶可↢大切ナル↡事也。然ル故ハ此ノ¬観経ノ¼三福業ノ中ニ所↠説ク諸行ノ行相ヲ、余ノ諸経ニ不ハ↠顕サ者何ヾ知ラン矣。受持三帰・具足衆戒モ、以テコソ↢諸ノ大小乗ノ律↡知リ↢持戒ノ作法ヲモ↡候ハンズレ。但此ノ一句許ニテハ不↠可↠叶候。発菩提心ノ様モ、開テコソ↧説タル↢諸ノ菩提心ノ行相ヲ↡之諸経ヲ↥知候ハンズレ。深信因果モ亦爾也。六道ノ因果モ、四聖ノ因果モ、離テハ↢一代ノ聖教ヲ↡何ヲ以カ知ラン↠之ヲ。読誦大乗モ如ク↠此ノ可シ↠知ル、勧進行者モ亦同0175ジ。
しかれば浄土宗のなかに大小乗の諸経、 みなことごとく在るべきなり。 いかにいはんや解説の師は、 もつとも諸宗を兼学すべきなり。
然バ者浄土宗ノ中ニ大小乗ノ諸経、皆悉可↠在也。何ニ況ヤ解説ノ師ハ、最可↣兼↢学ス諸宗ヲ↡也。
次に十三定善、 次に九品散善、 今日はしばらく存略すべく候ふ。 時剋も推し遷り、 座席も久しくなり候へば、 また後に申すべく候ふ。 仰ぎ願はくは 云々。
次ニ十三定善、次ニ九品散善、今日ハ且ク可↢存略↡候。時剋モ推遷リ、座席モ久成リ候ヘバ者、又後可↠申候。仰ギ願クハ 云云。
・第五七日
△第五七日。 ▽阿弥陀仏。 ▽¬双巻経¼。 ▽五祖の影。
・第五七日 阿弥陀仏功徳
△かさねて称揚讃嘆せられたまへり。 阿弥陀如来の形像書写供養せられたまへり。 ¬双巻無量寿経¼ 図絵供養せられたまへり。 浄土五祖の影。 まづ阿弥陀仏の功徳を讃嘆しってまつるは、 すなはち依正二報の功徳まします。
重被レ↢称揚讃嘆↡給ヘリ。阿弥陀如来ノ形像被レ↢書写供養↡給ヘリ。¬双巻無量寿経¼被レ↢図絵供養↡給ヘリ。浄土五祖ノ影。先ヅ奉ハ↣讃↢嘆シ阿弥陀仏ノ功徳ヲ↡者、即有マス↢依正二報ノ功徳↡。
・第五七日 阿弥陀仏功徳 依報
まづ依報とは、 かの仏の国中に所有する宝地・宝樹・宝池・宝殿等の地下・地上の一切の荘厳なり。
先ヅ依報ト者、彼ノ仏ノ国中ニ所有スル宝地・宝樹・宝池・宝殿等ノ地下・地上ノ一切ノ荘厳ナリ也。
・第五七日 阿弥陀仏功徳 依報 宝地
その宝地とは、 ¬大経¼ (巻上意) のなかには 「▲↓七宝為地」 と。 云々 ¬観経¼ のなかには 「▲↓瑠璃為地」 と。 云々 ¬阿弥陀経¼ のなかには 「▲↓黄金為地」 と。 云々 三経すでに相違せり、 いづれをもつて実義とすべきや。 いま当座の御導師、 わたくしに意得候ふに四義あり。
其ノ宝地トハ者、¬大経ノ¼中ニハ「七宝為地。」云云 ¬観経ノ¼中ニハ「瑠璃為地。」云云 ¬阿弥陀経ノ¼中ニハ「黄金為地。」云云 三経既ニ相違セリ、以テ↠何レヲ可キヤ為↢実義ト↡。今当座ノ御導師、私ニ得↠意候ニ有リ↢四義↡。
まづ実をもつてこれを論ぜば、 不可説無量の宝をもつて極楽世界の地となす。
先ヅ以テ↠実ヲ論ゼバ↠之者、以テ↢不可説無量ノ宝ヲ↡而為↢極楽世界ノ地ト↡。
次に ¬双巻経¼ (巻上意) に 「↑七宝為地」 と説くことは、 この娑婆世界の習は、 金銀等の七宝をもつて殊勝の宝となせり。 ゆゑに仏、 世界の衆生のために楽欲の心を起さしめ、 欣求の心を進めしめんと欲して、 この土の勝れたる宝を挙げてかの国の地相とする事を説きたまへるなり。
次ニ¬双巻経ニ¼説コトハ↢「七宝為地」↡者、此娑婆世界ノ之習ハ、以テ↢金銀等ノ七宝ヲ↡為セリ↢殊勝ノ宝ト↡。故ニ仏欲シテ↧為ニ↢世界ノ衆生ノ↡令メ↠起↢楽欲ノ心↡、令ムト↞進メ↢欣求ノ心ヲ↡、挙テ↢此ノ土ノ勝タル宝ヲ↡為ル↢彼ノ国ノ地相ト↡事ヲ説給ヘル也。
次に ¬観経¼ のなかに 「↑瑠璃為地」 とは、 この経はもとよりこの界の衆生のために観想を勧めんと欲して説きたまへるがゆゑに、 瑠璃はその相水に似たるによりて、 この娑婆世界の水を観の前方便とせんがために、 瑠璃地と説きたまへるなり。
次ニ¬観経ノ¼中ニ「瑠璃為地」者、此ノ経ハ自↠本欲シテ↧為ニ↢此界ノ衆生ノ↡勧ント↦観想ヲ↥説給ヘルガ故ニ、由テ↢瑠璃ハ其0176ノ相似タルニ↠水ニ、為ニ↧以テ↢此ノ娑婆世界ノ水ヲ↡為ンガ↦観ノ前方便ト↥、説タマヘル↢瑠璃地ト↡也。
次に ¬阿弥陀経¼ に 「↑黄金為地」 と説きたまふは、 かの七宝のなかにはまた金をもつて第一の宝となす。 これなほ詮を取りて最上の宝を挙げてかの国の地を顕す、 欣求の心を勧めんがためなり。
次ニ¬阿弥陀経ニ¼説タマフハ↢「黄金為地ト」者、彼ノ七宝ノ中ニハ亦以↠金ヲ為↢第一ノ宝ト↡。是猶取テ↠詮ヲ挙テ↢最上ノ宝ヲ↡顕ス↢彼ノ国ノ地ヲ↡、為↠勧ガ↢欣求ノ心ヲ↡也。
・第五七日 阿弥陀仏功徳 依報 宝樹
次に宝樹荘厳とは、 珍き地なりといへども、 また樹なくんばなにをもつてか荘厳となすべき。 この娑婆世界に厳き勝地なんど申すも、 樹木なんどのめでたきをこそ申し候ふ。 ゆゑにかの国もこの土に准じて宝樹の荘厳をば説きたまふなり。 その宝樹の高さ八千由旬なり。 娑婆世界にいづくにかさほどに高き樹候はん、 円城樹こそ五百由旬と申して候へ。
次ニ宝樹荘厳トハ者、雖ドモ↢珍キ地ナリト↡、亦無ンバ↠樹者以カ↠何ヲ可↠為↢荘厳ト↡。此娑婆世界ニ厳キ勝地ナンド申モ、樹木ナンドノ之目出ヲコソ申候。故ニ彼ノ国モ准テ↢此ノ土ニ↡説タマフ↢宝樹ノ荘厳ヲバ↡也。其ノ宝樹ノ高サ八千由旬ナリ也。娑婆世界ニ何クニカ左程ニ高キ樹候ハン、円城樹コソ五百由旬申テ候ヘ。
この宝樹につきて、 純樹あり雑樹あり。 純樹とは、 もつぱら金にても銀にてもただ一宝をもつて根より茎・枝・葉に至るまで、 同じく金にても銀にてもあるをば純樹と申し候ふなり。 余の宝もまたしかなり。 雑樹とは、 あるいは根は金にて枝は銀なり。 華葉までもみな別宝をもつて交へたるをば雑樹と申し候ふなり。
就テ↢此ノ宝樹↡、有リ↢純樹↡有↢雑樹↡。純樹トハ者、専ラ金ニテモ矣銀ニテモ矣以テ↢唯一宝ヲ↡自リ↠根至マデ↢茎・枝・葉ニ↡、同ク金ニテモ矣銀ニテモ矣在ルヲバ申↢純樹ト↡候也。余ノ宝モ亦爾ナリ。雑樹トハ者、或ハ根ハ金ニテ枝ハ銀也。華葉マデモ皆以テ↢別宝ヲ↡而交タルヲバ者申↢雑樹ト↡候也。
・第五七日 阿弥陀仏功徳 依報 宝池
次に宝池とは、 たとひ樹あるとも池なくんば、 なほ荘厳なきがゆゑに、 宝池の荘厳をば説きたまへるなり。 内外左右にもろもろの浴池ありと申して、 阿弥陀仏の浴池、 八万四千由旬なり 云々。
次ニ宝池ト者、設有トモ↠樹無ンバ↠池者、尚荘厳無ガ故ニ、説タマヘル↢宝池ノ荘厳ヲバ↡也。内外左右ニ有ト↢諸ノ浴池↡申テ、阿弥陀仏ノ浴池、八万四千由旬也 云云。
・第五七日 阿弥陀仏功徳 依報 宝殿
次に宝殿とは、 たとひ宝樹・宝池のめでたき荘厳あるとも宝殿なくは、 阿弥陀ももろもろの聖衆もいかんが居住したまふべし。 ゆゑに宮殿を説くなり。 楼閣とは、 宮殿の荘厳なり。 宮殿の四つの角にかならずありと覚え候ふ也。
次ニ宝殿者、設ヒ有トモ↢宝樹・宝池ノ目出キ荘厳↡無ハ↢宝殿↡者、阿弥陀モ諸ノ聖衆モ可↣居↢住シタマフ何ンガ↡。故ニ説ク↢宮殿ヲ↡也。楼閣トハ者、宮殿ノ之荘厳也。宮殿ノ四ノ角ニ必在ト覚候也。
これらの依報みな阿弥陀仏の功徳なり。 しかのみならず自然の衣服あり自然の飲食あり。 これは行者の自力の業因によりて得るにあらず、 しかしながら阿弥陀如来の願力なり。 しかれば阿弥陀仏の功徳はかならずしも相好・光明をのみいふべきにあらず。 かくのごときの依報も、 みなかの仏の願力所成の功徳なり。 しかれば当時かつ国土の荘厳ばかりを説きて、 いまだ仏の相好・光明の有様を讃じたてまつらずといへども、 しかもかの仏の功徳顕るるなり。
此等ノ依報皆阿弥陀仏ノ功徳ナリ也。加↠之有↢自然ノ衣服↡有↢自然ノ飲食↡。是ハ非ズ↧依テ↢行者ノ自力業因ニ↡得ルニ↥、併ラ阿弥陀如来ノ願力也。爾バ者阿弥陀仏ノ功徳ハ非0177ズ↢必シモ可ニ↟云フ↢相好・光明ヲノミ↡。如ノ↠是ノ依報モ、皆彼ノ仏ノ願力所成ノ功徳也。然バ者当時且説テ↢国土ノ荘厳計ヲ↡、雖ドモ↠未 ズ ダト奉↠讃↢仏ノ相好・光明ノ有様ヲ↡、而モ彼ノ仏ノ功徳顕ルヽ也。
・第五七日 阿弥陀仏功徳 正報
次に正報の功徳とは、 かの阿弥陀仏は、 その身量をいへば、 「△六十万億」 (観経) 等 云々。 「△眉間の白毫」 等 云々。 「△御身の色」 云々。 「△頂遶円光」 云々。 かくのごとくして八万四千の相を具したまひ、 相ごとにまた 「△八万四千の好あり、 一々の好にまた八万四千の光明あり。 一々の光明、 あまねく十方世界を照らし、 念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」 と 云々。 これすなはち阿弥陀仏の正報の功徳なり。
次ニ正報ノ功徳トハ者、彼ノ阿弥陀仏ハ、云ヘバ↢其ノ身量ヲ↡、「六十万億」等 云云。「眉間白毫」等 云云。「御身色」 云云。「頂遶円光」 云云。如↠此而八万四千ノ相ヲ具シ給、毎↠相又「有リ↢八万四千ノ好↡、一一ノ好ニ亦有↢八万四千光明↡。一一ノ光明、遍ク照↢十方世界ヲ↡、念仏ノ衆生ヲ摂取シテ不↠捨」 云云。是則阿弥陀仏ノ正報ノ功徳也。
また観音・勢至およびかの土にあらゆる菩薩・人・天、 しかしながらかの仏の正報の功徳なり。 すべてかの国の人天は目も鼻もわが物にあらず、 みな仏の願力所成の功徳なり。 頭目・髄脳、 五体身分、 一つとして阿弥陀仏の願にあらずといふことなし。 たとへばこの娑婆世界の人の子の身体髪膚、 しかしながら父母の身を分つがごとし。 すなはちこの ¬経¼ に説かれたる四十八願にて候ふべきなり。 五通の類、 悉皆金色等の願これなり。
又観音・勢至及ビ彼ノ土ニ所有菩薩・人・天、併ラ彼ノ仏ノ正報ノ功徳也。都テ彼ノ国ノ人天ハ目モ鼻モ非ズ↢我物ニ↡、皆仏ノ願力所成ノ之功徳也。頭目・髄脳、五体身分、無シ↣一トシテ非云コト↢阿弥陀仏ノ願ニ↡。譬バ如シ↣此ノ娑婆世界ノ人ノ子ノ身体髪膚、併ラ分ツガ↢父母ノ身ヲ↡。即此ノ¬経ニ¼被タル↠説四十八願ニテ可↠候也。五通ノ類、悉皆金色等ノ願是也。
しかればただ阿弥陀仏かの国の一切の菩薩・人・天のために、 目に入りては天眼通となり、 耳に入りては天耳通を得しめ、 心に入りて他心智・宿命智を得しめ、 足となりては神足通を得しめ、 膚となりては金色の身となしたまへるなり。 具足諸相の願またかくのごとし。 かの国に生るる人は、 六根・六識、 しかしながら阿弥陀仏の入りたまふなり。 ただ菩薩のみにあらず、 声聞もまたかくのごとし。
然バ者唯阿弥陀仏為ニ↢彼国ノ一切ノ菩薩・人・天ノ↡、入テハ↠目ニ成リ↢天眼通ト↡、入テハ↠耳ニ令↠得↢天耳通ヲ↡、入テ↠心ニ令↠得↢他心智・宿命智ヲ↡、成テハ↠足ト令↠得↢神足通↡、成テハ↠膚ト成シ↢金色ノ身ト↡給ル也。具足諸相ノ願亦如シ↠是ノ。生ルヽ↢彼ノ国ニ↡人ハ、六根・六識、併ラ阿弥陀仏ノ之入リ給也。非ズ啻菩薩ノミニ↡、声聞モ亦如↠是ノ。
観音・勢至は、 もとはこの娑婆世界の菩薩なり。 しかるにかの成仏の後かの国に往生し、 一生補処の願に酬いて補処の菩薩とはなりたまへるなり。 しかればこの観音は仏恩を報ぜんがために本師の阿弥陀を戴きたまへるなり。 「▲観音頂戴冠中住、 種々妙相宝荘厳」 (十二礼) と。 云々 この観音・勢至の二菩薩までも、 みな阿弥陀仏の願力なり。
観音・勢至ハ、本ハ此ノ娑婆世界ノ菩薩也0178。然ニ彼ノ成仏ノ後往↢生シ彼ノ国ニ↡、酬テ↢一生補処ノ願ニ↡成タマヘル↢補処ノ菩薩トハ也。然バ者此ノ観音ハ為ニ↠報ガ↢仏恩ヲ↡戴タマヘル↢本師ノ阿弥陀ヲ↡也。「観音頂戴冠中住、種々妙相宝荘厳。」云云 此ノ観音・勢至ノ二菩薩マデモ、皆阿弥陀仏ノ願力也。
しかのみならずまた一切の万物を見聞すれば、 みな念仏の心を生ずと申すなり。 宝樹・宝地・水鳥・宝閣まで、 阿弥陀仏の顕したまふがゆゑとこそ覚え候へ。 すなはち ¬阿弥陀経¼ にいはく、 「▲欲令法音宣流変化所作」 と。 云々 天台宗の釈 (斟定草木成仏私記) にいはく、 「一仏成道、 観見法界、 草木国土悉皆成仏、 身長丈六、 光明遍照、 其仏皆名妙覚如来」 と。 以上
加之又見↢聞スレバ一切ノ万物ヲ↡者、皆生ト↢念仏ノ心ヲ↡申也。宝樹・宝地・水鳥・宝閣マデ、阿弥陀仏之顕シ給ガ故トコソ覚ヘ候ヘ。則¬阿弥陀経ニ¼云、「欲令法音宣流変化所作。」云云 天臺宗ノ釈ニ云、「一仏成道、観見法界、草木国土悉皆成仏、身長丈六、光明遍照、其仏皆名妙覚如来。」已上
¬双巻経¼ に宝樹・宝池の有様をもろもろの菩薩・声聞の功徳をも説くといへども、 ¬経¼ の題にはただ 「無量寿経」 といへることは、 その経のなかに説かるるところのもろもろの功徳荘厳は、 しかしながらかの仏の願力所成なるがゆゑなり。
¬双巻経ニ¼雖モ↠説ト↢宝樹・宝池ノ有様ヲ諸ノ菩薩・声聞ノ功徳ヲモ↡、¬経ノ¼題ニハ唯云ヘルコトハ↢「無量寿経ト」↡者、其ノ経ノ中ニ所ノ↠被↠説諸ノ功徳荘厳ハ、併ラ彼仏ノ願力所成ナルガ故ナリ也。
娑婆世界のなかにも、 五台山の文殊は ¬華厳経¼ のならびに経の品々五台山に入る、 人そのなかのあらゆる草木等の一切万物を、 みなこれ文殊なりと想して観法成就となすと見えたり。
娑婆世界ノ中ニモ、五台山ノ文殊ハ¬華厳経ノ¼并ニ経ノ品品入↢五台山ニ↡、人其中諸有草木等ノ一切万物ヲ、想シテ↢皆是文殊也ト↡而為スト↢観法成就↡見タリ矣。
また一つの因縁候ふ。 昔僧ありて無遮大会を行じき。 その時一人の女人、 子を懐き犬を具したる来れり。 しかるにこの女人、 僧に従ひて先にわが分を受けて、 また子の分を受く。 あまつさへ犬の分を乞ひけるを、 願主の僧いまだ僧達にだにも引かざる先にあまりにいふものかなと思ひて遅く与へければ、 この女人立腹して、 無遮の大会と聞きてこそ参りて候へ、 物によりて人を嫌はれ候ふものかなとて空へ登るを見れば、 女人は文殊にてましまし、 子は善財童子、 犬は師子にてぞありける。 自余の後に五台山の辺にて施行引く人は、 何にても嫌はじと申す事の候ふぞ。
又一ノ因縁候。昔有テ↠僧行キ↢無遮大会ヲ↡。爾時一人ノ女人、懐キ↠子具タル↠犬来レリ。而此ノ女人、従テ↠僧先ニ受テ↢我ガ分ヲ↡、又受ク↢子ノ分ヲ↡。剰ヘ乞ケルヲ↢犬ノ分ヲ↡、願主ノ僧思テ↧未ダル↠引↢僧達ニダニモ↡之先ニ余リニ云フ者哉ト↥而遅ク与ケレバ者、此ノ女人立腹テ、聞テコソ↢無遮ノ大会ト↡参テ候ヘ、依↠物ニ被↠嫌↠人ヲ候者哉トテ登ルヲ↠空ヘ見レバ、女人ハ文殊ニテ坐シ、子ハ善財童子、犬0179ハ師子ニテゾ有ケル。自余ノ後ニ五台山ノ辺ニテ施行引ク人ハ、不ト↠嫌ハ↠何ニテモ申事ノ候ゾ。
かの極楽世界もまたかくのごとし。 総じてこの国のなかにあらゆる依正二報は、 しかしながら法蔵菩薩の願力に答へて成就したまへるなり。 これはこれ阿弥陀仏の功徳と、 ほぼ意得べきをや。
彼ノ極楽世界モ亦復如↠是。総ジテ此ノ国ノ中ニ所有依正二報ハ、併ラ答テ↢法蔵菩薩ノ願力ニ↡成就シ給ヘル也。此ハ是阿弥陀仏ノ功徳ト、粗可ヲヤ↠得↠意哉。
・第五七日 浄土五祖
△次に五祖とは、 かくのごとく往生浄土の祖師の五つの影像を図絵したまふに、 多の意あり。 まづ恩徳を報ぜんがため、 次に賢を見れば斉等しからん事を思ふゆゑなり。 天台宗を学せん人は南岳・天台を見て等しからんと思ひ、 真言を習はん人は不空・善無畏を見て均しからんと思ひ、 華厳宗の人は香象・恵苑のごとくならんと想ひ、 法相宗の人は玄奘・慈恩のごとくならんと思ひ、 三論の学者は浄影大師をうらやみ、 持律の行者は道宣律師をば遠からずと思ふべきなり。
○次ニ五祖トハ者、如ク↠此ノ図↢絵シタマフニ往生浄土ノ祖師ノ五影像ヲ↡、有↢多ノ意↡。先ヅ為↠報ンガ↢恩徳ヲ↡、次ニ見バ↠賢ヲ思フ↢斉等カラン事ヲ↡故也。学セン↢天臺宗ヲ↡人ハ見テ↢南岳・天臺ヲ↡思ヒ↠等カラント、習ハン↢真言ヲ↡人ハ見テ↢不空・善無畏ヲ↡思ヒ↠均ラント、華厳宗ノ人ハ想ヒ↠如ナラント↢香象・恵苑ヲ↡、法相宗ノ人ハ玄奘・慈恩ノ如クナラント思ヒ、三論ノ学者ハ浦↢病ミ浄影大師ヲ↡、持律ノ行者ハ道宣律師ヲバ不ト↠遠カラ可↠思也。
しかればいま浄土を欣はん人はこの宗の祖師を学ぶべきなり。 しかるに浄土宗の師資相承に二つの説あり。 ¬安楽集¼ のごときは、 菩提流支・恵寵法師・道場法師・曇鸞法師・斉朝法師・法上法師等の六祖を出せり。 いまこの五祖とは、 まづ曇鸞法師・道綽禅師・善導禅師・懐感禅師・少康法師等なり。
◇爾バ者今欣ン↢浄土ヲ↡人ハ可↠学ブ↢此ノ宗ノ祖師ヲ↡也。然ニ浄土宗ノ師資相承ニ有↢二ノ説↡。如ハ↢¬安楽集ノ¼者、出セリ↢菩提流支・恵寵法師・道場法師・曇鸞法師・斉朝法師・法上法師等ノ六祖ヲ↡。今此ノ五祖トハ者、先ヅ曇鸞法師・道綽禅師・善導禅師・懐感禅師・少康法師等也。
・第五七日 浄土五祖 曇鸞
その曇鸞法師は、 梁と魏と両国無双の学匠なり。 はじめは寿長くして仏道を行ぜんがために、 陶隠居に値ひて仙経を習ひて、 その仙法によりて修行せんと欲して、 後菩提流支三蔵に値ひたてまつりて、 仏法のなかに長寿不死の法のこの土の仙経に勝れたるや候ふと問ひたてまつりたまひしかば、 三蔵唾を吐き答へたまふやうは、 同じ言をもつていひ並ぶべきにあらず。 この土にいづれの処にか長生の方あらん。 寿長くしてしばらく死せずやうなれども、 つひに還りて三有に輪廻す。 ただこの経によりて修行すべし。 すなはち長生不死の所に到るべしといひおはりて、 ¬観経¼ を授けたまふ。
◇其ノ曇鸞法師ハ、梁ト魏ト両国無双ノ学匠也。初ハ為ニ↣寿長シテ行ゼンガ↢仏道ヲ↡、値テ↢陶隠居ニ↡習テ↢仙経ヲ↡、欲シテ↧依テ↢其仙法ニ↡修行セント↥、後奉テ↠値↢菩提流支三蔵ニ↡、奉タマヒシカバ↠問↧仏法ノ中ニ長寿不死ノ法ノ勝タルヤ↢此ノ土ノ仙経ニ↡哉候ト↥者、三蔵吐キ↠唾ヲ答給様ハ、非↧以テ↢同言ヲ↡可キニ↦云ヒ並0180ブ↥。此ノ土何ノ処ニカ有ン↢長生之方↡。寿長クシテ而暫不↠死様ナレドモ、終ニ還テ輪↢廻ス三有ニ↡。唯依↢此ノ経ニ↡可↢修行↡。即可ト↠到↢長生不死ノ所ニ↡云已テ、授タマフ↢¬観経ヲ¼↡。
その時たちまちに改悔の心を起して、 仙経を焼きて、 自行化他、 一向に往生浄土の法をもつぱらにして、 すなはち ¬往生論の注¼ ならびに ¬略論安楽土義¼ 等の文を造れり。 并州玄中寺に三百人の門徒あり。 臨終の終に、 その門徒三百余人を集めて、 みづから香炉を取りて西に向ひて、 弟子とともに声を均しくして高声に念仏して命終しぬ。 その時道俗多く空中の音楽を聞くと 云々。
◇爾時忽ニ起シテ↢改悔心ヲ↡、焼テ↢仙経ヲ↡、自行化他、一向ニ専ニシテ↢往生浄土ノ法ヲ↡、即造↢¬往生論ノ注¼并ニ¬略論安楽土義¼等ノ文↡矣。并州玄中寺ニ有↢三百人ノ門徒↡。臨終之終リニ、集メテ↢其ノ門徒三百余人ヲ↡、自取テ↢香炉ヲ↡向テ↠西ニ、与↢弟子↡倶ニ均クシテ↠声高声ニ念仏シテ而命終シヌ。其ノ時道俗多ク聞クト↢空中ノ音楽↡ 云云。
・第五七日 浄土五祖 道綽
道綽禅師は、 もと涅槃の学匠なり。 并州玄中寺において曇鸞の碑の文を見て、 発心 (迦才浄土論巻下意) していはく、 「それ曇鸞法師の智徳高遠なる、 なほ講説を捨てて浄土の業を修して、 すでに往生せり。 いはんやわが所解・所知、 多しとするに足らんや」 といひおはりて、 すなはち涅槃の講説を捨てて、 一向にもつぱら念仏を修して相続して間なし。 またつねに ¬観経¼ を誦み、 人を勧めたり。 并州の晋陽・大原・汶水の三県の道俗、 七歳以上はことごとく念仏を解り往生を遂げたり。 また人を勧めて、 㖒唾便利西方に向はず、 行住座臥西方を背かず。
◇道綽禅師ハ、本涅槃ノ之学匠也。於テ↢并州玄中寺ニ↡見テ↢曇鸞ノ碑ノ文ヲ↡、発心シテ曰ク、「其曇鸞法師ノ智徳高遠ナル、尚捨テヽ↢講説ヲ↡修シテ↢浄土ノ業ヲ↡、既ニ往生セリ。況ヤ我ガ所解・所知、足ラン↠為ニ↠多ト乎ト」云已テ、即捨テヽ↢涅槃ノ講説ヲ↡、一向ニ専ラ修シテ↢念仏ヲ↡相続シテ無シ↠間。又常ニ誦ミ↢¬観経ヲ¼↡、勧タリ↠人ヲ。并州ノ晋陽・大原・汶水之三県ノ道俗、七歳已上ハ悉ク解リ↢念仏ヲ↡遂タリ↢往生ヲ↡。又勧テ↠人ヲ、㖒唾便利不↠向ハ↢西方ニ↡、行住座臥不↠背↢西方ヲ↡。
また ¬安楽集¼ 二巻これを造れり。 およそ往生浄土の教の弘通する事、 道綽の御力なり。 往生伝を見るに、 多く道綽の勧を受けて往生を遂げたり。 善導もこれ道綽の弟子なり。 しかれば終南山の道宣の伝 (続高僧伝巻二〇意) にいはく、 「西方道教の弘まることは、 これより起る」 と。 云々 また曇鸞法師七宝の船に乗じて空中に来れるを見る。 また化仏・菩薩空に住すること七日、 その時天花雨ふりて、 来集せる人々の袖にこれを受く。 かくのごとく不可思議の霊瑞これ多し。 終の時に白雲西方より来りて、 三道の白光となり房のなかを照らし、 五色の光空中に現ず。 また墓の上に紫雲三たび現ずることあり。
◇又¬安楽集¼二巻造↠之ヲ。凡往生浄土教之弘通スル事、道綽ノ御力也。見ルニ↢往生伝ヲ↡、多ク受テ↢道綽ノ勧ヲ↡遂タリ↢往生ヲ↡。善導モ是道綽ノ弟子也。然バ者終南山ノ道宣ノ伝云、「西方道教弘、起ルト↠自リ↠此」。云云 又見ル↧曇鸞法師乗ジテ↢七宝ノ船0181ニ↡来レルヲ↦空中ニ↥。又化仏・菩薩住スルコト↠空七日、爾時天花雨テ、来集ル人人ノ袖ニ受ク↠之ヲ。如ク↠此不可思議ノ霊瑞多シ↠之。終時ニ白雲自↢西方↡来テ、成リ↢三道ノ白光↡照シ↢房ノ中ヲ↡、五色ノ光現↢空中ニ↡。又有リ↢墓ノ上ニ紫雲三タビ現コト↡。
・第五七日 浄土五祖 善導
善導和尚、 いまだ ¬観経¼ を得ざる前に、 三昧を得たまひけるかと覚え候ふ。 そのゆゑは道綽禅師に値ひて ¬観経¼ を得て後、 この経の所説われ前に見るに同じといへり。 善導和尚念仏したまふには、 口より仏出でたまふ。 曇省讃じていはく、 「善導念仏すれば仏口より出でたまふ」 と。 云々 同じ念仏を申すとも、 善導のごとく称せば口より出でたまふばかりに申すべきなり。 「善導のごとく妙なること純熟にあらんと欲す」 と申して候ふなり。 たれなりとも念仏をだにもまことに申して、 その功熟しては、 口より仏は出でたまふべきなり。
◇善導和尚、未ダ得↢¬観経ヲ¼之前ニ、得↢三昧↡給ケル歟ト覚候。其故ハ値テ↢道綽禅師ニ↡得↢¬観経ヲ¼↡後、云ヘリ↣此ノ経ノ所説同ジト↢我前ニ見ニ↡。善導和尚念仏シ給ニハ、口ヨリ仏出給フ。曇省讃ジテ云、「善導念仏スレバ仏従リ↠口出タマフ。」云云 同ジ申ストモ↢念仏ヲ↡、称セバ↠如↢善導ノ↡従リ↠口出タマフ許ニ可↠申也。「欲↧如↢善導ノ↡妙在ント↦純熟↥」申テ候ナリ。誰ナリトモ念仏ヲダニモ実ニ申テ、其ノ功熟シテハ者、従リ↠口仏ハ可↢出給↡也。
道綽禅師は師なりといへども、 いまだ三昧発得せず。 善導は弟子なりといへども、 三昧を得たまひたりしかば、 道綽はわが往生は一定か仏に問ひたまふべしとのたまひければ、 善導禅師命を承けてすなはち定に入りて阿弥陀仏に問ひたてまつるに、 仏ののたまはく、 道綽は三つの罪あり、 すみやかに懺悔すべし。 その罪を懺悔せば、 さだめて往生すべし。 一つには仏像・教巻を庇に並べて、 わが身は房中に居す。 二つには出家の人を使ふ。 三つには造作の間虫の命を殺す。 十方仏の前において、 第一の罪を懺悔すべし。 諸僧の前において、 第二の罪を懺悔すべし。 一切衆生の前において、 第三の罪を懺悔すべしと 云々。 善導すなはち定より出でて、 この旨を道綽に告げたまふ、 道綽しずかに昔の過を思ふに、 これみな空しからずといひて、 至心に懺悔す 云々。 ゆゑに師に増りたまへるなり。
◇道綽禅師ハ雖ドモ↠師也ト、未ダ↢三昧発得↡。善導ハ雖↢弟子也ト↡、得↢三昧ヲ↡給タリシカバ者、道綽ハ言タマヒケレバ↢我往生ハ一定歟奉シト↟問↠仏ニ者、善導禅師承テ↠命ヲ即入テ↠定ニ奉ニ↠問↢阿弥陀仏ニ↡、仏ノ言ハク、道綽ハ者有リ↢三ノ罪、速ニ可↢懺悔↡。懺悔セバ↢其ノ罪ヲ↡、定テ可シ↢往生ス↡。一ニハ仏像・教巻ヲ並テ↠庇ニ、我身ハ居↢房中ニ↡。二ニハ使フ↢出家ノ人ヲ↡。三ニハ造作ノ間殺ス↢虫命ヲ↡。於テ↢十方仏ノ前ニ↡、可↣懺↢悔ス第一ノ罪ヲ↡。於テ↢諸僧ノ前ニ↡、可↣懺↢悔第二ノ罪ヲ↡。於テ↢一切衆生前↡、可↣懺↢悔ス第三ノ罪ヲ↡ 云云。善導即出デヽ定ヨリ、告タマフ↢此ノ旨ヲ於道綽ニ↡、道綽云テ↧静ニ思フニ↢昔ノ過ヲ↡、是皆不ト↞空、至心ニ懺悔ス 云云。故ニ増リ↠師ニ給ヘル也。
善導はことに火急の小声念仏を勧めて、 数を定めたまへるなり。 一万・二万・三万・五万乃至十万なり。
◇善導ハ殊ニ勧テ↢火急ノ小声念仏0182ヲ↡、定メ↠数ヲ給ヘル也。一万・二万・三万・五万乃至十万也。
・第五七日 浄土五祖 懐感
懐感禅師は、 法相宗の学匠なり。 広く経典を解り、 念仏をば信ぜず、 善導に問ひていはく、 念仏せば仏を見たてまつらんやと。 善導和尚答へていはく、 仏の誠言なり、 なんぞ疑はんやと。 懐感この事につきてたちまちに解を開き、 信を起して道場に入りて、 高声念仏して仏を見たてまつらんと願ずるに、 三七日までその霊瑞を見ず。 その時感禅師、 みづからの罪障深くして仏を見たてまつらざることを知らずして、 断食して死なんと欲す。 善導総じて許さず。 後に ¬群疑論¼ 七巻を造れり 云々。 感禅師はことに高声念仏を勧めたまへり。
◇懐感禅師者、法相宗ノ学匠也。広ク解リ↢経典ヲ↡、不↠信↢念仏ヲバ↡、問↢善導ニ↡曰ク、念仏セバ奉ランヤ↠見↠仏ヲ乎。善導和尚答テ言ハク、仏ノ誠言ナリ、何ゾ疑ハン耶。懐感就テ↢此ノ事ニ↡忽ニ開キ↠解ヲ、起シテ↠信ヲ入テ↢道場ニ↡、高声念仏シテ願ルニ↠奉ト↠見↠仏ヲ、三七日マデ不↠見↢其ノ霊瑞ヲ↡。爾ノ時感禅師、不シテ↠知↢自罪障深シテ不コトヲ↟奉↠見↠仏ヲ、断食シテ欲ス↠死ナント。善導総ジテ不↠許サ。後ニ造↢¬群疑論¼七巻ヲ↡ 云云。感禅師ハ殊ニ勧メ↢高声念仏ヲ↡給ヘリ。
・第五七日 浄土五祖 少康
少康は、 もと持経者なり。 年十五歳にして ¬法華¼・¬楞厳¼ 等の経五部を読み覚えたり。 これによりて ¬高僧伝¼ には読誦の篇に入りたり。 しかれどもただ持経者のみにあらず、 瑜伽唯識の学匠なり。
◇少康ハ、本持経者ナリ也。年十五歳ニシテ読↢覚タリ¬法華¼・¬楞厳¼等ノ経五部ヲ↡。依テ↠之¬高僧伝ニハ¼入タリ↢読誦ノ篇ニ↡。然ドモ而非ズ↢啻持経者ノミニ↡、瑜伽唯識ノ学匠也。
後に白馬寺に詣でて堂内を見れば、 光を放つ物あり。 これを探り取りて見れば、 善導の西方の化道の文なり。 少康これを見て心たちまちに歓喜して願を発していはく、 われもし浄土に縁あらば、 この文ふたたび光を放つべしと。 かくのごとく誓ひおはりて見れば、 かさねて光を放つ。 その光のなかに化仏・菩薩あり。 歓喜休みがたくして、 つひにまた長安の善導和尚の影堂に詣でて善導の真像を見れば、 化して仏身となりて少康に告げてのたまはく、 なんぢわが教によりて衆生を利益し同じく浄土に生ずべしと。 これを聞きて少康所証あるがごとし。
◇後ニ詣↢白馬寺ニ↡見レバ↢堂内ヲ↡、有↢放ツ↠光ヲ物↡。探リ↢取テ之ヲ↡見レバ者、善導ノ西方ノ化道ノ文也。少康見テ↠之心忽ニ歓喜シテ発シテ↠願ヲ云ク、我若シ浄土ニ有ラバ↠縁者、此ノ文再ビ放ベシト↠光ヲ。如ク↠此誓ヒ已テ見レバ者、重テ放ツ↠光ヲ。其ノ光ノ中ニ有↢化仏・菩薩↡。歓喜難シテ↠休、終ニ又詣デヽ↢長安ノ善導和尚ノ影堂ニ↡見レバ↢善導ノ真像ヲ↡者、化シテ作テ↢仏身ト↡告テ↢少康ニ↡言ハク、汝依テ↢我ガ教ニ↡可シト↧利↢益シ衆生ヲ↡同ク生ズ↦浄土ニ↥。聞テ↠之ヲ少康如↠有↢所証↡。
後人を勧めんと欲するに、 人その教化に随はず。 しかるあひだ銭を設けて、 まづ少童らを勧めて、 念仏一遍に銭一文を与ふ。 この後は十遍十文、 かくのごとくする間に、 少康のゆゑに行少童らについておのおの念仏す。 また少童のみにあらず、 老少男女を簡ばず、 みなことごとく念仏す。
◇後欲スルニ↠勧ント↠人ヲ、人不↠随ハ↢其ノ教化ニ↡。然ル間設ケテ↠銭ヲ、先ヅ勧テ↢少童等ヲ↡、念仏一遍ニ与フ↢銭一文ヲ↡。此ノ後ハ十遍十文、如スル↠此間ニ、少康ノ故行付0183テ↢少童等ニ↡各念仏ス。又非ズ↢少童ノミニ↡、不↠簡↢老少男女ヲ↡、皆悉念仏ス。
かくのごとくして後、 浄土堂を造り、 昼夜に行道して念仏す。 所化に随ひて道場に来集する輩、 三千余人なり。 また少康高声に念仏す、 見れば仏口より出ること善導のごとし。 このゆゑに時の人後善導と名づけたり。 浄土堂とは、 唐の習に阿弥陀仏を居へたてまつる堂をば浄土堂と名づけたるなり。
◇如シテ↠是ノ後、造リ↢浄土堂ヲ↡、昼夜ニ行道シテ念仏ス。随テ↢所化ニ↡来↢集スル道場ニ↡輩、三千余人也。又少康高声ニ念仏ス、見レバ仏口ヨリ出コト如↢善導ノ↡。是ノ故ニ時ノ人名タリ↢後善導ト↡。浄土堂トハ者、唐ノ習ヒニ奉ル↠居ヘ↢阿弥陀仏ヲ↡之堂ヲバ名タル↢浄土堂ト↡也。
五祖の功徳、 要を取るにかくのごとし。
◇五祖ノ功徳、取ルニ↠要ヲ如↠斯。
・第五七日 念仏往生
△次に ¬無量寿経¼ とは、 如来教を設けたまふ事、 みな衆生済度のためなり。 ゆゑに衆生の根機まちまちなるがゆゑに、 仏の経教もまた無量なり。 しかるに今経は往生浄土のために衆生往生の法を説きたまふなり。 阿弥陀仏の修因感果の次第、 極楽浄土の二報荘厳の有様、 委しく説きたまへるも、 衆生を勧めて欣求の心を発しめんがためなり。 しかるにこの ¬経¼ の所詮は、 われら衆生の往生すべき旨を説きたまへるなり。
◇次¬無量寿経トハ¼者、如来設タマフ↠教ヲ事、皆為↢衆生済度ノ↡也。故ニ衆生ノ根機区ナルガ故ニ、仏ノ経教モ亦無量ナリ。而ニ今経ハ為ニ↢往生浄土ノ↡説タマフ↢衆生往生ノ法ヲ↡也。阿弥陀仏ノ修因感果ノ次第、極楽浄土ノ二報荘厳ノ之有様、委ク説キ給ヘルモ、為↠令ガ↧勧テ↢衆生ヲ↡発サ↦欣求ノ心ヲ↥也。然ニ此¬経ノ¼所詮ハ、説ヘル↧我等衆生ノ可キ↢往生↡之旨ヲ↥也。
ただしこの ¬経¼ を釈するに諸師の意不同なり。 いましばらく善導和尚の御意をもつて心得候ふに、 この ¬経¼ はひとへに専修念仏の旨を説きて衆生往生の業としたまふなり。
◇但釈スルニ↢此ノ¬経ヲ¼↡諸師ノ意不同ナリ也。今且ク以テ↢善導和尚ノ御意ヲ↡心得候ニ、此ノ¬経ハ¼偏ニ説テ↢専修念仏ノ旨ヲ↡為タマフ↢衆生往生ノ業ト↡也。
なにをもつてかこれを知るとならば、 まづかの仏の因位の本願を説くなか (大経巻上) にいはく、 「設我得仏、 十方衆生、 至心信楽、 欲生我国、 乃至十念、 若不生者、 不取正覚」 と。 云々
◇何ヲ以テカ知ルトナラバ↠之者、先ヅ説ク↢彼仏ノ因位ノ本願ヲ↡中ニ云ク、「設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚。」云云
かの仏の因位、 法蔵比丘の昔、 世自在王仏の所において、 二百一十億の諸仏の妙土のなかより選びて、 四十八の誓願を発して浄土を設けて、 成仏して衆生をしてわが国に生ぜしむべき行業を選びて願ひたまひしに、 まつたく余行を立てずして、 ただ念仏の一行を立てたまへるなり。
◇彼仏ノ因位、法蔵比丘ノ之昔、於テ↢世自在王仏ノ所ニ↡、従リ↢二百一十億ノ諸仏ノ妙土ノ中↡選テ、発テ↢四十八ノ誓願ヲ↡設テ↢浄土ヲ↡、成仏シテ可↠令ム↣衆生ヲシテ生ゼ↢我0184国ニ↡行業ヲ選テ願ヒ給シニ、全ク不シテ↠立テ↢余行ヲ↡、但立タマヘル↢念仏ノ一行ヲ↡也。
ゆゑに ¬大阿弥陀経¼ に、 すでにかの仏の願は選択して立てたまへるがゆゑなり。 ¬大阿弥陀経¼ とこの ¬経¼ とは同本異訳の経なり。
◇故ニ¬大阿弥陀経ニ¼、既彼仏ノ願ハ選択シテ立給ガ故也。¬大阿弥陀経ト¼与ハ此ノ¬経¼同本異訳ノ経也。
しかるに往生の行をば、 われらが黠しくいまはじめて計ふべき事には候はず、 みな定め置かれたる事なり。 法蔵比丘、 もしあしく選びて立てたまはば、 世自在王仏、 なほさてましますべきか。 かの願どもを説かしめて後に、 なんぞ決定して無上正覚を成ずべしと授記したまはんや。 法蔵菩薩のかの願を立てたまひて、 兆載永劫の間難行苦行・積功累徳して、 すでに成仏したまひたれば、 昔の誓願一々に疑ふべからず。
◇然ニ往生ノ行ヲバ、我等ガ黠ク今始テ可↠計フ事ニハ不↠候、皆被タル↢定置↡事者也。法蔵比丘、若シ悪ク選テ立給バ者、世自在王仏、猶左テ可キ↠有マス歟。令メ↠説カ↢彼ノ願共ヲ↡之後ニ、何ゾ授↢記タマハン決定シテ可シト↟成ズ↢無上正覚ヲ↡乎。法蔵菩薩ノ立タマヒテ↢彼ノ願ヲ↡、兆載永劫ノ間難行苦行・積功累徳シテ、既ニ成仏シ給タレバ者、昔ノ誓願一一ニ不↠可↠疑フ。
しかるに善導和尚 (礼讃) この本願の文を引きていはく、 「若我成仏、 十方衆生、 称我名号下至十声、 若不生者不取正覚。 彼仏今現在世成仏。 当知、 本誓重願不虚、 衆生称念必得往生」 と。 云々
◇而ニ善導和尚引テ↢此ノ本願ノ文ヲ↡曰↡、「若我成仏、十方衆生、称我名号下至十声、若不生者不取正覚。彼仏今現在世成仏。当知、本誓重願不虚、衆生称念必得往生。」云云
まことにわれら衆生、 自力ばかりにして往生を求めんにとりてこそ、 この行業は仏の御心に叶ひやすらん、 また叶はずやあらんと不審にも覚へ、 往生も不定には候ふべけれ。
◇実ニ我等衆生、取テコソ↣自力許ニシテ而求メンニ↢往生ヲ↡、此行業ハ為ラン↠叶ヒヤ↢仏御心ニ↡、又有ラント↠不ヤ↠叶ハ不審ニモ覚ヘ、往生モ不定ニハ可ケレ↠候。
念仏を申して往生を願はん人は、 自力にて往生すべきにはあらず、 ただ他力の往生なり。 もとより仏の定め置かれたまふ名号を唱へば、 乃至十声・一声までも生ぜしめたまへば、 十声一声念仏して一定往生すべければこそ、 その願成就して成仏したまふといふ道理に候へ。 しかればただ一向に仏の願力を仰ぎて往生をば決定すべきなり。 わが自力の強弱をもつて定とも不定とも思ふべからず。
◇申テ↢念仏↡願ハン↢往生ヲ↡人ハ、非↣自力ニテ可ニハ↢往生ス↡也、只他力ノ往生也。本自唱ヘバ↢仏ノ定置タマフ之名号ヲ↡、乃至十声・一声マデモ令メ↠生給ヘバ者、十声一声念仏シテ一定可ケレバコソ↢往生ス↡、其ノ願成就シテ成仏シ給フト云フ道理ニ候ヘ。然バ者唯一向ニ仰テ↢仏ノ願力ヲ↡可↣決↢定ス往生ヲバ↡也。以テ↢我ガ自力ノ強弱ヲ↡不↠可↠思↢定トモ不定トモ↡。
かの願成就の文はこの ¬経¼ (大経) の下巻にあり、 その文にいはく、 「諸有衆生、 聞其名号、 信心歓喜、 乃至一念、 至心回向、 願生彼国、 則得往生、 住不退転」 と。 云々 およそ四十八願浄土を荘厳せり。 花・池・宝閣も願力にあらずといふことなし、 そのなかに独り念仏往生の願をのみ疑ふべからず。 極楽浄土もし浄土ならば、 念仏往生もまた決定往生なり。
◇彼ノ願成就ノ文ハ在リ↢此ノ¬経ノ¼下巻ニ↡、其ノ文ニ云ク、「諸有衆生、聞其名号、信0185心歓喜、乃至一念、至心廻向、願生彼国、則得往生、住不退転。」云云 凡ソ四十八願荘↢厳セリ浄土ヲ↡。花・池・宝閣モ無↠非云コト↢願力ニ↡、其ノ中ニ独リ不↠可↠疑フ↢念仏往生ノ願ヲノミ↡。極楽浄土若シ浄土ナラバ者、念仏往生モ亦決定往生也。
▲次に往生の業因は念仏の一行を定むといへども、 行者の根性に随ひて上・中・下あり。 ゆゑに三輩の往生を遂げたり。 ▲すなはち上輩の文 (大経巻下) にいはく、 「その上輩とは、 家を捨て欲を棄ててしかも沙門となり、 菩提心を発して、 一向にもつぱら無量寿仏を念ず」 と。 云々 ▲中輩の文 (大経巻下) にいはく、 「行じて沙門となることあたはずといへども、 おほいに功徳を修して、 まさに無上菩提の心を発して、 一向にもつぱら無量寿仏を念ずべし」 と。 ▲下輩の文 (大経巻下) にいはく、 「功徳をなし修すことあたはず、 まさに無上菩提の心を発して、 一向に意をもつぱらにして、 乃至十念無量寿仏を念ずべし」 と。 云々
◇次ニ往生ノ業因ハ雖↠定ト↢念仏ノ一行ヲ↡、随↢行者ノ根性ニ↡有リ↢上・中・下↡。故ニ遂タリ↢三輩ノ往生ヲ↡。即上輩ノ文ニ云ク、「其ノ上輩者、捨テ↠家棄テ↠欲ヲ而モ作リ↢沙門ト↡、発シテ↢菩提心ヲ↡、一向ニ専ラ念↢無量寿仏ヲ↡。」云云 中輩ノ文ニ云ク、「雖ドモ↠不ト↠能ハ↣行ジテ作ルコト↢沙門ト↡、大ニ修シテ↢功徳ヲ↡、当ニ↧発シテ↢無上菩提ノ之心ヲ↡、一向ニ専ラ念ズ↦無量寿仏ヲ↥。」下輩ノ文ニ云ク、「不↠能↣作シ↢修コト功徳ヲ↡、当ニ発シテ↢無上菩提之心ヲ↡、一向ニ専ニシテ↠意ヲ、乃至十念念↢無量寿仏↡。」云云
当座の導師、 わたくしに一つの釈を作り候ふ。 △この三輩の文のなかに、 菩提心等の余行を挙げたりといへども、 上の仏の本願の意に望むるに、 衆生をして一向にもつぱら無量寿仏を念ずるにあり。 ゆゑに一向といふ。
◇当座ノ導師、私ニ作リ↢一釈ヲ↡候。此ノ三輩ノ文ノ中ニ、雖↠挙タリト↢菩提心等ノ余行ヲ↡、望ニ↢上ノ仏ノ本願ノ意ニ↡、在リ↣衆生ヲシテ一向ニ専ラ念ズルニ↢無量寿仏ヲ↡。故ニ云↢一向ト↡。
▲すなはちまた ¬観念法門¼ に善導釈していはく、 「またこの ¬経¼ の下巻のはじめにいはく、 仏説、 一切衆生根性不同有上・中・下。 随其根性、 仏皆勧専無量寿仏の名を念ぜしむ。 其人命欲終時、 仏与聖衆自来迎摂、 尽得往生」 と。 以上 この釈の心は三輩ともに念仏往生なり。 まことに一向の言は余を捨つる詞なり。
◇即又¬観念法門ニ¼善導釈シテ曰ク、「又此ノ¬経ノ¼下巻ノ初ニ云ク、仏説、一切衆生根性不同有上・中・下。随其根性、仏皆勧専念↢無量寿仏ノ名ヲ↡。其人命欲終時、仏与聖衆自来迎摂、尽得往生。」已上 此ノ釈ノ心ハ三輩倶ニ念仏往生ナリ也。誠ニ一向ノ言ハ捨ル↠余ヲ之詞也。
▲たとへば五天竺の三の寺のごとし。 一には一向大乗寺、 二には一向小乗寺、 三には大小兼行寺。 この一向大乗寺のなかに小乗を学することなし。 一向小乗寺には大乗を学することなし。 大小兼行寺のなかには大小乗ともに兼学するなり。 大小の両寺にはともに一向の言を安く、 二を兼ねたる寺には一向の言を安かず。
◇例バ如↢五天竺ノ三ノ寺ノ。一ニハ一向大乗寺、二ニハ一向小乗寺、三ニハ大小兼行0186寺。此ノ一向大乗寺ノ中無シ↠学コト↢小乗ヲ↡。一向小乗寺ニハ無↠学スルコト↢大乗ヲ↡。大小兼行寺ノ中ニハ大小乗倶ニ兼学スル也。大小ノ両寺ニハ倶ニ安ク↢一向ノ言ヲ↡、兼タル↠二ヲ寺ニハ不↠安カ↢一向ノ言ヲ↡。
▲これをもつて意得候ふに、 今 ¬経¼ (大経巻下) のなかの 「一向」 のことばもまたしかなり。 もし念仏の外に余行を兼ぬれば、 すなはち一向にあらず。 かの寺に准へば、 兼行といふべし。 すでに一向といふ、 諸行を捨つといふことを知るべし。
◇以テ↠之意得候ニ、今¬経ノ¼中ノ「一向ノ」言モ亦爾ナリ。若シ念仏ノ外ニ兼バ↢余行ヲ↡者、即非↢一向ニ↡。准ヘバ↢彼ノ寺ニ↡者、可シ↠云フ↢兼行ト↡。既ニ云フ↢一向ト↡、可↠知↠捨ト云コトヲ↢諸行ヲ↡。
ただしこの三輩の文のなかに余行を説くにつきて、 三つの意あり。 ▲一つには諸行を捨てて念仏に帰せしめんがためにならべて余行を説き、 念仏において一向の言を置く。 ▲二つには念仏を助せんがために諸善を説く。 ▲三つには念仏と諸行とにともに三品の差別あることを並べ示さんがために諸行を説く。
◇但此ノ三輩ノ文ノ中ニ就テ↠説ニ↢余行ヲ↡、有リ↢三ノ意。一ニハ者為ニ↠令↧捨テ↢諸行ヲ↡帰↦念仏ニ↥並テ説↢余行ヲ↡、於テ↢念仏ニ↡置↢一向ノ言ヲ↡。二ニハ者為↠助ンガ↢念仏ヲ↡説↢諸善ヲ↡。三ニハ者為ニ↫念仏ト与ニ↢諸行↡並ベ↪示サンガ倶ニ有コトヲ↩三品ノ差別↨説ク↢諸行ヲ↡。
▲この三義のなかには、 ただはじめの義を正となす、 後の二つは傍の義なり。
◇此ノ三義ノ中ニハ、但初ノ義ヲ為↠正ト、後ノ二ハ傍ノ義也。
▲次にこの ¬経¼ (大経巻下) の流通分のなかに説ていはく、 「仏告弥勒、 其有得聞彼仏名号、 歓喜踊躍乃至一念。 当知、 此人為得大利。 即是具足無上功徳」 と。 以上
◇次ニ此ノ¬経ノ¼流通分ノ中ニ説テ云ク、「仏告弥勒、其有得聞彼仏名号、歓喜踊躍乃至一念。当知、此人為得大利。即是具足無上功徳。」已上
▲上の三輩の文のなかに念仏の外にもろもろの功徳を説くといへども、 余善を讃めず。 ただ念仏の一善を挙げ、 無上功徳と讃嘆して未来に流通せり。 しかれば仏の功徳の余の功徳に勝れたることあきらかなり。
◇上ノ三輩ノ文ノ中ニ雖↠説ト↢念仏ノ外ニ諸ノ功徳ヲ↡、不↠讃↢余善ヲ↡。但挙↢念仏ノ一善ヲ↡、讃↢嘆シテ無上功徳↡流↢通未来ニ↡。然仏ノ功徳ノ勝タルコト↢于余ノ功徳ニ↡明ナリ也。
▲大利とは、 小利に対する言なり。 ▲無上とは、 この功徳の上たる功徳はなき義なり。 ▲すでに一念を指して大利といふ、 また無上といふ、 いはんや二念・三念乃至十念をや。 いかにいはんや百念・千念乃至万念をや。 これすなはち小を挙げて多に況ぶるなり。
◇大利トハ者、対スル↢小利↡之言ナリ也。無上トハ者、無キ↢此ノ功徳ノ上タル之功徳ハ↡之義也。既ニ指シテ↢一念ヲ↡云↢大利ト↡、亦云フ↢無上ト↡、況ヤ二念・三念乃至十念ヲヤ乎。何ニ況ヤ百念・千念乃至万念ヲヤ乎。是則挙テ↠小ヲ況ブル↠多ニ也。
この文をもつて余行と念仏と相対して意得るに、 念仏はすなはち大利なり、 余行はすなはち小利なり。 念仏はまた無上なり、 余行はまた有上なり。 ▲総じて往生を願ふ人、 なんぞ無上大利の念仏を捨てて有上小利の余行を執せんや。
◇以テ↢此ノ文ヲ↡余行ト与↢念仏↡相対シテ意得ルニ、念仏ハ即大利也、余行ハ即小0187利也。念仏ハ亦無上也、余行ハ亦有上也。総ジテ願↢往生ヲ↡人、何ゾ捨テヽ↢無上大利ノ念仏ヲ↡而執セン↢有上小利ノ余行ヲ乎。
▲次にこの ¬経¼ (大経) の下巻の奥にいはく、 「当来之世経道滅尽、 我以慈悲哀愍、 特留此経止住百歳。 其有衆生値此経者、 随意所願皆可得度」 と。 云々
◇次ニ此ノ¬経ノ¼下巻ノ奥ニ云ク、「当来之世経道滅尽、我以慈悲哀愍、特留此経止住百歳。其有衆生値此経者、随意所願皆可得度。」云云
▲善導 (礼讃) この文を釈していはく、 「万年三宝滅、 此 ¬経¼ 住百年、 爾時聞一念、 皆当得生彼」 と。 云々
◇善導釈シテ↢斯文ヲ↡云ク、「万年三宝滅、此¬経¼住百年、爾時聞一念、皆当得生彼。」云云
釈尊の遺法に三時の差別あり、 正法・像法・末法なり。 その正法一千年の間は、 教行証の三つともに具足せり。 教のごとく行じて随ひて証を得。 像法一千年の間は、 教行ありて証なし。 教に随ひて行ずといへども、 悉地を得ることなし。 末法万年の間は、 教のみありて行証なし。 わずかに教ばかり残りたりといへども、 教のごとく行ずるものなし、 行ずといへどもまた得証のものなし。
◇釈尊ノ遺法ニ有リ↢三時ノ差別↡、正法・像法・末法也。其ノ正法一千年ノ間ハ、教行証ノ三ツ倶ニ具足セリ。如ク↠教ノ而行ジテ随テ得↠証ヲ。像法一千年ノ間ハ、有テ↢教行↡無シ↠証。随テ↠教ニ雖モ↠行ト、無シ↠得コト↢悉地ヲ↡。末法万年ノ間ハ、有テ↠教ノミ無シ↢行証↡。僅ニ雖↢教許残タリト↡、無シ↢如ク↠教ノ而行ル者↡、雖↠行ズト亦無↢得証ノ者↡。
それ末法万年の満てん後は、 如来の遺教みな失し、 住持の三宝ことごとく滅すべし。 およそ仏像・経巻もなく、 頭を剃り衣を染めたる僧もなく、 仏法といふ事は名字だにも聞くべからず。 しかるにその時までただこの ¬双巻無量寿経¼ 一部二巻ばかり残り留まりて、 百年まで世に住して衆生を済度したまふ事、 ことにあはれに覚へ候ふ。
◇夫末法万年ノ満テン後ハ、如来ノ遺教皆失シ、住持ノ三宝悉ク滅スベシ。凡ソ無ク↢仏像・経巻モ↡、無ク↢剃リ↠頭染タル↠衣僧モ↡、仏法ト云事ハ不↠可↠聞ク↢名字ダニモ↡。然ニ爾時マデ但此ノ¬双巻無量寿経¼一部二巻許残リ留テ、百年マデ住シテ↠世ニ済↢度シタマフ衆生ヲ↡事、殊ニ哀ニ覚ヘ候。
¬華厳経¼ も ¬涅槃経¼ も、 およそ大小権実の一切の諸経、 乃至 ¬大日¼・¬金剛¼ 等の真言秘密の諸経もみなことごとく滅したらん時、 ただこの ¬教¼ ばかり留まりたまふ事は何事にかと覚へ候ふ。 釈尊慈悲をもつて留めたまふ事、 定めて深き意候ふらん。 仏智まことに測りがたし。 ただ阿弥陀仏の機縁この界の衆生に深くましますゆゑに、 釈迦大師もかの仏の本願を留めたまふなるべし。
◇¬華厳経モ¼¬涅槃経モ¼、凡ソ大小権実ノ一切ノ諸経、乃至¬大日¼・¬金剛¼等ノ真言秘密之諸経モ皆悉ク滅タラン時、但此ノ¬教¼許留リ給事ハ何事ニ歟ト覚候。釈尊以テ↢慈悲ヲ↡留給事、定テ深意候覧。仏智実ニ難↠測矣。応シ↧但0188阿弥陀仏ノ機縁深ク↢于此ノ界ノ衆生ニ↡坐マス故ニ、釈迦大師モ留タマフナル↦於彼ノ仏ノ本願ヲ↥矣。
▲この文につきて案じ候ふに、 四つの意あり。
◇就テ↢此ノ文ニ↡而案ジ候ニ、有↢四ノ意↡。
▲一には聖道の得脱は機縁浅く、 浄土の往生の機縁は深し。 ゆゑに三乗・一乗得度を説ける諸経は先だちて滅し、 ただ一念・十念の往生を説くこの ¬教¼ ばかり留まるべし。
◇一聖道ノ得脱ハ機縁浅ク、浄土ノ往生ノ機縁ハ深シ。故ニ説ケル↢三乗・一乗得度ヲ↡之諸経ハ先ダテ滅シ、但説ク↢一念・十念ノ往生ヲ↡此ノ¬教¼許可↠留ル。
▲二には往生につきても十方浄土は機縁浅く、 西方浄土は機縁深し。 ゆゑに十方浄土を勧めたる諸経はみな滅して、 西方往生を勧めたるこの ¬経¼ 独り留まるべし。
◇二ニハ就テモ↢往生ニ↡十方浄土ハ機縁浅ク、西方浄土ハ機縁深シ。故ニ勧タル↢十方浄土ヲ↡之諸経ハ皆滅シテ、勧タル↢西方往生ヲ↡之此ノ¬経¼独リ可↠留。
▲三には都率の上生は機縁浅く、 極楽の往生は機縁深し。 ゆゑに ¬上生¼・¬心地¼ の都率を勧める諸経はみな滅して、 極楽を勧めたるこの ¬経¼ 独り留まるべし。
◇三ニハ都率ノ之上生ハ機縁浅ク、極楽ノ之往生ハ機縁深シ。故ニ¬上生¼・¬心地ノ¼勧↢都率↡之諸経ハ皆滅シテ、勧↢極楽ヲ↡之此ノ¬経¼独リ可シ↠留。
▲四には諸行の往生は機縁浅く、 念仏往生は機縁深し。 ゆゑに諸行を説く諸経はみな滅し、 念仏を説くこの ¬経¼ 独り留まるべし。
◇四ニハ諸行ノ往生ハ機縁浅ク、念仏往生ハ機縁深シ。故ニ説↢諸行ヲ↡之諸経ハ皆滅シ、説↢念仏ヲ↡之此ノ¬経¼独リ可↠留。
この四義のなかには、 真実には第四、 十八の願の念仏往生のみ留まるべしといふ義、 正義にて候ふなり。 「特留此経止住百歳」 (大経巻下) と説かれたるは、 ただこの二軸の経巻、 独り残るべくして聞きて候ふ。 しかれども実には経は失すといへども、 ただ念仏の一門ばかり留まりて、 百年あるべきにやと覚へ候ふ。
◇此ノ四義ノ中ニハ、真実ニハ第四、十八ノ願ノ念仏往生ノミ可ト云↠留之義、正義ニテ候也。被タル↠説↢「特留此経止住百歳ト」↡者、唯此ノ二軸ノ経巻、独リ可シテ↠残聞テ候。然ドモ而実ニハ経ハ雖ドモ↠失ト、但念仏ノ一門許留テ、百年可↠有乎ト覚候。
かの秦の始皇、 書を焼き儒を埋むる時、 ¬毛詩¼ ばかり残りたりと申す事の候ふ。 それも文は焼かるるとも、 詩は留まりて口にありと申して、 詩を人々の暗に覚へたりけるゆゑに、 ¬毛詩¼ ばかりは残りたりと申す事の候ふ。 これをもつて意得候ふに、 この ¬経¼ 留まりて百年あるべしと申すも、 経巻はみな隠没すとも、 南無阿弥陀仏といふ事は、 人の口に留まりて百年までも聞き伝ふる事と覚え候ふ。
◇彼ノ秦ノ始皇、焼↠書ヲ埋↠儒ヲ之時、¬毛詩¼許残タリト申事ノ候。其モ文ハ被トモ↠焼、詩ハ留テ在ト↠口ニ申テ、詩ヲ人人ノ暗ニ覚ヘタリケル故ニ、¬毛詩¼許ハ残タリト申事ノ候。以テ↠之意得候ニ、此ノ¬経¼留テ百年可ト↠在申モ、経巻ハ皆隠没ストモ、南無阿弥陀仏ト云事ハ、留テ↢于人ノ口ニ↡百0189年マデモ聞伝事ト覚候。
経はまた所説の法を申す事なれば、 この ¬経¼ は独り念仏の一法を説く。 しかれば 「爾時聞一念皆当往生彼」 (礼讃) と善導も釈したまへるなり。 これ秘蔵の義なり、 たやすく申すべからず。
◇経者亦所説ノ法ヲ申ス事ナレバ者、此ノ¬経ハ¼独リ説↢念仏ノ一法ヲ↡。然バ者「爾時聞一念皆当往生彼ト」善導モ釈シ給ル也。此秘蔵ノ義也、輒ク不↠可↠申ス。
総じてこの ¬双巻無量寿経¼ に念仏往生を説く文七処あり。 一には本願の文、 二には願成就の文、 三には上輩のなかの一向専念の文、 四には中輩のなかの一向専念の文、 五には下輩のなかの一向専意の文、 六には無上功徳の文、 七には特留此経の文なり。
◇総ジテ此ノ¬双巻無量寿経ニ¼説↢念仏往生ヲ↡文有↢七処↡。一ニハ者本願ノ文、二ニハ者願成就ノ文、三ニハ者上輩ノ中ノ一向専念ノ文、四ニハ者中輩ノ中ノ一向専念ノ文、五ニハ者下輩ノ中ノ一向専意ノ文、六ニハ者無上功徳ノ文、七ニハ者特留此経ノ文ナリ也。
またこの七処の文を合して三となす。 一には本願、 これに二を摂す。 いはくはじめの発願と願成就となり。 二には三輩、 これに三を摂す。 いはく上輩・中輩・下輩なり。 またこの下輩につきて二類あり。 三には流通、 これに二を摂す。 いはく無上功徳と特留此経となり。
◇又此ノ七処ノ文ヲ合シテ為↠三ト。一ニハ者本願、此ニ摂ス↠二。謂ク初ノ発願ト願成就トナリ也。二者三輩、此ニ摂ス↠三ヲ。謂ク上輩・中輩・下輩ナリ也。又就テ↢此ノ下輩ニ↡有リ↢二類↡。三ニハ者流通、此ニ摂ス↠二。謂ク無上功徳ト特留此経トナリ也。
本願は弥陀にあり、 三輩以下は釈迦の自説なり。 それも弥陀の本願に随ひて説きたまへるなり。 三輩の文のなかにおのおの一向専念と勧めたまへるも、 流通の文のなかに無上功徳と讃めたまへるも、 特留此経と留めたまへるも、 源は弥陀の本願に随順したまへるゆゑなり。
◇本願ハ在リ↢弥陀ニ↡、三輩已下ハ釈迦ノ自説ナリ也。其モ随テ↢弥陀ノ本願ニ↡而説給ル也。三輩ノ文ノ中ニ各勧メ↢一向専念ト↡給ヘルモ、流通文ノ中ニ讃メ↢無上功徳ト↡給ヘルモ、特留此経ト留給ヘルモ、源ハ随↢順シ弥陀ノ本願ニ↡給ヘル故也。
しかれば念仏往生といふ事は、 本願を根本とするなり。 所詮はこの ¬経¼ は始より終に至るまで、 弥陀の本願を説くと意得べきなり。 ¬双巻経¼ の大意、 略してかくのごとし。
◇然バ者云フ↢念仏往生ト↡事ハ、本願ヲ為↢根本ト↡也。所詮ハ此ノ¬経ハ¼自リ↠始至デ↠終ニ、可キ↤意↣得説ト↢弥陀ノ本願ヲ↡也。¬双巻経ノ¼大意、略シテ如シ↠斯ノ矣。
・第六七日
△第六七日。 ▽阿弥陀仏。 ▽¬観無量寿経¼。
・第六七日 名号功徳
△仏の功徳は前々の七日ごとにことごとく讃嘆したてまつる事にて候へども、 かならずしも前に申したる事をば申さじ。 思ふべし、 別の徳を珍しく讃じたてまつる事にても候はず、 同じ事を讃嘆するに功徳増る事にて候へば、 なほ名号の功徳を釈したてまつるべし。 相好の功徳は、 仏の六根も凡夫の六根も、 眼・耳・鼻・舌・身・意は同じ物なり。 ただし仏の六根は勝れ、 凡夫の六根は劣れるばかりなり。
仏0190ノ功徳ハ前々ノ毎↢七日↡悉ク奉↢讃嘆↡事ニテ候ヘドモ、必シモ不↠申サ↢前ニ申タル事ヲバ↡。可↠思、別之徳ヲ珍シク奉ル↠讃事ニテモ不↠候、讃↢嘆スルニ同事ヲ↡功徳増ル事ニテ候ヘバ、猶可↠奉ル↠釈シ↢名号ノ功徳ヲ↡。相好ノ功徳ハ、仏ノ六根モ凡夫ノ六根モ、眼・耳・鼻・舌・身・意ハ同物也。但シ仏ノ六根ハ勝レ、凡夫ノ六根ハ劣レル許也。
名号の功徳は、 一切の諸仏にみな二種の名号まします。 いはく通号と別号となり。 別号とは、 薬師瑠璃光・阿・釈迦牟尼なんど申すはこれ別号なり。 念仏もこれに准じて知るべし。
名号ノ功徳ハ、一切ノ諸仏ニ皆有マス↢二種ノ名号↡。謂ク通号ト別号トナリ也。別号トハ者、薬師瑠璃光・阿・釈迦牟尼ナンド申ハ是別号也。念仏モ准ジテ↠之可シ↠知ル。
阿弥陀仏にも通号・別号まします。 阿弥陀とは別号なり、 ここには無量寿・無量光といふ。 この別号の功徳は前々に釈したてまつり候ふ。 通号とは、 仏といふこれなり。 一切の諸仏みなこの名を具したまへり、 一仏も替ることなし。 仏とはつぶさには仏陀といふ、 ここには翻じて覚者といふ。 これにつきて三つの意あり。 自覚・覚他・覚行円満なり。 自覚とは凡夫に異なり、 覚他とは二乗に異なり、 覚行円満とは菩薩に異なるなり。 これにつきて意得れば、 阿弥陀仏の極楽世界のなかに取りて、 その国にあらゆる人天に異なるがゆゑに自覚といひ、 かの土の声聞等に異なるがゆゑに覚他といひ、 かの土の菩薩に異なるがゆゑに覚行円満といふなり。
阿弥陀仏ニモ有マス↢通号・別号↡。阿弥陀トハ者別号也、此ニハ云↢無量寿・無量光ト↡。此ノ別号ノ功徳ハ前々ニ奉リ↠釈シ候。通号トハ者、云フ↠仏ト是也。一切ノ諸仏皆具タマヘリ↢此ノ名ヲ↡、一仏モ無シ↠替ルコト。仏トハ者具ニハ云↢仏陀ト↡、此ニハ翻ジテ云↢覚者ト↡。付テ↠之ニ有↢三ノ意↡。自覚・覚他・覚行円満也。自覚トハ者異リ↢凡夫ニ↡、覚他トハ者異リ↢二乗ニ↡、覚行円満トハ者異ナリ↢菩薩ニ↡。付テ↠之ニ得バ↠意、阿弥陀仏ノ極楽世界ノ中ニ取テ矣、異ガ↢其ノ国ニ所有ル人天ニ↡故ニ云↢自覚ト↡、異ガ↢彼土ノ声聞等ニ↡云↢覚他ト↡、異ガ↢彼土ノ菩薩ニ↡故云リ↢覚行円満ト↡。
劫のはじめには名なく、 聖人あひ議して名をつけたり。 はじめには百千万の名あり 云々。 釈迦の時には十号あり、 すなはち如来・応供等なり。 如来とは、 如実の法に乗じて来りたまへるゆゑなり、 乃至天人師とは、 人天のみに限らず六道四生に通ず。 いま人天を挙げて余を摂す。 世尊とは、 十方世界に相対していふにあらず、 一世界に約して名づくるなり。
劫初ニハ無↠名、聖人相議シテ付タリ↠名ヲ。初ニハ有↢百千万ノ名↡ 云云。釈迦ノ時ニハ有↢十号↡、即如来・応供等也。如来トハ者、乗ジテ↢如実ノ法ニ↡来リ給ル故ナリ也、乃至天人師トハ者、不↠限ラ↢人天ノミニ↡通ズ↢六道四生ニ↡。今挙テ↢人天ヲ↡摂ス↠余ヲ也。世尊トハ者、非ズ↧相↢対シテ十方世界ニ↡而言ニ↥、約シテ↢一世界ニ↡而名0191クルナリ也。
一百倶胝界に二尊並び出でず 云々。 一世界のなかに同じやうに二仏の出でたまふ事なし。 また一四天下のなかに輪王二人出づる事なし。 ただし一世不二仏並出の事は、 大事の論義にて候ふなり。 しかれどももとの義は、 大小乗ともに二仏並出といふ事をば許さず。 しかれば浄瑠璃浄土には薬師仏の外はまた仏なく、 極楽世界には阿弥陀仏の外は仏ましまさず、 乃至十方の仏土みなかくのごとし。
一百倶胝界ニ二尊不↢並ビ出デ↡ 云云。一世界ノ中ニ無シ↢同ジ様ニ二仏ノ出給事↡。又一四天下ノ中ニ無シ↢輪王二人出事↡。但シ一世不二仏並出ノ事ハ、大事之論義ニテ候也。然ドモ而本ノ義ハ者、大小乗倶ニ不↠許サ↢二仏並出ト云事ヲバ↡。然バ者浄瑠璃浄土ニハ薬師仏ノ外ハ又無ク↠仏、極楽世界ニハ阿弥陀仏ノ外ハ不↠有マサ↠仏、乃至十方ノ仏土皆如シ↠是。
¬往生要集¼ の対治懈怠のなかに二十種の仏の功徳を挙げたる第二に、 名号の功徳を讃ずるに ¬維摩経¼ を引きていはく、 「▲諸仏の色身威相、 種姓、 戒・定・智恵・解脱・知見・力・無所畏・不共の法、 大慈大悲、 威儀所行、 およびその寿命、 説法教化、 成就衆生、 浄仏国土、 もろもろの仏法を具す、 ことごとくみな同等なり。 このゆゑに名づけて三藐三仏とし、 名づけて多陀阿伽度とし、 名づけて仏陀とす。 ◆阿難、 もし広くこの三句の義を説かば、 なんぢ劫寿をもつても受くること尽くあたはず。 まさに三千大千世界のなかに満てる衆生をして、 みな阿難のごとく多門第一にして念総持を得しめて、 この諸人ら劫の寿をもつてまた受くることあたはず」 と。 以上
¬往生要集ノ¼対治懈怠ノ中ニ挙タル↢二十種ノ仏ノ功徳ヲ↡第二ニ、讃ルニ↢名号ノ功徳ヲ↡引テ↢¬維摩経ヲ¼↡云ク、「諸仏ノ色身威相、種姓、戒・定・智恵・解脱・知見・力・無所畏・不共之法、大慈大悲、威儀所行、及ビ其ノ寿命、説法教化、成就衆生、浄仏国土、具↢諸仏法↡、悉皆同等ナリ。是ノ故ニ名テ為↢三藐三仏↡、名テ為↢多陀阿伽度ト↡、名テ為↢仏陀ト↡。阿難、若シ広ク説カバ↢此ノ三句ノ義ヲ↡、汝以テモ↢劫寿↡不↠能↠尽ク↠受コト。正ニ使メテ↧三千大千世界ノ中ニ満テル衆生ヲシテ、皆如ク↢阿難ノ↡多門第一ニシテ得↦念総持↥、此ノ諸人等以テ↢劫之寿↡亦不↠能↠受コト。」已上
¬要訣¼ (西方要決) にいはく、 「¬成実論¼ に仏の名号を釈して」 云々。 また ¬西方要決¼ にいはく、 「諸仏願行成此果名、 但能念号具包衆徳、 故成大善」 と。 以上 これ通号の功徳大善となるなり。
¬要訣¼云、「¬成実論ニ¼釈シテ↢仏ノ名号↡。」云云 又¬西方要決ニ¼云、「諸仏願行成此果名、但能念号具包衆徳、故成大善。」已上 是通号ノ功徳成↢大善↡也。
しかるに永観律師の ¬十因¼ に阿弥陀の三字を釈する処に、 この文を引きて別号の功徳の大善なるやうを釈成せられたるは僻事なり。 南無阿弥陀仏と申す功徳殊勝なることは、 通号の仏といふ一字のゆゑなり。 阿弥陀といふ名号のめでたく貴きも、 かの仏の名号なるがゆゑなり。 しかるに阿弥陀の三字を名につきたまへるゆゑに、 功徳殊勝なる仏にてましますやうに申す人も候ふ。 それは僻事にて候ふなり。
然ニ永観律師ノ¬十因ニ¼釈スル↢阿弥陀ノ三字ヲ↡之処ニ、引テ↢此ノ文ヲ↡釈↢成セラレタルハ別号ノ功徳ノ大善ナル様ヲ↡者僻事也。申↢南無阿弥0192陀仏ト↡功徳殊勝ナルコトハ者、通号ノ之仏ト云フ一字ノ之故ナリ也。云フ↢阿弥陀ト↡之名号ノ目出ク貴キモ、彼ノ仏ノ之名号ナルガ故也。然ニ阿弥陀ノ三字ヲ付キ↠名ニ給ヘル故ニ、功徳殊勝ナル仏ニテ坐マス様ニ申ス人モ候。其レハ僻事ニテ候也。
・第六七日 観経
△次に ¬観無量寿経¼ とは、 大意を意得んと欲はば、 かならず教相を知るべきなり。 教相を沙汰せざれば、 法門の浅深差別あきらかならざるがゆゑなり。
○次ニ¬観無量寿経トハ¼者、欲バ↠得ト↠意↢大意ヲ↡者、必ズ可キナリ↠知ル↢教相ヲ↡也。不レバ↣沙↢汰教相ヲ↡者、法門ノ浅深差別不ガ↠明ナラ故ナリ也。
▲しかるに諸宗にみな立教開示あり。 ▲法相宗には三時教を立てて一代の諸教を摂し、 ▲三論宗には二蔵教を立てて大小の諸教を摂し、 ▲華厳宗には五教を立て、 ▲天台宗には四教を立つ。
◇然ニ諸宗ニ皆有↢立教開示↡。法相宗ニハ立テヽ↢三時教ヲ↡摂シ↢一代ノ諸教ヲ↡、三論宗ニハ立テヽ↢二蔵教ヲ↡摂シ↢大小ノ諸教ヲ↡、華厳宗ニハ立テ↢五教ヲ↡、天臺宗ニハ立ツ↢四教↡。
▲いまわが浄土宗には道綽禅師の ¬安楽集¼ に聖道・浄土の二教を立つ。 一代の聖教五千余軸、 この二門をば出でず。
◇今我浄土宗ニハ道綽禅師ノ¬安楽集ニ¼立ツ↢聖道・浄土ノ二教ヲ↡。一代聖教五千余軸、不↠出↢此ノ二門ヲバ↡。
はじめに聖道門とは、 三乗・一乗の得道なり。 すなはちこの娑婆世界において断惑開悟する道なり。 総じて分たば二あり。 いはく大乗・小乗の聖道なり。 別して論ずれば四乗の聖道あり。 いはく声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗なり。
◇初ニ聖道門トハ者、三乗・一乗ノ得道ナリ也。即於テ↢此ノ娑婆世界ニ↡断惑開悟スル之道也。総ジテ分バ有↠二。謂ク大乗・小乗ノ聖道也。別シテ論ズレバ者有↢四乗ノ聖道↡。謂ク声聞乗・縁覚乗・菩薩乗・仏乗也。
浄土とは、 まづこの娑婆穢悪の境を出でてかの安楽不退の国に生れ、 自然に増進して仏道を証得せんと求むる道なり。
◇浄土トハ者、先出テ↢此ノ娑婆穢悪ノ境ヲ↡生↢彼ノ安楽不退ノ国ニ↡、自然ニ増進シテ証↢得セント仏道ヲ↡而求ムル道ナリ也。
▲この二門を立つることは、 道綽一師のみにあらず。 ▲曇鸞法師 (論註巻上意) も龍樹菩薩の ¬十住毘婆娑論¼ を引きて難行・易行の二道を立てたまへり。 「難行道は陸地より歩行するがごとく、 易行道は船に乗ずるがごとし」 とたとへたまへり。
◇立コトハ↢此ノ二門ヲ↡者、非↢道綽一師ノミニ↡。曇鸞法師モ引テ↢龍樹菩薩ノ¬十住毘婆娑論ヲ¼立タマヘリ↢難行・易行ノ二道ヲ↡。「難行道ハ如ク↢陸地ヨリ歩行スルガ↡、易行道ハ如シト↠乗↠船ニ」譬ヘ給ヘリ。
▲この二道を立つることは、 曇鸞一師に限らず。 天台の ¬十疑論¼ にも同じく引釈したまへり。 また迦才の ¬浄土論¼ にも同じく引けり。 その難行道とはすなはち聖道門なり、 易行道とはすなはち浄土門なり。
◇立コトハ↢此ノ二道ヲ↡、不↠限↢曇鸞一師ニ↡。天臺ノ¬十疑論ニモ¼同ク引釈シ給ヘリ。又迦才ノ¬浄土0193論ニモ¼同ク引ケリ。其難行道トハ者即聖道門也、易行道トハ者即浄土門ナリ也。
▲しかのみならずまた慈恩大師 (西方要決) のいはく、 「まのあたり聖化に逢ひ、 道三乗を悟り、 福薄く因疎なるをば、 勧めて浄土に帰せしむ」 と。 云々 ▲このなかに三乗とはすなはち聖道門なり、 浄土とはすなはち浄土門なり。
◇加之又慈恩大師云、「親リ逢↢聖化ニ↡、道悟リ↢三乗↡、福薄ク因疎ナルヲバ、勧テ帰シムト↢浄土ニ↡。」云云 此ノ中ニ三乗トハ者即聖道門ナリ也、浄土トハ即浄土門也。
▲難行・易行、 三乗・浄土、 聖道・浄土、 その言異なりといへども、 その意みな同じ。 およそ一代の諸教この二門を出でず。
◇難行・易行、三乗・浄土、聖道・浄土、其ノ言雖↠異ト、其ノ意皆同ジ。凡ソ一代ノ諸教不↠出↢此ノ二門ヲ↡。
すなはちただ浄土宗の経論のみこの二門に摂するにあらず、 乃至諸宗の章疏みなこの二門を出でざるなり。
◇乃非↣啻浄土宗ノ経論ノミ摂↢此二門ニ↡、乃至諸宗ノ章疏皆不↠出↢此ノ二門ヲ↡也。
天台宗にはまさしくは仏乗の聖道を明かし、 かたはらには往生浄土を明かす。 「即住安楽」 (法華経巻六薬王品) の文これなり。
◇天臺宗ニハ正クハ明シ↢仏乗ノ聖道↡、傍ニハ明↢往生浄土ヲ↡。「即住安楽ノ」文是ナリ也。
華厳宗にはまた天台宗のごとく聖道を修するは浄土に生ずべきことを得ることかたしといふ。 「願我臨欲終時」。 云々
◇華厳宗ニハ又如ク↢天臺宗ノ↡云フ↧修ルハ↢聖道ヲ↡難↞得↠可↠生↢浄土↡。「願我臨欲終時。」云云
達磨宗には経によりて教を立てず、 (達磨大師血脈論) 「前仏後仏、 以心伝心、 不立文字」 と申して、 経論によらざる宗なり。 釈迦入滅の刻、 わずかに一偈をもつてひそかにこれを迦葉に授けたまへる法なり。 その偈にいはく、 「法の本法は無法なり、 無法の法はまた法なり。 いま無法を付す時、 法法なんぞかつて法ならん」 と。 云々 あるいはかくのごときの偈を授け、 あるいは揚眉動目と申して、 眉を挙げて目を揺らし意得といふ法なり。 さらに受習とする事なし、 即身即仏と解りて、 総じて往生浄土をば沙汰せず。
達磨宗ニハ不↢依テ↠経ニ立↟教ヲ、申テ↢「前仏後仏、以心伝心、不立文字ト」↡、不ル↠依ラ↢経論ニ↡宗也。釈迦入滅ノ之刻、僅ニ以テ↢一偈ヲ↡密ニ授↢之ヲ迦葉ニ↡給ヘル法也。其ノ偈ニ曰ク、「法ノ本法ハ無法ナリ、無法ノ法ハ亦法ナリ。今付ス↢無法ヲ↡時、法法何ゾ曾テ法ナラン。」云云 或授ケ↢如ノ↠此偈ヲ↡、或申テ↢揚眉動目ト↡、挙テ↠眉ヲ揺↠目意得ト云法也。更ニ無シ↢受習トスル事↡、解テ↢即身即仏ト↡、総ジテ不↣沙↢汰セ往生浄土ヲバ↡。
真言宗 (発菩提心論) には 「父母所生身速証大覚位」 と申して、 大日如来に約して即身成仏の旨を説き、 胎蔵には三部を立て、 金剛には五部を立つ。 この両部の大法には浄土を説かず、 ただ即身に大日如来の位を得るなり。 これ普通の人の修し得べきやうもなき事なり。 しかれば ¬菩提心論¼ (発菩提心論意) には 「上根上智の人のためにこの法を説く」 といへり。 このごろの人は下根にだにも及ばず、 修せんと欲すとも叶ふまじき事なり。
真言宗ニハ申テ↢「父母所生身速証大覚位ト」↡、約シテ↢大日如来ニ↡説キ↢即身成仏ノ旨ヲ↡、胎蔵ニハ立↢三部ヲ↡、金剛ニハ立↢五部ヲ↡。此両部ノ大法ニハ不↠説↢浄土ヲ↡、唯即身ニ得↢大日如来ノ位ヲ↡也。此無キ↧普通ノ人ノ可キ↢修0194シ得↡様モ↥事也。然バ者¬菩提心論ニハ¼云ヘリ↧「為ニ↢上根上智ノ人ノ↡説ト↦此法ヲ↥。」近来ノ人ハ不↠及↢下根ニダニモ↡、欲トモ↠修ント不キ↠叶フ事也。
「△韻高くしては和するもの少し」 (止観巻八上) と申して、 歌をも歌ふに伽陀をも誦するに、 はじめにあまり高く出しつれば、 後にはわが声も及ばず、 人もつかざるなり。 教の韻高ければ、 行者の和すること及ぶべからず。 たとへば強き弓の、 究竟の弓といふとも少しも引き揺かさぬものに値ひぬれば、 弱き弓を安く引きて射たるものには劣りたるなり。 この秘蔵甚深の法もまたかくのごとし、 修し得んもののためには、 まことにこれ父母所生の肉身を改めずして遮那同体の覚位に至らん事、 好くめでたかるべき事なれども、 機根及ばざるもののためには、 言のみありて実あるべからず。 しかれば身器を計ひて法をも持つべきなり。
申テ↢「韻高シテハ和スルモノ少シト」↡、歌ニ↠歌ヲモ誦スルニ↢伽陀ヲモ↡、初ニ余リ高ク出シツレバ者、後ニハ不↠及バ↢我ガ声モ↡、人モ不ル↠付カ也。教ノ韻高レバ、行者ノ和不↠可↠及。譬ヘバ如↢強キ弓ノ、雖フトモ↢究竟ノ弓ト↡値ヌレバ↧少モ不↢引揺カサ↡之者ニ↥、劣リタル↢弱弓ヲ安ク引テ射タル之者ニハ↡也。此ノ之秘蔵甚深ノ法モ亦如↠是、為ニハ↢修シ得ン者ヽ↡、実ニ此不シテ↠改↢父母所生ノ肉身ヲ↡至ラン↢遮那同体ノ覚位ニ↡事、可↢好ク目出カル↡事ナレドモ、為↢機根不ル↠及者ヽ↡、有テ↠言ノミ不↠可↠有ル↠実。然バ者計ヒテ↢身器ヲ↡可↠持↠法ヲモ也。
この華厳・天台・達磨・真言の四宗は、 あるいは即身成仏、 あるいは即心是仏にして、 みな仏乗の聖道なり。 そのなかにおのづから往生を説くといへども、 まさしき意にはあらず、 かたはらの義なり。 三論・法相は、 また歴劫成仏の旨を明かす、 これは菩薩乗の聖道なり。
此ノ華厳・天臺・達磨・真言ノ四宗ハ、或ハ即身成仏、或ハ即心是仏ニシテ、皆仏乗ノ聖道ナリ也。其ノ中ニ雖↣自説ト↢往生ヲ↡、非↢正シキ意ニハ↡、傍ノ義也。三論・法相ハ、又明↢歴劫成仏ノ旨ヲ↡、是ハ菩薩乗ノ聖道也。
三論宗の祖師嘉祥は、 ¬観経¼・¬双巻経¼ ともに ¬疏¼ を造りたれども、 浄土をもつてわが本意とせざるゆゑに委しく釈せず。
三論宗ノ祖師嘉祥ハ、¬観経¼・¬双巻経¼倶ニ造タレドモ↠¬疏ヲ¼、不ル↧用テ↢浄土ヲ↡為↦我ガ本意ト↥故ニ不↢委ク釈セ↡。
この朝には元興寺の智光・頼光、 本宗を捨てて浄土門に入り、 智光は ¬往生論の疏¼ を造れり。 近くは永観念仏の一門に入りて、 ¬往生十因¼ を造る。 これらもなほ本宗の意にては往生を沙汰せず、 みな本宗を捨てて浄土には入るなり。
此ノ朝ニハ元興寺ノ智光・頼光、捨テヽ↢本宗ヲ↡入リ↢浄土門ニ↡、智光ハ造レリ¬往生論ノ疏ヲ¼。近ハ永観入↢念仏ノ一門ニ↡、造ル↢¬往生十因ヲ¼。此等モ猶本宗ノ意ニテハ不↣沙↢汰往生ヲ↡、皆捨テヽ↢本宗ヲ↡入↢浄土ニハ↡也。
法相宗の祖師慈恩大師は、 ¬西方要決¼ を造りひとへに往生浄土を勧むといへども、 自宗の意にあらず。 ただ化導のために往生の旨を剰へ釈したまへるなり。 しかれば自身は兜率に上生したまへり。
法相宗ノ祖師慈恩大師ハ、造↢¬西方要決ヲ¼雖モ↣偏ニ勧ト↢往生浄土ヲ↡、非↢自宗ノ意ニ↡。但為↢化導ノ↡剰ヘ↢釈シ往生ノ旨ヲ↡給ヘル也。然バ者自身ハ上↢生シ兜率ニ↡給ヘリ。
倶舎・成実・律宗、 これらはこれ小乗宗なり。 声聞・縁覚二乗の得道を明かして総じて浄土をば説かず。 しかれば声聞乗の聖道・縁覚乗の聖道なり。
倶舎・成実・律宗0195、此等ハ是小乗宗也。明シテ↢声聞・縁覚二乗ノ得道ヲ↡而総ジテ不↠説↢浄土ヲバ↡。然バ者声聞乗ノ聖道・縁覚乗ノ聖道也。
しかるにいまこの ¬経¼ は往生浄土の教なり。 即身頓悟の旨をも明かさず、 歴劫迂廻の行をも説かず。 娑婆の外に極楽あり、 わが身の外に阿弥陀ましますと説きてこの界を厭ひてかの国に生まれ、 無生忍を得んと願ふ旨を明かすなり。 善導釈 (玄義分) していはく、 「定散等回向、 速証無生身」 と。 云々
○而ニ今此ノ¬経ハ¼往生浄土ノ教也。不↠明↢即身頓悟ノ之旨ヲモ↡、不↠説↢歴劫迂廻ノ之行ヲモ↡。説テ↧娑婆ノ之外ニ有リ↢極楽↡、我身ノ之外ニ有スト↦阿弥陀↥而明ス↩可キ↠願↧厭テ↢此ノ界ヲ↡生↢彼ノ国ニ↡、得ント↦無生忍ヲ↥之旨ヲ↨也。善導釈シテ曰ク、「定散等廻向、速証無生身。」云云
およそこの ¬経¼ にはあまねく往生の行業を説く。 すなはちはじめには定散二善を説きて総じて一切の諸機に与へ、 次に念仏の一行を簡びて別して未来の群生に流通せり。 ゆゑに ¬経¼ にいはく、 「仏告阿難、 汝、 好持是語」 等と 云々。 善導これを釈して (散善義) いはく、 「仏告阿難汝好持是語より以下は、 まさしく弥陀の名号を付属して、 遐代に流通することを明かす」 等と 云々。 しかればこの ¬経¼ の意によりて、 いま聖道を捨て念仏に入るなり。
◇凡ソ此ノ¬経ニハ¼遍ク説↢往生ノ行業ヲ↡。則初ニハ説テ↢定散二善ヲ↡総ジテ与ヘ↢一切ノ諸機ニ↡、次ニ簡テ↢念仏ノ一行ヲ↡別シテ流↢通セリ未来ノ群生ニ↡。故ニ¬経ニ¼云、「仏告阿難、汝、好持是語」等 云云。善導釈シテ↠之言ハク、「従仏告阿難汝好持是語已下ハ、正ク明↧付↢属弥陀ノ名号ヲ↡、流↦通於遐代ニ↥」等 云云。然バ者依テ↢此ノ¬経ノ¼意ニ↡、今捨↢聖道ヲ↡入ル↢念仏ニ↡也。
その往生浄土につきて、 またその行これ多し。 これによりて善導和尚専雑二修を立てて、 諸行の勝劣得失を判じたまへり。 すなはちこの経の ¬疏¼ (散善義) にいはく、 「就行立信とは、 しかるに行に二種あり。 一には正行、 二には雑行なり」 と。 云々 もつぱらかの正行を修するを専修の行者といひ、 正行を修せずして雑行を修するを雑修のものと申すなり。
◇就テ↢其ノ往生浄土↡、亦其ノ行是多シ。依テ↠之ニ善導和尚立テヽ↢専雑二修ヲ↡、判ジ↢諸行ノ勝劣得失ヲ↡給ヘリ。則此ノ経¬疏ニ¼云、「就行立信トハ者、然ニ行ニ有↢二種↡。一ニハ正行、二ニハ雑行。」 云云 専修ルヲ↢彼正行ヲ↡云↢専修ノ行者ト↡、不シテ↠修↢正行ヲ↡而修ルヲ↢雑行ヲ↡申ス↢雑修ノ者ト↡也。
▲その専雑二修の得失につきて、 いまわたくしに料簡するに五義あり。 一には親疎対、 二には遠近対、 三には有間無間対、 四には回向不回向対、 五には純雑対なり。
◇付テ↢其ノ専雑二修ノ得失ニ↡、今私ニ料簡スルニ有↢五義↡。一親疎対、二ニハ遠近対、三ハ有間無間対、四ニハ廻向不廻向対、五ニハ純雑対也。
▲はじめに親疎対とは、 正行を修するは阿弥陀仏に親しく、 雑行を修するはかの仏に疎し。 すなはち ¬疏¼ (定善義) にいはく、 「衆生行を起して口につねに仏を称すれば、 仏すなはちこれを聞きたまふ。 身につねに仏を礼敬すれば、 仏すなはちこれを見たまふ。 心につねに仏を念ずれば、 仏すなはちこれを知りたまふ。 衆生仏を憶念すれば、 仏また衆生を憶念したまふ。 彼此の三業あひ捨離せず。 ゆゑに親縁と名づく」 と。 云々
◇初ニ親疎対トハ者、修スルハ↢正行ヲ↡親0196ク↢于阿弥陀仏ニ↡、修スルハ↢雑行ヲ↡疎シ↢於彼ノ仏ニ↡。則¬疏ニ¼云、「衆生起シテ↠行口常ニ称スレバ↠仏ヲ、仏即聞タマフ↠之ヲ。身常ニ礼↢敬スレバ仏ヲ↡、仏即見タマフ↠之。心ニ常ニ念ズレバ↠仏ヲ、仏即知タマフ↠之。衆生憶↢念スレバ仏ヲ↡者、仏亦憶↢念シタマフ衆生ヲ↡。彼此ノ三業不↢相ヒ捨離↡。故ニ名↢親縁ト↡也。」云云
▲その雑行のものは、 口に仏を称せざれば仏すなはち聞きたまはず、 身に仏を礼せざれば仏すなはち見たまはず、 心に仏を念ぜざれば仏知ろしめさず、 仏を憶念せざれば仏また憶念したまはず。 彼此の三業つねに捨離す。 ゆゑに疎と名づく。
◇其ノ雑行ノ者ハ、口ニ不レバ↠称セ↠仏ヲ者仏即不↢聞給↡、身ニ不レバ↠礼↠仏者仏即不↢見給↡、心ニ不レバ↠念↠仏仏不↢知シ召サ↡、不↣憶↢念仏ヲ↡者仏又不↢憶念シタマハ↡。彼此ノ之三業常ニ捨離ス。故ニ名↠疎ト也。
▲次に近遠対とは、 正行はかの仏に近づき、 雑行はかの仏に遠ざかるなり。 ¬疏¼ (定善義) にまたいはく、 「衆生仏を見んと欲すれば、 仏すなはち念に応じて現に目前にまします。 ゆゑに近縁と名づく」 と。 云々 雑行のものは、 仏を見んと欣ひたてまつらざれば仏すなはち念に応じたまはず、 目前にも現じたまはず。 ゆゑに遠と名づくるなり。 ただしつねの義には親近と申しつれば一つ事のやうに聞こふれども、 善導和尚は親と近とかくのごとく別なるものに釈したまへり。 これによりていままた親近を分ちて二とするなり。
◇次ニ近遠対トハ者、正行ハ近ヅキ↢彼仏ニ↡、雑行ハ遠カル↢彼ノ仏ニ↡也。¬疏ニ¼又云、「衆生欲スレバ↠見ト↠仏ヲ、仏即応ジテ↠念ニ現ニ在マス↢目前ニ↡。故ニ名ク↢近縁ト↡。」云云 雑行ノ之者ハ、不↣欣↢奉ラ見ント↟仏ヲ仏即不↢応ジ↠念ニ給↡、不↧現ジ↢目前ニモ↡給ハ↥。故ニ名↠遠ト也。但常ノ義ニハ申ツレバ↢親近ト↡者聞レドモ↢一事ノ様ニ↡、善導和尚ハ親ト与↠近如ク↠此別ナル物ニ釈シ給ヘリ。依テ↠之ニ今又分テ↢親近ヲ↡為↠二也。
▲次に有間無間対とは、 無間とは、 正行を修すにはかの仏において憶念無間なるなり。 ゆゑに文 (散善義) に 「憶念不断名為無間」 といふこれなり。 有間とは、 雑行のものは、 阿弥陀仏に心を懸くる事間多きがゆゑに、 文 (散善義) に 「心常間断」 といふこれなり。
◇次ニ有間無間対トハ者、無間トハ者、修ニハ↢正行ヲ↡於テ↢彼ノ仏ニ↡憶念無間ナルナリ。故ニ文云↢「憶念不断名為無間ト」↡是也。有間トハ者、雑行ノ之者、阿弥陀仏ニ懸↠心事間多キガ故ニ、文ニ云↢「心常間断ト」↡是也。
▲次に回向不回向対とは、 正行のものは回向を用ゐざれども、 自然に往生の業となる。 すなはち ¬疏¼ の第一 (玄義分) にいはく、 「いま ¬観経¼ のなかの十声の称仏は、 すなはち十願・十行具足することあり。 いかんが具足する。 南無といふはすなはちこれ帰命、 またこれ発願回向の義なり。 阿弥陀仏といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」 と。 云々
◇次ニ廻向不廻向対トハ者、正行ノ者ハ不レドモ↠用↢廻向ヲ↡、自然ニ成ル↢往生ノ業ト↡。即¬疏ノ¼第一ニ云、「今¬観経ノ¼中ノ十声ノ称仏ハ、即有↢十願・十行具足↡。云何具足スル。言↢南無ト↡者即是帰命、亦是発願廻向ノ之義ナリ。言0197ハ↢阿弥陀仏↡者即是其ノ行ナリ。以テノ↢斯義ヲ↡故ニ必得↢往生ヲ↡。」云云
▲回向とは、 かならず回向を用ゐる時往生の業となる。 もし回向せざれば往生の業とならず。 ゆゑに文 (散善義) に 「雖可回向得生」 といふこれなり。
◇廻向者、必用↢廻向ヲ↡時成↢往生ノ業ト↡。若不レバ↢廻向↡者不↠成↢往生ノ業ト↡。故ニ文ニ云↢「雖可廻向得生ト」↡是也。
▲次に純雑対とは、 正行は純極楽の行なり。 余の人天および三乗等の業には通ぜず、 十方浄土の業因ともならず。 ゆゑに純と名づく。 雑行は純極楽の行にあらず。 人天の業因にも通じ、 三乗の得果にも通じ、 また十方浄土の往生の業因ともなる。 ゆゑに雑といふなり。
◇次ニ純雑対トハ者、正行ハ純極楽ノ行也。不↠通↢余ノ人天及ビ三乗等ノ業ニハ↡、不↠成↢十方浄土ノ業因トモ↡。故ニ名ク↠純ト。雑行ハ非ズ↢純極楽ノ行ニ↡。通ジ↢人天ノ業因ニモ↡、通ジ↢三乗ノ得果ニモ↡、亦成↢十方浄土往生業因トモ↡。故ニ云↠雑ト也。
しかればこの五の相対をもつて二行を判ずるに、 西方の往生を願はん人は、 雑行を捨てて正行を修すべきなり。
◇然バ以テ↢此ノ五ノ相対ヲ↡判ニ↢二行ヲ↡、願ハン人ハ↢西方ノ往生ヲ↡、捨テヽ↢雑行ヲ↡可↠修↢正行ヲ↡也。
▲また善導和尚の ¬往生礼讃¼ (意) の序に、 この専雑の得失を判じたまへり。 「専修のものは十はすなはち十生し、 百はすなはち百生す。 雑修のものは百が一二、 千が五三と 云々。
◇又善導和尚ノ¬往生礼讃ノ¼序ニ、判ジ↢此ノ専雑ノ得失ヲ↡給ヘリ。「専修ノ者ハ十即十生シ、百ハ即百生ス。雑修ノ者ハ百ガ之一二、千ガ之五三ト 云云。
▲なにをもつてのゆゑにといふに、 専修のものは雑縁なくして、 正念を得るがゆゑに、 また弥陀の本願と相応するがゆゑに、 また釈迦の仏語に随順するがゆゑなり 云々。
◇何ヲ以テ故ト云ニ、専修ノ者ハ無クシテ↢雑縁↡、得ルガ↢正念ヲ↡故、又相↢応ガ弥陀ノ本願ト↡故ニ、又随↢順スルガ釈迦ノ仏語ニ↡故 云云。
▲雑修のものは雑縁乱動して、 正念を失するがゆゑに、 また仏の本願と相応せざるがゆゑに、 また仏語に随はず、 係念相続せざるがゆゑに、 回願慇重真実ならざるがゆゑに、 乃至名利と相応するがゆゑに、 みづからの往生を障ふるのみにあらず、 他の往生の正行を障ふるがゆゑに」 と。 云々
◇雑修ノ者ハ雑縁乱動シテ、失ガ↢正念ヲ↡故ニ、又与↢仏ノ本願↡不↢相応↡故ニ、又不↠随↢仏語ニ↡、係念不↢相続↡故ニ、廻願不↢慇重真実ナラ↡故ニ、乃至与↢名利ト↡相応スルガ故ニ、非ズ↠障ノミニ↢自ノ往生ヲ↡、障ガ↢他ノ往生ノ正行ヲ↡故ト。」云云
しかのみならずすなはちこの文の次 (礼讃意) にいはく、 「▲余このごろ諸方の道俗を見聞するに、 解行不同にして専雑異なることあり。 しかるに専修のものは十即十生し、 雑修のものは千中一もなし」 と。 云々
◇加↠之即此ノ文ノ次ニ云、「餘比日見↢聞スルニ諸方ノ道俗ヲ↡、解行不同ニシテ専雑有リ↠異コト。然ニ専修ノ者ハ十即十生シ、雑修ノ者ハ千中無シト↠一モ。」云云
前の義をもつて判じ候ふには、 千がなかに五三と許したまへるといへども、 いままさしく見るには一もなしと宣べたまへるなり。 その時の行者だにも、 雑行して往生するものはなかりけるにこそ候ひぬれ。 まして時も機も下りたる当世の行者は、 雑行往生といふ事は思を絶つべき事なり。
◇以テ↢前ノ義ヲ↡而判ジ候ニハ、雖モ↧許シ↢千ガ中ニ五三ト↡給ヘリト↥、今正ク見ルニハ無シト↠一モ宣給ヘル也。其ノ時ノ行者ダニモ、無リケルニコソ↢雑行シテ往生スル者ハ↡候ヌレ。増弥時モ機モ下0198リタル当世ノ行者ハ、雑行往生ト云フ事ハ思ヲ可キ↠絶ツ事也。
たとひまた往生すべくまでも、 百がなかに一二、 千がなかに五三の内にてこそ候はんずれ。 きはめて不定の事なり。 百人に九十九人は往生して、 いま一人は生まれじと聞くだにも、 もしその一人に当る身にやあるらんと不審しくも覚えぬべし。 いかにいはんや百が一二の内に一定入るべしといはん事は難しくぞ候はんずれ。
◇設ヒ又可マデモ↢往生ス↡、百ガ中ニ一二、千ガ中ニ五三之内ニテコソ候ハンズレ。極テ不定ノ事也。聞ダニモ↢百人ニ九十九人ハ往生シテ、今一人ハ不ト↟生ル、若シ有ルラント↧当タル↢其ノ一人↡之身ニヤ↥而不審シクモ可シ↠覚ヘヌ。何ニ況ヤ云ハン↢百ガ之一二ノ之内ニ一定可ト↟入ル事ハ難クゾ候ハンズレ。
▲しかれば百即百生の専修を捨てて千中無一の雑行を執すべからず。 ただ一向に念仏を修して、 雑行を捨つべきなり。 これすなはちこの ¬経¼ の大意なり。 「望仏本願、 意在衆生一向専称弥陀仏名」(散善義) と。 云々 かへすがへすも本願を仰ぎて念仏すべきなり。 仰ぎ願はくは 云々
◇然者不↠可↧捨テヽ↢百即百生之専修ヲ↡而執ス↦千中無一ノ之雑行ヲ↥。唯一向ニ修シテ↢念仏ヲ↡、可キ↠捨ツ↢雑行ヲ↡也。是則此ノ¬経ノ¼大意也。「望仏本願、意在衆生一向専称弥陀仏名。」云云 返々モ仰テ↢本願ヲ↡可キナリ↢念仏ス↡也。仰ギ願クハ 云云
右の六箇条は、 これ外記の禅門 安楽房遵西の父なり 五十日の逆修を修せし時、 上人をもつてまづ六度の導師となし、 かの説法の聞書なり。 結願の唱導は真観房なり、 ゆゑにしばらくこれを略す。 ただ多本を集むるに、 あるいは真字ありあるいは仮字あり、 いまだいづれか正といふことを知らず。 いましばらく真字の本につきてこれを集む、 すべからく正本を尋ぬべし。
右六箇条ハ、是外記禅門 安楽房遵西ノ父也 修セシ↢五十日ノ逆修ヲ↡之時、以テ↢上人ヲ↡為ス↢先六度ノ導師ト↡、彼ノ説法ノ聞書ナリ也。結願ノ唱導ハ真観房ナリ也、故ニ且ク略ス↠之ヲ。但集ルニ↢多本ヲ↡、或ハ有リ↢真字↡或ハ有↢仮字↡、未ダ↠知↢何レカ正ト云コトヲ↡。今且ク就テ↢真字本ニ↡集ム↠之、須ク↠尋↢正本ヲ↡焉。
黒谷上人語灯録巻第八
本にいはく嘉元四年八月五日蓮華堂の正本をもつて写しおはりぬ 覚唱
写本にいはく永徳三 癸亥 五 九日三光院の北の坊において書写せしめおはりぬ 吉水の末流導見
時や嘉慶 戊辰 八月廿七日忌部の道場観音寺において書写しおはりぬ 快尊
0199本云嘉元四年八月五日以蓮華堂正本写了 覚唱
写本云永徳三 癸亥 五 九日於三光院北坊令書写畢 吉水末流導見
時也嘉慶 戊辰 八月廿七日於忌部道場観音寺書写畢 快尊
右この録は、 古本を来迎寺より恩備せしめたてまつりてこれを書写す。
願はくは遠く末代に伝はり広く諸人に及び自他同じく極楽世界に生ぜんと、 かならずこれを披見せられんことを。 貴賎十念の回向を仰ぎたてまつらんものなり。
右此録者、古本従来迎寺令恩備奉書写之矣。
願遠伝末代広及諸人自他同生極楽世界、必披見之。貴賎奉仰十念之廻向者也。
時に明応元年十二月一日
南無阿弥陀仏 円空和尚
時に明応五年卯月廿六日書写しおはりぬ 筆者 云々
于時明応元年十二月一日
南無阿弥陀仏 円空和尚
于時明応五年卯月廿六日書写畢 筆者 云云
元禄十一年寅九月五日この巻を校合しおはりぬ 所持 恵空
元禄十一年寅九月五日校合此巻竟 所持 恵空
延書は底本の訓点に従って有国が行った。 なお、 訓(ルビ)の表記は現代仮名遣いにしている。
底本は大谷大学蔵江戸時代末期恵空本転写本。