0116◎黒谷上人漢語灯録巻第七
厭欣沙門 了恵 集録
◎漢語第一の七 当巻に半章あり
◎漢語第一之七 当巻有半章
一一、逆修説法
逆修説法第十一 ▽初七日より三七日に至る
・第一七日
△第一七日。 ▽三尺立像の阿弥陀。 ▽¬双巻経¼・▽¬阿弥陀経¼。
・第一七日 仏身
△経論のなかに、 仏の功徳を説くに無量の身あり。 あるいは総じて一身を説き、 あるいは別して二身を説き、 あるいは三身を説き、 あるいは四身を説く、 乃至 ¬華厳経¼ には十身の功徳を説けり。 いましばらく真身・化身の二身をもつて、 弥陀の功徳を讃嘆したてまつる。 この真化二身を分つこと、 ¬双巻経¼ の三輩の文のなかに見えたり。
○経論ノ之中ニ、説ニ↢仏ノ功徳ヲ↡有↢無量ノ身↡。或ハ総ジテ説キ↢一身ヲ↡、或ハ別シテ説キ↢二身ヲ↡、或ハ説↢三身ヲ↡、或ハ説ク↢四身ヲ↡、乃至¬華厳経ニハ¼説ケリ↢十身ノ功徳ヲ↡。今且ク以テ↢真身・化身ノ之二身ヲ↡、奉ル↣讃↢嘆シ弥陀ノ之功徳ヲ↡。分コト↢此ノ真化二身ヲ↡、見タリ↢于¬双巻経ノ¼三輩ノ文ノ中ニ↡。
・第一七日 仏身 真身
まづ真身とは、 真実の身なり。 弥陀因位の時、 世自在王仏の所にして四十八願を発したまひて後、 兆載永劫の間、 布施・持戒・忍辱・精進等の六度万行を修して願じたまへるところの修因感果の身なり。
◇先ヅ真身トハ者、真実ノ之身ナリ也。弥陀因位ノ之時、於テ↢世自在王仏ノ所ニ↡発シタマヒテ↢四十八願ヲ↡之後、兆載永劫ノ之間、修シテ↢布施・持戒・忍辱・精進等ノ之六度万行ヲ↡而所ノ↠願0117タマヘル之修因感果ノ之身也。
¬観経¼ に説きていはく、 「その身▽六十万億那由他恒河沙由旬なり。 ▽眉間の白毫、 右に旋れり、 五須弥山のごとし」 と。 文 その一の須弥山の高さ、 海より出でて海に入るおのおの八万四千由旬なり。 また 「青蓮慈悲の眼は四大海水のごとくして青白分明なり。 身のもろもろの毛孔より光明を放つこと、 須弥山のごとし。 ▽頂に旋れる円光あり、 百億三千大千世界のごとし。 かくのごとくして八万四千の相あり。 一々の相に、 おのおの▽八万四千の好あり。 一々の好に、 おのおの八万四千の光明あり。 その一々の光明、 あまねく十方世界を照らし念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。 ▽色身は夜摩天の閻浮檀金の色のごとし」 (観経意) と。 云々
◇¬観経ニ¼説テ云ク、「其ノ身六十万億那由他恒河沙由旬ナリ。眉間ノ白毫、右ニ旋レリ、如シ↢五須弥山↡。」文 其ノ一ノ須弥山ノ高サ、出↠海入↠海各オノ八万四千由旬ナリ也。又「青蓮慈悲ノ眼ハ如ニシテ↢四大海水ノ↡青白分明ナリ也。自リ↢身ノ諸ノ毛孔↡放コト↢光明ヲ↡、如シ↢須弥山ノ↡。頂ニ有↢旋レル円光↡、如シ↢百億三千大千世界ノ↡。如シテ↠是有↢八万四千ノ相↡。一一ノ相ニ、各有↢八万四千ノ好↡。一一ノ好ニ、各オノ有リ↢八万四千ノ光明↡。其ノ一一ノ光明、遍ク照↢十方世界ヲ↡念仏ノ衆生ヲ摂取シテ不↠捨タマハ。色身ハ如シ↢夜摩天ノ閻浮檀金ノ色ノ↡。」 云云
これ弥陀一仏に限らず、 一切諸仏みな黄金の色なり。 諸色のなかには白色をもつて本となす、 ゆゑに仏の色も白色なるべしといへども、 その色なほ損ずる色なり。 ただ黄金のみありて不変の色なり。 このゆゑに十方三世一切の諸仏、 みな常住不変の相を顕さんがために、 黄金の色を現じたまへるなり。 これ ¬観仏三昧経¼ の意なり。
◇是不↠限↢弥陀一仏ニ↡、一切諸仏皆黄金ノ色ナリ也。諸色ノ中ニハ以テ↢白色ヲ↡為↠本ト、故ニ雖↠可ト↢仏ノ色モ白色ナル↡、其ノ色尚損ズル色ナリ也。但有テ↢黄金ノミ↡不変ノ色ナリ也。是ノ故ニ十方三世一切ノ諸仏、皆為ニ↠顕ガ↢常住不変ノ相ヲ↡、現タマヘル↢黄金ノ色ヲ↡也。是¬観仏三昧経ノ¼意ナリ也。
ただし真言宗のなかに五種の法あり。 その本尊の身色、 法に随ひて格別なり。 しかれども而時暫時の方便の化色なり、 仏の本色にはあらず。 このゆゑに仏像を造りたるに、 白檀の綵色は功徳を得ざるにあらずといへども、 金色に造るは、 すなはち決定往生の業因なり。 「即生乃至三生にかならず往生を得」 といへり。 これ弥陀如来真身の功徳なり、 略を存ずることかくのごとし。
◇但シ真言宗ノ中ニ有↢五種ノ法↡。其ノ本尊ノ身色、随テ↠法ニ格別ナリ。然ドモ而時暫時方便ノ之化色也、非↢仏ノ本色ニハ↡矣。是ノ故ニ造タルニ↢仏像ヲ↡、雖↠非ズト↢白檀綵色ハ不ルニ↟得↢功徳ヲ↡、造ルハ↢金色ニ者、即決定往生ノ業因ナリ也。「即生乃至三生ニ必ズ得ト云ヘリ↢往生ヲ↡。」是弥陀如来真身之功徳ナリ、存ルコト↠略ヲ如シ↠斯ノ。
・第一七日 仏身 化身
次に化身とは、 無にしてたちまち有なるを化といふなり、 すなはち機に随ひ時に応じて身量を現ずること、 大小不同なり。 ¬経¼ (観経) にいはく、 「あるいは大身を現じて虚空のなかに満ち、 あるいは小身を現じて丈六八尺なり」 と。 化仏につきて多種あり。
◇次ニ化身トハ者、無ニシテ而欻チ有ナルヲ云↠化ト者、則随ヒ↠機ニ応ジテ↠時ニ現ズルコト↢身量ヲ↡、大小不同ナリ。¬経ニ¼0118云、「或ハ現ジテ↢大身ヲ↡満チ↢虚空ノ中ニ↡、或ハ現ジテ↢小身ヲ↡丈六八尺ナリト」。就テ↢化仏ニ↡有リ↢多種↡。
・第一七日 仏身 化身 円光化仏
まづ円光の化仏とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「円光のなかにおいて、 百万億那由他恒河沙の化仏あり。 一々の化仏、 衆多無数の化菩薩をもつて眷属となす」 と。 文
◇先ヅ円光ノ化仏トハ者、¬経ニ¼云、「於テ↢円光ノ中ニ↡、有リ↢百万億那由他恒河沙ノ化仏↡。一一ノ化仏、衆多無数ノ化菩薩ヲ以テ為↢眷属ト↡。」文
・第一七日 仏身 化身 摂取不捨化仏
次に摂取不捨の化仏とは、 「光明遍照、 十方世界、 念仏衆生、 摂取不捨」 (観経) とは、 これ真仏の摂取なり。 この外に化仏の摂取あり。 三十六万億の化仏、 おのおの真仏とともに十方世界の念仏の衆生を摂取したまふ。
◇次ニ摂取不捨ノ化仏トハ者、「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨トハ」者、是真仏ノ摂取ナリ也。此ノ外ニ有↢化仏摂取↡也。三十六万億ノ化仏、各オノ与↢真仏↡共ニ摂↢取シタマフ十方世界ノ念仏ノ衆生ヲ↡也。
・第一七日 仏身 化身 来迎引摂化仏
次に来迎引摂の化仏とは、 九品の来迎におのおの化仏あり、 品に随ひて多少あり。 上品上生の来迎には真仏の外に無数の化仏あり。 上品中生には千の化仏あり。 上品下生には五百の化仏あり。 乃至かくのごとく次第に減じて、 下品上生には真仏来迎したまはず、 ただ化仏・化観世音・化大勢至を遣す。 その化仏の身量、 あるいは丈六八尺なり。 化菩薩の身量もそれに随ふ。 下品中生には、 「天華の上に化仏・菩薩ありて、 来迎したまふ」 (観経意) と。 下品下生には、 命終の時、 金蓮華のなほし日輪のごとくなる、 その人の前に住するを見る」 (観経) と。
◇次ニ来迎引摂ノ化仏トハ者、九品ノ来迎ニ各有リ↢化仏↡、随テ↠品ニ有↢多少↡。上品上生ノ来迎ニハ真仏ノ之外ニ有リ↢無数ノ化仏↡。上品中生ニハ有リ↢千ノ化仏↡。上品下生ニハ有↢五百ノ化仏↡。乃至如ク↠是ノ次第ニ減ジテ、下品上生ニハ真仏不↢来迎シタマハ↡、但遣ス↢化仏・化観世音・化大勢至ヲ↡。其ノ化仏ノ身量、或ハ丈六八尺ナリ。化菩薩ノ身量モ随フ↠其ニ。下品中生ニハ、「天華ノ上ニ有テ↢化仏・菩薩↡、来迎シタマフ。」下品下生、命終ノ之時、見↧金蓮華ノ猶シ如ナル↢日輪ノ↡、住スルヲ↦其人前ニ↥。」
文のごときは、 化仏来迎もなきやうに見えたりといへども、 善導の御意は ¬観経¼ の十一門の義によらば、 第九門に 「命終の時聖衆迎接したまふ不同、 去時の遅疾を明す」 (散善義) と。 また 「いまこの十一門の義は、 九品の文に約対するに、 一々の品のなかにみなこの十一あり」 といへり。 しかれば下品下生のなかにも来迎あるべきなり。 しかるを五逆の罪人、 その罪重きによりて、 まさしく化仏・菩薩を見ることあたはず、 ただわが坐すべきところの金蓮華ばかりを見るなり。 また文に隠顕あればなり。
◇如キハ↠文者、雖↠見タリト↧無キ↢化仏来迎モ↡之様ニ↥、善導ノ御意ハ依ラバ↢¬観経ノ¼十一門ノ義ニ↡者、第九門ニ「明↢命終ノ之時聖衆迎接シタマフ不同、去時ノ遅疾ヲ↡。」又云ヘリ↧「今此ノ十一門義ハ、約↢対スルニ九品ノ文ニ↡、一一ノ品ノ中ニ皆有ト↦此十一↥。」然者下品下生ノ中ニモ可ナリ↠有ル↢来迎↡。而ヲ五逆ノ罪人、依テ↢其ノ罪重0119ニ↡、不↠能↢正ク見コト↢化仏・菩薩ヲ↡、但見ナリ↢我ガ所↠可キ↠坐ス之金蓮華許リヲ↡。又文ニ有レバナリ↢隠顕↡也。
・第一七日 仏身 化身 本尊のための化仏
次にまた十方の行者のために、 本尊、 小身の化仏を現じたまへることあり。 天竺の鶏頭摩寺の五通菩薩、 神足をもつて極楽に詣でて、 仏にまふしてまふさく、 娑婆世界の衆生、 往生の行を修せんと欲ふに、 その本尊なし。 仏、 願はくはために身相を現じたまへと。 仏すなはち菩薩の請に趣きて、 樹上に化仏五十体を現じたまへり。 菩薩、 すなはちこれを模して世に弘む。 鶏頭摩寺の五通の菩薩の曼蛇羅とは、 すなはちこれなり。 また智光の曼蛇羅とて、 世間に流布の本尊あり。 その因縁、 人つねにこれを知る、 つぶさに伸ぶべからず。 ¬日本往生伝¼ を見るべし。
◇次ニ又為ニ↢十方ノ行者ノ↡、本尊有リ↠現タマヘルコト↢小身化仏ヲ↡。天竺ノ鶏頭摩寺ノ五通菩薩、以テ↢神足ヲ↡詣テ↢極楽ニ↡、白シテ↠仏言ク、娑婆世界ノ衆生、欲ニ↠修ント↢往生ノ行ヲ↡、無シ↢其ノ本尊↡。仏、願クハ為ニ現ヘト↢身相ヲ↡。仏則趣テ↢菩薩ノ請ニ↡、樹上ニ現タマヘリ↢化仏五十体ヲ↡。菩薩、即模シテ↠之弘ム↠世ニ。鶏頭摩寺ノ五通菩薩ノ曼蛇羅トハ者、則是ナリ也。又智光ノ曼蛇羅トテ、有リ↢世間ニ流布ノ之本尊↡。其ノ因縁、人常ニ知ル↠之ヲ、不↠可↢具ニ伸ブ↡。可↠見↢¬日本往生伝ヲ¼↡。
・第一七日 仏身 化身 教化説法の化仏
また新生の菩薩を教化して説法せんがために、 化して小身を現ず。 これはこれ弥陀如来化身の功徳なり、 略することまたかくのごとし。
◇又為ニ↧教↢化シテ新生ノ菩薩ヲ↡而説法センガ↥、化シテ現ズ↢小身ヲ↡。此ハ是弥陀如来化身ノ功徳ナリ、略スルコト亦如シ↠是矣。
・第一七日 来迎
いまこの造立せられたまへる仏は、 祇園精舎の風を伝へて三尺の立像を模し、 最期終焉の暮を期し来迎引接の像を造れり。 およそ仏像を造立するに種々の像あり。 あるいは説法講堂の像あり、 あるいは池水沐浴の像あり、 あるいは菩提樹下成等正覚の像あり、 あるいは光明遍照摂取不捨の像あり。 かくのごときの形像を、 もしは造りもしは画したてまつる。 みな往生の業なりといへども、 来迎引接の形像は、 なほその便宜を獲たるなり。
◇今此ノ被タマヘル↢造立セ↡仏ハ、伝テ↢祇園精舎ノ之風ヲ↡模シ↢三尺ノ立像ヲ↡、期↢最期終焉ノ之暮ヲ↡造レリ↢来迎引接ノ像ヲ↡。凡ソ造↢立スルニ仏像ヲ↡有↢種種ノ像↡。或ハ有↢説法講堂ノ之像↡、或ハ有↢池水沐浴ノ之像↡、或ハ有↢菩提樹下成等正覚ノ之像↡、或ハ有↢光明遍照摂取不捨ノ之像↡。如ノ↠是形像ヲ、若ハ造リ若ハ画タテマツル。皆雖↢往生ノ業ナリト↡、来迎引接ノ形像ハ、尚獲タル↢其ノ便宜ヲ↡也。
かの尽虚空界の荘厳を見、 転妙法輪の音を聞き、 七宝講堂の砌に臨み、 八功徳池の浜に遊び、 およそかくのごときの種々の微妙の依正二報をまのあたり視聴することは、 まづ終焉のゆふべに聖衆の来迎に預りて、 決定してかの国に往生してのうへの事なり。 しかればすなはち深く往生極楽の志あらん人は、 来迎引接の形像を造りたてまつりて、 すなはち来迎引接の誓願を仰ぎたてまつるものなり。
◇彼ノ見↢尽虚空界ノ之荘厳ヲ↡、聞キヽ↢転妙法輪之音ヲ↡、臨↢七宝講堂ノ之砌ニ↡、遊ビ↢八功徳池ノ之浜ニ↡、凡ソ如ノ↠是ノ種種ノ微妙ノ依正二報ヲ親リ視聴0120スルコトハ者、先ヅ終焉之夕ニ預テ↢聖衆ノ来迎ニ↡、決定シテ往↢生シテ彼ノ国ニ↡之上ノ事ナリ也。然則深ク有ン↢往生極楽ノ之志↡人ハ、奉テ↠造↢来迎引接ノ之形像ヲ↡、則可↠仰タテマツル↢来迎引接ノ之誓願ヲ↡者ナリ也。
その来迎引接の願とは、 すなはちこの四十八願のなかの第十九の願なり。 人師これを釈するに多義あり。
◇其来迎引接ノ願トハ者、即此ノ四十八願ノ中ノ第十九ノ願ナリ也。人師釈スルニ↠之ヲ有リ↢多義↡。
・第一七日 来迎 臨終正念
まづ臨終正念のために来迎したまへり。 いはゆる疾苦身を逼めて、 まさに死せんと欲する時、 かならず境界・自体・当生の三種の愛心を起すなり。 しかるに阿弥陀如来大光明を放ちて行者の前に現じたまふ時、 未曾有の事なるゆゑに、 帰敬の心の外には他念なし。 しかれば三種の愛心を亡ぼして、 さらに起ることなし。 かつはまた仏行者に近づきたまひて、 加持護念したまふがゆゑなり。
◇先為↢臨終正念ノ↡来迎ヘリ。所謂ル疾苦逼テ↠身ヲ、将欲↠死ント之時、必ズ起ナリ↢境界・自体・当生ノ三種ノ愛心↡也。而ニ阿弥陀如来放テ↢大光明ヲ↡現タマフ↢行者ノ前ニ↡時、未曾有ノ事ナル故ニ、帰敬ノ心ノ外ニハ無シ↢他念↡。而レバ亡シテ↢三種愛心ヲ↡、更ニ無シ↠起コト。且ハ又仏近タマヒテ↢行者ニ↡、加持護念タマフガ故ナリ也。
¬称讃浄土経¼ には 「慈悲加祐して、 心をして乱れざらしめ、 すでに命を捨ておはりて、 すなはち往生を得て、 不退転に住す」 と説き、 ¬阿弥陀経¼ には 「阿弥陀仏もろもろの聖衆と現にその前に在す。 この人終時に、 心顛倒せずして、 すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得と説けり。 令心不乱と心不顛倒とは、 すなはち正念に住せしむるの義なり。
◇¬称讃浄土経ニハ¼説キ↧「慈悲加祐シテ、令メ↢心ヲシテ不↟乱、既ニ捨テ↠命已テ、即得テ↢往生ヲ↡、住スト↦不退転ニ↥」、¬阿弥陀経ニハ¼説ケリ↫「阿弥陀仏与↢諸ノ聖衆↡現ニ在ス↢其前ニ↡。是ノ人終時、心不シテ↢顛倒↡、即得ト↪往↩生コトヲ阿弥陀仏ノ極楽国土ニ↨。」令心不乱ト与ハ↢心不顛倒↡、即令ルノ↠住↢正念ニ↡之義也。
しかれば臨終正念なるがゆゑに来迎したまふにはあらず、 来迎したまふがゆゑに臨終正念なりといふ義あきらかなり。 往生の間に往生行の成就せん人は、 臨終にかならず聖衆の来迎を得べし。 来迎を得る時、 たちまちに正念に住すべきなり。
◇然者非↢臨終正念ナルガ故ニ来迎シタマフニハ↡、来迎タマフガ故ニ臨終正念ナリト云之義明也。往生ノ之間ニ往生行ノ成就セン人ハ、臨終ニ必ズ可↠得↢聖衆ノ来迎↡。得↢来迎↡時、忽ニ可ナリ↠住↢正念↡也。
しかるにいまの時の行者、 多くその旨を弁へずして、 尋常の行を捨てて怯弱を生じて、 はるかに臨終の時を期して正念を祈る、 もつとも僻胤なり。 しかればよくよくこの旨を意得るに、 尋常の行業において怯弱の心を起さず、 臨終正念に決定の思ひを成すべきなり。 これはこれ至要の義なり。 聞かん人心を留むべし。 この臨終正念のために来迎すといふ義は、 静慮院の静照法橋の釈なり。
◇然ニ今時ノ行者、多不シテ↠弁↢其ノ旨ヲ↡、捨テ↢尋常ノ行ヲ↡生ジテ↢怯弱ヲ↡、遥ニ期シテ↢臨終ノ時ヲ↡祈ル↢正念ヲ↡、最モ僻胤ナリ也。然バ者能ク能意↢得ニ此ノ旨ヲ↡、於テ↢尋常ノ行業ニ↡不↠起↢怯弱ノ心ヲ↡、於テハ↢臨終正念ニ↡可↠成ス↢決定0121ノ思ヲ↡也。此ハ是至要ノ義ナリ。聞カン人可シ↠留ム↠心ヲ。此ノ為↢臨終正念ノ↡来迎スト云フ義ハ、静慮院ノ静照法橋ノ釈ナリ也。
・第一七日 来迎 道の先達
次には道の先達のために来迎したまふなり。 あるいは ¬往生伝¼ (往生浄土伝巻中) に、 沙門志法の遺書にいはく、
◇次ニハ為ニ↢道ノ先達ノ↡来迎タマフ也。或ハ¬往生伝ニ¼、沙門志法ノ遺書ニ曰ク、
「われ生死海に在りて | 幸に聖の船筏にまうあへり |
わが顕すところの真聖 | 卑穢の質を来迎したまふ |
もし浄土を欣求せんものは | かならず形像を造画すべし |
臨終にその前に現じて | 道路を示し心を摂したまふ |
念々に罪やうやく尽きて | 業に随ひて九品に生ず |
その顕るるところの聖衆 | まづ新生の輩を讚じたまふ |
仏道増進を示す」 と |
「我在テ↢生死海ニ↡ | 幸ニ値ヘリ↢聖ノ船筏ニ↡ |
我ガ所ノ↠顕ス真聖 | 来↢迎シタマフ卑穢ノ質ヲ |
若シ欣↢求センモノハ浄土ヲ↡ | 必ズ造↢画スベシ形像ヲ |
臨終ニ現ジテ↢其ノ前ニ↡ | 示シ↢道路ヲ↡摂タマフ↠心ヲ |
念念罪漸ク尽テ | 随テ↠業ニ生ズ↢九品ニ↡ |
其ノ所ノ↠顕聖衆 | 先讚↢新生ノ輩ヲ↡ |
仏道示↢増進↡」 |
これすなはちこの界において造画するところの形像、 先達と成りて浄土に送りたまふ証拠なり。 また ¬薬師経¼ (玄奘訳) を見るに、 浄土を欣ふ輩の、 行業いまだ定まらず、 往生の路に迷ふあり。 すなはち文にいはく、 「よく八部斎戒を受持するものあれば、 あるいは一年を経、 あるいはまた三月学処を受持す。 この善根をもつて西方極楽世界の無量寿仏の所に生じて、 正法を聴聞せんと願ず。 しかるにいまだ定まらざるもの、 もし世尊薬師瑠璃光如来の名号を聞き、 命終の時に臨みて、 八菩薩ありて神通に乗じて来りて、 その道路を示す。 すなはちかの界の種々雑色衆宝の華中において自然に化生す」 と。 以上 もしかの八菩薩その道路を示さずんば、 独り往生することを得がたきか。
◇是則於↢此ノ界ニ↡所↢造画スル↡之形像、成テ↢先達ト↡送タマフ↢浄土ニ↡之証拠ナリ也。又見ニ↢¬薬師経ヲ¼↡、有リ↧欣フ↢浄土ヲ↡輩ノ、行業未ダ↠定、迷フ↦往生ノ路ニ↥。則文ニ云、「有バ↣能ク受↢持八部斎戒ヲ↡、或ハ経↢一年↡、或復三月受↢持学処ヲ↡。以テ↢此ノ善根ヲ↡願ズ↧生ジテ↢西方極楽世界無量寿仏所ニ↡、聴↦聞セント正法ヲ↥。而ニ未ダ↠定者、若聞↢世尊薬師瑠璃光如来ノ名号ヲ↡、臨↢命終ノ時ニ↡、有↢八菩薩↡乗ジテ↢神通ニ↡来テ、示↢其ノ道路ヲ↡。即於テ↢彼ノ界ノ種種雑色衆宝ノ華中ニ↡自然ニ化生ス。」 已上 若彼ノ八菩薩不ンバ↠示サ↢其ノ道路↡者、難↠得↢独リ往生スルコトヲ乎。
これをもつて思ふにも、 弥陀如来もろもろの聖衆とともに行者の前に現じて来迎引接したまふも、 引きて道路を示したまはんがための義、 まことにいはれたる事なり。 娑婆世界の習ひも、 路を行くにはかならず先達を具する事なり。 これによりて御廟の僧正 (九品往生義) は、 この来迎の願をば 「現前導生の願」 と名づけたまへり。
◇以テ↠之而思ニモ、弥陀如来与↢諸ノ聖衆↡共ニ現ジテ↢行者ノ前ニ↡来迎引接タマフモ、為↣引テ示0122タマハンガ↢道路ヲ↡之義、誠ニ被↠云事ナリ也。娑婆世界ノ習モ、行ニハ↠路ヲ必具スル↢先達ヲ↡事也。依テ↠之御廟ノ僧正ハ、此ノ来迎ノ願ヲバ名タマヘリ↢「現前導生ノ願ト」↡。
・第一七日 来迎 対治魔事
次に魔事を対治せんがために来迎したまふとは、 道盛りなれば魔盛んなりと申して、 仏道修行するには、 かならず魔の障難あひ副ふなり。 真言宗のなか (発菩提心論) には 「誓心決定すれば、 魔宮振動す」 といへり。 天台 ¬止観¼ (巻八下) の四種三昧を修行するに、 十種の境界廃るるなかに 「魔境来る」 といへり。 また菩薩の三祇百劫の行すでに成じて正覚を唱ふる時、 魔王来りて種々に障礙せり。
◇次ニ為ニ↣対↢治ンガ魔事ヲ↡来迎シタマフトハ者、申シテ↢道盛リナレバ者魔盛ンナリト↡、仏道修行スルニハ、必相↢副魔ノ障難↡也。真言宗ノ中ニハ云ヘリ↢「誓心決定スレバ、魔宮振動スト」↡。修↢行スルニ天臺¬止観¼四種三昧ヲ↡十種ノ境界廃ル中ニ云ヘリ↢「魔境来ト」↡。又菩薩ノ三祇百劫ノ行既ニ成ジテ唱ル↢正覚ヲ↡時、魔王来テ種種ニ障セリ。
いかにいはんや凡夫具縛の行者、 たとひ往生の行業を修すといへども、 魔の障難を対治せずは、 往生の素懐を遂げんこと難からん。 しかるに阿弥陀如来無数の化仏・菩薩聖衆に囲遶せられ、 光明赫奕として行者の前に現じたまふ時には、 魔王これに近づきこれを障礙することあたはず。 しかればすなはち来迎引接は魔障を対治せんがためなり。 来迎の義、 略を存ずるにかくのごとし。 これらの義につきて思ふに、 同じくは仏像を造らんには、 来迎の像を造るべきなり。 仏の功徳、 大概かくのごとし。
◇何ニ況ヤ凡夫具縛ノ行者、設ヒ雖↠修ト↢往生ノ行業ヲ↡、不ハ↣対↢治魔ノ障難ヲ↡者、遂ゲンコト↢往生ノ素懐ヲ↡難カラン。然ニ阿弥陀如来被↣囲↢遶無数ノ化仏・菩薩聖衆ニ↡、光明赫奕トシテ現タマフ↢行者ノ前ニ↡時ニハ、不↠能↣魔王近キ↠此障↢スルコト之↡。然則来迎引接ハ為↣対↢治センガ魔障ヲ↡也。来迎ノ義、存ズルニ↠略ヲ如↠斯ノ。就↢此等ノ義ニ↡思ニ、同ハ造ランニハ↢仏像ヲ↡、可キナリ↠造↢来迎ノ之像ヲ↡也。仏ノ功徳、大概如↠斯ノ。
・第一七日 浄土三部経
次に▲三部経とは、 いま三部経と名づくることは、 はじめて申すにあらず、 その証これ多し。 いはゆる大日の三部経、 ¬大日経¼・¬金剛頂経¼・¬蘇悉地経¼ 等これなり。 弥勒の三部経、 ¬上生経¼・¬下生経¼・¬成仏経¼ 等これなり。 鎮護国家の三部経、 ¬法華経¼・¬仁王経¼・¬金光明教¼ 等これなり。 法華の三部経、 ¬無量義経¼・¬普賢経¼・¬法華経¼ 等これなり。 これすなはち三部経と名づくる証拠なり。
◇次ニ三部経ト者、今名コト↢三部経ト↡者、非↢初テ申ニ↡、其ノ証斯多シ。所謂ル大日ノ三部経、¬大日経¼・¬金剛頂経¼・¬蘇悉地経¼等是ナリ也。弥勒ノ三部経、¬上生経¼・¬下生経¼・¬成仏経¼等是也。鎮護国家三部経、¬法華経¼・¬仁王経¼・¬金光明教¼等是也。法華三部経、¬無量義経¼・¬普賢経¼・¬法華経¼等是也。是則0123名クル↢三部経ト↡証拠也。
いまこの弥陀の三部経も、 ある人師のいはく、 「浄土教に三部あり。 いはゆる ¬双巻無量寿経¼・¬観無量寿経¼・¬阿弥陀経¼ 等これなり」 と。 これによりていま浄土の三部経と名づくるなり。 あるいはまたは弥陀の三部経と名づく。 またある師 (慈恩小経義疏意) のいはく、 「かの三部経に ¬鼓音声経¼ を加へて四部と名づく」 と。 云々
◇今此ノ弥陀ノ三部経モ、有ル人師ノ云、「浄土教ニ有リ↢三部↡。所謂¬双巻無量寿経¼・¬観無量寿経¼・¬阿弥陀経¼等是也。」依↠之ニ今名クル↢浄土ノ三部経↡也。或ハ又ハ名ク↢弥陀ノ三部経↡。又或師ノ云、「彼三部経ニ加テ↢¬鼓音声経ヲ¼↡名クト↢四部↡」。云云
およそ諸経のなかに、 あるいは往生浄土の法を説く経あり、 あるいは説かざる経あり。 ¬華厳経¼ にはこれを説けり、 すなはち ¬四十華厳¼ のなかの普賢の十願これなり。 ¬大般若経¼ のなかに総じてこれを説かず。 ¬法華経¼ のなかにはこれを説く、 すなはち 「薬王品」 の 「即往安楽世界」 の文これなり。 ¬涅槃経¼ のなかにはこれを説かず。 また真言宗のなかには、 ¬大日経¼・¬金剛頂経¼ の蓮華部にこれを説くといへども、 大日の分身なり、 別して説くにはあらず。 もろもろの小乗経にはすべてこれを説かず。 しかるに往生浄土の法を説くことは、 この三部経にはしかず。 ゆゑに浄土の一宗には、 この三部経をもつてその所依となせり。
◇凡ソ諸経ノ中ニ、或ハ有リ↧説ク↢往生浄土ノ法ヲ↡経↥、或ハ有↢不ル↠説経↡。¬華厳経ニハ¼説ケリ↠之、則¬四十華厳ノ¼中ノ普賢ノ十願是也。¬大般若経ノ¼中ニ総ジテ不↠説カ↠之。¬法華経ノ¼中ニハ説ク↠之、即「薬王品ノ」「即往安楽世界ノ」文是ナリ也。¬涅槃経ノ¼中ニハ不↠説↠之。又真言宗ノ中ニハ、¬大日経¼・¬金剛頂経ノ¼蓮華部ニ雖↠説ト↠之、大日ノ分身ナリ也、非↢別シテ説ニハ↡。諸ノ小乗経ニハ都テ不↠説↠之。然ニ説コトハ↢往生浄土ノ法ヲ↡、不↠如カ↢此ノ三部経ニハ↡。故ニ浄土ノ一宗ニハ、以テ↢此ノ三部経ヲ↡為リ↢其ノ所依ト↡。
・第一七日 浄土宗名
▲またこの浄土の法門において宗の名を立つること、 はじめて申すにあらず、 その証拠これ多し。 少々これを出せば、 元暁の ¬遊心安楽¼ に 「浄土宗の意、 もとは凡夫のため、 兼ねては聖人のため」 といへる、 その証なり。 かの元暁は華厳宗の祖師なり。 また慈恩の ¬西方要決¼ にいはく、 「この一宗による」 と。 またその証なり。 かの慈恩は法相宗の祖師なり。 また迦才の ¬浄土論¼ (序) にいはく、 「この一宗ひそかに要路となす」 と。 またその証なり。 また善導の ¬観経の疏¼ (散善義) にいはく、 「真宗遇ひがたし」 と。 またその証なり。 かの迦才・善導は、 ともにこの浄土一宗をもつぱらにする人なり。 自宗・他宗の釈すでにかくのごとし。
◇又於↢此ノ浄土ノ法門ニ↡立コト↢宗ノ名ヲ↡、非↢初テ申ニ↡、其ノ証拠多シ↠之。少々出バ↠之者、元暁¬遊心安楽ニ¼云ヘル↧「浄土宗ノ意、本為↢凡夫↡、兼為スト↦聖人↥」、其証也。彼ノ元暁ハ華厳宗ノ祖師也。又慈恩ノ¬西方要決¼云、「依ト↢此ノ一宗↡。」亦其ノ証也。彼ノ慈恩ハ法相宗ノ祖師也。又迦才ノ¬浄土論ニ¼云、「此ノ之一宗窃ニ為ト↢要路↡。」亦其ノ証也。又善導ノ¬観経ノ疏ニ¼云、「真宗叵ト↠遇。」亦其ノ証也。彼ノ迦才・善導ハ、倶ニ専0124スル↢此ノ浄土一宗ヲ↡之人也。自宗・他宗ノ釈既ニ如↠此。
・第一七日 師資相承
しかのみならず▲宗の名を立つることは、 天台・法相等の諸宗、 みな師資相承による。 しかるに浄土宗にすでに師資相承の血脈の次第あり。 いはゆる菩提流支三蔵・恵寵法師・道場法師・曇鸞法師・法上法師・道綽禅師・善導禅師・懐感禅師・小康法師等なり。 菩提流支より法上に至るまでは、 道綽の ¬安楽集¼ に出でたり。 自他宗の人師、 すでに浄土の一宗と名づく。 浄土宗の祖師、 また次第に相承す。 これによりていま相伝して浄土宗と名づくるなり。
◇加↠之立コト↢宗ノ名ヲ↡者、天臺・法相等ノ諸宗、皆由ル↢師資相承ニ↡。然ニ浄土宗ニ既ニ有↢師資相承ノ血脈ノ次第↡。所謂ル菩提流支三蔵・恵寵法師・道場法師・曇鸞法師・法上法師・道綽禅師・善導禅師・懐感禅師・小康法師等ナリ也。自リ↢菩提流支↡至マデハ↢法上↡者、出タリ↢道綽ノ¬安楽集ニ¼↡。自他宗ノ人師、既ニ名↢浄土ノ一宗ト↡。浄土宗ノ祖師、又次第ニ相承ス。依テ↠之ニ今相伝シテ名↢浄土宗ト↡也。
しかるにこの旨を知らざる輩、 いまだかつて八宗の外に浄土宗あることを聞かず等と難破する事のさうらへば、 いささか申し開きさうらふなり。 およそ諸宗の法門に、 浅深あり広狭あり。 すなはち真言・天台等の諸大乗宗は、 広くして深し。 倶舎・成実等の小乗宗は、 広くして浅し。 この浄土宗は、 狭くして浅し。 しかればかの諸宗は、 いまの時において機と教と想応せず。 教深くして機浅し、 教広くして機狭きがゆゑなり。 たとへば▽韻高くして和するもの少なきがごとし。 また小器に大きなる物を盛るがごとし。 ただこの一宗のみ、 機と教と相応せる法門なり。 ゆゑにこれを修せば、 かならず成就すべきなり。 しかればすなはちかの不相応の教において、 労して身心を費すことなかれ。 ただこの相応の法門に帰して、 すみやかに生死を出づべきなり。
◇然ニ不ル↠知↢此ノ旨ヲ↡之輩、未ダ↤曾テ聞↣八宗ノ外ニ有コトヲ↢浄土宗↡等ト難破スル事ノ候ヘバ者、聊申シ開候也。凡諸宗ノ法門ニ、有↢浅深↡有↢広狭↡。則真言・天臺等ノ諸大乗宗ハ者、広ニシテ而深シ。倶舎・成実等ノ小乗宗ハ者、広ニシテ而浅シ。此浄土宗ハ者、狭ニシテ而浅シ。然バ者彼ノ諸宗者、於テ↢今時ニ↡機与↠教不↢想応↡。教深シテ而機浅シ、教広シテ機狭ガ故ナリ也。譬バ如↢韻高シテ而和スルモノ少キガ。又如↣小器ニ盛ガ↢大物ヲ↡。唯此ノ一宗ノミ、機与↠教相応セル之法門也。故ニ修セバ↠之ヲ者、必ズ可↢成就↡也。然則於テ↢彼不相応ノ教ニ↡、莫↣労シテ費コト↢身心ヲ↡。唯帰シテ↢此ノ相応ノ法門ニ↡、速ニ可↠出↢生死ヲ↡也。
今日講讃せられたまへるところは、 この三部のなかの ¬双巻無量寿経¼ と ¬阿弥陀経¼ となり。
◇今日所ノ被タマヘル↢講讃↡者、此三部ノ中ノ¬双巻無量寿経ト¼¬阿弥陀経トナリ¼也。
・第一七日 大経
△まづ ¬無量寿経¼ に、 はじめに阿弥陀如来の因位の本願を説きて、 次にかの仏の果位の二報荘厳を説けり。 しかればこの ¬経¼ には阿弥陀仏の修因感果の功徳を説くなり。 すなはち上巻のはじめに説くところの四十八願等は、 かの仏因位の発願なり。 同巻の奥および下巻のはじめに説くところの浄土の荘厳ならびに衆生往生の因果は、 かの仏の果位の願成就なり。 一々の本誓、 一々の願成就、 経文にあきらかなり。 つぶさに釈するに遑あらず。
◇先ヅ¬無量寿経ニ¼、初ニ説↢阿弥陀如来ノ因位ノ本願ヲ↡、次ニ説ケリ↢彼ノ仏ノ果位ノ二報荘厳ヲ↡。然バ者0125此ノ¬経ニハ¼説↢阿弥陀仏ノ修因感果ノ功徳ヲ↡也。則上巻ノ初ニ所ノ↠説四十八願等ハ、彼仏因位ノ発願ナリ也。同巻ノ奥及ビ下巻ノ初ニ所ノ↠説浄土ノ荘厳并ニ衆生往生ノ因果ハ、彼ノ仏ノ果位ノ願成就也。一一ノ本誓、一一ノ願成就、経文ニ明ナリ也。不↠遑アラ↢具ニ釈スルニ↡。
そのなかに衆生往生の因果を説くは、 すなはち念仏往生の願成就の 「諸有衆生聞其名号」 (大経巻下) の文、 および三輩の文これなり。 もし善導の御意によらば、 この三輩の業因につきて正雑二行を立つべし。 ▲正行につきてまた二あり、 正定と助業となり。 三輩ともに (大経巻下) 「一向専念」 といへるは、 ▲すなはち正定業なり、 かの仏の本願に順ずるがゆゑに。 ▲またその外に助業あり雑行あり。
◇其中ニ説ハ↢衆生往生ノ因果ヲ↡者、則チ念仏往生ノ願成就ノ之「諸有衆生聞其名号ノ」文、及ビ三輩ノ文是也。若シ依バ↢善導ノ御意ニ↡者、就テ↢此三輩ノ業因ニ↡可↠立↢正雑二行ヲ↡。就テ↢正行ニ↡亦有↠二、正定ト助業トナリ也。三輩倶ニ云ヘルハ↢「一向専念ト」↡者、則正定業也、順ズルガ↢彼ノ仏ノ本願ニ↡故ニ。又其ノ外ニ有リ↢助業↡有リ↢雑行↡。
経の文を開くに ¬観経疏¼ の正雑二行に当れり。 このなかに中輩の文 (大経巻下) に 「▲起立塔像」 の句あり。 その像とは、 経文にはいづれの仏像といふこと見へずといへども、 懐感禅師の ¬群疑論¼ に都率と西方と十五の同の義を立つるなかに、 造像同といふ義あり。 それを釈するに弥陀の形像を造る証拠にこの中輩の起立塔像の文を引けり。 ゆゑに知りぬかの像とはこれ弥陀の形像、 往生の助業なりといふことを。
開クニ↢経ノ文ヲ↡当レリ¬観経疏ノ¼正雑二行ニ↡。此中ニ中輩ノ文ニ有↢「起立塔像ノ」句↡。其ノ像トハ者、経文ニハ雖↠不ト↠見ヘ↢何ノ仏像云コト↡、懐感禅師ノ¬群疑論ニ¼立ル↢都率ト西方ト十五ノ同ノ義ヲ↡中ニ、有リ↢造像同ト云之義↡。釈ルニ↠其ヲ造ル↢弥陀ノ形像↡之証拠ニ引ケリ↢此ノ中輩ノ起立塔像ノ文ヲ↡。故ニ知ヌ彼ノ像トハ者是弥陀ノ形像、往生ノ助業也ト云コトヲ。
▲およそこの三輩のなかにおのおの菩提心等の余善を説くといへども、 上の本願に望むるに、 もつぱら弥陀名号を称念せしむるにあり。 ゆゑに 「一向専念」 といへり。 上の本願とは、 四十八願のなかの第十八願を指す。 ▲一向の言は、 二向・三向に対する義なり。 もし念仏の外にならびて余善を修せば、 一向の義に背くべきなり。 往生を求めん人、 もつぱらこの ¬経¼ によりて、 かならずこの旨を意得べきなり。 ¬双巻経¼ の大意、 略してかくのごとし。
○凡ソ此ノ三輩ノ中ニ各雖↠説ト↢菩提心等ノ余善ヲ↡、望↢上ノ本願ニ↡、専在↠令ムルニ↣称↢念弥陀名号ヲ↡。故ニ云ヘリ↢「一向専念ト↡。」上ノ本願ト者、指↢四十八願ノ中ノ第十八願ヲ↡也。一向ノ之言ハ、対スル↢二向・三向ニ↡之義ナリ也。若シ念仏ノ外ニ並テ修バ↢余善ヲ↡者、可キ背ク↢一向ノ義ニ↡也。求ン↢往生ヲ↡人、専ラ依テ↢此0126ノ¬経ニ¼↡、必ズ可↣意↢得此ノ旨ヲ↡也。¬双巻経ノ¼大意、略シテ如シ↠此。
・第一七日 小経
△次に ¬阿弥陀経¼ は、 はじめに極楽世界の依正二報を説き、 次に一日七日の念仏を修して往生することを説き、 後に六方の諸仏念仏の一行において証拠護念したまふ旨を説けり。 すなはちこの ¬経¼ には余行を説かず選びて念仏の一行を説けり。
◇次ニ¬阿弥陀経¼者、初ニ説キ↢極楽世界ノ依正二報ヲ↡、次ニ説キ↧修シテ↢一日七日ノ念仏ヲ↡之往生スルコトヲ↥、後ニ説ケリ↧六方ノ諸仏於テ↢念仏ノ一行ニ↡証拠護念シタマフ之旨ヲ↥。則此ノ¬経ニハ¼不↠説↢余行↡而選テ説ケリ↢念仏ノ一行ヲ↡。
▽文 (小経) にいはく、 「不可以少善根福徳因縁得生彼国」 と説き、 「阿弥陀仏を説くを聞きて、 名号を執持すること、 もしは一日乃至七日、 一心不乱なれば、 その人命終の時に臨みて、 阿弥陀仏もろもろの聖衆とともに現にその前に在す。 この人終る時、 心顛倒せず、 すなはち往生を得」 と説けり。
文ニ云ク、説キ↢「不可以少善根福徳因縁得生彼国」↡、説ケリ↧「聞テ↠説ヲ↢阿弥陀仏↡、執↢持スルコト名号↡、若ハ一日乃至七日、一心不乱ナレバ、其ノ人臨↢命終ノ時ニ↡、阿弥陀仏与↢諸ノ聖衆↡現ニ在ス↢其ノ前ニ↡。是ノ人終時、心不↢顛倒↡、即得ト↦往生↥。」
ここに知りぬ余善は少善根なり、 念仏は多善根なり。 かの少善根の余行を修して往生することを得べからず、 この多善根念仏を修するはかならず往生を得べしといふことを。
爰ニ知ヌ余善ハ少善根也、念仏ハ多善根也。修シテ↢彼ノ少善根ノ余行ヲ↡不↠可↠得↢往生スルコトヲ↡、修スルハ↢此ノ多善根念仏↡必可ト云コトヲ↠得↢往生ヲ↡。
▽このゆゑに善導和尚 (法事讃巻下) この文を釈していはく、 「極楽無為涅槃界、 随縁雑善恐難生、 故使如来選要法、 教念弥陀専復専」 と。 云々 ¬阿弥陀経¼ の大意、 略してかくのごとし。
是ノ故ニ善導和尚釈シテ↢此ノ文ヲ↡云ク、「極楽無為涅槃界、随縁雑善恐難生、故使如来選要法、教念弥陀専復専。」 云云 ¬阿弥陀経ノ¼大意、略如シ↠斯ノ。
およそ念仏往生は、 これ弥陀如来の本願の行なり、 教主釈尊の選びたまへる要法なり、 六方諸仏の証誠したまへる説なり。 余行はしからず。 その旨経文および諸師の釈に具なり。 仏経の功徳、 略を存ずるにかくのごとし。 仰ぎ願はくは 云々。
○凡ソ念仏往生ハ、是弥陀如来ノ本願ノ行也、教主釈尊ノ選ビタマヘル要法也、六方諸仏ノ証誠シタマヘル説ナリ也。余行ハ不↠然。其ノ旨具ナリ↢経文及ビ諸師ノ釈ニ↡也。仏経ノ功徳、存ズルニ↠略ヲ如シ↠斯ノ。仰ギ願クハ 云云。
・第二七日
△第二七日。 ▽弥陀。 ▽¬観経¼・¬同疏¼ 一部。
・第二七日 阿弥陀仏
△この阿弥陀仏とは、 これより西方十万億の三千大千世界を過ぎ七宝荘厳の地あり、 名づけて極楽世界といふ、 これすなはちその土の教主なり。 御身の色は夜摩天の閻浮檀金の色のごとく、 御身の量は六十万億那由他恒河沙由旬なり。 およそ仏の功徳は言をもつて演べ尽すべからざれども、 伽陀を誦して称揚讃嘆したてまつるに足るべし。 すなはち 「▲面善円浄如満月」 (十二礼) と。 云云
此ノ阿弥陀仏トハ者、従リ↠是西方過ギ↢十万億ノ三千大千世界ヲ↡有リ↢七宝荘厳ノ地0127↡、名テ曰↢極楽世界ト↡、是則其ノ土ノ教主ナリ也。御身ノ色ハ如ク↢夜摩天閻浮檀金ノ色ノ↡、御身量ハ六十万億那由他恒河沙由旬ナリ也。凡仏ノ功徳ハ不レドモ↣以↠言可↢演ベ尽ス↡、誦シテ↢伽陀ヲ↡奉ルニ↢称揚讃嘆↡可↠足也。則「面善円浄如満月」。 云云
また経を釈するに仏の功徳も顕し、 仏を讃ずれば経の功徳も顕るるなり。 また疏は経の意を釈すれば、 疏を釈せんには経の意も顕るべし。 みなこれ同じき物なり、 まちまちに釈することあたはず。 しかれば経に就きて形のごとく讃嘆したてまつるべし。
○又釈スルニ↠経ヲ而仏ノ功徳モ顕シ、讃ズレバ↠仏ヲ者経ノ功徳モ顕ルヽ也。又疏ハ釈スレバ↢経ノ意ヲ↡者、釈センニハ↠疏ヲ経ノ意モ可シ↠顕ル。皆是同物也、不↠能↢区釈スルコト↡。然バ者就テ↠経ニ如↠形ノ可シ↠奉ル↢讃嘆シ↡。
・第二七日 観経
△振旦の人師経を釈するに、 大意・釈名・入文解釈の三意あり、 いましばらくこれを略すべし。 ただ要を取りてこれを釈せば、 いまこの ¬観無量寿経¼ に二の意あり。 はじめには定散二善を修して往生することを明かし、 次には名号を称して往生することを明かす。
振旦ノ人師釈スルニ↠経ヲ、有リ↢大意・釈名・入文解釈ノ三意↡、今且ク可シ↠略ス↠之ヲ。但取テ↠要ヲ釈バ↠之者、○今此ノ¬観無量寿経ニ¼有リ↢二ノ意↡。初ニハ明シ↧修シテ↢定散二善ヲ↡而往生スルコトヲ↥、次ニハ明ス↧称シテ↢名号ヲ↡而往生コトヲ↥。
・第二七日 観経 定散二善 定善
まづ定散の義を釈すとは、 仏韋提希夫人の請に趣きて、 光台のなかに十方の浄土を現じたまふ時、 韋提希 (観経)、 「▲我今楽生極楽世界」 といひて、 われにかの国に生ずることを教へたまへと申ししかば、 すなはちその請に趣きて、 ▲はじめ日想観より雑想観に至るまで、 十三観の想を説きたまへるなり。 これを定善と名づく。 この定善はすなはち現身に仏を見たてまつるなり。
先ヅ釈ハ↢定散ノ義ヲ↡者、仏趣テ↢韋提希夫人ノ請ニ↡、光台ノ中ニ現タマフ↢十方ノ浄土ヲ↡之時、韋提希云テ↢、「我今楽生極楽世界ト」↡、我ニ而申シヽカバ↠教タマヘト↠生コトヲ↢彼ノ国ニ↡者、則趣テ↢其ノ請ニ↡、始メ自リ↢日想観↡至マデ↢雑想観ニ↡、説タマヘルナリ↢十三観ノ想ヲ↡也。是ヲ名ク↢定善ト↡。此ノ定善ハ即現身ニ見タテマツル↠仏ヲ也。
・第二七日 観経 定散二善 定善 日想観
はじめ日想観には二、 八月の彼岸の日のまさに沈らんとする時、 まづ日を見て目を塞ぎて、 その日の有様を想ふ、 想ひ失はればまた目を開きて日を見る。 はじめはかやうにして日を想ひつくれば、 後には日もなき処にても心に想へば見るがごとくなるを、 日想観成就と申すなり。 目を閉じて想ふに日を見るはなほ観の浅き時なり。 目を閉じても目を開きても、 同じく自在に日を見るを、 観の深く成就すると申すなり。 この観成就する時は、 阿弥陀仏現じたまふありといふ事候へども、 それはあり難き事なり。 この日想観をもつて十三観のはじめに置くこと、 三義あり。
初メ日想観ニハ者二、八月ノ彼岸ノ日ノ将ニル↠沈ラント時、先見テ↠日ヲ塞テ↠目ヲ、想フ↢其日ノ有様ヲ↡、想ヒ失レバ者又開テ↠目ヲ見ル↠日ヲ。初ハ加様ニシテ而想ヒ↢付レバ日ヲ↡、後ニハ無キ↠日モ処ニテモ心ニ想ヘ者如ナルヲ↠見ガ、申ス↢日想観成就ト↡也。閉テ↠目ヲ想ニ見↠日ヲ者尚観ノ浅キ時ナリ也。閉テモ↠目開テモ↠目、同0128ク自在ニ見ヲ↠日ヲ、申スナリ↢観ノ之深ク成就スルト↡也。此ノ観成就スル時者、云フ↠有ト↢阿弥陀仏現ジタマフ↡事候ヘドモ、其ハ難キ↠有事也。以テ↢此ノ日想観ヲ↡置クコト↢十三観ノ初ニ↡、有リ↢三義↡。
一には光明に練習せしめんがためなり。 いはくかの極楽世界は光明赫奕として凡夫の眼をもつてただちに見ることあるべからず。 このゆゑにまず光ある物を観習して後にかの国をば観ずべきなり。 しかるにこの界において光あるもの日に越えたる物なし、 ゆゑにまづこの観を用ゐるなり。
一ニハ為↠令ンガ↣練↢習光明ニ也。謂ク彼ノ極楽世界ハ光明赫奕トシテ而不↠可↠有ル↧以テ↢凡夫ノ眼ヲ↡直ニ見コト↥。是ノ故ニ先ヅ観↢習シテ有ル↠光物ヲ↡之後ニ可↠観↢彼ノ国ヲバ↡也。而於テ↢此ノ界ニ↡有ルモノ↠光無シ↢越タル↠日ニ之物↡、故ニ先ヅ用↢此ノ観ヲ↡也。
二に罪障の軽重を知らしめんがためなり。 いはくこの観を作す時、 罪に随ひて日を見ること不同なり。 あるいは黒障黒雲の日を障ふるがごとく、 あるいは黄障黄雲の日を障ふるがごとく、 あるいは白障白雲の日を障ふるがごとく、 雲の日を覆ふがごとし。 衆生の業障の所観の境を障ふることもまたしかなり。 しかればこの相に随ひて、 無始以来の三業の罪障を懺悔すべき料なり。
二為↠令ンガ↠知↢罪障ノ軽重ヲ↡也。謂ク作ス↢此ノ観↡時、随テ↠罪ニ見コト↠日不同也。或ハ黒障如↢黒雲ノ障ガ↟日、或ハ黄障如↢黄雲ノ障ガ↟日、或ハ白障如↢白雲ノ障ガ↟日ヲ、如↢雲ノ覆ガ↟日。衆生ノ業障之障ルコトモ↢所観ノ境ヲ↡亦爾ナリ。然バ者随テ↢此ノ相ニ↡、可キ↣懺↢悔無始已来ノ三業ノ罪障ヲ之料也。
三には極楽の方処を知らしめんがためなり。 いはくかの国はすなはち西方に在り、 日没の方もまた西方なり。 かの国は二季の彼岸の日入る処に当れり。 これによりてはじめにはこの観を修するに、 かならず二季の彼岸の日のまさしく東に出でてまさしく西に入らん時に目を開き目を閉じて日を見るべしといふなり。
三ニハ為↠令ンガ↠知↢極楽ノ方処ヲ↡也。謂ク彼ノ国ハ則在リ↢西方ニ↡、日没ノ方モ亦西方ナリ也。彼ノ国ハ当レリ↢二季ノ彼岸ノ日入ル処ニ↡。因↠之修スル↢初ニハ此ノ観ヲ↡、必ズ二季ノ彼岸之日ノ正ク東ニ出デヽ正ク西ニ入ラン時ニ開キ↠目ヲ閉テ↠目ヲ可↠見↠日ヲ云也。
・第二七日 観経 定散二善 定善 水想観
次に水想観とは、 極楽世界の瑠璃の地を観んとするに、 凡夫具縛の衆生は、 無始よりこのかたいまだ見ざる事なれば、 ただちに観んと欲すとも、 成就せん事難きがゆゑに、 まづ水を見、 後に目を閉じて水を想ふ。 これまた前の日想観のごとく、 観の浅深も前のごとし。 水想成就して水を見ること、 目を閉じ目を開き自在を得つれば、 水を変じて氷の想を作す。 氷を観じ作して後に氷を変じてまた瑠璃の想を作す、 氷は瑠璃に似たるがゆゑなり。 詮ずるところは水想も瑠璃の地を観じ顕さん料の方便なり。
次ニ水想観トハ者、将ルニ↠観ント↢極楽世界ノ瑠璃ノ地ヲ↡、凡夫具縛ノ衆生ハ、従リ↢無始↡已来未ダ↠見事ナレバ者、欲ストモ↢直ニ観ト↡、成就セン事難キガ故ニ、先ヅ見↠水ヲ、後ニ閉テ↠目想フ↠水ヲ。是亦如ク↢前ノ日想観ノ、観ノ浅深モ如↠前ノ。水想成就シテ見コト↠水ヲ、閉↠目開↠目得ツレバ↢自在ヲ↡者、変ジテ↠水ヲ作ス↢氷ノ想ヲ↡。観ジ↢作シテ氷↡後ニ変ジテ↠氷ヲ又作ス↢瑠璃ノ想ヲ↡、氷ハ似タルガ↢瑠璃ニ↡故也。所ハ↠詮ズル水想モ観ジ↢顕サン瑠璃0129ノ地ヲ↡之料ノ方便也。
・第二七日 観経 定散二善 定善 地想観
次に地想観とはすなはち前の水想観次第に成就しぬれば、 地想観も成就する事なり。 その瑠璃地の下に金剛の七宝の金幢ありて地を擎げたり。 その擎げたる金幢をば、 善導の御意 (礼讃意) は 「▲無量無数なり」 といへり。 他師の意はただ一つの金幢ありて地を擎げ、 その幢八方にして八楞具足すと見ゆ。 云々 八楞とは八つの傍といへり、 楞はすなはち傍なり。
次ニ地想観トハ者則前ノ水想観次第ニ成就シヌレバ者、地想観モ成就スル事也。其瑠璃地ノ下ニ有テ↢金剛ノ七宝ノ金幢↡擎タリ↠地ヲ。其擎タル金幢ヲバ、善導ノ御意ハ云ヘリ↢「無量無数ナリト」↡。他師ノ意ハ見↧但有テ↢一ノ金幢↡擎↠地ヲ、其ノ幢八方ニシテ八楞具足スト↥。云云 八楞トハ者云ヘリ↢八之傍ト↡、楞ハ則傍也。
仏 ¬法華経¼ を説きたまふ時、 娑婆の地転じて瑠璃地と成れり。 この観成就の時もまたしかなり。 仏ことに未来世の衆生のためにこの観地の法を説くとのたまひて、 この観想をばことに勧むるなり。
仏説タマフ↢¬法華経ヲ¼↡時、娑婆ノ地転ジテ成レリ↢瑠璃地ト↡。此ノ観成就ノ時モ亦爾ナリ。仏言タマヒテ↧殊ニ為↢未来世ノ衆生ノ↡説ト↦此ノ観地ノ法ヲ↥、此ノ観想ヲバ殊ニ勧也。
¬観経の疏¼ の第三のはじめにこの観を釈する下に、 ¬清浄覚経¼ (巻四意) の信不信の因縁の文を引けり。 この文の意は、 「浄土の法を説くを聞きて、 信向して身の毛竪つものは、 過去にしてこの法門を聞きて、 いまかさねて聞く人なり。 いま信ずるがゆゑに、 決定して浄土に往生すべし。 また聞くとも聞かざるがごとく、 総じて信向せざるものは、 はじめて三悪道より来りて、 罪障いまだ尽きざれば、 心に信向なきなり。 いま信ぜざるがゆゑに、 また生死を出づることあるべからず」 等いへるなり。 詮じては往生人のこの法をば信じ候ふなり。
¬観経ノ疏ノ¼第三ノ初ニ釈↢此観ヲ↡之下ニ、○引ケリ¬清浄覚経ノ¼信不信因縁ノ文ヲ↡。此ノ文意ハ、「聞テ↠説ヲ↢浄土ノ法ヲ↡、信向シテ身毛竪者ハ、過去ニシテ聞テ↢此法門ヲ↡、今重テ聞ク人也。今信ズルガ故ニ、決定シテ可↣往↢生ス浄土ニ↡。又聞トモ如ク↠不ルガ↠聞、総ジテ不ル↢信向↡者ハ、始テ自↢三悪道↡来テ、罪障未ダレバ↠尽、心ニ無↢信向↡也。今不↠信故ニ、又不↠可↠有↠出ルコト↢生死ヲ↡」等云ヘル也。詮ジテハ往生人之信ジ↢此法ヲバ↡候也。
・第二七日 観経 定散二善 定善 宝樹・宝池・宝楼観
次に宝樹観、 次に宝池観、 次に宝楼観。 これらはことごとく釈成するにあたはず、 経文およびこの ¬疏¼ に具なり。 かくのごとく依報を讃嘆するも、 すなはち阿弥陀仏観を讃嘆したてまつる 云々。
次ニ宝樹観、次宝池観、次宝楼観。此等不↠能↢悉ク釈成スルニ↡、経文及ビ此ノ¬疏ニ¼具ナリ也。如↠是ノ讃↢嘆スルモ依報ヲ↡、則奉ル↣讃↢嘆阿弥陀仏観ヲ↡ 云云。
・第二七日 観経 定散二善 定善 観音・勢至観
次に観音観、 次に勢至観。 かの国に無量の聖衆ありといへども、 要を取るにこの左右の二菩薩なり。 ゆゑにこの二菩薩ばかりを讃じて、 余の菩薩をば略して出さず。
次ニ観音観、次ニ勢至観。彼ノ国ニ雖↠有ト↢無量ノ聖衆↡、取ルニ↠要ヲ此ノ左右ノ二菩薩也。故ニ讃テ↢此ノ二菩薩許リヲ↡、余ノ菩薩ヲバ略シテ不↠出也。
・第二七日 観経 定散二善 定善 普観
次に普観想とは、 これみづからの往生の観なり。 いまだ臨終の時にあらずといへども、 すでに往生の想を作すなり。
次ニ普観想トハ者、是自ノ往生ノ之観也。雖↠未ダ↢臨終ノ時ニアラ↡、作ス↢已ニ往生ノ想↡也。
大安寺に勝行聖人といふものありき、 これ五輪観を成就したる人なり。 件の上人毎日塗籠に立ち籠りて、 よく久しくありて出でたり。 弟子どもこれを怪みて後の墻の穴よりひそかにこれを望むるに、 上人は見えずして半畳の上にただ水の湛へたるのみあり。 僻事か実事かを知らんがために、 弟子ら鬀砥をその水のなかに投げ入れて見れば、 まことに水なり。 不思議の思を作しておのおの去りぬ。 しばらくありて師の上人塗籠より出でて、 たちまちに腹中を痛みて、 弟子らに問ひていはく、 われ内に入りたる時、 なんぢら見つるか、 また何事かありつる等と。 弟子遁れがたくして実に任せて師に申しつ。
有キ↢大安0130寺ニ勝行聖人ト云者↡、是成↢就タル五輪観ヲ↡之人ナリ也。件ノ上人毎日立↢篭テ塗篭ニ↡、良久ク在テ出タリ。弟子共怪テ↠之ヲ後ノ墻ノ穴ヨリ窃ニ望ニ↠之、上人ハ不シテ↠見ヘ而半畳ノ上ニ只有リ↢水ノ湛タルノミ↡。為ニ↠知ガ↢僻事カ実事カヲ↡、弟子等投↢入テ鬀砥ヲ於其ノ水ノ中ニ↡而見レバ者、誠ニ水ナリ也。作↢不思議ノ思ヲ↡各去ヌ。暫ク在テ師ノ上人従↢塗篭↡出デヽ、忽ニ痛ミテ↢腹中ヲ↡、問テ↢弟子等↡云、我入タル↠内ニ時、汝等見ツル歟、又有ツル↢何事カ↡等ト。弟子難シテ↠遁レ而任テ↠実ニ申シツ↠師ニ。
その時師のいはく、 われまた入らん時件の髪鬀砥を取るべしと。 弟子らこれを承けて、 次の日また見れば上人見えず、 半畳の上にただ火焔の燃ゆるのみあり。 その火中に砥あり、 弟子らその砥を取り出だす。 師出でて腹のなかの苦痛たちまちに平復しぬ。
其ノ時師ノ云、我亦入ラン時可ト↠取ル↢件髪鬀砥ヲ↡。弟子等承テ↠之、次ノ日又見レバ上人不↠見、半畳ノ上ニ只有リ↢火焔ノ之燃ユルノミ↡。其ノ火中ニ有リ↠砥、弟子等取↢出ス其ノ砥ヲ。師出デヽ腹ノ中ノ苦痛忽ニ平復シヌ。
また次の日見れば、 半畳の上に一茎の蓮華生ぜり。 これらの相を見て、 弟子怪みて師に問ふに、 答へていはく、 われ水輪三昧に入る時は水となり、 火輪三昧に入る時は火となり、 蓮華三昧に入る時は化して蓮華となるなり。 また現に極楽世界に往生するなりといひき 矣。
又次ノ日見レバ者、半畳ノ上ニ一茎ノ蓮華生ゼリ。見テ↢此等ノ相ヲ↡、弟子怪テ問ニ↠師ニ、答曰、我入↢水輪三昧ニ↡時ハ成↠水ト、入↢火輪三昧↡時ハ成↠火、入↢蓮華三昧↡時ハ化成↢蓮華ト↡也。又現ニ往↢生スルナリト極楽世界ニ↡也云キ 矣。
しかればまさしくこの ¬経¼ の説のごとく、 あまねく往生の観を修習せずといへども現身に極楽に詣ずることあり、 いかにいはんや平生に往生観を凝らすをや。 かの上人は真言宗の人なり 云々。
然バ者正ク如ク↢此ノ¬経ノ¼説ノ↡、雖↠不ト↣遍ク修↢習セ往生ノ観ヲ↡而有リ↢現身詣ルコト↢極楽ニ↡、何況ヤ平生ニ凝ヲヤ↢往生観ヲ↡也。彼ノ上人ハ真言宗ノ人ナリ 云云。
また唐土の明胆といふ人は、 十三観のなかに日想より普往生観に至るまで、 十二観成就したる人なり。 われらがごとき観ぜんと欲せば、 かならず成就すべきなり。 すなはちこの ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲無量寿仏身量無辺、 非是凡夫心力処及。 然彼如来宿願力故、 有憶想者必得成就」 と。 云々
又唐土ノ明胆ト云人ハ、十三観ノ中ニ自↢日想↡至マデ普往生観↡、十二観成就シタル人也。如キ↢我等↡欲バ↠観ント者、必可↢成就↡也。即此ノ¬経ニ¼云ク、「無量寿仏身量無辺、非是凡夫心力処及。然彼如来宿願力故、有憶想0131者必得成就。」 云云
・第二七日 観経 定散二善 定善 雑想観
次に雑想観とは、 かの仏の六十万億那由他恒河沙由旬の大身量を縮めて、 丈六八尺の小身の有様を観ずるなり。 これはこれ十三の定善なり。
次ニ雑想観トハ者、縮↢彼仏六十万億那由他恒河沙由旬ノ之大身量ヲ↡、観ズル↢丈六八尺之小身之有様↡也。此ハ是十三之定善ナリ也。
・第二七日 観経 定散二善 散善
次に散善とは、 三福九品なり。 ただし天台等の意は、 十三観の上に九品の三輩観を加へて、 十六想観と名づく。 いま定散二善を分ちて十三を定善と名づけ、 三福九品を散善と名づくるは、 善導一師の御意なり。
次ニ散善ト者、三福九品也。○但シ天臺等ノ意ハ、十三観ノ上ニ加テ↢九品ノ之三輩観ヲ↡、名ク↢十六想観ト↡。今分テ↢定散二善ヲ↡而十三ヲ名ケ↢定善ト↡、三福九品ヲ名クルハ↢散善ト↡者、善導一師ノ御意ナリ也。
・第二七日 観経 定散二善 散善 三福 孝養父母
▽まづ三福とは、 「一には孝養父母」 (観経) とは、 世間の孝養あり出世の孝養あり。 世間の孝養とは、 俗書 (孝経) にいはく、 「身を立てて道を行ひて、 名を後世に揚げて、 もつて父母を顕すは、 孝の終なり」 と申して、 世において名誉あるに好き者かな、 これは某が子ぞといはるるをもつて、 孝養の極とするなり。 出世の孝養とは、 父母を勧めて菩提の道に入る、 これ真実の孝養なり。
先ヅ三福トハ者、「一ニハ孝養父母」者、有リ↢世間ノ孝養↡有リ↢出世ノ孝養。世間ノ孝養トハ者、俗書ニ云、「立テ↠身行テ↠道、揚テ↢名ヲ後世ニ↡、以顕ハ↢父母ヲ↡、孝ノ終リ也ト」申シテ、於↠世ニ有ニ↢名誉↡而以テ↢好キ者哉、是ハ某ガ子ゾト被ルヲ↠云ハ、為↢孝養ノ極ト↡也。出世孝養トハ者、勧テ↢父母ヲ↡入ル↢菩提ノ道ニ↡、是真実ノ孝養也。
・第二七日 観経 定散二善 散善 三福 奉事師長
▽次に 「奉事師長」 とは、 (浄信誡観巻下) 「父母は七生、 師僧は累劫」 といひて師の恩は父母の恩にも勝るなり。 しかれば雪山童子の半偈を聞きし、 身を投げて羅刹の恩を報じ、 常啼菩薩の般若を求めし、 身を割きて曇無竭菩薩に供養しき。
次ニ「奉事師長トハ」者、云テ↢「父母ハ七生、師僧ハ累劫」↡而師ノ恩ハ勝ル↢父母ノ恩ニモ↡也。然者雪山童子ノ之聞シ↢半偈ヲ↡、投テ↠身ヲ而報ジ↢羅刹ノ恩ヲ↡、常啼菩薩ノ之求シ↢般若ヲ↡、割テ↠身ヲ供↢養シキ曇無竭菩薩ニ↡。
・第二七日 観経 定散二善 散善 三福 慈心不殺修十善業
▽次に 「慈心不殺修十善業」 (観経) とは 云々。
次ニ「慈心不殺修十善業トハ」者 云云。
・第二七日 観経 定散二善 散善 三福 受持三帰
▽「二者受持三帰」 とは 云々。
「二者受持三帰トハ」者 云云。
・第二七日 観経 定散二善 散善 三福 具足衆戒
▽次に 「具足衆戒」 とは、 これに大乗戒あり小乗戒あり。 小乗は、 僧の戒は二百五十戒なり、 尼の戒は五百戒なり。 大乗は、 七衆通じて十重・四十八軽の五十八戒を受くるなり。
次ニ「具足衆戒トハ」者、此ニ有↢大乗戒↡有↢小乗戒↡。小乗者、僧ノ戒ハ二百五十戒也、尼ノ戒ハ者五百戒也。大乗者、七衆通ジテ受ル↢十重・四十八軽ノ之五十八戒ヲ↡也。
・第二七日 観経 定散二善 散善 三福 不犯威儀
▽次に 「不犯威儀」 とは、 戒につきて軽を威儀と名づけ、 重を戒と名づく。 大乗には八万の威儀、 小乗は三千の威儀なり。
次ニ「不犯0132威儀トハ」者、付テ↠戒ニ軽ヲ名ケ↢威儀↡、重ヲ名ク↠戒ト也。大乗ニハ八万威儀、小乗ハ三千ノ威儀ナリ也。
・第二七日 観経 定散二善 散善 三福 発菩提心
▽次に 「発菩提心」 とは、 諸宗の意不同なり。 いま浄土宗の菩提心とは、 まづ浄土に往生して、 一切衆生を度し、 一切の煩悩を断じ、 一切の法門を悟り、 無上菩提を証せんと欲する心なり。
次ニ「発菩提心トハ」者、諸宗ノ意不同也。今浄土宗ノ菩提心ト者、先往↢生シテ浄土ニ↡、欲スル↧度シ↢一切衆生ヲ↡、断ジ↢一切ノ煩悩ヲ↡、悟リ↢一切ノ法門ヲ↡、証ント↦無上菩提ヲ↥之心ナリ也。
・第二七日 観経 定散二善 散善 三福 深信因果
▽次に 「深信因果」 とは、 世間の因果あり出世の因果あり。 世間の因果とは、 すなはち六道の因果なり、 出世の因果とは、 すなはち四聖の因果なり。 一代聖教の所説、 この六道四聖の因果を出でず。 このゆゑに一代の説教、 しかしながらこの一句に摂するなり。
次ニ「深信因果トハ」者、有リ↢世間ノ因果↡有リ↢出世ノ因果↡。世間ノ因果トハ者、即六道ノ因果也、出世ノ因果トハ者、即四聖ノ因果ナリ也。一代聖教ノ所説、不↠出↢此ノ六道四聖ノ因果ヲ↡。是ノ故ニ一代ノ説教、併ラ摂スル↢此一句ニ↡也。
・第二七日 観経 定散二善 散善 三福 読誦大乗
▽次に 「読誦大乗」 とは、 通じて一切の顕密の諸大乗経を指す、 別して一両の経を読誦するにはあらず。 読誦は、 五種の法師のなかには二を挙げ余の三を顕し、 十種法師のなかには、 二種法師を出だして余の八種の法行を明かすなり。 しかれば顕密の一切の大乗において、 受持・読誦・解説・書写する等、 みなこれ往生の業なり。 小乗を読誦するは、 往生の業にはあらず。 また ¬中辺論¼ (意) にいはく、 「十種法行を施することは、 ただ大乗に限る」 と。 云々 この ¬経¼ (観経) の意、 またこの 「読誦大乗」 の一句に諸大乗経を摂するなり。
次ニ「読誦大乗トハ」者、通ジテ指ス↢一切ノ顕密ノ諸大乗経ヲ↡、非ズ↣別シテ読↢誦スルニハ一両ノ経ヲ↡。読誦ハ、五種ノ法師ノ中ニハ挙↠二ヲ顕シ↢余ノ三ヲ↡、十種法師ノ中ニハ、出シテ↢二種法師ヲ↡明ス↢余ノ八種ノ法行ヲ↡也。然バ者於テ↢顕密ノ一切ノ大乗ニ↡、受持・読誦・解説・書写スル等、皆是往生ノ業ナリ也。読↢誦ハ小乗ヲ↡、非↢往生ノ業ニハ↡。又¬中辺論ニ¼云ク、「施コトハ↢十種法行ヲ↡者、但限ト↢大乗ニ↡。」 云云 此ノ¬経ノ¼意、又此ノ「読誦大乗ノ」一句ニ摂スルナリ↢諸大乗経ヲ↡也。
しかれば華厳・般若・方等の諸経、 法華・涅槃みなこの句のなかに摂すべし。 ただ顕のみにあらず、 密教もまたしかなり。 ¬大日経¼ も ¬金剛頂経¼ も乃至諸尊の別法も、 みなことごとくこのなかに摂す。 ¬貞元入蔵の録¼ に顕密つぶさに大乗の目録に入れたるなり。 恵心の僧都の ¬往生要集¼ にも往生の行に二門を立つるに、 はじめには念仏往生、 次には諸行往生なり。 念仏往生をば五念の行をもつてこれを釈成し、 諸行往生の篇には十三の観行を挙げたり。 そのなかにすなはち 「読誦大乗」 あり。
然バ者華厳・般若・方等ノ諸経、法華・涅槃皆可↠摂ス↢此ノ句ノ中ニ↡。非ズ↢啻顕ノミニ↡、密教モ又爾ナリ。¬大日経モ¼¬金剛頂経モ¼乃至諸尊ノ別法モ、皆悉ク摂ス↢此ノ中ニ↡。¬貞元入蔵ノ録ニ¼顕密倶ニ入タル↢大乗ノ目録ニ↡也。恵心ノ僧都ノ¬往生要集ニモ¼往生ノ行ニ立ニ↢二門ヲ↡、初ニハ念仏往生、次ニハ諸行往生ナリ。念仏往生ヲバ以↢五念0133ノ行ヲ↡釈↢成シ之↡、諸行往生ノ篇ニハ挙タリ↢十三ノ観行↡。其ノ中ニ即有↢「読誦大乗」↡。
また (要集巻下) 「▲往生の行業、 総じてこれをいはば、 ¬梵網¼ の戒品を出でず」 といへり。 これに准じてこれを思ふに、 往生の行業この ¬経¼ の三福の業をば出でず。 ¬梵網¼ の戒品といふも、 すなはち具足衆戒の一句なり。 そのなかになほ大乗戒ばかりなり。 この 「読誦大乗」 の句のなかに一切を摂するのみにあらず、 いふところの 「具足衆戒」 の句のなかにも、 「深信因果」 の句のなかにも、 「受持三帰」 の句、 「発菩提心」 の句、 一々にみな一代の聖教を摂し、 一切の万行を摂したり。
又云ヘリ↢「往生ノ行業、総ジテ而言バ↠之、不ト↟出デ¬梵網ノ¼戒品ヲ↡。」准ジテ↠之思ニ↠之、往生ノ行業不↠出↢此ノ¬経ノ¼三福ノ業ヲバ↡矣。云モ↢¬梵網¼戒品ト↡、則具足衆戒之ノ一句也。其ノ中ニ猶大乗戒許リ也。非↣此ノ「読誦大乗ノ」句ノ中ニ摂ノミニ↢一切ヲ↡、所ノ↠言「具足衆戒ノ」句ノ中ニモ、「深信因果ノ」句ノ中ニモ、「受持三帰ノ」句、「発菩提心ノ」句、一一ニ皆摂シ↢一代ノ聖教ヲ↡、摂タリ↢一切ノ万行ヲ↡。
この ¬経¼ をもつて諸経を尋ぬれば、 ¬華厳経¼ は八十・六十の華厳には往生浄土を説かず。 ¬四十華厳¼ の普賢十願のなかにこれを説く。 ¬法華経¼ には 「薬王品」 に 「即住安楽世界」 と説けり。 これらは二度往生を説くなり。 しかるゆゑは、 この ¬観経¼ に総じて諸大乗経を受持読誦して往生すといふ事を説く時に、 ¬華厳¼・¬法華¼ を受持しても往生すべしといふ事顕れたるうへ、 別しておのおのの経のなかに説くはすなはち二度説くなり。 ¬大般若¼ には往生を説かずといへども、 この ¬観経¼ の説によりて、 かの ¬経¼ を読誦しても往生するなり。 すなはち唐土に常敏といふ人あり、 宣旨を申して、 ¬大般若¼ を勧めて書写して往生を遂ぐといふ事の候ふなり。 余のもろもろの大乗経をもこれに准じて知るべし。
以↢此¬経ヲ¼↡尋レバ↢諸経ヲ↡者、¬華厳経ハ¼八十・六十ノ華厳ニハ不↠説↢往生浄土ヲ↡。¬四十華厳ノ¼普賢十願ノ中ニ説ク↠之ヲ。¬法華経ニハ¼「薬王品ニ」説ケリ↢「即住安楽世界ト」。此等ハ二度説ナリ↢往生ヲ↡也。然ル故ハ者、此¬観経ニ¼総ジテ説ク↧受↢持読↣誦シテ諸大乗経ヲ↡而往生スト云事ヲ↥時ニ、受↢持シテモ於¬華厳¼・¬法華ヲ¼↡可ト云コト↢往生↡事顕タル上、別シテ各各ノ経ノ中ニ説ハ則二度説クナリ也。¬大般若ニハ¼雖↠不ト↠説↢往生ヲ↡、依テ↢此ノ¬観経ノ¼説ニ↡、読↢誦シテモ彼ノ¬経ヲ¼↡往生スル也。即唐土ニ有↢常敏ト云人↡、申シテ↢宣旨ヲ↡、勧テ↢¬大般若ヲ¼↡書写シテ遂グ↢往生ヲ↡云事ノ候也。余ノ諸ノ大乗経ヲモ准テ↠之ニ可↠知ル。
・第二七日 観経 定散二善 散善 三福 勧進行者
▽次に 「勧進行者」 (観経) とは、 聖道・浄土二門の勧進あり。 浄土宗の意、 一代諸教・諸宗の法門、 この聖道・浄土の二門を出でず。 八宗・九宗はすなはち聖道門なり、 いまわが往生浄土の法門はすなはち浄土門なり。 しかればこの二門につきて、 おのおの行者あるべし。 いはく聖道の行者、 浄土の行者なり。 かれをもこれをも勧めんは、 みな勧進行者なり。 ただし小乗戒を勧進しては、 往生を得がたきか。 浄土を勧むれば、 いま少しき往生の便あるべきか。
次ニ「勧進行者トハ」者、有↢聖道・浄土二門ノ勧進↡。浄土宗ノ意、一代諸教・諸宗ノ法門、不↠出↢此ノ聖道・浄土ノ二門ヲ↡。八宗・九宗ハ則聖道門ナリ也、今我ガ往生浄土ノ法門ハ則浄土門ナリ也。然バ者就↢此ノ二門ニ↡、各可0134シ↠有ル↢行者↡。謂ク聖道ノ之行者、浄土ノ行者也。勧メンハ↢彼ヲモ此ヲモ↡、皆勧進行者也。但勧進シテハ↢小乗戒ヲ↡、難↠得↢往生ヲ↡歟。勧レバ↢浄土ヲ↡、今少キ可↠有ル↢往生ノ便リ↡歟。
房翥といふ人ありき、 一人を勧めて念仏を修せしめ、 その人その念仏の力によりて往生を遂ぐ。 しかるあひだ房翥臨終して、 閻魔の庁において善悪を判ぜられし刻に、 この勧進の功徳によりてすなはち閻魔の庭より往生したりといふ事候ふなり。 三福の業、 略を存ずるにかくのごとし。
有リキ↢房翥ト云人↡、勧メテ↢一人ヲ↡令↠修↢念仏ヲ↡、其ノ人依テ↢其ノ念仏ノ力ニ↡遂↢往生ヲ↡矣。然ル間房翥臨終シテ、於↢閻魔ノ庁ニ↡被↠判↢善悪↡之刻ニ、依テ↢此勧進ノ功徳ニ即自↢閻魔之庭↡往生シタリト云事候ナリ也。三福ノ業、存↠略如シ↠斯。
・第二七日 観経 定散二善 散善 九品 上品上生
次に九品とは、 まづ上品上生とは、 はじめに (観経) 「▲具三心者必生彼国」 と説き、 次 (観経) に 「▲又三種衆生当得往生」 と説けり。
次九品トハ者、先上品上生トハ者、初ニ説↢「具三心者必生彼国ト」↡、次ニ説ケリ↢「又三種衆生当得往生ト」↡。
三心とは、 善導和尚の御意、 別の行業にあらず、 総じて往生の法則なり。 文は上上に在りといへども、 義は下下に通ずべし。 ただし三心の浅深に随ひて、 九品の階位あるべきなり。 しかれば始め上上品より終り下下品に至るまで、 三心を具足して、 かならず往生することを得。 ゆゑに (礼讃) 「▲若少一心即不得生」 といへり。 ただし天台等の諸師の意はしからず。
三心トハ者、善導和尚ノ御意、非↢別ノ行業ニ↡、総ジテ往生ノ法則ナリ也。文ハ雖↠在ト↢上上ニ↡、義ハ可シ↠通↢下下ニ↡。但随テ↢三心ノ浅深ニ↡、可↠有ル↢九品ノ階位↡也。然バ者始自リ↢上上品↡終リ至マデ↢下下品ニ↡、具↢足シテ三心ヲ↡、必得↢往生スルコトヲ↡。故ニ云ヘリ↢「若少一心即不得生ト」↡。但天臺等ノ諸師ノ意ハ不↠爾矣。
三種の衆生とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲一には慈心にして殺さず、 もろもろの戒行を具す。 二には大乗方等経典を読誦す。 三には六念を修行す」 と。 云々
三種衆生トハ者、¬経ニ¼云ク、「一ニハ者慈心ニシテ不殺、具↢諸ノ戒行ヲ↡。二ニハ者読↢誦大乗方等経典ヲ↡。三ニハ者修↢行ス六念ヲ↡。」 云云
善導 (玄義分意) これを釈していはく、 「▲一はただよく戒を持ち慈を修す。 二は戒を持すること慈を修することあたはざれども、 ただよく大乗を読誦するなり。 三は持戒・読経にあたはざれども、 ただよく仏法僧を念ずるなり。 ◆この三人おのおのおのが業をもつて心を励まして、 一日一夜乃至七日七夜勇猛に勤行すれば、 かならず上品上生に生ず。 ▲これ仏滅後の大乗極善の上品凡夫なり。 日数少なしといへども、 修業の時節猛しきがゆゑなり。」 云々 かの三種の業は一人してみな行ずべきにはあらず、 おのおの一つ一つ行ずべきなり。 その旨この釈にあきらかなり。
善導釈シテ↠之ヲ言ク、「一ハ但能ク持チ↠戒ヲ修ス↠慈ヲ。二ハ不レドモ↠能↢持スルコト↠戒ヲ修コト↟慈ヲ、但能読↢誦スル也大乗ヲ↡。三ハ不レドモ能↢持戒・読経ニ↡、但能ク念↢仏法僧ヲ↡也。此ノ之三人各オノ以テ↢己ガ業ヲ↡励シテ↠心ヲ、一日一夜乃至七日七夜勇猛ニ勤行スレバ者、必生ズ↢上品上生ニ↡。是仏滅後ノ大乗極善ノ上品凡夫ナリ。日0135数雖↠少ト、修業ノ時節猛シキガ故也。」 云云 彼ノ三種ノ業ハ非↢一人シテ皆可ニハ↟行、各一ツ一可↠行ズ也。其ノ旨此ノ釈ニ明ナリ也。
・第二七日 観経 定散二善 散善 九品 上品中生
次に上品中生とは、 ¬経¼ (観経) に「▲善解義趣、 於第一義、 心不驚動、 深信因果、 不謗大乗」 と説く、 これすなはち理観の往生なり。 諸宗の理観その義不同なり。 天台宗には一心三観、 真言宗には阿字本不生、 法相宗には五重唯識、 三論宗には勝義皆空なり。 しかればおのおの宗に随ひて理観を修するもの、 往生を遂ぐべきなり。
次ニ上品中生トハ者、¬経ニ¼説↢「善解義趣、於第一義、心不驚動、深信因果、不謗大乗ト」↡、是則理観ノ往生也。諸宗ノ理観其ノ義不同也。天臺宗ニハ一心三観、真言宗ニハ阿字本不生、法相宗五重唯識、三論宗ニハ勝義皆空也。然バ者各随テ↠宗ニ修ル↢理観ヲ↡者、可↠遂グ↢往生ヲ↡也。
いましばらく善導の御意によらば、 ただよく善解していまだその行を論ぜず、 かならずしも観を修すべしとは見えず、 ただ大乗空の義をよく意得たるばかりなり。 すなはちその釈 (散善義) にいはく、 「▲善く大乗空の義を解す。 あるいは諸法は一切皆空なり、 生死無為もまた空なり、 凡聖明闇もまた空なり、 世間の六道、 出世間の三賢・十聖等も、 もしその体性に望むれば畢竟不二なりと聴聞せんに、 この説を聞くといへども、 その心怛然として疑滞を生ぜずとなり。」 云々 また (散善義) 「▲深く世出世の苦楽二種の因果を信じ、 およびもろもろの道理において疑謗を生ぜず」 といへり。 云々
今且ク依バ↢善導ノ御意ニ↡者、但能善解シテ未↠論ゼ↢其ノ行ヲ↡、不↠見ヘ↢必シモ可トハ↟修↠観ヲ、但大乗空ノ義ヲ能得タル↠意許リナリ也。即其ノ釈ニ云ク、「善ク解↢大乗空ノ義ヲ↡。或ハ聴↧聞ンニ諸法ハ一切皆空ナリ、生死無為モ亦空ナリ、凡聖明闇モ亦空ナリ、世間ノ六道、出世間ノ三賢・十聖等モ、若望レバ↢其体性ニ畢竟不二ナリト↥、雖↠聞ト↢此ノ説↡、其ノ心怛タン然トシテ不ト↠生↢疑滞ヲ↡也。」云云 又云ヘリ↧「深ク信ジ↢世出世ノ苦楽二種ノ因果↡、及ビ諸ノ道理ニヲイテ不ト↠生↢疑謗↡。」 云云
・第二七日 観経 定散二善 散善 九品 上品下生
次に上品下生とは、 ¬経¼ (観経) に 「▲但発無上道心」 と説けり、 これ菩提心の往生なり。 菩提心につきて、 諸宗の所立また不同なり。 天台には蔵・通・別・円の四教の菩提心あり、 真言には行願・勝義・三摩地の三種の菩提心あり、 三論・法相・華厳・達磨、 みなおのおの菩提心あり。
次ニ上品下生トハ者、¬経ニ¼説ケリ↢「但発無上道心ト」↡、是菩提心ノ往生也。就テ↢菩提心ニ↡、諸宗ノ所立又不同也。天臺ニハ有↢蔵・通・別・円四教ノ菩提心↡、真言ニハ有↢行願・勝義・三摩地之三種ノ菩提心↡、三論・法相・華厳・達磨、皆各有↢菩提心↡。
善導の御意 (散善義意) は、 「▲まづ浄土に生じて、 菩薩の大悲願行を満てて後、 還りて生死に入り、 あまねく衆生を度せんと欲す。 この心を菩提心と各づく」 と。云々
善導ノ御意ハ、「先生ジテ↢浄土ニ↡、満テ↢菩薩ノ大悲願行ヲ↡之後、還テ入リ↢生死ニ↡、欲ス↣遍0136ク度↢衆生ヲ↡。此ノ心ヲ各クト↢菩提心ト↡。」 云云
この上品の三生は大乗の善人なり。 次に中品の三生とは、 小乗の善人なり。
此ノ上品ノ三生ハ大乗ノ善人ナリ也。次ニ中品ノ三生トハ者、小乗ノ善人ナリ也。
・第二七日 観経 定散二善 散善 九品 中品上生
まづ中品上生とは、 (観経) 「▲受持五戒、 持八戒・八斎戒、 修行諸戒不造五逆、 無衆過患」 と説けり、 これ小乗持戒の人なり。
先ヅ中品上生トハ者、説ケリ↢「受持五戒、持八戒・八斎戒、修行諸戒不造五逆、無衆過患ト」↡、是小乗持戒ノ人也。
・第二七日 観経 定散二善 散善 九品 中品中生
次に中品中生とは、 (観経) 「▲若一日一夜受持八戒斎、 若一日一夜持沙弥戒、 若一日一夜持具足戒、 威儀無欠」 と説けり、 これ一日一夜の持戒なり。
次ニ中品中生トハ者、説ケリ↢「若一日一夜受持八戒斎、若一日一夜持沙弥戒、若一日一夜持具足戒、威儀無欠ト」↡、是一日一夜持戒也。
・第二七日 観経 定散二善 散善 九品 中品下生
次に中品下生とは、 (観経) 「▲孝養父母行世仁慈」 と説けり、 これ世間の仁・儀・礼・智・信を行ずる人なり。 在生の間仏法に遇はざる人、 臨終の時善知識に遇ひて往生するなり。
次ニ中品下生トハ者、説リ↢「孝養父母行世仁慈ト」↡、是行ズル↢世間ノ仁・儀・礼・智・信ヲ↡人也。在生ノ之間未ル↠遇ハ↢仏法ニ↡人、臨終ノ時遇テ↢善知識ニ↡往生スル也。
次に下品の三生とは、 悪人の往生なり。
次ニ下品ノ三生トハ者、悪人ノ之往生ナリ也。
・第二七日 観経 定散二善 散善 九品 下品上生
まづ下品上生とは、 すなはち十悪軽罪の凡夫なり。 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲或有衆生、 作衆悪業、 雖不誹謗方等経典、 如斯愚人、 多造衆悪無有慚愧、 ◆命欲終時、 遇善知識為讃大乗十二部経首題名字。 以聞如是諸経名故、 除却千劫極重悪業。 智者復教合掌叉手、 称南無阿弥陀仏。 称仏名故除五十億劫生死之罪」 と。 云々
先ヅ下品上生トハ者、即十悪軽罪ノ凡夫ナリ也。¬経ニ¼云、「或有衆生、作衆悪業、雖不誹謗方等経典、如斯愚人、多造衆悪無有慚愧、命欲終時、遇善知識為讃大乗十二部経首題名字。以聞如是諸経名故、除却千劫極重悪業。智者復教合掌叉手、称南無阿弥陀仏。称仏名故除五十億劫生死之罪。」 云云
衆悪とは十悪を指すなり。 無有慚愧とは、 天にも慚じず、 人にも愧じざるなり。 十二部経とは大乗に具するなり。 小乗には九部を結するなり。 首題名字を讃ずとは、 天台の義にて意得れば、 名・体・宗・用・教の五重玄義をもつて釈し聞かするか。 これすなはち在生の間、 ひとへに十悪を造りていまだ仏法に遇はざる罪人なり。 臨終の時はじめて善知識に遇ひて、 経を聞き仏を念じて往生するなり。
衆悪トハ者指ス↢十悪ヲ↡也。無有慚愧トハ者、不↠慚↠天ニモ、不ル↠愧↠人ニモ也。十二部経トハ者大乗ニ具也。小乗ニハ結スル↢九部ヲ↡也。讃トハ↢首題名字ヲ↡者、天臺ノ義ニテ得レバ↠意者、以テ↢名・体・宗・用・教之五重玄義ヲ↡釈シ聞カスル歟。是則在0137生ノ之間、偏ニ造テ↢十悪ヲ↡未ダ↠遇ハ↢仏法ニ↡罪人ナリ也。臨終ノ時始テ遇テ↢善知識ニ↡、聞キ↠経ヲ念ジテ↠仏而往生スル也。
・第二七日 観経 定散二善 散善 九品 下品中生
次に下品中生とは、 すなはちこれ破戒次罪の凡夫なり。 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲或有衆生、 毀犯五戒・八戒及具足戒。 如斯愚人、 偸僧祗物、 盗現前僧物、 不浄説法無有慚愧、 以諸悪業而自荘厳。 如斯罪人、 以悪業故応堕地獄。 ◆命欲終時、 地獄衆火、 一時倶至、 遇善知識以大慈悲為説阿弥陀仏十力威徳、 広説彼仏光明神力、 亦讃戒・定・慧・解脱・解脱知見。 此人聞已除八十億劫生死之罪。 地獄猛火、 化為清涼風、 吹諸天華。 華上皆有化仏・菩薩、 迎摂此人」 と。 云々
次ニ下品中生トハ者、即是破戒次罪ノ凡夫ナリ也。¬経¼云、「或有衆生、毀犯五戒・八戒及具足戒。如斯愚人、偸僧祗物、盗現前僧物、不浄説法無有慚愧、以諸悪業而自荘厳。如斯罪人、以悪業故応堕地獄。命欲終時、地獄衆火、一時倶至、遇善知識以大慈悲為説阿弥陀仏十力威徳、広説彼仏光明神力、亦讃戒・定・慧・解脱・解脱知見。此人聞已除八十億劫生死之罪。地獄猛火、化為清涼風、吹諸天華。華上皆有化仏・菩薩、迎摂此人。」 云云
そもそも近来の僧尼をば、 破戒の僧・破戒の尼といふべからず。 持戒・破戒を制することは正法・像法の時なり。 末法には戒なし、 ただ名字の比丘なり。 伝教大師の ¬末法灯明記¼ にいはく、 「末法のなかに持戒のものありとは、 これ怪異なり、 市のなかに虎あらんがごとし。 たれかこれを信ずべし」 と。 云々 またいはく、 「末法のなかには、 ただ言教のみありて行証なし。 もし戒法あらんには破戒あるべし。 すでに戒法なし、 いづれの戒をか破し、 何によりてかなほ破戒あらん。 破戒すななほなし、 いかにいはんや持戒をや」 と。 云々
○抑近来ノ僧尼ヲバ、不↠可↠云↢破戒ノ僧・破戒ノ之尼ト↡。制スルコト↢持戒・破戒ヲ↡者正法・像法ノ之時ナリ也。末法ニハ無↠戒、只名字ノ比丘ナリ也。伝教大師ノ¬末法灯明記ニ¼云、「末法之中ニ有トハ↢持戒ノ者↡者、是怪異也、如↢市ノ中ニ有ランガ↠虎。誰カ可↠信↠之。」 云云 又云、「末法之中ニハ、但有テ↢言教ノミ↡無シ↢行証↡。若シ有ランニハ↢戒法↡可↠有ル↢破戒↡。既ニ無シ↢戒法↡、破シ↢何ノ戒ヲカ↡、何ニ因テカ尚有ン↢破戒↡。破戒スラ尚無シ、何ニ況ヤ持戒ヲヤ耶。」 云云
まことに受戒の作法、 中国には持戒の僧十人を請じて戒師とし、 辺地には五人を請じて戒師として、 戒を受くるなり。 しかるに近来は、 持戒の僧一人を求め出ださんにも得がたし。 しかればこれを受けてのうへにこそ破といふ語もあるべきものなれ、 末代の近来は破戒すならほなし、 ただ無戒の比丘なりと申すなり。 この ¬経¼ に破戒を説くことは、 正像に約して説きたまへるなり。
◇実ニ受戒ノ作法、中国ニハ請ジテ↢持戒ノ僧十人ヲ↡為↢戒師ト↡、辺地ニハ請ジテ↢五人ヲ↡為↢戒師ト↡、受ル↠戒ヲ也。而近来ハ、求↢出サンニモ持戒ノ僧一人ヲ↡難↠得也。然バ受テノ↠之0138上ニコソ有ル↢破ト云之語モ↡者ナレ、末代ノ近来ハ破戒スラ尚無シ、唯無戒ノ之比丘也ト申ス也。此ノ¬経ニ¼説コト↢破戒ヲ↡者、約シテ↢正像ニ↡而説タマヘル也。
・第二七日 観経 定散二善 散善 九品 下品下生
次に下品下生とは、 すなはち五逆重罪の凡夫なり。 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲或有衆生、 作不善業五逆・十悪、 具諸不善。 如此愚人、 以悪業故応堕悪道、 逕歴多劫受苦無窮。 ◆如此愚人臨命終時、 遇善知識種々安慰為説妙法、 教令念仏。 此人苦逼不遑念仏。 善友告言、 汝若不能念者、 応称無量寿仏。 ◆如是至心、 令声不絶、 具足十念称南無阿弥陀仏、 称仏名故、 於念々中除八十億劫生死之罪。 ◆命終之時、 見金蓮華猶如日輪住其人前」 と。 云々
次ニ下品下生者、即五逆重罪ノ之凡夫也。¬経ニ¼云ク、「或有衆生、作不善業五逆・十悪、具諸不善。如此愚人、以悪業故応堕悪道、逕歴多劫受苦無窮。如此愚人臨命終時、遇善知識種種安慰為説妙法、教令念仏。此人苦逼不遑念仏。善友告言、汝若不能念者、応称無量寿仏。如是至心、令声不絶、具足十念称南無阿弥陀仏、称仏名故、於念念中除八十億劫生死之罪。命終之時、見金蓮華猶如日輪住其人前。」 云云
これすなはち散善の義なり。 三福と九品とは同じものなり。 三福を九品に支配するなり。 定散二善、 略してかくのごとし。
此則散善義也。三福ト九品トハ同ジ物也。三福ヲ支↢配スル九品ニ↡也。定散二善、略シテ如シ↠此ノ。
・第二七日 観経 念仏往生
次に名号を称して往生することを明かすとは、 ▲¬経¼ (観経) にいはく、 「仏告阿難、 汝、 好持是語。 持是語者、 即是持無量寿仏名」 と。 云々 ▲善導 (散善義) これを釈していはく、 「仏告阿難汝好持是語より以下は、 まさしく弥陀の名号を付属して、 遐代に流通することを明かす。 上来定散両門の益を説くといへども、 仏の本願に望むれば、 意衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるに在り」 と。 云々
○次ニ明↧称シテ↢名号ヲ↡往生スルコトヲ↥者、¬経ニ¼云、「仏告阿難、汝、好持是語。持是語者、即是持無量寿仏名。」 云云 善導釈シテ↠之云、「従↢仏告阿難汝好持是語↡已下ハ、正ク明ス↧付↢属シテ弥陀ノ名号ヲ↡、流↦通スルコトヲ於遐代ニ↥。上来雖↠説↢定散両門ノ之益ヲ↡、望レバ↢仏本願ニ↡、意在リ↣衆生ヲシテ一向ニ専ラ称ムルニ↢弥陀仏ノ名↡。」 云云
およそこの ¬経¼ のなかには定散の諸行を説くといへども、 その定散をもつて付属せず、 ただ念仏の一行をもつて阿難に付属して未来に流通す。
◇凡ソ此ノ¬経ノ¼中ニハ雖↠説ト↢定散ノ諸行ヲ↡、不↧以テ↢其ノ定散ヲ↡付属↥、但以↢念仏ノ一行ヲ↡付↢属シテ阿難ニ↡流↢通ス未来ニ↡也。
遐代に流通すとは、 法滅百歳を遙とす。 すなはち末法万年の後、 仏法みな滅して三宝の名字をも聞かざる時、 ただこの念仏の一行のみ留りて百歳在るべし。 しかれば聖道の法文もみな滅し、 十方浄土の往生もまた滅し、 上生都率もまた失し、 諸行往生もまた失したらん時、 ただこの念仏往生の一門のみ留りて、 その時なりといへども一念にかならず往生すべし。 ゆゑにこれを指して遐代とはいふなり。 これすなはち遠を挙げて近を摂するなり。
◇流0139↢通ストハ遐代↡者、遙トス↢法滅百歳ヲ↡。即末法万年ノ後、仏法皆滅シテ不ル↠聞↢三宝ノ名字ヲモ↡之時、唯此ノ念仏ノ一行ノミ留テ百歳可↠在。然バ者聖道ノ法文モ皆滅シ、十方浄土ノ往生モ亦滅シ、上生都率モ亦失シ、諸行往生モ亦失シタラン之時、唯此ノ念仏往生ノ一門ノミ留テ、雖モ↢其ノ時ナリト↡一念ニ必可シ↢往生↡。故ニ指シテ↠之云↢遐代トハ↡也。是則挙テ↠遠ヲ摂スル↠近ヲ也。
望仏本願とは、 弥陀如来の四十八願のなかの十八願を指すなり。 いま教主釈尊、 定散二善の諸行を捨てて念仏一行を付属したまふ事も、 弥陀の本願の行なるゆゑなり。
◇望仏本願トハ者、指ス↢弥陀如来ノ四十八願ノ中ノ十八願ヲ↡也。今教主釈尊、捨テヽ↢定散二善ノ諸行ヲ↡付↢属シタマフ念仏一行ヲ↡事モ、弥陀ノ本願ノ行ナル故ナリ也。
一向専称とは、 ¬双巻経¼ (巻下) に説くところの三輩の文のなかの 「一向専念」 を指すなり。 一向の言は、 余を捨つる詞なり。 この ¬経¼ には、 はじめには広く定散を説くといへども、 後には一向に念仏を択びて付属し流通したまへるなり。 しかれば遠くは弥陀の本願に随ひ、 近くは釈尊の付属を稟けんと欲するものは、 一向に念仏の行を修して往生を求むべきなり。
◇一向専称トハ者、指ス↧¬双巻経ニ¼所ノ↠説三輩ノ文ノ中ノ「一向専念ヲ」↥也。一向之言ハ、捨ル↠余ヲ之詞也。此¬経ニハ¼、初ニハ広ク雖↠説↢定散ヲ↡、後ニハ一向ニ択テ↢念仏ヲ↡付属シ流通シ給ヘルナリ也。然バ欲↧遠クハ随ヒ↢弥陀ノ本願ニ↡、近クハ稟ケント↦釈尊ノ付属ヲ↥者ハ、一向ニ修シテ↢念仏ノ行ヲ↡可↠求↢往生ヲ↡也。
およそ念仏往生の諸行往生に勝れたること、 多義あり。
◇凡ソ念仏往生ノ之勝ルコト↢于諸行往生ニ↡、有↢多義↡。
一には因位の本願。 いはく弥陀如来の因位、 法蔵菩薩の時、 四十八願を発して浄土を設けて仏にならんと願じたまへる時、 衆生往生の行を立てんと撰定したまふ時、 余行を撰捨してただ念仏一行を撰定して往生の行に立てたまへり。 この撰択の願は、 ¬大阿弥陀経¼ の説なり。
◇一ニハ者因位ノ本願。謂ク弥陀如来ノ因位、法蔵菩薩ノ時、願タマヘル↧発シテ↢四十八願ヲ↡設ケテ↢浄土ヲ↡成ント↞仏ニ之時、立ント↢衆生往生ノ行ヲ↡撰定タマフ時、撰↢捨余行ヲ↡撰↢定シテ唯念仏一行ヲ↡而立タマヘリ↢于往生ノ行ニ↡。此ノ撰択ノ願者、¬大阿弥陀経ノ¼説也。
二には光明摂取なり。 これはこれ阿弥陀仏因位の本願を還念して、 相好の光明をもつて念仏の衆生を摂取し捨てたまはずして往生せしめたまふなり。 余行のものを摂取したまはず。
◇二者光明摂取ナリ。此ハ是阿弥陀仏還↢念シテ因位ノ本願↡、以テ↢相好ノ之光明↡摂↢取シ念仏ノ衆生ヲ↡而不シテ↠捨タマハ令タマフ↢往生↡也。不↣摂↢取余行0140ノ者ヲ↡矣。
三には弥陀みづから (一巻本般舟経問事品意) のたまはく、 「これはこれ跋陀和菩薩極楽世界に詣でらんには、 いづれの行を修してかの国に往生すべきと、 阿弥陀仏に問ひたてまつりしかば、 仏答へてのたまはく、 わが国に来生せんと欲はば、 まさにわが名を念じて休息することなかるべし、 すなはち往生することを得ん」 と。 云々 余行を勧めたまはず。
◇三ニハ者弥陀自言ク、「此ハ是跋陀和菩薩詣ランニハ↢極楽世界ニ↡、修シテ↢何ノ行ヲ↡可キト↣往↢生彼ノ国ニ↡、奉シカ↠問↢阿弥陀仏ニ↡者、仏答言ハク、欲バ↣来↢生我国ニ↡者、当 ベ ニシ↧念ジテ↢我ガ名↡莫ル↦休息スルコト↥、即得ント↢往生コトヲ↡。」 云云 不↠勧タマハ↢余行ヲ↡。
四には釈迦の付属。 いはくいまこの ¬経¼ に説くところ付属流通なり。 余行をば付属せず。
◇四ニハ者釈迦ノ付属。謂ク今此ノ¬経ニ¼所↠説付属流通也。不↣付↢属余行ヲバ↡。
五には諸仏の証誠。 これはこれ ¬阿弥陀経¼ に説くところの、 釈迦仏撰びて念仏往生の旨を説きたまへば、 六方の諸仏おのおの同じく讃じて、 同じく勧めて、 広長の舌を舒べて、 あまねく三千大千世界に覆ひて証誠したまへり。 これすなはち一切衆生をして念仏往生は決定して疑なかるべしと信ぜしめんためなり。 余行をばかくのごとく証誠したまはず。
◇五ニハ者諸仏ノ証誠。此ハ是¬阿弥陀経ニ¼所ノ↠説、釈迦仏撰テ説タマヘ↢念仏往生ノ旨ヲ↡者、六方ノ諸仏各同讃ジテ、同勧テ、舒テ↢広長ノ舌ヲ↡、遍覆テ↢三千大千世界ニ↡而証誠タマヘリ。是則為↠令↣一切衆生ヲシテ信↢念仏往生ハ決定シテ可↟無↠疑也。余行ヲバ如↠是不↢証誠↡ 矣。
六には法滅往生。 (礼讃) いはく 「万年三宝滅、 此 ¬経¼ 住百年、 爾時聞一念、 皆当得生彼」 と。 云々 末法万年の後、 ただ念仏の一行のみ留りて、 往生すべしといへる事なり。 余行はしからず。
◇六者法滅往生。謂ク「万年三宝滅、此¬経¼住百年、爾時聞一念、皆当得生彼ト。」 云云 末法万年ノ後、唯念仏ノ一行ノミ留テ、可↢往生↡云事也。余行ハ不↠爾。
しかのみならず下品上生の十悪の罪人、 臨終の時聞経と称仏との二善をこれを並べたりといへども、 化仏来迎して讃じたまふには (観経) 「汝称仏名故諸罪消滅。 我来迎汝」 といひて、 いまだ聞経の事をば讃じたまはず。
◇加↠之下品上生ノ十悪ノ罪人、臨終之時聞経ト与ノ↢称仏↡之二善ヲ雖↠並タリト↠之、化仏来迎シテ而讃タマフニハ云テ↢「汝称仏名故諸罪消滅。我来迎汝ト」↡、未ダ↠讃タマハ↢聞経ノ之事ヲバ↡。
また ¬双巻経¼ に三輩往生の業を説くなかに、 菩提心および起立塔像等の余行を説くといへども、 流通の処に至りて、 (大経巻下) 「其有得聞彼仏名号、 歓喜踊躍乃至一念。 当知、 此人為得大利。 則是具足無上功徳」 と讃じて、 余行を指して無上功徳とは讃じたまはず。 念仏往生の旨、 要を取ることここにあり。 仰ぎ願はくは 云々。
◇又¬双巻経ニ¼説ク↢三輩往生ノ業ヲ↡之中ニ、雖↠説ト↢菩提心及ビ起立塔像等ノ之余行ヲ↡、至テ↢流通ノ処ニ↡、讃テ↢「其有得聞彼仏名号、歓喜踊躍乃至一念。当知、此人為得大利。則是具足無上功徳ト」↡、不↧指テ↢余行ヲ↡讃タマハ↦無上功徳トハ↥。念仏往生ノ旨、取コト↠要在↠之。仰ギ願0141クハ 云云。
・第三七日
△第三七日。 ▽阿弥陀仏。 ▽¬双巻経¼・▽¬阿弥陀経¼。
・第三七日 阿弥陀仏
△それ仏の功徳は百千万劫の間、 昼夜に説くとも窮尽すべからず。 これによりて教主釈尊この阿弥陀仏の功徳を称揚したてまつりたまひしにも、 要がなかの要を取りて、 略してこの三部の妙典を説きたまへり。 仏すでに略したまへり、 愚僧いかんが委しくするに足らん。 ただ善根成就のために、 形のごとく称揚したてまつるべし。 阿弥陀仏の内証外用の功徳無量なりといへども、 要を取るに名号の功徳にはしかず。 このゆゑにすなはちかの阿弥陀仏、 ことにわが名号をもつて衆生を済度し、 釈迦大師も、 多くかの仏の名号を讃じて未来に流通したまへり。
○夫仏ノ功徳ハ百千万劫ノ之間、昼夜ニ説トモ不↠可↢窮尽ス↡。因テ↠茲教主釈尊奉タマヒシニモ↣称↢揚シ此ノ阿弥陀仏ノ功徳ヲ↡、取テ↢要ガ中ノ之要ヲ↡、略シテ説タマヘリ↢此ノ三部ノ妙典ヲ↡。仏既ニ略シ給ヘリ、愚僧何ンガ足↠委スルニ。但シ為ニ↢善根成就ノ↡、如ク↠形ノ可シ↠奉↢称揚シ↡。阿弥陀仏ノ内証外用ノ功徳雖↢無量也ト↡、取ニ↠要ヲ不↠如カ↢名号ノ功徳ニハ↡。是ノ故ニ即彼ノ阿弥陀仏、殊ニ以↢我ガ名号ヲ↡済↢度シ衆生ヲ↡、釈迦大師モ、多讃テ↢彼ノ仏ノ名号ヲ↡流↢通タマヘリ未来ニ↡。
・第三七日 阿弥陀仏 名号功徳
しかればいまその名号につきて讃嘆したてまつれば、 阿弥陀とはこれ天竺の梵語なり。 ここには翻じて無量寿仏といひ、 または無量光仏ともいひ、 また無辺光仏・無礙光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智恵光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏ともいふ。 ここに知りぬ名号のなかに光明と寿命との二つの義を備へたりといふ事を。 かの阿弥陀仏の一切の徳のなかには、 寿命を本とし光明勝れたるがゆゑなり。 しかればまた光明・寿命の二徳を讃じたてまつるべし。
◇然バ者今付テ↢其ノ名号ニ↡奉バ↢讃嘆シ↡者、阿弥陀トハ者是天竺梵語也。此ニハ翻ジテ曰↢無量寿仏ト↡、又ハ曰↢無量光仏トモ↡、又曰↢無辺光仏・無光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智恵光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏トモ↡。是ニ知ヌ名号ノ中ニ備タリト↧光明与ノ↢寿命↡之二ノ義ヲ↥云事ヲ。彼ノ阿弥陀仏ノ一切徳ノ中ニハ、寿命ヲ為↠本ト而光明勝タルガ故也。然バ者亦可シ↠奉ル↠讃↢光明・寿命ノ二徳ヲ↡。
・第三七日 阿弥陀仏 名号功徳 光明功徳 無量光
まづ光明の功徳を明かさば、 はじめに無量光とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「無量寿仏有八万四千相。 一々相、 各有八万四千随形好。 復有八万四千光明。 一々光明、 遍照十方世界念仏衆生、 摂取不捨」 と。 云々 恵心 (要集巻中) これを勘へていはく、 「一々の相のなかにおのおの▽七百五倶胝六百万の光明を具して、 熾燃赫奕たり」 と。 云々 一相より出だすところの光明かくのごとし、 いはんや八万四千の相をや。 まことに算数の及ぶところにあらず。 ゆゑに無量光といふ。
◇先ヅ明バ↢光明ノ功徳ヲ↡者、初ニ無量光ト者、¬経ニ¼云、「無量寿仏有八万四千相0142。一一相、各有八万四千随形好。復有八万四千光明。一一光明、遍照十方世界念仏衆生、摂取不捨。」 云云 恵心勘テ↠之云、「一一ノ相ノ中各具シテ↢七百五倶胝六百万ノ光明ヲ↡、熾燃赫奕タリト。」 云云 従↢一相↡所↠出ス光明如シ↠斯ノ、況ヤ八万四千ノ相ヲヤ乎。誠ニ非↢算数ノ所ニ↟及。故ニ云↢無量光ト↡。
・第三七日 阿弥陀仏 名号功徳 光明功徳 無辺光
次に無辺光とは、 かの仏の光明、 その数かくのごとし。 ただ無量なるのみにあらず、 照らすところもまた辺際あることなし。 ゆゑに無辺光といふ。
◇次ニ無辺光トハ者、彼仏ノ光明、其ノ数如↠此。非↢啻無量ナルノミニ↡、所モ↠照亦無シ↠有コト↢辺際↡。故ニ云↢無辺光ト↡。
・第三七日 阿弥陀仏 名号功徳 光明功徳 無礙光
次に無礙光とは、 この界の日月・灯燭等の光のごとくんば一重なりといへども、 物を隔つればその光徹ることなし。 もしかの仏光物に礙へらるれば、 この界の衆生、 たとひ念仏すといへども、 その光摂を蒙ることを得べからず。
◇次無光トハ者、如ンバ↢此ノ界ノ日月・灯燭等ノ光↡者雖↢一ト重ナリト↡、隔ツレバ↠物ヲ者其ノ光無シ↠徹ルコト。若シ彼ノ仏光被バ↠↠物ニ者、此界ノ衆生、設ヒ雖↢念仏スト↡、不↠可↠得↠蒙↢其ノ光摂ヲ↡。
そのゆゑはかの極楽世界とこの娑婆世界との間に、 十万億の三千大世界を隔てたり。 その一々の三千大千世界におのおの四重の鉄囲山あり。 いはくまず一四天下を囲める鉄囲山あり、 高さ須弥山に斉し。 次に小千界を囲める鉄囲山あり、 高さ第六天に至る。 次に中千界を囲める鉄囲山あり、 高さ色界の初禅に至れり。 次に大千界を囲める鉄囲山あり、 高さ第二禅に至れり。 しかればすなはちもし無礙光にあらずんば一世界なほ徹るべからず、 いかにいはんや十万億の世界をや。
◇其ノ故ハ彼極楽世界ト与ノ↢此娑婆世界↡之間ニ、隔タリ↢十万億ノ三千大世界ヲ↡。其ノ一一ノ三千大千世界ニ各有リ↢四重ノ鉄囲山↡。謂ク先ヅ有↧囲メル↢一四天下ヲ↡之鉄囲山↥、高サ斉シ↢須弥山ニ↡。次ニ有↧囲メル↢小千界ヲ↡之鉄囲山↥、高サ至ル↢第六天ニ↡。次ニ有↧囲メル↢中千界ヲ↡之鉄囲山↥、高サ至レリ↢色界ノ初禅ニ。次ニ有リ↧囲メル↢大千界ヲ↡之鉄囲山↥、高サ至レリ↢第二禅ニ↡。然バ則若非ンバ↢無光ニ↡者一世界尚不↠可↠徹ル、何ニ況ヤ十万億ノ世界ヲヤ耶。
しかるにかの仏の光明、 かれこれそこばくの大小の諸山を徹照して、 この界の念仏の衆生を摂取したまふに障礙あることなし。 余の十方世界を照摂したまふ事も、 またかくのごとし。 ゆゑに無礙光といふ。
◇然ニ彼仏ノ光明、徹↢照シテ彼此若干ノ大小ノ諸山ヲ↡、摂↢取シタマフニ此界ノ念仏ノ衆生ヲ↡無↠有コト↢障↡。照↢摂シタマフ余ノ十方世界ヲ↡事モ、亦如是。故ニ云↢無光ト↡。
・第三七日 阿弥陀仏 名号功徳 光明功徳 清浄光
次に清浄光とは、 人師釈して (述文賛巻中意) いはく、 「無貪の善根所生の光なり」 と。 云々
◇次ニ清浄光トハ者、人0143師釈シテ云、「無貪ノ善根所生ノ光ナリ也。」 云云
貪に二あり、 婬貪・財貪なり。 清浄とは、 ただ汚穢不浄を除却するのみにあらず、 その二つの貪を断除するなり。 貪を不浄と名づくるがゆゑなり。 もし戒に約せば、 不婬戒と不慳貪戒とに当れり。 しかれば法蔵比丘の昔の不婬・不慳貪所生の光なり。
◇貪ニ有↠二、婬貪・財貪也。清浄トハ者、非↣但除↢却スルノミ汚穢不浄ヲ↡、断↢除スル其ノ二ノ貪ヲ↡也。貪ヲ名ガ↢不浄ト↡故ナリ也。若シ約バ↠戒ニ者、当レリ↢不婬戒ト不慳貪戒トニ↡。然バ者法蔵比丘ノ昔ノ不婬・不慳貪所生之光ナリ。
ゆゑにこの光に触るるものは、 貪欲の罪を滅す。 もし人ありて、 貪欲盛んにして不婬・不慳貪の戒を持つことを得ずといへども、 至心にもつぱらこの阿弥陀仏の名号を念ずれば、 すなはちかの仏無貪の清浄の光を放ちて照触摂取したまふゆゑに、 婬貪・財貪の不浄を除き、 無戒・破戒の罪を滅して、 無貪善根の身となりて、 持戒清浄の人と均しきなり。
◇故ニ触↢此ノ光ニ者ハ、滅ス↢貪欲ノ之罪ヲ。若シ有テ↠人、貪欲盛ニシテ雖↠不ト↠得↠持コトヲ↢不婬・不慳貪ノ戒ヲ↡、至心ニ専ラ念レバ↢此ノ阿弥陀仏ノ名号ヲ↡者、即彼仏放テ↢無貪ノ清浄ノ之光ヲ↡照触摂取タマフ故ニ、除キ↢婬貪・財貪ノ之不浄ヲ↡、滅シテ↢無戒・破戒ノ之罪ヲ↡、成テ↢無貪善根ノ身ト↡、均シキ↢持戒清浄ノ人ト↡也。
・第三七日 阿弥陀仏 名号功徳 光明功徳 歓喜光
次に歓喜光とは、 これはこれ無瞋の善根所生の光なり。 久しく不瞋恚の戒を持ちて、 この光を得たまへるゆゑに、 無瞋所生の光といふ。 この光に触るるものは、 瞋恚の罪を滅す。 しかれば瞋増盛なる人、 もつぱら念仏を修すれば、 かの歓喜光をもって摂取したまふがゆゑに、 瞋恚の罪滅して、 忍辱の人に同じ。 これまた前の清浄光の貪欲の罪を滅するがごとし。
◇次歓喜光トハ者、此ハ是無瞋ノ善根所生ノ光ナリ也。久持テ↢不瞋恚ノ戒↡、得タマヘル↢此ノ光↡故ニ、云↢無瞋所生ノ光ト↡。触ルヽ↢此ノ光ニ↡者ハ、滅ス↢瞋恚ノ罪ヲ↡。然バ者雖↢瞋増盛ナル人、専修スレバ↢念仏ヲ↡者、以テ↢彼ノ歓喜光↡摂取タマフガ故ニ、瞋恚ノ罪滅シテ、同ジ↢忍辱ノ人ニ↡。是亦如↣前ノ清浄光ノ滅スルガ↢貪欲ノ罪ヲ↡矣。
・第三七日 阿弥陀仏 名号功徳 光明功徳 智恵光
次に智恵光とは、 これはこれ無痴の善根所生の光なり。 久しく一切智恵を修して、 愚痴の煩悩を断尽して、 この光を得たまふゆゑに、 無痴所生の光といふ。 この光はまた愚痴の罪を滅す。 しかれば無智の念仏者なりといへども、 かの智恵の光をもつて照して摂取したまふゆゑに、 すなはち愚痴のを滅して、 智者と勝劣あることなし。 またこの光のごとく知るべし。
◇次ニ智恵光トハ者、此ハ是無痴ノ善根所生ノ光也。久ク修シテ↢一切智恵ヲ↡、断↢尽シテ愚痴ノ之煩悩ヲ↡、得タマフ↢此ノ光ヲ↡故ニ、云↢無痴所生ノ光ト。此ノ光ハ亦滅↢愚痴之罪ヲ↡。然者雖↢無智ノ念仏者ナリト↡、照シテ↢彼ノ智恵ノ光ヲ以↡摂取シタマフ故ニ、即滅シテ↢愚痴ノヲ↡、与↢智者↡無↠有コト↢勝劣↡。又如ク↢此ノ光ノ↡可↠知。
かくのごとくして十二光の名ましますといへども、 要を取ることこれにあり。
◇如シテ↠是而雖↠有マス↢十二光ノ名↡、取コト↠要ヲ在リ↠斯ニ。
大方かの仏の光明の功徳のなかには、 かくのごとくの義を備ふるなり。 こまかに明さば多種あるべし。 大きに分ちて二あり。 いはく一には常光、 二には神通光なり。
◇大0144方彼仏ノ光明ノ之功徳ノ中ニハ、備ナリ↢如ノ↠是義ヲ↡。細カニ明バ者可↠有ル↢多種↡。大ニ分テ有↠二。謂ク一ニハ常光、二ニハ神通光ナリ也。
・第三七日 阿弥陀仏 名号功徳 光明功徳 常光
はじめに常光とは、 諸仏の常光、 おのおの意楽に随ひて、 遠近・長短あり。 あるいは (金光明疏巻四本蓮華喩品) 「常光、 面各一尋相」 といへり。 釈迦仏の常光のごとき、 これなり。 あるいは七尺を照らし、 あるいは一里を照らし、 あるいは一由旬を照らし、 あるいは二・三・四・五乃至百千由旬を照らし、 あるいは一四天下を照らし、 あるいは一仏世界を照らし、 あるいは二仏・三仏乃至百千仏の世界を照らす。
◇初ニ常光トハ者、諸仏ノ常光、各オノ随テ↢意楽ニ↡、有↢遠近・長短↡。或ハ云ヘリ↢「常光、面各一尋相ト」↡。如キ↢釈迦仏ノ常光↡、是ナリ也。或照シ↢七尺ヲ↡、或ハ照シ↢一里ヲ↡、或照シ↢一由旬ヲ↡、或ハ照↢二・三・四・五乃至百千由旬ヲ↡、或ハ照↢一四天下↡、或照↢一仏世界ヲ↡、或ハ照↢二仏・三仏乃至百千仏ノ世界ヲ↡。
この阿弥陀仏の常光は、 八方上下無央数の諸仏の国土において照らさざるといふところなし。 八方上下は極楽につきて方角を指すなり。 この常光につきて異説あり。 すなはち ¬平等覚経¼ には別して頭光を指す。 ¬観経¼ には総じて 「身光」 といふ。 かくのごとく異説、 ¬往生要集¼ にこれを勘へたり、 見るべし。 常光とは、 長照不断に照らす光なり。
◇此阿弥陀仏ノ常光ハ、於テ↢八方上下無央数ノ諸仏ノ国土ニ↡無↠所↠不ト云↠照。八方上下ハ付↢極楽ニ↡指ス↢方角↡也。就テ↢此ノ常光ニ↡有リ↢異説↡。則¬平等覚経ニハ¼別シテ指ス↢頭光↡。¬観経ニハ¼総ジテ云↢「身光ト」↡。如ク↠是異説、¬往生要集ニ¼勘タリ↠之、可↠見矣。常光トハ者、長照不断ニ照ス光也。
・第三七日 阿弥陀仏 名号功徳 光明功徳 神通光
次に神通光とは、 これ別時に照らす光なり。 釈迦如来の ¬法華経¼ を説かんと欲したまひし時、 東方万八千の土を照らせしがごときは、 すなはち神通光なり。 阿弥陀仏の神通光は、 摂取不捨の光明なり。 念仏の衆生ある時は照らし、 念仏の衆生なき時は照らしたまふことなきがゆゑなり。
◇次ニ神通光トハ者、是別時ニ照ス光也。如ハ↧釈迦如来ノ欲タマヒシ↠説ト↢¬法華経ヲ¼↡之時、照シガ↦東方万八千土ヲ↡者、則神通光ナリ也。阿弥陀仏ノ神通光ハ者、摂取不捨ノ光明ナリ也。有ル↢念仏ノ衆生↡之時ハ照シ、無キ↢念仏ノ衆生↡之時ハ無ガ↠照タマフコト故也。
善導和尚 ¬観経の疏¼ (定善義) にこの摂取の光明を釈したまふ下に、 「光照の遠近を明かす」 といへり。 これ念仏の衆生の所居の遠近につきて、 摂取の光明も遠近あるべしとの義なり。 たとひ一房のなかに住したりとも、 東に寄りて居たらん人念仏申さんには、 摂取の光明遠く照らし、 西に寄りて居たらん人の念仏申さんには光明近く照らすべし。 これをもつて準じて意得れば、 一城の内、 一国の内、 一閻浮提の内、 三千世界の内、 乃至他方の各別の世界、 かくのごとく知るべし。
◇善導和尚¬観経ノ疏ニ¼釈タマフ↢此摂取ノ光明ヲ↡下ニ、云ヘリ↠「明ト↢光照ノ遠近ヲ↡。」是付↢念仏衆生ノ所居ノ遠近ニ↡、摂取ノ光明モ可トノ↠有↢遠近↡之義也。設ヒ住タリトモ↢一房ノ中ニ↡、寄テ↠東ニ居タラン人念仏申ンニハ、摂取ノ光明遠照シ、寄テ↠西ニ居ラン人ノ念仏申ンニハ光明近ク可シ↠照。以↠此準テ意得0145バ、一城ノ内、一国ノ内、一閻浮提ノ内、三千世界ノ内、乃至他方ノ各別ノ世界、如ク↠是ノ可シ↠知ル。
しかれば念仏の衆生につきて光明の遠近ありと釈したまへる事、 ことにいはれたる事とこそ覚え候へ。 これすなはち阿弥陀仏の神通光なり。
◇然バ者付テ↢念仏ノ衆生ニ↡釈タマヘル↠有ト↢光明ノ遠近↡事、殊ニ被タル↠云事トコソ覚エ候ヘ。是則阿弥陀仏ノ神通光ナリ也。
諸仏の功徳はいづれの功徳もみな法界に遍すといへども、 余の功徳はその相顕れたる事なし。 ただし光明のみありて、 まさしく法界に遍せる相を顕せる功徳なり。 ゆゑにもろもろの功徳のなかに光明をもつてもつとも勝れたりと釈したまふなり。
◇諸仏ノ功徳ハ何ノ功徳モ皆雖↠遍ト↢法界ニ↡、余ノ功徳ハ其ノ相無シ↢顕タル事↡。但シ有テ↢光明ノミ↡、正ク顕セル↧遍ル↢法界ニ↡之相ヲ↥功徳也。故ニ諸ノ功徳ノ中ニ以テ↢光明ヲ↡最モ勝タリト釈シ給フ也。
また諸仏の光明のなかには弥陀如来の光明なほ勝れたまへり。 このゆゑに教主釈尊讃じて (大経巻下) いはく、 「無量寿仏の威神光明、 最尊第一にして、 諸仏の光明及ぶことあたはざるところなり」 と。 云々 また (大経巻下) いはく、 「我説無量寿仏光明威神巍々殊妙、 昼夜一劫、 尚未能尽」 と。 云々 これはこれ、 かの仏の光明と余仏の光明とを相対してその勝劣を校量せんに、 かの仏に及ばざる仏を計へんに、 昼夜一劫すともその数を知り尽すべからずと宣べたまふなり。
◇又諸仏ノ光明ノ中ニハ弥陀如来ノ光明猶勝レ給ヘリ。是故ニ教主釈尊讃テ曰ク、「無量寿仏威神光明、最尊第一、諸仏光明所不↠能↠及コト。」 云云 又云、「我説無量寿仏光明威神巍巍殊妙、昼夜一劫、尚未能尽。」 云云 此ハ是、彼ノ仏ノ光明ト与ヲ↢与仏ノ光明↡相対シテ校↢量センニ其勝劣ヲ↡、計エンニ↧不ル↠及バ↢彼ノ仏ニ↡之仏ヲ↥、昼夜一劫ストモ不↠可↣知↢尽ス其数ヲ↡宣ベ給也。
かくのごとき殊勝の光を得たまふ事は、 すなはち因位の願行に酬ひたり。 いはくかの仏、 法蔵比丘の昔、 世自在王仏の所において、 二百一十億の諸仏の光明を見たてまつりて、 撰択思惟して願じて (大経巻上) のたまはく、 「もしわれ仏を得んに、 光明よく限量ありて、 下百千億那由他の諸仏国を照らさざるに至らば、 正覚を取らじ」 と。 云々 この願を発して後、 兆載永劫の間功を積み徳を累ねて、 願行ともに顕して、 この光を得たまへり。
◇得タマフ↢如↠是ノ殊勝ノ光ヲ↡事ハ、則酬タリ↢因位ノ願行ニ↡。謂ク彼ノ仏、法蔵比丘ノ昔、於テ↢世自在王仏ノ所ニ↡、奉テ↠見↢二百一十億ノ諸仏ノ光明ヲ↡、撰択思惟シテ願ジテ言ハク、「設シ我得ンニ↠仏ヲ、光明有↢能ク限量↡、下至バ↠不ルニ↠照↢百千億那由他ノ諸仏国ヲ↡者、不↠取↢正覚ヲ↡。」 云云 発シテ↢此ノ願ヲ↡後、兆載永劫ノ之間積↠功累↠徳、願行倶ニ顕シテ、得タマヘリ↢此ノ光ヲ↡。
仏の在世に灯指比丘といふ人ありき。 生れし時指より光を放ちて十里を照らすことあり。 後に仏弟子となりて、 出家して羅漢果を得たり。 指より光を放つ因縁によりて、 名づけて灯指比丘といへり。 過去九十一劫の昔、 毘婆尸仏の時に旧き仏像の指の損じたまへるを修理したてまつりし功徳によりて、 すなはち指より光を放つ報を得たるなり。
◇仏在世ニ有キ↢灯指比丘ト云人↡。生シ時有リ↣従リ↠指放テ↠光照コト↢十里ヲ↡。後ニ成テ↢仏弟子↡、出家シテ得タリ↢羅漢果ヲ↡。依↢従リ↠指放↠光0146之因縁↡、名テ曰ヘリ↢灯指比丘↡。過去九十一劫ノ昔、毘婆尸仏ノ時ニ由テ↧奉シ↣修↢理シ旧キ仏像ノ指ノ損ジタマヘルヲ↡之功徳ニ↥、則得タル↢従↠指放ツ↠光ヲ之報ヲ↡也。
また梵摩比丘といふ人あり。 身より光を放ちて一由旬を照らせり。 これ過去に仏に灯明を献りしゆゑなり。
◇又有↢梵摩比丘ト云人↡。従リ↠身放テ↠光ヲ照セリ↢一由旬ヲ↡。是過去ニ献リシ↢仏ニ於灯明ヲ↡故ナリ也。
また仏の御弟子の阿那律は、 仏法の座において睡眠したりし事ありき。 仏これを種々に弾呵したまふ。 阿那律、 すなはち懺悔の心を発して睡眠を断つ。 七日を経て後、 その目開けながらその眼見えずなりぬ。 これを医師に問ふに、 医師答へていはく、 人は食をもつて命とす、 眼は睡をもつて食とす。 もし人七日食せざらんに、 命あに尽きざらんや。 しかればすなはち命は医療の及ぶところにあらず。 命尽きぬる人に医療由なきがごとしと 云々。 その時仏これを哀みて、 天眼の法を教へたまふ。 すなはちこれを修して還りて天眼を得たり。 すなはち天眼第一の阿那律といへるこれなり。
◇又仏御弟子ノ阿那律ハ、於テ↢仏法ノ座ニ↡有キ↢睡眠シタリシ事↡。仏是ヲ種々ニ弾呵シ給フ。阿那律、即発シテ↢懺悔ノ心ヲ↡断ツ↢睡眠ヲ↡。経テ↢七日ヲ↡後、其ノ目乍ラ↠開ケ成リヌ↢其ノ眼不↟見エ。問ニ↢之ヲ医師ニ↡、医師答テ曰、人ハ以テ↠食ヲ為↠命ト、眼ハ以テ↠睡ヲ為↠食ト。若シ人七日不ンニ↠食、命豈ニ不ンヤ↠尽乎。然則命ハ非↢医療ノ之所ニ↟及。如シト↢命尽ヌル人ニ医療無ガ↟由 云云。爾ノ時仏哀テ↠之、教タマフ↢天眼ノ之法ヲ↡。即修シテ↠之ヲ還テ得タリ↢天眼ヲ↡。則云ヘル↢天眼第一ノ阿那律ト↡是ナリ也。
過去に仏物を盗まんと欲して塔のなかに入りて、 灯明すでに消えなんと欲するを見て、 弓の機をもつてこれを挑ぐ。 その時に忽然として改悔の心を発して、 あまつさへ無上道心を発したりき。 それよりこのかた、 生々世々に無量の福を得たり。 いま釈迦出世の時、 つひに得脱して、 またかくのごとく天眼を得たり。 これすなはちかの灯明を挑げたりし功徳によるなり。
◇過去ニ欲シテ↠盗ト↢仏物ヲ↡入テ↢于塔中ニ↡、見テ↢灯明既ニ欲スルヲ↟消ナント、以テ↢弓ノ機ヲ↡挑グ↠之ヲ。爾時ニ忽然トシテ発シテ↢改悔ノ心ヲ↡、剰ヘ発タリキ↢無上道心ヲ↡。従リ↠其以来、生生世世ニ得タリ↢無量ノ福ヲ↡。今釈迦出世ノ時、遂ニ得脱シテ、亦如ク↠是ノ得タリ↢天眼ヲ↡。是則由↧挑タリシ↢彼ノ灯明ヲ↡之功徳ニ↥也。
しかれば仏に灯明を奉るは、 あるいは光明の業なり、 あるいは天眼の業なり。 これらの因縁を思ふにも、 阿弥陀仏の光明の功徳に、 法蔵比丘の兆載永劫の修因、 いかばかりか押し計られ候ひけんと候ふなり。
然バ奉ルハ↢仏ニ於灯明ヲ↡、或ハ光明ノ之業也、或ハ天眼ノ之業也。思ニモ↢此等ノ因縁ヲ↡、阿弥陀仏ノ之光明ノ功徳ニ、法蔵比丘之兆載永劫ノ之修因、何許リカ候ケント被↢押シ計↡候也。
いまこの大法主禅門、 四十八の灯明を挑げて、 四十八の願王に奉りたまへる、 すなはち光明の業なり、 また天眼の業なり。 しかるに総じて念仏の業成就して、 かの仏国に生ずることを得つれば、 別して相好神通等の因を修せずとも、 かの仏の願力によりて、 三十二相を具して五神通を得。 その三十二相のなかに光明の相あり、 その神通のなかに天眼通あり。 しかればいたはしくその業を修せずといへども、 別してまたかくのごとく灯明をも供養したらん人は、 いかでかその験なからんや。 同じく具足する光明なりとも勝劣候ひぬと覚え候ふ。 光明の功徳、 存略かくのごとし。
今此ノ大法主禅門、挑テ↢四十八ノ灯明ヲ↡、奉リ↢四十八ノ之願王ニ↡給ヘル、即光明ノ業也、亦天眼ノ業ナリ也。然ニ総ジテ念仏ノ業成0147就シテ、得ツレバ↠生コトヲ↢彼仏国ニ↡、別シテ不トモ↠修↢相好神通等ノ因ヲ↡、依テ↢彼ノ仏ノ願力ニ↡、具シテ↢三十二相ヲ↡得↢五神通↡。其ノ三十二相ノ中ニ有↢光明相↡、其ノ神通ノ中ニ有↢天眼通↡。然バ雖↢労シク不ト↟修↢其業ヲ↡、別シテ又供↢養シタラン如ノ↠此灯明ヲモ↡之人ハ、争デカ無ンヤ其験↡乎。同ク具足スル光明ナリトモ勝劣候イヌト覚ヘ候。光明ノ功徳、存略如シ↠此。
・第三七日 寿命功徳
次に寿命の功徳は、 諸仏の寿命意楽に随ひて長短あり。 これによりて恵心僧都 (小経略記意) 四句を作りたまへり。 「あるいは仏の寿命は長く、 所化の衆生は命短きあり。 花光如来のごとき、 仏の命は十二小劫、 衆生の命は八小劫よりなり。 あるいは能化の仏は命短く、 所化の衆生は命長きあり。 月面如来のごとき、 仏の命は一日一夜、 衆生の命は五十歳なり。 あるいは能化・所化ともに命短きあり。 釈迦如来のごとき、 仏も衆生もともに八十歳なり。 あるいは能化・所化ともに命長きあり。 阿弥陀如来のごとき、 仏も衆生もともに無量歳なり」 と。
○次ニ寿命ノ功徳ハ者、諸仏ノ寿命随テ↢意楽ニ↡有リ↢長短↡。依テ↠之恵心僧都作タマヘリ↢四句ヲ↡。「或ハ有リ↢仏ノ寿命ハ長ク、所化ノ衆生ハ命短↡。如キ↢花光如来ノ↡、仏ノ命ハ十二小劫、衆生ノ命ハ八小劫ヨリ也。或ハ有↢能化ノ仏ハ命短ク、所化ノ衆生ハ命長キ。如↢月面如来ノ↡、仏ノ命ハ一日一夜、衆生ノ命ハ五十歳也。或ハ有↢能化・所化倶ニ命短キ↡。如↢釈迦如来ノ↡、仏モ衆生モ倶ニ八十歳也。或ハ有↢能化・所化倶ニ命長↡。如↢阿弥陀如来ノ↡、仏モ衆生モ倶ニ無量歳ナリ也。」
ゆゑに ¬経¼ (大経巻上) にいはく、 「仏告阿難、 無量寿仏寿命長久不可勝計。 汝寧知否。 仮使十方世界無量衆生、 皆得人身、 悉令成就声聞・縁覚、 都共推算計、 禅思一心竭其智力、 於百千億劫悉共推算計其寿命長遠之数、 不能窮尽知其限極。 声聞・菩薩・人天之衆寿命長短亦復如是。 非算数・譬喩所能知也」 と。 云々
◇故ニ¬経ニ¼云、「仏告阿難、無量寿仏寿命長久不可勝計。汝寧知否。仮使十方世界無量衆生、皆得人身、悉令成就声聞・縁覚、都共推算計、禅思一心竭其智力、於百千億劫悉共推算計其寿命長遠之数、不能窮尽知其限極。声聞・菩薩・人天之衆寿命長短亦復如是。非算数・譬喩所能知也。」 云云
ただしもし神通の大菩薩等計へたまはんには、 一大恒沙劫なり。 ¬大論¼ の意をもつて恵心これを勘へたまへり。 この数二乗凡夫の数へ知るべきところにあらず。 ゆゑに無量といふなり。
◇但シ若シ神通ノ之大菩薩0148等計ヘ給ハンニハ、一大恒沙劫也。以↢¬大論ノ¼意ヲ↡恵心勘タマヘリ↠之。此ノ数非ズ↢二乗凡夫ノ所↟可↢数知ル↡。故ニ云↢無量ト↡也。
総じて仏の功徳を論ずるに、 能持・所持の二義あり。 寿命をもつて能持といひ、 自余としてもろもろの功徳をことごとく所持といふなり。 寿命はよくもろもろの功徳を持す。 一切の万徳は、 みなことごとく寿命に持せらるるゆゑなり。 これは当座の導師が私義なり。 すなはちかの仏の相好・光明・説法・利生等の一切の功徳、 および国土の一切荘厳等のもろもろの快楽の事等、 ただかの仏の寿命なくは、 かれらの功徳・荘厳等何によりてか留まるべき。
◇総ジテ論ルニ↢仏ノ功徳ヲ↡、有リ↢能持・所持ノ二義↡。以テ↢寿命ヲ↡云↢能持ト↡、自余トシテ諸ノ功徳ヲ悉ク云↢所持ト↡也。寿命ハ能ク持↢諸ノ功徳↡。一切ノ万徳ハ、皆悉寿命ニ所ルヽ↠持セ故也。此ハ当座ノ導師ガ私義也。即彼ノ仏ノ相好・光明・説法・利生等ノ一切ノ功徳、及ビ国土ノ一切荘厳等ノ諸ノ快楽事等、只無クハ↢彼ノ仏寿命↡者、彼等ノ功徳・荘厳等依テカ↠何ニ可キ↠留ル。
しかれば四十八願のなかにも、 寿命無量の願に自余のもろもろの願をば納めたるなり。 たとひ第十八の念仏往生の願広く諸機を摂して済度するに似たりといへども、 仏寿もし短くは、 その願なほ広からず。 そのゆゑは、 もしは百歳千歳、 もしは一劫二劫にして存じましまししかば、 いまの時の衆生はことごとくその願に漏るべし。 かの仏成仏の後、 十劫を過ぎたるがゆゑなり。 これをもつてこれを思へば、 済度利生の方便寿命の長遠なるに過ぎたるはなく、 大慈大悲の誓願も寿命の無量なるに顕るるゆゑなり。
◇然者四十八願ノ中ニモ、寿命無量ノ願ニ納タル↢自余ノ諸ノ願ヲバ也。設ヒ雖↧第十八ノ念仏往生ノ願似タリト↦広摂シテ↢諸機↡而済度スルニ↥、仏寿若短者、其ノ願猶不↠広カラ。其ノ故ハ者、若ハ百歳千歳、若ハ一劫二劫ニシテ存ジ坐シシカバ者、今時ノ衆生ハ悉ク可シ↠漏ル↢其願ニ↡。彼ノ仏成仏ノ之後、過タルガ↢十劫↡故也。以テ↠之ヲ思ヘバ↠之、済度利生ノ之方便無ク↠過タルハ↢寿命ノ長遠ナルニ↡、大慈大悲ノ之誓願モ顕ルヽ↢于寿命ノ無量ナルニ↡故也。
この娑婆世界の人も、 寿をもつて第一の宝とす。 七珍万宝の倉の内に満つるも、 綾羅錦繍の箱の底に湛へたるも、 命の生きたる程ぞわが宝にてはあれ、 眼閉じぬる後にはみな人の物なり。
◇此娑婆世界ノ人モ、以↠寿ヲ為↢第一ノ宝ト↡。七珍万宝ノ之満モ↢倉ノ内ニ↡、綾羅錦繍ノ之湛タルモ↢箱ノ底ニ↡、命ノ生キタル程ゾ我ガ宝ニテハ在レ、眼閉ヌル之後ニハ皆人ノ物也。
しかれば玄奘三蔵の求法のために天竺に度りたまひし時、 ある山中において盗人に遇へり。 あらゆる財宝身上の衣装に至るまでことごとく奪ひ取られぬ、 弟子ども散々に逃げ去りぬ。 三蔵ある家の内に逃れ入りて蓮葉に隠れたまへり。 かくのごとくして盗人去りて後に、 弟子ども東のかた西のかたより来り集りて泣き合ひたり。 三蔵池のなかより出でたまひて、 さらに歎きたまはず、 あまつさへ悦びたまへり。
◇然バ者玄奘三蔵ノ為↢求法↡度タマヒシ↢天竺ニ↡時、於テ↢或ル山中ニ↡遇ヘリ↢盗人ニ↡。諸有ル財宝至マデ↢身上衣装ニ↡悉ク被レヌ↢奪取↡、弟子共散散ニ逃ゲ去リヌ。三蔵逃↢入テ或ル家ノ内ニ↡隠タマヘリ↢蓮葉ニ↡。如シテ↠是盗人去テ後ニ、弟0149子共自リ↢東タ西タ↡来リ集泣キ合タリ。三蔵自リ↢池ノ中↡出給テ、更ニ不↠歎タマ、剰ヘ悦給ヘリ。
弟子ら怪みて問ひたてまつりて申すやうは、 これ浅ざりき事に遇ひたまへり、 何事に悦びたる気色にてはましますぞと。 三蔵答へていはく、 われ盗人のために第一の宝を取られず、 なんぞ慶ばずんやと。 弟子らまた申すやうは、 すでに裸形に及ぶまで剥ぎ取られおはりぬ、 また何の残物あるやと。 また答へたまふやうは、 この世において命に過ぎたる宝なし、 命もし活きばまた他の宝を得べきがゆゑなり。 わが朝の俗書にも 「生を大宝とす」 といへり。 われいまかの盗人のためにこの命を奪はれず、 これに過ぎたる悦びやあるべきと答へたまへり。
弟子等怪ミテ奉テ↠問申様ハ、遇タマヘリ↢是浅猿キ事ニ↡、何事ニ悦タル気色ニテハ坐ゾト乎。三蔵答曰、我為ニ↢盗人ノ↡不↠被↠取↢第一ノ宝ヲ↡、何ゾ不ンヤト↠慶耶。弟子等又申様ハ、既ニ及マデ↢裸形ニ↡被↢剥ギ取↡畢ヌ、亦有ルヤ↢何ノ残物↡乎。又答タマフ様ハ、於↢此ノ世ニ↡無シ↢過タル↠命ニ宝↡、命若活キバ者又可↠得↢他ノ之宝ヲ↡故也。我朝ノ俗書ニモ云ヘリ↣「生ヲ為ト↢大宝↡。」我今為ニ↢彼ノ盗人ノ↡不↠奪レ↢此ノ命ヲ↡、可キ↠有↢過タル↠之悦ヤ↡答給ヘリ。
その後龍智阿闍梨この事を聞きて、 十方の旦那を勧めて種々の財宝を集めて玄奘三蔵の許へ送り遣はす。 その宝前々に過ぎたること比校にあらず、 たちまちに三蔵の言に叶へり。 さほどの翻経の三蔵あながちに身の命を惜むべきにあらずといへども、 世間の法に随ひてしかのごとく宣べたまへけるにやとぞ覚へ候ふ。
其ノ後龍智阿闍梨聞テ↢此ノ事ヲ↡、勧テ↢十方旦那ヲ↡集テ↢種種ノ財宝ヲ↡送リ↢遣ス玄奘三蔵ノ許ヘ↡。其ノ宝過タルコト↢前前ニ↡非↢比校ニ↡、忽ニ叶ヘリ↢三蔵ノ言ニ↡。左程ノ翻経之三蔵強チニ雖↠非ト↠可キニ↠惜ム↢身ノ命ヲ↡、随テ↢世間ノ法ニ↡如ク↠然ノ宣給ケルニヤトゾ耶覚候。
弥陀如来の寿命無量の願を発したまひけんも、 御身のために長寿の果報を求めたまふにはあらず。 済度利生の久しかるべきため、 また衆生をして欣求の心を発さしめんがためなり。 一切衆生はみな寿の長き事を願ふゆゑなり。 およそかの仏の功徳のなかには、 ただ寿命無量の徳を備へたまふに過ぎたる事は候はず。
○弥陀如来ノ発シタマヒケンモ↢寿命無量ノ願ヲ↡、非↧為ニ↢御身ノ↡求タマフニハ↦長寿ノ之果報ヲ↥。為↢済度利生ノ可キ↟久カル、又為ナリ↠令ンガ↣衆生ヲシテ発サ↢欣求ノ之心ヲ↡也。一切衆生ハ皆願フ↢寿ノ長事ヲ↡故ナリ也。凡彼ノ仏ノ功徳ノ中ニハ、只過タル↠備タマフニ↢寿命無量ノ徳ヲ↡事ハ不↠候也。
このゆゑに今日講讃せられたまへる ¬双巻経¼ の題にも 「無量寿経」 といへり。 同じくかの仏の名号なりとはいへども、 無量光経とはいはず。 隋朝より前の旧訳には、 みな経のなかに宗とある事を撰びて、 詮を抽きて略を存じてその題目となす。 すなはちこの ¬経¼ の詮には阿弥陀如来の功徳を説くなり、 その功徳のなかには光明無量・寿命無量の二義を備へたり。 そのなかにはまた寿命なほ最勝なり、 ゆゑに 「無量寿経」 と名づくるなり。
◇是ノ故ニ今日被タマヘル↢講讃セ↡¬双巻経ノ¼題ニモ云ヘリ↢「無量寿経ト」↡。同ク雖↢彼ノ仏ノ名号ナリトハ↡、不↠云ハ↢無量光経トハ↡。従リ↢隋朝↡前ノ旧訳ニハ、皆撰テ↢経ノ中ニ有↠宗ト事ヲ↡、抽テ↠詮ヲ存ジテ↠略ヲ為↢其ノ題目ト↡。則此ノ¬経ノ¼詮ニハ説ク↢阿弥陀如来ノ功徳ヲ↡也。其ノ功徳ノ之中ニハ備タリ↢光明無量・寿命無量ノ二義ヲ↡。其ノ中ニハ又寿命猶最勝ナリ也、故ニ名0150↢「無量寿経ト」↡也。
また釈迦如来の功徳のなかには、 久遠実成の旨を顕せるをもつて殊勝甚深の事となせり。 すなはち ¬法華経¼ に 「寿量品」 とて説かれたり。 二十八品のなかには、 この品をもつて勝とす。 まことに知るべし、 諸仏の功徳にも寿命をもつて第一功徳とす、 衆生の宝にも命をもつて第一の宝とすといふことを。
◇又釈迦如来之功徳ノ中ニハ、以テ↠顕セルヲ↢久遠実成之旨ヲ↡而為セリ↢殊勝甚深ノ事ト↡。則¬法華経ニ¼被タリ説↢「寿量品トテ」↡。二十八品ノ中ニハ、以テ↢此ノ品ヲ↡為↠勝ト。誠ニ知ベシ、諸仏ノ功徳ニモ以テ↢寿命ヲ↡為↢第一功徳ト↡、衆生ノ之宝ニモ以テ↠命ヲ為↢第一ノ宝ト↡云事ヲ。
それ寿長き果報を得ることは、 衆生に飲食を与へ、 また物の命を殺さざるを業因とするなり。 因と果とはみな相応する事なれば、 食してすなはち命を続くるがゆゑに、 食を与ふるはすなはち命を与ふるなり。 不殺生戒を持つもまた衆生の命を助くるなり。 ゆゑに飲食をもつて衆生に施与し、 慈悲に住して不殺生戒を持てば、 かならず長命の果報を得るなり。
◇夫レ得コトハ↢寿長キ果報ヲ↡者、与ヘ↢衆生ニ飲食ヲ↡、又不ルヲ↠殺↢物ノ命ヲ↡為↢業因ト↡也。因ト与ハ↠果皆相応スル事ナレバ者、食シテ則続ガ↠命故ニ、与ルハ↠食ヲ則与↠命也。持モ↢不殺生戒ヲ↡亦助ル↢衆生ノ命ヲ↡也。故ニ以テ↢飲食ヲ↡施↢与シ衆生ニ↡、住シテ↢慈悲ニ↡持テ↢不殺生戒ヲ↡者、必得↢長命ノ果報ヲ↡也。
しかるにかの阿弥陀如来は、 すなはち願行あひ助けてこの寿命無量の徳を成就したまへるなり。 願とは、 四十八願のなかの第十三の願 (大経巻上) にいはく、 「もしわれ仏を得んに、 寿命よく限量ありて、 下百千億那由他劫に至らば、 正覚を取らじ」 と。 云々 行とは、 かの願を立てたまひて後無央数劫の間、 また不殺生戒を持てり。 また一切凡聖において、 飲食・医薬を供養し施与したまへるなり。 これはこれ阿弥陀如来の寿命の功徳なり。
◇然ニ彼阿弥陀如来ハ、則願行相助テ成↢就タマヘル此寿命無量ノ徳ヲ↡也。願トハ者、四十八願ノ中ノ第十三ノ願ニ云ク、「設シ我得ンニ↠仏ヲ、寿命有テ↢能ク限量↡、下至バ↢百千億那由他劫ニ↡者、不↠取↢正覚ヲ↡。」 云云 行トハ者、立タマヒテ↢彼ノ願ヲ↡之後無央数劫ノ之間、又持↢不殺生戒ヲ↡。又於テ↢一切凡聖ニ↡、供↢養シ施↣与シ飲食・医薬ヲ↡給ヘル也。此ハ是阿弥陀如来ノ寿命ノ功徳也。
ゆゑに知りぬこの逆修五十箇日の間の供仏施僧の営には、 しかしながら寿命長遠の業なり。 たとひその業因を修せずともかの国に生ずることを得るは、 ただ仏願力によりて無量の命を備ふ。 いかにいはんやかくのごとくかさねて業因を修しましまさんをや。 しかればすなはちすでに四十八灯を挑げてまた四十八種を備ふること、 自然長久の寿の上にかさねて無量の寿を副へ、 任運得生の光の上になほ最勝の光を増さんとなり。
故ニ知ヌ此ノ逆修五十箇日ノ間ノ供仏施僧ノ之営ニハ、併ラ寿命長遠ノ業也。設ヒ不トモ↠修↢其ノ業因ヲ↡得ル↠生コトヲ↢彼国ニ↡者、唯由テ↢仏願力ニ↡備フ↢無量ノ命ヲ↡。何況ヤ如ク↠是重テ修シ↢業因ヲ↡坐ン乎。然レバ則既ニ挑ゲテ↢四十八灯ヲ↡亦備コト↢四十八種ヲ↡、自然長久ノ寿ノ上ニ重テ副ヘ↢無量ノ之寿ヲ↡、任運得生ノ光ノ上ニ猶増サント↢最勝ノ之光ヲ↡也0151。
弥陀如来の光明・寿命の功徳、 略を存ずるにかくのごとし。
弥陀如来ノ光明・寿命ノ之功徳、存↠略如シ↠斯ノ。
・第三七日 弥陀入滅
かの仏かくのごとく寿命無量なりといへども、 また涅槃隠没の期まします。 これにつきて哀なる事とこそ候へ。 道綽禅師念仏の衆生において始終の両益ありと釈したまへり。 その終益を明かすに、 すなはち ¬観音授記経¼ (意) を引きていはく、 「阿弥陀仏、 住世の寿命、 兆載永劫の後滅度したまひて、 ただ観音・勢至衆生を引摂したまふことあるべし。 その時に、 一向にもつぱら念仏して往生したる衆生のみ、 つねに仏を見たてまつること、 滅したまはざるがごとし。 余行往生の衆生は、 見たてまつらず」 といへば、 往生を得てんうへには、 その時までの事はあまりの事ぞ、 とてもかくてもありなんと覚えぬべく候へども、 その時に臨みては、 悲しかるべき事にてこそ候へ。
○彼仏如↠是雖↢寿命無量ナリト↡、又有マス↢涅槃隠没ノ之期↡。付テ↠之ニ哀ナル事コソ候ヘ矣。道綽禅師釈シ↧於テ↢念仏衆生ニ↡有リト↦始終ノ之両益↥給ヘリ。明スニ↢其ノ終益ヲ↡、則引テ↢¬観音授記経ヲ¼云ク、「阿弥陀仏、住世ノ寿命、兆載永劫ノ後滅度シタマヒテ、可シ↠有ル↣但観音・勢至引↢摂シタマフコト衆生ヲ↡。爾時ニ、一向ニ専ラ念仏シテ往生シタル衆生ノミ、常ニ奉ルコト↠見↠仏ヲ、如シ↠不ルガ↠滅タマハ。余行往生ノ衆生ハ、不ト↠奉↠見」云ヘバ者、得テン↢往生ヲ↡之上ニハ者、其ノ時マデノ事ハ余リノ事ゾ、左右有ナント可ク↠覚ヌ候ヘドモ、臨テハ↢其ノ時ニ↡、可↠悲カル事ニテコソ候ヘ。
かの釈尊入滅の有様にても、 推し量らるべく候ふなり。 証果の羅漢・深位の大士も、 非滅・現滅の理を知りながら、 当時別離の悲に堪へずして、 天に仰ぎ地に伏して、 哀哭悲泣しき。 いはんや未証の衆生をや、 浅識の凡愚をや、 乃至龍神八部も五十二類も、 およそ涅槃の一会悲歎の涙を流さずといふことなし。 しかのみならず沙羅林の梢、 抜提河の水、 総て山河・渓谷・草木・樹林も、 みな哀傷の色を顕しき。
◇彼ノ釈尊入滅ノ有様ニテモ、可ク↢推シ量ラル↡候也。証果ノ羅漢・深位ノ大士モ、乍↠知リ↢非滅・現滅ノ之理ヲ↡、不シテ↠堪↢当時別離ノ悲ニ↡、仰ギ↠天ニ伏シテ↠地ニ、哀哭悲泣シキ。況ヤ未証ノ衆生ヲヤ乎、浅識ノ凡愚ヲヤ乎、乃至龍神八部モ五十二類モ、凡ソ涅槃ノ之一会無シ↠不ト云コト↠流↢悲歎ノ之涙ヲ↡。加之沙羅林ノ之梢、抜提河ノ之水、総テ山河・渓谷・草木・樹林モ、皆顕シキ↢哀傷ノ之色ヲ↡。
しかればすなはち過去を聞きて未来を思ひ、 穢土に准へて浄土を知るに、 かの阿弥陀仏の衆宝荘厳の国土に隠れ、 涅槃寂滅の道場に入りたまひて後、 八万四千の相好ふたたび現ずることなく、 無量無辺の光明永く照らすことなからん時、 かの会の衆生人天等、 悲哀の思、 恋慕の志、 いかばかりかは候ふべき。 七宝自然の林なりとも、 八功如意の水なりとも、 名花・軟草の色も、 鳧雁・鴛鴦の音も、 いかにかその時を知らざらんや。 浄穢は土異なりといへども、 世尊の滅度すでに異なることなし。 迷悟は心替れりといへども、 所化の悲恋なんぞ易ることあらんや。
◇然則聞テ↢過去ヲ↡思ヒ↢未来ヲ↡、准ヘテ↢穢土ヲニ知ルニ↢浄土ヲ↡、彼ノ阿弥陀仏ノ之隠レ↢衆宝荘厳ノ国土ニ↡、入タマヒテ↢涅槃寂滅ノ道場ニ↡之後、八万四千ノ之相好無ク↢再現コト↡、無量無辺ノ之光明無ラン↢永ク照コト↡之時、彼ノ会ノ衆生人天等、悲哀ノ之思ヒ、恋慕ノ之志、何許カハ可キ↠候フ。七宝自然之林ナリトモ、八功如意ノ之水0152ナリトモ、名花・軟草ノ之色モ、鳧雁・鴛鴦ノ之音モ、何ニカ不ラン↠知↢其時ヲ↡耶。浄穢ハ雖↢土異リト↡、世尊ノ滅度既ニ無シ↠異コト↡。迷悟ハ雖↢心替レリト↡、所化ノ悲恋何ゾ有ンヤ↠易ハルコト乎。
この娑婆世界の凡夫、 具縛の人の事と心と相応せず。 意楽格別にしてつねに違背し、 たがひに厭悪するにだにも、 あるいは父母となりあるいは師弟ともなり、 あるいは夫妻の契をも結び、 あるいは朋友の語をも作して、 しばらくも副ひ、 また馴れぬれば、 遠近の境を隔て、 前後の生を改めて、 かくのごとく生きても死しても、 別を告ぐる時には名残を惜む心たちまちに催し、 悲に堪へずして涙押へがたき事にてこそ候へ。
◇此娑婆世界ノ凡夫、具縛ノ人ノ之事ト与↠心不↢相応↡。意楽格別ニシテ而常ニ違背シ、互ニ厭悪スルニダモ、或ハ成リ↢父母ト↡或ハ成↢師弟トモ↡、或ハ結ビ↢夫妻之契ヲモ↡、或ハ作シテ↢朋友之語ヒヲモ↡、暫モ副ヒ、亦馴ヌレバ者、隔↢遠近ノ之境ヲ↡、改テ↢前後ノ生ヲ↡、如↠是生キテモ矣死テモ矣、告グル↠別レヲ之時ニハ惜ム↢名残ヲ↡之心忽ニ催シ、不シテ↠堪ヘ↠悲ニ之涙難キ↠押ヘ事ニテコソ候エ。
いかにいはんやかの仏は、 内には慈悲哀愍の心をのみ蓄へてましませば、 馴れたてまつるに随ひていよいよ昵じく、 外には見者無厭の徳を備へましませば、 見たてまつるごとにいや珍らなるをや。 まことに無量永劫の間、 朝夕に万徳円満の御容を拝したてまつり、 昼夜に四弁無窮の御音に馴れたてまつりて、 恭敬讚仰し、 随逐給仕して、 過ぎたらん心地に永く見たてまつらざらん事になりたらんばかり、 悲かるべき事や候ふべき。 無有衆苦の境、 離諸妄想の所なりといへども、 一事はさこそ覚へ候ふらめ。
◇何ニ況ヤ彼ノ仏ハ、内ニハ蓄ヘテ↢慈悲哀愍ノ之心ヲノミ↡坐セバ者、随テ↠奉ルニ↠馴レ弥昵ジク、外備ヘ↢見者無厭之徳ヲ↡坐セバ者、毎ニ↠奉↠見長珍哉。実ニ無量永劫ノ間、朝夕ニ奉↠拝シ↢万徳円満ノ之御容↡、昼夜ニ奉テ↠馴レ↢四弁無窮ノ之御音ニ↡、恭敬讚仰シ、随逐給仕シテ、過タラン之心地ニ成タラン↢永ク不↠奉↠見事ニ↡許、可キ↠悲カル事ヤ可キ↠候。雖↢無有衆苦ノ之境、離諸妄想之所也ト↡、一事ハ左コソ覚ヘ候ラメ矣。
それにもとのごとく見たてまつりて改はる事のなからん事は、 まことに哀に有りがたき事とこそ覚へ候へ。 これすなはち念仏の一行はかの仏の本願なるがゆゑなり。 されば同じくは往生を願はん人、 専修念仏の一門より入るべきなり。
◇其レニ如ク↠本ノ奉テ↠見無ラン↢改ハル事ノ↡事ハ、実ニ哀ニ難↠有事トコソ覚候ヘ。是則念仏ノ一行ハ彼仏ノ本願ナルガ故ナリ也。爾者同クハ願ハン↢往生ヲ↡人、従↢専修念仏ノ一門↡可キ↠入也。
・第三七日 大経
△次に ¬双巻無量寿経¼ は、 浄土の三部経のなかにはなほこの ¬経¼ を根本とするなり。 そのゆゑは一切の諸善は願を根本とす。 しかるにこの ¬経¼ には弥陀如来の因位の願を説くにいはく、 乃往過去久遠無量無数劫に仏ましまして、 世自在王仏と申しき。 その時一人の国王ありき。 仏の説法を聞きて、 無上道心を発して、 国を捨て王を棄てて、 出家して沙門となれり。 名づけて法蔵比丘といひき。 すなはち世自在王仏の所に詣でて、 右に遶ること三帀して、 長跪合掌して仏を讃じたてまつりてまうしてまうさく、 われ浄土を設けて衆生を度せんと欲ふ。 願はくはわがために経法を説きたまへと。
◇次ニ¬双巻無量寿経ハ¼者、浄土ノ三部経ノ中ニハ猶此ノ¬経ヲ¼為↢根本ト↡也。其ノ故ハ一切ノ諸善ハ願ヲ為↠根本ト↡。然ニ此¬経ニハ¼説ニ↢弥陀如来ノ因位ノ願ヲ↡謂ク、乃往過去久遠無0153量無数劫ニ有シテ↠仏、申シキ↢世自在王仏ト↡。其ノ時有リキ↢一人ノ国王↡。聞テ↢仏ノ説法ヲ↡、発シテ↢無上道心ヲ↡、捨テ↠国ヲ棄テヽ↠王ヲ、出家シテ成レリ↢沙門ト↡。名テ曰キ↢法蔵比丘ト↡。即詣デヽ↢世自在王仏ノ所ニ↡、右ニ遶コト三帀シテ、長跪合掌シテ奉テ↠讃ジ↠仏白シテ言ク、我設テ↢浄土ヲ↡欲フ↠度ント↢衆生ヲ↡。願ハ為ニ↠我ガ説タマヘト↢経法ヲ↡。
その時に世自在王仏、 法蔵比丘のために二百一十億の諸仏の浄土の人天の善悪、 国土の麁妙を説き、 またこれを現じて与へたまふ。 法蔵比丘仏の所説を聞き、 また厳浄の国土を見おはりて後、 五劫の間思惟し取捨して、 二百一十億の浄土のなかより摂取して四十八の誓願を設けたまへり。
◇爾ノ時ニ世自在王仏、為ニ↢法蔵比丘ノ↡説キ↢二百一十億ノ諸仏ノ浄土ノ人天ノ善悪、国土ノ麁妙ヲ↡、又現ジテ↠之与ヘ給フ。法蔵比丘聞ヽ↢仏ノ所説ヲ↡、又見↢厳浄ノ国土ヲ↡已テ後、五劫ノ間思惟シ取捨シテ、従リ↢二百一十億ノ浄土ノ中↡摂取シテ而設ケ↢四十八ノ誓願ヲ↡給ヘリ。
二百一十億の国のなかより、 善悪のなかには悪を捨てて善を取り、 麁妙のなかには麁を捨てて妙を取り、 かくのごとく取捨し撰択して、 この四十八願を発したまふがゆゑに、 この ¬経¼ の同本異訳の ▲¬大阿弥陀経¼ には、 この願をば撰択の願と説かれたり。
◇従リ↢二百一十億ノ之国ノ中↡、善悪ノ之中ニハ捨テ↠悪ヲ取↠善ヲ、麁妙ノ之中ニハ捨テ↠麁ヲ取リ↠妙ヲ、如ク↠是取捨シ撰択シテ、発タマフガ↢此ノ四十八願ヲ↡故ニ、此¬経ノ¼同本異訳ノ¬大阿弥陀経ニハ¼、此願ヲバ被タリ↠説カ↢撰択ノ願ト↡。
その撰択のやう、 ほぼ申し開き候へば、 まづはじめの▲無三悪趣の願は、 かの諸仏の国土のなかに、 三悪道あらば撰捨して、 三悪道なきを撰取してわが願となせり。 次に▲不更悪趣の願とは、 かの諸仏国のなかに、 たとひ国のなかには三悪道なしといへども、 かの国の衆生、 他方の三悪道に更り堕することある国をば撰捨して、 総じて三悪道に更らざる国を撰取してわが願となせり。 次に▲悉皆金色の願、 次に▲無有好醜の願、 およそ一々の願みなかくのごとく知るべし。
◇其ノ撰択ノ之様、粗申開候ヘ者、◇先初ノ無三悪趣願ハ者、彼ノ諸仏ノ国土ノ中ニ、撰↣捨シテ有ヲバ↢三悪道↡、撰↣取テ無ヲ↢三悪道↡而為↢我ガ願ト↡。◇次ニ不更悪趣ノ願トハ者、撰↧捨テ彼諸仏国ノ中ニ、設ヒ国ノ中ニハ雖↠無ト↢三悪道↡、彼ノ国ノ衆生、有↣更ヘリ↢堕ルコト他方ノ三悪道ニ↡之国ヲバ↥、撰↧取テ総ジテ不↠更↢三悪道ニ↡之国↥而為↢我ガ願ト↡也。◇次ニ悉皆金色ノ願、次ニ無有好醜ノ願、凡ソ一一ノ願皆如ク↠此ノ可シ↠知ル。
▲第十八の念仏往生の願とは、 かの二百一十億の諸仏の国土のなかにあるいは布施をもつて往生の業とする国あり、 あるいは持戒および禅定・智恵等、 乃至発菩提心、 持経・持呪等、 孝養父母・奉事師長、 かくのごとき種々の行をもつて、 おのおの往生の行とする国あり、 あるいはまたもつぱらその国の教主の名号を称念するをもつて、 往生の行とする国あり。 しかるにかの法蔵比丘、 余行をもつて往生の行とするの国を撰捨して、 名号をもつて往生の行とするの国を撰取して、 わが土の往生の行もかくのごとくならんと立てたまへるなり。
◇第十八念仏往生ノ願トハ者、彼ノ二百一十億ノ諸仏ノ国土ノ中ニ或ハ有↧以テ↢布施ヲ↡為ル↢往生0154ノ業ト↡之国↥、或ハ有↧持戒及ビ禅定・智恵等、乃至発菩提心、持経・持呪等、孝養父母・奉事師長、以↢如ノ↠是ノ種種ノ行ヲ↡、各為↢往生ノ行↡之国↥、或又有↧以↣専称↢念スルヲ其国ノ教主ノ名号↡、為↢往生ノ行ト↡之国↥。然ニ彼ノ法蔵比丘、撰↧捨テヽ以テ↢余行ヲ↡為ノ↢往生ノ行↡之国↥、撰↧取テ以↢名号↡為ノ↢往生ノ行ト↡之国↥、立タマヘル↢我土ノ往生ノ之行モ如也トナラント↟是也。
次に来迎引摂の願、 繋念往生の願、 みなかくのごとく摂取して願じたまへり。 およそ始め無三悪趣の願より終り得三法忍に至るまで、 思惟撰択するの間に五劫を逕たまへるなり。 かくのごとく撰択し摂取して後に、 仏の所に詣でて一々にこれを説きたまふ。
◇次ニ来迎引摂ノ願、繋念往生ノ願、皆如↠此摂取シテ願ジ給ヘリ。凡ソ始メ自↢無三悪趣ノ願↡終リ至マデ↢得三法忍ニ↡、思惟撰択スルノ之間ニ逕タマヘル↢五劫ヲ↡也。如ク↠是撰択シ摂取シテ後ニ、詣デヽ↢仏所ニ↡一一ニ説キタマフ↠之。
その四十八願を説きおはりて後、 また偈 (大経巻上) をもつてのたまはく、 「われ超世の願を建つ、 かならず無上道に至らん。 この願満足せずんば、 誓ひて正覚をならじ。 乃至 この願もし剋果せば、 大千感動すべし、 虚空の諸天人、 まさに珍妙の華を雨ふらすべし」 と。 云々
◇説キ↢其ノ四十八願ヲ↡已テ後、又以↠偈ヲ曰ハク、「我建↢超世ノ願ヲ↡、必ズ至ラン↢無上道ニ↡。此ノ願不ンバ↢満足↡、誓テ不↠成↢正覚ヲ↡。乃至 斯ノ願若シ剋果セバ、大千応シ↢感動ス↡、虚空ノ諸天人、当ニ↠雨↢珍妙ノ華ヲ。」 云云
かの比丘この偈を説きおはるに、 時に応じてあまねく地、 六種に震動し、 天より妙華を雨ふらしてその上に散ず、 自然の音楽空中に聞ゆ。 また空中に讃じて (大経巻上) いはく、 「決定してかならず無上正覚をなるべし」 と。
◇彼ノ比丘説キ↢此ノ偈ヲ↡竟ルニ、応ジテ↠時ニ普地、六種ニ震動シ、天ヨリ雨シテ↢妙華↡散ズ↢其ノ上ニ↡、自然ノ音楽聞ユ↢于空中ニ↡。又空中ニ讃ジテ曰、「決定シテ必成ベシ↢無上正覚↡。」
しかればかの法蔵比丘の四十八願は一々に成就して決定して成仏すべしといふことは、 その初発の願の時、 世自在王仏の御前において、 諸魔・龍神八部、 一切大衆のなかにして、 かねて顕れたる事なり。
◇然バ者言コトハ↣彼ノ法蔵比丘ノ四十八願ハ一一ニ成就シテ決定シテ可ト↢成仏↡者、其ノ初発ノ願ノ時、於テ↢世自在王仏ノ御前ニ↡、諸魔・龍神八部、一切大衆中ニシテ、兼テ顕レタル事也。
しかればかの世自在王仏の法のなかには、 法蔵菩薩の四十八願経とてこれを受持し読誦し、 いま釈迦法のなかなりといへども、 かの仏の願力を仰ぎて、 かの国に生ぜんと願はんものは、 この法蔵菩薩の四十八願の法門に入るべきなり。 すなはち道綽禅師・善導和尚等もこの法蔵菩薩の四十八願の法門に入りたまふなり。
◇爾バ者彼ノ世自在王仏ノ之法ノ中ニハ、法蔵菩薩ノ四十八願経トテ受↢持シ読↣誦シ之ヲ↡、今雖↢釈迦法ノ中ナリト↡、仰テ↢彼ノ仏ノ願力ヲ↡、願ハン↠生ント↢彼ノ国ニ↡者0155ハ、入ルベキ也↢此ノ法蔵菩薩ノ四十八願ノ法門ニ↡也。即道綽禅師・善導和尚等モ入リ↢此法蔵菩薩四十八願ノ法門ニ↡給也。
かの華厳宗の人は ¬華厳経¼ を持ち、 あるいは三論宗の人は ¬般若¼ 等を持ち、 あるいは法相宗の人は ¬瑜伽¼・¬唯識¼ を持ち、 あるいは天台宗の人は ¬法華¼ を持ち、 あるいは善無畏は ¬大日経¼ を持ち、 また金剛智は ¬金剛頂経¼ を持つ。 かくのごとくおのおの宗に随ひて依経・依論を持つなり。
◇彼華厳宗ノ人ハ持↢¬華厳経ヲ¼↡、或ハ三論宗ノ人ハ持↢¬般若¼等ヲ↡、或ハ法相宗ノ人ハ持↢¬瑜伽¼・¬唯識ヲ¼↡、或ハ天臺宗ノ人ハ持↢¬法華¼↡、或ハ善無畏ハ持↢¬大日経ヲ¼↡、又金剛智ハ持↢¬金剛頂経ヲ¼。↡如ク↠是ノ各随テ↠宗ニ持↢依経・依論ヲ↡也。
いま浄土を宗とせん人はこの ¬経¼ によりて四十八願の法門を持つべきなり。 この ¬経¼ を持つとは、 すなはち弥陀の本願を持つなり。 すなはち法蔵菩薩の四十八願の法門なり。
◇今宗トセン↢浄土ヲ↡人ハ依テ↢此ノ¬経ニ¼↡可↠持↢四十八願ノ法門ヲ↡也。持トハ↢此¬経ヲ¼↡者、則持↢弥陀ノ本願ヲ↡者也。即法蔵菩薩ノ四十八願ノ法門也。
その四十八願のなかに、 第十八の念仏往生の願をもつて本体とするなり。 ゆゑに善導 (法事讃巻上) のいはく、 「弘誓多門四十八、 偏標念仏最為親」 と。 云々 念仏往生とは、 源この本願より起れり。
◇其ノ四十八願ノ中ニ、以テ↢第十八ノ念仏往生ノ願ヲ↡而為↢本体ト↡也。故ニ善導ノ曰ク、「弘誓多門四十八、偏標念仏最為親」。云云 念仏往生トハ者、源従リ↢此ノ本願↡起レリ。
しかれば ¬観経¼・¬弥陀経¼ に説くところの念仏往生の旨も、 乃至余の諸経のなかに説くところも、 みなこの ¬経¼ に説くところの本願をもつて根本とするなり。 なにをもつてかこれを知るとならば、 ¬観経¼ に説くところの光明摂取を善導 (礼讃) 釈したまふに、 「唯有念仏蒙光照、 当知本願最以強」 と。 云々 この釈の意は、 本願のゆゑに光明摂取すと聞へたり。
◇然バ者¬観経¼・¬弥陀経¼所ノ↠説念仏往生ノ旨モ、乃至余ノ諸経ノ中ニ所モ↠説、皆以テ↢此ノ¬経ニ¼所ノ↠説本願↡為↢根本ト↡也。何ヲ以テカ知ナラバ↠之者、¬観経ニ¼所ノ↠説ク光明摂取ヲ善導釈シ給ニ、「唯有念仏蒙光照、当知本願最以強。」 云云 此ノ釈ノ意ハ者、本願ノ故ニ光明摂取スト聞ヘタリ矣。
またこの ¬経¼ の下品上生にならべて聞経と称仏とを説くに、 称仏の功のみを讃じて聞経を讃じたまはざるところを善導釈して (散善義) いはく、 「望仏願意者、 唯勧正念称名。 往生義疾雑散の業と同じからず」 と。 云々 これまた本願のゆゑに、 称仏をば讃じたまふと聞えたり。
◇又此ノ¬経ノ¼下品上生ニ双ベテ説ニ↢聞経ト称仏トヲ↡、讃ジテ↢称仏ノ之功ノミヲ↡不↠讃タマハ↢聞経ヲ↡之所ヲ善導釈シテ云、「望仏願意者、唯勧正念称名。往生義疾不↠同↢雑散之業ト↡。」 云云 此亦本願故、讃タマフト↢称仏ヲバ↡聞ヘタリ矣。
また (散善義) 同 ¬経¼ の付属の文を釈したまふにも、 「望仏本願、 意在衆生一向専称弥陀仏名」 と。 云々 これまた弥陀の本願なるがゆゑに、 釈尊も付属し、 流通したまふと聞えたり。
◇又釈シタマフニモ↢同¬経ノ¼付属ノ文ヲ↡、「望0156仏本願、意在衆生一向専称弥陀仏名。」 云云 此亦弥陀ノ本願ナルガ故、釈尊モ付属シ、流通シ給ト聞ヘタリ矣。
また ¬阿弥陀経¼ に説くところの一日七日の念仏を善導 (法事讃巻下) 讃じ給に、 「ただちに為弥陀弘誓重、 致使凡夫念即生」 と。 云々 これまた一日七日の念仏も、 弥陀の本願なるがゆゑに往生すと聞えたり。
◇又¬阿弥陀経ニ¼所ノ↠説之一日七日ノ念仏ヲ善導讃ジ給ニ、「直ニ為弥陀弘誓重、致使凡夫念即生。」 云云 此亦一日七日ノ念仏モ、弥陀ノ本願ガ故ニ往生スト聞タリ矣。
乃至 ¬双巻経¼ のなかにも、 三輩以下の説文はみな本願による。 およそこの 「三部経」 の三つに限らず、 一切諸経のなかに説くところの念仏往生は、 みなこの ¬経¼ の本願に望みて説くなり。 これに例して知るべし。
◇乃至¬双巻経ノ¼中ニモ、三輩已下ノ説文ハ皆由ル↢本願ニ↡也。凡ソ不↠限ラ↢此ノ「三部経ノ」三ツニ↡、一切諸経ノ中ニ所ノ↠説之念仏往生ハ、皆望テ↢此ノ¬経ノ¼本願↡説ナリ也。例↠之ニ応シ↠知ル矣。
▲そもそも法蔵菩薩、 いかなれば余行を捨てて、 ただ称名念仏の一行をもつて本願と立てたまへるぞといふに、 これに二義あり。 一には念仏は殊勝の功徳なるがゆゑに、 二には念仏は行じやすきがゆゑに諸機にあまねきがゆゑに。
◇抑法蔵菩薩、何ナレバ者捨テヽ↢余行↡、唯以テ↢称名念仏ノ一行ヲ↡而立テ↢本願ト↡給ヘルゾト云ニ、此ニ有リ↢二義↡。一ニハ者念仏ハ殊勝ノ功徳ナルガ故、二ニハ者念仏ハ易ガ↠行ジ故ニ遍ガ↢于諸機↡故ニ。
▲はじめに殊勝の功徳のゆゑとは、 かの仏は因果・総別の一切の万徳、 みなことごとく名号に顕るるがゆゑに、 一度も南無阿弥陀仏と唱ふれば、 大善根を得るなり。 これをもつて ¬西方要決¼ にいはく、 「諸仏の願行はこの果名を成ず、 ただよく号を念ずるに衆徳を具包す、 ゆゑに大善を成じて往生を廃せず」 と。 云云 またこの¬ 経¼ (大経巻下) にすなはち一念を指して 「無上功徳」 と讃じたり。 しかれば殊勝の大善根なりゅゑに、 これを撰びて本願としたまへるなり。
◇初ニ殊勝功徳故トハ者、彼ノ仏ハ因果・総別ノ一切ノ万徳、皆悉ク名号ニ顕ガ故ニ、一度モ唱レバ↢南無阿弥陀仏ト↡、得↢大善根ヲ↡也。是以¬西方要決ニ¼云、「諸仏願行成↢此果名↡、但能念↠号具↢包衆徳↡、故成大善不↠廃↢往生↡。」 云云 又此ノ¬経ニ¼即指シテ↢一念ヲ讃タリ↢「無上功徳ト」↡。然バ者殊勝ノ大善根ナル故ニ、撰テ↠之ヲ為↢本願↡給ヘル也。
▲二に修しやすきがゆゑにとは、 南無阿弥陀仏と申すことは、 いかなる愚痴のものも少きも老たるも、 やすく申さるるがゆゑに、 平等の慈悲の御意をもつて、 その行と立てたまへり。
◇二ニ易修故者、申コトハ↢南無阿弥陀仏ト↡者、何ナル愚痴ノ者モ少キモ老タルモ、易ク被ガ↠申故ニ、以テ↢平等慈悲ノ御意ヲ↡、立↢其之行ト↡給ヘリ。
もし布施をもつて本願としたまはば、 貧窮困乏の輩は往生の望を断つ。 もし持戒をもつて本願としたまはば、 破戒のもの・無戒の類はまた往生の望を断つべし。 もし禅定をもつて本願としたまはば、 散乱麁動の輩は往生すべからず。 もし智恵をもつて本願としたまはば、 愚痴下智のものは往生すべからず。 自余の諸行もこれに准じて知るべし。 しかるに布施・持戒等の諸行に堪へたるものはきはめて少く、 貧窮・破戒・散乱・愚痴の輩ははなはだ多し。 しかれば上の諸行をもつて本願としたまはば、 往生を得るものは少く、 往生を得ざるものは多からまし。
◇若シ以テ↢布施ヲ↡為タマハヾ↢本願ト↡者、貧窮困乏ノ輩ハ断↢往生ノ望ヲ↡。若以0157テ↢持戒↡為タマハヾ↢本願ト↡、破戒ノ者・無戒ノ類ハ亦可↠断↢往生ノ望ヲ。若シ以テ↢禅定ヲ↡為バ↢本願↡者、散乱麁動ノ之輩ハ不↠可↢往生ス↡。若以テ↢智恵ヲ↡為バ↢本願ト↡者、愚痴下智ノ者ハ不↠可↢往生ス↡。自余ノ之諸行モ准ジテ↠之ニ応シ↠知ル。然ニ堪タリル ↢布施・持戒等ノ諸行ニ↡者ハ極テ少ク、貧窮・破戒・散乱・愚痴ノ輩ハ甚多シ。爾者以テ↢上ノ諸行ヲ↡為↢本願ト↡給ハヾ者、得↢往生↡者少ク、不ル↠得↢往生↡者ハ多カラマシ矣。
これによりて法蔵菩薩、 平等の慈悲に催されて、 あまねく一切を摂せんがために、 かの諸行をもつて往生の本願とせずして、 ただ称名念仏の一行をもつてその本願としたまへるなり。
◇因テ↠茲ニ法蔵菩薩、被↠催↢平等ノ慈悲ニ↡、為↣遍ク摂ンガ↢一切ヲ↡、不シテ↧以テ↢彼ノ諸行ヲ↡為↦往生ノ本願ト↥、唯以テ↢称名念仏ノ一行ヲ↡為↢其ノ本願↡給ヘル也。
ゆゑに法照禅師のいはく、
「未来世の悪衆生においては | 西方弥陀の号を称念せよ |
仏の本願によりて生死を出で | 直心をもつてのゆゑに極楽に生ず」 と |
◇故法照禅師云、
「於↢未来世ノ悪衆生↡ | 称↢念西方弥陀号↡ |
依↢仏本願↡出↢生死↡ | 以↢直心↡故生↢極楽↡」 |
▲またいはく、
「かの仏の因中に弘誓を立てたまへり | 名を聞きてわれを念ぜばすべて来迎せん |
貧窮と富貴とを簡ばず | 下智と高才とを簡ばず |
多聞と持浄戒とを簡ばず | 破戒と罪根深きとを簡ばず |
ただ回心して多く念仏しむれば | よく瓦礫をして変じて金とならしむ」 と 云々 |
◇又云、
「彼仏因中立弘誓 | 聞↠名念↠我総来迎 |
不↠簡↢貧窮将富貴↡ | 不↠簡↢下智与高才↡ |
不↠簡↢多聞持浄戒↡ | 不↠簡↢破戒罪根深↡ |
但使レバ↢廻心多念仏↡ | 能令↢瓦礫ヲシテ変ジテ成↟金」 云云 |
▲かくのごとく誓願を立てりといへども、 その願成就せずは、 まさしく憑むべきにあらず。 しかるにかの法蔵菩薩の願は、 一々に成就してすでに成仏したまへり。 そのなかにこの念仏往生の願成就の文 (大経巻下) にいはく、 「諸有衆生、 聞其名号、 信心歓喜、 乃至一念、 至心回向、 願生彼国、 即得往生、 住不退転」 と。 云々
◇雖0158↠立ト↢如↠此誓願ヲ↡、其ノ願不ハ↢成就↡者、非ズ↢正可キニ↟憑。然ニ彼ノ法蔵菩薩ノ願ハ、一一ニ成就シテ既ニ成仏シタマヘリ。其中ニ此ノ念仏往生ノ願成就ノ文ニ云、「諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念、至心回向、願生彼国、即得往生、住不退転。」 云云
次に三輩往生は、 みな 「一向専念無量寿仏」 (大経巻下) と。 云々 このなかに菩提心等の諸善ありといへども、 上の本願に望むれば、 一向にもつぱらかの仏の名号を念ずるなり。 たとへば▲かの ¬観経の疏¼ (散善義) に釈していふがごとし、 「上来定散両門の益を説くといへども、 仏の本願に望むれば、 意は衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」 と。 云々 望仏本願とは、 かの三輩のなかの一向専念を指すなり。
◇次ニ三輩往生ハ、皆「一向専念無量寿仏。」 云云 此中ニ雖↠有↢菩提心等ノ諸善↡、望ムレバ↢上ノ本願ニ↡者、一向ニ専ラ念↢彼仏ノ名号↡也。例バ如シ↢彼¬観経ノ疏ニ¼釈シテ云ガ↡、「上来雖↠説ト↢定散両門ノ之益ヲ↡、望↢仏ノ本願ニ↡、意在↣衆生ヲシテ一向ニ専ラ称ムルニ↢弥陀仏ノ名ヲ↡。」 云云 望仏本願トハ者、指↢此ノ三輩ノ中ノ一向専念ヲ↡也。
次に流通 (大経巻下) に至りて 「其有得聞彼仏名号、 歓喜踊躍乃至一念。 当知、 此人為得大利。 即是具足無上功徳」 といふ。 云云 ▲善導 (礼讃意) の御意は、 「上尽一形下至一念」 の無上功徳なり。 余師の意によらば、 「ただ少を挙げて多に況するなり」 と。 云々
◇次ニ至テ↢流通ニ↡云↢「其有得聞彼仏名号、歓喜踊躍乃至一念。当知、此人為得大利。即是具足無上功徳」↡ 云云。善導ノ御意ハ、「上尽一形下至一念」之無上功徳也。依バ↢余師ノ意ニ↡者、「但挙テ↠少ヲ而況スルナリ↠多ニ也。」 云云。
次に 「当来之世経道滅尽、 我以慈悲哀愍、 特留此経止住百歳。 其有衆生値此経者、 随意所願皆可得度」 と。 云々 この末法万年の後三宝滅尽の時の往生をもつて思ふに、 一向専念の往生の義を顕すなり。
◇次ニ「当来之世経道滅尽、我以慈悲哀愍、特留此経止住百歳。其有衆生値此経者、随意所願皆可得度。」 云云 以テ↢此ノ末法万年後三宝滅尽ノ時ノ往生ヲ↡而思ニ、顕ス↢一向専念ノ往生ノ義ヲ↡也。
そのゆゑは菩提心を説ける経みな滅しなば、 何によりてか菩提の心の行相を知らん。 大小の戒経みな失せなば、 何によりてか二百五十戒をも持たん。 仏像にあるまじければ、 造像起塔の善根もあるべからず。 乃至持経・持呪等もまたかくのごとし。 その時なほ一念するに往生すと。
◇其ノ故ハ説ル↢菩提心↡経皆滅ナバ者、依テカ↠何ニ知ラン↢菩提ノ心之行相ヲ↡。大小ノ戒経皆失ナバ、依テカ↠何ニ持タン↢二百五十戒ヲモ↡。不ジケレバ↠有ル↢仏像ニ↡者、造像起塔0159ノ善根モ不↠可↠有。乃至持経・持呪等モ亦如↠此。爾ノ時尚一念スルニ往生スト。
すなはち善導 (礼讃) いはく、 「爾時聞一念、 皆当得生彼」 と。 云々 かれをもつていまを思ふに、 念仏の行者はさらに余の善根において一塵も具せず、 決定して往生すべきなり。
◇即善導云ク、「爾時聞一念、皆当得生彼。」 云云 以テ↠彼ヲ思ニ↠今ヲ、念仏ノ行者ハ更ニ於↢余ノ善根ニ↡不↠具↢一塵モ↡、決定シテ可↢往生ス↡也。
しかれば菩提心を発さずしていかでか往生すべき、 戒を持たずしてはいかが往生すべき、 智恵ちえなくしてはいかが往おう生じょうすべき、 妄念もうねんを静しずめずしてはいかが往おう生じょうすべきと。 かくのごとく申もうす人々ひとびとの候そうろふは、 この ¬経きょう¼ を意こころ得えざるまでに候そうろふなり。 懐え感かん禅ぜん師じ (群疑論巻三意) この文もんを釈しゃくするに、 「説戒せっかい・受戒じゅかいもみな成じょうずべからず、 甚深じんじんの大だい乗じょうも知しるべからず。 ゆゑに先さきだちて隠没おんもつして世よに行おこなはれず。 ただ念仏ねんぶつのみ覚さとりやすし、 浅識せんしきの凡ぼん愚ぐなほよく修しゅ習じゅうして利り益やくを得うべし」 といへり。 云々
◇然バ者不シテ↠発↢菩提心↡争カ可キ↢往生ス↡、不シテハ↠持↠戒ヲ何可キ↢往生↡、無シテハ↢智恵↡者何可キ↢往生↡、不ズシテハ↠静↢妄念ヲ↡何可キト↢往生ス↡。如↠此ノ申ス人人ノ候者、不ルマデ↣意↢得此ノ¬経ヲ¼候也。懐感禅師釈ルニ↢此ノ文ヲ↡、云ヘリ↧「説戒・受戒モ皆不↠可↠成、甚深ノ大乗モ不↠可↠知。故ニ先ダテ隠没シテ不↢世ニ行ナハレ↡。但念仏ノミ易シ↠覚リ、浅識ノ凡愚尚 ヲ能ク修習シテ可ト↞得↢利益↡。」 云云
まことに戒法かいほう滅めっしなば持じ戒かいあるべからず、 大だい乗じょうみな滅めっしなば発ほつ菩ぼ提だい心しん・読誦どくじゅ大だい乗じょうもあるべからずといふ事こと明あきらかなり。 すでに浅識せんしきの凡ぼん愚ぐといふ、 まさに知しるべし智恵ちえにあらずといふ事ことを。 かくのごとき輩ともがらの、 ただ称名しょうみょう念仏ねんぶつの一いち行ぎょうを修しゅして、 一いっ声しょうに至いたるまで往おう生じょうすべしといふなり。 これまた弥陀みだの本願ほんがんのゆゑなり。 すなはちかの本願ほんがんの遠とおく一切いっさいを摂せっする義ぎなり。
◇実ニ戒法滅シナバ者不↠可↠有↢持戒↡、大乗皆滅ナバ不↠可↠有↢発菩提心・読誦大乗モ↡云事明カナリ也。既ニ云↢浅識凡愚ト↡、応ニ↠知ル非ト↢智恵ニ↡云事ヲ。如ノ↠此輩ノ、但修シテ↢称名念仏一行ヲ↡、至マデ↢一声ニ↡可ト↢往生↡云ナリ也。是 レ亦弥陀本願ノ故也。即彼ノ本願ノ之遠ク摂スル↢一切ヲ↡義ナリ也。
・第三七日 小経
△次つぎに ▲¬阿あ弥陀みだ経きょう¼ とは、 「少しょう善根ぜんごん福徳ふくとくの因縁いんねんをもつてかの国くにに生しょうずることを得うべからず。 舎しゃ利り弗ほつ、 もし善男ぜんなん子し・善ぜん女人にょにんありて、 阿あ弥陀みだ仏ぶつを説とくを聞ききて、 名みょう号ごうを執しゅう持じすること、 もしは一日いちにち乃ない至し七日しちにち」 と。 云々
◇次¬阿弥陀経トハ¼者、「不↠可↧以↢少善根福徳因縁↡得↞生コト↢彼国ニ↡。舎利弗、若有↢善男子・善女人↡、聞↠説ヲ↢阿弥陀仏↡、執↢持ルコト名号↡、若一日乃至七日」。云云
▲善導ぜんどう和か尚しょう釈しゃくして (法事讃巻下) いはく、 「随縁ずいえんの雑善ぞうぜんおそらくは生しょうじがたし。 ゆゑに如来にょらいをして要法ようぼうを選えらばしむ」 と。 云々
◇善導和尚釈云、「随縁ノ雑善恐ハ難↠生ジ。故ニ使↣如来ヲシテ選バ↢要法ヲ↡。」 云云
ここに知しりぬ雑善ぞうぜんをもつて少しょう善根ぜんごんと名なづけ、 念仏ねんぶつをもつて多た善根ぜんごんといふべきといふ事ことを。 この ¬経きょう¼ はすなはち少しょう善根ぜんごんなる雑善ぞうぜんを捨すてて、 もつぱら多た善根ぜんごんなる念仏ねんぶつを説とくなり。
◇爰ニ知ヌ以テ↢雑善ヲ↡名ケ↢少善根ト↡、以↢念仏ヲ↡可↠云↢多善根↡云事ヲ。此ノ¬経ハ¼則捨テヽ↢少善根ナル雑善ヲ↡、専0160ラ説↢多善根ナル念仏ヲ↡也。
▲近来きんらい度わたりたる唐書とうしょに ¬龍りゅう舒じょの浄じょう土ど文もん¼ と申もうす文もんの候そうろふ。 それに ¬阿あ弥陀みだ経きょう¼ の脱文だつもんと申もうして、 二に十じゅう一いち字じある文もんを出いだせり。 「一心いっしん不ふ乱らん」 の下しも (龍舒浄土文巻一) にいはく、 「専せん持じ名みょう号ごう、 以い称名しょうみょう故こ諸罪しょざい消しょう滅めつ、 即そく是ぜ多た善根ぜんごん福徳ふくとく因縁いんねん」 と。 云々 すなはちかの文もんのみにこの文もん (龍舒浄土文巻一) を出いだしていはく、 「いまの世よに伝つたふるところの文もん、 この二に十じゅう一いち字じを脱だっせり」 と。 云々 この脱文だつもんなしといへども、 ただ義ぎをもつて思おもふに多た少しょうの義ぎありといへども、 まさしく念仏ねんぶつを指さして多た善根ぜんごんといふ文もん、 まことに大切たいせつなり。
◇近来度タル唐書ニ¬龍舒ノ浄土文ト¼申ス文ノ候。其 レニ申シテ↢¬阿弥陀経ノ¼脱文ト↡、出セリ↧有ル↢二十一字↡之文ヲ↥。「一心不乱ノ」下ニ云ク、「専持名号、以称名故諸罪消滅、即是多善根福徳因縁。」 云云 即彼ノ文ノミニ出シテ↢此ノ文ヲ↡云ク、「今ノ世ニ所ノ↠伝文、脱セリト↢此二十一字ヲ↡。」 云云 雖↠無ト↢此ノ脱文↡、只以テ↠義ヲ思ニ雖↠有ト↢多少ノ義↡、正ク指シテ↢念仏ヲ↡云フ↢多善根↡文、実ニ大切也。
次つぎに六方ろっぽう諸仏しょぶつの証誠しょうじょうの説せつ。 かの六方ろっぽうの諸仏しょぶつの証誠しょうじょう、 ただこの一いっ経きょうのみに限かぎりて証誠しょうじょうしたまふに似にたりといへども、 実じつをもつて案あんずれば、 この ¬経きょう¼ に限かぎらず。 総そうじて念仏ねんぶつ往おう生じょうを証誠しょうじょうす。
◇次六方諸仏ノ証誠ノ説。彼六方ノ諸仏ノ証誠、雖↠似ト↧但限テ↢此ノ一経ノミニ↡而証誠タマフニ↥、以テ↠実ヲ案ズレバ者、不↠限↢此ノ¬経ニ¼。総ジテ証↢誠ス念仏往生ヲ↡也。
しかれどももし ¬双巻そうかん経ぎょう¼ につきて証誠しょうじょうせば、 かの ¬経きょう¼ に念仏ねんぶつ往おう生じょうの本願ほんがんを説とくといへども、 三輩さんぱいのなか菩ぼ提だい心等しんとうの行ぎょうあるがゆゑに、 念仏ねんぶつの一いち行ぎょうを証誠しょうじょうする旨むね顕あらわるべからず。 もし ¬観かん経ぎょう¼ を証誠しょうじょうせば、 かの ¬経きょう¼ に後のちに念仏ねんぶつを説とくといへども、 またはじめに定じょう散さんの行ぎょうあり、 ゆゑに念仏ねんぶつを証誠しょうじょうする義ぎ顕あらわるべからず。 これをもつてただ一向いっこうに念仏ねんぶつを説ときたるこの ¬経きょう¼ を証誠しょうじょうしたまふなり。
◇然ドモ而若付テ↢¬双巻経ニ¼↡而証誠セバ者、彼¬経ニ¼雖↠説ト↢念仏往生ノ本願ヲ↡、三輩ノ之中有ガ↢菩提心等ノ行↡故、証↢誠スル念仏ノ一行ヲ↡旨不↠可↠顕ル。若シ証↢誠セバ¬観経ヲ¼↡者、彼ノ¬経ニ¼雖↣後ニ説ト↢念仏ヲ↡、亦初ニ有リ↢定散ノ行↡、故ニ証↢誠スル念仏ヲ↡義不↠可↠顕。爰以証↧誠唯一向ニ説タル↢念仏ヲ↡此ノ¬経ヲ¼↥給也。
ただし証誠しょうじょうの言ことばはこの ¬経きょう¼ にありといへども、 証誠しょうじょうの義ぎはかの ¬双巻そうかん¼・¬観かん経ぎょう¼ にも通つうずべし。 ただ ¬双巻そうかん¼・¬観かん経ぎょう¼ のみにあらず、 もし念仏ねんぶつ往おう生じょうの旨むねを説とかん経きょうをば、 ことごとく六方ろっぽうの如来にょらいの証誠しょうじょうあるべきと意こころ得うべきなり。
◇但証誠ノ之言ハ雖↠在ト↢此ノ¬経ニ¼↡、証誠ノ之義ハ可シ↠通ズ↢彼ノ¬双巻¼・¬観経ニモ¼。非ズ↢啻タヾ¬双巻¼・¬観経ノミニ¼、若シ説ン↢念仏往生ノ旨ヲ↡之経ヲバ、悉ク可ト↠有ル↢六方ノ如来ノ証誠↡可↠得↠意也。
▲ゆゑに天台てんだいの ¬十じゅう疑ぎ論ろん¼ にいはく、 「¬阿あ弥陀みだ経きょう¼・¬大だい無む量りょう寿じゅ経きょう¼・¬鼓く音おん声じょう陀羅尼だらに経きょう¼ 等とうにいはく、 釈しゃ迦か仏ぶつ経きょうを説ときたまふ時ときに、 十方じっぽう世せ界かいにましますおのおの恒ごう河が沙しゃの諸仏しょぶつ、 その舌相ぜっそうを舒のべてあまねく三千さんぜん世せ界かいに覆おおひ、 一切いっさい衆しゅ生じょうの阿あ弥陀みだ仏ぶつの大願だいがん大だい悲ひの願力がんりきを念ねんずるゆゑに、 決けつ定じょうして極楽ごくらく世せ界かいに生しょうずることを得うと証誠しょうじょうしたまへり」 と。 云々 仏ぶっ経きょうの功く徳どく、 大たい略りゃくかくのごとし。 仰あおぎ願ねがはくは 云々。
◇故ニ天臺ノ¬十疑論ニ¼云、「¬阿弥陀経¼・¬大無量寿経¼・¬鼓音声陀羅尼経¼等ニ云ク、釈迦仏説↢給フ経ヲ↡時ニ、有↢十方世界ニ↡各恒河沙ノ諸仏、舒↢其ノ舌相ヲ↡遍ク覆↢三千世界ニ↡、証0161↧誠シタマヘリト一切衆生ノ念ズル↢阿弥陀仏ノ大願大悲ノ願力ヲ↡故ニ、決定シテ得ト↞生コトヲ↢極楽世界ニ↡。」 云云 仏経ノ功徳、大略如シ↠此。仰ギ願クハ 云云。
黒谷上人語灯録巻第七
写本しゃほんは、 義ぎ山ざん公こうの三輪さんりんより一本いっぽんを借かり出いだし、 ふたたび二に尊院そんいんの蔵本ぞうほんをもつてこれを校きょうす。 いまかの校きょう本ほんをもつてこれを写うつしおはりぬ。 元禄げんろく十じゅう一年いちねん八月はちがつこの巻かんを写うつし校きょうす 恵え空くう
写本者、義山公自↢三輪↡借↢出一本↡、再ビ以↢二尊院之蔵本↡校↠之。今以↢彼校本↡写↠之畢。元禄十一年八月写此巻校 恵空
延書は底本の訓点に従って有国が行った。 なお、 訓(ルビ)の表記は現代仮名遣いにしている。
底本は大谷大学蔵江戸時代末期恵空本転写本。