0635◎顕名鈔 本
◎おほよそ三界やすきことなし、 六道みな苦なり。 無始生死のうち、 曠劫流転のほど、 うけぬかたちもなく、 むまれぬところもなし。 焦熱无間の苦患にもしづみ、 鬼畜修羅の罪報をもえたりき。 あるひは欲界六天のくものあひだにむまれて、 五衰の退没をかなしむときもありけん。 あるひは色・無色界のかすみのうへにあそびて、 上天の快楽にほこることもありけん。 これみな身にをいて、 みづからへたるところなり。 しかれども、 苦といひ楽といひ、 生をへだてぬれば、 すなはちわすれぬ。 たゞわづかに聖教の説をひらいて、 おもひやるばかりなり。
そのなかに、 人界の依身は今生にゑたるすがた、 当体に受たる報なれば、 苦果のありさま身のうへにおもひしらされ、 無常のかなしみもまなこのまへにみえたり。 おもひいれずして世間にのみ著し、 後生をしらずしてむなしくすぎんことは、 くちをしかるべきことなり。 この人間にをいて増長の煩悩あり、 三毒をもて本とす。 難治の苦悩あり、 四苦をもて最とす。
まづ三毒といふは、 貪欲・瞋恚・愚痴0636なり。 貪欲といふは、 いろに著し、 たからにふけるこゝろなり。 瞋恚といふは、 いかりをなし、 はらをたつるこゝろなり。 愚痴といふは、 無明におほはれ正理にまどひたるこゝろなり。 貪欲を生じ、 瞋恚をおこすことも、 そのみなもとをいへば、 愚痴よりいでたり。 八万の塵労さまざまにわかれ、 一切の煩悩そのかずおほけれども、 根本をたづぬるに、 みな三毒より生ぜり。 もし人毒をくひぬれば、 かならず死するがごとく、 この三の煩悩をおこせば、 かならず三塗におもむくがゆへに三毒となづく。 またこれをなづけて三縛ともいふ、 有情を結縛して生死をいださゞるがゆへなり。
つぎに四苦といふは、 生・老・病・死なり。 生苦といふは、 むまるゝときの苦なり。 十月のあひだ三百余日胎内に処して五位をへ、 血肉にまじはりて諸苦をうく。 月みち期いたりてのち、 はじめてむまるゝとき、 頭をさかさまにし、 身をつゞめていづ。 一切の骨節つゞまりてのぶることあたはず、 その苦痛によりて前生の事ことごとくわする。 老苦といふは、 日月すみやかにゆきて、 さかんなるよはひはやくすぐ。 やまひはとしををひてくはゝり、 かたちは日にしたがひておとろふ。 かゞみにうつるかげにむかへば、 しらぬおきなにあへるかとうたがひ、 けぬきにみてるしらがをかぞふれば、 けさはきのふよりも0637おほし。 ちからよはくして春の柳ににたり、 ねぐりはやくさめて夏の夜をのこす。 老少ともに不定なれども、 おひぬれば死にちかづくこと、 まことにこゝろぼそかるべし。 病苦といふは、 人身を成ずるは地・水・火・風の四大なり。 四大ごとに百一の病あり、 あはすれば四百四病なり。 一病たちまちにおこれば、 五体ことごとくいたむ。 病はこれ苦のきはまりなり。 病はすなはち死の因なり、 たゞ身心を悩乱するのみにあらず、 また仏法の修行をさまたぐ、 たれかこの苦をいとはざらん。 死苦といふは、 一期の報命ながくつきて、 当生の果報にうつる一刹那なり。 水・火・風の三大をのをの散壊し、 寿・煖・識の三法、 みな捨離するとき、 百処支節きりさくがごとし。 つゐにいきたえ、 まなことぢぬれば、 これを野外にをくる。 花のかほばせのゑみをふくみし、 にはかに無常の風にさそはれ、 雲の鬢のなさけありし、 むなしく一夜の煙とのぼりぬ。 たかきもいやしきも、 この苦のがるゝことなく、 かしこきもをろかなるも、 このかなしみまぬかるゝことなし。
しづかにおもへば、 たのしむべきところにあらず、 つらつら案ずれば、 著すべき生にあらず。 しかるにあけてもくれても五欲にまつはれて、 我も人も生死をおそるゝことなし。
五欲といふは、 色・声・香・味・触の境界なり。 こ0638の五欲にをいて、 想念し、 趣向し、 貪着して、 悪業を現在にたくはへ、 苦報を来世にうくるなり。 まづ五欲を想念すといふは、 人ごとにこゝろを欲境にかけて世をわたるはかりごとをめぐらし、 とおく思惟し、 さまざまに憶念するなり。 つぎに五欲に趣向すといふは、 思惟しをはり、 案じしたゝめてのち、 まさしく手ををろして、 その業をなすなり。 あしたには霜をはらひて君につかへ、 ゆふべには星をいたゞきてわたくしにかへる。 これみな名聞のために馳走し、 利養のために辛苦す。 あるひは江海にふねをうかべて商売を能とし、 あるひは山野にひづめをかりて殺生をことゝす。 かくのごとくいとなみわしること、 たゞ一期の身命をたすけんがためなり。 もしそのこゝろざしをとげざるときは、 身心をなやますこと、 毒の箭のむねにあたるがごとし。 これ五欲に趣向するありさまなり。 つぎに五欲に貪着すといふは、 すでにその境界をえてのち、 これを受用しこれに愛著するなり。 金銀のたからをまへにとりならべ、 五穀のたくはへをくらにつみみてゝ、 これをもて妻子をはぐゝみ、 これにをいて飽足することなし。 かやうに貪求するほどに、 一生むなしくはせすぎて、 また三途の旧里にかへる。 十二因縁の流転、 無明より老死にいたり、 二十五有の生死、 上界よりまた下界に0639おつ。 三世に輪転して片時もやむことなし。 たとへば車の庭にめぐるがごとし、 また鳥の林にあそぶににたり。 かたちつねの主なし、 一所にとゞまらず。 たましゐつねの家なし、 すてゝまたさりぬれば、 あるひは阿鼻の薪となりて洞燃猛火のほのほにこがれ、 あるひは鬼畜の報をうけて飢饉残害のかなしみをいだく。 これすなはち五欲に貪着する罪業のいたすところなり。 しかるに世のならひ人のこゝろ、 かゝる罪報をばかへりみず、 まづしきはまづしきにつけて悕望のおもひたえず、 とめるはとめるにつけて染著のこゝろつくることなし。 ねがふも著するも、 ともに妄心なれば、 とめるもまづしきも、 みな悪道におもむく。 なげきてもあまりあり、 これいかゞせん。
たゞしもとより欲界の衆生具縛の凡夫なれば、 煩悩を身にそなへたることは目鼻のむまれつきたるがごとし、 いとふともかなふべからず。 ひとへに万事をなげすて、 たちまちに妻子をふりすてんことも、 末代の機にはかたかるべし。 さればたとひ五欲にまつはるといふとも、 たとひ三毒を断ぜずといふとも、 凡夫のすみやかに生死をはなれぬべき道をもとむべきなり。 おほよそ六趣のなかには人身もともうけがたく、 四州のうちには南州ことにねがふべし。
妙楽大師は 「若◗論↢ 果0640報↡、 即以↢南州↡為↢下々↡。 若◗約↠ 値↠ 仏、即以↢南州↡為↢上々↡」 (輔行巻四) と釈して、 世間の果報をいふときは、 いのちみじかく苦おほくして、 いづれのところにもおとりたれども、 仏にあひたてまつることをいふときは、 この南州をもてすぐれたりとす。 仏この州にいでたまふによりて、 衆生これより出離すべきがゆへなり。 仏の在世にむまれあひし機は、 をのをの益をえ記にあづかりしこと、 いふにをよばず、 滅後の衆生なりといふとも、 教法流布の世にむまれて、 かたのごとくも因果のことはりをわきまへ、 まして善知識にあひ仏法の道理をもきくは、 ありがたき宿縁なり。
仏法東漸のゆへに、 正法には天竺の仏法さかりにひろまり、 像法には震旦の教迹ことにおこり、 末法には我朝の利益ひとへにあまねし。 神の世のすゑつかたにあたりて、 釈尊涅槃にいりたまひしよりこのかた二千二百余年、 末法にいりていまだ三百年にみたず。 欽明天皇の御宇に仏法はじめてわたり、 聖徳太子さかりにこれをひろめたまひしよりいまゝで七百余歳、 聖教伝来ののちいまだ千年にたらず。 末法万年の最初、 仏法繁昌の最中なり。 よくよくをもひいれて有縁の教門にいり、 このたび出離をとぐべし。
こ0641ゝに仏教にをいてさまざまの道あり。 あるひは一乗法華の妙典をたもちて直至成仏の道をたづね、 あるひは三密瑜伽の観行をつとめて即身頓悟の証をもとめ、 あるひは不立文字の宗旨をつたへて一念不生のはじめをあきらめ、 あるいは三聚・十重の戒品をうけて止悪修善の教をまもる。 これみな生死をはなるゝ要行、 菩提にいたる正道なり。 しかるにこれらの修行をたづぬるに、 あるひは清浄にして行ずべき門もあり、 不定にして行ぜば勝利をえがたし。 あるひは心地をすましてうべき道もあり、 心源もしひらけずはその益なきに似たり。 このゆへに ¬大集経¼ (巻四〇日蔵分護持品意 巻五五月蔵分閻浮大梵意) の文には 「我末法時中、 億々◗衆生起↠行◗修↠ 道、 未 ズ ↠有↢一人得◗者↡」 といひ、 善導和尚の釈には 「若◗待↣ 娑婆 証↢ 法忍↡、 六道 恒沙◗劫 未 ズ ↠期 」 といへり。
たゞ弥陀の一教、 浄土の一門のみ、 ひとへに末代相応の要行、 凡夫出離の直道なり。 されば釈尊は安養をさして易往の浄土ととき、 龍樹は念仏をもて易行の道と判じたまへり。 得生の因をさだむとしては、 本願を一念・十念の称名におこし、 大悲のきはまりをあらはしては、 利益を五濁・五苦の衆生にほどこしたまふ。 きかずや、 韋提幽閉のまどのうちに住立の尊を礼して、 無生の益をえしこと0642を。 凡夫の往生これよりおこる。 またきかずや、 月蓋長者が門のまへに影向のかたちを拝して、 悪鬼の難をはらひしことを。 現世の巨益もむなしからざるものなり。 経に破戒・五逆を摂する証あり、 罪悪に怯弱して仏智をうたがふべからず。 釈に専修念仏をすゝむる文あり、 一向につとめて往生をうべし。 一向につとむるといふは、 ひとへに弥陀一仏を称て余の一切の行業をまじへず、 もはら名号の一行をたもちてひとすぢに極楽をねがふなり。 これ弥陀の本願なるがゆへに、 決定往生の正業なり。
天親の ¬浄土論¼ に無光如来の名号を讃嘆するに、 「称↢ 彼◗如来◗名↡、 如↢ 彼◗如来◗光明智相↡、 如↢ 彼◗名義↡欲↢ 如↠実◗修行◗相応↡ 故 」 と判ぜり。 しかるに南无阿弥陀仏と称るは、 すなはち如実の修行なるがゆへに、 いかなるゆへありとしらねども、 これをとなふるに往生をとげ、 いかなる徳ありとわきまへざれども、 これを信ずれば定聚のかずにいる。
たとへば耆婆が薬童子にむかへば、 をのづから万病をのぞくがごとし。 されば名号を往生の正因なりとふかく信じて、 一向に称するよりほかは、 またしるべきところもなし。
しかりといへども、 おなじくはかの名義の功徳をきかば、 いよいよ信心をもよほす0643たよりなるべし。 その名義といふは、 ¬阿弥陀経¼ に阿弥陀仏の名義をとくとして、 「彼◗仏◗光明無量、 照↢ 十方◗◗国↡无↠所↢障↡。 是◗故◗号 為↢阿弥陀↡」 ととき、 また 「彼◗仏◗寿命及◗其◗人民、 無量無辺阿僧祇劫。 故名↢阿弥陀↡」 ととけり。
さればあみだは天竺のことばなり。 こゝには翻じて、 あるひは無量光といひ、 あるひは無量壽と称。 これすなはち光明の無量なるは、 横に十方の利益のほとりなきことをあらはし、 寿命の無量なるは、 竪に三世の化導のかぎりなきことをしめすなり。
しかれば、 南無阿弥陀仏といふは、 光明無量の徳に帰して摂取不捨の益にあづかり、 寿命無量の徳に帰して永無生滅の身をえんとねがふこゝろなりとしるべし。 この二種の功徳は、 十二・十三の願よりいでたり。
まづ光明無量の徳といふは、 第十二の願にいはく、 「設我得仏、 光明有能限量、 下至不↠照↢百千億那由他諸仏国↡者、 不取正覚」 ととけり。 おなじき願成就の文には、 「仏告↢阿難↡、 無量寿仏威神光明、 最尊第一、 諸仏光明所↠不↠能↠及。 乃至 是故無量寿仏、 号↢無量光仏・無辺光仏・無光仏・無対光仏・炎王光仏・清浄光仏・歓喜光仏・智恵光仏・不断光仏・難思光仏・無称光仏・超日月光仏↡。 其有↢衆生↡、 遇↢斯光↡者、 三垢消滅、 身意柔軟、 歓喜踊躍善心生焉。 若在↢三塗0644勤苦之処↡、 見↢此光明↡、 皆得↢休息↡無↢復苦悩↡。 寿終之後、 皆蒙↢解脱↡。 無量寿仏光明顕赫、 照↢耀十方諸仏国土↡、 莫↠不↠聞焉。 乃至 仏言、 我説↢無量寿仏光明威神巍々殊妙↡、 昼夜一劫、 尚未↠能↠尽」 (大経巻上) といへり。
おほよそ諸仏の功徳のなかにも、 光明をもておほく利益をほどこし、 聖者の奇特を現ずるときも、 光明をもて威徳をあらはす、 光明はこれ智恵なるがゆへなり。 大聖釈迦如来、 霊山法花のむしろにしては、 まづ眉間の光明をはなちて東方万八千の土をてらし、 ¬観経¼ 設化のみぎりにしては、 光台に諸仏の浄土を現じて韋提に西方をえらばしめたまふ。 観音は挙身のひかりのうちに五道の衆生の色相を現じてその苦患をすくひ、 勢至は頂上の天冠にもろもろの光明をいれて種々の利益をなしたまふ。 聖徳太子は誕生のとき光明ありて殿内をてらし、 日羅聖人は先生の善因によりて身より光明をはなつ。 法性制底の妙典をば ¬金光明最勝王経¼ と題し、 円頓一実の妙戒をば 「一戒光明金剛宝戒」 (梵網経巻下) となづく。 これみな光明について殊勝の功をそなへ、 希奇の益を具するがゆへなり。
しかるに阿弥陀如来は、 無量光をもて名としたまへるがゆへに、 一切の光明ことごとく弥陀の光明よりいで、 諸仏の智恵しかしながら弥陀の智恵をはなれざるなり0645。 このゆへに十方一切の諸仏も、 こぞりてこの光明を讃嘆し、 釈迦無の弁才も、 かの光明の功徳をばときつくすべからずとのたまへり。 しかりといへども、 要をとりてこれをいふとき、 十二光仏の名をたてたり。
第一に ▼「無量光仏」 といふは、 利益の長遠なることをあらはす。 過現・未来にわたりてその限量なし、 かずとしてさらにひとしきかずなきがゆへなり。
第二に ▼「無辺光仏」 といふは、 照用の広大なる徳をあらはす。 十方世界をつくしてさらに辺際なし、 縁としててらさずといふことなきがゆへなり。
第三に ▼「無光仏」 といふは、 神光の障なき相をあらはす。 人法としてよくさふることなきがゆへなり。 にをいて内外の二障あり。 外障といふは、 山河・大地・雲霧・煙霞等なり。 内障といふは、 貪・瞋・痴・慢等なり。 「光雲無如虚空」 (讃弥陀偈) の徳あれば、 よろづの外障にさへられず、 「諸邪業繋無能者」 (定善義) のちからあれば、 もろもろの内障にさへられず。 かるがゆへに天親菩薩は 「尽十方無光如来」 (浄土論) と讃じたまへり。
第四に ▼「無対光仏」 といふは、 光としてこれに相対すべきものなし、 もろもろの菩薩のをよぶところにあらざるがゆへなり。
第五に ▼「炎王光仏」 といふは、 または光炎王仏と号す、 光明自在にして無上なるがゆへなり。 ¬大経¼ (巻下) に 「猶如火0646王、 焼滅一切煩悩薪故」 ととけるは、 このひかりの徳を嘆ずるなり。 火をもてたきゞをやくにつくさずといふことなきがごとく、 光明の智火をもて煩悩の薪をやくに、 さらに滅せずといふことなし。 三塗黒闇の衆生も、 光照をかうぶりて解脱をうるはこのひかりの益なり。
第六に ▼「清浄光仏」 といふは、 無貪の善根より生ず、 かるがゆへにこの光をもて衆生の貪欲を治するなり。
第七に ▼「歓喜光仏」 といふは、 無瞋の善根より生ず、 かるがゆへにこの光をもて衆生の瞋恚を滅するなり。
第八に ▼「智恵光仏」 といふは、 無痴の善根より生ず、 かるがゆへにこの光をもて無明の闇を破するなり。
第九に ▼「不断光仏」 といふは、 一切のときに、 ときとしててらさずといふことなし、 三世常恒にして照益をなすがゆへなり。
第十に ▼「難思光仏」 といふは、 仏をのぞきてよりほかは、 この光明の徳をはかるべからざるがゆへなり。
第十一に ▼「無称光仏」 といふは、 神光相をはなれてなづくべきところなし、 はるかに言語の境界にこえたるがゆへなり。 こゝろをもてはかるべからざれば難思光仏といひ、 ことばをもてとくべからざれば無称光仏と号す。 ¬無量寿如来会¼ (巻上) には、 難思光仏をば 「不可思議光」 となづけ、 無称光仏をば 「不可称量光」 といへり。
第十二に ▼「超日月光仏」 といふは、 日0647月はたゞ四天下をてらして、 かみ上天にをよばず、 しも地獄にいたらず。 仏光はあまねく八方上下をてらして、 障するところなし、 かるがゆへに日月にこえたり。 また日輪は火珠の所成として能熱・能照の徳あり、 月輪は水珠の所成として能冷・能照の用あり。 しかるに弥陀の光明は、 清涼の光明をはなちて焦熱・大焦熱のほのほをてらすこと、 月輪のすゞしき徳にこゑ、 温和の光明をはなちて紅蓮・大紅蓮のこほりととくこと、 日輪のあたゝかなるひかりにすぐれたり。 また日光は観音の応化、 月光は勢至の権化なれば、 これ弥陀如来の悲智の二門なり。 因位・果位、 そのくらゐ各別なるがゆへに弥陀の功徳にはをよぶべからず、 かるがゆへに超日月光仏といふなり。
この十二光仏は、 一々の徳につきてその名をあげたり、 別体なるにはあらず。 そもそもこの光明の徳用の、 かやうに不可思議なることは、 しかしながら衆生を利益せんがためなり。 その利益といふは、 念仏の衆生を摂取してすてず、 かならず浄土に生ぜしむるなり。
こゝをもて ¬観経¼ には 「光明遍照↢十方世界↡、 念仏衆生摂取不↠捨」 ととけり。 善導和尚の ¬往生礼讃¼ のなかに、 ¬観経¼・¬阿弥陀経¼ のこゝろによりて阿弥陀の名義を釈したまふとき、 「唯観↢念仏衆生↡、 摂取不↠捨、 故名↢0648阿弥陀↡」 と判ぜり。 こゝにしりぬ、 たとひ光明あまねく十方をてらすといふとも、 もし摂取の利益なくは、 仏をあみだ仏となづけたてまつるべからず、 衆生また往生をとぐべからず。
しかるにこの光明は、 念仏の人を照摂して、 かならず往生をとげしむるがゆへに、 行者は名号を称して仏願に帰すれば、 如来はこれを観知して、 摂取の益をあたへたまふ。 これ名号の大利、 念仏の巨益なり。
解第一義の智人をもてらさず、 読誦大乗の持者をも摂せず、 持戒修慈の機をもすくはず、 孝養父母の人をもえらばす。 因果の理をわきまへざる痴人なれども、 仏号をとなふるものあれば、 これをもとめててらし、 菩提心をおこさゞる愚者なれども、 念仏のこゑあるところには、 これをたづねて摂取したまふ。
されば善導和尚、 処々の解釈をみるに、 あるひは 「彼仏心光常照↢是人↡、 照護不↠捨。 総不↠論照↢摂余雑業行者↡」 といひ、 あるいは 「唯有↢念仏↡蒙↢光摂↡、 当↠知本願最為↠強」 と釈し、 あるひは 「不↧為↢余縁↡光普照↥、 唯覓↢念仏往生人↡」 (般舟讃) と判じ、 あるひは 「莫↠論↢弥陀摂不↟摂、 意在↢専心廻不↟廻」 (般舟讃) とのべたり。 これみな諸行の行者は光照をかうぶらざることをあかし、 念仏の行者のみ摂取にあづかることをあらはすなり。
阿弥陀を無量光0649と翻ずるにつきて、 いさゝか光明の徳をのぶることかくのごとし。 名号のなかにかゝる摂取不捨の益あるがゆへに、 南无阿弥陀仏ととなふれば、 決定して往生をとぐるなり。
顕名鈔 本
応永一年 甲辰 十二月廿二日終書写之微功、 則于性順授与之畢。
信州水内郡太田庄長沼浄興寺住侶
常盤台御真筆也、 仍不可他人相続殊可奉貴敬 云々
0650顕名鈔 末
つぎに寿命無量の徳といふは、 第十三の願にいはく、 「設我得↠仏、 寿命有↢能限量↡、 下至↢百千億那由他劫↡者、 不↠取↢正覚↡」 (大経巻上) といへり。 おなじき願成就の文には、 「仏語↢阿難↡、 又無量寿仏寿命長久不↠可↢称計↡。 汝寧知乎。 仮使十方世界無量衆生、 皆得↢人身↡、 悉令↣成↢就声聞・縁覚↡、 都共集会、 禅↠思一↠心。 竭↢其智力↡、 於↢百千万劫↡悉共推算計↢其寿命長遠之数↡、 不↠能↣窮尽知↢其限極↡」 (大経巻上) といへり。
また教主にかぎらず、 極楽の菩薩聖衆の寿命も無量なることをときて 「声聞・菩薩・天・人之衆寿命長短亦復如↠是。 非↣算数・譬喩所↢能知↡也」 (大経巻上) といへり。 また ¬阿弥陀経¼ には、 「彼仏寿命及其人民無量無辺阿僧祇劫。 故名↢阿弥陀↡」 ととけり。
されば能化の仏も所化の聖衆も、 ともに寿命無量にして、 算数・譬喩もをよぶところにあらず。 かくのごとく寿命の無量なることは、 利益三世にわたりて衆生を化度すること、 かぎりなからんがためなり。 諸仏の寿命は長短ともに機にし0651たがひてその益ありといへども、 寿命のいたりていじかきは利益にもるゝ衆生おほし。
釈尊の住世は八十年、 化導の時分はたゞ五十年なり。 そのあひだ在世当機の衆は得益まことにしげかししかども、 滅後の凡惑はさとりをひらくものすくなし。 正・像・末の三時、 その証をとること次第に減ず。 これすなはち在世の機縁ひさしからざるによりて、 大聖をさること遙遠なるがゆへなり。 いかにいはんや、 住無住仏の寿命はたゞ一日一夜、 所説の法門はいくばくならず。 月面如来の寿命はわづかに一日、 あしたに出世してゆうべに入滅す。
しかるに弥陀如来は、 過去をかぞふれば成仏ののち劫数すでにひさし。 ¬双巻経¼ (巻上) ならびに ¬阿弥陀経¼ にはともに 「十劫」 ととき、 ¬大阿弥陀経¼ (巻上) には 「十小劫」 ととけり。 また ¬法華経¼ の説のごとくならば、 三千塵点の古仏なり。 ¬般舟経¼ の説によらば、 三世の諸仏の本師なり。 過去かくのごとし、 未来また限量なし。 千劫・万劫・恒沙劫・兆載永劫にして、 また無央数劫なり。
しかれば、 たとひ一世二世に利益にもるとも、 如来つねに世にましますゆへに、 つゐにその済度にあづかるべし。 ¬阿弥陀経¼ (意) のなかに 「已発願・今発願・当発願のもの、 みな往生すべし」 ととけるは、 このこゝろなり。 第二十の果遂の願、 またその義なり。 修行に真0652仮あれば、 往生に遅速あるべきがゆへに、 あるひは順次にも往生し、 あるひは二生三生にも往生するもの、 相続してたゆべからず。
念を弥陀の名号にかけ、 おもひを安養の浄刹にはこぶもの、 娑婆の一国なを無量なり、 他方世界もまた無数なるべし。 過去・現在すでに無量なり、 未来また無窮なるべし。 もし如来の寿命に際限あらば、 利益にもるゝ衆生あるべきがゆへに、 十方の有情をもらさず、 三世の群類をのこさず、 みな極楽浄土に帰せしめ、 無量壽の仏智に契当せしめんがために、 如来の寿命はかぎりなきものなり。
これによりて ¬涅槃経¼ (北本巻三寿命品意 南本巻三寿命品意) には 「阿耨達出↢四大河↡、 如来亦而、 出↢一切寿↡。 一切人天寿命大河、 流↢入如来寿命大海↡」 といへり。 しかれば、 阿弥陀如来は久遠実成の覚体、 無始本有の極理なり。 迷悟・染浄、 一切の万法ことごとく阿弥陀の三字に摂在せずといふことなし。
しかるに衆生、 一念の迷妄によりて、 真如のみやこをまよいで、 流転の凡夫となりしよりこのかた、 ひさしく塵労におほはれて、 本有の理性をわすれたり。 しかるあひだ、 無作の誓願やむことなく、 無縁の慈悲にもよほされて、 かの群類を度し、 その迷情をひるがへさしめんがために、 かりに法蔵比丘となり、 さらに四十八の大願を超発したまへり。 このゆへに、 十念往0653生の誓願をおこし、 十劫成道の方便をしめして、 一心専念の行者をば十八の願をもて摂受し、 修諸功徳の行人をば十九の願にて引摂し、 乃至かりにも念をかの国にかくる機をば二十の願をもて果遂せしめたまふがゆへに、 発心に前後あれば往生にも遠近あれども、 つゐには六道生死、 無常の寿命を摂して、 みな一実真如、 本有無量寿の仏智に流入せしむべしとしるべきなり。
諸仏のなかに、 ひとり無量寿仏と号す。 寿命は一切の根元なれば、 諸仏も弥陀の智恵より流出し、 衆生もまたかの寿命よりいでゝ、 かへりてみな如来の寿命に流入すべきなり。
いま ¬涅槃経¼ (北本巻三寿命品意 南本巻三寿命品意) に 「如来の寿命」 といへる、 すなはち弥陀の寿命なるべし、 寿命のなかに無量壽なるがゆへなり。 されば真言教には、 無量寿仏をもて大日法身の常住の寿命と談ず。 法身の寿命ならば、 一切の寿命これよりいづること、 うたがふべからず。 天臺には、 たゞ弥陀をもて法門の主とすといふ。 法門の主ならば、 一切の諸仏また弥陀をはなるべからずといふこと、 あきらかなり。
おほよそ仏を無量壽となづけ、 国を極楽と号するは、 如来の名をきゝて、 無量壽常住の果をえんとねがひ、 国土の名をきゝて、 涅槃常楽のさとりをひらかんとねがふべきことはりあるがゆへなり。 そのゆへは、 生あるものは、 み0654な死をおそるゝがゆへに寿をもてたからとし、 業をうくるものは、 ことごとく苦をにくむがゆへに楽をねがふこゝろあり。
¬観経の疏¼ (序分義) に ¬涅槃経¼ をひきていはく、 「一切諸衆生無↠不↠愛↢寿命↡。 勿↠殺、 勿↠行↠杖。 怒↠己可↠為↠喩」 といへり。 一切のいきとしいけるもの、 もし人をみるとき、 おそれ・はしり・かくれ・にぐることは、 たゞ悪縁をさり寿命をまもらんがためなり。 畜類のものしらずをろかなる、 なを身を愛しいのちををしむことかくのごとし。 いはんや、 人として生を愛し死をにくまざらんや。 まことに七珍万宝も死すればしたがふものなし。 栄華栄耀もいのちのあるうへのことなり。 人間よりも天上の寿はながく、 天上にとりても六欲天・四禅・四无色、 次第に上天のいのちのひさしきは、 果報のすぐれ修因のまさりたるゆへなり。 されば果報のすぐれたるといふは、 いのちのながきをもてその詮とす、 たれかいのちをねがはざらんや。
つぎによろづの有情、 ことごとく苦をにくみ楽をねがふこゝろありといふは、 ¬大論¼ (大智度論巻七初品) の文をみるに、 「一切衆生、 皆願↠得↠楽無↠願↢苦悩↡」 と判ぜり。 これすなはち死をにくみて生をもとめ、 貧をいとひて福を愛する、 みな苦をにくむこゝろよりおこり、 楽をねがふおもひよりいでたり。 乃至病をえて薬をたづね、 飢0655にのぞみて食をもとめ、 あつき天に風をまち、 さむきときに火をもとむるまでも、 苦をいとひ楽をねがふこゝろにあらずといふことなし。
しかれば、 衆生は死をにくみていのちを愛するがゆへに、 長遠の寿命をもとめんとするに、 北州の千年もつくる期あれば、 人間の長命もねがふべきにあらず。 非想の八万劫もそのをはりなきにあらざれば、 天上の寿命ももとむるにたらず。 まことに无常生滅の報をはなれ、 常住無為の果をえんとおもはゞ、 無量壽の国にむまれんとおもふこゝろあるべし。
また衆生は、 苦をにくみて楽をもとむるがゆへに、 不退の快楽をえんとするに、 人天の楽はなをし電光のごとし、 須臾にすなはちすつ。 かへりて三悪に入て長時に苦をうくれば、 これまた著すべきところなし。 このゆへに、 浅より深にいたりて、 次第に苦をいとひ楽をもとむるこゝろ至極せば、 かならず極楽浄土にむまれんとおもふべし。
こゝをもて三世の諸仏のなかに無量壽の名をえ、 十方の浄土のなかに極楽となづくることは、 一切衆生ことごとくこの名号によりてかの浄土をねがひ、 みな無量壽の寿命に帰入して、 ひとしく極楽無為の法楽をうくべきゆへなり。 しかれば、 南無阿弥陀仏ととなふることばのうちに、 無量光に帰命する義もあり、 無量壽に南无するこゝろもあるがゆへ0656に、 光明を念ずるいはれあれば、 摂取不捨の益にあづかり、 寿命を念ずることはりあれば、 如来の寿命に流入し、 涅槃のさとりをひらくべき義あるなり。
まことに如来の功徳おほしといへども、 光明・寿命の功徳にはすぎず。 この二種の功徳のなかに、 万徳ことごとくそなはれり。 かの万徳、 しかしながら名号の一行にこもれるなり。 かるがゆへにもろもろの雑行をさしをきて、 この一行をつとめ、 種々の助業をかたはらにして、 その一心をもはらにせよとすゝむるなり。 これ経釈のをしふるところなり、 あふいでこれを信ずべし。
問ていはく、 楽といふは苦に対することばなり。 苦はすなはち楽のよるところ、 楽はすなはち苦のふすところなり。 その体をたづぬるに実体なし。 されば苦にあらず楽にあらざるを捨受となづけて、 楽受よりはまされりとす。 いはゆる色界四禅のうち、 三禅までは楽受、 第四禅は捨受なり。 すでに三界有漏の果報のうちに、 なを下地は楽受、 上地は捨受なり。 しかるにいま浄土無為のさかひにをいて、 なんぞ楽をきはむといはんや。 もし楽をきはむといはゞ、 かへりて有漏の果報に同ずべきをや。
こたへていはく、 曇鸞和尚の ¬注論¼ (巻下) をみるに、 「楽◗有↢三種。 一者外楽、 謂0657五識所生◗楽。 二者内楽、 謂初禅・二禅・三禅◗意識所生◗楽。 三者法楽楽、 謂智恵所生◗楽。 此智恵所◗生◗楽、 従↠愛↢ 仏◗功徳↡起 」 といへり。 このなかに、 外楽といへるは欲界の楽なり、 内楽といへるは色界三禅の楽なり。 第四禅の捨受は、 三禅の楽よりはいさゝかすぐれたれども、 たゞ三界のうちの勝劣なるがゆへに、 浄土の楽にはことなり。
されば善導和尚、 三界の苦楽を釈せらるゝとき、 「苦則三塗・八難等、 楽則人天五欲・放逸・繋縛等楽。 雖↠言↢是楽↡、 然是大苦。 必竟無↠有↢一念真実楽↡也」 (定善義) といへり。 三界のうちの楽は、 まことの楽にはあらざるなり。
法楽といへるは、 念仏の行者についていへば、 いまだ穢土にありて凡身をすてざるとも、 内に智恵と相応して虚偽ならず顛倒ならず、 いはんや浄土にしてうくるところの楽は、 法性に随順せる真実無為の楽なり。
¬大経¼ (巻上) には 「但有↢自然快楽之音↡、 是故其国名曰↢極楽↡」 といひ、 ¬阿弥陀経¼ には 「但受↢諸楽↡、 故名↢極楽↡」 ととき、 ¬論¼ (浄土論) には 「受↠楽常無間」 とも判じ、 「触者生↢勝楽↡」 (浄土論) とも讃ずるは、 みなこの楽なり。 これを釈するには、 あるひは 「法性の常楽」 (玄義分) ともいひ、 あるひは 「寂静無為の楽」 (定善義) ともいへり。
これすなはち ¬涅槃経¼ にいふところの涅槃の大楽なり0658。 かの ¬経¼ (北本巻二三徳王品 南本巻二一徳王品) には 「涅槃之性無↠苦無↠楽、 是故涅槃名為↢大楽↡」 といへり。 涅槃の楽と浄土の楽とひとつなりとはなにをもてかしるといふに、 「弥陀の妙果を号して無上涅槃といふ」 (法事讃巻下) ともいひ、 「極楽は無為涅槃の界なり」 (法事讃巻下) とも釈するがゆへなり。
さきにいふがごとく、 衆生は楽をねがふこゝろあるがゆへに、 極楽の名あれば、 かれをねがふこゝろあるべし。 「願生何意切、 正為↢楽無↟窮」 (礼讃) といへるは、 このこゝろなり。 快楽のためにきゝてねがひ、 ねがひてかの生因をたづね、 たづねて念仏に帰し、 帰して浄土に生じ、 生じぬれば無生を証し、 涅槃のさとりをひらくがゆへに、 かのさとりにかなひぬれば、 無苦・無楽のくらゐにいたる、 すなはちこれを大楽となづくるなり。 大楽と極楽と、 その義これおなじ。
問ていはく、 衆生も無量壽のなかよりいでゝ、 かへりて無量壽の仏智に帰入すべしといひ、 三界六道の苦楽をはなれて、 涅槃大楽の理をきはむべしといはゞ、 いふところの義門は聖道門の所談ににたり。 愚暗のともがら、 たやすくしりがたし。 しらずは往生をとぐべからずといふべしや。
答ていはく、 「一切衆生悉有↢仏性↡」 (涅槃経) といひ、 「心仏及衆生是三無↢差別↡0659」 (晋訳華厳経 巻一〇夜摩説偈品) といへる。 ともに経文なり、 たれかこれを信ぜざらん。
されども聖道は、 われと心性の源底を観達して、 即身にこの理をあきらめんとし、 浄土門には 「但以↢垢障覆深↡、 浄体無↠由↢顕照↡」 (玄義分) といひて、 無明煩悩にひさしくおほはれたる衆生は、 こゝにしてかの仏性をあらはしがたきがゆへに、 その機のためにまうけたまへる弥陀の教なれば、 かの仏智に乗じて極楽に往生し、 かしこにしてその仏性をあらはすべしと談ずるなり。
たゞ南无阿弥陀仏ととなふるは、 往生の正業なるがゆへに、 この名号のなかに光明寿命の無量なる徳をそなへて、 さまざまに利益をほどこし、 衆生これによりて涅槃をうる徳のあることをしめすばかりなり。
さればとて、 こゝにして仏性常住の妙理をさとり、 即身に生仏一体の観解をなせとすゝむるにはあらず。 しるもしらぬも往生のためにはさはりともならず、 たねともならず、 たゞ仏智の不思議を信じ他力の名号に帰して、 こゝろを余教の出離にかけず、 一行一心にこれを信行すれば、 かの名号は円融至徳の嘉号、 法身同体の功徳なるゆへに、 しらざるに法性の深奥を観達する義ありて、 すみやかに極楽の往生をとげ、 無始の迷妄をひるがへして、 弥陀の本家にかへり、 無生の理をさとるなり。 これすなはち他力の不思議なり。
問0660ていはく、 衆生と仏ともとより一体なり。 されば自心をはなれて仏道をもとむべからず、 なんぞ他力をかるべきや。 そもそも他力といふは、 いかやうにこゝろうべきことぞや。
こたへていはく、 仏法しかしながら心をはなれず、 心もとより仏なることはしかなり。 されどもこの心法にをいて、 さとれるのちを仏といひ、 まよへるほどを衆生といふ。 玉の性はおなじけれども、 みがくとみがゝざるとによりて、 宝ともなり石にもおなじきがごとし。 これによりて、 仏は万行の薫修にこたへてよく仏性のたまをみがきたまへり、 衆生はひさしく生死の泥にしづみてかのたまをけがせり。 かるがゆへに生仏あひへだゝりて迷悟さかひをわかてり。
しかるあひだ、 まどへる凡夫、 われとさとりがたきゆへに、 さとりにかなへる仏智に帰すれば、 かの力をもて、 もとより法性をはなれざりける自心の仏性をあらはすなり。 弥陀の本願のおこり、 他力往生のみち、 そのこゝろこれにあり。
無始曠劫よりこのかた、 こゝろに三毒の煩悩をたくはへ、 六道輪廻のあひだ、 身に十悪の業因をつめり。 しかりといへども、 煩悩をも断ぜず、 罪障をも滅せず、 身にをいて浄不浄を論ぜず、 念にをいて善悪をいはず、 たゞ凡夫摂取の仏力をたのて念仏0661の一行を修し、 ひとへに仏願難思の強縁に託して西方の往生をとぐるなり。 これすなはち名号に不思議の徳あるがゆへに、 この益をえしむるなり。 その不思議といふは、 明よく暗を破し、 空よく有をふくみ、 地よく載養し、 水よく生潤し、 火よく成壊するがごとし。 世間待対の法みなかくのごときの徳用あり、 これ法爾の道理なり。 いはんや、 仏法不思議のちから、 凡夫をして往生をとげしめんこと、 これをうたがふべからず。 滅罪の徳あれば重罪の悪人なれども生死をはなれ、 生善の徳あれば無善の凡夫なれども往生をうるなり。 これを他力といふなり。
聖教のなかに、 念仏の功能をあかし、 他力の不思議をあらはすに、 おほくのたとへをいだせり。 いま少々これをあぐべし。
一には、 「千年のあひだたてこめてくらからんところに、 日のひかりしばらくいたらば、 ひさしかりつるやみ、 すなはちさりてあきらかなることをうべし」 (論註巻上意)。 くらきことは千年なり、 日のひかりはわづかなるときのほどなればとて、 そのやみさらざることあらんや。 念仏もまたかくのごとし。 衆生無始よりこのかた無明のやみにおほはれて、 罪障を身にそなへたることは千年のやみのごとし。 しかれども、 一称一念の功は、 かの片時の日のひかりのごとくにて、 衆生の痴闇を0662のぞき往生をえしむるなり。
一には、 「人ありて毒の箭にいらるゝとき、 箭ふかく毒あつからんに、 もしひとたび滅除薬の鼓のこえをきけば、 毒の箭すなはちのぞこる」 (論註巻上意)。 「滅除薬のつゞみ」 といふは、 いくさの陣にむかふとき、 毒をぬく薬をもて鼓にぬりてもつなり。 かのつゞみのこえをきくといふとも、 毒の箭ふかくいりたればとて、 ぬけじといふことあらんや。 「毒の箭」 といふは、 衆生の罪悪なり。 かの鼓は弥陀の名号なり。 無始の三毒の箭ふかく身のうちにいりたりといへども、 名号滅罪のつゞみをきけば罪毒すなはちのぞこるなり。
一には、 「めぐり十囲あらんふときなはを千人とりつきてひききらんとせんに、 きるべからず。 しかるにおさなきもの一人つるぎをもてこれをきらば、 すなはちふたつにならんがごとし」 (略論意)。 煩悩業繋のきづな、 つよくむるぼゝれてたやすくきれがたきがゆへに、 かのなはに千人とりつきたるがごとく、 諸善諸行をもて不善の心のうへに行ずれば、 そのちからかなはざれども、 一念名号の利剣をもてこれをきるに、 さらにきれずといふことなし。
一には、 「あしなへたるものも、 ふねにのりつれば、 むねのちからにより、 風の縁0663によりて、 一日に数千里のみちをすぐ」 (略論意)、 あしはやき人の、 ちからをはげましてゆくにまされり。 行業のあしおれたるものも、 智恵のまなこしゐたるものも、 大願のふねに乗じぬれば、 頓に生死の大海をわたりて、 自力のもろもろの行業をはげむ人よりもはやく菩提の岸にいたる。 かるがゆへに念仏は頓教なり。
一には、 「いやしき劣夫の驢にのることだにもなければ、 地をはなれてあゆむべきちからなけれども、 転輪王のみゆきにしたがひぬれば、 虚空にかけりて自在なり」 (論註巻下意)。 常没底下の凡夫、 六道四生の地をはなれて法性の虚空にかけるべからずといへども、 弥陀法王のちからにひかれて浄土にいたるなり。 自力の行をもて生死をはなるゝことかなはざれども、 他力の縁によりて往生をとぐること、 これらのたとへにてしりぬ。
また 「鴆といふ毒鳥、 水にいりぬればそのなかの魚類ことごとく死す。 しかるに犀角をもてこれにふるれば、 死するところのいろくづ、 みなよみがへることあり」 (論註巻上意)。
また 「獅子のすぢをもて、 琴の絃として、 ひとたびこれをひくに、 余の一切の絃ことごとくみなたゆることあり」 (安楽集巻上意)。
世間の法において、 なをかくのごときの事あり、 まして五不思議のなかには、 仏法0664ことに不思議なり。 衆生の罪業をもしといへども、 仏力これを対治する能あり。 凡夫のをろかなるこゝろをもて仏の利生をうたがふべからず。
五不思議といふは、 一には衆生多少不可思議、 二には業力不可思議、 三には龍力不可思議、 四には禅定力不可思議、 五には仏法力不可思議なり。 すでに不可思議といふ、 なんぞ是非の思量をいたさんや。
たゞふたごゝろなく仏智の不思議をたのみ、 ふかく知識のをしへをまことゝ信じて、 一分もわがはからひをくはへず、 無疑無慮になりかへるをもて他力に乗ずるすがたとす。 これを決定往生の機とす。
かやうに安心しなば、 今生をば、 かりのやどゝおもひなして、 これがために、 執著をなすことなく、 後世をば永生の楽果とおもひて、 それがためには身財をもおしむべからず。 仏願を信ずるこゝろまことあれば、 称名もをこたらず。 称名をこたらざれば、 信心もいよいよ増長す。 行者に欣求浄土の願あり、 称名念仏の行あり、 如来に摂取不捨の益あり、 凡夫引接の願あり。 願行あひたすけ機感相応して、 ひとたび帰命するものは、 よこさまに生死をこえ、 ふかく信行するものは、 すみやかに往生をうるなり。
問ていはく、 仏道を行じて菩提をもとむるは、 生死をはなれんがためなり。 しかる0665に往生を願ずるはなを生をもとむるにあらずや。 これ妄見なり、 如何。
答ていはく、 龍樹菩薩は易行の道をすゝめて 「便得↣往↢生彼清浄土↡」 (十住論巻五易行品) といひ、 天親菩薩は五念門の行をあかして、 「願↠生↢安楽国↡」 (浄土論) と判ぜり。 それより以下三国の祖師、 諸宗の高僧、 みな往生を願ず。 もし浄土にゆくといふとも、 生死をはなれざる義あらば、 かくのごとき深位の大士、 高行の智徳、 なんぞ往生を願ぜん。 末代無智の道俗、 たゞ如来の説を信じ、 先賢のあとをしたひて、 ひとへに念仏を修し、 もはら往生を願ずべし。 あへて疑謗にをよぶべからざるものなり。
たゞししゐてこの義をあきらめんとおもはゞ、 鸞師の ¬注論¼ をみるべし。 かの釈にこのことを判ずるに、 あるひは 「非↠如↢凡夫謂↟有↢実衆生生死↡」 (論註巻上) といひ、 あるひは 「彼浄土是阿弥陀如来清浄本願無生之生、 非↠如↢三有虚妄生↡也。 何以言↠之、 夫法性清浄畢竟無生。 言↠生者是得生者之情耳」 (論註巻上) といへり。
されば往生といふは、 凡夫の情量におほせて、 これをいふことばなり、 実の生死にはあらざるなり。 他力の本願に乗じ、 無生の名号を称て、 「一乗清浄の土に往生すれば、 かの土はこれ法性無生のさかひなるがゆへに、 凡情には生ずとおもへば、 自然に無生の理にか0666なふなり。 これらの義、 くはしくはかの釈にみえたり。
顕名鈔 末
依明光大徳誂記之畢、 于時*建武四年 丁丑 八月 日也。 去春此令誂之間、 当年備州在国之間、 所染筆也。
釈-覚
此両帖雖為秘蔵之書、 且表信心之懇篤所令授与也。 于時応永二年 乙巳 正月十三日終書写之微功畢。
底本は◎新潟県浄興寺蔵応永三十一、 三十二年書写本。