0921せんじゃくちゅうしょう第三だいさん

  第八 三心章

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一 上のしょうには、 念仏ねんぶつぎょうじゃ摂取せっしゅやくにあづかることあかし、 またとうしょうには、 ぎょうじゃ三心さんしんするゆへに、 摂取せっしゅにもあづかりおうじょうをもうべしとあらわすなり。 「」 のは、 三心さんしんせずはおうじょうすべからざるしめすなり

(91)

一 所引しょいんきょうもんじょうぼん上生じょうしょうもんなりもんじょうぼん上生じょうしょうあれどもぼんつうず。 その ¬しょ¼ のじゅう一門いちもんるべし。

-「若有衆生」 というは、 念仏ねんぶつえんなり。 さればしゃくには 「有縁之類」 としゃくせり。

-「願生彼国者」 というは、 がんおうじょうことあかすなり。

-「発三種心」 というは、 信心しんじんおい三種さんしゅ差別しゃべつあることあらわすなり。

-「には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心」 というは、 まさしく三心さんしんぐるなり。

-「する三心者必」 というは、 三心さんしんよりおうじょうことけり。 この三心さんしんは ¬だいきょう¼ のじゅうはちがんとくところ三信さんしんなり。 すなわちじょうしんしん深心じんしんしんぎょうこう発願ほつがんしんよくしょうなり。

-「南無者即帰命、 亦発願廻向之義。 言阿弥陀仏者即0922なりての得↢往生 (玄義分) いうごときは、 みょうじょうしん深心じんしんなり、 発願ほつがんこうすなわちこう発願ほつがんしんなり。 されば南無なも弥陀みだぶつみょうごうとなうなかがんぎょうそくせり。

-がんぎょうそくたいすなわち三心さんしんなり。 この三心さんしんはたゞ南无なも一心いっしんなり。 然者しかれば能信のうしんしんおいしょちゅうしんわかとき三種さんしゅしんたつへども、 ついには一心いっしんなり。 所謂いわゆる真実しんじつみょうして虚仮こけしんなきじょうしんなり。 をばじょうもつぼんり、 ほうこのぼんせっする真実しんじつほうなりしんずるは深心じんしんなり。 この信心しんじんおうじょうためなるはこう発願ほつがんしんなり。

-三心さんしんことなるにたれども、 ただ一種いっしゅ信心しんじんなり。

(92)

一 「経云一者至誠心」 というは、 念仏ねんぶつぎょうじゃには三心さんしんもっとも肝要かんようなるがゆえに、 たしかに 「きょういわひきせらるゝなり。

(93)

一 「↣ さんと一切衆生身口意業所修解行、 必もちゐ↢  んことを真実心なか↡  し給ふを」 というは、 ぼんには真実しんじつしんなし、 弥陀みだいんちゅう真実しんじつしんちゅうなしたまいりきぎょうしんぜよとなり。 そのりきのぞむれば、 信心しんじんまた真実しんじつるなり。

(94)

一 「貪瞋・邪偽・奸詐百端 にして悪性難↠ 蛇蝎↡。 すと三業雑毒之善虚仮なづ真実」 というは、 貪瞋とんじんそくしゅじょうあくしょうやめがたければ、 ぼんには真実しんじつしんあるべからず。 されば三業さんごうおいぜんしゅすといへども、 0923貪嗔とんじんじゃしんしゅすれば、 三毒さんどくをまじふるがゆえ雑毒ぞうどくぜんいうはれて、 ぎょうじゃしんには真実しんじつしんなしいうなり。

-「安心・起行 縦使たとひ苦↢励 して身心、 日夜十二時急走急作してするはらふが頭燃 すべ雑毒ほつするして雑毒之行、 求↦生 せんと浄土不可也」 というは、 所↠云いうところ三毒さんどくぞうりきぜんをもて、 おうじょうることはかなふべからざることしゃくするなり。

-「 しく↧ て也と阿弥陀仏因中↢  たまひし菩薩行時、 乃至一念一刹那、 三業所修、 真実心中↥  し給しにいうは、 三毒さんどくをまじへざる弥陀みだいんぎょうひきて、 ぼんはそのまゝにじょうじがたきことあらわなり。 さればかみいいつるがごとく、 弥陀みだ真実しんじつしんちゅうなしたまいしをもちいて、 真実しんじつこれすれば、 りきとくとしてそのこころるなり。 これじょうしんなり

-といていわ 弥陀みだいんぎょう三毒さんどくをまじへたまはざりしことそのせつありや。

-こたえいわく、 ¬だいきょう¼ のじょうえたり。 「↠生欲覚・瞋覚↠起欲想・瞋想・害想↠著色・声・香・味・触・法、 忍力成就 して↠計衆苦、 小欲知足 にして染・恚・痴↡。 三昧寂静 にして智恵無なりこと虚偽・諂曲しむ。 和顔愛語 にしてさき↠ にして承問 勇猛精進 にして志願無。 むことめて清白之法、 以恵↢利群生恭↢敬三宝、 奉↢事師長。 以大荘厳具↢足衆行衆生 をして功徳成就へるもんこれなり

(95)

0924 「凡所↢施為・趣求↡、する 真実也」 というは、 これ如来にょらいいんぎょう利他りたとくあることをあらわすなり。 しゅじょうほどこたまところほうしかしながらだいしゅせしめんがためなりというなり。

(96)

一 「又真実二種↡。 一自利真実、 二利他真実」 とひょうして、 しか自利じり真実しんじつばかりをしゃくして利他りた真実しんじつしゃくせず。 これ利他りた真実しんじつしゃく次上つぎかみの 「およそ施為せいしゅするところ、 またみな真実しんじつなり」 とへるしゃくあたるがゆえべっしてしゃくせず。

-これすなわち利他りたとくぶつどくなるべし。 ぼんりきにはこのとくあるべからざることしめなり

(97)

一 自利じり真実しんじつしゃくするなか総別そうべつしゃくあり。 そうおいじゅうしゃくあり、 べつおいろくじゅうしゃくあり。 そうじゅうしゃくいうは、 一には廃悪はいあくしゃくし、 二には修善しゅぜんしゃくす。 べつろくじゅうしゃくいうは、 三業さんごうおいおのおの修善しゅぜん廃悪はいあくしゃくするなり

-「には真実心中 制↢捨 して自他諸悪及穢国等、 行住坐臥をもうなり一切菩薩制↢捨 するに諸悪ごと↞  くならんと是也」 というは、 そうしゃくしょじゅうしゃくなり廃悪はいあくしゃくす。

-「 には真実心中 勤↢修自他凡聖等」 というは、 だいじゅうしゃくなり、 修善しゅぜんしゃくす。

-「真実心中口業讃↢嘆彼阿弥陀仏及依正二報」 というは、 べっしゃくしょじゅうしゃくなり、 修善しゅぜんしゃくす、 またごんなり。

-「真実心中口業毀↢厭三界・六道等自他依正二報苦悪之事」 というは、 おなじだいじゅうしゃくなり、 廃悪はいあくしゃくす、 またえんなり

-「亦讃↢嘆一切衆生三業所為。 非0925ずは善業つゝし んでとをざか之、 亦不随喜」 というは、 いま廃悪はいあく修善しゅぜんかさねてのぶなり所謂いわゆるかみにはしんおいこれしゃくし、 いまにんおいこれしゃくするなり。

-「又真実心中身業合掌礼敬 四事等 もて供↢養阿弥陀仏及依正二報」 というは、 だいさんじゅうしゃくなり、 修善しゅぜんしゃくす、 またごんなり

-「又真実心中身業軽↢慢厭↣捨生死三界等自他依正二報」 というは、 だいじゅうしゃくなり、 廃悪はいあくしゃくす、 またえんなり。

-「又真実心中意業思↢想観↣察憶↤念 して彼阿弥陀仏及依正二報、 如↠ くにす↢ ずるが」 というは、 だいじゅうしゃくなり、 修善しゅぜんしゃくす、 またごんなり

-「又真実心中意業軽↢賎厭↣捨生死三界等自他依正二報」 というは、 だいろくじゅうしゃくなり、 廃悪はいあくしゃくす、 またえんなり

-「不善三業 をばもちゐ真実心中。   てたまひしをさば三業者、 必もちゐ真実心中↡、  したまひしを不↠簡内外明闇真実。 故名↢至誠心↡」 というは、 そうじて三業さんごうわたりて廃悪はいあく修善しゅぜんしゃくし、 じょうしんそうけっするなり。

(98)

一 「二者深心。 言深心者則深信之心也」 というは、 けつじょう信心しんじんそうあらわすなりゆえこのこころしゃくする重々じゅうじゅうしゃくに、 みなけつじょう」 のことばおくなり

-これよりしもしゃくにも 「又深心深信、 決定建↢立 して自心、 順↠教修行きて疑錯↧為一切別解・別行・異学・異見・異執↡之、 退失傾動」 とへり。

-「亦有二種↡」 というは、 ほうしゅ信心しんじんなり0926

-すなわち一者決定深↢信自身罪悪生死凡夫、 曠劫 よりかた流転してしとこと出離之縁↡」 というは、 しんぶんしんずるこころなり。 「じょうもつ」 というは、 つねさん沈没ちんもつするなり。 「じょうてん」 というは、 つね六道ろくどうりんするなりごくちくおもむくと、 人天にんでんしょうずると、 すこしのしょうれつにしてれども、 ただてんほうなるがゆえに、 しゅつえんなき深信じんしんするなり

-「決定 して深↧信彼阿弥陀仏、 じゅうはちがん をもて摂↢受 して衆生、 無↠疑 ぱかりじて願力得↦往生」 というは、 如来にょらい願力がんりきしんずるこころなり。 如此かくのごとくしゅつえんなきしゅじょうさいたまうこのぶつがんのみなりと、 一分いちぶんりょしんずるなり。

(99)

一 「決定 して深↣信釈迦仏説 かんぎょう三福・九品・定散二善、 証↢讃 して依正二報使↦  めたまふと欣慕」 というは、 かみは ¬だいきょう¼ におい弥陀みだがんしんじ、 いまは ¬かんぎょう¼ につきしゃ所説しょせつしんずるこころなり。

(100)

一 「決定 して深↣信弥陀経 十方恒沙諸仏しようくわん したまへりと一切ぼん、 決定 して ずることを」 というは、 ¬弥陀みだきょう¼ により諸仏しょぶつ証誠しょうじょうむなしからざることしんずるなり。

-といいわ いまいうところ深心じんしんいうは、 弥陀みだ一法いっぽうおい深信じんしんするこころなり。 しかるに、 しゃおよび諸仏しょぶつわたり深信じんしんすというは、 弥陀みだみょうする専心せんしん信心しんじんにあらず、 如何いかん

-こたえていわ 弥陀みだしんずるはまさし所信しょしん法体ほったいなり。 無有むうしゅつえん願力がんりきにあらずはおうじょうすべ0927からずとしんずるこころなり

-いましゃくそん能説のうせつきょうしゅとして使にんごんやくほどこしたまうことしんじ、 諸仏しょぶつ舌相ぜっそうをのべて証誠しょうじょうたまふことをしんずるは、 みな弥陀みだしんずるこころす。

-これすなわちしゃくそん所説しょせつに、 弥陀みだ讃嘆さんだんたまうことの慇懃おんごんなるをききても、 いよいよ弥陀みだしんずるこころふかく、 諸仏しょぶつ同心どうしんおうじょうまことなること証誠しょうじょうするをおもうにも、 ますます弥陀みだするこころふかきゆえに、 しゃ諸仏しょぶつしんずるは弥陀みだする一心いっしんほんとするなり

(101)

一 「深心者、 仰 はくは一切行者とう、 一心たゞじて仏語↠顧身命決定依行して↠  めたまふもの をば ↠ たまふもの をば ↠ たまふ 随↢順仏教随↦順 すと仏意、 是随↢順 すと仏願。 是仏弟子」 というは、 かみ弥陀みだ本願ほんがんしゃ所説しょせつ諸仏しょぶつ証誠しょうじょうおい深信じんしんすべきことしゃくして、 いまかさねその深信じんしんそうこうするなり。

-「唯信仏語」 というは、 しゃせつしんぜよというなり。 このぶつつき総別そうべつあり。

-そういうは、 しゅせつなかぶつしんぜよとなりしゅせついうは、 一には仏説ぶっせつ、 二にはしょう弟子でしせつ、 三には天仙てんせんせつ、 四にはじんせつ、 五にはへんせつなり

-べついうみょうごうなり。 なにてかしるとならば、 ¬かんぎょう¼ のずうに、 「てと↢ てと也無量寿仏」 ととくゆえなり。

-「↠ たまふもの をば」 というぶつしゃくそんなり遣捨者すてしめたまうものはじょうさんなりてゝぞくせざるがゆえなり。

-「↠ たまふ をば行者即 ぜよ」 という念仏ねんぶつなりしゃくそんぼんほんぎょうなるがゆえ0928なり。 ¬弥陀みだきょう¼ に 「じて難事↡、 ↢阿耨多羅三藐三菩提」 とへるそのもんなり

-「仏遣去処 には即去」 というは、 これ撥遣はっけんこころなり。 撥遣はっけんいうは、 しゃ西方さいほうこうせしめたまうなり。

-「随順仏教」 というは、 しゃきょうしたがへとなり。 「随順仏意」 というは、 ぶっきょうじゅんずればぶつにもじゅんずとなり。 これまさしくはしゃぶつじゅんずるなり、 かねては弥陀みだぶつにもつうずべし。 「随順仏願」 というは、 弥陀みだ本願ほんがんしたがへとなり。

-「真仏弟子」 というは、 しゃくそんしん弟子でしなり。 「しゃの真弟子、 ならば ひてじて仏語ぜよ安楽 (般舟讃) へるこのこころなり。

(102)

一 「一切行者但能深信 する行者、 必あやま衆生」 というは、 かみに 「唯信仏語」 といいつるはしゅせつきらい 仏説ぶっせつとれいうにては、 この ¬きょう¼ はぶつせつなれば深信じんしんせよというなり。

-またかみぶつべっしてろんずれば、 りょう寿じゅぶつみょう一法いっぽうなりとこころつれば、 そのにては 「ただよくこのきょうよれ」 というは、 念仏ねんぶつ深信じんしんせよというなり。 念仏ねんぶつ深信じんしんするものは、 しゅじょうをあやまたずというなり

(103)

一 「 ての満足大悲 なるが」 というより 「↠可から信↢用 して菩薩等不相応、 以抱惑はうわくめい 廃↦失往生之大益」 といういたるまでは、 まさし仏説ぶっせつ了経りょうきょうよりて、 さつとう了教りょうきょうるべからざるゆへをはんず。

-そのなかに 「ぶつこれ満足まんぞく大悲だいひのにんなるがゆえに」 というは、 だい0929ぶつ不共ふぐとくなるがゆえに、 真実しんじつだいをばぶつのみたまへるなり。 不共ふぐとくいうは、 さつ慈悲じひすれども、 ぶつだいには不及およばざるなり

-「実語故」 というは、 これさつじょうも、 しょうじゃはいづれももうならずとへども、 なおぶつ真実しんじつとするがゆえ如此かくのごとくいうなり。 「序分じょぶん」 のしゃくに 「↢仏語者、 如来曠劫口過、 随れば言説一切聞者自然↞ ことを」 とへるこのこころなり。

-「きて已還智行未」 というは、 さつじょうにも、 分々ぶんぶんじょうくらいおいぎょうまんまんあるべけれども、 きょうまんいうときは、 ぶつのみみたたまへりというなり

-「学地」 というは、 これじょうどうみながくがくくらいあれども、 円満えんまんごくがくくらいぶつなり、 さつしょうもんとうみながくくらいなりというなり。 「がく」 というがくくらいなり

-「有↢正習二障↡未 ザ ルのぞこ」 というは、 煩悩ぼんのうなり。 「しょう」 というしょう使なり、 「じゅう」 というじっなり。 これさんじょうたいするに、 しょうもん縁覚えんがくすれば、 しょうもんしょう使だんじ、 縁覚えんがくじっだんず。 じょうさつたいすれば、 しょうもん縁覚えんがくはともにしょう使だんじ、 さつじっだんず。 さればおのおの分々ぶんぶん正習しょうじゅうだんずれども、 ぶつたいするときは、 さんじょうみな正習しょうじゅうしょうつくさずというなり。

-「果願未 かなら」 というは、 さんじょうしょうじゃいまごっいたらず、 がんいままどかならざるなり。 四弘しぐ誓願ぜいがんいまだまんせざれば、 がんいまだまどかならざるなり。

-已下いげ文言もんごん、 そのこころやすし。

(104)

0930 「深心深信、 決定 して建↢立 して自心じて教修行きて疑錯↧為一切別解・別行・異学・異見・異執之、 退失傾動」 というは、 かみぶつしんじてさつとうせつもちいるべからざるしゃくして、 いまかさね深信じんしん釈成しゃくじょうす。

-所謂いわゆる建↢立自心」 というは、 ぶつしたがいしんなきをいうなりすなわちじて修行疑錯」 とへるこれなり如此かくのごとくしんこんりゅうしぬれば、 べつべつぎょうため退動たいどうせられずとなり。 これすなわち深信じんしんなり。

(105)

一 「」 というよりしもくときて」 といういたるまでに、 じゅう問答もんどうこころあり。 そのなかいましょじゅうなり。 すなわちぎょうどうひとありてなんくわへしとき、 こたうべきようはんぜり。 これぼんなんたいするなり。 ぼんなかにんありて、 おおきょうろんひきなんせば、 如何いかんかのなんふせがんなり

-こたえこころしゅべつもてこたへよとなりいまのしゃくに 「仏説↢ たまふ時、処別、時別、対機別、利益別なり」 というこれなり

-「処別」 という しょうどうしょきょうおおしゃ崛山くっせんおんしょうじゃろうてらにしてこれときたまういまの ¬かんぎょう¼ はおうにしてこれたまふ。 ざいしゅっ各別かくべつなるがゆえに、 処別しょべついうなり

-「時別」 というは、 しょきょうぜんときたまうこの ¬きょう¼ はぎゃくときたまうぎゃくいうは、 ぎゃくおこときなり。 善悪ぜんあくとき各別かくべつなるがゆえに、 べついうなり。

-「対機別」 というは、 しょきょうさんじょうたいしてたまふ。 ¬かんぎょう0931¼ はだいおよびらいぼんためときたまふ。 ぼんしょう各別かくべつなるがゆえに、 たいべついうなり

-「利益別」 というは、 しょきょうじきじょうぶつもんときたまうこの ¬きょう¼ はおうじょうじょうどうときたまうしょうしょ各別かくべつなるがゆえやくべついうなりこれしゅべつなづく。 如此かくのごとき条々じょうじょう各別かくべつどうあるうえは、 かれこれなんずべからず。 おのおのえんきょうよりしゅぎょうせば、 たがいやくあるべしとなり

-「又行者 ひて 仁汝なんぢ かん決定信縦使たとひ地前さつ・羅漢・辟支等」 という已下いげは、 だいじゅう問答もんどうなり。 さんじょうしょうじゃ難者なんじゃとしてそのなんをももちいざれとなり。

-「羅漢」 はしょうもんなり、 「辟支」 は縁覚えんがくなり、 「菩薩」 はぜんさつなり。 これさんじょうなり。

-「又行者善 縦使たとひ初地已上十地已来」 という已下いげは、 第三だいさんじゅう問答もんどうなり。 これじょうさつ難者なんじゃとして、 それにもさまたげらるべからずというなり。

-「↡。をば 行者当 ベ シ 縦使たとひ化仏・報仏」 という已下いげは、 だいじゅう問答もんどうなり。 これほう諸仏しょぶつ難者なんじゃとして、 それにもきょうどうすべからざるじょうずるなり。

-このじゅうなかに、 はじめさんじゅうはみないんなれば、 仏説ぶっせつせばしんずべからざることいいあり。 だいじゅうぶつ難者なんじゃとするがゆえに、 りょうほうかれ用捨ようしゃあるべからずとへども、 諸仏しょぶつがんぎょうおなじければ、 じつぶつならばわが所信しんずるところ仏説ぶっせつすべからざるどうよりて、 これしんずべからずというなり

-さればじゅう問答もんどうなかに、 はじめさんじゅうにはなんうけざるに0932つきて、 だいふか信心しんじんぞうじょうするしゃくし、 だいじゅうには諸仏しょぶつ所説しょせつそうすべからざるおいて、 妨難ぼうなんぶつをばじつひ、 所説しょせつ仏説ぶっせつおいうたがいしょうぜざるがゆえに 「畢竟 じて↠起一念疑退心」 というなり

-「なにもってのゆえに。 一仏いちぶつ一切いっさいぶつ なれば」 というは、 諸仏しょぶつすなわち一仏いちぶつなることは ¬ごんぎょう¼ (晋訳巻五明難品意唐訳巻一三問明品意) みえたり。 「一切いっさい諸仏しょぶつしんは、 すなわちこれ一仏いちぶつしん一心いっしんいち智恵ちえりき無畏むいまたしかなり」 とへるこれなり

-「きは前仏制断、 殺生・十悪等つみ、 畢竟 じて↠犯↠行者、 即十善・十行。 随↢順六度之義。 若りて後仏↡出世して豈可↧ けんやめて十善十悪」 というは、 遮悪しゃあくぜん七仏しちぶつ通戒つうかいなるがゆえに、 前仏ぜんぶつぶつ所制しょせいすべからずというなり。 これすなわち念仏ねんぶつおうじょうとくにも諸仏しょぶつことばおなじかるべし、 れいせんがためなり

-¬弥陀みだきょう¼ をひくとりもんわかちだんとせり。 はじめにはしゃ所説しょせつ弥陀みだねんじておうじょうすとのたまえるをひきて、 のち諸仏しょぶつこのこと証誠しょうじょうたまうことひくは、 彼此ひし諸仏しょぶつせつしつせざることあらわして、 このほかいかなるぶつありてしゃせつもうなりとときたまうべきぞというはんがためなり

-「就↠人立」 というは、 かみより以来このかた弥陀みだ本願ほんがんし、 しゃ所説しょせつしんじ、 諸仏しょぶつ証誠しょうじょうあおぎつるは、 みな仏説ぶっせつしんずるなりこれさまたげつるぼんしょうせつをば、 さらにしんぜずしてしんこんりゅうし、 いよいよ信心しんじんぞうじょうするは、 就人じゅにん立信りっしんなりしんずるなり。 「にん」 というは、 説人せつにんしんずるこころなり。

(106)

0933 「、 然しゅ↡。 一には正行、 二には雑行なり」 というは、 深信じんしんつき就人じゅにん立信りっしんじゅぎょう立信りっしんふたつのこゝろあり。 就人じゅにん立信りっしんかみいうがごとし。

-じゅぎょう立信りっしんいうは、 おうじょうぎょうつき正行しょうぎょうぞうぎょう分別ふんべつして、 なかぞうぎょうてゝ正行しょうぎょうし、 助業じょごうかたわらにしてしょうごうもっぱらにする、 じゅぎょう立信りっしんいうなり

(107)

一 ちゅうに 「二行之中所↠引」 というは、 だいしょうぞうぎょうしょうひきしをさすなり

(108)

一 「三者回向発願心」 というより 「廻向」 といういたるまでは、 こう発願ほつがんしんしゃくなり。 このなかに三種さんしゅしゃくあり。

-「廻向発願心者、 過去及以および今生身口意業↠修 する世・出世善根、 及随↢喜 して一切凡聖身口意業所修世・出世善根、 以自他所修善根、 悉真実深信しむちう廻向して↢ ぜんと 名↢廻向発願心」 といふは、 しょじゅうしゃくなり。 これいんこうこうなり。 所謂いわゆる自他じたぼんしょう一切いっさい善根ぜんごんじょうこうして、 かのしょうぜんとがんずるなり。

-「廻向発願 して ずといふ、 必ゐて決定 して真実心中廻向 したまへる、 作得生さう」 といふより 「 もひ廻向発願心」 といういたるまでしちじゅうぎょうは、 だいじゅうしゃくなり。 これは廻思えし向道こうどうこうなり。 これはしょぎょうして願力がんりきどうむかうなり。

-「廻向者、 生、 はりてして大悲、 廻↢入 して正使教↢化 するを衆生廻向」 というは、 にゅうこうこうなり。

(109)

0934 「心深信 せることなをして金剛」 といふは、 念仏ねんぶつ信心しんじんをさして金剛こんごうにたとふるなり。

-金剛こんごうふたつとくあり。 一にはたいけんなり。 二にはゆうなり。 たいけんなるがゆへに、 一切いっさいのためにせられず。 ゆうなるがゆへに、 一切いっさいをくだくなり。

-されば一切いっさいけんがくのために破壊はえせられざるは、 信心しんじんたいけんなるがゆへなり。 この信心しんじんによりておうちょうだん四流しるやくをうるは、 ゆうなるがゆへなり。

-ゆえ金剛こんごうをたとへとするなり。

(110)

一 「りて解行不同邪雑 りて惑乱種々疑難。 噵↠不↠得↢往生いうは、 しゅじょうあく曠劫こうごうより已来このかたひさし積重しゃくじゅうしてきわめおもし。 念仏ねんぶつしゅぎょうはわづかにいっしょうなり。 のうしょ相応そうおうせず。 いかでか滅罪めつざいしてたやすくおうじょうえんやととうなり。

-「十悪」 というは、 一にはせっしょう、 二にはちゅうとう、 三には邪淫じゃいんこのみつ身業しんごうあくなり。 四にはもう、 五には綺語きご、 六にはあっ、 七にはりょうぜつこのよつごうあくなり。 八には貪欲とんよく、 九にはしん、 十には愚痴ぐちこのみつごうあくなり。

-「五逆」 というは、 一にはせっ、 二にはせつ、 三にはせつかん、 四には合僧ごうそう、 五にはしゅつ仏身ぶっしんけつなり。

-「四重」 というは、 じゅうあくなかのはじめよつとるなり。 所謂いわゆるせっしょうちゅうとう邪淫じゃいんもうなり。 じゅうなかよつことにおもきがゆへに、 じゅういうなり。

-「謗法」 というは、 仏法ぶっぽうほうするなり。 「0935」 というは、 断善だんぜんたぐいなり。

-「破戒」 というは、 じゅしてのちすなり。 「破見」 というは、 しょうけんするなり。 これ邪見じゃけんなり。

-これつみは、 三界さんがい悪道あくどうするごうなり。 いっしょう修福しゅふく念仏ねんぶつかれじゅうざいめっすべからずとなんずるなり。

-これこたうるにすいとうたとえいだし、 待対たいたいほうなほし如此かくのごとしたいして、 「仏法不思議力豈↢ らんや種々益↡也」 というは、 滅罪めつざい有无うむにはこころかくべからず、 たゞ仏法ぶっぽう思議しぎりきにておうじょうすとしんずべきあらわすなり。

-これすなわちだん煩悩ぼんのうとくはんぶんなるがゆえに、 罪悪ざいあくしょうぼんながらほうしょうやくをうるうえは、 滅罪めつざいしておうじょうせんとおもうなおこれりきなり。 ざいざい軽重きょうじゅうざいろんぜず、 即得そくとくおうじょうやくことは、 ひとえりきひくところなり。 ぎょうじゃはからいにあらざることしめすなり

(111)

一 「 ひて↢ づれば一門者、 則一煩悩なり。 随れば一門者、 則一解脱智恵」 というは、 八万はちまんせん法門ほうもんは、 八万はちまんせん塵労じんろうもんせんがためなれば、 いち煩悩ぼんのうもんいづるは、 いちだつ智恵ちえもんいるなりというこころなり。 いずれもしたがて、 そのやくあるべきことあらわすなり。

(112)

一 「はゞ↠ せんと 乃至仏果まで一切無礙 する事を也。 若はゞ↠ せんと者必有縁之法」 というは、 智解ちげえんおもはゞ、 ひろ一切いっさい仏法ぶっぽうがくせよ。 ぎょうごう0936しゅせんとおもわば、 しょぎょうしたがいえんぎょうしゅせよというなり。

-「少用功労多得益」 というは、 念仏ねんぶつやくあぐなりこれすなわち ¬礼讃らいさん¼ に 「一形似↢如 れども少苦、 前念命終後念彼国。 長時永劫受↢無為法楽。 乃至成仏 まで↢生死。 豈非↠たのしみ」 というこころなり

(113)

一 「一切往生にんとう 行者かん譬喩」 というよりは、 二河にが譬喩ひゆなり。 またしゅしんしゃくいう、 「守↢護信心、 以ふせがん外邪異見之難」 というゆえなり。 たとえこころるべし。

(114)

一 ごうなかに、 「六根」 というは、 げんぜつしんなり。

-「六識」 というは、 すなわち六根ろっこんするところしきなり。 所謂いわゆる眼識げんしきしきしき舌識ぜっしき身識しんしきしきなり。 六根ろっこん六塵ろくじんたいするとき六根ろっこんしたがいきょう分別ふんべつするしきなり。

-「六塵」 というは、 しきしょうこうそくほうなり。 かみ六根ろっこん六識ろくしきえんずるところきょうなり。 ゆえまたろっきょういうなり

-「五陰」 というは、 しきじゅそうぎょうしきなり。 しきいうは、 かみ六根ろっこんろっきょうとうなり。 じゅいうは、 らくしゃ三受さんじゅなり。 そういうは、 男女なんにょじょうたんとうそう分別ふんべつするそうなり。 ぎょういうは、 おんのぞきほか一切いっさいえん諸法しょほうなり。 しきいうは、 心王しんのうなり。 このおんをばまたうんいうじゅじゅうなり

-「四大」 というは、 すい0937ふうなり。 これ諸法しょほうみなわれぎょうたいぞうりゅうし、 愛憎あいぞう妄念もうねんをおこしてしょう使てんせしむれば、 群賊ぐんぞくあくじゅうたとうるなり。

(115)

一 「中間白道四五寸↡者、 則衆生貪瞋煩悩ずる清浄願往生心」 というは、 びゃくどう信心しんじんたとうるなりこの信心しんじんは、 ぎょうじゃりきしんあらず、 如来にょらいりきよりところ信心しんじんなり。 ゆえ清浄しょうじょう信心しんじんひ、 またしもにもぶつ願力がんりきたとうるなり

(116)

一 「 こと一分二分 するに群賊等喚かへすと者、 則喩別解・別行・悪見にんみだり見解 ひに惑乱りて退失↥ するに」 というは、 かみには群賊ぐんぞくあくじゅうをば六根ろっこん六識ろくしき六塵ろくじんおんだいたとへつるを、 いまべつべつぎょうにんたとうるはいかなることぞというに、 かみいまじょうきょうにあはざるぶんときしたがふところ六根ろっこんろっきょうとう悪因あくいんあっきょうとう群賊ぐんぞくのあひしたがふに、 いまじょうきょうもんたるのちなり。

-このときそのぎょうしょうせんがために、 よばいかえすはべつべつぎょうひとならびまたしんにも造罪ぞうざいよりおのれこうにゃくするこころなり。 みずから造罪ぞうざいより退たいするこころは、 すなわちかのろっきょうとう所為なすところなり。 さればしんなれどもにんなりとも、 仏法ぶっぽうしゅぎょうぼうするもてたとえとすれば、 そうにあらざるなり。

(117)

一 とうかみ譬喩ひゆちゅうげんには、 ひがしきしすすむるこえ西にしきしよばうこえとをききて、 のちひがし0938きき群賊ぐんぞくよばいかえすいういまごうなかには、 ひがしきしすすむるこえをきゝて、 いま西にしきしのよばふこえをきかざるちゅうげんに、 群賊ぐんぞくよばひかえすとへり。 ほうそうせること如何いかん

-こたうほうぜんしてじんあることあらわなり

-所謂いわゆるかみはたゞたとえこころいだすゆへに、 ひがしすす西にしよばうききて、 そのこころけつじょうしてすすむべし。 すすむてよばひかへすべきゆへに、 そのだいしかなり。

-ごうなかには、 ひがしきしこえしゃきょう西にしきしこえ弥陀みだきょうなり。 ゆえべつひとしゃきょうぶんにて一旦いったんしょうすべし。 弥陀みだきょうまえには悪見あくけんにんしょうおよぶべからざるあらわして、 きしこえよりさきに群賊ぐんぞくよばひかえすというなり。

(118)

一 「又一切行者、 行住坐臥三業所修、 無こと昼夜時節、 常観解。 故 がゆへに廻向発願心」 という 廻思えし向道こうどうこうけっするなり

-こころは、 いま二河にが譬喩ひゆこころにかけて、 六根ろっこんろっきょうふれ仏法ぶっぽうすすまざらんこころをも、 われざんして怯退こうたいこころなく、 べつべつぎょうひと、 たとひぼういたすとも、 かのひとことばせられずして、 ひとえ願力がんりきどうじょうじておうじょう大益だいやくべしというなり

(119)

一 「廻向者、 生りて りて大悲、 廻↢入生死教↢化 するを衆生亦名↢廻向」 というは、 にゅうこうこうあかなり

-じょうぼんだいしんしゃくには 「唯発して一念0939苦、 楽↢生 するは諸仏境界、 速てゝ菩薩大悲願行、 還生死、 普衆生 (散善義) ひ、 ¬ほうさん¼ (巻下) しゃくには 「ちかりて弥陀安養界、 還穢国せん人天」 とはんずる、 みなこころなり。

-これすなわちじょうだいだいしんなり。 しょうどうもんしゅぎょうは、 しゅじょうことごとしてのちわれじょうぶつせんとがんず。 しかるにしゃかいには退縁たいえん退たいきょうおおきゆえそのぎょうたやすくじょうぜず。 なんぎょうなるがゆえなりこれよりじょうしゅうは、 穢土えどにして自利じり利他りたぎょうじょうじがたければ、 まずじょうしょうじょうぶつしてのち穢土えど還来げんらいしてしゅじょうせんとがんずるこころなり。

-曇鸞どんらんの ¬ちゅうろん¼ にはしゅこうてゝ往相おうそう還相げんそうへり。 所謂いわゆる念仏ねんぶつしてじょうしょうずるは、 往相おうそうこうなり。 こくにかへりてしゅじょうするは、 還相げんそうこうなり。 いましゃくもそのこころあり。 いんこう廻思えし向道こうどう往相おうそうなり、 にゅうこう還相げんそうなり

(120)

一 「三心、 すれば として↟  と云こと成。 願行 じて↠ と云は生者、  ことことはり」 というは、 いま三心さんしん念仏ねんぶつしんずるこころなることをあらわす。 これすなわちがんぎょうそくあかして、 ひっしょうこくやくしめなり

(121)

一 「又此三心 じて定散之義」 というは、 いずれのほうぎょうずるとも、 そのほうおい真実しんじつしんとうおこおなじかるべければ、 そうじてはゞ、 じょうとうしん念仏ねんぶつかぎらず、 じょうぜんにもつうずべしというなり。 しかれども、 べっしてはゞ、 念仏ねんぶつ信心しんじんなりと0940いうこころなり。

(122)

一 ¬おうじょう礼讃らいさん¼ のもんは、 かみの ¬しょ¼ のもんこころれおなじなり

-「安心」 という三心さんしんなり、 そのそうくはしくは ¬しょ¼ のしゃくならびにいまもんえたり。

-「起行」 という念門ねんもんなり、 そのみょうおなじいまもんのするごとし。

-「作業」 というしゅなり、 次下つぎしもしょうあかすがごとし。

(123)

一 「信↧知自身具足煩悩凡夫、 善根薄少 して流↢転 して三界火宅」 というは、 深心じんしんほうしゅ信心しんじんのなかに、 しんずるそうなり。

-しかるに ¬しょ¼ のもんにはただ罪悪生死凡夫」 とへり。 いまもんには 「善根薄少」 のことばくわえたり。 いかなるぞというに、 そうにはあらず。 ただ ¬しょ¼ にいうところなおくはしく釈成しゃくじょうするなり

-煩悩ぼんのうそくせる罪悪ざいあくぼんなれば、 たとい善根ぜんごんしゅするとも、 りきはくしょう善根ぜんごんは、 煩悩ぼんのうぞくためうばはれて進道しんどうりょうらず。 ゆえ三界さんがいてんすというなり

(124)

一 わたくししゃくの中、 「生死之家以疑為所止」 というは、 「生死」 という六道ろくどうなり。 六道ろくどうてんすることは煩悩ぼんのうよりてなり。 およしょうどうきょうもんに、 欲界よくかい煩悩ぼんのうたつときおおく煩悩ぼんのういだせり。 これ根本こんぽん煩悩ぼんのうとしてしょう業因ごういんなるがゆへなり。 こと念仏ねんぶつぎょうじゃは、 煩悩ぼんのうのぞくべき。 うたがいのなきうらしんなり、 しんのなきはうたがいなるがゆへ0941なり。

-されば ¬だいきょう¼ にぶっわくしつあげてはたいしょうひ、 ¬かんぎょう¼ にはかんやくとくとしては 「↢  ずること浄国しむこと がひ」 とへり。

-「涅槃之城 には能入」 というは、 「はんみやこ」 とは極楽ごくらくなり。 「極楽無為涅槃界 (法事讃巻下) へるこれなりこの極楽ごくらくこくしょうずることは、 ただひとつ信心しんじんよるなり

だいきょう¼ (巻下意) にはみょうしんぶっやくあげては 「しょう」 といいせんじゃく本願ほんがん信心しんじんとくとしては 「至心信楽欲生 (大経巻上) いい、 ¬かんぎょう¼ には 「する三心彼国」 ととき、 ¬小経しょうきょう¼ には 「しむして乱、 執↢持名号」 とのべたり。

-しょう所判しょはん (散善義) には、 あるいは無疑無慮」 といいあるいは 「唯信仏語」 とへる。 これみな信心しんじんおうじょうしょういんとするなり。

-じょうきょうもんかぎらず、 しょきょうろんなかにもこのあり。 ¬はんぎょう¼ (北本巻三五迦葉品南本巻三二迦葉品) には 「のくだい信心しんじんいん」 ととき、 ¬大論だいろん¼ には 「仏法ぶっぽう大海たいかいにはしんのうにゅう」 とへるとうこれなり。

(125)

一 「明知、 善導意亦↠出此二門」 というは、 はじめにどうしゃくこころにより ¬安楽あんらくしゅう¼ をひきて、 しょうどうじょうもん分別ふんべつし、 しんしゅういっきょうそうとすることをあかしおはりぬ。

-またしかるじょうしゅうひょうとするところは、 ことしょうしゃくなるがゆえに、 こんしゃくもんこころみえずはきょうそうなおよわきがゆえに、 このしゃくなかもんこころあることあかすなり。 上来じょうらいしゃくもんこころうることは、 かみしゅべつによりてしゃくせしをしるべきなり。

(126)

0942 「三心者総 じて而言へば行法。 別 して而言へば往生」 というは、 「そう」 といふは、 真実しんじつしんとうそういずれのほうぎょうずともこのこころあるべし。 もろもろ聖教しょうぎょうこのこころなきあらず。 しかれども、 べっしてこれへば、 念仏ねんぶつ信心しんじんなり。 いまの ¬きょう¼ にあかところこれなりというこころなり

-「 」 というは、 「つう」 というもろもろぎょうほうなり、 「べつ」 というおうじょうぎょうなり。

(127)

一 「行者能用心してこと忽諸」 というは、 念仏ねんぶつぎょうじゃおい三心さんしんようとす。 かならずこれをそくすべきしめすなり。

 

底本は龍谷大学蔵室町時代初期書写本。 ただし訓(ルビ)は対校註を参考に有国が大幅に補完し、 表記は現代仮名遣いとした。