0921◎選択註解鈔第三
◎第八 三心章
一 上の章には、 念仏の行者摂取の益にあづかる事を明し、 又▲当章には、 彼の行者は三心を具するゆへに、 摂取にもあづかり往生をもうべしと顕すなり。 「▲必」 の字は、 此の三心を具せずは往生すべからざる義を示也。
一 ▲所引の経文は上品上生の文也。 文は上品上生に有ども義は九品に通ず。 其義 ¬疏¼ の▲十一門の義を見るべし。
「▲若有衆生」 と云は、 念仏有縁の義なり。 されば釈には 「▲総◗挙↢有縁之類↡」 と釈せり。
「▲願生彼国者」 と云は、 願求往生の事を明すなり。
「▲発三種心」 と云は、 信心に於て三種の差別ある事を顕すなり。
「▲一には至誠心、 二には深心、 三者廻向発願心」 と云は、 正しく三心の名を挙ぐるなり。
「▲具↢ 三心↡者必◗生↢彼◗国↡」 と云は、 三心に依て往生を得る事を説けり。 △此三心は ¬大経¼ の十八の願に説所の三信なり。 即至誠心は至心、 深心は信楽、 廻向発願心は欲生なり。
「▲言↢南無↡者即◗是帰命、 亦是発願廻向之義。 言↢阿弥陀仏↡者即◗是其◗行0922。 以↢ 斯◗義↡故◗必◗得↢往生↡」 と云が如きは、 帰命は至誠心・深心の義なり、 発願廻向は即廻向発願心なり。 されば南無阿弥陀仏の名号を唱る中に願行具足せり。
願行具足の体は即三心なり。 此三心はたゞ南无の一心なり。 然者能信の心に於て初中後の心を分つ時、 三種の心を立と云へども、 終には一心なり。 所謂真実に帰命して虚仮の心無は至誠心なり。 機をば常没の凡夫と知り、 法は此凡夫を摂する真実の法也と信ずるは深心なり。 此信心、 往生の為なるは廻向発願心なり。
三心異なるに似たれども、 只一種の信心なり。
一 「▲経云◗一者至誠心」 と云は、 念仏の行者には三心尤肝要なるが故に、 慥に 「経に云」 と引載せらるゝなり。
一 「▲欲↠明↣ 一切衆生の身口意業の所修の解行、 必◗須↢ 真実心◗中◗作↡ 」 と云は、 凡夫には真実の心なし、 弥陀の因中に真実心中に作給し他力の行を信ぜよとなり。 其他力に望れば、 信心も又真実に成るなり。
一 「▲貪瞋・邪偽・奸詐百端 悪性難↠侵。 事同↢蛇蝎↡。 雖↠起↢ 三業↡名◗為↢雑毒之善↡。 亦名↢虚仮◗行↡。 不↠名↢真実◗業↡也」 と云は、 貪瞋具足の衆生は悪性やめがたければ、 凡夫には真実の心有べからず。 されば三業に於て善を修すといへども、 此の0923貪嗔・邪偽の心に修すれば、 三毒をまじふるが故◗雑毒の善と云はれて、 行者の自心には真実の心無と云なり。
「▲若◗作↢如↠此◗安心・起行↡者、 縦使苦↢励 身心↡、 日夜十二時◗急走急作、 如↠ 灸↢ 頭燃↡者、 衆◗名↢雑毒之善↡。 欲↧ 廻↢ 此◗雑毒之行↡、 求↦生 彼◗仏◗浄土↥者、 此◗必◗不可也」 と云は、 所↠云の三毒雑起の自力の善をもて、 往生を得ることは叶ふべからざる事を釈するなり。
「▲何◗以◗故。 正 由↧ 彼◗阿弥陀仏因中◗行↢ 菩薩行↡時、 乃至一念一刹那も、 三業◗所修、 皆是真実心中◗作↥ 」 と云は、 三毒をまじへざる弥陀の因行を引て、 凡夫はそのまゝに成じがたき事を顕す也。 されば上に云つるが如く、 弥陀の真実心中◗作給しを用て、 真実に是に帰すれば、 他力の徳として其心と成るなり。 是至誠心也。
問云、 弥陀◗因行に三毒をまじへ給はざりし事、 其説ありや。
答て云く、 ¬大経¼ の上に見えたり。 「▲不↠生↢欲覚・瞋覚↡、 不↠起↢欲想・瞋想・害想↡、 不↠著↢色・声・香・味・触・法↡、 忍力成就 不↠計↢衆苦↡、 小欲知足 無↢染・恚・痴↡。 三昧寂静 智恵無。 ◆無↠有↢ 虚偽・諂曲◗心。 和顔愛語 先↠ 意◗承問。 ◆勇猛精進 志願無↠倦。 ◆専◗求↢ 清白之法↡、 以◗恵↢利◗群生↡。 ◆恭↢敬◗三宝↡、 奉↢事◗師長↡。 以↢大荘厳↡具↢足◗衆行↡、 令↢諸◗衆生 功徳成就↡」◗等云へる文是也。
一0924 「▲↓凡所↢施為・趣求↡、 亦皆真実也」 と云は、 是も如来の因行、 利他の徳あることを顕なり。 衆生に施し給ふ所の法、 併菩提に趣求せしめんが為なりと云なり。
一 「▲又真実◗有↢二種↡。 一◗者自利真実、 二◗者利他真実」 と標して、 而も自利真実ばかりを釈して利他真実を釈せず。 是は利他真実の釈は次上の 「↑およそ施為・趣求するところ、 亦皆真実也」 と云へる釈に当るが故に別して釈せず。
是則利他の徳は仏の功徳なるべし。 凡夫自力には此徳有べからざる事を示す也。
一 ▲自利真実を釈する中に総別の釈あり。 総に於て二重の釈あり、 別に於て六重の釈あり。 総の二重の釈と云は、 一には廃悪を釈し、 二には修善を釈す。 別の六重の釈と云は、 三業に於て各修善廃悪の義を釈する也。
「▲一には真実心中、 制↢捨 自他◗諸悪及◗穢国等↡、 行住坐臥想↧ 同↣一切菩薩◗制↢捨 諸悪↡、 我◗亦如↞ 是也」 と云は、 総釈の初重の釈也、 廃悪の義◗釈す。
「▲二 真実心中、 勤↢修◗自他凡聖等◗善↡」 と云は、 第二重の釈なり、 修善の義を釈す。
「▲真実心中の口業◗讃↢嘆◗彼阿弥陀仏及◗依正二報↡」 と云は、 別釈の初重の釈なり、 修善の義を釈す、 又欣求の義なり。
「▲又真実心中の口業毀↢厭◗三界・六道等◗自他◗依正二報苦悪之事↡」 と云は、 同き第二重の釈なり、 廃悪の義を釈す、 又厭離の義也。
「▲亦讃↢嘆◗一切衆生の三業所為◗善↡。 非0925↢ 善業↡者敬 而遠↠之、 亦不↢随喜↡」 と云は、 今の廃悪修善の義を重ねて述る也。 所謂上には自身に於て是を釈し、 今は他人に於て是を釈するなり。
「▲又真実心中◗身業◗合掌礼敬、 四事等 供↢養◗彼◗阿弥陀仏及◗依正二報↡」 と云は、 第三重の釈なり、 修善の義を釈す、 又欣求の義也。
「▲又真実心中◗身業◗軽↢慢厭↣捨◗此◗生死三界等◗自他依正二報↡」 と云は、 第四重の釈なり、 廃悪の義を釈す、 又厭離の義なり。
「▲又真実心中◗意業◗思↢想観↣察憶↤念 彼阿弥陀仏及◗依正二報↡、 如↠ 現↢ 目◗前↡」 と云は、 第五重の釈なり、 修善の義を釈す、 又欣求の義也。
「▲又真実心中◗意業◗軽↢賎厭↣捨◗此◗生死三界等◗自他の依正二報↡」 と云は、 第六重の釈なり、 廃悪の義を釈す、 又厭離の義也。
「▲不善◗三業 必◗須↢真実心中◗捨。 若◗起↢ 善◗三業↡者、 必◗須↢真実心中◗作↡、 不↠簡↢内外明闇↡、 皆須↢真実↡。 故◗名↢至誠心↡」 と云は、 総じて三業に渡りて廃悪修善の義を釈し、 至誠心の相を結するなり。
一 「▲二者深心。 ▲言深心者則◗是深信之心也」 と云は、 決定の信心の相を顕也。 故に此心を釈する重々の釈に、 皆 「決定」 の言を置也。
是に依て下の釈にも 「▲又深心深信◗者、 決定建↢立 自心↡、 順↠教修行、 永◗除↢ 疑錯↡、 不↧為↢一切別解・別行・異学・異見・異執↡之、 所↦退失傾動↥」 と云へり。
「▲亦有↢二種↡」 と云は、 機法二種の信心也0926。
則 「▲一者決定深↢信◗自身◗現◗是罪悪生死◗凡夫、 曠劫 已来常◗没◗常◗流転、 無↟ 有↢ 出離之縁↡」 と云は、 自身の機分を信ずる心なり。 「常没」 と云は、 常に三塗に沈没する也。 「常流転」 と云は、 常に六道に輪廻する也。 地獄・鬼・畜に趣と、 人天に生ずると、 少しの勝劣にして有れども、 但流転の報なるが故に、 出離の縁なき身と深信する也。
「▲二◗者決定 深↧信◗彼阿弥陀仏、 四十八願 摂↢受 衆生↡、 無↠疑◗无↠慮 乗↢ 彼◗願力↡定◗得↦往生↥」 と云は、 如来の願力を信ずる心なり。 如此出離の縁なき衆生を済度し給は此仏の悲願のみなりと、 一分の疑慮も無く信ずるなり。
一 「▲又決定 深↣信◗釈迦仏説↢此◗ 観経◗三福・九品・定散二善↡、 証↢讃 彼◗仏◗依正二報↡、 ↓使↦ 人◗欣慕↥」 と云は、 上は ¬大経¼ に於て弥陀の悲願を信じ、 今は ¬観経¼ に付て釈迦の所説を信ずる心なり。
一 「▲又決定 深↣信◗弥陀経◗中、 十方恒沙◗諸仏証↢勧 一切◗凡夫、 決定 得↟生 」 と云は、 ¬弥陀経¼ に依て諸仏の証誠の虚からざる事を信ずるなり。
問て云、 今云所の深心と云は、 弥陀の一法に於て深信する心なり。 而に、 釈迦及諸仏に亘て深信すと云は、 弥陀に帰命する専心の信心にあらず、 如何。
答云、 弥陀を信ずるは正く所信の法体なり。 無有出離之縁の機、 此の願力にあらずは往生すべ0927からずと信ずる心也。
今釈尊は能説の教主として↑使人欣慕の益を施こし給事を信じ、 諸仏は舌相をのべて証誠し給ふことを信ずるは、 皆弥陀を信ずる心に帰す。
是則釈尊の所説に、 弥陀を讃嘆し給ことの慇懃なるを聞ても、 愈弥陀を信ずる心深く、 諸仏の同心に往生の実なる事を証誠するを思にも、 益弥陀に帰する心深が故に、 釈迦・諸仏を信ずるは弥陀に帰する一心を本とする也。
一 「▲又深心◗者、 仰◗願 一切◗行者等、 一心◗↓唯信↢ 仏語↡不↠顧↢身命↡決定依行、 ↓仏◗遣↠ 捨◗者 即◗捨、 ↓仏◗遣↠ 行◗者 即◗行、 ↓仏◗遣↠ 去◗処◗即◗去。 是◗名↧↓随↢順◗仏教↡↓随↦順 仏意↥、 是◗名↣↓随↢順 仏願↡。 是◗↓名↢真◗仏弟子↡」 と云は、 上に弥陀の本願、 釈迦の所説、 諸仏の証誠に於て深信すべき事を釈して、 今重て其深信の相を広するなり。
「↑唯信仏語」 と云は、 釈迦の説を信ぜよと云なり。 此仏語に付て総別あり。
総と云は、 五種の説の中に仏語を信ぜよと也。 五種の説と云は、 一には仏説、 二には聖弟子説、 三には天仙の説、 四には鬼神説、 五には変化説也。
別と云は名号なり。 何を以てか知とならば、 ¬観経¼ の流通に、 「▲持↢ 是◗語↡者、 即◗是持↢ 無量寿仏◗名↡」 と説が故なり。
「↑仏の捨しめたまふ者をば即捨◗」 と云は仏は釈尊也。 遣捨者定散也、 捨てゝ付属せざるが故なり。
「↑仏の行しめたまふをば即行◗」 と云は念仏也、 釈尊凡地の本行なるが故0928也。 ¬弥陀経¼ に 「▲行↢ 此◗難事↡、 得↢阿耨多羅三藐三菩提↡」 と云へる其文也。
「↑仏の去しめたまふ処には即去」 と云は、 是撥遣の意なり。 撥遣と云は、 娑婆を捨て西方に指向せしめ給義なり。
「↑随順仏教」 と云は、 釈迦の教に随へとなり。 「↑随順仏意」 と云は、 仏教に順ずれば仏意にも順ずとなり。 是も正くは釈迦の仏意に順ずるなり、 兼ては弥陀の仏意にも通ずべし。 「↑随順仏願」 と云は、 弥陀の本願に随がへとなり。
「↑真の仏弟子と名づく」 と云は、 釈尊の真の弟子なり。 「▲若◗是釈迦のの真◗弟子、 誓 行↢ 仏語↡生↢ 安楽↡」 (般舟讃) と云へる此意なり。
一 「▲又一切◗行者↓但能◗依↢此◗経↡深信 行者、 必◗不↠悞↢衆生↡也」 と云は、 上に 「唯信仏語」 と云つるは四種の説を嫌、 仏説を取と云義にては、 此 ¬経¼ は仏の自説なれば深信せよと云なり。
又上の仏語は別して論ずれば、 持無量寿仏名の一法なりと意得つれば、 其義にては 「↑但能此経◗依」 と云は、 念仏を深信せよと云なり。 念仏を深信するものは、 衆生をあやまたずと云也。
一 「▲何◗以 故。 仏◗是満足大悲◗人 故◗」 と云より 「不↠可↧ 信↢用 菩薩等◗不相応◗教↡、 以◗抱惑自迷、 廃↦失◗往生之大益↥▲」 と云に至るまでは、 正く仏説の了経に依て、 菩薩等の不了教に依るべからざるゆへを判ず。
其中に 「▲仏は是満足大悲人故」 と云は、 大悲0929は仏の不共の徳なるが故に、 真実の大悲をば仏のみ具し給へるなり。 不共の徳と云は、 菩薩も慈悲を具すれども、 仏の大悲には不及。
「▲実語故」 と云は、 是も菩薩・二乗等も、 聖者の語はいづれも虚妄ならずと云へども、 猶仏語を以て真実とするが故に如此云也。 「序分義」 の釈に 「▲言◗↢仏語↡者、 此明↧如来◗曠劫◗已◗除↢口過↡、 随◗有↢ 言説↡一切◗聞者◗自然◗生↞ 信◗」 と云へる此意なり。
「▲除↠ 仏◗已還◗智行未↠満◗」 と云は、 菩薩・二乗にも、 分々に自乗の位に於て智行の満・未満は有べけれども、 究竟の満と云時は、 仏のみ満し給へりと云也。
「▲在↢其◗学地◗」 と云は、 是も二乗の道位、 皆有学・无学の位あれども、 円満至極の無学の位は仏なり、 菩薩・声聞等は皆有学の位なりと云也。 「学地」 と云は有学の位也。
「▲由↧有↢正習二障↡未↞ ザ ル除◗」 と云は、 煩悩なり。 「正」 と云は正使也、 「習」 と云は習気なり。 是も三乗を対比するに、 声聞を縁覚に比すれば、 声聞は正使を断じ、 縁覚は習気を断ず。 二乗を菩薩に対すれば、 声聞・縁覚はともに正使を断じ、 菩薩は習気を断ず。 されば各分々に正習を断ずれども、 仏に対する時は、 三乗みな正習二障を尽さずと云なり。
「▲果願未 ズ ↠円 」 と云は、 三乗の聖者は未だ極果に至らず、 果願未↠円ならざるなり。 四弘誓願未満せざれば、 願未円かならざるなり。
已下の文言、 その意見やすし。
一0930 「▲又深心◗深信◗者、 決定 ↓建↢立 自心↡、 ↓順↠ 教修行、 永◗除↢ 疑錯↡不↧為↢一切別解・別行・異学・異見・異執↡之、 所↦退失傾動↥也」 と云は、 上に仏語を信じて菩薩等の説を用るべからざる義を釈して、 今重て深信の義を釈成す。
所謂 「↑自心を建立す」 と云は、 仏語に随て疑心なきを云也。 則 「↑教に順じて修行し永く疑錯を除きて」 と云へる是也。 如此自身を建立しぬれば、 別解・別行等の為に退動せられずとなり。 是則深信の義なり。
一 「▲問て曰く」 と云より下 「此 名↢ 就↠ 人◗立↟信◗也▲」 と云に至るまでに、 四重の問答の意あり。 其中、 今は初重なり。 則解行不同の人ありて難を加へしとき、 答べき様を判ぜり。 是は凡夫の難を対治するなり。 凡夫の中に智人ありて、 多く経論を引て難破せば、 如何が彼難◗防と也。
答の意は四種の別異を以答へよと也。 今釈に 「▲仏説↢ 彼◗経↡時、↓処別、↓時別、↓対機別、↓利益別なり」 と云是也。
「↑処別」 と云、 聖道の諸経は多く耆闍崛山・祇園精舎等の寺にして是を説給。 今の ¬観経¼ は王宮にして是を説き給ふ。 在家・出家各別なるが故に、 処別と云也。
「↑時別」 と云は、 諸教は善時◗説給、 此 ¬経¼ は逆時に説給。 逆時と云は、 五逆の起る時なり。 善悪の時各別なるが故に、 時別と云なり。
「↑対機別」 と云は、 諸教は三乗に対して説き給ふ。 ¬観経0931¼ は韋提及未来世の凡夫の為に説給ふ。 凡聖各別なるが故に、 対機別と云也。
「↑利益別」 と云は、 諸経は直至成仏の門を説給、 此 ¬経¼ は往生浄土の道を説給。 依正の所求各別なるが故、 利益別と云也。 是を四種の別意と名く。 如此条々各別の道理ある上は、 彼を以て此を難ずべからず。 各有縁の教に依て修行せば、 互に利益あるべしと也。
「▲又行者更◗向 言。 仁汝善◗聴。 我今為↠汝◗為◗更◗説↢ 決定信◗相↡。 縦使地前◗菩薩・羅漢・辟支等」 と云已下は、 第二重の問答なり。 三乗の聖者を難者として其難をも用ざれとなり。
「羅漢」 は声聞なり、 「辟支」 は縁覚なり、 「菩薩」 は地前の菩薩なり。 是三乗なり。
「▲又行者善◗聴。 縦使初地已上十地已来」 と云已下は、 第三重の問答なり。 是は地上の菩薩を難者として、 其にも妨べからずと云なり。
「▲又置↢此事↡。 行者当↠ ベ シ知。 縦使化仏・報仏」 と云已下は、 第四重の問答なり。 是は報化の諸仏を難者として、 其にも傾動すべからざる義を成ずるなり。
此四重の中に、 初の三重はみな因位なれば、 仏説に違せば信ずべからざる事、 其の謂あり。 第四重は仏を以て難者とするが故に、 両方彼此れ用捨あるべからずと云へども、 諸仏◗願行同ければ、 実の仏ならば我所信の仏説に違すべからざる道理に依て、 是を信ずべからずと云也。
されば四重の問答の中に、 初の三重には難破を受ざるに0932付て、 次第に深く信心を増長する義を釈し、 第四重には諸仏の所説に相違すべからざる義に於て、 妨難の仏をば不実と云ひ、 所説の仏説に於て疑を生ぜざるが故に 「▲畢竟じて一念疑退の心を起さじ」 と云也。
「▲何を以ての故に。 一仏は一切仏 」 と云は、 諸仏則一仏なる事は ¬華厳経¼ (晋訳巻五明難品意唐訳巻一三問明品意) に見たり。 「一切諸仏の身は、 即是一仏の身、 一心・一智恵・力・無畏も亦然なり」 と云へる是也。
「▲如↢ 前仏◗制断↡、 殺生・十悪等◗罪、 畢竟 不↠犯◗不↠行◗者、 即◗名↢十善・十行↡。 随↢順六度之義↡。 若◗有↢ 後仏↡出世、 豈可↧ 改↢ 前◗十善↡令↞行↢十悪↡也」 と云は、 遮悪・持善は七仏の通戒なるが故に、 前仏・後仏の所制に違すべからずと云なり。 是則念仏往生の得否にも諸仏の言は同かるべし、 例知せんが為也。
▲¬阿弥陀経¼ を引に取て文を分て二段とせり。 初には釈迦の所説に弥陀を念じて往生すとの給るを引て、 後は諸仏此事を証誠し給事を引は、 彼此の諸仏の説、 違失せざる事を顕て、 此外に何なる仏ありて釈迦の説は虚妄なりと説給べきぞと云はんが為也。
「▲此◗名↢就↠人立↟信◗也」 と云は、 上より以来、 弥陀の本願に帰し、 釈迦の所説を信じ、 諸仏の証誠を仰ぎつるは、 皆仏説を信ずる也。 是を妨げつる凡聖の説をば、 更信ぜずして自心◗建立し、 弥信心を増長するは、 就人立信也と信ずる也。 「人」 と云は、 説人を信ずる意なり。
一0933 「▲次◗就↠行◗立↠信◗者、 然◗行◗有↢二種↡。 一には正行、 二には雑行なり」 と云は、 深信に付て就人立信、 就行立信の二のこゝろあり。 就人立信は上に云がごとし。
就行立信と云は、 往生の行に付て正行・雑行を分別して、 其の中に雑行を捨てゝ正行に帰し、 助業を傍にして正業を専にする、 就行立信と云也。
一 註に 「▲如↠前◗二行◗之中◗所↠引◗」 と云は、 ▲第二の正雑二行の章に引しを指也。
一 「▲三者回向発願心」 と云より 「亦◗名↢廻向↡也▲」 と云に至までは、 廻向発願心の釈なり。 此なかに三種の釈あり。
「▲言↢廻向発願心↡者、 過去及以今生の身口意業◗所↠↠修 世・出世◗善根、 及◗随↢喜 他◗一切◗凡聖◗身口意業◗所修◗世・出世◗善根↡、 以↢此◗自他所修◗善根↡、 悉◗皆真実◗深信◗心中◗廻向、 願↠生↢ 彼◗国。 故◗名↢廻向発願心↡也」 といふは、 初重の釈なり。 是は廻因向果の廻向なり。 所謂自他・凡聖の一切の善根を以て浄土に廻向して、 かの土に生ぜんと願ずるなり。
「▲又廻向発願 生 者、 必◗須↢ 決定 真実心中◗廻向 願↡、 作↢得生◗想↡」 といふより 「常◗作↢此◗願↡常◗作↢此◗想。 故◗名↢廻向発願心↡▲」 と云に至まで七十余行は、 第二重の釈なり。 これは廻思向道の廻向なり。 これは諸行を廻して願力の道に向なり。
「▲又言↢廻向↡者、 生↢彼◗国↡已、 還◗起↢ 大悲↡、 廻↢入 正使↡教↢化 衆生↡亦名↢廻向↡也」 と云は、 廻入向利の廻向なり。
一0934 「▲此◗心深信 由◗若↢ 金剛↡」 といふは、 念仏の信心をさして金剛にたとふるなり。
金剛に二の徳あり。 一には体堅固なり。 二には用利なり。 体堅固なるがゆへに、 一切のために破せられず。 用利なるがゆへに、 一切をくだくなり。
されば一切の異見・異学のために破壊せられざるは、 信心の体の堅固なるがゆへなり。 この信心によりて横超断四流の益をうるは、 用の利なるがゆへなり。
故に金剛をたとへとするなり。
一 「▲問◗曰、 若◗有↢ 解行不同◗邪雑◗人等来 相◗惑乱、 或◗説↢種々◗疑難↡。 噵↠不↠得↢往生↡」◗等云は、 衆生の悪は曠劫◗已来久く積重◗極て重し。 念仏の修行はわづかに一生なり。 能治・所治相応せず。 いかでか滅罪してたやすく往生を得やと問なり。
「▲十悪」 と云は、 一には殺生、 二には偸盗、 三には邪淫、 此三は身業の悪なり。 四には妄語、 五には綺語、 六には悪口、 七には両舌、 此四は口業の悪なり。 八には貪欲、 九には瞋恚、 十には愚痴、 此三は意業の悪なり。
「▲五逆」 と云は、 一には殺父、 二には殺母、 三には殺羅漢、 四には破和合僧、 五には出仏身血なり。
「▲四重」 と云は、 十悪の中初の四を取なり。 所謂殺生・偸盗・邪淫・妄語なり。 十の中に此の四ことに重きがゆへに、 四重と云なり。
「▲謗法」 と云は、 仏法を誹謗するなり。 「▲闡0935提」 と云は、 断善の類なり。
「▲破戒」 と云は、 受持して後に破すなり。 「▲破見」 と云は、 正見を破するなり。 是邪見なり。
此等の罪は、 三界悪道に堕する業なり。 一生修福の念仏、 彼等の重罪を滅すべからずと難ずるなり。
是を答るに水火等の喩を出し、 待対の法なほし如此と対比して、 「▲何◗況◗仏法不思議◗力豈◗無↢ 種々益↡也」 と云は、 滅罪の有无には心を懸べからず、 たゞ仏法の不思議力にて往生すと信ずべき義を顕なり。
是則不断煩悩得涅槃分なるが故に、 罪悪生死の凡夫ながら報土無生の益をうる上は、 滅罪して往生せんと思は猶是自力なり。 有罪・無罪・軽重罪を論ぜず、 即得往生の益を得る事は、 偏に他力の引所なり。 行者の計にあらざる事を示也。
一 「▲随 出↢ 一門↡者、 則◗出↢一煩悩◗門↡也。 随◗入↢ 一門↡者、 則◗入↢一解脱智恵◗門↡也」 と云は、 八万四千の法門は、 八万四千の塵労門を治せんが為なれば、 一煩悩の門を出るは、 一解脱智恵門に入なりと云意なり。 何れも機に随がて、 其益有べき事を顕なり。
一 「▲若◗欲↠ 学↠ 解、 従↠凡至↠聖、 乃至仏果、 一切無礙皆得↠学 也。 若◗欲↠ 学↠ 行◗者必◗藉↢有縁之法↡」 と云は、 智解を得と思はゞ、 広く一切の仏法を学せよ。 行業を0936修せんと思わば、 所楽に随て有縁の行を修せよと云なり。
「▲少用功労多得益」 と云は、 念仏の益を挙る也。 是則 ¬礼讃¼ に 「▲上在↢一形↡似↢如 少苦↡、 前念◗命終◗後念◗則◗生↢彼国↡。 長時永劫受↢無為◗法楽↡。 乃至成仏 不↠逕↢生死↡。 豈非↠快◗也」 と云意也。
一 「▲又白↢一切◗往生人等。 今更◗ め↢行者↡説↢ 一◗譬喩↡」 と云よりは、 二河の譬喩なり。 又は守護心の釈と云、 「▲守↢護◗信心↡、 以◗防↢ 外邪異見之難↡」 と云が故なり。 譬の意見るべし。
一 合喩の中に、 「▲六根」 と云は、 眼・耳・鼻・舌・身・意なり。
「▲六識」 と云は、 則此の六根に具する所の識なり。 所謂眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識なり。 六根を以て六塵に対する時、 六根に随て境を分別する識なり。
「▲六塵」 と云は、 色・声・香・味・触・法なり。 上の六根・六識が縁ずる所の境なり。 故に又は六境と云也。
「▲五陰」 と云は、 色・受・想・行・識なり。 色と云は、 上の六根・六境等なり。 受と云は、 苦・楽・捨の三受なり。 想と云は、 男女・長短等の相を分別する想なり。 行と云は、 四陰を除て外の一切の有縁の諸法なり。 識と云は、 心王なり。 此五陰をば又は五薀と云、 聚集の義也。
「▲四大」 と云は、 地・水・火0937・風なり。 此等の諸法は皆我等が形体を造立し、 愛憎の妄念をおこして正使に流転せしむれば、 群賊・悪獣に喩なり。
一 「▲言↢中間◗白道四五寸↡者、 則◗喩↣衆生◗貪瞋煩悩◗中◗能◗生↢ 清浄願往生心↡也」 と云は、 白道を以て信心に喩也。 此信心は、 行者の自力の信に非ず、 如来の他力より得る所の信心なり。 故に清浄の信心と云ひ、 又下にも仏の願力に喩也。
一 「▲言↢或◗行 一分二分 群賊等喚◗廻↡ 者、 則喩↧別解・別行・悪見人等、 妄◗説↢見解↡送 相惑乱、 及◗自◗造↠ 罪◗退失↥ 也」 と云は、 上には群賊・悪獣をば六根・六識・六塵・五陰・四大に譬へつるを、 今は別解・別行人に喩るは何事ぞと云に、 上は未だ浄土の教にあはざる時分、 其の時は身に随がふ所の六根・六境等の悪因・悪境等を以て群賊のあひしたがふに、 今は浄土の教門を得たる後なり。
此時その行を障せんがために、 喚返すは別解・別行の人、 并に又自身にも造罪に依て己と怯弱する心なり。 自の造罪に依て退する心は、 則彼六境等の所為なり。 されば自身なれども他人なりとも、 仏法の修行を防する義を以喩とすれば、 相違にあらざるなり。
一 問。 上の譬喩の中間には、 東の岸の勧むる声と西の岸の喚声とを聞て、 後に東0938の岸の群賊等喚廻と云。 今の合喩の中には、 東の岸の勧むるこえをきゝて、 未だ西の岸のよばふ声をきかざる中間に、 群賊等よばひ返すと云へり。 法喩相違せること如何。
答。 法喩前後して深義ある事を顕す也。
所謂上はたゞ譬の意を出すゆへに、 東に勧め西に喚を聞て、 その心決定して進むべし。 進を見てよばひかへすべきゆへに、 其次第しかなり。
合喩の中には、 東の岸の声は釈迦の教、 西の岸の声は弥陀の教なり。 故に別解の人も釈迦の教の分にて一旦も障すべし。 弥陀の教の前には悪見人等の障及ぶべからざる義を顕て、 岸の声よりさきに群賊よばひ返すと云なり。
一 「▲又一切行者、 行住坐臥◗三業◗所修、 無↠問↢ 昼夜時節↡、 常◗作↢此◗観解↡常◗作↢此◗想↡。 故 名↢廻向発願心↡」 と云、 廻思向道の廻向を結する也。
意は、 今の二河の譬喩を心にかけて、 六根・六境に触て仏法に進ざらん意をも、 我と慚愧して怯退の心なく、 別解・別行の人、 たとひ妨を致とも、 彼人の語に破せられずして、 偏に願力の道に乗じて往生の大益を得べしと云也。
一 「▲又言↢廻向↡者、 生↢彼◗国↡已、 還 起↢大悲↡、 廻↢入◗生死↡教↢化 衆生↡亦名↢廻向↡也」 と云は、 廻入向利の廻向を明す也。
上下品の菩提心の釈には 「▲唯発↢ 一念↡厭0939苦、 楽↢生 諸仏境界↡、 速◗満↢ 菩薩◗大悲願行↡、 還↢入◗生死↡、 普◗度↢衆生↡」 (散善義) と云ひ、 ¬法事讃¼ (巻下) の釈には 「▲誓◗到↢ 弥陀安養界↡、 還↢来◗穢国↡度↢ 人天↡」 と判ずる、 皆是の意なり。
是則浄土の大菩提心なり。 聖道門の修行は、 衆生を悉く度して後に我成仏せんと願ず。 而娑婆世界には退縁・退境多が故、 其行たやすく成ぜず。 難行なるが故也。 是に依て浄土宗は、 穢土にして自利利他の行成じがたければ、 先浄土に生じ成仏して後に穢土に還来して衆生を度せんと願ずる心なり。
曇鸞の ¬註論¼ には▲二種の廻向を立てゝ往相・還相と云へり。 所謂念仏して浄土に生ずるは、 往相の廻向なり。 穢国にかへりて衆生を度するは、 還相の廻向なり。 今の釈もその意あり。 廻因向果・廻思向道は往相なり、 廻入向利は還相也。
一 「▲三心既◗具、 無↢行 不↟ 成。 願行既◗成 若◗不↠ 生者、 無↠有 是◗処」 と云は、 今の三心は念仏を信ずる心なることを顕す。 是則願行具足の義を明して、 必生彼国の益を示す也。
一 「▲又此三心亦通 摂↢定散之義↡」 と云は、 何れの法を行ずるとも、 其法に於て真実の信等を起す義は同かるべければ、 総じて云はゞ、 此の至誠等の心は念仏に限らず、 定善にも通ずべしと云なり。 然れども、 別して云はゞ、 念仏の信心なりと0940云意なり。
一 ▲¬往生礼讃¼ の文は、 上の ¬疏¼ の文と其の意是れおなじ也。
「▲安心」 と云は三心なり、 その相くはしくは ¬疏¼ の釈ならびに今の文に見えたり。
「▲起行」 と云は五念門なり、 その名義同く今の文に載が如し。
「▲作業」 と云は四修なり、 次下の章に明すがごとし。
一 「▲信↧知◗自身◗是具足煩悩◗凡夫、 ↓善根薄少 流↢転 三界↡不↞出↢火宅↡」 と云は、 深心の機法二種の信心のなかに、 機を信ずる相なり。
而に ¬疏¼ の文には唯 「▲罪悪生死凡夫」 と云へり。 今の文には 「↑善根薄少」 の言を加たり。 是れ何なる義ぞと云に、 相違にはあらず。 只 ¬疏¼ に云所の義、 猶くはしく釈成する也。
煩悩を具足せる罪悪の凡夫なれば、 縦、 善根を修するとも、 其の自力薄少の善根は、 煩悩賊の為に奪はれて進道の資糧と成らず。 故に三界に流転すと云也。
一 私の釈の中、 「▲生死之家以疑為所止」 と云は、 「生死の家」 と云は六道なり。 此の六道に流転することは疑煩悩に依てなり。 凡そ聖道の教門に、 欲界の煩悩を立る時、 多の疑煩悩を出せり。 是根本の煩悩として生死の業因なるがゆへなり。 殊に念仏の行者は、 疑煩悩を除べき。 疑のなき裏は信なり、 信のなきは疑なるがゆへ0941なり。
されば ¬大経¼ に仏智疑惑の失を挙ては胎生を得と云ひ、 ¬観経¼ には地観の益を説としては 「▲必◗生↢ 浄国↡、 心◗得↠無↠ 疑」 と云へり。
「▲涅槃之城 以↠信◗為↢能入↡」 と云は、 「涅槃の城」 とは極楽なり。 「▲極楽無為涅槃界」 (法事讃巻下) と云へる是也。 此極楽国に生ずる事は、 只一の信心に依と也。
¬大経¼ (巻下意) には明信仏智の益を挙ては 「▲化生を得」 と云、 選択本願の信心を説としては 「▲至心信楽欲生」 (大経巻上) と云、 ¬観経¼ には 「▲具↢ 三心↡者必◗生↢彼国↡」 と説、 ¬小経¼ には 「▲一心不↠ 乱、 執↢持◗名号↡」 と述たり。
和尚の所判 (散善義) には、 或 「▲無疑無慮」 と云、 或は 「▲唯信仏語」 と云へる。 是皆信心を以て往生の正因とする義なり。
浄土の教文に限ず、 諸経論の中にも此義あり。 ¬涅槃経¼ (北本巻三五迦葉品南本巻三二迦葉品) には 「阿耨菩提は信心を因と為」 と説、 ¬大論¼ には 「仏法の大海には信を能入と為」 と云へる等、 是なり。
一 「▲明知、 善導之意亦不↠出↢此二門↡也」 と云は、 初めに道綽の心により ¬安楽集¼ を引て、 聖道・浄土の二門を分別し、 真宗一家の教相とすることを明しおはりぬ。
又而に浄土宗の依標とする所は、 殊に和尚の釈なるが故に、 今師の釈に彼の二門の意みえずは教相猶弱きが故に、 此釈の中に二門の意有事を明すなり。 上来の解釈を二門と意得事は、 上に▲四種別意によりて釈せしを以て知べきなり。
一0942 「▲此◗三心◗者総 而言↠ 之、 通↢諸◗行法↡。 別 而言↠ 之、 在↢往生◗行↡」 と云は、 「総」 といふは、 真実心等の相は何れの法を行ずとも此心は有べし。 諸の聖教に此意無に非ず。 然れども、 別して是を云へば、 念仏の信心なり。 今の ¬経¼ に明す所是なりと云意也。
「▲挙↠通◗摂↠別。 意即◗周◗」 と云は、 「通」 と云は諸の行法也、 「別」 と云は往生の行なり。
一 「▲行者能◗用心、 敢◗勿↠令↢ 忽諸↡」 と云は、 念仏の行者に於て三心を以て至要とす。 必ずこれを具足すべき義を示すなり。
底本は龍谷大学蔵室町時代初期書写本。 ただし訓(ルビ)は対校註を参考に有国が大幅に補完しているˆ表記は現代仮名遣いにしたˇ。