0875◎選択註解鈔第一
◎一 題目は、 「▲選択本願念仏↓集」 と云は、 定散八万の諸行を選捨て念仏の一行を択取が故に 「選択」 と云。
是則選択の言は正しく ▲¬大阿弥陀経¼ に出たり。 彼経は ¬双巻経¼ の同本異訳なり。
此書の第三の本願の章に選択の義を釈すとして、 四十八願に於て各此義有べき義を釈せり。 先第一の▲無三悪趣、 第二の▲不更悪趣、 第三の▲悉皆金色、 第四の▲無有好醜、 この四箇の願に約して選択の義を釈して、 次下に第十八の▲念仏往生の願をあげて、 委く選択の義を釈成す。 「▲即◗今選↢捨 前◗布施・持戒乃至孝養父母等の諸行↡、 選↢取◗専称仏号↡。 故◗云↢選択↡也」 と云へる、 此意なり。
又第十六の名号付属の章に、 三経并に ¬般舟経¼ の意により、 釈迦・弥陀及六方の諸仏にわたりて▲八種の選択を釈せられたり。 彼八種の義、 皆諸行を選捨て念仏を選取と云義を顕すなり。 然則、 今の題目に付て広く選択の義を論ぜば、 八種の選択に通ずべし。
略して要を取ば、 第十八の選択本願を以て肝心とす。 其の本願と云は念仏なり。 故に選択本願念仏集と云なり。
「↑集」 と云は聚なり。 念仏を選択す0876るに取て経釈の要文を聚めて、 往生の大益を成ずるが故に集と云なり。
されば此集の一部始終、 併ら念仏の一行を以て往生の正業とする義を釈成すと意得べきなり。
一 「▲南无阿弥陀仏、 ↓往生之業 念仏◗為↠先◗」 と云は、 先名号を上る事は、 上の題目に本願の念仏を選択すと云へども、 念仏の言は、 観念にも口称にも通じ、 諸仏・菩薩の名号にも亘べきがゆへに、 慥に其行体を顕て、 彼本願の念仏と云は南無阿弥陀仏なりと示すなり。
次に 「↑往生之業念仏為先」 と云へる、 正く上の選択本願の南無阿弥陀仏をもて、 往生の正業とすといふなり。 是則、 一往は定散の諸行共に往生の行と見えたれども、 彼は皆能顕の方便と云はれ、 名号の一法のみ所顕の真実と成て、 下根最劣の為には念仏独往生の因となる義を顕なり。
第一 教相章
一 標章に 「▲道綽禅師立↢ 聖道・浄土◗二門↡而捨↢ 聖道↡正◗帰↢ 浄土↡之文」 と云は、 ¬安楽集¼ を指なり。
▽道綽禅師は本は涅槃宗の人なり。 而に州の玄忠寺にして曇鸞和尚の碑の文を見て、 忽に涅槃の広業をすてゝ偏に浄土の教門に入給へり。 其より以来、 常に ¬観経¼ を講じて人を勧給に、 州の晋陽・大原・汶水三県の人、 七0877歳已上皆彼勧化を受て念仏を行じ、 往生を遂たり。 善導和尚も彼弟子なり。 されば浄土宗に於て止事なき祖師なり。
抑此 ¬集¼ に凡十六の章段有。 皆是経釈の明文を引て弥陀の利生の勝れたる事を顕し、 名号の一法の凡夫を救べき道理を明せり。
▲其中に此 ¬安楽集¼ を引て初めに置るゝ事は、 聖道・浄土の二門を明すこと分明なるゆへに、 一代を料簡し二門を分別して、 先一宗の教相を示がためなり。 此故に当章をば教相の章と云なり。
一 「▲問◗曰、 一切↓衆生◗皆有↢仏性↡。 遠劫 已来応↠値↢多仏↡。 何◗因、 至↠ 今◗仍自◗輪↢廻 生死↡不↠ 出↢↓火宅↡」 と云は、 問の意は衆生には仏性あり、 随ひて番々出世の仏にも定て遇たてまつりけん。 而に何ぞ今まで成仏せずして生死に輪廻し、 娑婆を出ざるやとの問なり。
↑「衆生に仏性有」 と云は、 ¬涅槃経¼ (北本巻二七師子吼品南本巻二五師子吼品) の説なり、 「一切衆生に悉く仏性有り、 如来は常住にして変易有こと無し」 と云へり。
↑娑婆を火宅に喩るは ¬法華経¼ (巻二譬喩品) の説なり、 「三界安きこと無し、 猶し火宅の如し、 衆苦充満して、 甚だ怖畏すべし」 と云へり。
答の中に 「▲依↢大乗◗聖教↡」 と云は、 下に引ところの ¬大集経¼ と ¬大経」 との意を指なり。
一 「▲由↧去↢ 大聖↡遥遠↥ 」 と云は、 「大聖」 は釈迦如来なり。 釈尊涅槃の後、 正像の0878二時過、 末法に至て在世遥に相遥るが故に、 聖道の修行は成じがたしと云なり。
「▲由↢理深◗解微↡ 」 と云は、 「理」 と云は、 聖道の諸宗皆理観を以て先とするが故に、 彼観其意深に依て、 智慧浅深なる凡夫は解がたしと云なり。
一 ▲¬大集月蔵¼ の文を引ことは、 聖道の修行の成じ難ことを証するなり。 「我が末法の時の中」 より 「いまだ一人も得る者有らじ」 と云までは、 ¬経¼ の意也。 「▲当今は末法」 より下は、 道綽の私釈なり。
「▲我が末法の時の中」 と云は、 釈尊の滅後に正像末の三時あり、 其時分に於て又二説あり。 一説には正法千年、 像法千年、 末法万年なり。 是は ¬大悲経¼・¬倶舎論¼ 等の説なり。 一説には像法・末法前の如し、 正法は五百年なり。 是は ¬摩耶経¼ の説なり。 諸宗の人師、 是等の説に付て各依用すること区なり。 而に道綽禅師は如来滅後一千六百年の中に出世の人なるが故に、 其在世を指て 「▲当今は末法」 と云へるは、 正法五百年の説に依と聞えたり。
此中に末法の時には、 三乗聖道の行を修せんに得べからずとなり。 彼 ¬経¼ (大集経巻五五月蔵分閻浮提品意) に五箇の五百年を説て、 「第一の五百年は解脱堅固、 第二の五百年は禅定堅固、 第三の五百年は多聞堅固、 第四の五百年は造寺堅固、 第五の五百年は闘諍堅固也」 と云へり。 此説に依に、 彼在世は造寺堅固の時に当れり。 況夫より後の闘諍堅固の時分に於てをや。 故0879に 「▲未有一人得者」 と云なり。
問云、 「▲起行修道」 と云へるは聖道・浄土を分ことなし。 「未有一人得者」 と云へる、 何ぞ聖道に限るべきや。
答云、 「起行修道」 と云へる、 専自力の修行、 三乗の修道と聞えたり。 是則、 教行証の三の中に、 末法には唯教のみ有て其行証無が故なり。 浄土門は他力の得道なれば、 彼 「起行修道」 の言の中には摂すべからず。 随て弥陀の教法は、 末法万年の後、 法滅百歳の時まで利益を施すべきものなり。 況末法は利物偏増の時分なるが故に、 「▲唯有↢浄土◗一門↡ 可↢通入↡路」 と云へり。 是尤道理に叶へるものなり。
一 ▲¬大経¼ の文は十八願の意なり。 是に付て不審あり。 願文には 「▲十方衆生」 といひ、 今は 「▲一生造悪の機」 と云。 相違如何と云に、 是は造悪の二機に亘るべき事は勿論なれども、 末法には聖道の修行は立し難く、 念仏の得益は盛なるべき事を成ずるが故に、 悪凡夫の正機なることを顕さんが為なり。 「▲縦令」 と云へる言は、 悪人にかぎらざる事を示すなり。
一 「▲若◗拠↢大乗↡、 真如実相・第一義空↓曽◗未 ズ ↠措↠心◗」 と云は、 真言・天臺等の諸の大乗、 其の教相一往異なれども、 詮ずる所は真如の理を顕にあり。 真如と云、 実相と云、 第一義と云は、 皆一法の異名なり。 此真如を解了する事、 凡夫は成0880じ難が故に 「↑曽未措心」 と云なり。
一 「▲若◗論↢ 小乗↡、 ↓修↢入◗↓見諦修道↡、 ↓乃至那含・羅漢、 ↓断↢五下↡除↢ 五上↡、 無↠問↢ 道俗↡、 未 ズ ↠有↢其◗分↡」 と云。 「小乗」 と云は、 声聞・縁覚の二乗なり。
其中に今 「↑見諦修道」 と云は、 先声聞の修行の相に付て、 凡夫は惑を断じ道を修して彼位に登る事難しと云へり。 其声聞の位に於て四向四果あり。 又其向・果を分て三道とす。
是は↓三界九地の八十八使の↓見惑、 八十一品の↓思惑を断ずる位に取て↓四果を分別し、 此四果を又↓三道と分なり。
↑三界と云は欲界・色界・無色界なり。 此三界を分て九地とす。 九地と云は、 欲界の五趣を一地とし、 色界の四禅を四地とし、 无色界の四空を四地とすれば九地なり。
↑見惑と云は根本の十煩悩なり。 一には貪、 二には嗔、 三には痴、 四には慢、 五には疑、 六には身見、 七には辺見、 八には邪見、 九には見取、 十二は戒禁取なり。 此十煩悩は、 四諦の理に迷て発す所の惑なり。 而るに四諦の下に具不具あり、 又三界の内に有無不同なり。 これに依て、 欲界には三十二使、 色界と無色界とには各二十八使有が故に、 八十八使あるなり。
↑思惑と云は、 九地に各上々品より下々品まで九品あるゆへに、 九地には八十一品ある也。
▽↑四果と云は、 一には↓須陀果、 二には↓斯陀含果、 三には↓阿那含果、 四には↓阿羅漢果0881なり。
↑三道と云は、 一には見道、 二には修道、 三には無学道なり。
↑須陀果と云は、 此には預流果と云。 始て聖の流に預るゆへに、 預流と云なり。 此位に四諦を観じて証を得るに、 十六心あり。 其中に於て、 前十五心を預流向と云。 向と云は果に向意なり、 是見道なり。 此位に総じて頓に三界の八十八使の見惑を断じて、 第十六心に預流果を証するなり。 是より修道なり。
↑斯陀含果と云は、 此には一来果と云。 欲界の九品の思惑の内、 五品を断ずるを一来向と云、 第六品を断ずるを一来果と云也。 九品の内、 残所の三品の惑に依て、 一度欲界に来るがゆへに、 一来と云なり。
↑阿那含果と云は、 此には不還果と云。 是は欲界の九品の思惑を断尽する位なり。 第七・八品を断ずるを不還向と云、 第九品を断ずるを不還果と云也。 欲界の煩悩、 悉尽て欲界に還ざるが故に、 不還と云なり。
↑阿羅漢果と云、 此には無生と云。 三界の煩悩を断尽して、 生として受べきも無が故に、 無生と云也。 色界の初禅の九品の一品より始て、 無色界の非想非々想地の九品の内、 第八品に至まで、 七十一品を断ずるを阿羅漢向と云。 是までは修道なり。 第九品を断ずるを阿羅漢果と云なり、 是則無学道なり。
されば今 「↑見諦修道に修入す」 と云は、 四向四果を指なり。 其中に 「見諦」 と云は見道也。 四諦の理を見る道なるが故に、 見道と0882も見諦とも云なり。 是則、 初の向なり。 「修道」 と云は、 初果・二向・二果・三向・三果・四向までなり。
「↑乃至那含・羅漢」 と云は、 云所の四果の内、 第三・第四なり。 此二果は上位なるが故に、 「見諦修道」 と云は初を指し、 那含・羅漢と云は、 終をあげて、 四向四果を経て三界の見惑・思惑を断じ難く、 見・修・無学の三道に入て道果を証し難と云なり。
↑「五下」・「五上」 と云は煩悩の名也。 欲界の煩悩を↓五下分結と云ひ、 色・無色界の煩悩を↓五上分結と云。 欲界は五趣各別なれども、 一の散地なるが故に総て下界と云、 色・无色は二界不同なれども、 一の定地なるが故に合して上界と云。 下界にも上界にも各五の煩悩あれば、 五下・五上と云なり。 結と云は煩悩也。 有情を結縛して生死の獄に置が故に結と云也。
↑五下分結と云は、 一には身見、 我々所を執する心なり。 我と云は有情なり、 我所と云は此我が依託する所なり。 即器世間なり。 二には戒禁取、 因に非を因と計し、 道に非を道と計する意也。 三には疑、 四には貪、 五には嗔なり。 此五中に、 貪と嗔との二惑によりて欲界を超ず。 たとひ超て上界に生ずれども、 身見と戒禁取と疑との三に依て又還下なり。 倶舎 (玄奘訳巻二一睡眠品) に、 「二に由て欲を超えず、 三に由て復還て下る」 と云へるは此意なり。 されば貪嗔をば守獄率に喩へ、 残の三をば防羅人に喩也。
↑五上0883の分結と云は、 一には色界の貪、 二には无色界の貪、 三には色无色の掉挙、 四には色无色の慢、 五には色無色の无明也。 此中に、 貪と慢とは常の如し。 无明は痴也、 掉挙は散乱なり。 衆生は皆五下・五上の煩悩に依て三界を出離せざるなり。 而れば、 是等の煩悩を断じて那含・羅漢に至る事叶ひ難しと云也。
一 「▲縦◗有↢ 人天◗果報↡、 皆為↢↓五戒・↓十善↡能◗招↢此◗報↡。 然◗持◗得◗者◗甚◗希 」 と云は、 人中に生ることは五戒の力に依るが故に、 縦ひ三界を出までは思よらずして人天に生ぜんと思ども、 五戒・十善を持ざれば夫も又叶がたしと云也。
「↑五戒」 と云は、 一には不殺生、 二には不偸盗、 三には不邪婬、 四には不妄語、 五には不飲酒なり。 「↑十善」 は、 ▲下の名号付属の章に見たり。
一 「▲是◗以◗諸仏◗大慈、 勧 帰↢ 浄土↡」 と云よりは、 念仏易行◗義◗顕はす。
「▲縦令 タトヒ 一生造↠ツクル悪 ヲ」 と云は、 ¬観経¼ の下三品の機、 常没の凡夫なり。 かゝる極悪の機なれども、 名願力に依て滅罪得生すとなり。
「▲何◗不↢ 思量↡都◗無↢去◗心↡也」 と云は、 聖道の難行なると浄土の易行なるとを相対して、 争か本願に帰し往生を願ぜざらんと云なり。
一 「▲且◗如↢有相宗↡、 立↢ ↓三時教↡而◗判↢一代◗聖教↡。 所謂◗有空中是也」 と云は、 「有0884相宗」 と云は法相宗なり。 諸法の因果を決判して、 大乗の性相を定判するが故に、 有相宗と云。
「↑三時教」 と云は、 一には有教、 阿含等の小乗声聞・縁覚、 断惑証理の道を明す教なり。 二には空教、 諸部の般若、 諸法皆空の理を説◗教なり。 三には中道教、 非有非空中道の理を明せる教なり。 即 ¬華厳¼ 等の諸大乗経なり。 如是有空中と次第することは、 説時の次第には依らず、 只説教の浅深に付て是を立るなり。 一代の諸教余たに分れたれども、 所説の意趣を云に此三を出でざるなり。
¬唯識論¼ を以て本論とせり。
一 「▲如↢ 無相宗↡、 立↢ 二蔵教↡以◗判↢一代◗聖教↡。 所謂↓菩薩蔵・↓声聞蔵是也」 と云◗、 「無相宗」 と云は三論宗なり。 空寂の深理を明して無相の正観を示すが故に、 無相宗と云也。 三論と云◗、 ¬中論¼・¬百論¼・¬十二門論¼ なり。
「↑菩薩蔵」 と云は大乗なり。 「↑声聞蔵」 と云は小乗なり。 一代の仏教、 教相区也と云へども、 大小乗を出ざるなり。
一 「▲如↢ 華厳宗↡、 立↢ 五教↡而◗摂↢一切◗仏教↡。 所謂↓小乗教・↓始教・↓終教・↓頓教・↓円経是也」 と云は、 此宗は所依の本経に付て名を立るなり。
「↑小乗教」 と云は、 阿含等のもろもろの小乗経なり。 又は愚法声聞教と云。 「↑始教」 といふは、 ¬深密¼ 等0885の諸大乗経なり。 「↑終教」 と云は、 ¬涅槃経¼ 等なり。 「↑頓教」 と云は、 別して一経を指に非ず。 諸大乗経の中に、 衆生即仏、 一念頓成の旨を明せるを以て頓教とす。 「↑円教」 と云は、 ¬華厳¼・¬法花¼ なり。 大小権実の教をもて、 此の五教に摂するなり。
一 「▲如↢ 法華宗↡、 立↢ 四教五味↡以◗摂↢一代◗仏教↡。 ↓四教者、 所謂蔵・通・別・円是也。 ↓五味◗者、 所謂乳・酪・生・熟・醍醐是也」 と云、 天臺宗の教相なり。 所依の経に付ては法花宗と云。
天臺と云は山の名なり。 智者大師、 天臺山にして此宗を興ぜらる、 故に天臺宗と云也。
「↑四教と云は、 蔵・↓通・↓別・↓円是也」 と云は、 蔵と云は↓三蔵教、 小乗なり、 界内の事教なり。
▼↑三蔵と云は、 一には修多羅蔵、 又は素咀覧蔵と云。 定を明す、 是経なり。 二には毘尼蔵、 又は毘奈耶蔵と云。 戒を明す、 是律なり。 三には阿毘曇蔵、 又は阿毘達磨蔵と云。 恵を明す、 是論なり。
されば戒定恵の三学を顕す教なり。 是は正には声聞・縁覚の為、 傍には菩薩を化す。 声聞は四諦を観じて四果の位に修入するなり。 四諦と云は、 苦・集・滅・道なり。 四果と云は、 △前に記するが如し。 縁覚は十二因縁を観じて自乗の果を得るなり。 菩薩は六波羅蜜を行じて八相成道するなり。
↑通教と云は、 界内の理教なり。 三乗通0886じて修行する故に、 通教と云なり。
↑別教と云は、 界外の事教なり。 只菩薩のみ行ずるが故に、 別教と云なり。 五十二位を経て無明を断じ、 中道を証して終に成仏するなり。
↑円教と云は、 界外の理教なり。 一色一香無非中道と談じ、 煩悩則菩提、 生死則涅槃と達するなり。
此四教◗中に、 初の一は小乗、 後の三は大乗なり。
「↑五味と云は、 乳・酪・生・熟・醍醐是なり」 と云は、 此南州の北に因て雪山と云山あり、 其山に忍辱草と云草あり。 牛是を食して乳を出す。 其味次第に転ず。 最初に出をば乳味と云、 是勝たる味なり。 次に出は酪味なり、 是は下品の味なり。 次に出るは生蘇味なり。 次に出すは熟蘇味也。 此四味は、 次第に初は淡く、 後は熟せり。 最後に出るをば醍醐味と云。 総じて一代五時の説教に喩て、 五味と云なり。
一には華厳、 別・円二教を説く、 乳味に当る。 二には阿含、 三蔵教を説、 酪味に当る。 三には方等、 四教を説、 生蘇味に当る。 四には般若、 通・別・円の三教を説く、 熟酥味に当る。 五には法華涅槃、 此二部は同味の教なり、 醍醐味に当るなり。
此中に、 法華には只一の円教を説く、 涅槃には又四教を説けども、 共に第五時の教として同く醍醐味なり。 一代の説教異なれども、 其所説を云に四教を出ず、 其の化儀を云に五時に摂するなり。
一0887 「▲如↢ 真言宗↡、 立↢ 二教↡而◗摂↢一切↡。 所謂顕教・密教是也」 と云は、 「顕教」 は釈迦所説の一代顕露の諸経なり。 「密教」 と云は、 大日所説の秘密神呪等是也。 大小・権実の差別ありと云へども、 密教の外をば皆顕教と立るに依て、 一切の仏教、 顕密二教を出ざるなり。
一 「▲今此◗浄土宗◗者、 若◗依↢ 道綽禅師◗意↡、 立↢ 二門↡而◗摂↢一切↡所謂聖道門・浄土門是也」 と云は、 是正く自宗の所立なり。 上に諸宗の立教を挙らるゝ事は、 一代を判属すること一准ならざる事を顕して、 我宗の教相を立するなり。
所謂諸宗の所談異なりと云へども、 此土の得道を明すは皆 「聖道門」 也。 是八宗・九宗等の意なり。 他土の得生を訓るは 「浄土門」 なり。 是今の 「三部経」 の説なり。
一 「▲問◗曰、 夫◗立↢ 宗◗名↡、 本在↢ 華厳・天臺等◗八宗・九宗↡、 未↠聞↧於↢浄土之家↡立↦ 其◗宗◗名↥。 然 今号↢ 浄土宗↡、 有↢何◗証拠↡也」 と云は、 此問の意は、 華厳・天臺等の諸宗に相並て浄土門を宗と号すべからずと云なり。 意は宗と云証拠なくは、 所立の二門の義許し難しと云なり。
而に答の意は、 「▲浄土宗◗名、 其◗証非↠一」 と云て三箇の証を引り。 ▲元暁は華厳宗の祖師、 ▲慈恩は法相宗の祖師、 ▲迦才は三論宗の祖師なり。 他宗の人師の釈を引て、 自家の宗の名を証するなり。
一0888 「▲就↢大乗◗中↡雖↠有↢ 顕密・権実等◗不同↡、 ↓今此◗集◗意、 唯存↢顕大及以権大↡。 故 当↢ 歴劫迂廻之行↡。 ↓准↠ 之◗思↠之、 応↠存↢密大及以実大↡。 然◗則◗今真言・仏心・天臺・華厳・三論・法相・地論・摂論、 此等◗八家之意在↠此◗」 と云、 大乗に付て顕大乗あり、 密大乗あり、 権大乗あり、 実大乗あり。 顕大と密大とを対するとき、 顕大はあさく密大はあふかし。 顕大の中に権大と実大とを対するとき、 権大はあさく実大はふかし。
而今此 ¬安楽集¼ に立る所の二門の中に、 聖道門と云へるは、 一往は先、 顕大乗と権大乗となり。 是等の教の意は、 歴劫迂廻の行なるが故なり。 密大乗と実大乗とは、 速疾直往の義を明がゆへに、 其意異なれば彼此を等じて一門とはせずと也。 「↑今この集の意、 ただ顕大および権大を存ず。 かるがゆへに歴劫迂廻之行に当れり」 と云へる、 此意也。
然るに再往是を云時は、 迂廻の行も直往の道も、 共に自力の行、 此土の得道なれば、 皆総じて聖道門の言に摂すべしと也。 「↑これに准じてこれを思ふに、 密大および実大を存ずべし」 と云へる、 此意なり。
今挙ところの八家の中に、 真言は密大なり、 余の七家は顕大なり。 其七家の中に、 仏心・天臺・花厳は実大なり、 三論・法相・地論・摂論は権大なり。 但是は天臺・花厳等の教相に依て是を分てり。 三論・法相等の意は教に於て権実を論ぜざるなり。
一0889 「▲次◗小乗◗者、 総 是小乗◗経・律・論之中◗所↠明◗声聞・縁覚、 断惑証理、 入聖得果之道也」 と云は、 「経」 と云は、 阿含経なり。 「律」 と云は、 四部律・十誦律等なり。 「論」 と云は、 ¬倶舎¼・¬婆沙¼ 等の緒論なり。
一 「▲凡◗此◗↓聖道門◗大意者、 不↠論↢大乗及以小乗↡、 於↢此◗娑婆世界之中↡、 修↢ 四乗◗道↡得↢ 四乗果↡也。 四乗◗者三乗之外◗加↢仏乗↡」 と云は、 「三乗」 と云は声聞・縁覚・菩薩なり。 法相・三論には唯三乗を立る也。
いま仏乗を加て 「▼四乗」 と立るは天臺の意なり。 或は三乗といゝ、 或は四乗◗立れども、 みなこれ是聖者に付て道果を論ずるが故に、 大小・権実・顕密・教禅異なりと雖ども、 皆聖道門の中なりと云也。
「↑聖道」 と云は聖者の道なり。 意は、 念仏往生は此外に凡夫出離の道也と云はん為なり。
一 ¬十住毘婆娑論¼ の文を引ける中に、 「▲謂◗五濁之世於↢↓無仏◗時↡、 求↢↓阿毘跋致↡為↠難。 此◗難◗乃◗有↢多途↡。 粗言↢↓五三↡以◗示↢義◗意↡」 と云は、 「五濁」 と云は、 一には↓劫濁、 二には↓衆生濁、 三には↓見濁、 四には↓煩悩濁、 五には↓命濁なり。
↑劫濁と云は、 劫減の時には諸悪加増するが故に、 衆生の身長漸に短少なり。 是此濁の験なり。
↑衆生濁と云は、 劫末の時は衆生の十悪弥盛なるを云。 則衆生濁悪にして蛇竜の如な0890る也。
↑見濁と云は、 自の悪をば善とし、 他の是をば非とする也。 其見の邪なる事、 棘刺の如くなり。
↑煩悩濁と云は、 劫末の衆生は其の心悪性にして、 貪嗔弥競起なり。
↑命濁と云は、 見・悩の二濁に依て多◗殺害を行ずる故に、 中夭頻に来て命短促なり。
此事 ▲¬観経義¼ の第二并に ▲¬法事讃¼ の下巻に見えたり。
「↑無仏◗時」 と云は、 前仏涅槃の後、 後仏出世の前、 二仏の中間を指なり。 此時聖道を修行して、 不退の位に至ること難しと云なり。
「↑阿毘跋致」 と云は、 不退の位なり。
「↑五三」 と云は、 少々と云言なり。
一 「▲一◗者外道◗相善乱↢菩薩◗法↡」 と云は、 外道の邪見を以て、 菩薩の修行を乱なり。 鴦崛摩羅が千人を害せんとせし時の如きの類なり。
「▲二◗者声聞◗自利 障↢大慈悲↡」 と云は、 声聞は自調自度の行を立て、 利他の行なき也。 ¬荘厳論¼ (荘厳経論巻六随修品) には、 「▲雖↣恒◗処↢ 地獄↡、 不↠障↢大菩提↡。 若◗起↢ 自利◗心↡、 是大菩提◗障 」 と云、 ¬観経義¼ の第一 (玄義分意) には、 「▲二乗◗狭劣、 闕◗無↢利他◗大悲↡故◗」 と云へる、 此意也。
「▲三には無顧◗悪人破↢他◗勝徳↡」 と云は、 是非を顧ざる悪性の人、 大乗の行道を障る也。 身子が乞眼の婆羅門に遇て、 菩薩の道を退せしが如し。
「▲四には顛倒◗善果能壊↢梵行↡」 と云は、 人天の善果に著して仏法の修行を妨なり。 妙荘厳王の威徳に耽て、 一乗0891の行徳を失しが如し。
「▲五には唯是自力にして無↢他力◗持↡」 と云は、 聖道の修行は観念に浅深あり、 行業に強弱あれども、 皆自力励みて仏の他力を憑ざるが故に、 五濁の世には自力の修行其力弱くして成じ難きなり。
「▲如↠是◗等◗事、 触↠ 目◗皆是也」 と云は、 此五箇の難、 正しく眼の前に有と云意なり。
一 「▲天臺・迦才同↠之◗」 と云は、 天臺の ¬十疑¼ にも迦才の ¬浄土論¼ にも、 同く今の ¬十住毘婆娑論¼ の文を引て難行・易行を分別するが故なり。
一 ¬西方要決¼ の文に、 「▲釈迦啓↠ 運◗弘◗益↢有縁↡」 と云は、 説教の時節至り、 所化の機縁熟して閻浮に出世し、 一代の間広衆生を利益し給を云なり。
「▲教闡↢ヒラケテ随方↡並◗霑↢法潤↡」 と云は、 仏教根機に応じて種々に儲ば、 何分に随てもと云。 是までは総じて一代の化導をのぶるなり。
「▲親逢↢ 聖化↡、 道悟↢三乗↡」 と云は、 惑障も無く根性も利にして親く仏化を蒙聖者の根機は、 三乗の道果を得と云也。 是則聖道門◗意也。
「▲福薄◗因疎 勧 帰↢ 浄土↡」 と云は、 功徳の福分うすく善根の勝因おろそかなる者をば、 浄土に勧入と云也。 此機は凡夫なり。 是則浄土門の意也。
されば慈恩の意も、 聖道・浄土の二門の義を顕はすと云なり。
一 同後序の文に 「▲生 居↢ 像季↡」 と云は、 「像」 は像法也、 「季」 は末なり。 慈恩自我0892在世を指て、 像法の末と云也。
「▲去↠ 聖◗斯◗遥 」 と云は、 大聖釈尊涅槃の後、 既に多の年紀を送れる意なり。
「▲道預↢ 三乗↡無↠方↢契悟↡ 」 と云は、 三乗の教門を説たれども、 其悟を得ること叶ずとなり。
「▲人天の両位◗躁動 不↠安 」 と云以下は、 聖道の修行を立て、 自利々他の行を修せんには、 久人天に処して其行を立べきなり。 而に 「人天の両位は躁動して安からずといふは、 ¬十住毘婆娑論¼ に出す所の五箇の難の如く、 様々の障多して、 修行退しやすきなり。
▲智博情弘き上根の機は、 久濁世に処して行道を修せんに得べし。 識愚に因浅下根の機は、 其行成ぜずして幽塗に溺れぬべしと云なり。 「幽塗」 と云は、 三悪道等なり。
▲故に如是障難多き娑婆をば遠ざかり、 成じ難き自力の修行を捨てゝ早く浄土に生じ、 仏力に扶られて速に無上菩提に至るべしと勧むるなり。
一 「▲例 如↧彼◗曇鸞法師◗捨↢ 四論◗講説↡一向◗帰↢浄土↡、 道綽禅師◗閣↢ 涅槃◗広業↡偏◗弘 ↦ 西方◗行↡」 と云、 鸞師は四論宗の学生なり。
四論と云は、 一には ¬中論¼、 龍樹菩薩の造なり。 二には ¬百論¼、 提婆菩薩の造なり。 三には ¬十二門論¼、 又龍樹の造なり。 是は三論なり。 是に ¬智度論¼ を加て四論と云なり。 彼論も龍樹の造なり。
鸞師は此の四論に通達して深義を講ぜられしかども、 後には菩提流支三蔵の勧0893に依て一向に浄土に帰し、 ¬往生論¼ の註を記して五祖の上首に居し給へり。
道綽禅師は本は涅槃宗の人なり。 後には偏に西方の行を弘められき。 委は△上に録するが如し。
▲如此深智の碩徳、 なほ聖道の修行は当今の機に相応↡せずとて、 浄土門に帰せり。 況や、 末代無智の道俗、 理深解微なる。 諸教に於て其の証を得がたければ、 他力往生の門に帰して称名念仏の行を勤べき者なり。
一 ▲聖道家の血脈を引て、 浄土宗にも血脈あるべしやと問て、 有べき義を釈せらるゝは、 念仏往生の門に於て殊に血脈相承大切なる事を顕す。
其の故は、 ¬経¼ (大経巻下) に 「▲聞其名号信心歓喜」 とも説、 「▲聞名欲往生、 皆悉到彼国」 とも云て、 名号を聞て信心を生じ、 信心を生ずる時即往生決定するは、 尤も相承あるべき故に如此被挙也。
第二 二行章
一 ▲此章は、 上の章に聖道・浄土の二門を分別して、 其中に聖道を捨て浄土を選取が故に、 今の章には其浄土の一門に於て正行・雑行を分て、 其中に雑行を捨て正行を選取る也。
一 「▲善道和尚立↢ 正雑二行↡、 捨↢ 雑行↡帰↢ 正行↡之文」 と云は、 観経義の第四をさ0894すなり。
善道和尚は、 大唐相伝して弥陀如来の化身と云、 是常の義なり。 又 ¬花厳¼・¬大集¼ の両巻に、 釈尊善導大師と成て衆生を度すべしと説る文あるが故に、 釈迦の再誕とも意得る也。 二仏もとより一仏なれば、 何れの義も相違なし。
其面授を立る時は、 道綽禅師の弟子なり。 然れども道に於て証を得る事師にも超、 凡夫往生の宗義を立事古今に秀でたるが故に、 殊に今師の釈を以て一宗の規模とするなり。
一 「▲↓就↠行◗立↠信◗者、 然◗行有↢二種↡。 一 者正行、 二 者雑行 」 と云、 三心の中の深心の下に、 ▲就人立信・▲就行立信の二の信心を立たり。
其中に就人立信と云は、 能説の教主に付て信を立てんと信ずる也。 所謂仏説を信じて余説を用ざるなり。 其義具に下の三心の章に有べし。
「↑就行立信と云は、 所説の行に付て信を立するなり。 則今の文是なり。 正行・雑行、 正業・助業の分別、 文に顕て見安し。
一 「▲¬疏¼ の上の文に云、 今此◗ ¬観経¼ 中◗十声◗称仏、 則◗有↢↓十願十行↡具足 」 と云は、 願行具足して往生すべき事を釈する文也。
「願」 と云は行者の信心、 「行」 と云は所修の行なり。 而願行と分つ時は各別なれども、 南无阿弥陀仏の六字を称するに願行具足の徳有也。
則 「▲言↢南无↡者即◗是帰命、 亦是発願廻向之義。 言↢阿弥陀仏↡者則0895◗是其◗行。 以↢斯◗義↡故◗必◗得↢往生↡」 と云へる、 其意なり。 意は、 「南无」 の二字は願なり、 「阿弥陀仏」 の四字は行なるが故に、 六字の中に願行を具足して必往生すと也。
其に取て今 「↑十願十行」 と云、 一念の中に一の願行あれば、 十声の中には十の願行あるべしと也。 是に准じて云ば、 百念には百の願行、 千念には千の願行具足すべき也。
一 「▲雑◗者、 是純◗非↢極楽之行↡。 通↢於人天及以三乗↡、 亦通↢於十方◗浄土↡。 故◗云↠雑◗也。 ▲然◗者西方◗行者須↧キ捨↢ 雑行↡修↦正行↥也」 と云は、 定散の諸行は極楽の正因にあらず。 或は人天有漏の果を感ずる業也、 或は声聞・縁覚の果を得因たり、 或は菩提薩埵の位に登るべき善たり、 或は十方浄土に生ずべき行なり。
故に彼等の所求の為には諸行を行ずべし、 西方の往生を望ば西方の業因たる念仏を修すべしとなり。
定善は十方浄土の通因なることは、 ¬観経¼ の序分に見えたり。 通所求に 「▲為↠我◗広◗説↧ 無↢憂悩↡処↥」 と請じて、 則通去行に 「▲唯願 仏日、 教↠ 我◗観↢ 於清浄◗業処↡」 と請ずるが故なり。
三福散善の中に、 孝養父母等の世福は人中天上の福善なり。 受持三帰等の戒福は小乗所修の行業なり。 発菩提心・深信因果・読誦大乗等の行福は三乗の修因并に十方浄土の通因なり。 故に純に西方の正因に非ず。 縦0896ひ廻して生ずる義有れども、 真因に非ざるが故に如是釈するなり。
一 正雑二行に例せんが為に純雑の二門を立たるに、 余の経論の証を引て云所の▲八蔵・▲四含等は、 一々の名目、 再治の本に見たり。
一 ¬往生礼讃の文を引ことは、 上の ¬疏¼ の文を引て正雑二行の差別を釈すと云へども、 二行の得失を判ずること今の ¬礼讃¼ の文分明なるが故に、 重て是を引具せらるゝなり。
所謂専修の者をば、 「▲十即十生、 百即百生」 と釈し、 雑修の者をば、 初には 「▲百時◗希◗得↢一二↡、 千◗時◗希◗得↢五三↡」 と判じ、 後には 「▲千中無一」 と釈せらるゝ、 是也。
此中に専修には四徳を出し、 雑修には十三の失を挙たり。
先専修の徳を讃ずるに、 「▲無↢ 外◗雑縁↡得↢正念↡故」 と云は、 外邪異見の人の、 雑行を以て障する縁無して念仏の正念を得と云なり。
「▲与↢仏◗本願↡相応 故◗」 と云は、 阿弥陀仏の本願に相応するが故なり。 ¬大経¼ に諸行を選捨て、 念仏◗以往生の本願とするが故なり。
「▲不↠ 違↠教◗故◗」 と云は、 釈尊の教に違せずとなり。 ¬観経¼ に定散の諸行を付属せず、 念仏の一行を付属するがゆへなり。
「▲随↢順 スルガ仏語◗故」 と云は、 釈迦◗誠説及諸仏証誠の実語に随順すとなり。 ¬阿弥陀経¼ に 「▲汝等皆当↣ ベ シ信↢受◗我◗語及◗諸仏◗所説↡」 と説が故也。
次に雑修の失を挙るに、 「▲由↢雑縁乱動 失↢ 正念↡故◗」 と、 「▲与0897↢仏◗本願↡不↢ 相応↡故◗」 と、 「▲与↠教相違 故◗」 と、 「▲不↠ 順↢仏語↡故◗」 と、 此四は前の専修の徳に翻対して知べし。
次に 「▲係念不↢ 相続↡故◗」 と、 「▲憶想間断 故◗」 と、 「▲廻願不↢ 慇重真実↡ 故◗」 と、 「▲貪瞋諸見◗煩悩来 間断 故◗」 と、 「▲无↠有↢ 慚愧悔過↡故◗」 と、 「▲不↣相続 シテ念↢報彼◗仏恩↡故◗」 と、 「▲心◗生↢ 軽慢↡、 雖↠作↢ 業行↡常◗与↢名利↡相応 故◗」 と、 「▲人我自◗覆 不↣親↢近◗同行善知識↡故◗」 と、 「▲楽 近↢ 雑縁↡、 自↢障々↣他 往生◗正行↡故◗」 と、 此九の失は、 第一の 「雑縁乱動 正念◗失 由◗故◗」 と云へる中より是を開せり。 大旨同事なれども、 分々の義理に依て種々の失を出せるなり。 其義文に有て見べし。
一 「▲何◗以 故。 ↓餘此日自◗見↢聞 諸方◗道俗↡、 解行不同、 専雑有↠異」 と云より以下は、 正く専雑の二行を相対して往生の得否を決判する也。
「↑餘」 と云は、 和尚の自我と称する言也。 我諸人の修行の相を見聞するに、 或は専修の行者もあり、 あるひは雑修の行人もあり。 そのなかに専修のものは百即百生し、 雑修の者は千中無一也と云也。
一 「▲上在↢ 一形↡似↢如 小苦↡」 と云以下は、 重て念仏の功の小きなると、 往生の益の大きなるとを相対して、 称名を勧修する也。
念仏を勧修するは、 凡夫の懈怠不0898信の心に望れば小苦に似たれども、 往生の願望を遂るは過分の巨益なりと知べしと云ふ意なり。
一 「▲乃至成仏 不↠逕↢生死↡」 と云は、 生死に二種あり。 一には分段生死、 二には変易生死なり。 分段生死と云は、 六道四生、 死此生彼の果報なり。 変易生死と云は、 菩薩の地位の増進也。 今は分段生死を離るゝを云なり。
問◗云く、 極楽を願ずるは仏果を成ぜんが為なり。 今の釈の如は、 往生即成仏の義にはあらざる歟。 而所期の本意無に似たり、 如何。
答て云、 聖道・浄土の二門を分別する時、 聖道は成仏を期し、 浄土は往生を願ず。 是難行・易行の差別なり。
別時門の釈に、 「▲正報◗難↠期。 一行雖↠精 未 ズ ↠剋。 依報◗易↠求。 所以◗一願之心 未 ズ ↠入◗」 と云へる、 この義也。
▼然れども穢土の修行の如くに長遠の修行を用ず、 彼土は無為涅槃の界なるが故に、 自然に無生の理に契当し、 速疾に菩提の果を得るなり。
¬礼讃¼ には 「▲十地の願行自然に彰はる」 と云ひ、 ¬般舟讃¼ には 「▲道場の妙果豈賖なりと為んや」 と云へる解釈等、 則此義を顕也。
一 ▲私の釈に付て不審あり。 前後の諸章の如きは、 所引の本文に於は多少を論ぜず、 一処に是をのせて末後に私の釈をば設けたり。 而に当章には ¬疏¼ の釈と ¬礼讃0899¼ の釈と各別に引↠之、 私の釈を中間に隔てたるは何の意ぞと云に、
是を意得に、 ¬疏¼ の文は正雑二行を分別し、 正助二行を定判するが故に其文を受て、 初には往生の行相を明し、 後には二行の得失を判じおはりぬ。
其中に今の ¬礼讃¼ の文は重て二行の得失を挙て、 分明に往生の得不得を釈し顕すが故に、 無智の道俗の為に要が中の要なれば、 別に是を引て専修を勧むるなり。
意は愚鈍下根の輩、 広を求めずして略を欣はん時、 意を此文に留めて念仏の一行を修せしめんが為也。
本云
嘉慶三年 己巳 □月六日書写了
応永廿二年五月廿九日、 以或本書之。 先老御草随尋得令悦之、 忝謹以写之。
一交了
伝領光覚(花押)
記之
底本は龍谷大学蔵室町時代初期書写本。 ただし訓(ルビ)は対校註を参考に有国が大幅に補完しているˆ表記は現代仮名遣いにしたˇ。