1075三部経大意

 

¬さうくわんぎやう¼・¬くわんりやう寿じゆきやう¼・¬わあ弥陀みだきやう¼、 これをじやうさんきやうといふなり。

・大経

¬さうくわんぎやう¼ には、 まづわあ弥陀みだぶち十八じふはちぐわんをとき、 つぎにぐわんじやうじゆをあかせり。

その十八じふはちぐわんといふは、 法蔵ほふぞう比丘びくざいわうぶちのみまへにしてだいしんをおこして、 じやうぶちこくじやうじゆしゆじやうぐわんをたてたまへり。 おほよそその十八じふはちぐわんは、 あるいはさん悪趣あくしゆともたて、 きやう悪道あくだうともとき、 あるいしちかい金色こむじきともいひ、 無有むう好醜かうしゆともちかふ。 みなこれかのくにしやうごむわうじやうののちの果報くわほうなり。

このなかしゆじやう1076彼国かのくににむまるべきぎやうをたてたまへるぐわんを、 だい十八じふはちぐわんとするなり。 「せち得仏とくぶち十方じふぱうしゆじやうしむ信楽しんげうよくしやうこくないじふねむにやくしやうじやしゆしやうがく唯除ゆいぢよぐゐやくはうしやうぼふ(大経巻上)云々 おほよそ十八じふはちぐわんなかに、 このぐわんことにすぐれたりとす。 そのゆえは、 かの くにゝむまるゝしゆじやうなくは、 悉皆しちかい金色こむじきぐわんも、 無有むう好醜かうしゆぐわんも、 なにゝよりてじやうじゆせむ。 わうじやうするしゆじやうのあるにつけてこそ、 のいろも金色こむじきに、 好醜かうしゆあることもなく、 五通ごつおもえ、 三十さんじふさうおもすべけれ。

これによりて、 善導ぜんだうしやくしてのたまはく、 「法蔵ほふぞう比丘びく十八じふはちぐわんをたてたまひて、 一一ゐちゐちぐわんにみな、 にやく得仏とくぶち十方じふぱうしゆじやうしようみやうがう下至げしじふしやうにやくしやうじやしゆしやうがく(玄義分意)云々

おほよそ諸仏しよぶちぐわんといふは、 じやうだいくゑしゆじやうのこゝろなり。 あるだいじようきやうにいはく、 「1077さちぐわんしゆあり、 ひとつにはじやうだいふたつにはくゑしゆじやうなり。 そのじやうだいほんは、 しゆじやうさいしやすからむがためなり」 と 云々。 しかれば、 たゞほんくゑしゆじやうのこゝろにあり。

いま弥陀みだ如来によらいじやうしやうごむしたまひしも、 しゆじやう引摂いんぜふしやすからむがためなり。 すべからくいづれのぶちも、 じやうぶちののちはないしよう外用ぐゑゆうどくさいしやうせいぐわん、 いづれもふかくして、 しようれちあることなけれども、 ぎやうさちだうとき善巧ぜんげう方便はうべんのちかひ、 みなこれまちまちなり。

弥陀みだ如来によらいいんのとき、 もはらわがをとなえむしゆじやうをむかへむとちかひたまひて、 兆載てうさいゐやうごふしゆぎやうしゆじやうかうしたまふ。 ぢよくわれ依怙ゑこしやうしゆつこれにあらずは、 なにおか1078む。

これによりて、 かのぶちわれよにこえたるぐわんをたつとなのりたまへり。 さん諸仏しよぶちも、 いまだかくのごときのぐわんおばおこしたまはず。 十方じふぱうさちも、 いまだかゝるちかひはましまさず。 「このぐわんもし剋果こくくわすべくは大千だいせん感動かむどうすべし、 虚空こく諸天しよてんまさに珍妙ちんめうはなをふらすべし」 (大経巻上) とちかひしかば、 だい六種ろくしゆ振動しむどうし、 てんよりはなふりて、 なむぢまさにしやうがくをなるべしとつげき。

法蔵ほふぞう比丘びくいまだぶちになりたまはずとも、 このぐわんうたがふべからず。 いかにいはむや、 じやうぶちののち十劫じふこふになりたまへり、 しんぜずはあるべからず。 「ぶちこむ現在げんざいじやうぶちたう本誓ほんぜいぢうぐわん不虚ふこしゆじやうしようねむ必得ひちとくわうじやう(礼讃)しやくしたまへる、 これなり。

しよしゆじやうもんみやうがう信心しんじむくわんない一念ゐちねむしむかうぐわんしやうこく即得そくとくわうじやうぢゆ退転たいてん唯除ゆいぢよぐゐやくはうしやうぼふ(大経1079巻下) といへり。 これはだい十八じふはちぐわんじやうじゆもんなり。 ぐわんには 「ない十念じふねむ(大経巻上) ととくといへども、 まさしくはぐわんじやうじゆすることは一念ゐちねむにありとあかせり。

つぎ三輩さんぱいわうじやうもんあり。 これはだいじふ臨終りむじゆ現前げんぜんぐわんじやうじゆもんなり。 ほちだいしむとうごふをもて三輩さんぱいをわかつといへども、 わうじやうごふじてみな 「一向ゐちかう専念せんねむりやう寿じゆぶち(大経巻下) といへり。 これすなはちこのぶちほんぐわんなるがゆへなり。

ぶちほんぐわんりきもんみやうよくわうじやう皆悉かいしちたうこく自致じち退転たいてん(大経巻下) といふもんあり。

漢朝かんてうぐゑんりちといふものありき、 せうじようかいをたもつものなり。 ゑんかうして宿しゆくしたりけるに、 隣房りんばうトナリノバウ人ありてこのもんじゆしき。 ぐゑんこれをきゝて、 ゐちりやう返誦へんじゆしてのちに、 おもひいづること1080もなくしてわすれにき。 そのゝちぐゑんりちかいをやぶりて、 そのつみによりてえむちやうにいたる。

そのときにえむ法王ほふわうののたまはく、 なむぢ仏法ぶちぽふ流布るふのところにむまれたりき。 所学しよがくほふあらば、 すみやかにとくべしと、 かうにおいのぼせられしときに、 ぐゑんかうにのぼりておもひまわすに、 すべてこゝろにおぼゆることなし。 むかし宿じゆくにてきゝしもんありき、 これをじゆしてむとおもひいでゝ、 「ぶちほんぐわんりき」 といふもんじゆしたりしかば、 えんわう、 たまのかぶりをかたぶけて、 これはこれ西方さいはう極楽ごくらく弥陀みだ如来によらいどくをとくもんなりといひて、 礼拝らいはいしたまふと 云々

ぐわんりき思議しぎなること、 このもんにみえたり。

ぶちろく其有ごう得聞とくもんぶちみやうがうくわんやくない一念ゐちねむたうにんとくだいそくそくじやうどく(大経巻下) といへり。 ろくさちにこの ¬きやう¼ をぞく1081したまふには、 ない一念ゐちねむするをもちてだいじゃうどくとのたまへり。 ¬きやう¼ のたい、 このもんにあきらかなるものか。

・観経

つぎに ¬くわんぎやう¼ にはぢやうぜん散善さんぜんをとくといへども、 念仏ねむぶちをもちてなん尊者そんじやぞくしたまふ。 「によかう是語ぜご(観経) といへる、 これなり。

だい真身しんしんくわんに 「光明くわうみやう遍照へんぜう十方じふぱうかい念仏ねむぶちしゆじやう摂取せふしゆしや(観経) といふもんあり。 さいしゆじやうぐわんびやうどうにしてあることなれども、 えんなきしゆじやうやくをかぶることあたはず。 このゆへに、 弥陀みだ善逝ぜんぜいびやうどう慈悲じひにもよをされて、 十方じふぱうかいにあまねく光明くわうみやうをてらして、 うたゝ一切ゐちさいしゆじやうにことごとくえんをむすばしめむがために、 光明くわうみやうりやうぐわんをたてたまへり。 だいじふ1082ぐわんこれなり。

つぎにみやうがうをもていんとして、 しゆじやう引摂いんぜうせんがために、 念仏ねむぶちわうじやうぐわんをたてたまへり。 だい十八じふはちぐわんこれなり。 そのみなわうじやういんとしたまへることを、 一切ゐちさいしゆじやうにあまねくきかしめむがために、 諸仏しよぶちしようやうぐわんをたてたまへり。 だい十七じふしちぐわんこれなり。

このゆへに、 しや如来によらいのこのにしてときたまふがごとく、 十方じふぱうにおのおのごうしやぶちましまして、 おなじくこれをしめしたまへるなり。

しかれば、 光明くわうみやうえんあまねく十方じふぱうかいをてらしてもらすことなく、 みやうがういん十方じふぱう諸仏しよぶちしようさんしたまひてきこえずといふことなし。 「我至がしじやう仏道ぶちだう名声みやうしやうてう十方じふぱうきやう所聞しよもんせいじやうしやうがく(大経巻上) とちかひたまひし、 このゆへなり。

しかればすなはち、 光明くわうみやうえんみやうがういんがうせば、 摂取せふしゆしややくをかぶらむことうたがふべから1083ず。

そのゆへに ¬わうじやう礼讃らいさん¼ のじよにいはく、 「諸仏しよぶちしよしようびやうどうにしてこれひとつなれども、 もし願行ぐわんぎやうをもてきたしおさむれば、 因縁いんえんなきにあらず。 しかも弥陀みだそん、 もと深重じむぢうせいぐわんをおこして、 光明くわうみやうみやうがうをもて十方じふぱう摂取せふしゆしたまふ」 といへり。

またこのぐわんひさしくしてしゆじやうさいせむがために、 寿しゆいやうりやうぐわんをたてたまへり。 だい十三じふさんぐわんこれなり。 しかれば、 光明くわうみやうりやうぐわんわう一切ゐちさいしゆじやうをひろく摂取せふしゆせむがためなり。 寿じゆみやうりやうぐわんは、 たゝさま十方じふぱうかいをひさしくやくせむがためなり。

かくのごとく因縁いんえんがうすれば、 摂取せふしゆしや光明くわうみやうつねにてらしてすてたまはず。 この光明くわうみやうにまた化仏くゑぶちさちましまして、 このひとせふして1084ひやくぢふ千重せんぢふねうしたまふに、 信心しんじむいよいよぞうぢやうし、 しゆことごとく消滅せうめちす。

臨終りむじゆときには、 ぶちみづからきたりてむかへたまふに、 もろもろの邪業じやごふよくさうるものなし。 これはしゆじやういのちおはるときにのぞみて、 ひやくきたりせめて身心しんしむやすきことなく、 悪縁あくえんほかにひき、 妄念まうねむうちにもよをして、 きやうがいたいたうしやう三種さんしゆ愛心あいしむきおいおこりて、 だい六天ろくてんわうも、 このときにあたりてせいをおこしてさまたげをなす。

かくのごときの種種しゆじゆのさはりをのぞかむがために、 しかも臨終りむじゆときにはみづからさちしやうじゆねうして、 そのひとのまへにげんぜむといふぐわんをたてたまへり。 だいじふぐわんこれなり。

これによりて、 臨終りむじゆのときにいたりぬれば、 ぶち来迎らいかうしたまふ。 ぎやうじやこれをみて、 こゝろにくわんをなしてぜんぢやうにいるがごとくして、 たちまちにくわんおむ1085蓮台れんだいにのりて、 安養あんやう宝刹ほうせちにいたるなり。 これらのやくあるがゆへに、 「念仏ねむぶちしゆじやう摂取せふしゆしや(観経) といへり。

・観経 ・三心

そもそもこの ¬きやう¼ (観経) に 「三心さんしむしやひちしやうこく」 ととけり。 ひとつにはじやうしむふたつには深心じむしむみつにはかう発願ほちがんしむなり。 三心さんしむまちまちにわかれたりといゑども、 えうをとりせむをえらびてこれをいへば、 深心じむしむひとつにおさまれり。

・観経 ・三心 ・至誠心

善導ぜんだうしやうしやくしてのたまはく、 「といふはしんなり、 じやうといふはじちなり。 一切ゐちさいしゆじやうしん口意くいごふしゆするところのぎやう、 かならず真実しんじちしむなかになすべきことをあかさむとす。 ほかには賢善けんぜんしやうじんさうげんじ、 うちには虚仮こけをいだくことをえざれ」 (散善義) といへる。

その 「ぎやう」 とい1086ふは、 罪悪ざいあくしやうぼむ弥陀みだほんぐわんによりて、 じふしやうゐちしやうけちぢやうしてむまると、 真実しんじちにさとりてぎやうずる、 これなり。 ほかにはほんぐわんしんずるさうげんじて、 うちにはしむをいだく、 これは真実しんじちのさとりなり。 ほかにはしやうじんさうげんじて、 うちにはだいなる、 これは真実しんじちぎやうなり、 虚仮こけぎやうなり。

貪瞋とむじん邪偽じやぐゐかんひやくたんにして、 あくしやうやめがたし、 蛇蝎じやかちにおなじ。 三業さんごふをおこすといゑどもなづけて雑毒ざふどくぜんとす、 また虚仮こけぎやうとなづく。 真実しんじちごふとなづけず。

もしかくのごとく安心あんじむぎやうをなすものは、 たとひ身心しんしむれいネムゴロニハて、 にちゲムトイフ じふきふそうきふして、 ねんをはらふがごとくするものは、 おほく雑毒ざふどくぜんとなづく。 この雑毒ざふどくぜんをめぐらしてかのぶちじやうにむまれむともとめむものは、 これかならず不可ふかなり。

なにをもてのゆへ1087に。 かのわあ弥陀みだぶち因中いんちふさちぎやうぎやうじたまひしときない一念ゐちねむゐちせちも、 三業さんごふしゆするところ、 みなこれ真実しんじちしむなかになす。 おほよそ施為せゐしゆするところ、 またみな真実しんじちなるによる。

また真実しんじちしゆあり。 ひとつには自利じり真実しんじちふたつには利他りた真実しんじちなり。 真実しんじちに、 自他じた諸悪しよあくおよび国等こくとう制捨せいしやして、 一切ゐちさいさちとおなじく諸悪しよあくをすて諸善しよぜんしゆし、 真実しんじちなかになすべし」 (散善義意) といへり。

このほかおほくのしやくあり、 すこぶるわれらがぶんにこえたり。

たゞしこのじやうしむは、 ひろくぢやうぜん散善さんぜんぐわん三門さんもんにわたりてしゃくせり。 これにつきて総別そうべちあるべし。 そうといふは、 りきをもてぢやうさんとうしゆしてわうじやうをねがふじやうしむなり。 べちといふは、 りき1088じようじてわうじやうをねがふじやうしむなり。

そのゆへは、 ¬しよ¼ の 「ぐゑんぶん」 の序題じよだいしたにいはく、 「ぢやうはすなわちおもひをとゞめてこゝろをこらし、 さんはすなわちあくをとゞめてぜんしゆす。 このぜんをめぐらしてわうじやうをもとむるなり。

ぐわんといふは ¬だいきやう¼ にとくがごとし。 一切ゐちさい善悪ぜんあくぼむむまるゝことをうるは、 みなわあ弥陀みだぶちだいぐわん業力ごふりきじようじてぞうじやうえんとせずといふことなし」 といへり。 りきをめぐらしてりきじようずることあきらかなるものか。

しかれば、 はじめに 「一切ゐちさいしゆじやうしん口意くいごふしゆするところのぎやう、 かならず真実しんじちしむなかになすべし。 ほか賢善けんぜんしやうじんさうげんずることをえざれ、 うちに虚仮こけをいだけばなり(散善義) その 「ぎやう」 といふは、 罪悪ざいあくしやうぼむ弥陀みだほんぐわんじようじてじふしやうゐちしやうけちぢやうしてむまるべしと、 真実しんじちしむしんずべしとなり1089ほかにはほんぐわんしんずるさうげんじて、 うちにはしむいだ これは真実しんじちしむなり。

つぎに 「貪瞋とむじんじやぐゐかんひやくたんにして、 あくしやうやめがたし、 蛇蝎じやかちにおなじ。 三業さんごふをおこすといへどもなづけて雑毒ざふどくぜんとす、 また虚仮こけぎやうとなづく。 真実しんじちぜんとなづけず」 (散善義) といふなり。 自他じた諸悪しよあくをすて三界さんがい六道ろくどう毀厭くゐえむして、 みなもはら真実しんじちなるべし。 かるがゆへにじやうしむとなづくといふ。

これらはこれそうなり。 ゆへはいかむとなれば、 深心じむしむしたに 「罪悪ざいあくしやうぼむくわうごふよりこのかたしゆつえんあることなしとしんずべし」 (散善義) といへり。 もしかのしやくのごとく、 一切ゐちさいさちとおなじく、 諸悪しよあくをすてぎやうぢゆぐわ真実しんじちをもちゐるは悪人あくにんにあらず、 煩悩ぼむなうをは1090なれたるものなるべし。 かの分段ぶんだんしやうをはなれしよくわしようしたるしやうじや、 なほ貪瞋とむじんとう三毒さんどくをおこす。 いかにいはむや、 一分ゐちぶんあくおもだんぜざらむ罪悪ざいあくしやうぼむ、 いかにしてかこの真実しんじちしむすべきや。

このゆへに、 りきにてしよぎやうしゆしてじやうしむせむとするものは、 もはらかたし。 せんなか一人ゐちにんもなしといへる、 これなり。 すべてこの三心さんしむ念仏ねむびちおよびしよぎやうにわたりてしやくせり。 もんぜんによりてこゝろえわかつべし。

れいせば、 しゆなか間修けんしゆしやくしていはく、 「相続さうぞくしてぎやう礼拝らいはい称名しようみやう讃嘆さんだん憶念おくねむくわんざちかうほちぐわんして、 心心しむしむ相続さうぞくしてごふをもてきたしへだてず。 かるがゆへに間修けんしゆとなづく。 また貪瞋とむじん煩悩ぼむなうをもてきたしへだてず。 したがぼむせばしたが ふてさむして、 ねんをへだて、 ときをへだて、 つきをへだてず、 つねに清浄しやうじやうならしむ1091また間修けんしゆとなづく」 (礼讃) といへり。

これも念仏ねむぶちぎやうとわかてしやくせり。 はじめのしやく貪瞋とむじんとうおばいはず、 ぎやうをもてきたしへだてざる間修けんしゆなり。 のちしやくぎやうしやうざふおばいはず、 貪瞋とむじんとう煩悩ぼむなうをもてきたしへだてざる間修けんしゆなり。

しかのみならず、 ¬わうじやう礼讃らいさん¼ (意)ぎやう得失とくしちはんじて、 「かみのごとく念念ねむねむ相続さうぞくして、 いのちおわるをとするものは、 じふじふながらむまる。 なにをもてのゆへに。 ぶちほんぐわん相応さうおうするがゆへに、 慚愧ざむぐゐ懺悔さむぐゑしむあることあるがゆへに」 といへり。 このなかに 「貪瞋とむじん諸見しよけん煩悩ぼむなうきたり間断けんだんするがゆへに」 (礼讃) といへるは、 ひとりざふぎやうしつをいだせり。

こゝしりぬ、 ぎやうにおいては貪瞋とむじんとう煩悩ぼむなうをおこ1092さずしてぎやうずべしといふことを。 これにじゆんじてこれをおもふに、 貪瞋とむじんとうをきらふじやうしむぎやうにありとみえたり。 いかにいはむや、 かうほちぐわんしやく水火しゐくわ二河にがのたとひをひきて、 愛欲あいよくしんつねにやき、 つねにうるほしてとゞまことなけれども、 深信じむしんびやくだうたゆることなければ、 むまるゝことをうといへり。

・観経 ・三心 ・深心

つぎに 「深信じむしん深信じむしんしむなり。 くゑちぢやうしてふかくしんはこれ罪悪ざいあくしやうぼむなり、 くわうごふより已来このかたつねにてんして、 しゆつえんあることなしとしんじ、 けちぢやうしてふかくかのわあ弥陀みだぶち十八じふはちぐわんをもてしゆじやう摂受せふじゆしたまふに、 うたがひなくうらもゐなく、 かのぐわんりきじようじてさだめてわうじやうすることをうとしんずべし」 (散善義意) といへり。

はじめに、 まづ 「罪悪ざいあくしやうぼむくわうごふよりこのかたしゆつえんあることなしと1093しんぜよ」 といへる、 これすなわち断善だんぜん闡提せんだいのごときのものなり。 かゝるしゆじやう一念ゐちねむ十念じふねむすれば、 无始むしより已来このかたしやうりんをいでゝ、 極楽ごくらくかい退たいこくしやうずといふによりて、 信心しんじむはおこるべきなり。

ぶちべちぐわん思議しぎは、 たゞこゝろのはかるところにあらず、 たゞぶちぶちとのみよくしりたまへり。 わあ弥陀みだぶちみやうがうをとなふるによりて、 ぐゐやく十悪じふあくことごとくむまるといふべちぐわん思議しぎりきのまします、 たれかこれをうたがふべきや。

善導ぜんだうの ¬しよ¼ (散善義) にいはく、 「あるひと、 なむだちしゆじやうくわうごふよりこのかたおよびこむじやうしん口意くいごふに、 一さいぼむしやうのうえにおきて、 つぶさに十悪じふあくぐゐやくぢう謗法はうぼふ闡提せんだいかいけんとう1094のつみをつくりて、 いまだ除尽ぢよじんすることあたはず。 しかもこれらのつみ三界さんがい三悪さんまくぞくす。 いかむぞ、 ゐちしやう修福しゆふく念仏ねむぶちをもちてすなわち无漏むろしやうのくにゝいりて、 ながく退たいくらゐしようすることをえむやといはゞ、 こたえていふべし。

諸仏しよぶちけうぎやうは、 かず塵沙ぢんじやにこえ、 稟識ほむじきえんこゝろにしたがひてひとつにあらず。 けんひとのまなこにみつべし、 しんじつべきがごときは、 みやうのよくあんし、 のよくをふうみ、 のよく載養さいやうし、 みづのよくしやうにむし、 のよくじやうするがごとし。 かくのごときのことはことごとく待対たいたいほふとなづく。 すなわちにみつべし、 千差せんじや万別まんべちなり。 いかにいはむや、 仏法ぶちぽふ思議しぎのちからをや、 あに種種しゆじゆやくなからむや」 といへり。

極楽ごくらくかい水鳥しゐてう樹林じゆりんめうほふをさえづるも思議しぎなれども、 これおばぶち1095ぐわんりきなればとしんじて、 なむぞたゞだい十八じふはちの 「ない十念じふねむ(大経巻上) といふぐわんをのみうたがふべきや。

すべて仏説ぶちせつしんぜば、 これも仏説ぶちせちなり。 華厳くゑごんさん差別しやべち般若はんにやじんじやう虚融こゆ法華ほふくゑ実相じちさう皆如かいによ涅槃ねちはんしちぶちしやう、 たれかしんぜざらむ。 これも仏説ぶちせちなり、 かれも仏説ぶちせちなり。 いづれおかしんじ、 いづれおかしんぜざらむや。

これさんみやうがうはすくなしといへども、 如来によらいしよないしよう外用ぐゑゆうどく万徳まんどく恒沙ごうじや甚深じむじむ法門ほふもんを、 このみやうがうなかにおさめたる。 たれかこれをはかるべき。

¬しよ¼ の 「ぐゑんぶん(意) にこのみやうがうしやくしていはく、 「わあ弥陀みだぶちといふは、 これ天竺てんぢくしやうおむ。 こゝにはほむじてりやう寿覚じゆかくといふ。 りやう寿じゆといふはこれほふなり、 かくといふはこれ1096にんなり。 人法にんぽふならびにあらはす。 かるがゆへにわあ弥陀みだぶちといふ。 人法にんぽふといふはしよくわんさかいなり。 これにつきてほうあり、 しやうぼうあり」 といへり。

しかれば、 弥陀みだ如来によらいくわんおむせいげん文殊もんじゆざう龍樹りうじゆよりはじめて、 ないかのさちしやうもんとうのそなへたまへるところの事理じり観行くわんぎやうぢやうりきないしようじち外用ぐゑゆうどく、 すべて万徳まんどく无漏むろしよしよう法門ほふもん、 みなことごとくさんなかにおさまれり。 すべて極楽ごくらくかいにいづれの法門ほふもんかもれたるところあらむ。

しかるを、 このさんみやうがうおば、 諸宗しよしゆおのおの我宗わがしゆしやくしいれたり。 真言しんごんにはわあほんしやうはちまんせん法門ほふもんわあより出生しゆつしやうせり。 一切ゐちさいほふわあをはなれたることなし。 かるがゆへにどく甚深じむじむみやうがうなりといへり。 天臺てんだいにはちう三諦さんたいしやうえんれう三法さんぼう1097ほふほうおう三身さんしん如来によらいなり。 しよどく莫大ばくだいなりといふ。 かくのごとくしよしゆおのおのわがぞんずるところのほふにつきて、 わあ弥陀みださんしやくせり。

いまこのしゆのこゝろは、 真言しんごん阿字わじほんしやうおも、 天臺てんだい三諦さんたいゐちほふも、 三論さんろんはつ中道ちうだうのむねも、 法相ほふさうぢう唯識ゆいしきのこゝろも、 すべて一切ゐちさい万法まんぼふひろくこれにおさむとならふ。 極楽ごくらくかいにもれたる法門ほふもんなきがゆへなり。 たゞしいたく弥陀みだぐわんのこゝろは、 かくのごとくさとれとにはあらず。 たゞふかく信心しんじむをいたしてとなふるものをむかへむとなり

耆婆ぎばへんじやくまんびやうをいやすくすりは、 万草まんさう諸薬しよやくをもて合薬がふやくせりといへども、 その薬草やくさうなむぷんがうせりとしらねども、 これをぶくするにまんびやう1098とごとくいゆるがごとし。 たゞしうらむらくは、 このやくしんぜずして、 わがやまうはきわめておもし、 いかゞこのくすりにていゆることあらむとうたがひてぶくせずは、 耆婆ぎばじゆつも、 へんじやくほうも、 むなしくてそのやくあるべからざることを。 弥陀みだみやうごうもかくのごとし。

わが煩悩ぼむなう悪業あくごふのやまう、 きわめておもし、 いかゞこのみやうがうをとなへてむまるゝことあらむとうたがひてこれをしんぜずは、 弥陀みだせいぐわんしやくそん所説しよせちも、 むなしくてげむあるべからざるものか。 たゞあふいでしんずべし、 良薬らうやくをもてぶくせずしてするシヌトイフ ことなかれ。 崑崙こんろんやまにゆきてたまをとらずしてかへり、 栴檀せんだんはやしいりえだをおらずしていでなむ、 こうくわいいかゞせむ。 みづからよくりやうすべし。

そもそもわれくわうごふよりこのかた、 ぶちしゆつにもあひけむ、 さち化導くゑだうにもあ1099ひけむ。 くわ諸仏しよぶちも、 現在げんざい如来によらいも、 みなこれ宿しう父母ぶもなり、 しやうほうなり。 これにいかにしてかだいしようしたまへるぞ、 われらはなにゝよりてしやうにとゞまれるぞ、 はづべし、 はづべし。

しかるにほんしや如来によらい大罪だいざいやまにいり、 邪見じやけんはやしにかくれて、 三業さんごふ放逸はふいちろくじやうまたからざらむしゆじやうを、 わがくにゝとりおきて教化けうくゑだちせしめむとちかひたまひたりしかば、 そもそもいかにしてかゝる諸仏しよぶちのこしらへかねたまへるしゆじやうおばだちせしめむとはちかひたまへるぞとたづぬれば、 わあ弥陀みだ如来によらいいんときじやう念王ねむわうとまふしゝよに、 だいしむをおこしてしやうくわせしめむとちかひたまひしに、 しや如来によらいほう1100かいぼんとまふしき。 じやう念王ねむわうだいしむをおこし、 摂取せふしゆしゆじやうぐわんをたてゝ、 われぶちになれらむとき、 十方じふぱうさん諸仏しよぶちもこしらへかねたまひたらむ悪業あくごふ深重じむぢふしゆじやうなりとも、 わがをとなへばみなことごとくむかへむとちかひたまひしを、 宝海ほうかいぼんきゝおはりて、 われかならずあくこくにしてしやうがくをとなへて、 悪業あくごふ深重じむぢう輪転りんでんさいしゆじやうとうにこのことをしめさむ。 しゆじやうこれをきゝてとなへば、 しやうだちせむことはなはだやすかるべしとおぼしめして、 このぐわんをおこしたまへり。

くわうごふよりこのかた、 諸仏しよぶちよにいでゝ、 えんにしたがひ、 をはかりて、 おのおの群萌ぐんまうくゑしたまふこと、 かず塵沙ぢんじやにすぎたり。 あるいはだいじようをときせうじようをとき、 あるい実教じちけうをひろめ権教ごんけうをひろむ。 えん純熟じゆんじゆくすればみなことごとくそのやくをう。

こゝにしやくそんはち1101さうじやうだうぢよくにとなへて、 放逸はういち邪見じやけんしゆじやうしゆつ、 そのなきことをあはれみて、 これより西方さいはう極楽ごくらくかいあり、 ぶちまします、 弥陀みだとなづけたてまつる。 かのぶちない十念じふねむにやくしやうじやしゆしやうがく(大経巻上) とちかひて、 すでにぶちになりたまへり。 すみやかにこれをねむぜよ。 しゆつしやうみちおほしといゑども、 悪業あくごふ煩悩ぼむなうしゆじやうの、 とくしやうだちすべきこと、 これにすぎたることなしとおしへたまひて、 ゆめゆめこれをうたがふことなかれ。

六方ろくぱう恒沙ごうじや諸仏しよぶちも、 みなおなじく証誠しようじやうしたまへるなりと、 ねむごろにおしへたまひて、 われもひさしく穢土ゑどにあらば、 邪見じやけん放逸はふいちしゆじやう、 われをそしりわれをそむきて、 かへりて悪趣あくしゆにおちなむ。

1102れよにいづることは、 ほんたゞこのことをしゆじやうにきかしめむがためなりとて、 なん尊者そんじやにむかひて、 なむぢよくこのことをとおきよに流通るづせよと、 ねむごろにやくそくしおきて、 抜提ばちだいのほとり、 しやりんのもとにて、 八十はちじふはるてんぐわちじふはんに、 ほく面西めんさいにして涅槃ねちはんにいりたまひにき。 そのときに、 にちぐわちひかりをうしなゐ、 草木さうもくいろへんじ、 龍神りうじんはち禽獣きむじゆ鳥類てうるいにいたるまで、 てんにあふぎてなき、 にふしてさけぶ。

なん目連もくれんとう諸大しよだい弟子でしるいのなみだをおさへてあひしてしはく、 われらしやくそんおんになれたてまつりて八十はちじふねんしゆんじうをおくり、 化縁くゑえんこゝにつきて、 黄金わうごむのはだえ、 たちまちにかくれたまひぬ。 あるいはわれしやくそんにとひたてまつるに、 こたえたまふこともありき、 あるいはしやくそんみづからつげたまふこともありき。 さい1103しやう方便はうべん、 いまはたれにむかひてかとひたてまつるべき。

すべからく如来によらいことばをしるしおきて、 らいにもつたへ、 おむかたみにもせむといひて、 多羅たらえふをひろいてことごとくこれをしるしおきて、 三蔵さんざうたちこれをやくシルス 振旦しむたんにわたし、 本朝ほんてうにつたへ、 諸宗しよしゆにつかさどるところの一代ゐちだいしやうげうこれなり。

しかるを弥陀みだ如来によらい善導ぜんだうくわしやうとなのりて、 たうにいでゝのたまはく、

如来によらいしゆつげんぢよくずい方便はうべんくゑ群萌ぐんまう
或説わくせちもんとく或説わくせちせうしようさんみやう
或教わくけうふくさうぢよしよう或教わくけうぜんねむりやう
種種しゆじゆ法門ほふもんかいだちくわ念仏ねむぶちわう西方さいはう
じやうじんゐちぎやう十念じふねむ三念さんねむねむぶち来迎らいかう
1104ぢき弥陀みだぜいぢう致使ちしぼむねむそくしやう(法事讃巻下)

しやくそんしゆつほんぐわい、 たゞこのことにありといふべし。

しんけう人信にんしん難中なんちうてんきやうなんだいでんくゑしんじやうほう仏恩ぶちおん(礼讃) といへり。 しやおんほうずる、 これたれがためぞや、 ひとへにわれがためにあらずや。 このたびむなしくすぎなば、 しゆついづれのときをかせむとする。 すみやかに信心しんじむをおこしてしやうくわすべし。

・観経 ・三心 ・廻向発願心

つぎかうほちぐわんしむひとことにしやすきことなり。 こく快楽くゑらくをきゝて、 たれかねがはざらむや。 そも、 かのくにゝぼん差別しやべちあり、 われらいづれのほむおかすべき。 善導ぜんだうくわしやうおむこゝろに、 「極楽ごくらく弥陀みだ報仏ほうぶちほうなり。 断惑だんわくぼむはすべてむまるべからずといへども、 弥陀みだべちぐわん思議しぎにて、 罪悪ざいあくしやうぼむの、 一念ゐちねむ十念じふねむしてむま1105る」 (玄義分意)しやくしたまへり。

しかるをじやうカミトイフよりこのかた、 おほくはぼむといふともたぬむべしなむどいひて、 じやうぼんをねがはず。 これは悪業あくごふのおもきにおそれてこゝろじやうぼんにかけざるなり。 もしそれ悪業あくごふによらば、 すべてわうじやうすべからず。 ぐわんりきによりてむまれば、 なむぞじやうぼんにすゝまむことをのぞみがたしとせむや。

すべて弥陀みだじやうをまうけたまふことは、 ぐわんりきじやうじゆするゆへなり。 しからば、 また念仏ねむぶちしゆじやうのまさしくむまるべきこくなり。 「ない十念じふねむにゃくしやうじやしゆしやうがく(大経巻上) とたてたまへり。 このぐわんによりて感得かむとくしたまへるところのこくなるがゆへなり。

いままた ¬くわんぎやう¼ のぼむごふをいはゞ、 ぼむぐゐやく十悪じふあく罪人ざいにんみやうじゆ1106ときにのぞみて、 はじめてぜんしきのすゝめによりて、 あるいじふしやう、 あるいはゐちしやうしようして、 むまるゝことをえたり。 われら罪業ざいごふおもしといゑども、 ぐゐやくをつくらず。 ぎやうごふおろかなりといゑども、 ゐちしやうじふしやうにすぎたり。 臨終りむじゆよりさきに弥陀みだせいぐわんをきゝえて、 随分ずいぶん信心しんじむをいたす。 しかれば、 ぼむまではくだるべからず。

中品ちうぼんせうじようかいぎやうじや孝養けうやうにんジンれい信等しんとうぎやうにんなり。 これ中々なかなかむまれがたし。 せうじようぎやうにんにあらず、 たもちたるかいもなし、 われらがぶんにあらず。

じやうぼんだいじようぼむだいしむとうぎやうじやなり。 だいしむ諸宗しよしゆおのおのふかくこゝろえたりといへども、 じやうしゆのこゝろは、 じやうにうまれむとぐわんずるをだいしむといへり。 念仏ねむぶちはこれだいじようぎやうなり、 じやうどくなり。 しかれば、 じやうぼんわうじやう、 てをひくべからず。

またほんぐわん1107に 「ない十念じふねむ(大経巻上) とたてたまひて、 臨終りむじゆ現前げんぜんぐわんに 「大衆だいしゆねうしてそのひとのまへにげんぜむ」 (大経巻上) とたてたまへり。 ぼむ化仏くゑぶち三尊さんぞん、 あるいはこむ蓮華れんぐゑとう来迎らいかうすといへり。 しかるを大衆だいしゆねうしてげんぜむとたてたまへり。 だいぐわんしゆじやうぼん来迎らいかうをまうけたまへり。 なむぞあながちにすまはむや。

また善導ぜんだうくわしやう、 「三万さんまんじやうじやうぼんごふ(観念法門意) とのたまへり。 へんによりてじやうぼんにむまるべし。 また三心さんしむにつきてぼむあり。 信心しんじむによりてもじやうぼんしやうずべきか。 じやうぼんをねがふこと、 わがみのためにあらず。 かのくにゝむまれおはりて、 とくしゆじやうくゑせむがためなり。 これぶちおむこゝろにかなはざらむや。

・小経

つぎに ¬わあ弥陀みだきやう¼ は、 まづ極楽ごくらくしやうほうどくをと1108く。 しゆじやうぐわんげうこゝろをすゝめむがためなり。

のちにわうじやうぎやうをあかす。 「せう善根ぜんごんをもてはかのくにゝむまるゝことをうべからず。 わあ弥陀みだぶちみやうがうしふして、 一日ゐちにち七日しちにちすればわうじやうす」 (小経意) とあかせり。

しゆじやうのこれをしんぜざらむことをおそれて、 六方ろくぱうにおのおの恒沙ごうじや諸仏しよぶちましまして、 大千だいせん舌相ぜちさうをのべて証誠しようじやうしたまへり。 善導ぜんだうしやくしてのたまはく、 「このしようによりてむまるゝことをえずは、 六方ろくぱう如来によらいののべたまへるみした、 ひとたびくちよりいでゝ、 かへりいらずして、 ねんにやぶれたゞれしめむ」 (観念法門) とのたまへり。

しかるを、 これをうたがふものは、 たゞ弥陀みだほんぐわんをうたがふのみにあらず、 しやくそん所説しよせちをうたがふなり。 しやくそん所説しよせちをうたがふは、 六方ろくぱう恒沙ごうじや諸仏しよぶち所説しよせちをうたがふなり。 これ大千だいせんにのべたまへる舌相ぜちさう1109やぶりたゞらかすなり。

もしまたこれをしんずれば、 たゞ弥陀みだほんぐわんしんずるのみにあらず、 しや所説しよせちしんずるなり。 しや所説しよせちしんずるは、 六方ろくぱう恒沙ごうじや諸仏しよぶち所説しよせちしんずるなり。 一切ゐちさい諸仏しよぶちしんずれば、 一さいさちしんずるになり。

このしんひろくしてくわいだい信心しんじむなり

 南无なもわあ弥陀みだぶち

 

底本は高田派専修寺蔵正嘉二年真仏上人書写本。 ただし訓(ルビ)は一部有国が補完している。