0671◎決智鈔
◎ひろく一代半満の教をたづぬるに、 衆生出離の門にあらずといふことなし。 諸経のとくところまちまちなれども、 菩提の覚位を成ずるをもて詮とし、 諸宗の談ずるところさまざまなれども、 心性の妙理をあらはすをもて要とす。
¬華厳経¼ (晋訳巻一〇夜摩説偈品) には 「心仏及衆生是三無↢差別↡」 ととき、 ¬涅槃経¼ には 「一切衆生悉有↢仏性↡」 といへり。 されば我心すなはち仏なり。 心のほかに仏をもとむべからずといへども、 一念の迷妄によりて無明煩悩におほはれしよりこのかた、 仏性のまなこひさしくしゐて、 生死のやみにまよへり。
¬唯識論¼ (成唯識論巻七) に衆生の痴闇の相をあかすとして、 「未◗ザレバ得↢真覚↡、 恒処↢夢中↡。 故仏説為↢生死長夜↡」 といへり。 かゝるまよひの凡夫は、 煩悩即菩提ときけどもその理を達せざれば、 煩悩はもとの煩悩にて罪因となり、 菩提はもとの菩提にてまたく正見にかなはず。 生死即涅槃と観ぜんとすれどもそのさとりをえざれば、 生死はもとの生死にて六道に輪廻し、 涅槃はもとの涅槃にていまだ仏性をあらはさず。
こゝをもて ¬涅槃経¼ (北本巻二七師子吼品 南本巻二五師子吼品) に0672は 「以↢無明覆↡ 不↠能↠得↠見 」 といへり。 善導和尚、 かの経文によりて 「但以↢垢障覆深↡、 浄体無↠由↢顯照↡ 」 (玄義分) と判じたまへり。 三世の諸仏、 このことをあはれみて番々に出世し、 一代教主釈迦如来、 かの仏性をあらはさしめんがために五濁世にいでゝ八相成道し、 大小乗の教をときたまへり。
その教門あまたにわかれたれども、 龍樹菩薩の論判にまかするに、 難行・易行の二道あり。 道綽禅師はこの二道をなづけて聖道・浄土の二門とす。 聖道門は、 直至成仏の門をしめして現身に法性の理をあらはせととき、 浄土門は、 順次往生の道をすゝめて安養にして無生のさとりをうべしとをしへたり。
かの聖道門にとりて、 ことに衆生即仏の門をあかし、 実相常住の理をあかせるは、 ¬華厳¼・¬法華¼・¬涅槃¼ 等の大乗経これなり。 かの諸経の深理をきくもの、 をのをのその機にしたがひて益をうること、 在世はいふにをよばず。 滅後の衆生も、 上代上根のひとは説のごとく修行してその証をあらはす。 たとひ末世の機なりといふとも、 利智の人ありて教のごとく行学せば、 益をうることなかるべきにはあらず。 諸宗あひわかれて、 たつるところ面々にかはれども、 みなこれ自力修入の道なるがゆへに、 総じてこれを聖道門といふ。
浄土門といふは、 浄土の三部経について他土の得生を期す。 これひとへに弥0673陀の名号をとなへ、 他力の本願に乗じて順次に極楽にむまれ、 かしこにして法性真如の理をさとり、 無上仏果のくらゐにいたらんとねがふなり。 一代みな一仏の所説なれども、 二の門をまうくることは、 在世の機はみな聞経の功によりて当座に益をもえ、 未来成仏の記別にもあづかりしかども、 末世造悪の衆生、 障重根鈍の凡夫は、 現身にさとりをうることかたきがゆへに、 かの聖道門の修行にたへざらん機のために、 いま易行の一道をまうけて他力の往生をしめすなり。
されば、 ¬観経¼ にこの念仏往生の機をとくとして、 あるひは 「為↧未来世一切衆生為↢煩悩賊↡之所↠ 害者↥、 説↢ 清浄業↡」 といひ、 あるひは 「為↢未来世一切大衆欲↠ 脱↠ 苦者↡、 説↢是観地法↡」 ととけり。 五障の韋提を対機としてこれをとける、 ひろく滅後常没の凡夫をすくふことをあらはすなり。
その滅後にをいて、 正像末の三時あり。 正法千年のあひだは教行証みな具足せしかば、 教によりて行を修し、 行によりて証をうるひとおほくして仏法の勝利減ぜず、 ほとほと在世にかはることなし。 像法千年のあひだに教行はあれども、 その証なし。 末法万年のあひだはたゞ教のみありて行証なし。 これすなはち五濁興盛にして衆生の悪業はまさり、 心相類劣にして仏法の修行はすゝまざるがゆへなり。
当時の時節をおもふに、 もし正0674法千年の説によらば、 末法にいりて二百余年、 もし正法五百年の説によらば、 末法にいりて七百余年なり。 いづれの義によるとも、 末法にいたれることは勿論なり。 ¬大集経¼ にとくところの五箇の五百年のうち第五の五百年なれば、 闘諍堅固の時分なり。 ¬観経¼ にいへる煩悩賊害の機、 まさしくいまにあたれり。 かるがゆへに時機相応の教につきて、 この念仏往生の門をすゝむるなり。 これ如来真実の所説、 諸仏証誠の教法なるがゆへなり。
問ていはく、 仏道を修行するは、 生死をはなれんがためなり。 しかるに方便の権教によりて出離をもとめば、 その利をうべからず。 真実の教によりて真実の仏果をばもとむべし。 その真実の教といふは、 法華の一法なり。 余の一切の教は真実にあらず。
そのゆへは、 かの ¬法華経¼ (巻一方便品) の文に、 あるひは 「十方仏土中、 唯有↢一乗法↡。 無↠二亦无↠三。 除↢仏方便説↡」 といひ、 あるひは 「説↢仏智恵↡故、 諸仏出↢ 於世↡。 唯此一事実、 余二即非↠真」 といひ、 あるひは 「雖↠示↢ 種々道↡、 其実為↢仏乗↡」 といひ、 あるひは 「唯以↢ 一大事因縁↡故出↢現於世↡」 とときて、 一乗妙法のほかはことごとく真実の教にあらず、 みな方便の説なり。 たゞこの一法のみ諸仏出世の本懐、 衆生成仏の直道なりとあらはせり。
あるひは三説に対して法華の0675第一なることを嘆じ、 あるひは十喩をときてまたこの ¬経¼ の最勝なることをのべ、 あるひは穿鑿高原のたとへをもて法華を行ずる人の仏道にちかきことをしめし、 あるひは王頂髻珠のたとへをかりて妙法の最上なることをあかせり。
しかのみならず、 五逆の調達、 天王如来の記別にあづかり、 八歳の龍女、 無苦世界の成道をとなふ。 これみな一代になきところ、 諸教のをよばざるところなり。
しかるにたまたま一乗流布の世にむまれながら、 これを受持読誦することなくして、 ひとへに方便の教を執して念仏往生をねがはんこと、 これおほきなるあやまりにあらずや。
こたへていはく、 諸経のなかに ¬法華¼ のすぐれたることは、 文にありてあきらかなり。 これすなはち本迹二門の説相、 爾前にこゑたるがゆへなり。 迹門の正意は実相をあらはすにあり、 本門の正意は如来の遠寿をあらはすにあり。
しばらく迹門についていはゞ、 実相といふは ¬経¼ (法華経) に 「諸法実相」 ととく。 その 「実相」 といふは天臺によるに、 十界・十如・三千の性相、 衆生の一念に居して不可思議なるをいふ。 このゆへに仏と衆生と無別にして、 煩悩と菩提と不二なり。 これを 「諸法従↠本来、 常◗自 寂滅相 」 (法華経巻一方便品) ともいひ、 「是法不↠可↠ 示、 言辞相寂滅」 (法華経巻一方便品) と0676もとけり。 これすなはち衆生の仏性なり。 仏、 この理をあらはさんがために世にいでたまへば、 出世の本懐ともいはれ、 最第一の説ともなづくるなり。
これ仏智なり、 これ一乗なり、 これ実相なり、 これ寂滅なり。 この一理のほかには、 法としてさらにその体なし。 かるがゆへに 「二乗の法もなく三乗の法もなし」 ともいひ、 「余はみな真にあらず」 といふなり。 敗種の二乗、 成仏の芽茎を生ぜしも、 このゆへなり。 「一切衆生、 仏道にいる」 (法華経巻一方便品意) といふも、 このゆへなり。 調達が作仏も、 龍女が成仏も、 みなこの仏智一乗の道によりてなり。
しかるに浄土宗よりこれをみれば、 うるところの益さまざまなれども、 かれは二門のなかの聖道門、 自力修入の道なり。 されば迹門には、 三周の声聞、 諸法実相の理をさとりて八相成道の記にあづかり、 本門には微塵の菩薩、 仏寿長遠の説をきゝて増道損生の益をえたり。 滅後下根の衆生は幾分をよびがたきによりて、 こゝにして法性の深理をさとりがたければ、 仏願の強縁に託し弥陀の浄土に生じて、 かしこにして無生のさとりをひらくべしとすゝむるなり。
在世は大旨利根の機なるがゆへに、 証をえ益にあづかること、 ことはりなり。 末世の凡夫は鈍根無智なるがゆへに、 法は殊勝なれども浅機のためには不成の行なれば、 なを生死をまぬかれがたし。 か0677ゝる劣機のために出離の要道となるは、 たゞ念仏の一行なり。 このまへには、 かの一代の諸経みな念仏の一門に帰して、 これまた念仏一乗といはるゝなり。
¬観経¼ の発起序のはじめに、 諸経の時・仏・処・衆をつらねてこれをとき、 善導和尚この文をもて 「化前序」 (序分義) と釈せらるゝは、 このこゝろなり。 あるひは 「頓教一乗海」 (玄義分) といひ、 あるひは 「頓教菩提蔵」 (散善義) と釈する、 またこの義なり。
詮ずるところ、 一代に二門あるうちに、 直至成仏、 即身頓悟の道をあらはすにとりて、 門々またあひわかれたり。 たがひに真仮をあらそへども、 まづ天臺のこゝろをもていはゞ、 ¬法華¼ をもて至極とす。 四味の調熟をへて一円の極理をあらはし、 三乗の方便を開して一仏乗に会するがゆへなり。 このときは、 一代みな ¬法華¼ に会するいはれあり。
順次往生、 凡夫出離の道をしめすは、 念仏をもて最要とす。 事理の観行をすゝめず、 たゞ称名の易行をもちゐるがゆへなり。 このときは、 諸教みな念仏に帰する義あり。 ¬般舟讃¼ に 「説↢ 種々方便↡教門非↠ 一、 但為↢ 我等倒見凡夫↡。 若能依↠教修行 者、 則門々見↠仏得↠生↢ 浄土↡」 といへる、 このこゝろなり。
しかれば、 ¬法華¼ (巻六) も正宗当機の得益おはりて、 流通 「薬王品」 に、 時は後五百歳の時をさし、 機は五障・三従の女人をいたして、 「即往↢安楽世界0678阿弥陀仏所↡」 ととく。 これすなはち ¬法華¼ の利益も、 滅後造悪の機のためには直至成仏の益も、 つゐに往生浄土に帰入するすがたをあらはすなり。
問ていはく、 法華所被の機は在世上根の機なりといふこと、 しかるべからず。 ことに下機を利益すること、 この ¬経¼ の勝益なり。 いはゆる達多・龍女が成仏、 その証なり。 なんぞ下根にをよばずといふべきや。
こたへていはく、 浄土宗のこゝろをもてみるとき、 在世得益の機はみな利根の機としらるゝなり。 さればかの二人も根鈍の機といふべからず。 そのゆへは、 調達は八万法蔵のうち六万蔵を闇誦し、 三十二相のうち三十相を具せり。 もとも上根の機といふべし。 龍女はすなはち ¬経¼ (法華経巻四提婆品) に 「年始八歳智恵利根」 とときたれば、 鈍根といふべからず。
いはんやまた在世の機はおほく権者なりとみえたることあり。 もしその義によらば、 益をうといへるも、 実益にはあらざるべし。 たゞ滅後下根の機、 悪障深重の衆生の、 まことに生死をいづる法を真実の法とはいふべし、 これすなはち念仏なり。
問ていはく、 在世の機はおほく権者なるべしといふこと、 おもひがたし。 たとひ権者なりとも、 下機の行状をしめすは、 経にその益あるべきがゆへなり。 なんぞ0679権者なりといひて、 経の功力なきになすべきや。 いはんや権者なるべしといふこと、 信用にたらず。 その証拠ありや。
こたへていはく、 もとよりひとすぢに権者の義をもていまの義を立するにはあらず。 在世は上根、 滅後は下根とこゝろうるに相違なし。 そのうへに、 まして権機といふ説もあれば、 その説にては実には益なき義もあるべしといふ義をのぶるなり。 されば権者・実者の二義をば、 ことによりてこゝろうべきなり。
つぎに権者の所見にいたりては、 ¬同性経¼ (巻下意) のなかに、 「三乗の自地は仏地より生ず」 といへるをもてこゝろうれば、 声聞・菩薩の断惑修入の道はみな実にあらずとみえたり。 したがひて妙楽大師の釈にも 「准↢¬不思議境界経¼↡云、 舎利弗等五百声聞、 皆是他方極位菩薩」 (釈籤巻二〇) といへり。 この釈のごとくならば、 「五百の声聞」 といへるは、 三周得記の声聞、 みな権なりときこへたり。 また天臺大師は 「調達是賓伽羅菩薩、 先世大善知識 」 (法華玄義巻六下) といひ、 妙楽これをうけて 「言↢調達是賓伽羅菩薩 等↡者、 故¬大経¼云、 若提婆達多実是悪人 堕↢ 阿鼻↡者、 無↠ 有↢是処↡」 (釈籤巻一三) といへり。 権者なること、 これらの文にてしりぬべし。
問ていはく、 在世の機の利鈍・権実をば、 しばらくこれをさしをく。 いまの ¬法華経0680¼ はもはら滅後の機にかうぶらしめたり。 すなはち 「宝塔品」 (法華経巻四) には 「能於↢来世↡読↢持 此経↡、 是真弟子。 住↢淳 善地↡」 といひ、 「神力品」 (法華経巻六) には 「於↢我滅度後↡、 応↣受↢持此経↡。 是人於↢仏道↡決定 無↠有↠疑」 ととける文等、 その証なり。 されば天臺大師も 「後五百歳遠霑妙道」 (法華文句巻一上釈序品) と釈したまへば、 当時まさしくかの利益のさかりなるべき時分なり。 なんぞこれを修してその仏果をえざらんや。
こたへていはく、 「決定無有疑」 の文、 「住淳善地」 の説、 まことにたのみあり、 もとも信ずべし。 たゞし能説の人もくらゐにいたらずは、 たやすくとくべからず。 能聴の人も、 浅智にしてはかなふべからず。
そのゆへは、 「譬喩品」 (法華経巻二) の文をみるに、 あるひは 「此法華経為↢深智↡説。 浅識聞之迷惑 不↠解 」 といひ、 あるひは 「凡夫浅識 深著↢五欲↡、 聞不↠能↠解。 亦勿↢為説↡ 」 ととけり。 深智まではおもひよらず、 浅智だにもなからん。 下機のためにこれをとかんこと、 仏説の制にたがへり。 とかん人とがをえ、 きく人益なかるべし。 かくのごとく制せられたることは、 甚深至極の法なるがゆへに、 浅識のものきゝては謗をなすべし。 謗をなさば、 悪趣に堕すべきがゆへなり。
これによりて、 その罪報をあらはして、 あるひは 「若人不↠信毀↢謗 此経↡、 則断↢一切世間仏種↡」 (法華経巻二譬喩品) といひ、 或は 「見↠有↧讃↢誦0681書↣持 経↡者↥、 軽賎憎嫉 而懐↢ 結恨↡、 其人命終 入↢阿鼻獄↡。 具↢足 一劫↡劫尽 更 生」 (法華経巻二譬喩品) ととき、 そのほかさまざまの苦報をいだせり。 能説・能聴の人、 みだりなるべからずときこえたり。
また 「法師品」 (法華経巻四) には、 ¬法華¼ をとかん人は衣・座・室の方軌に住すべきことをあかせり。 「若有↢善男子・善女人↡、 如来滅後欲↧為↢四衆↡説↦ 是法華経↥者、 云何応↠説。 是善男子・善女人、 入↢如来室↡、 著↢如来衣↡、 坐↢如来座↡、 爾乃応↧為↢四衆↡広説↦斯経↥。 如来室者、 一切衆生中 大慈悲是。 如来衣者、 柔和忍辱心是。 如来座者、 一切法空是。 安↢住 是中↡、 然 後以↧不↢懈怠↡心↥、 為↢諸菩薩及四衆↡、 広説↢是法華経↡」 といへる、 その文なり。 さればこの方軌に住せんことかたければ、 たやすくとくべからず。 とくべからざれば、 きゝて信をおこし、 受持・読誦せんこともかたかるべし。
おほよそ¬法華¼ にをいて事理の行あり。 理の行といふは、 ふかく三諦相即のむねをしり、 諸法実相の理を達するなり。 事の行といふは、 受持・読誦・解説・書写・供養の五種の行なり。 理事の行ともにとくこともかたく、 きくこともかたし。 まことに能説のくらゐにかなひたる慈悲・忍辱のひとありてこれをとき、 きゝて信ずべき深智の人ありて機感相応し如説に修行せば、 仏道をえんことうたがひあるべからず。 「是人0682於仏道決定無有疑」 ととける、 この義なり。 しかれば、 即身頓悟の益は凡夫のうへには不成なるゆへに、 ¬法華¼ の益もつゐには即往安楽に剋するなり。 その義、 さきにのべつるがごとし。
問ていはく、 法華の行者のなかに、 念仏は無間の業なりといふ人あり。 いまの経のなかにても、 また他経にても、 その義をときたる文ありや。
こたへていはく、 この問もとも迷惑せり。 祖師、 念仏の行にをいて四修をたてたまへるなかに無間の修あり。 そのことならば、 しかなり。 もしいまうたがふところは、 無間地獄の業なりと歟。 いかなる行か三塗の業となる行あるや、 いまだこれをしらず。 おほよそ一代八万の教、 これについて教門に権実をあらそひ、 得脱に遅速を論ずる差別あれども、 事理の行業しかしながら群生得度の門なり。
なかにも念仏はこれ無上大利の功徳、 凡夫往生の正因なり。 諸経の所説、 おなじくその勝利をほむる文おほく、 自他宗の祖師、 ともに念仏の益を嘆ぜり。 まことにこれ大乗無上の正法、 仏智無生の名号なり。 まさしく往生の因をもて、 なんぞかへりて无間の業といはんや。 詮ずるところ、 念仏は地獄の業なりといはん人は、 はやくその文0683をいだすべきなり。
問ていはく、 このこと ¬法華経¼ (巻一方便品) のなかにかんがふる文あり。 あるひは 「無智者錯乱迷惑 不↠受↠教。 我知、 此衆生未 ズ ↣曽 修↢善本↡、 堅 著↢於五欲↡、 痴愛故 生↠悩。 以↢諸欲因縁↡墜↢堕◗三悪道↡」 といひ、 あるひは 「当来世悪人、 聞↢仏説一乗↡、 迷惑 不↠受↠教、 破↠法堕↢悪道↡」 ととき、 そのほか、 さきにいだされつる 「譬喩品」 の文等、 ¬法華¼ の利益を信ぜざれば、 つみ謗法にあたるがゆへに、 さだめて無間の業をうべしとこゝろうるなり。 この義如何。
こたへていはく、 これらの文またく念仏の行者のことをとかず。 念仏の行は地獄に堕する業因なりとときたる文あらば、 それをいださるべし。 しからずは会通におよばざるものなり。 いまの文はたゞ ¬法華¼ 誹謗の罪報をあげたり。 さればその人はたれなりとも、 ¬法華¼ を誹謗せんものゝことなり。 しかるに念仏の行者、 総じて余教を謗ずることなし。 なんぞ別して ¬法華¼ を誹謗せんや。
さきにのぶるがごとく、 釈尊出世の本懐、 実相をとくにあること、 はじめていふべからず。 たゞし末代鈍根のわれらには修行成就しがたきゆへに、 易行の念仏に帰して生死をい0684でんとをもふは、 わが幾分をはかるなり。 これさらに教をかろしむるにあらず。 浄土の門をつとむるとき、 そのまへには一仏の名号を称するをもて仏の本願とするがゆへに、 かの宗義をまもるばかりなり。
念仏と法華と仏智一乗の正法なるがゆへに、 一法なりと信ず。 しかれども、 聖に対しては法華となづけて諸法実相の妙理をあかし、 凡にたいしては念仏となづけて捨身他世の往生をすゝむ。 かるがゆへに一法異名なりとはしりて、 しかも凡機にあたふるかたをとりて念仏を行ずるなり。
問ていはく、 「薬王品」 (法華経第六) に 「即往安楽」 ととくによりて、 ¬法華¼ の利益念仏に帰すといふこと、 しかるべからず。 そのゆへは、 かの 「品」 (法華経巻六薬王品) には 「若有女人聞是経典如説修行」 ととくがゆへに、 ¬法華¼ のちからによりて即往の益をえたり。 念仏を行じて往生をうととかざるものなり。 したがひて、 妙楽も 「此中 只云↧得↠聞↢ 是¬経¼↡如↠説修行 即浄土因↥。 不↠須↣ 更 指↢¬観経¼等↡也」 (法華文句記巻一〇意) と釈したまへり。 されば ¬法華¼ の益、 念仏に帰すとはいふべからざるものをや。
こたへていはく、 ¬法華¼ は成仏をあかし、 念仏は往生をすゝむ。 しかるに在世三周の声聞には成仏の記をあたへ、 滅後五障の女人には往生の益をしめすがゆへに、 ¬法華¼ の益も凡夫のためには西方の往生に帰すること、 その義あきらかなり。
た0685ゞし、 その正因念仏にあらずといふ難にいたりては、 浄土門にをいて諸行往生・念仏往生の二門あり。 いま ¬法華¼ の説は、 そのなかに諸行往生の門をあらはすなり。 これすなはち ¬観経¼ にとくところの三福のなかに、 読誦大乗の行なり。 しかれば、 定・散・弘願の三門のなかに、 定散は能顕の方便、 念仏は所顕の真実なるがゆへに、 かの ¬法華¼ の読誦大乗の行は、 ¬観経¼ にいりてつゐに念仏往生に帰すべきなり。
さればかの如説修行の女人も、 もし弥陀の名願力によらずは、 千劫・万劫・恒沙等の劫にもつゐに女身を転ずべからずとこゝろうれば、 顕には読誦大乗の往生をとくといへども、 密には念仏往生の義をふくめり。 いはんや、 また法華と念仏と一法なりとしるときは、 この ¬経¼ の益、 即往安楽に帰しけるは、 もとも道理なりとこゝろえらるゝなり。
問ていはく、 「薬王品」 にとくところの阿弥陀と、 念仏の行者の帰命する阿弥陀と各別の仏なり。 そのゆへは、 ¬法華¼ 所説の阿弥陀は 「化城喩品」 よりいでたり。 かの文のごとくならば、 大通智勝仏の十六王子のうちとして、 すなはちかの仏にあふて出家成道せり。 ¬双巻経¼ の説のごときは、 世自在王仏にあふて発心し、 四十八願をおこせり。 また ¬法華¼ の説は三千塵点のさきなり。 浄土宗の説は十劫成道0686ととけり。 もとも各別の仏なるべし。
これによりて妙楽大師、 「薬王品」 の身土を釈するに、 「直◗観↢ 此土↡、 四土具足。 故此仏身即三身也」 (法華文句記巻一〇下 釈薬王品) と判じたまへり。 いかんが一仏なりといふべきや。
こたへていはく、 浄土宗の弥陀、 法華の弥陀とて、 さらに各別なるべからず。 浄土宗のこゝろは、 一仏一切仏なるがゆへに、 諸仏みな一体なり。 「皆従↢無量寿極楽界中↡出」 (唐訳楞伽経巻六偈頌品) なるがゆへに、 諸仏、 弥陀よりいでたり。 されば釈迦・薬師・観音・弥勒等の諸仏・菩薩、 みな弥陀一仏なりとしる。 たとひ他宗のこゝろなりといふとも、 同名の一仏にをいて、 なんぞしゐて別体のおもひをなさんや。 かれも弥陀となづけ、 これも弥陀となづく。 かれも安楽といひ、 これも安楽といふ。 かれも西方ととき、 これも西方ととけり。 なんの義によりてか、 別の仏とこゝろうべきや。
自宗の祖師も同体なりとえたまへり。 諸宗の先徳も各別の仏と釈せられず。 まづ ¬法華¼ を宗とする妙楽大師、 あるひは 「諸教所↠讃 多在↢弥陀↡」 (輔行第二) と釈し、 あるひは 「教説多 故、 由↢物 機↡故、 是摂↠ 生故、 令↢ 専注↡故、 宿縁厚 故、 約↢ 多分↡故」 (法華文句記巻一〇下 釈薬王品) の、 六の 「故」 をいだせり。 もし別の仏とこゝろえば、 「多分弥陀」 といひ 「教説多故」 といへる釈義等みなやぶれなん。
但発心も各別0687に、 成道の時も相違せりといふにいたりては、 大聖の化儀、 弥陀一仏にかぎらず。 諸経の所説異議あること、 みな機にしたがふゆへなり。 まづ教主釈尊についてこれをいふに、 今日一代の化儀は、 十九踰城、 三十成道、 八十入滅の仏なれども、 ¬法華¼ の説によらば、 迹化は三千塵点のむかし、 実成は五百塵点のいにしへなり。 これみな三身の功用、 二門の差別としりぬれば相違なし。 いづれの宗よりも、 これを別の仏とはこゝろえず、 弥陀如来のまたこれにかはるべからず。 十劫成道といひ三千塵点といふ、 その説ことなりといへども、 ともにこれ迹化なり。
本門実成のかたをば ¬般舟経¼ にこれをとく。 かの ¬経¼ (一巻本般舟経勧助品意) に 「三世の諸仏、 弥陀三昧によりて等正覚をなる」 といへる説これなり。 つぎに妙楽の釈は、 天臺のこゝろをもて釈するがゆへに、 四土不二、 三身相即の義を成ずること、 もともそのいひあり。 「豈離↢伽耶↡別求↢ 常寂↡、 非↣寂光外 別有↢娑婆↡」 (法華文句記巻九下 釈寿量品) といふがごとし。 浄土宗には指方立相をもておもてとするがゆへに、 この義を釈せずといへども、 そこにその義あることを遮すべからず。 つゐにはひとつになるべきなり。
問ていはく、 所立の義、 重々なりといへども、 たゞこれ学者の料簡なり。 人師の釈は用否ことによるべし。 まさしく経と経とをくらべんとき、 ¬無量義経¼ (説法品) には0688たしかに 「四十余年未顕真実」 とときぬるうへは、 浄土の教、 ¬法華¼ 以前の教ならば、 これ方便なり。 されば天臺には五時を判ずるとき、 浄土の三部経は方等部に判属せり。 方便の教なること、 なんぞ異論にをよぶべきや。
こたへていはく、 このことさきにくれぐれのべつるがごとし。 ¬法華¼ (巻一方便品) に 「除仏方便説」 といひ、 「余二即非真」 ととける経文と、 いまの ¬無量義経¼ の文と、 その料簡かはるべからず。 直至成仏の辺に約すれば、 一代みな諸法実相に帰し一仏乗に会するゆへに、 その義をもて 「未顕真実」 といふなり。 これは為聖聖道の教にをいてとくところなり。
しかれども、 「根性利 者皆蒙↠益、 鈍根無智難↢開悟↡」 (般舟讃) のゆへに、 凡夫のためには念仏の門のみ真実出離の道なり。 かるがゆへに ¬法華¼ の利益もつゐには安楽の浄土に帰入するうへは、 念仏の法にをいては、 かの未顕真実のことばのうちにこもるとはこゝろうべからず。
つぎに浄土の三部経は方等部の教なれば方便なるべしといふにいたりては、 この難はなはだ荒涼なり。 そのゆへは、 五時をたつることは天臺一家の教相なり。 余宗これをまもらず。 いはゆる真言の二教、 華厳の五教、 三論の二蔵、 法相の三時、 をのをのその宗によりて所立不同なり。 しかるにいま浄土宗には、 龍樹の論判によりて難行・易行の0689二道を分別し、 道綽禅師のこゝろにまかせて聖道・浄土の二門を辨定し、 善導和尚の釈について声聞・菩薩の二蔵をわかち、 漸・頓の二教をたつるなり。 しかれば、 二道・二門のときは、 難行・易行、 成仏・浄土、 廃立ことなるによりて、 法華と念仏とその益一往各別なり。 二蔵・二教のときは、 ともに菩薩蔵ともに頓教なり。 これすなはち聖道・浄土ことなれども、 おなじく大乗頓極の教にして、 ともに仏智一乗の体なるがゆへなり。
応永六年 己亥 卯月十四日
以秘本而書写之畢
問ていはく、 もし五時の次第をまもらずは、 たとひ方等部の経といはずとも、 浄土の三経、 もし ¬法華¼ と同時にてもまた以後にても、 ときたりといふ所見なくは、 未顕真実の教のうちをいづべからず。 また ¬法華¼ のごとく出世の本懐とみえたる文なくは、 真実の教なりとはいひがたきや。
答0690ていはく、 難勢度々にをよぶといへども、 たゞ同体なり。 一代を二門にわけてこゝろうるに、 聖道難行のときは成仏を本とす。 これ聖のためにとく教なり。 このときは諸教みな ¬法華¼ に帰す。 「四十余年未顕真実」 (無量義経説法品) といひ、 「出世の本懐」 (法華経巻一方便品) といへる、 このこゝろなり。 浄土易行のときは往生を本とす。 これ凡のためにをしふるみちなり。 このときは衆行みな念仏に帰す。 これまた出世の本懐といはるゝ義あるべし。 浄土の三部のなかにも他経にも、 その証あるなり。 されば二門あひわかれて廃立各別なれば、 みだりがはしく確執すべからず。 たゞ 「随↠縁者則皆蒙↢解脱↡」 (玄義分) の益をたのむべきなり。
このゆへに浄土宗のこゝろ、 またく説時の前後にはよるべからず。 いはんや、 ¬法華¼ の益も安楽の往生に帰するゆへに、 かの経に 「出世の本懐」 ととけるは、 この念仏往生の道をときけりとしられたり。 なをまた再往これをいふに、 法華と念仏と、 もとより一法の異名なりとみるときは、 出世の本懐ふたつなし、 出離の要道ひとつなりとこゝろうるなり。 されば説時の次第をばいはざるなり。 たゞしあるひは同時、 あるひは以後の説とみえたること、 所見なきにはあらざるなり。
問ていはく、 出世の本懐とみえたること、 いづれの文ぞや。 また説時のことも、 証0691拠あらばいださるべし。 その文をきかずは、 疑情なをのぞきがたし、 如何。
こたへていはく、 浄土宗には説時に目をかけざれば、 その要なきゆへにこれをいださずといへども、 しゐてたづねあるによりて少々これをかんがふべし。 経論にその証あり。
まづ説時をいはゞ、 一には ¬勢至経¼ の文に 「我於↢四十年以後↡説↢浄土法門↡。 是韋提菩薩恩徳也」 といへり。 四十年以後年紀をさゝず、 をしてはかるに ¬法華¼・¬観経¼ 同時なるべし。 一には、 ¬大論¼ に 「法華以後涅槃以前、 阿闍世禁↢篭父母↡」 といへり。 この説のごとくならば、 ¬観経¼ は ¬法華¼ 以後なりときこえたり。
つぎに出世の本懐をあらはす文といふは、 ¬大経¼ (巻上) には 「如来以↢無蓋大悲↡矜↢哀三界↡。 所↣以出↢興 於世↡、 光↢闡 道教↡欲↧ 拯↢群萌↡恵 以↦ 真実之利↥」 といへり。 「光闡道教」 といへるは、 一代半満の諸教なり。 「恵以真実之利」 といへるは、 いまの名号念仏なり。 ¬観経¼ には化前序をとける、 そのこゝろなり。 ¬阿弥陀経¼ には 「釈迦牟尼仏能為↢甚難希有之事↡、 能於↢娑婆国土五濁悪世、 劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁中↡得↢ 阿耨多羅三藐三菩提↡、 為↢諸衆生↡説↢是一切世間難信之法↡」 といへり。 出世の元意なることあきらかなり。
また 「三部経」 のみならず、 余経のなかにもその文証あり。 いはゆる ¬六字神呪経¼ に 「如来本意0692者非他事。 出↢現 於五濁↡為説 念仏往生門 」 といへり。 分明の文なり。
問ていはく、 たとひ二蔵教の教相によるとも、 なんぞ勝劣浅深なからんや。 ともに大乗ならば、 菩薩蔵といふとも、 そのなかに権実・偏円等の差別なかるべきにあらざるものをや。
答ていはく、 二蔵教のこゝろ、 声聞蔵も菩薩蔵も、 一蔵のなかにをいて浅深なし。 「諸大乗経見道無別」 (大乗玄論巻四意) といひて、 開悟の一道にむけてみるとき、 またく差別なきなり。 なを再往いふときは、 「大小乗経見↠ 道無↠別」 (大乗玄論巻五意) といひて、 小乗までもみな一理をあらはせば、 一なりと談ずるなり。
かくのごとく差別なくして、 しかもまた諸経にをいてたがひに等・勝・劣の三の義あり。 いま法華と浄土の教を対せんにも、 この三の義あるべし。 聖のために即身頓悟を本とするときは、 法華は勝なり、 念仏は劣なり。 凡のために順次往生を本とするときは、 念仏は勝なり、 法華は劣なり。 いづれも仏智一乗にして、 ともに出離の因となるかたは、 二法またく等同なり。
問ていはく、 天臺の五時をば他宗の教相なりとて、 これをまもるべからずといひながら、 しかもまた三論の教相たる二蔵をへつらひて、 浄土の教をこゝろうること0693、 その義如何。
こたへていはく、 二蔵の名目、 三論宗ひとりこれを領すべきにあらず。 そのゆへは、 みなもと龍樹の ¬智論¼ よりいでたるがゆへなり。 嘉祥もこれをもちゐ、 和尚もこれをもちゐたまふなり。
問ていはく、 龍樹は三論宗の祖師なり。 二蔵の名目、 ¬智論¼ よりいでたらば、 すなはちこれ三論の教相をもちゐるにあらずや。
こたへていはく、 龍樹は三論にかぎらず、 総じて八宗の祖師なり。 真言には第三の祖師、 天臺には第二の祖師とせり。 浄土宗にをいてまた根本の祖師なり。 いはゆる弥陀について、 別して ¬十二礼¼ をつくり、 ¬十住毘婆娑論¼ に難易の二道をあかせり。 かるがゆへに龍樹の ¬智論¼ によるは、 他宗の名目をへつらふにあらず、 我宗の高祖の論判をもちゐるなり。 たとひまた他宗の教相なりといふとも、 宗義にをいてたがふところなくは、 用否ときによるべし。 いはんや、 いまの二蔵教は自宗の判教なるがゆへに、 これを依用するなり。
問ていはく、 法華と念仏と一法なりといふこと不審なり。 そのゆへは、 法華は開示悟入仏之知見の妙理なり、 念仏は捨身他世往生極楽の事教なり。 なんぞおなじか0694るべきや。
こたへていはく、 法華と念仏とを相対するに、 分別・開会の二門あるべし。 分別門のときは異なり。 かれは実相これは称名、 彼は理教此は事教、 彼は成仏此は往生、 彼は為聖これは為凡、 かれは難行これは易行、 かれは自力これは他力、 二教各別にして、 機に応ずるときたがひに勝劣あり。
開会門のときは同なり。 ともに一実の仏智なるがゆへなり。 実相と名号とあひはなれず、 おなじく仏智一乗なり。 理事つゐに別ならず、 理事不二なり。 成仏・往生は一旦の二益なり。 剋するところは開悟にあり。 為聖の教も凡夫をすてず、 一切衆生皆成仏道の実説なるがゆへに。 為凡の教も聖人をきらはず、 五乗斉入の仏智なるがゆへなり。
おほよそ如来の教法はもとより無二なり。 たゞ一乗の法のみあり。 八万四千の法門をとけるは、 衆生の根性にしたがへるなり。 されば実相円融の法と指方立相の教と、 しばらくことなるがゆへに、 文にあらはれて一法といはざれども、 実には仏智一乗のほかにさらに余法なし。 このまなこをもてみるときは、 ¬法華¼ の文々句々みな念仏なりとしらるゝなり。 少々文をいだし、 おろおろ料簡すべし。
一には、 「薬王品」 (法華経巻六) に 「即往安楽」 の益をとく、 これまづまさしき証なり。
一には、 「方便0695品」 (法華経巻一) には 「諸仏智恵甚深無量。 其智恵門難↠解難↠入。 一切声聞・辟支仏所↠不↠能↠知 」 といひ、 ¬大経¼ (巻上) には 「如来智恵海、 深広 無↢涯底↡、 二乗非↠所↠測、 唯仏 独明了 」 といへる。 仏智甚深の義をのぶること、 両経の説相またくあひおなじきものなり。
一には、 おなじき 「品」 (法華経巻一方便品) に 「不↠求↢大勢仏及与断苦法↡、 深入↢諸邪見↡以↠苦欲↠捨↠苦」 といへり。 「大勢仏」 といへるは、 隠に弥陀仏をさすなるべし。 そのゆへは、 ¬観経¼ に勢至菩薩の利益をとくに、 「以↢智恵光↡普照↢一切↡、 令↠離↢三塗↡得↢ 無上力↡。 是故号↢此菩薩↡名↢大勢至↡」 といへり。 「智恵光」 は弥陀の一名なり。 されば大勢至と弥陀とは一体なるがゆへに、 その名たがひに通ぜり。 このゆへに、 いまの文には 「至」 の字を略して 「仏」 の字ををける。 これ弥陀仏なるべし。 したがひて 「断苦の法」 といへるその義、 除苦悩法の体なり。 大勢仏は弥陀、 断苦法は除苦悩法なれば、 法華と念仏とまさに一なり。
一には、 天臺の釈には 「観音すなはち妙法なり」 といへり。 しかるに観音は弥陀の慈悲の一門なり。 観音妙法の体ならば、 弥陀また妙法の体なるべきこと、 その理顕然なり。
一には、 「不軽品」 (法華経巻六) には 「若我於↢宿世↡不↧ 受↢持読↣誦此経↡為↠人演説↥、 不↠能↣疾得↢阿耨多羅三藐三菩提↡」 といひ、 ¬阿弥陀経¼ には 「当↠ ベ シ知、 我於↢五濁悪世↡0696行↢此難事↡、 得↢ 阿耨多羅三藐三菩提↡」 といへり。 おなじく釈迦久遠の本行ととくがゆへに、 かれこれ一法なるべし。
一には、 かの ¬経¼ を 「妙法蓮華経」 となづけて、 妙法の体は蓮華なり、 天竺にはこれを 「薩達磨芬陀利素怛纜」 といふ。 ¬観経¼ には念仏の行者をもて 「人中の芬陀利華なり」 といへり。 「芬陀利」 はすなはち蓮華なり。 しかれば、 かれは所行の法にをいて名とし、 これは能行の機にをいて称をたつ。 能所不二にして人法一体なるがゆへに、 念仏と法華ともとより一法なり。
一には、 法華本迹二門の肝心、 しかしながら弥陀をはなれず。 そのゆへは、 迹門のこゝろは諸法の実相をとくにあり。 その実相といふは空・仮・中の三諦なり。 この三諦はすなはち次のごとく阿弥陀の三字なり。 本門のこゝろは如来の遠寿をとくにあり。 しかるに阿弥陀は無量寿仏なるがゆへに、 遠寿の至極は弥陀なり。 かるがゆへに本迹二門の正意、 たゞ弥陀の功徳を表するなり。
されば楞厳の先徳の釈には 「三世十方諸仏三身、 普門塵数無量法門、 仏衆法海円融万徳、 凡無尽法海、 備 在↢弥陀一身↡。 不↠縦 不↠横、 亦非↢一異↡非↠実非↠虚、 亦非↢有無↡、 本性清浄 心言路絶 」 (要集巻中) といへり。 実相円融の義、 本性清浄の理、 弥陀の内証、 名号の一法なること分明なり。 法華・念仏ともに仏智一乗の頓教として一法なるこ0697と、 大概料簡かくのごとし。
問ていはく、 これみな推義なり、 経文にたしかにときあらはさずは、 信をとりがたきをや。
答ていはく、 聖教の説に隠顕の義あること、 法門のつねのならひなり。 もとより聖道・浄土の教相、 その門各別なるがゆへに、 顕に一なりととかば、 教門錯乱すべし。 これによりて、 あらはれて一なりとはとかざれども、 浄土宗のこゝろをもてみるとき、 隠にこの説ありとこゝろうるなり。 いかにいはんや 「薬王品」 の説相は隠説にあらず、 文にありてあきらかなり。
例せば、 真言教より妙法の体は、 すなはち阿字本不生の理なりといふがごとし。 かの教のこゝろによりていふに、 いまの ¬法華経¼ は、 しばらくこれをみれば五味の醍醐なりといへども、 ふたゝびこれを案ずるに両部の秘奥にあらずといふことなし。 衆生の心蓮、 大日の心地をもて ¬妙法蓮華経¼ となづくといへり。 顕密の二教、 そのおもむきことなるがゆへに、 この ¬経¼ には一実円融の妙理をあかして、 三密加持の功用をとかずといへども、 開示悟入の真理、 如実知自心の宗旨、 その剋するところひとつなるべきがゆへに、 かくのごとくこゝろうるなり。
浄土宗もまたかくのごとし。 諸宗の領解、 さらにな0698んとすべからず。 しかれば、 これをもてかれをおもふに、 ひろくこれをいはゞ、 法華の諸法実相、 真言の阿字不生、 華厳の三界唯心、 涅槃の悉有仏性、 般若の尽浄虚融、 禅宗の都莫思量、 法相の五重唯識、 三論の八不中道、 みな弥陀仏智の一法異名なるべし。 ¬法事讃¼ (巻下) に 「門々不同 亦非↠別、 別々之門還是同」 といへる、 このこゝろなり。
問ていはく、 法華の行人のいはく、 浄土宗は小乗なり。 されば大乗にあらざる念仏をもて、 いかでか三界流転の果報をはなるべきやといふ、 この義如何。
こたへていはく、 この難はなはだ非なり。 天臺宗の教相、 すでに浄土の三部経をもて方便部に判属するうへは、 法華の学者、 この難をいたすべからず。 嘉祥・浄影等の諸師、 また判ずるところ一同なり。 自他宗さらに大乗の義をあらそはず。 胸臆の謗難、 員外といふべきものなり。
問ていはく、 天臺の釈はしかりといふとも、 まさしく浄土宗にをいて、 所依の経論等に大乗とみえたる証ありや。
こたへていはく、 天臺の釈のみにあらず。 龍樹の ¬十住毘婆娑論¼ (巻五易行品意) には、 易行の益を判じて 「便得↣ 往↢生彼清浄土↡、 仏力住持、 即入↢大乗正定之聚↡」 といひ、 天0699親 ¬浄土論¼ には、 大義門功徳成就を頌して 「大乗善根界、 等無譏嫌名」 といへり。
曇鸞和尚これを釈するに 「門 者通↢大義↡之門。 大義者大乗所以也。 如↧人造↠ 城得↠ 門則入↥。 若人得↠生↢ 安楽↡者、 是則成↢就 大乗之門↡也」 といへり。 しかのみならず、 おなじき ¬論¼ (浄土論) に浄土の三経をさして 「我依↢修多羅真実功徳相↡」 といへり。
曇鸞またこの文を解するに、 いはく、 「修多羅者、 十二部経中 直説者 名↢修多羅↡。 謂四阿含・三蔵等。 三蔵外 大乗諸経亦名↢修多羅↡。 此中依↢ 修多羅↡者、 是三蔵外大乗修多羅。 非↢阿含等経↡也。 真実功徳相者、 有↢二種功徳↡。 一者従↢有漏心↡生 不↠順↢法性↡。 所謂凡夫人天諸善、 人天果報、 若 因若果、 皆是顛倒、 皆是虚偽。 是故名↢不実功徳↡。 二者従↢菩薩智恵清浄業↡起 荘厳仏事、 依↢法性↡入↢清浄相↡。 是法不↢顛倒↡不↢虚偽↡。 名 曰↢真実功徳↡」 (論註巻上) といへり。
これによりて、 善導和尚は ¬観経¼ を釈して 「菩薩蔵頓教一乗」 (玄義分) と判じたまへり。
問ていはく、 大乗のことは経文にこれなし。 いまひくところはみな論文、 ならびに人師の釈なり。 されば左右なくゆるしがたきや。
答ていはく、 経文に大乗の詞、 その要なくは、 ことあたらしくとくにをよばず。 文には封ぜらるべからず。 たゞ所説の義趣について、 大小・漸頓をばさだむると0700ころなり。 したがひて論文あきらかなり。 龍樹・天親はともに千部の論師、 諸宗の高祖なり。 世こぞりてこれをあふぐ。 経は機に対してとくとき、 たとひ方便を帯することあれども、 論は法にをいて実義を定判するがゆへに、 ことに指南とす。 無上の大善にをいて、 たれか小乗の妄見をいたすべきや。
問ていはく、 浄土の教、 大乗の摂なることは論判なれば、 まことにあらそふべからず。 されば ¬観経¼ を菩薩蔵と称することは、 その義これにおなじ。 しかるに頓教といひ一乗といふこと、 おほきにおもひがたし。 そのゆへは、 ¬観経¼ のなかに頓教の名言もなし、 一乗の説相もみえず。 すなはち経文をひらきて九品の説相をたづぬるに、 上輩は大乗の益をえ、 中輩は小乗の益をえたり。 しかれば、 三乗教となづくべし、 一乗教とはいふべからず。 すでに三乗教ならば、 上輩大乗の分斉も漸教の摂なるべし。 いはんや、 中輩は廻小入大の義を談ず。 その得益まさしく漸教なり。 これによりて、 上・中両輩の説相、 頓教ともいひがたく一乗ともなづけがたし、 如何。
こたへていはく、 九品の説相は五乗斉入の能入の機をあかすなり。 所入の土は一乗清浄の土、 所行の法は一乗頓教なり。 ¬大経¼ (巻下) にかの土の益をとくとして、 「究0701竟一乗至于彼岸」 といひ、 ¬智論¼ (大智度論巻三八往生品) には 「一乗清浄無量壽世界」 といへり。 所入の土、 すでに一乗の土なり。 能入の念仏、 むしろ一乗にあらざらんや。 これまさしく仏智をもて一乗とするがゆへなり。 されば一乗のことは、 その文なしとはいふべからず。
つぎ頓教の義といふは、 ¬観経¼ には 「当↧ ベ シ坐↢道場↡生↦諸仏家↥」 といひ、 ¬阿弥陀経¼ には聞名不退の益をとく。 これみな速疾の益をあかすがゆへに頓教といふなり。 このゆへに ¬般舟讃¼ には 「¬瓔珞経¼中 説↢漸教、 万劫修↠功証↢不退↡、 ¬観経¼・¬弥陀経¼等説、 即是頓教菩提蔵 」 といへり。 これ頓教の義を釈する文なり。
問ていはく、 真言・天臺・華厳等の大乗のこゝろは、 顕密の談ずるところ、 いさゝかことなれども、 一念頓成の義をもて頓教の宗致とす。 浄影の釈に 「大従↠小入、 目↠ 之為↠漸。 大不↠由↠小、 名↠之為↠頓」 (観経義疏巻本) といへる、 このこゝろなり。 しかるにいま ¬般舟讃¼ の釈のごときは、 ¬瓔珞経¼ の長遠の修行に対して、 一日七日の念仏をもて頓の義を成ず。 たゞこれは不退にいたる遅速に約して漸頓を論ずるなり。 しかれば、 修行の時節も一念にあらず、 所得の益も成仏におよばず。 これを頓教と号すること、 かつは諸宗の教相にそむき、 かつは甚深の義にあらず、 如0702何。
こたへていはく、 この難は浄土宗の所立をしらざるがいたすところなり。 いまの釈のこゝろは、 此土の入聖得果の道はたとひ一念頓成と談ずとも、 下機にをいては成じがたきがゆへに頓益をえず。 しかるにいまの弥陀仏智一乗頓教は、 他力の住持するところなるがゆへに、 仏名をきくときにをいて心不退の益にあづかり、 金剛のこゝろざしをおこせば、 横に四流を超断して垢障の凡夫直に高砂の報土にいる。 これ諸教のいまだとかざるところ、 諸宗のいまだ談ぜざるところなり。 この報土といふは、 弥陀の果徳涅槃の土なるがゆへに、 生ずれば無生に契当してすみやかに無為法性の身を証す。 これすなはち頓教の極致なり。
かの法華の深理を達する人、 たれか南岳・天臺にしかんや。 しかるに南岳は相似内凡のくらゐにのぼり、 天臺は観行外凡のくらゐにいたるをもて奇異とす。 されば南岳は ¬法華懺法¼ の発願には 「願臨↢命終↡神不↠乱、 正念 往↢生安楽国↡、 面奉↢ 弥陀↡値↢衆聖↡、 修↢行 十地↡証↢常楽↡」 と願じ、 天臺大師は 「是妙法華本迹二門、 其理深遠 難↠解難↠入。 速詣↢西方↡、 値↠仏開↠ 悟 」 (知者大師別伝意) とちかひたまへり。 かの両大師、 なを即身の悟入をさしおきて、 安養の往詣をねがひたまへり。 以下のともがら、 い0703かでかかの智解にこえて頓悟の益をえんや。
これをもておもふに、 自力修入の道をはげまん人よりも、 他力往生の門にいらん人は、 はやく不退にかなひて、 すみやかに仏果にすゝむいはれあるがゆへに、 頓教のなかの頓教、 念仏に至極するとこゝろうるなり。
問ていはく、 浄土宗の所談、 成仏を期せず、 念仏の利益、 往生をすゝむ。 この義もとも浅近なり。 出離をもとむるはなんのゆへぞ、 たゞ生死をまぬかるゝにあり。 しかるに往生のことは、 なを生死をはなれずときこへたり。 しからば、 仏のすゝむるところも方便の益なり。 行者のねがふところも輪廻の報なり。 いかゞこゝろうべきや。
こたへていはく、 このこと、 往生の名言仏説歴然なるうへは、 あふいで信をとるべし。 文字のあらはなる義について一往の仮難をいたし、 甚深の奥旨にをいて邪執の疑惑をなす。 いまだ再往の義趣を達せざるがゆへなり。 その義趣といふは、 鸞師は生則無生の義を成じ、 和尚は 「浄土無生亦无別」 (法事讃巻下) と釈する、 これなり。
おほよそ ¬大経¼ (巻下意) には 「十四仏国の菩薩、 仏智に乗じて往生す」 ととき、 ¬華厳経¼ (般若訳巻四〇行願品意) には 「普賢菩薩、 安楽国に往生せん」 と願ぜり。
しかのみならず、 龍樹0704菩薩の初地にのぼりし、 あるひは 「往生 不退 至↢菩提↡、 故我頂↢礼弥陀尊↡」 (十二礼) と讃じ、 あるひは 「所↠獲善根清浄 者、 廻↢施衆生↡生↢彼国↡」 (十二礼) といひ、 天親菩薩の向満にいたりし、 あるひは 「世尊我一心、 帰↢命尽十方無礙光如来↡、 願↠生↢ 安楽国↡」 (浄土論) と願じ、 あるひは 「故我願生彼、 阿弥陀仏国」 (浄土論) と礼せり。 往生浄土の益、 もし輪廻の報をまぬかれずは、 これらの菩薩、 これを願ずることあらんや。
そのほか曇鸞・道綽・善導・懐感・天臺・嘉祥・浄影・慈恩・伝教・慈覚・恵心・檀那・智光・頼光・永観・珍海等の自宗・他宗の高祖、 震旦・日域の先徳、 をのをの西方の往生をもとめ、 おほく浄土の章疏をつくれり。 かゝる智徳の西方にむまれんとねがへるをみながら、 往生にをいていかでか浅近のおもひをなすべきや。
如来の使者として仏教をひろむる論師、 衆生の依怙として出離をすゝむる祖師、 しかしながら西方の往生をねがへり。 賢をみてはひとしからんことをおもふがゆへに、 こゝろあらん人、 たれか弥陀の浄土に生ずることをもとめざらんや。 たゞ先哲のあとをしたひて一心に念仏を修すべし。 短慮のまどひをいだきて自他を損失すべからず。
たゞし、 いまの難勢をば、 さきにいふがごとく、 曇鸞みづからこのうたがひをあげて往生といへる、 すなはち無生なる義を釈成せら0705れたり。 かの釈をいだして疑情をしりぞくべし。 いはゆる ¬註論¼ の上にいはく、 「問曰、 大乗経論中、 処々説↣衆生畢竟無生 如↢虚空↡。 云何 天親菩薩言↠願↠生 耶。 答曰、 説↣衆生無生 如↢虚空↡有↢二種↡。 一者如↢凡夫所↠謂 実衆生↡、 如↢凡夫所↠見実生死↡、 此所見事畢竟 無↢ 所有↡如↢亀毛↡、 如↢虚空↡。 二者謂諸法因縁生故即是不生。 無↢所有↡如↢虚空↡。 天親菩薩所↠願↠生 者、 是因縁義。 因縁義故仮名生。 非↠ 如↢凡夫謂↟有↢実衆生実生死↡也」 といへり。
またおなじき下にいはく、 「疑 言、 生為↢有本、 衆累之元↡。 棄↠生願↠生、 生何可↠尽。 為↠釈↢ 此疑↡、 是故観↢ 彼浄土荘厳功徳成就↡。 明↢彼浄土是阿弥陀如来清浄本願無生之生、 非↟ 如↢三有虚妄生↡也。 何以言之、 夫法性清浄 畢竟無生。 言↠生者是得生者 之情 耳」 (論註巻下) といへり。
これらの釈のこゝろをもておもふに、 往生はすなはち无生、 無生はすなはち法性、 法性はすなはち寂滅、 寂滅はすなはち実相、 実相はすなはち真如、 真如はすなはち涅槃、 涅槃はすなはち法身、 法身はすなはち如来なり。 されば理観も念仏ももとより一法にして、 往生も成仏もおなじく一益になるなり。
かゝる道理あるによりて、 いみじき智者達も浄土をもとめ往生を願じたまへり。 いはんや、 濁世末代の衆生、 在家愚鈍の凡夫、 まめやかに生死をはなれんとおもはゞ、 一心に0706西方をねがひ、 一向に念仏を行ずべきものなり。
*応永廿六年 己亥 卯月十四日
以秘本而書写之畢
底本は◎兵庫県毫摂寺蔵応永二十六年書写本。 ただし訓(ルビ)は有国により、 表記は現代仮名遣いとした。