0325観無量寿経釈 諸師の解釈多しといへども、 いままさしく善導により、 かたはらに諸師の釈をもつて善導を輔助す 云云
天臺黒谷沙門源空記
◎▼まさにこの ¬経¼ を釈せんとするに、 略して五意あり。 一には↓前後を定む、 二には↓来意、 三には↓釈名、 四には↓二善の義を釈す、 五には↓入文解釈。
◎将ニ↠釈ント↢此ノ¬経ヲ¼↡、略シテ有↢五意↡。一ニハ定↢前後↡、二ニハ来意、三ニハ釈名、四ニハ釈↢二善義↡、五ニハ入文解釈。
定前後
一に↑定前後とは、 ¬寿経¼・¬観経¼ の前後、 暗にもつて定めがたし。 いま一意によるに、 先に ¬寿経¼ 後にこの ¬経¼、 文あり理あり。
一ニ定前後ト者、¬寿経¼・¬観経¼之前後、暗ニ以テ難↠定。今依↢一意ニ↡、先¬寿経¼後此¬経¼、有↠文有↠理。
まづ文とは、 これにまた三あり。 一に華座観の文 (観経) にいはく、 「▲法蔵比丘願力所成」 と。 いまこの文によるに、 前に ¬寿経¼ かの願を説き、 いまかれを指して 「願力所成」 といふ。 ゆゑに知りぬ ¬寿経¼ は前、 この ¬経¼ は後なり。 二に中輩下生の文 (観経) にいはく、 「▲阿難白仏、 法蔵比丘四十八大願」 と。 云々 三に ¬双巻経¼ (大経) の上の文にいはく、 「▲阿難、 仏にまうさく、 法蔵菩薩すでに成仏して滅度を取りたまへりとやせん、 いまだ成仏したまはずとやせん、 いま現にましますとやせんと。 ◆仏、 阿難に告げたまはく、 法蔵菩薩、 いますでに成仏して現に西方にまします。 ここを去ること十万億刹なり。 その仏の世界を名づけて安楽といふ」 と。 云々
先文ト者、此ニ亦有リ↠三。一ニ華座観ノ文ニ云、「法蔵比丘願力所成」。今依↢此ノ文ニ↡、前¬寿経¼説↢彼ノ願↡、今指↠彼ヲ云↢「願力所成ト」↡。故ニ知ヌ¬寿経ハ¼前、此ノ¬経ハ¼後也。二ニ中輩下生ノ文ニ云、「阿難白仏、法蔵比丘四十八大願。」云云 三ニ¬双巻経ノ¼上ノ文ニ云、「阿難白↠仏、法蔵菩薩為↣已成仏而取↢滅度↡、為↠未↢成仏↡、為↢今現在↡。仏告↢阿難↡、法蔵菩薩、今已成仏現在↢西方↡。去↠此十万億刹。其仏世界名曰↢安楽↡。」云云
次に理ありとは、 ¬寿経¼ のなかにかの仏の発心修行・依正二報を説く、 今の ¬経¼ にかの依正の説につきて、 この十三観といふ。 ゆゑに知りぬ ¬寿¼ 前 ¬観¼ 後なり。
次ニ有リト↠理者、¬寿経0326ノ¼中ニ説↢彼仏ノ発心修行・依正二報ヲ↡、今¬経¼付↢彼ノ依正之説↡、云↢此十三観↡。故ニ知ヌ¬寿¼前¬観¼後也。
来意
二に↑来意とは、 すでにかの ¬経¼ は前、 この ¬経¼ は後なり。 これによりて来意あるべし。 かれ仏の因果を説くといへどもいまだ行者の修因感果を説かず。 ゆゑに次に仏の修因感果、 行者の修因感果来る。 またかの ¬経¼ に三品の往生を説くといへども、 いまだ九品の義を説かず。 いま三品を開かんがために九品となす、 この ¬経¼ 来るなり。 これにまた多義あり 云々。 「仏」 とは 云々。
二ニ来意ト者、既ニ彼ノ¬経ハ¼前、此ノ¬経ハ¼後也。依テ↠之可↠有ル↢来意↡。彼雖↠説クト↢仏因果ヲ↡未ダ↠説↢行者修因感果ヲ↡。故ニ次ニ仏修因感果、行者修因感果来。又彼ノ¬経ニ¼雖↠説↢三品ノ往生ヲ↡、未ダ↠説↢九品義ヲ↡。今為↠開↢三品ヲ↡為↢九品↡、此¬経¼来也。此又有↢多義↡ 云云。「仏」者 云云。
釈名
三には↑釈名とは、 ¬観無量寿経¼ の名を釈するなり。 「▲観」 とは、 能観すなはち十三観に通ず。 「▲無量寿」 とは、 所観の境なり。 すなはち第九の一観なり。 所観の境に十三ありといへども、 無量寿を挙げて余の十二を摂す。 いはく無量寿とは、 これかの土の教主弥陀如来正報の身なり。 正報あればかならず依報の宝樹・宝池あるべきがゆゑに、 正を挙げて依を摂す。 また無量寿とは、 これかの土の教主、 教主あればかならず眷属の観音・勢至等あるべきがゆゑに、 教主を挙げて伴を摂す。 「▲経」 とは 云々。
三ニハ釈名ト者、釈↢¬観無量寿経ノ¼名ヲ↡也。「観ト」者、能観即通↢十三観ニ↡。「無量寿ト」者、所観之境也。即第九ノ一観也。所観ノ境ニ雖↠有リト↢十三↡、挙↢無量寿ヲ↡摂↢余ノ十二↡。謂無量寿ト者、是彼ノ土ノ教主弥陀如来正報之身也。有↢正報↡必可↠有↢依報之宝樹・宝池↡故ニ、挙↠正ヲ摂↠依ヲ。又無量寿ト者、是彼土ノ教主、有レバ↢教主↡必可↠有↢眷属之観音・勢至等↡故ニ、挙↢教主ヲ↡摂↠伴ヲ。「経ト」者 云云。
料簡定散二善
四には↑定散二善を料簡すとは、 往生の業多しといへども、 定散を出でず。 ゆゑにすべからく釈すべき文にいはく、 前にかならずこれを料簡すと。 定善に十三あり。 いはく日想乃至雑想観なり 云々。 散善に三福あり九品あり。 三福とは 云々。 九品とは 云々。 次に定とはすなはち想いを息め心を凝らす、 ゆゑに定といふ。 これにすなはち十三あり。 散とはすなはち悪を廃しもつて善を修す、 ゆゑに散といふ。 また三福・九品あり 云々。
四ニハ料↢簡スト定散二善↡者、往生ノ業雖↠多シト、不↠出↢定散ヲ↡。故ニ須↠釈文ニ云、前必料↢簡之↡。定善ニ有↢十三↡。謂日想乃至雑想観也 云云。散善ニ有↢三福↡有↢九品↡。三福ト者 云云。九品ト者 云云。次ニ定ト者則息↠想ヲ凝↠心ヲ、故ニ云↠定ト。此即有↢十三↡。散ト者0327即廃↠悪ヲ以修↠善ヲ、故ニ云↠散ト。亦有↢三福・九品↡ 云云。
入文解釈
五には↑入文解釈とは、 善導の御意によるに、 この ¬経¼ に両処二会の説となす。 一には↓王宮会、 二には↓耆闍崛山会なり。
五ニハ入文解釈ト者、依↢善導御意↡、此¬経ニ¼為↢両処二会之説↡。一ニハ王宮会、二ニハ耆闍崛山会也。
入文解釈 王宮会
↑王宮会につきて、 分ちて四段となす。 初め 「▲如是我聞」 より 「云何見極楽世界▲」 に至るこのかたは、 これ↓序分なり。 二に 「▲仏号韋提汝及衆生」 より以下下品下生の文▲に訖る、 これ↓正宗なり。 三に 「▲説是語時」 より 「諸天発心▲」 に訖る、 これ*得益分なり。 四に 「▲阿難白仏」 より下 「韋提等歓喜▲」 に訖る、 これ↓流通分なり。 以上王宮会
付↢王宮会ニ↡、分テ為↢四段ト↡。初自↢「如是我聞」↡至ル↢「云何見極楽世界ニ」已来、是序分也。二ニ従↢「仏号韋提汝及衆生」↡已下訖↢于下品下生之文↡、是正宗也。三ニ従↢「説是語時」↡訖↢于「諸天発心ニ」↡、是得益分也。四ニ従↢「阿難白仏」↡下訖↢于「韋提等歓喜ニ」↡、是流通分也。已上王宮会
次に↑霊山会につきて、 また三分あり。 つぶさには経文のごとし。 霊山会の三段には別体なし、 還りて王宮会を述ぶ 云々。 王宮会につきて、 四段あり。 一には序分、 二には正宗分、 三には得益分、 四には流通分なり。 得益分をもつて正宗分に属す 云々。
次ニ付↢霊山会ニ↡、亦有↢三分↡。具ニハ如↢経文ノ↡。霊山会三段ニハ無↢別体↡、還テ述↢王宮会↡ 云云。付↢王宮会↡、有↢四段↡。一ニハ序分、二ニハ正宗分、三ニハ得益分、四ニハ流通分也。以↢得益分ヲ↡属↢正宗分ニ↡ 云云。
入文解釈 王宮会 序分
↑序につきて通序あり別序あり。 通序とは 「如是」 等の五句なり 云々。 別序とは経に随ひて各別なり。 ¬浄名経¼ のごときは 云々。 ¬法華経¼ のごときは 云々。 今 ¬経¼ は闍王の造逆・韋提の厭離穢土欣求浄土をもつて別序としてこれを説く。
付↠序ニ有↢通序↡有↢別序↡。通序ト者「如是」等ノ五句 云云。別序ト者随↠経ニ各別ナリ。如↢¬浄名経ノ¼↡ 云云。如↢¬法華経ノ¼↡ 云云。今¬経¼以↢闍王造逆・韋提厭離穢土欣求浄土ヲ↡為↢別序ト↡説↠之。
入文解釈 王宮会 正宗分
始めの↑正宗につきて、 二あり。 一には↓定善分、 二には↓散善分。
始ノ付↢正宗ニ↡、有リ↠二。一ニハ定善分、二ニハ散善分。
入文解釈 王宮会 正宗分 定善
↑定善につきて、 十三あり。 一には↓日想観、 二には↓水想観、 三には↓地想観、 四には↓宝樹観、 五には↓宝池観、 六には↓宝楼観、 七には↓華座観、 八には↓像想観、 九には↓真身観、 十には↓観音観、 十一には↓勢至観、 十二には↓普観、 十三には↓雑想観なり。
付↢定善↡、有リ↢十三↡。一ニハ日想観、二ニハ水想観、三ニハ地想観、四ニハ宝樹観、五ニハ宝池観0328、六ニハ宝楼観、七ニハ華座観、八ニハ像想観、九ニハ真身観、十ニハ観音観、十一ニハ勢至観、十二ニハ普観、十三ニハ雑想観也。
入文解釈 王宮会 正宗分 定善 日想観
一に↑日想観とは、 まず経文を讃じ、 次に要を取りてこれを釈すべし 云々。
一ニ日想観ト者、先讃↢経文↡、次ニ取↠要ヲ可↠釈↠之ヲ 云云。
問ひていはく、 なんがゆゑぞ日を観るや。 答ふ。 これに三意あり。 一にはこれ日を観るに 「▲冬夏の両時を取らず、 春秋の二時を取る」 (定善義) 意、 極楽のまさしき方を知らしめんとす。 二には罪障の軽重を知らしめんとす。 罪障に三あり。 「▲一には黒障、 黒雲の日を障ふるがごとし。 二には黄障、 黄雲の日を障ふるがごとし。 三には白障、 白雲の日を障ふるがごとし」 (定善義) と。 行者もしこの想現ぜば、 すべからくく罪障を懺悔すべし 云々。 三には極楽の光明等現ずると知らしめんとす 道啼のごとし。 日想観を修するは、 食時を除き行住坐臥もし観想せしむれば、 始めの観想なんぞこれを成就せざらんや。
問テ曰ク、何ガ故ゾ観ルヤ↠日ヲ。答。此ニ有↢三意↡。一ニハ此観↠日ヲ「不↠取ラ↢冬夏両時ヲ↡、取↢春秋二時ヲ↡」意、為↠令↠知ラ↢極楽之正方ヲ↡。二ニハ為↠令↠知↢罪障軽重↡。罪障ニ有↠三。「一ニハ黒障、如↢黒雲障↟日ヲ。二ニハ黄障、如↢黄雲障↟日ヲ。三ニハ白障、如↢白雲障↟日ヲ。」行者若シ此ノ想現、須ク↣懺↢悔罪障↡ 云云。三ニハ為↠令↠知↢極楽光明等現↡ 如道啼。修↢日想観↡、除↢食時ヲ↡行住坐臥若シ令↢観想↡、始観想何ゾ不↣成↢就之↡哉。
入文解釈 王宮会 正宗分 定善 水想観
二に↑水想観とは、 まづ ¬経¼ (観経) に 「水想」 とは、 上の日想のごとき、 閉目・開目にすなはち日輪を観る。 いまこの水想、 すなはち行住坐臥に時節の久近を問はず、 閉目・開目にまた水を観察するなり 云々。 次に弘法大師の伝にいはく、 「入水想観」 と。 云々 次に日想の後に水を観ずる由を釈すべし。 ¬疏¼ (定善義意) に 「▲問ひていはく、 次になんがゆゑぞ水を観るや。 ◆答ふ。 日輪を観て、 かの界の長暉を表す。 いま水を観てかの瑠璃地の平正を彰す」 と。 云々
二ニ水想観ト者、先¬経¼「水想ト」者、如↢上ノ日想↡、閉目・開目即観↢日輪↡。今此ノ水想、即行住坐臥ニ不↠問ハ↢時節ノ久近ヲ↡、閉目・開目亦観↢察水↡也 云云。次ニ弘法大師ノ伝ニ云、「入水想観。」云云 次ニ可↠釈↢日想之後観↠水之由ヲ↡。¬疏ニ¼「問曰ク、次ニ何ガ故ゾ観ルヤ↠水ヲ。答。観↢日輪↡、表↢彼界長暉↡。今観↠水彰↢彼ノ瑠璃地平正ヲ↡。」云云
入文解釈 王宮会 正宗分 定善 地想観
三に↑地想とは、 まづ経文。 次に ¬疏¼ (定善義) に修観の法を釈す。 法は 「▲すなはち静処に向かひ、 面を西方に向けて正坐跏趺す、 前の法に一同なり。 すでに心を住しおはりて徐々に心を転じ、 かの宝地を想ふ、 雑色分明なり。
三ニ地想ト者、先経文。次¬疏¼釈↢修観法↡。法「即向↢静処↡、面向↢西方ニ↡正坐0329跏趺、一↢同前法ニ↡。既ニ住↠心已徐徐転↠心、想↢彼宝地↡、雑色分明。
◆初想は多境を想ふことを得ざれ、 すなはち定を得がたし。 ▽ただ方寸・一尺等なり。 あるいは一日・二日・三日、 あるいは四・五・六・七日、 あるいは一月・一年・二年・三年等、 無間日夜、 行住坐臥身口意業つねに定と合せよ。
初想不↠得↠想↢多境↡、即難↠得↠定。唯方寸・一尺等。或ハ一日・二日・三日、或ハ四・五・六・七日、或ハ一月・一年・二年・三年等、無間日夜、行住坐臥身口意業常ニ与↠定合。
◆ただ万事ともに捨て、 よりて失意・聾盲・痴人のごとくせば、 この定かならずすなはち得やすし。 もしかくのごとくせざれば、 三業随縁して定を転じ、 想ひつひに波飛す。 たとひ千年の寿を尽すとも、 法眼いまだかつて開けず。
唯万事倶捨、由如↢失意・聾盲・痴人↡者、此ノ定必即易↠得。若シ不レバ↠如↠是ノ、三業随縁転↠定、想遂波飛。縦ヒ尽↢千年ノ寿ヲ↡、法眼未ダ↢会テ開↡。
◆もし心に定を得る時、 あるいはまづあきらかに想現ずることあり、 あるいはまづ宝地等の種々分明の不思議なるものを見るべし。 二種の見あり。 一には想見。 なほ知覚するがごときゆゑに、 浄境を見るといへどもいまだ多く明了ならず。 二にはもし内外の覚滅してすなはち正受三昧に入れば、 所見の浄境すなはち想見にあらず、 比校となすことを得ず」 と。
若シ心得↠定時、或ハ先有↢明想現ルコト↡、或ハ先可↠見↢宝地等種種分明不思議者↡。有↢二種ノ見↡。一ニ者想見。猶如↢知覚↡故ニ、雖↠見↢浄境↡未ダ↢多明了↡。二ニ者若内外覚滅シ即入↢正受三昧↡、所見ノ浄境即非↢想見↡、得↠為↢比校↡也。」
次にただこの観によりて往生の旨あるべし 云々。 くはしくは経文を見よ。 上の日想・水想の二観功能なし。 次に ¬双巻¼ に七宝の地を説くといへども、 いまだ観地往生の旨を説かず、 ただかの相を見ていまだこの旨を知らず。 しかるにいまこの ¬経¼ に至る時、 はじめて観地往生の旨を知る 云々。 ゆゑに知りぬ往生の行、 ただかの仏の名を念ずるのみにあらず、 またかの地を観ずるにまたこれ往生極楽の業因なる事を。 次に下の宝樹・宝池等をもつてまたかくのごとし。
次ニ只依↢此観↡可↢往生之旨↡ 云云。委ハ見↢経文↡。上日想・水想二観無↢功能↡。次ニ¬双巻ニ¼雖↠説↢七宝ノ地↡、未↠説↢観地往生之旨ヲ↡、唯見↢彼相↡之未ダ↠知ラ↢此ノ旨ヲ↡。然ニ今至↢此ノ¬経¼↡之時、始知↢観地往生之旨ヲ↡ 云云。故ニ知ヌ往生之行、唯非↠念↢彼仏ノ名↡、亦観↢彼地↡亦是往生極楽業因之事。次以↢下宝樹・宝池等↡亦復如↠是ノ。
入文解釈 王宮会 正宗分 定善 宝樹観
四に↑宝樹観とは、 まづ来意 云々。 次に経文。 次に七重行樹の義、 次に修観逆順の義、 次に観の功徳、 上の地想に例してこれを知るべし。 次に ¬双巻¼ のなかに七宝の行樹を説くといへども、 いまだ樹観往生の旨を説かず 云々。
四ニ宝樹観ト者、先来意 云云。次経文。次七重行樹ノ義、次修観逆順之義、次観功徳、例↢上地想↡可↠知↠之。次ニ¬双巻ノ¼中ニ雖↠説ト↢七宝行樹↡、未ダ↠説↢樹観往0330生之旨ヲ↡ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 定善 宝池観
五に↑宝池観とは、 まず来意 云々。 「▲宝樹精なりといへども池水なくはいまだ好からず。 ◆一に不空世界のため、 二に荘厳依報のためなり。 この義のためにゆゑに宝渠観あり」 (定善義) と 云々。 次にこの観のなかに池あり、 これに准じて由あり 云々。 また八池の義あり 云々。 次に尋樹上下の義 云々。 次に観成の義 云々。 前に准じてまた思惟・正受の二義あり。 思惟とは、 閉目・開目に思惟してこれを見る、 思惟せざれば見ず。 正受とは、 思惟によらず 云々。 次に観の功能地観に準ず。 次に ¬双巻¼ のなかに宝池を説くといへども 云々。
五ニ宝池観ト者、先来意 云云。「宝樹雖↠精無↢池水↡未ダ↠好。一ニ為↢不空世界↡、二ニ為↢荘厳依報↡。為↢此義↡故ニ有↢宝渠観↡」云云。次ニ此ノ観之中ニ有↠池、有↢准↠之由↡ 云云。又有↢八池之義↡ 云云。次尋樹上下之義 云云。次観成之義 云云。准↠前ニ亦有↢思惟・正受ノ二義↡。思惟ト者、閉目・開目思惟見↠之、不↢思惟↡而不↠見。正受ト者、不↠由↢思惟↡ 云云。次観ノ功能準↢地観ニ↡。次¬双巻ノ¼中ニ雖↠説クト↢宝池ヲ↡ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 定善 宝楼観
六に↑宝楼観とは、 まづ来意 云々。 「▲かの浄土宝池ありといへども、 宝楼なくは、 宮閣また無辺なり」 (定善義意) と 云々。 次に観成にまた二あり。 前に准じてこれを知るべし 云々。 次に観の功能 釈文を見るべし。 次に ¬双巻¼ に宮殿等を説くといへどもなし 云々。
六ニ宝楼観ト者、先来意 云云。「彼ノ浄土雖↠有リト↢宝池↡、無↢宝楼↡、宮閣亦無辺」云云。次観成亦有↠二。准↠前ニ可↠知ル↠之ヲ 云云。次観ノ功能 可↠見↢釈文ヲ↡。次ニ¬双巻ニ¼雖↠説↢宮殿等↡無 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 定善 華座観
七に↑華座観とは、 これにつきて五あり。 一には来意、 二にはまさしく観相を辨ず、 三には邪正を明かす、 四には利益を明かす、 五には思惟正受 云々。
七ニ華座観ト者、付↠此ニ有リ↠五。一ニハ来意、二ニハ正辨↢観相↡、三ニハ明↢邪正↡、四ニハ明↢利益↡、五ニハ思惟正受 云云。
一に来意 云々。 二あり。 一には上は通依、 今は別依。 二には上は依報、 下は正報。
一ニ来意 云云。有↠二。一ニハ上ハ通依、今ハ別依。二ニハ上ハ依報、下ハ正報。
二に観相を辨ずとは、 これすなはち大宝蓮華王を観ずるなり。 これにつきて ¬経¼ によるに四あり。 一には華葉相、 二には華台相、 三には台上、 四には柱宝幢。 一に華葉相とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲その蓮華の一々の葉をして百宝色をなさしめ、 乃至あまねく地上を覆へり」 と。 云々 二に華台相とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲釈迦毘楞伽宝、 もつてその台となす」 と。 云々 三には台上。 四には柱宝幢とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲その台上において」 と。 云々
二ニ辨↢観相↡者、是則チ観↢大宝蓮華王↡也。付↠之ニ依ルニ↠¬経¼有リ↠四。一ニハ華葉相、二ニハ華台相、三ニハ台上、四ニハ柱宝幢。一ニ華葉相ト者、¬経ニ¼云ク、「令↣其蓮華一一葉作↢百宝色↡、乃至徧覆↢地上↡。」云云 二ニ華台相ト者、¬経ニ¼云ク、「釈迦0331毘楞伽宝、以為↢其台↡。」云云 三ニハ台上。四ニハ柱宝幢ト者、¬経ニ¼云ク、「於↢其台上↡。」云云
三には邪正を明かすとは 云々。
三ニハ明↢邪正↡者 云云。
四に利益とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲五万劫の生死の罪を滅除し、 必定してまさに極楽世界に生ずべし」 と。 云々 この文につきて二益あり。 一には滅罪、 二には往生 云々。
四ニ利益ト者、¬経ニ¼云ク、「滅↢除五万劫生死之罪↡、必定当↠生↢極楽世界↡。」云云 付↢此ノ文ニ↡有↢二益↡。一ニハ滅罪、二ニハ往生 云云。
五に思惟正受とは 云々。 次に華座の在処、 善導善導 (法事讃巻下) のいはく、 「▲弥陀化主心に当りて坐したまふ。 華台独りはるかにもつとも精となす」 と。 云々 恵心 (六時讃) 「中央最上の地上」 と。 云々
五ニ思惟正受ト者 云云。次ニ華座在処、善導ノ云ク、「弥陀化主当↠心坐。華台独廻最為↠精。」云云 恵心「中央最上地上。」云云
入文解釈 王宮会 正宗分 定善 像想観
八に↑像想観とは、 これにつきてまた五あり。 一には来意、 二には観相を辨ず、 三には邪正を明かす、 四には利益、 五には思惟正受。
八ニ像想観ト者、付テ↠之ニ亦有リ↠五。一ニハ来意、二ニハ辨↢観相↡、三ニハ明↢邪正↡、四ニハ利益、五ニハ思惟正受。
一に来意とは、 上にすでに座を想観す、 いまはすべからくかの真仏その上に坐したまふを観ずべし。 しかるに初心の人ただちに真仏を観ずることあたはざるがゆゑに、 まず形像を観ず、 あるいは人初心の人なりといへども、 意楽に随ひてまたただちに真仏を観ぜよ。 ゆゑに ¬観念法門¼ (意) のなかに 「▲じきに真仏を観ず」 と。 云々 その旨 ¬観仏三昧経¼ 等に見ゆ 云々。
一ニ来意ト者、上既ニ想↢観座↡、今ハ須ク↠観↣彼ノ真仏坐↢其ノ上ニ↡。然ルニ初心之人直ニ不↠能↠観↢真仏↡故ニ、先観↢形像ヲ↡、或人雖↢初心之人リト↡、随↢意楽ニ↡亦直ニ観↢真仏ヲ↡。故ニ¬観念法門ノ¼中ニ「直観↢真仏↡。」云云 其ノ旨見↢¬観仏三昧経¼等ニ↡ 云云。
二にまさしく観相を辨ずとは、 これにつきて三あり。 一には↓仏像想、 二には↓二菩薩像想、 三には↓多身像想。
二ニ正辨↢観相↡者、付↠之ニ有リ↠三。一ニハ仏像想、二ニハ二菩薩像想、三ニハ多身像想。
一に↑仏像想とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲まず像を想ふべし。 ◆目を閉じ目を開き、 一の宝像閻浮檀金色のごとき、 かの華上に坐したまふを見る」 と。 云々 善導の (定善義意) のいはく、 「▲一の金像において、 逆順にこれを観想し、 頂上より足下千輻輪に至る、 これを名づけて順とす。 千輻輪より頂上に至る、 これを名づけて逆観とす。 ◆かくのごとく逆順にこれを観ずれば、 久しからずしてかならず成就することを得」 と。 云々 これすなはち弥陀像想なり。
一ニ仏像想ト者、¬経ニ¼云ク、「先当↠想↠像。閉↠目開↠目、見↧一宝像如↢閻浮檀金色↡、坐↦彼華上↥。」云云 善導ノ云ク、「於↢一金像↡、逆順観想之、自↢頂上↡至↢足下千輻輪↡、名↠之ヲ為↠順ト。自↢千輻輪↡至↢頂上ニ↡、名テ↠之ヲ為↢逆観↡。如↠是ノ逆順観↠之ヲ、不↠久カラ必得↢成就コトヲ↡。」云云 是則チ弥陀像想也。
二に↑観音・勢至像想とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲この事を見おはりて、 またまさにさらに一の大蓮華をなして仏の左辺に在け。 前の蓮華のごとく、 等くして異なることあることなし。 また一の大蓮華をなして仏の右辺に在け」 と。 云々 これすなはちまづ二菩薩の華座を観ずるなり。 また ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲一の観世音菩薩の像、 左の華坐に坐したまふと想へ。 また金光を放つこと、 前のごとく異なることなし」 と。 云々 これすなはち観音像想なり。 またいはく、 「▲一の大勢至菩薩の像、 右の華坐に坐したまふと想へ」 と。 云々 これすなはち勢至像想なり。 前の仏観に準じて、 二菩薩においておのおのまず像想観を修すべし、 観成の後また二菩薩の形像を観ずべし 云々。
二ニ観音・勢至像想ト者0332、¬経ニ¼云ク、「見↢此事已↡、復当↧更作↢一大蓮華↡在↦仏左辺↥。如↢前蓮華↡、等無↠有↠異。復作↢一大蓮華↡在↢仏右辺↡。」云云 是則チ先観↢二菩薩ノ華座ヲ↡也。又¬経ニ¼云ク、「想↣一観世音菩薩像、坐↢左華坐↡。亦放↢金光↡、如↠前無↠異。」云云 是則チ観音像想也。又曰ク、「想↣一大勢至菩薩像、坐↢右華坐↡。」云云 是則チ勢至像想也。準↢前ノ仏観ニ↡、於↢二菩薩↡各ノ先可↠修↢像想観↡、観成之後亦可↠観↢二菩薩ノ形像ヲ↡ 云云。
三に↑多身像想とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲一々の樹下にまた三の蓮華あり。 もろもろの蓮華の上に、 おのおの一仏・二菩薩の像あり、 あまねくかの国に満つ」 と。 云々 この文をもつてこれを安ずるに、 像想観ただ一に限らず、 三尊に無量の三像想あり。 例せば釈迦像想観のごとし 云々。 その旨 ¬観仏三昧経¼ に見えたり 云々。
二ニ多身像想ト者、¬経ニ¼云ク、「一一樹下復有↢三蓮華↡。諸蓮華上、各有↢一仏・二菩薩像↡、徧満↢彼国↡。」云云 以↢此ノ文ヲ↡安ルニ↠之ヲ、像想観只不↠限↠一ニ、三尊ニ有↢無量ノ三像想↡。例セバ如↢釈迦像想観ノ↡ 云云。其ノ旨見タリ↢¬観仏三昧経ニ¼↡ 云云。
三には邪正とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲修多羅と合せしめよ。 もし合せずは、 名づけて妄想となす。 もし合することあらば、 名づけて粗想に極楽世界を見るとなす」 と。 云々
三ニハ邪正ト者、¬経ニ¼云ク、「令↧与↢修多羅↡合↥。若不↠合者、名為↢妄想↡。若有↠合者、名為↣粗想見↢極楽世界↡。」云云
四に利益とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲この観をなすものは、 無量億劫の生死の罪を除き、 現身の中において念仏三昧を得」 と。 この文に二益あり 云々。
四ニ利益ト者、¬経ニ¼云ク、「作↢是観↡者、除↢無量億劫生死之罪↡、於↢現身中↡得↢念仏三昧↡。」此ノ文ニ有リ↢二益↡ 云云。
五に思惟正受とは 云々。 善導 (定善義) のいはく、 「▲これすなはち群生障り重くして、 真仏の観階ひがたし。 ここをもつて大聖哀みを垂れて、 しばらく心を形像に注がしむ」 と。 云々 またいはく、「▲十三観のなかに、 この宝華・金像等の観最要なり。 もし人に教へんと欲せば、 すなはちこの法を教へよ。 ただ一法成じぬれば、 余の観すなはち自然にあきらかなり」 と。 云々
五ニ思惟正受ト者 云云。善導ノ云ク、「斯乃群生障重シテ、真仏之観難↠階ヒ。是ヲ以テ大聖垂↠哀ヲ、且ク遣↠注↢心ヲ形像ニ↡。」云云 又云ク、「十三観ノ中ニ、此ノ宝華・金像等ノ観最要。若シ欲↠教↠人ニ、即教↢此ノ法↡。但一法成者、余観即自然0333了也。」云云
入文解釈 王宮会 正宗分 定善 真身観
九に↑仏身観とは、 これにつきて五あり。 一には結前生後 また来意と名づく、 二にはまさしく観相を辨ず、 三には邪正を明かす、 四には観の利益を明かす、 五には思惟正受。
九ニ仏身観ト者、付テ↠此ニ有↠五。一ニハ結前生後 亦名↢来意↡、二ニハ正辨↢観相↡、三ニハ明↢邪正ヲ↡、四ニハ明↢観利益ヲ↡、五ニハ思惟正受。
一に結前生後とは、 形像を観ずるは、 もとこれ真仏を観ぜんがためなり。 観像すでにおはれば、 また真を観ぜよ。 真像次いでこれありて、 像まことに来る 云々。 またあるいは初心より楽に随ひてただちに真仏を観ぜよ、 このゆゑにまたこれを明かす 云々。
一ニ結前生後ト者、観↢形像↡、本是為↠観↢真仏ヲ↡也。観像既ニ了バ、又観↠真ヲ。真像有↢次之↡、像真来 云云。又或ハ初心随↠楽ニ直ニ観↢真仏↡、是ノ故ニ亦明↠之ヲ 云云。
二にまさしく観相を辨ずとは、 これにつきて十三あり。 一には↓身量の大小、 二には↓身色の不同、 三には↓毫相の不同、 四には↓眼相の大小、 五には↓毛孔光の大小、 六には↓円光の大小、 七には↓化仏の多少、 八には↓侍者の多少、 九には↓相の多少、 十には↓好の多少、 十一には↓光の多少、 十二には↓光照の遠近、 十三には↓光明の摂益 云々。
二ニ正辨↢観相↡者、付テ↠此ニ有リ↢十三↡。一ニハ身量大小、二ニハ身色不同、三ニハ毫相不同、四ニハ眼相大小、五ニハ毛孔光大小、六ニハ円光大小、七ニハ化仏多少、八ニハ侍者多少、九ニハ相多少、十ニハ好多少、十一ニハ光多少、十二ニハ光照遠近、十三ニハ光明摂益 云云。
一には↑身量の大小とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲仏身の高、 六十万億」 と。 云々 諸仏の身量機に随ひて長短不同なり。 しばらく↓七仏の身量のごとし、 また長短不同なり。 云々
一ニハ身量大小ト者、¬経ニ¼云、「仏身高、六十万億。」云云 諸仏身量随↠機ニ長短不同也。且ク如↢七仏身量ノ↡、亦長短不同也。云云
↑七仏といふは、 はじめに毘婆尸仏の身量、 長六十由旬。 次に尸棄仏の身の長四十由旬、 前仏よりいま減ずること二十由旬。 次に拘留孫仏の身の長二十五由旬、 減ずる事前仏より十五由旬。 次に拘耶含牟尼仏の身の長十五由旬 毘沙陀これを勘ふべし。 次に迦葉仏の身の長十六丈。 次に釈迦は丈六。 当来の弥勒の身の長百丈のごとし 云々。 七仏のなかに最高は毘婆尸仏なり。 しかりといへどもわずかに六十由旬といふなり。 これその身量の大小なり。
云↢七仏ト↡者、初毘婆尸仏身量、長六十由旬。次ニ尸棄仏身長四十由旬、前仏今減二十由旬。次ニ拘留孫仏身長二十五由旬、減事前仏十五由旬。次ニ拘耶含牟尼仏身長十五由旬 毘沙陀可↠勘↠之。次ニ迦葉仏身長十六丈。次ニ釈迦丈六。如↢当来弥勒身長百丈ノ↡ 云云。七仏之中ニ最高毘婆尸仏也。雖↠然ト纔ニ云↢六十由旬ト↡也。是其ノ身量大小也。
二に↑身色の不同とは、 身量の大小不同なりといへども、 七仏同じく紫金の法園珠林なり。 道世釈して (法苑珠林巻八) いはく、 「敬ひて尋ぬらく、 法身は平等にしてこれ優劣あることなし。 ただ機に随ひ業異なるがゆゑに現化不同なり。 ここをもつて釈迦牟尼仏の出世紫金色にして、 もつぱら比丘みな赫容を見る、 十六信士論じて灰色に視る。 因業異なりと見るも、 仏つねに一色なり。 類比していはば、 いはく惑ひなきものなり」 と。 云々 いま弥陀如来閻浮檀金 云々。 閻浮檀金と紫磨金と同異なり 云々。
二0334ニ身色不同ト者、身量大小雖↢不同ナリト↡、七仏同ク紫金之法園珠林也。道世釈云、「敬尋、法身平等無↣是有↢優劣↡。但随↠機業異故ニ現化不同ナリ。是ヲ以テ釈迦牟尼仏出世紫金色、而専比丘咸見赫容、十六信士論視灰色。因業見↠異ナリト、仏恒ニ一色也。類比而言、謂無↠惑者焉也。」云云 今弥陀如来閻浮檀金 云云。閻浮檀金与↢紫磨金↡同異 云云。
三に↑毫相の大小とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲眉間の白毫、 右旋婉転すること、 五須弥山のごとし」 と。 云々 毫相の大小とは随ひて同じ 云々。 しばらく釈迦の白毫のごとし、 諸経にいはく、 「一寸、 周囲三寸」 と。 云々
三ニ毫相大小ト者、¬経ニ¼云ク、「眉間白毫、右旋婉転、如↢五須弥山↡。」云云 毫相大小ト者随同 云云。且ク如↢釈迦白毫↡、諸経ニ云、「一寸、周囲三寸。」云云
四には↑眼相の大小とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲仏眼如四大海水、 青白分明」 と。 云々 諸仏の眼相、 随仏大小不同なり 云々。 世間の人、 眼の大なるをもつて好しとす。 ¬西遊の記¼ にいはく 云々。
四ニハ眼相大小ト者、¬経ニ¼云ク、「仏眼如四大海水、青白分明。」云云 諸仏眼相、随仏大小不同也 云云。世間ノ人眼以↠大為↠好之。¬西遊ノ記ニ¼云ク 云云。
五には↑毛孔光の大小とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲身のもろもろの毛孔より光明を演出す、 須弥山のごとし」 と。 云々 善導釈して (定善義) いはく、 「▲これ毛孔光の大小を明かす」 と。 云々 ある人釈していはく 云々。 愚案にいはく、 おそらくはこれ遍身光か。 遍身光において、 諸仏の大小不同なり。 毘婆尸仏のごとし 云々。 尸棄仏の遍身光百由旬。 かくのごとく七仏の身光、 大小不同なり。
五ニハ毛孔光大小ト者、¬経ニ¼云ク、「身諸毛孔演↢出光明↡、如↢須弥山↡。」云云 善導釈云、「此明↢毛孔光大小↡。」云云 或ル人釈云 云云。愚案云ク、恐クハ是遍身光歟。於↢遍身光↡、諸仏大小不同也。如↢毘婆尸仏↡ 云云。尸棄仏遍身光百由旬。如↠是ノ七仏身光、大小不同也。
六に↑円光大小とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲かの仏の円光百億の三千大千世界のごとし」 と。 云々 これすなはちかの仏の項の円光なり 云々。 もろもろの円光の大小不同なり。 毘婆尸仏の円光百二十五由旬、 尸棄仏の円光四十五由旬、 毘舎婆仏四十二由旬、 拘留孫仏三十二由旬、 釈迦の円光七尺 云々。
六ニ円光大小ト者、¬経ニ¼云、「彼仏円光如↢百億三千大千世界↡。」云云 是則チ彼仏項円光也 云云。諸ノ円光ノ大小不同也。毘婆尸仏ノ円0335光百二十五由旬、尸棄仏ノ円光四十五由旬、毘舎婆仏四十二由旬、拘留孫仏三十二由旬、釈迦円光七尺 云云。
七に↑化仏の多少とは、 これ円光のなかの化仏なり。 化仏とは、 かの真仏の化作するところなり。 いはくもとこれらの諸仏かの土になし、 神通力をもつて本無を化作す、 たちまちにこれあるがゆゑに名づけて化となす。 ¬経¼ (観経) いはく、 「▲円光のなかにおいて、 百万億那由他恒河沙の化仏あり」 と。 云々 円光の大小に随ひて仏に多少あり 云々。 随逐護念、 みな化仏なり。 また迎接は多く化身なり。 また造画多く化仏なり。
七ニ化仏多少ト者、是円光ノ中ノ化仏也。化仏ト者、彼ノ真仏所↢化作↡也。謂本此等ノ諸仏無↢彼土ニ↡、以↢神通力ヲ↡化↢作之本無↡、忽有↠之故ニ名テ為↠化ト。¬経ニ¼云ク、「於↢円光中↡、有↢百万億那由他恒河沙化仏↡。」云云 随↢円光ノ大小↡仏ニ有↢多少↡ 云云。随逐護念、皆化仏也。又迎接多化身也。又造画多化仏也。
八に↑侍者の多少とは、 諸仏みな執事の弟子あり、 しばらく毘婆尸仏に執事の弟子あり、 無憂と名づく。 かの六仏みな執事の弟子あるをもつて、 われも執事の弟子あり、 化仏また執事の弟子と名づく。 いま弥陀の化仏もろもろの執事の多少、 大僧執事の弟子、 沙弥を用ゐて大僧を用ゐず 云々。
八ニ侍者多少ト者、諸仏皆有↢執事弟子↡、且ク毘婆尸仏有↢執事弟子↡、名↢無憂↡。以↣彼ノ六仏皆有↢執事弟子↡、我有↢執事弟子↡、化仏亦名↢執事弟子↡。今於↢弥陀化仏諸執事多少、大僧執事弟子、用↢沙弥↡不↠用↢大僧↡ 云云。
九に↑相の多少とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲無量寿仏に八万四千の相あり」 と。 仏の相好を説くに四説あり。 一には三十二相、 二には八十随好、 三には八万四千、 四には無量塵数。 ¬経¼ に四を説くがゆゑに (観仏三昧経巻九本行品) いはく、 「人相に同ずるがゆゑに三十二を説く。 諸天に勝るるをいひて八十随好を説く。 もろもろの菩薩のためにいふがゆゑに八万四千と説く。 云々 仏まことの相好無量無数なり。 いま弥陀仏の相を説くに二説あり。 一には三十二相、 二には八万四千。 一に三十二相とは、 これ ¬般舟¼ 等ならびにいまの像観の初めの文これなり。 二に八万四千とは、 いまの文これなり 云々。
九ニ相多少ト者、¬経ニ¼云、「無量寿仏有↢八万四千相↡」也。説↢仏ノ相好↡有↢四説↡。一ニハ三十二相、二ニハ八十随好、三ニハ八万四千、四ニハ無量塵数。¬経ニ¼説↠四ヲ故ニ云、「同↢人相↡故ニ説↢三十二↡。勝↢諸天↡云説↢八十随好↡。為↢諸菩薩↡云故ニ説↢八万四千↡。云云 仏実ノ相好無量無数也。今説↢弥陀仏ノ相ヲ↡有↢二説↡。一ニハ三十二相、二ニハ八万四千。一ニ三十二相ト者、是¬般舟¼等并ニ今像観ノ初文是也。二0336ニ八万四千ト者、今ノ文是也 云云。
十に↑好の多少とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲一々の相におのおの八万四千の随形好あり」 と。 云々 ¬観仏経¼ 等の意によるに、 相と好とは同あり異あり。 同とは、 ¬経¼ (観仏三昧経巻九本行品意) にいはく、 「人相に同ずるがゆゑにに三十二相を説く。 諸天に勝るるがゆゑに八十種好を説く。 もろもろの菩薩のためのゆゑに八万四千の相好を説く。 仏のまことの相好、 われはじめて成道の時雑華経において広すでに説く。 このゆゑにいま略して説かず」 といふ。 いまこの文によるに、 相と好とは同体なり。 異とは、 同 ¬経¼ に相と好と格別の義なり。 相とはこれ好の大なるなり、 好とは相の少なるなり。 ゆゑに好の大なるをこれを名づけて相となし、 相の少なるをこれを名づけて好となす。 いま弥陀につきて大小の相好あり、 いましばらく相好別門によりて、 これを分ちて二となす 云々。
十ニ好ノ多少ト者、¬経ニ¼云ク、「一一相各有↢八万四千随形好↡。」云云 依ルニ↢¬観仏経¼等ノ意ニ↡、相ト与↠好有↠同有↠異。同ト者、¬経ニ¼云、「同↢人相↡故ニ説↢三十二相↡。勝↢諸天ニ↡故ニ説↢八十種好↡。為↢諸菩薩↡故ニ説↢八万四千相好↡。仏実ノ相好、我初成道ノ時於↢雑華経↡広已説。是ノ故ニ今略シテ不↠説」云。今依↢此ノ文ニ↡、相ト与↠好同体也。異ト者、同¬経ニ¼相ト与↠好格別之義ナリ。相ト者是好大也、好ト者相少也。故ニ好大名テ↠之ヲ為↠相ト、相少名↠之為↠好ト。今付↢弥陀ニ↡有↢大小ノ相好↡、今且ク依↢相好別門ニ↡、分↠之ヲ為↠二ト 云云。
十一に↑光の多少とは、 ¬経¼ の文に (観経) にいはく、 「▲一々の好にまた八万四千の光明あり」 と。 想ひ計らふに、 相好の光明の数無量無数辺、 算数の所知にあらず、 しばらくある人 (要集巻中) 白毫一相の光明を計らひて、 「七百五倶胝六百万の光明」 と。 云々
十一ニ光ノ多少ト者、¬経¼文ニ云、「一一好復有↢八万四千光明↡」。想計、相好之光明之数無量無数辺、非↢算数所知↡、且ク或人計↢白毫一相之光明↡、「七百五倶胝六百万光明。」云云
十二に↑光照の遠近とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲一々の光明、 あまねく十方世界を照らして念仏の衆生を」 と。 近あり遠あり。 近とは、 極楽と近隣の世界において、 よく弥陀仏を念ずる、 これを照らすを名づけて近となす。 次に遠とは、 極楽遼遠のところより、 よく弥陀仏を念ずる、 すなはちこれを照らすをこれを名づけて遠となす 云々。
十二ニ光照遠近ト者、¬経ニ¼云、「一一光明、遍照↢十方世界↡念仏衆生。」有↠近有↠遠。近ト者、与↢極楽↡於↢近隣世界↡、能ク念↢弥陀仏↡、照↠之名テ為↠近ト。次ニ遠ト者、与↢極楽遼遠之所↡、能念↢弥陀仏↡、即照↠之名↠之ヲ為↠遠ト 云云。
十三には↑光明の摂益とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲摂取不捨」 と。 これすなはち前の光明、 念仏の衆生を摂取して、 一切捨てたまはざるを名づけて光明の利益となす。 念仏利益の義、 後にこれを釈すべし。 以上、 まさしく観相を解しおはりぬ
十三ニハ光明摂益ト者、¬経ニ¼云、「摂取不捨」。是則チ前光明、摂↢取念仏衆生↡、一切而不↠捨名テ為↢光明利益ト↡。念仏利益之0337義、後可↠釈↠之ヲ。已上、正解↢観相↡了ヌ
三には邪正を観ずとは、 前の諸文に準ずるに、 仏身を観じて仏を見る、 これを名づけて正となす。 仏を観じて余境を見る、 これを名づけて邪となす。
三ニハ観↢邪正↡者、準↢前ノ諸文↡、観仏身見仏、名↠之ヲ為↠正ト。観仏見↢余境ヲ↡、名↠之ヲ為↠邪ト。
四には利益とは、 これにつきて二あり。 一には↓現在の利益、 二には↓当来の利益。
四ニハ利益ト者、付↠之ニ有↠二。一ニハ現在ノ利益、二ニハ当来ノ利益。
↑現在につきて四あり。 一には↓弥陀一仏を見る益、 二には↓一切諸仏を見る益、 三には↓仏心を見る益、 四には↓現前授記の益。
付↢現在ニ↡有↠四。一ニハ見↢弥陀一仏↡益、二ニハ見↢一切諸仏↡益、三ニハ見↢仏心↡益、四ニハ現前授記ノ益。
一に↑見弥陀一仏とは、 真仏の観成によりて、 現身にすなはち弥陀一仏を見たてまつるなり。 これすなはち現身に仏を見る利益なり。 感禅師等のごとし 云々。
一ニ見弥陀一仏ト者、依↢真仏観成↡、現身ニ即奉↠見↢弥陀一仏↡也。是則チ現身ニ見↠仏ヲ之利益也。如↢感禅師等ノ↡ 云云。
二に↑見諸仏とは、 この観によるにただ弥陀一仏を見るのみにあらず、 あまねく十方の諸仏を見る。 十方の諸仏とは、 東方善徳乃至上方広衆徳、 下方明徳なり。 弥陀一仏を念ずるによりて、 すなはちこれらの諸仏を見ることを得、 これを名づけて見諸仏の益となす。
二ニ見諸仏ト者、依↢此ノ観↡唯非↠見↢弥陀一仏ヲ↡、遍ク見↢十方ノ諸仏ヲ↡。十方ノ諸仏ト者、東方善徳乃至上方広衆徳、下方明徳ナリ。依↠念↢弥陀一仏↡、即得↠見↢此等ノ諸仏ヲ↡、名↠之ヲ為↢見諸仏之益ト↡。
三に↑見仏心益とは、 この観によりてただ仏の色身を見るのみにあらず、 またよく仏心を見る。 ゆゑに ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲仏身を観ずるがゆゑにまた仏心を見る。 仏心とは大慈悲これなり。 無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す」 と。 云々 これすなはち見仏心の益なり。
三ニ見仏心益ト者、依↢此観ニ↡唯非↠見↢仏ノ色身↡、亦能ク見↢仏心ヲ↡。故ニ¬経ニ¼云、「以↠観↢仏身↡故亦見↢仏心↡。仏心者大慈悲是。以↢無縁慈↡摂↢諸衆生↡。」云云 是則チ見仏心之益也。
四には↑現前授記の益とは、 この観によりてただ仏の色身・菩薩・仏心を見るのみにあらず、 またよく三昧の定中において成仏の記莂を蒙る。 ゆゑに ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲無量寿仏を見るは、 すなはち十方無量の諸仏を見る。 無量諸仏を見ることを得るがゆゑに、 諸仏現前に授記したまふ」 と。 云々 これすなはち念仏三昧のなかにおいて、 成仏の記莂を得る利益なり 云々。 もし人現身に成仏の記莂を得んと欲せば、 すなはちよく観仏三昧を修す 云々。
四ニハ現前授記之益ト者、依↢此観↡唯非↠見↢仏色身・菩薩・仏心↡、亦能ク於↢三昧定中ニ↡蒙↢成仏之記莂ヲ↡。故ニ¬経ニ¼云、「見↢無量寿仏↡者、即見↢十方無量諸仏↡。得↠見↢無量諸仏↡故、諸仏現前授記。」云云 是則チ於↢念仏三昧之中ニ↡、得↢成仏之記莂ヲ↡利益也 云云。若人現身ニ欲↠得ント↢成仏之記莂ヲ↡、即能ク可↠修↢観仏三昧ヲ↡ 云云。
次に↑当来の利益とは、 これにつきて二あり。 一には往生、 二には得無生忍 云々。 ゆゑに ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲この観をなすものは、 他世に捨身して諸仏の前に生れ、 無生忍を得」 と。 云々
次ニ当0338来利益ト者、付↠此有↠二。一ニハ往生、二ニハ得無生忍 云云。故ニ¬経ニ¼云、「作↢此観↡者、捨↢身他世↡生↢諸仏前↡、得↢無生忍↡。」云云
五に思惟正受とは 云云。 この次に観仏と念仏と差別の事これを釈すべし。
五ニ思惟正受ト者 云云。此次ニ観仏ト与↢念仏↡差別事可↠釈↠之ヲ。
入文解釈 王宮会 正宗分 定善 観音観
十に↑観音観とは、 前に例せばこれにまた五あり。 一には結前生後、 二にはまさしく観相を辨ず、 三には観の邪正を明かす、 四には利益を明かす、 五には教観の次第。
十ニ観音観ト者、例セバ↠前ニ此ニ亦有↠五。一ニハ結前生後、二ニハ正辨↢観相↡、三ニハ明↢観邪正↡、四ニハ明↢利益↡、五ニハ教観次第。
第一に来意とは、 上にすでにかの教主を観じおはりぬ、 主にはかならず伴あるがゆゑに、 主に次いで伴を観ず。 しかればかの仏の御弟子ならびに声聞無量無辺なり、 つぶさにこれを観ぜんと欲す、 あにこれを階ふべきや。 ゆゑにいまに要を取り詮を抜きて、 二菩薩を観ず。 二菩薩のなかにおいて、 また観音あり勢至あり。 観音は左面、 勢至は右面。 左右次いであり、 ゆゑにまづ観音を観ず 云々。 またあるいは前に仏観を修せずといへども、 意楽に随ひてまたまづ観音を観ず 云々。
第一来意ト者、上ニ既ニ観↢彼ノ教主↡竟ヌ、主ニハ必有↠伴故ニ、次↠主観↠伴。然彼仏ノ御弟子并ニ声聞無量無辺ナリ、具ニ欲↠観↠之ヲ、豈可↠階↠之哉。故ニ今ニ取↠要ヲ抜↠詮ヲ、観↢二菩薩↡。於↢二菩薩ノ中ニ↡、又有↢観音↡有↢勢至↡。観音ハ左面、勢至ハ右面。左右有↠次、故ニ先観↢観音↡ 云云。又或ハ雖↢前不ト↟修セ↢仏観ヲ↡、随↢意楽ニ↡又先観↢観音↡ 云云。
二にはまさしく観相を辨ずとは、 これにつきて十四あり。 一には↓身量の大小、 二には↓身色の不同、 三には↓肉髻・螺髻の不同、 四には↓円光の大小、 五には↓化仏侍者の多少、 六には↓身光のなかにあまねく五道の衆生を現ず、 七には↓天冠の化仏、 八には↓面の色身の不同、 九には↓毫光の転変、 十には↓身服の光瓔、 十一には↓宝手慈悲の用、 十二には↓御足の徳用、 十三には↓指仏に同じ、 十四には↓二相闕きて不足の地に居す 云々。
二ニハ正辨↢観相↡者、付↠此ニ有↢十四↡。一ニハ身量大小、二ニハ身色不同、三ニハ肉髻・螺髻不同、四ニハ円光大小、五ニハ化仏侍者多少、六ニハ身光之中ニ普ク現↢五道ノ衆生↡、七ニハ天冠化仏、八ニハ面色身不同、九ニハ毫光転変、十ニハ身服光瓔、十一ニハ宝手慈悲用、十二ニハ御足徳用、十三ニハ指同仏、十四ニハ二相闕居不足之地 云云。
十四の功徳ありといへども、 しばらく要を取りて少々これを釈せば、 ↑身量の大小とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲この菩薩の身の長八十万億那由他由旬」 と。 云々 あるいは ¬経¼ に 「那由他」 の下に 「恒河沙」 の言を加ふ。 これによりて人多く観音仏より高しといふ 云々。
雖↠有↢十四ノ功徳、且ク取↠要ヲ少少釈↠之ヲ者、身量大小ト者、¬経ニ¼云、「此菩薩身長八十万億那由他由旬。」云云0339 或ハ¬経ニ¼「那由他」之下加↢「恒河沙」之言ヲ↡。依↠之ニ人多ク云↢観音自リ↠仏而高ト↡ 云云。
二に ↑「▲身は紫金色」 と。 云々
二ニ「身紫金色。」云云
三には↑肉髻・螺髻の不同とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲頂に肉髻あり」 と。 云々
三ニハ肉髻・螺髻不同ト者、¬経ニ¼云、「頂有↢肉髻↡。」云云
四には↑円光の大小とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲円光の面、 おのおの百千由旬」 と。 云々
四ニハ円光大小ト者、¬経ニ¼云、「円光面、各百千由旬。」云云
五に↑化仏侍者の多少とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲その円光のなかに五百の化仏あり、 釈迦牟尼仏のごとし。 一々の化仏に五百の化菩薩あり、 無量の諸天もつて侍者となす」 と。 云々
五ニ化仏侍者ノ多少ト者、¬経ニ¼云、「其円光中有↢五百化仏↡、如↢釈迦牟尼仏↡。一一化仏有↢五百化菩薩↡、無量諸天以為↢侍者↡。」云云
六には↑身光のなかにあまねく五道の衆生を現ずとは、 善導の (礼讃) のいはく、 「▲観音菩薩の大慈悲、 すでに菩提を得るも捨てて証せず。 一切の五道身中に内る、 六時に観察して三輪応ず」 と。 云々
六ニハ身光中普現五道衆生ト者、善導ノ云ク、「観音菩薩大慈悲、已得↢菩提↡捨不↠証。一切五道内↢身中↡、六時観察三輪応。」云云
七には↑天冠の化仏とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲毘楞伽摩尼宝、 もつて天冠となす。 その天冠のなかに一の立化仏あり、 高さ二十五由旬なり」 と。 云々
七ニハ天冠之化仏ト者、¬経ニ¼云、「毘楞伽摩尼宝、以為↢天冠↡。其天冠中有↢一立化仏↡、高二十五由旬。」云云
八には↑面の色身に不同ありとは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲観世音菩薩の面、 閻浮檀金色なり」 と。 云々
八ニハ面色身有不同ト者、¬経ニ¼云、「観世音菩薩面、如↢閻浮檀金色↡。」云云
九には↑毫光の転変とは、 「▲毫光転変してあまねく十方を満たす、 化侍いよいよ多く、 さらに紅蓮華の色に比す」 (定善義) と。 云々 ¬経¼ によりてこれを釈すべし。
九ニハ毫光転変ト者、「毫光転変徧満↢十方↡、化侍弥多、更比↢紅蓮華色↡。」云云 依↠¬経ニ¼可↠釈↠之。
十には↑身服の光瓔とは、 観世音の御衣なり。 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲八十億の光明あり、 もつて瓔珞となす。 その瓔珞のなかにあまねく一切もろもろの荘厳の事を現ず」 と。
十ニハ身服光瓔ト者、観世音御衣也。¬経ニ¼云、「有↢八十億光明↡、以為↢瓔珞↡。其瓔珞中普現↢一切諸荘厳事↡。」
十一には↑御手の慈悲用とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲手掌に五百億の雑蓮華色をなし、 手の十指の端に、 八万四千の画あり。 なほ印文のごとし。 一々の画に八万四千色あり。 一々の色に八万四千の光あり。 その光柔軟にしてあまねく一切を照らし、 この宝手をもつて衆生を接引したまふ」 と。 云々 善導の ¬讃¼ (礼讃) にいはく、 「▲つねに百億光王の手を舒べて、 あまねく有縁を摂し本国に帰したまふ」 と。 云々
十一ニハ御手慈悲用ト者、¬経ニ¼云、「手掌作五百億雑蓮華色、手十指端、有↢八万四千画↡。猶如↢印文↡。一一画有↢八万四千色↡。一一色有↢八万四千光↡。其光柔軟普0340照↢一切↡、以↢此宝手↡接↢引衆生↡。」云云 善導¬讃¼云、「恒舒↢百億光王手↡、普摂↢有縁↡帰↢本国↡。」云云
十二に↑御足の徳用とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲足を挙げたまふ時、 足の下に千輻輪相あり、 自然に化して五百億の光明の台となる。 足を下したまふ時、 金剛摩尼華の、 布散一切するありて、 弥満せざるなし」 と。 云々
十二ニ御足徳用ト者、¬経ニ¼云、「挙↠足時、足下有↢千輻輪相↡、自然化成↢五百億光明台↡。下↠足時、有↢金剛摩尼華、布散一切↡、莫↠不↢弥満↡。」云云
十三に↑指仏に同じとは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲その余の身相・衆好具足すること仏のごとくして異なることなし」 と。 云々
十三ニ指同仏ト者、¬経ニ¼云、「其余身相・衆好具足如↠仏無↠異。」云云
十四には↑二相闕きて不足の地に居すとは、 ¬経¼ にいはく、 「▲ただ頂上肉髻および無見頂相、 世尊に及ばず」 と。 云々 善導 (定善義) のいはく、 「▲師・弟子、 位別にして、 果願いまだ円かならず、 二相虧くることありて、 不足の地に居することを表す」 と。 云々
十四ニハ二相闕居不足地ト者、¬経ニ¼云、「唯頂上肉髻及無見頂相、不↠及↢世尊↡。」云云 善導ノ云ク、「師・弟子位別、果願未↠円、致↢二相有↟虧、表↠居↢不足之地↡。」云云
三に観の邪正とは 云々
三ニ観邪正者 云云
四に利益とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲まさにこの観をなすものは、 もろもろの禍に遇はず、 業障を浄除し、 無数劫の生死の罪を除く。 かくのごとき菩薩、 ただその名を聞くに無量の福を獲。 いかにいはんや諦観するをや」 と。 またこれにつきて滅罪あり生善あり。
四ニ利益ト者、¬経ニ¼云、「当↠作↢是観↡者、不↠遇↢諸禍↡、浄↢除業障↡、除↢無数劫生死之罪↡。如↠此菩薩、但聞↢其名↡獲↢無量福↡。何況諦観。」又付↠之ニ有↢滅罪↡有↢生善↡。
五には教観の次第とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲もし観世音菩薩を観ぜんと欲するものあらば、 まづ頂上肉髻を観じ、 次に天冠を観ぜよ。 その余の衆相また次第にこれを観ずべし、 また明了なること掌中を観ずるがごとくせしめよ」 と。 云々 しばらく観仏の理のごとく順逆にこれを観ずべし。 もし相好を観ぜずは、 あるいは名号を称すべし。 ある ¬経¼ (荘厳宝王経巻二) にいはく、 「もし人つねに大士の名を念ずれば」 と。 云々 次に弘誓の縁を釈しこれと合すべし。
五ニハ教観次第ト者、¬経ニ¼云、「若有↧欲↠観↢観世音菩薩↡者↥、先観↢頂上肉髻↡、次観↢天冠↡。其余衆相亦次第観↠之、亦令↢明了如↟観↢掌中↡。」云云 且ク如↢観仏理↡順逆可↠観↠之ヲ。若シ不↠観↢相好↡者、或ハ可↠称↢名号ヲ↡。或ル¬経ニ¼云、「若人恒念↢大士名↡。」云云 次釈↢弘誓之縁↡可↠合↠之。
入文解釈 王宮会 正宗分 定善 勢至観
十一には↑勢至観とは、 これにつきてまた五あり。 一には結前生後、 二にはまさしく観相を辨ず、 三には観の邪正を明かす、 四には利益、 五には思惟正受とは 云々
十一ニハ勢至観ト者、付テ↠之ニ亦有↠五。一ニ者結前生後、二ニハ正辨↢観相↡、三ニハ明↢観邪0341正↡、四ニハ利益、五ニハ思惟正受者 云云
一に来意とは 云々。
一ニ来意ト者 云云。
二に正辨観相とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲この菩薩の身量の大小、 また観世音のごとし」 と。 云々 また (観経) いはく、 「▲余のもろもろの身相観世音のごとく等しくして異なることあることなし」 と。 云々
二ニ正辨観相ト者、¬経ニ¼云、「此菩薩身量大小、亦如↢観世音↡。」云云 又云、「余諸身相如↢観世音↡等無↠有↠異。」云云
これをもつてこれを思はば、 勢至の身相大旨観世音と同じ、 しばらく観音と不同の相において九あり。 一には↓円光の大小、 二には↓光照の遠近、 三には↓化仏侍者の多少、 四には↓無辺光の名義、 五には↓大勢至の名義、 六には↓頂上宝華相、 七には↓頂上肉髻宝瓶相、 八に↓は行歩不同、 九には↓座不同相なり。
以↠之ヲ思↠之ヲ、勢至身相大旨与↢観世音↡同、且ク於↧与↢観音↡不同之相ニ↥有↠九。一ニハ円光大小、二ニハ光照遠近、三ニハ化仏侍者多少、四ニハ無辺光之名義、五ニハ大勢至名義、六ニハ頂上宝華相、七ニハ頂上肉髻宝瓶相、八ニハ行歩不同、九ニハ座不同相ナリ。
一に↑円光の大小とは、 観音の円光は百千由旬、 勢至の円光は百二十五由旬、 観音の円光に准ずるに少し 云々。
一ニ円光大小ト者、観音円光百千由旬、勢至円光百二十五由旬、准↢観音円光↡少也 云云。
二には↑光照の遠近とは、 観音の円光すでに百千由旬、 理遠く照らすべし。 いまはただ▲照二百五十由旬といふ。
二ニハ光照遠近ト者、観音円光既ニ百千由旬、理可↢遠照↡。今只云↢照二百五十由旬ト。
三に↑化仏侍者の多少とは、 ¬疏¼ にこの文ありといへども ¬経¼ にこの文なし 云々。
三ニ化仏侍者多少ト者、¬疏ニ¼雖↠有リト↢此ノ文↡於↠¬経ニ¼無↢此ノ文↡ 云云。
四に↑無辺光の名義とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲挙身の光明十方国を照らし、 紫金色をなす。 有縁の衆生みなことごとく見ることを得。 ◆ただこの菩薩の一毛孔光を見れば、 すなはち十方無量の諸仏を見る。 このゆゑにこの菩薩を号して無辺光と名づく」 と。 云々
四ニ無辺光名義ト者、¬経ニ¼云、「挙身光明照↢十方国↡、作↢紫金色↡。有縁衆生皆悉得↠見。但見↢此菩薩一毛孔光↡、即見↢十方無量諸仏↡。是故号↢此菩薩↡名↢無辺光↡。」云云
五には↑大勢至の名義とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲智恵光をもつてあまねく一切を照らし、 三塗を離れて無上力を得しむ。 このゆゑにこの菩薩を号して大勢至と名づく」 と。 云々
五ニハ大勢至名義ト者、¬経ニ¼云、「以↢智恵光↡普照↢一切↡、令↧離↢三塗↡得↦無上力↥。是故号↢此菩薩↡名↢大勢至↡。」云云
六には↑頂上天冠中宝華相とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲この菩薩の天冠に五百の宝華あり。 一々の宝華に五百の宝台あり。 一々の台のうちに、 十方諸仏の浄妙国土の広長の相、 みな中において現ず」 と。 云々
六ニハ頂上天冠中宝華相ト者、¬経ニ¼云、「此菩薩天冠有↢五百宝華↡。一一宝華有↢五百宝台↡。一一台0342中、十方諸仏浄妙国土広長之相、皆於↠中現。」云云
七には↑頂上肉髻上有一宝瓶とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲頂上の肉髻鉢頭摩華のごとし。 肉髻の上において一宝瓶あり。 もろもろの光明を盛りて、 あまねく仏事を現ず」 と。 云々
七ニハ頂上肉髻上有一宝瓶ト者、¬経ニ¼云、「頂上肉髻如↢鉢頭摩華↡。於↢肉髻上↡有↢一宝瓶↡。盛↢諸光明↡、普現↢仏事↡。」云云
八には↑行歩不同とは、 「▲これ勢至菩薩行きたまふ時、 十方世界一切震動す。 地の動く処に当りて五百億の宝華あり。 一々の宝華荘厳、 高く顕るること極楽世界のごとし」 と。 云々
八ニハ行歩不同ト者、「是勢至菩薩行時、十方世界一切震動。当↢地動処↡有↢五百億宝華↡。一一宝華荘厳、高顕如↢極楽世界↡。」云云
九には↑座不同の相とは、 これは勢至菩薩行きて後、 坐したまふ時の有様なり。 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲この菩薩坐したまふ時、 七宝の国土一時に動揺し、 下方金光仏刹より、 乃至上方光明王仏刹、 その中間において無量塵数の分身無量寿仏、 分身観世音・分身大勢至、 みなことごとく極楽国土に雲集し、 空中に側塞して蓮華座に坐したまふ、 妙法を演説して苦の衆生を度したまふ」 と。 云々
九ニハ座不同相ト者、是ハ勢至菩薩行後、坐時有様也。¬経ニ¼云、「此菩薩坐時、七宝国土一時動揺、従↢下方金光仏刹↡、乃至上方光明王仏刹、於↢其中間↡無量塵数分身無量寿仏、分身観世音・分身大勢至、皆悉雲↢集極楽国土↡、側↢塞空中↡坐↢蓮華座↡、演↢説妙法↡度↢苦衆生↡。」云云
善導 (定善義意) 「▲問ひていはく、 ¬弥陀経¼ のなかにいはく、 かの国の衆生衆苦あることなし。 ただ諸楽を受く 云々 と。 いまなんぞ度苦といふや。
善導「問テ曰ク、¬弥陀経ノ¼中ニ云、彼国衆生無↠有↢衆苦↡。但受↢諸楽↡ 云云。今何ゾ云↢度苦ト↡哉。
◆答ふ。 いま苦楽に二種あり。 一には三界の苦楽、 二には浄土の苦楽。
答。今苦楽有↢二種↡。一ニハ三界ノ苦楽、二ニハ浄土ノ苦楽。
◆一に三界の苦楽とは、 すなはち三塗の苦等をもつて、 苦となし、 すなはち人天五欲の楽をもつて、 人天の楽とす。 楽なりといへども実にはこれ最苦なり。 つひに一念真実の楽あることなし。
一ニ三界苦楽ト者、即チ以↢三塗之苦等↡、為↠苦ト、即以↢人天五欲ノ楽ヲ↡、人天之楽。雖↠楽ナリト実ニハ是最苦也。遂ニ無↠有ルコト↢一念真実之楽↡。
◆二に浄土の苦楽とは、 地前地上を望むるを苦となす。 下智証を上智証に望むるを苦となし、 上智証下智証に望むるを楽となす。 ◆いま度苦衆生とは、 ただ下位を進めて上位に昇り、 下証を転じて上証を得しむ。 その所求を称してこれを名づけて度苦といふ。 もししからずは、 浄土のなかの一切の聖人みな無漏をもつて体となし、 大悲をもつて用となす。 究竟常住にして分断消滅の因を離る。 なんぞ名づけて苦となさんや」 と。 云々
二ニ浄土ノ苦楽ト者、地前望↢地上↡為↠苦ト。下智証ヲ望↢上智証ニ↡為↠苦ト、少智証望↢大智証ニ↡為↠楽ト。今度苦衆生ト者、唯進↢下位↡昇↢上位↡、転↢下証↡令↠得↢上証↡。称↢其ノ所0343求↡名↠之ヲ言↢度苦ト↡。若シ不↠然ラ者、浄土之中一切ノ聖人皆以↢無漏↡為↠体ト、以↢大悲ヲ↡為↠用ト。究竟常住離↢於分断消滅ノ因↡。何ゾ名テ為↠苦之哉。」云云
三には邪正を観ずとは 云々。
三ニハ観↢邪正↡者 云云。
四には利益とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲無量阿僧祇劫の生死の罪を除く。 ◆この観をなせば、 胞盤に処せず、 つねに諸仏浄妙の国土に遊ぶ」 と。 云々 このなかに異あり、 滅罪と往生との二の利益 云々。
四ニハ利益ト者、¬経ニ¼云、「除↢無量阿僧祇劫生死之罪↡。作↢此観↡者、不↠処↢胞盤↡、常遊↢諸仏浄妙国土↡。」云云 此ノ中ニ有↠異、滅罪与↢往生↡二利益 云云。
五に思惟正受とは 云々。 次 (首楞厳経巻五) に 「われもと因地に念仏の心をもつて無生忍に入る、 いまこの界において念仏の人を摂して浄土に帰せしむ」 との文、 これを釈すべし 云々。
五ニ思惟正受ト者 云云。次ニ「我本因地以↢念仏心↡入↢無生忍↡、今於↢此界↡摂↢念仏人↡帰↢於浄土↡」文、可↠釈↠之ヲ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 定善 普観
十二に↑普観とは、 まづ来意、 上にすでに極楽の依報・正報、 身土・主伴つぶさにこれを観じおはりて、 極楽の観行すでにもつて満足し往生観を修するゆゑに、 上に次いでこの観来る。 次に経文の次第・往生の相をなす、 これを釈すべし 云々。
十二ニ普観ト者、先来意、上ニ已ニ極楽ノ依報・正報、身土・主伴具ニ観↠之竟テ、極楽観行已以テ満足シ修↢往生観↡故ニ、上ニ次此ノ観来。次作↢経文次第・往生之相↡、可↠釈↠之ヲ 云云。
往生の相とは、 いはく華台・聖衆、 いまだ来迎せずといへども、 すでに来迎の想をなす。 いまだ命終せずといへども、 すでに命終の想をなす。 いまだ蓮台に乗ぜずといへども、 蓮台に乗ずる想をなす。 いまだ往生せずといへども、 すでに往生の想をなす。 いまだ宝池のなかに入らずといへども、 すでに宝池のなかに入る想をなす。 いまだ蓮華開けずといへども、 すでに蓮華の開ける想をなす。 いまだ眼目開けずといへども、 すでに眼目の開ける想をなす。 いまだ光明照らさずといへども、 光明の照らす想をなす。 いまだ仏・菩薩を見ずといへども、 見仏・菩薩の想をなす。 いまだ水鳥・樹林・諸仏の説法を聞かずといへども、 これを聞く相をなす。 勝解・作意のごとく、 これを往生の観となす。 これをもし成ぜば現身往生を得。 これにつきてまた思惟・正受の二義あるべし 云々。
往生相ト者、謂雖↢華台・聖衆↡、未↢来迎↡、既ニ為↢来迎想↡。雖↠未↢命終↡、既為↢命終想↡。雖↠未↠乗↢蓮台↡、為↧乗↢蓮台↡想↥。雖↠未↢往生↡、既ニ為↢往生ノ想↡。雖↠未↠入↢宝池之中ニ↡、既ニ為↧入↢宝池中↡想↥。雖↠未↢蓮華開↡、既ニ為↢蓮華開想↡。雖↠未↢眼目開↡、既ニ為↢眼目開想↡。雖↠未ダ↢光明照↡、為↢光明照想↡。雖↠未ダ↠見↢仏・菩薩↡、為↢見仏・菩薩想↡。雖↠未ダ↠聞↢水鳥・樹林・諸仏説法↡、為↢聞↠之相↡。如↢勝解・作意↡、此為↢往生之観↡。此ヲ若成者得↢現身往生↡。付↠之ニ亦可↠有ル↢思0344惟・正受ノ二義↡ 云云。
次に大安寺の像をもつてこれに合すべし。 次に宋朝にはじめて経の来りて後、 大唐国中の比丘・比丘尼、 誰人も誰人もこの十二観を成就せしは、 ただ明瞻法師一人あり、 つぶさには ¬僧伝¼ に出づ。 往生を欲してかれを勘ふ。 すでに丈夫なり、 われまた丈夫なり、 なんぞみだりに強弱の想を生じ、 修習の意なからん。
次ニ以↢大安寺之像↡可↠合↠之ニ。次ニ宋朝始経来後、大唐国中比丘・比丘尼、誰人誰人成↢就此ノ十二観↡者、唯有↢明瞻法師一人↡、具ニハ出↢¬僧伝ニ¼。欲↢往生↡勘↠彼ヲ。既ニ丈夫也、我亦丈夫也、何ゾ妄リニ生↢強弱之想↡、無↢修習之意↡。
いま聴聞諸衆のなかに、 真実に厭離穢土の御志ましまし、 真実に欣求浄土の志ましませば、 今日より後、 おのおの願に随ひて、 あるいは一観、 あるいは二観、 意に随ひてこれを修し、 あるいは宝地、 あるいは宝池、 あるいは華座、 あるいは像想、 乃至仏・菩薩観、 願に任せておのおのこれを修習し、 おのおの往生極楽を期すべし 云々。
今聴聞諸衆ノ中ニ、真実厭離穢土御志御、真実欣求浄土之志御、自↢今日↡後、各ノ随↠願ニ、或ハ一観、或ハ二観、随↠意修↠之ヲ、或ハ宝地、或ハ宝池、或ハ華座、或ハ像想、乃至仏・菩薩観、任↠願ニ各ノ修↢習之ヲ↡、各ノ可↠期ス↢往生極楽↡ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 定善 雑想観
十三に↑雑想観とは、 前の仏・菩薩観これなり。 まづかの土の大身仏・菩薩を観想し、 いまこの雑観とは、 小身の仏・菩薩を観ず。 これに三意あり。 一には前に大身を観ずる人、 自在にこれを観ぜしめんがためなり。 二にはあるいは観未成の人は、 また小につく。 三にはあるいは意楽に随ひこれを観ず 云々。
十三ニ雑想観ト者、前仏・菩薩観是。先観↢想彼土大身仏・菩薩↡、今此ノ雑観ト者、観↢小身仏・菩薩↡。此ニ有↢三意↡。一ニハ前観↢大身↡人、為↠使↢自在観↟之。二ニハ或ハ観未成ノ人者、又付↠小ニ。三ニハ或随↢意楽↡観↠之ヲ 云云。
次にその小身相を観ずる日、 まさに弥陀如来の丈六の像を観ずべし、 あるいは池水の華上にあり、 あるいは丈六の像、 宝宮・宝閣のなかにあるを観ずべし、 あるいは宝林・宝樹の下にあるを観ずべし、 あるいは宝台・宝殿のなかにあるを観ずべし、 あるいは虚空宝雲の華蓋のなかにあるを観ずべし。 かくのごとく願に随ひ、 宝閣・宝林・宝樹、 一々におのおの心を留めてこれを思へ。 みな仏想のため、 機境相応し、 成就はなはだ易し 云々。
次ニ観↢其小身相ヲ↡日、当↠観↢弥陀如来丈六像ヲ↡、或ハ有↢池水華上↡、或ハ可↠観↣丈六像有↢宝宮・宝閣之中ニ↡、或ハ可↠観↠有↢宝林・宝樹下↡、或ハ可↠観↠有↢宝台・宝殿中↡、或ハ可↠観↠有↢虚空宝雲華蓋之中↡。如↠是ノ随↠願ニ、宝閣・宝林・宝樹、一一ニ各ノ留↠心思↠之ヲ。皆為↢仏想↡、機境相応、成就甚ダ易 云云。
この雑想に三尊あり、 独り仏のみにあらず。 ゆゑに雑想といふ。 また真仏あり、 また小身あり、 また大身あり。 すでに純大にあらず純小にあらず、 ゆゑに雑といふ。 義はなはだ多し、 しばらく一両を述ぶ、 余はこれに准知せよ。
此雑想ニ有↢三尊↡、独非↠仏。故ニ云↢雑想↡。亦0345有↢真仏↡、亦有↢小身↡、亦有↢大身↡。既ニ非↢純大↡非↢純小↡、故ニ云↠雑ト。義甚多シ、且ク述↢一両↡、余准↢知之↡。
次にこの十三観、 これを修する事時節に限らず、 ただ成就をもつて期となす。 これによりて文日数を説かず、 観の成就を論ずる事は、 衆生根性の利鈍によるべし。
次ニ此ノ十三観、修↠之事不↠限↢時節ニ↡、唯以↢成就↡為↠期ト。依↠之ニ文不↠説↢日数↡、論↢観成就↡事、可↠依↢而衆生根性利鈍↡。
ゆゑに善導 (定善義) 地想観を釈していはく、 「△ただ方寸・一尺等を観ぜよ。 あるいは一日・二日・三日、 あるいは四・五・六・七日、 あるいは一月・一年・二年・三年等、 無間日夜、 行住坐臥に身口意業をしてつねに定と合せしめよ。 ◇ただ万事ともに捨てて、 なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、 この定かならずすなはち得やすし。 もしかくのごとくならざれば、 三業随縁して、 定想つひに波飛せん。 たとひ千年の寿を尽すとも、 法眼いまだかつて開けず」 と。 云々 以上、 十三定善略してもつてかくのごとし。 この義ただ説くはこの ¬経¼ の義のごとし。 ¬寿経¼ いまだこれを説かず
故ニ善導釈↢地想観↡云、「唯観↢方寸・一尺等↡。或ハ一日・二日・三日、或ハ四・五・六・七日、或ハ一月・一年・二年・三年等、無間日夜、行住坐臥身口意業常与↠定合。唯万事倶捨、由如↢失意・聾盲・痴人↡者、此定必即易↠得。若シ不↠如↠是ノ、三業随縁、定想遂波飛。縦ヒ尽↢千年ノ寿ヲ↡、法眼未ダ↢会開↡。」云云 已上、十三定善略以如↠是ノ。此ノ義但説如↢此¬経¼義↡。¬寿経¼未ダ↠説↠之ヲ
入文解釈 王宮会 正宗分 散善
二には↑散善とは、 これにまた二あり。 一には来意、 二には三福・九品を釈す。
二ニ者散善ト者、此ニ亦有↠二。一ニ者来意、二ニ者釈↢三福・九品↡。
一に来意とは、 衆生の根性に二あり。 一には禅定、 二には散乱 云々。 久劫の聴学・久劫の座禅の文をもつてこれを釈すべし 云々。 これをもつてまた信行・法行 云々。
一ニ来意ト者、衆生根性有↠二。一ニ者禅定、二ニ者散乱 云云。以↢久劫聴学・久劫座禅之文ヲ↡可↠釈↠之ヲ 云云。以↠之亦信行・法行 云云。
二に三福・九品を釈すとは、 これにまた二あり。 一には三福、 二には九品。
二ニ釈↢三福・九品↡者、此ニ亦有リ↠二。一ニ者三福、二ニ者九品。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 三福
一に三福とは、 これはこれ序分のなかの説 云々。 三福とは、 「▲↓一には孝養父母、 ↓奉事師長、 ↓慈心不殺、 修十善業。 ◆↓二には受持三帰、 ↓具足衆戒、 ↓不犯威儀。 ◆三には↓発菩提心、 ↓深信因果、 ↓読誦大乗、 方等経典、 ↓勧進行者」 と。 云々
一ニ三福ト者、此ハ是序分ノ中ノ説 云云。三福ト者、「一ニ者孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業。二ニ者受持三帰、具足衆戒、不犯威儀。三ニ者発菩提0346心、深信因果、読誦大乗、方等経典、勧進行者。」云云
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 三福 孝養父母
「↑一者孝養父母」 とは、 在家・出家の人、 みな父母あり、 かならず孝養を致すべし 云々。 在家の孝養の旨、 広く ¬論語¼・¬孝経¼ に説くがごとし 云々。 出家の孝養は、 広く経論に説くがごとし。 釈尊、 父の棺を担ぎ、 目連は食を贈る。 これらにおいて、 すなはち出家の孝養の意なり。 声聞戒とは、 生縁奉事の法あり。 菩薩戒とは、 父母に孝順す 云々。 南山 (浄心誡巻巻下) いはく、 「父母は七生」 等と 云々。 孝養の法内外にあり、 ともにこれ聊爾ならず、 もつともこれをもつて往生の業となす 云々。
「一者孝養父母ト」者、在家・出家人、皆有↢父母↡、必可↠致↢孝養↡ 云云。在家孝養之旨、広ク如↠説↢¬論語¼・¬孝経¼↡ 云云。出家孝養、広如↠説↢経論ニ↡。釈尊担↢父ノ棺↡、目連ハ贈↠食。於↢此等ニ↡、即出家孝養ノ意也。声聞戒ト者、有↢生縁奉事法↡。菩薩戒ト者、孝↢順父母↡ 云云。南山云、「父母七生」等 云云。孝養ノ法有↢内外ニ↡、共ニ是不↢聊爾↡、最以↠是為↢往生ノ業↡ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 三福 奉事師長
次に 「↑奉事師長」 とは、 凡夫の智解はかならず師によりて生ず。 みづから解ることあたはず、 その恩まことに深し。 雪山は半偈に身を投じ、 釈尊は千歳の床となる、 常啼は髄を無濁に砕き、 薬王は億歳の薪となりて、 浄明徳仏を供養す。 これらはすなはち奉事師長の意なり。 八宗の学徒、 誰人か師長ましまさざらん。 なかんづく律宗とは、 師資相承の法あり。 真言宗は、 師に受けざれば一句を読まず。 自余の諸宗みな師資相承の道あり、 あに奉事師匠なからんや、 これをもつて往生の業となす 云々。
次ニ「奉事師長ト」者、凡夫ノ智解ハ必ズ依↠師ニ生ズ。自不↠能↠解ルコト、其ノ恩実ニ深シ。雪山半偈ニ、投↠身ヲ釈尊ハ為↢千歳床↡、常啼ハ砕↢髄ヲ於無濁↡、薬王ハ為↢億歳之薪↡、供↢養浄明徳仏↡。此等ハ即チ奉事師長ノ意也。八宗ノ学徒、誰人カ不↠在↢師長↡。就↠中律宗ト者、有↢師資相承ノ法↡。真言宗ハ、不↠受↠師ニ不↠読↢一句↡。自余ノ諸宗皆有↢師資相承之道↡、豈無↢奉事師匠↡、以↠之ヲ為↢往生ノ業↡ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 三福 慈心不殺修十善業
次に 「↑慈心不殺修十善業」 とは、 十悪を翻して十善業とするなり。 往生の志あらんもの、 すべからく十善戒を持つべし。 このなかに慈心不殺とは、 これに二義あり。 一には慈無量、 二には十善のなかの第一の善なり。 一に慈無量とは、 無量につきて四無量あり、 いま初めを挙げて後を接す 云々。 これすなはち四無量を修して往生の業とする意なり。 二に十善のなかの第一の善とは、 これすなはち十善において総別を挙ぐるなり。 別して慈心不殺とは、 十悪ともに罪なりといへども、 殺生もつとも第一なり。 ゆゑに別して十善を挙ぐ。 ただ仏法のみにあらず、 またこれ輪王の祭法なり。 玄奘の縁をもつてこれを釈すべし。 みなすなはち十善をもつて往生の業とする意なり。
次ニ「慈心不殺修十善業ト」者、翻シテ↢十悪ヲ↡為↢十善業↡也。有↢往生ノ志↡者、須↠持↢十善戒ヲ↡。而此ノ中ニ慈心不殺ト者、是有↢二義↡。一ニハ慈無量、二ニハ十善ノ中ノ第一ノ善ナリ。一ニ慈無量ト者、付↢無量↡有↢四無量↡、今挙↠初ヲ接↠後ヲ 云云。是即チ修↢四無量ヲ↡為↢往生ノ業↡意也。二ニ十善ノ中ノ第一ノ善ト者、此即チ於↢十善↡挙↢総別0347↡也。別シテ慈心不殺ト者、十悪共ニ雖↠罪、殺生最第一也。故別シテ挙↢十善↡。但非↢仏法ノミニ↡、亦是輪王祭法也。以↢玄奘縁↡可↠釈↠之。皆即以↢十善↡為↢往生ノ業↡意也。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 三福 受持三帰
「↑二には受持三帰」 等とは、 仏法僧に帰するなり。 これにつきて翻邪の三帰あり、 五戒の三帰あり、 八戒の三帰あり、 乃至菩薩の三帰あり。 これをもつて往生の業とするなり。
「二ニハ受持三帰」等ト者、帰↢仏法僧↡也。付↠此ニ有↢翻邪ノ三帰↡、有↢五戒三帰↡、有↢八戒三帰↡、有↢乃至菩薩三帰↡。以↠之ヲ為↢往生ノ業ト↡也。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 三福 具足衆戒
次に 「↑具足衆戒」 とは、 戒につきて五戒あり、 八戒あり、 沙弥戒あり、 声聞の具足戒あり、 菩薩の三聚浄戒あり、 菩薩の十重・四十八軽戒あり。
次ニ「具足衆戒ト」者、付↠戒ニ有↢五戒↡、有↢八戒↡、有↢沙弥戒↡、有↢声聞具足戒↡、有↢菩薩三聚浄戒↡、有↢菩薩十重・四十八軽戒↡。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 三福 不犯威儀
「↑不犯威儀」 とは、 三千の威儀あり八万の威儀あり。 もし往生の志あれば、 すべからくこれらの諸戒を持つべきなり。 これすなはち戒門往生の意なり。 もし八宗に約せば、 これ律宗往生の意なり。
「不犯威儀ト」者、有↢三千ノ威儀↡有↢八万ノ威儀↡。若有↢往生ノ志↡、須ク可↠持↢此等ノ諸戒ヲ↡也。此即戒門往生ノ意也。若シ約↢八宗ニ↡、是律宗往生ノ意也。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 三福 発菩提心
次に 「↑発菩提心」 とは、 四弘誓の大菩提心を発すなり。 これにつきてまた諸宗の菩提心あり。 法相には唯識発心あり、 三論には無相発心あり、 華厳には法界発心あり、 天台には円融発心あり、 真言には三密発心あり。 すべからくもつて考ふべきか。 これらの発心おのおの浄土に回向して往生の業とするべきなり。 その発心の相、 おのおの宗々の章疏に説くがごとし 云々。
次ニ「発菩提心ト」者、発↢四弘誓之大菩提心↡也。付↠之ニ亦有↢諸宗ノ菩提心↡。法相ニハ有↢唯識発心↡、三論ニハ有↢無相発心↡、華厳ニハ有↢法界発心↡、天臺ニハ有↢円融発心↡、真言ニハ有↢三密発心↡。須ク↢以テ考↡歟。此等ノ発心各ノ可↧廻↢向シテ浄土ニ↡為↦往生之業↥也。其ノ発心ノ相、各ノ如↠説↢宗宗ノ章疏ニ↡ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 三福 深信因果
次に 「↑深信因果」 とは、 世間の因果あり出世の因果あり。 世間の因果とは、 これすなはち六道の因果なり 云々。
次ニ「深信因果ト」者、有↢世間ノ因果↡有↢出世ノ因果↡。世間因果ト者、此即六道ノ因果也 云云。
出世の因果とは、 すなはち四乗・三乗の因果なり。 もし諸宗に約してこれを解せば、 倶舎には三乗の因果を定む、 成実宗には三乗の因果、 律宗には三乗の因果、 法相大乗には三乗の因果、 三論大乗には三乗の因果、 華厳大乗には五教の因果、 天台大乗には四教の因果、 真言大乗には五乗三密の因果、 達磨宗には一仏乗の因果。 これらの諸宗の因果において、 おのおの深信を発して、 これらの功徳をもつて浄土に往生するなり 云々。
出世ノ因果ト者、即チ四乗・三乗ノ因果也。若シ約↢諸宗↡之解セバ↠之ヲ、倶舎ニハ定↢三乗之因果↡、成実宗ニハ三乗之因果、律宗ニハ三乗之因果、法0348相大乗ニハ三乗ノ因果、三論大乗ニハ三乗因果、華厳大乗ニハ五教因果、天臺大乗ニハ四教ノ因果、真言大乗ニハ五乗三密ノ因果、達磨宗ニハ一仏乗ノ因果。於↢此等ノ諸宗ノ因果ニ↡、各ノ発↢深信↡、以↢是ノ功徳↡為↣往↢生浄土ニ↡ 云云。
いま聴聞の人々御中に、 あるいは法相宗の人あり、 あるいは三論宗の人あり、 あるいは華厳宗の人あり、 あるいは真言宗の人あり、 あるいは律宗の人あり、 あるいは倶舎・成実の学徒、 あるいは天台・華厳の行人、 おのおの当宗の深信因果の功徳をもつて深心の回向して、 おのおの往生の業とするなり 云々。
今聴聞ノ人人御中、或ハ在↢法相宗ノ人↡、或ハ在↢三論宗ノ人↡、或ハ在↢華厳宗ノ人↡、或ハ有↢真言宗ノ人↡、或ハ有↢律宗ノ人↡、或ハ倶舎・成実ノ学徒、或ハ天臺・華厳ノ行人、各ノ以↢当宗深信因果功徳↡深心ノ廻向シテ、各ノ為↢往生ノ業↡ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 三福 読誦大乗方等経典
次に 「↑読誦大乗方等経典」 とは、 文を見るを読とし、 文に背くを誦とす。 これすなはち五種法師のなかに、 読誦の二行を挙げ、 受持等の三を接す 云々。 あるいは読誦の二を挙げ、 つぶさに書写等の十種の法行を接す。
次ニ「読誦大乗方等経典ト」者、見↠文為↠読ト、背↠文為↠誦ト。是即チ五種法師ノ中ニ、挙↢読誦ノ二行↡、接↢受持等ノ三↡ 云云。或挙↢読誦ノ二↡、具ニ接↢書写等ノ十種ノ法行↡。
大乗方等経典とは、 大乗とは小乗に簡ぶ言なり。 別して一経を指すにあらず、 通じて一切諸大乗経を摂す。 いはく 二十行ばかりまた ¬集¼ の十二章のごとし 方等経典とは、 もろもろの大乗経を指す。 平等の理を明かすがゆゑに方等といふ。 この方等経典につきて顕密の方等あり。 顕教とは、 ¬華厳¼・¬般若¼・¬大集¼・¬浄名¼・¬法華¼・¬涅槃¼ 等 云々。 密教とは、 ¬随求¼・¬尊勝¼・¬無垢浄光¼・¬阿嚕力迦¼・¬不空羂索¼・¬光明真言¼・¬阿弥陀¼ および龍樹所感の往生浄土等の呪なり。 これらは顕密もろもろの大乗、 受持・読誦して往生極楽の業とするなり。
大乗方等経典ト者、大乗ト者簡↢小乗↡之言也。別シテ非↠指スニ↢一経ヲ↡、通ジテ摂↢一切諸大乗経↡。謂 廿行許亦如↢¬集¼十二章ノ↡ 方等経典ト者、指↢諸大乗経↡。明↢平等ノ理↡故ニ云↢方等↡。付↢此ノ方等経典ニ↡有↢顕密方等↡。顕教ト者、¬華厳¼・¬般若¼・¬大集¼・¬浄名¼・¬法華¼・¬涅槃¼等 云云。密教ト者、¬随求¼・¬尊勝¼・¬無垢浄光¼・¬阿嚕力迦¼・¬不空羂索¼・¬光明真言¼・¬阿弥陀¼及ビ龍樹所感往生浄土等ノ呪也。此等ハ顕密諸ノ大乗、受持・読誦為↢往生極楽ノ業↡也。
いま聴聞諸衆のなかに、 おのおのこれらの持経・持呪の人ましませば、 おのおのこの業をもつて往生極楽を期すべし 云々。
今聴聞諸衆ノ中ニ、各ノ此等ノ持経・持呪ノ人御坐、各ノ以↢此0349ノ業ヲ↡可↠期↢往生極楽↡ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 三福 勧進行者
次に 「↑勧進行者」 に二あり。 一には聖道教の勧進行者、 二には往生浄土の勧進行者。 一に聖道の勧進行者 云々。 二に往生の勧進行者 云々。 また堂塔勧進の行者等あり 云々。
次ニ「勧進行者ニ」有↠二。一ニハ聖道教勧進行者、二ニハ往生浄土勧進行者。一ニ聖道勧進行者 云云。二ニ往生勧進行者 云云。又有↢堂塔勧進ノ行者等↡ 云云。
これをもつてこれを案ずるに、 この三種の業のなかにおいて、 華厳・天台・三論・法相・真言・禅門・倶舎・成実・大小の律宗、 乃至世界の孝養父母、 仁・義・礼・智等の世善往生、 このなかにみなこれを納む。 西方の学者・西方の行者、 おのおの文を尋ねてこれを学すのみ 云々。
以↠之ヲ案↠之ヲ、於↢此ノ三種ノ業ノ中ニ↡、華厳・天臺・三論・法相・真言・禅門・倶舎・成実・大小ノ律宗、乃至世界孝養父母、仁・義・礼・智等ノ世善往生、此ノ中ニ皆納↠之ヲ。西方ノ学者・西方ノ行者、各ノ尋↠文ヲ学↠此ヲ耳 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 九品
二に九品とは、 これを釈するに三となす。 一には開合、 二には立品の不同、 三には文につきて別して解す。
二ニ九品ト者、釈↠之ヲ為↠三ト。一ニハ開合、二ニハ立品不同、三ニハ付↠文別解。
一に開合とは、 これを釈するに三となす。 いま九品は前の三福を開きて九品となす。 ゆゑに知りぬ九品の行業、 三福の外にさらに別体なしと 云々。
一ニ開合ト者、釈↠之ヲ為↠三ト。今九品開↢前ノ三福↡為↢九品ト。故ニ知ヌ九品ノ行業、三福之外ニ更ニ無↢別体↡ 云云。
二に立品の不同とは、 九品の不同を立つ。 これまた三となす。 一には↓法の浅深に約す、 二には↓行の多少に約す、 三には↓時節の長短に約す。
二ニ立品不同ト者、立↢九品ノ不同↡。此又為↠三ト。一ニハ約↢法之浅深↡、二ニハ約↢行ノ多少↡、三ニハ約↢時節ノ長短↡。
一に↑法の浅深に約すとは、 しばらく念仏の一行のごとき、 三品の浅深あり、 余の読誦発心等の行もまたかくのごとし。 例して三品・九品の浅深あり。
一ニ約法浅深ト者、且ク如↢念仏ノ一行↡、有↢三品ノ浅深↡、余ノ読誦発心等ノ行モ亦復如↠是ノ。例有↢三品・九品浅深↡。
二には↑行の多少に約すとは、 上品は五行を具し、 中品は四行を具し、 下品は三行を具す。 ¬双巻¼ の説のごとし。 これすなはち行の多少に約して品秩を立つるなり。
二ニハ約行多少ト者、上品具↢五行↡、中品具↢四行↡、下品具↢三行↡。如↢¬双巻ノ¼説↡。是則チ約↢行ノ多少↡立↢品秩↡也。
三に↑時節の長短に約すとは、 一には戒行に約して、 尽戒と一日と長短あり。 これをもつて中上・中々を分ちて二品となす、 すなはちその意なり 云々。
三ニ約時節長短ト者、一ニハ約↢戒行↡、尽戒与↢一日↡有↢長短↡。以↠之分↢中上・中中↡為↢二品ト↡、即チ其ノ意也 云云。
三に文につきて別して解すとは、 また分ちて二となす。 一には↓総じて三品を分つ、 二には↓文につきて別して解す。
三ニ付↠文ニ別解ト者、又分テ為↠二ト。一ニハ総分三品、二ニハ付↠文別解。
一に↑総じて三品を分つとは、 上輩に三品あり。 一には上々、 二には上中、 三には上下。 三品不同なりといへども、 総じて上品とす。 二に中輩にまた三品あり。 一には中上、 二には中々、 三には中下なり。 三に下輩にまた三品あり。 一には下上、 二には下中、 三には下々 云々。 また上輩において三品ありといへども、 同じくこれ大乗の善人なり。 中輩の三品に分ちて二となす。 中上・中々はこれ小乗の善人なり 云々。 中下は世俗の善人なり 云々。 下輩の三品は、 悪の軽重に約してもつて三品となす、 修因の浅深によらず。 いはく十悪をもつて下上とし、 破戒をもつて下中とし、 五逆をもつて下々とす 云々。
一ニ総分三品ト者、上輩ニ有↢三品↡。一0350ニハ上上、二ニハ上中、三ニハ上下。三品雖↢不同↡、総ジテ為↢上品↡。二ニ中輩ニ又有↢三品↡。一ニハ中上、二ニハ中中、三ニハ中下ナリ。三ニ下輩ニ又有↢三品↡。一ニハ下上、二ニハ下中、三ニハ下下 云云。又於↢上輩ニ↡雖↠有リト↢三品↡、同ク是大乗善人ナリ。中輩ノ三品ニ分テ為↠二ト。中上・中中ハ是小乗善人也 云云。中下ハ世俗ノ善人也 云云。下輩三品ハ、約↢悪ノ軽重ニ↡以テ為↢三品ト↡、不↠依↢修因ノ浅深ニ↡。謂以↢十悪↡為↢下上ト↡、以↢破戒ヲ↡為↢下中ト↡、以↢五逆ヲ↡為↢下下ト 云云。
二に↑文につきて別して解すとは、 九品の文につきて格別にこれを釈するなり。
二ニ付↠文別解ト者、付↢九品ノ文↡格別釈↠之ヲ也。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 九品 上品上生
しばらく上品上生の文につきて三意あり。 一には修因、 二には往生、 三には往生以後の得益 云々。 九品につきてみなこの三意あり。 しばらく上々品の三とは、 一には修因、 二には往生、 三には往生以後の得益 云々。
且ク付↢上品上生ノ文ニ↡有↢三意↡。一ニハ修因、二ニハ往生、三ニハ往生已後ノ得益 云云。付↢九品ニ↡皆有↢此ノ三意↡。且ク上上品三ト者、一ニハ修因、二ニハ往生、三ニハ往生已後ノ得益 云云。
一に修因とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「上品上生とは、 ▲もし衆生ありて、 ▲一日乃至七日すなはち往生を得」 と。 この経文をもつてくはしくこれを釈すべし 云々。
一ニ修因ト者、¬経ニ¼云、「上品上生者、若有↢衆生↡、一日乃至七日即得↢往生↡。」以↢此ノ経文ヲ↡委ク可↠釈↠之ヲ 云云。
二には往生とは、 これにまた二あり。 一には聖衆の来迎、 二には行者の往生。 一に聖衆の来迎とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲かの国に生ずる時、 この人精進す、 ◆行者を讃歎して、 その心を勧進す」 と。 二には行者の往生とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲行者見おはりて歓喜踊躍し、 弾指の頃のごとくにかの国に往生す」 と。
二ニハ往生ト者、是亦有↠二。一ニハ聖衆来迎、二ニハ行者往生。一ニ聖衆来迎ト者、¬経ニ¼云、「生↢彼国↡時、此人精進、讃↢歎行者↡、勧進其心。」二ニハ行者往生ト者、¬経ニ¼云、「行者見已歓喜踊躍、如↢弾指頃↡往↢生彼国↡。」
三に往生以後の得益とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 ▲「生彼国已、 見仏色身」 等と 云々。
三ニ往生已後ノ得益ト者、¬経ニ¼云、「生彼国已、見仏色身」等 云云。
次にいま聴聞の諸衆のなかに、 もし上品上生の志あらんもの、 もしは一日乃至七日の間、 あるいはもろもろの戒行を持ち、 あるいは方等経典を誦し、 あるいは六念を修行して、 おのおの願に随ひて一行を修し往生を期せ 云々。
次今聴聞諸衆ノ中ニ、若有↢上品上生志↡者、若ハ一日乃至七日之間、或0351ハ持↢諸戒行↡、或ハ誦↢方等経典ヲ↡、或ハ修↢行六念↡、各ノ随↠願ニ修↢一行ヲ↡期↢往生↡ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 九品 上品中生
次に上品中生とは、 前に例してまた三あり。 一には修因、 二には往生、 三には生後の得益なり。
次ニ上品中生ト者、例↠前ニ亦有リ↠三。一ニハ修因、二ニハ往生、三ニハ生後ノ得益ナリ。
一に修因とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲かならずしも受持読誦せず、 回向して極楽国に生ずることを願求す」 と。
一修因ト者、¬経ニ¼云、「不↢必受持読誦↡、廻向願↣求生↢極楽国↡。」
二に往生とはこれにまた二あり。 一には仏の来迎、 二には行者の往生なり。 一に仏の来迎とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲この行を行ずるもの命終らんと欲する時、 ◆千の化仏と一時に手を授く」 と。 二に行者の往生とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲行者みづから見れば、 紫金の台に坐す。 すなはちかの国の七宝の池中に生ず」 と。 云々
二ニ往生ト者是亦有↠二。一ニハ仏来迎、二ニハ行者往生ナリ。一ニ仏来迎ト者、¬経ニ¼云、「行者自見、坐↢紫金台↡。即生↢彼国七宝池中↡。」云云
三に生後の得益とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲この紫金の台大宝華のごとし」 と。 云々
三ニ生後ノ得益ト者、¬経ニ¼云、「此紫金台如↢大宝華↡。」云云
このなかにもし願求上品中生人者 云々。 このなかに三論・法相・華厳・天台・真言・禅門、 おのおの解第一義の意あり。 また解第一義において九品を釈すべし 云々。
此ノ中ニ若シ願求上品中生人者 云云。此ノ中ニ三論・法相・華厳・天臺・真言・禅門、各有↢解第一義之意↡。又於↢解第一義ニ↡可↠釈↢九品↡ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 九品 上品下生
上品下生とは、 例してまた三あり。 一には修因、 二には往生、 三には生後の得益なり。
上品下生ト者、例亦有↠三。一ニハ修因、二ニハ往生、三ニハ生後ノ得益也。
一に修因とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲また因果を信じ、 大乗を謗ぜず、 回向して極楽国に生ぜんと願求す」 と。 云々
一ニ修因ト者、¬経ニ¼云、「亦信↢因果↡、不↠謗↢大乗↡、廻向願↣求生↢極楽国↡。」云云
二に往生とは、 これにまた二あり。 一には仏の来迎、 二には行者の往生。 一に仏の来迎とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲行者の命終らんと欲する時、 阿弥陀仏、 無上道心を発す。 われ来りてなんぢを迎ふ」 と。 云々 二に行者の往生とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲この事を見る時、 すなはちみづから身を見れば、 すなはち七宝の池中に往生することを得」 と。 云々
二ニ往生ト者、是亦有↠二。一ニハ仏来迎、二ニハ行者往生。一ニ仏来迎ト者、¬経ニ¼云、「行者命欲↠終時、阿弥陀仏、発↢無上道心↡。我来迎↠汝。」云云 二ニ行者往生ト者、¬経ニ¼云、「見↢此事↡時、即自見↠身、即得↣往↢生七宝池中↡。」云云
三に生後の得益とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 ▲「一日一夜に蓮華すなはち開く」 以下の文これなり 云々。
三ニ生後ノ得0352益ト者、¬経ニ¼云、「一日一夜蓮華乃開」已下ノ文是也 云云。
このなかにもし上品下生の志あらん、 すべからく無上菩提心を発すべし。 相前に申し候ふがごとし。 おのおの自宗の菩提心を発して、 上品下生を願求すべし 云々。 またこのなかに亦信因果の義、 前に申し候ふがごとし。
此ノ中ニ若シ有↢上品下生ノ志↡、須↠発↢無上菩提心↡。相如↢前ニ申候↡。各ノ可↧発↢自宗菩提心↡、願↦求上品下生↥ 云云。亦此ノ中ニ亦信因果之義、如↢前ニ申候↡。
大乗の善人、 上輩三品の往生、 略してもつてかくのごとし。
大乗善人、上輩三品往生、略シテ以テ如↠此ノ。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 九品 中品上生
次に中三品につきて、 善導によらば分ちて二とす。 中上・中々の二品は小乗の善人なり。 中下はこれ大乗にあらず小乗にあらず、 いまだ仏法に遇はざる世俗の善人なり 云々。
次ニ付↢中三品↡、依バ↢善導ニ↡分テ為↠二。中上・中中ノ二品ハ小乗善人也。中下ハ是非↢大乗↡非↢小乗↡、未ダ↠遇↢仏法↡世俗ノ善人也 云云。
しばらくこの義につきて三品を釈せば、 中品上生、 例してまた三あり。 一には修因、 二には往生、 三には得益なり。
且ク付↢此義ニ↡釈↢三品↡者、中品上生、例亦有↠三。一ニハ修因、二ニハ往生、三ニハ得益也。
一に修因とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲もし衆生ありて五戒を受持し、 回向して西方極楽世界に生ぜんと願求す」 と。 云々
一ニ修因ト者、¬経ニ¼云、「若有↢衆生↡受↢持五戒↡、廻向願↠求↠生↢於西方極楽世界↡。」云云
二に往生とは、 これにまた二あり。 一には聖衆の来迎、 二には行者の往生。 一に聖衆の来迎とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲命終の時に臨んで、 阿弥陀仏出家を讃歎して、 衆苦を離るることを得」 と。 云々 二に行者の往生とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲行者見おはりて、 心大きに歓喜す。 いまだ頭を挙げざるあひだに、 すなはち極楽世界に往生することを得」 と。 云々
二ニ往生ト者、是ニ亦有↠二。一ニ者聖衆来迎、二ニハ行者往生。一ニ聖衆来迎ト者、¬経ニ¼云、「臨↢命終時↡、阿弥陀仏讃↢歎出家↡、得↠離↢衆苦↡。」云云 二ニ行者往生ト者、¬経ニ¼云、「行者見已、心大歓喜。未↠挙↠頭頃、即得↣往↢生極楽世界↡。」云云
三に生後の得益とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 ▲「蓮華すなはち開く。 華の敷く時に当りて」 と。 云々
三ニ生後ノ得益ト者、¬経ニ¼云、「蓮華尋開。当↢華敷時↡。」云云
もしこのなかに中品上生の志 云々。
若シ此ノ中ニ有↢中品上生ノ志 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 九品 中品中生
次に中品中生とは、 例してまた三あり。 一には修因、 二には往生、 三には得益。
次ニ中品中生ト者、例亦有↠三。一ニハ修因、二ニハ往生、三ニハ得益。
一に修因とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲もし衆生ありて、 もしは一日一夜八戒斉を受持し、 回向して極楽国に生ぜんと願求す。 戒香薫修し」 と。 云々
一ニ修因ト者、¬経ニ0353¼云、「若有↢衆生↡、若一日一夜受↢持八戒斉↡、廻向願↠求↠生↢極楽国↡。戒香薫修。」云云
二に行者の往生とは、 これにまた二あり。 一には聖衆の来迎、 二には行者の往生。 一に聖衆の来迎とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲かくのごとき行者、 命終らんと欲する時、 阿弥陀仏を見る。 ◆三世諸仏の教に随順するがゆゑに、 われ来りてなんぢを迎ふ」 と。 云々 二に行者の往生とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲行者みづから見れば、 蓮華の上に坐せり。 蓮華すなはち合し、 西方極楽世界に生じて宝池のなかにあり」 と。 云々
二ニ行者往生ト者、是亦有↠二。一ニハ聖衆来迎、二ニハ行者往生。一ニ聖衆来迎ト者、¬経ニ¼云、「如↠此行者、命欲↠終時、見↢阿弥陀仏↡。随↢順三世諸仏教↡故、我来迎↠汝。」云云 二ニ行者往生ト者、¬経ニ¼云、「行者自見、坐↢蓮華上↡。蓮華即合、生↢於西方極楽世界↡在↢宝池中↡。」云云
三に生後の得益とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲七日を経て蓮華すなはち敷く」 と。 云々 以上小乗
三ニ生後ノ得益ト者、¬経ニ¼云、「経↢於七日↡蓮華乃敷。」云云 已上小乗
次にこのなかに中品中生の志あらん 云々。
次ニ此ノ中ニ有↢中品中生ノ志↡ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 九品 中品下生
次に中品下生とは、 これすなはちいまだ仏法に遇はざる世俗の善人なり。 これをもつて中下とし、 前に合して中輩の三品とす。 これ少異与諸師 云々。 例してまた三あり。 一には修因、 二には往生、 三には生後の得益。
次ニ中品下生ト者、是則チ未ダ↠遇↢仏法↡世俗ノ善人也。以↠此ヲ為↢中下↡、合↠前ニ為↢中輩三品ト。是少異与諸師 云云。例亦有リ↠三。一ニハ修因、二ニハ往生、三ニハ生後得益。
一に修因とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲善男子・善女人、 孝養父母。 ▲法蔵比丘四十八願」 と。
一ニ修因ト者、¬経ニ¼云、「善男子・善女人、孝養父母。法蔵比丘四十八願。」
二に行者の往生とは、 これにまた二あり。 一に聖衆の来迎とは、 前に准ぜば後の諸品にかならずこれあるべし。 懐感等の諸師、 みなその義を存ず。 二に行者の往生とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲この事を聞きおはりて、 すなはち西方極楽世界に生ず」 と。 云々
二ニ行者往生ト者、是亦有↠二。一ニ聖衆来迎ト者、准↠前ニ後ノ諸品必是可↠有ル。懐感等ノ諸師、皆存↢其ノ義ヲ。二ニ行者往生ト者、¬経ニ¼云、「聞↢此事↡已、即生↢西方極楽世界↡。」云云
三に生後の得益とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲七日を経て、 観世音に遇ふ」 と。
三ニ生後ノ得益ト者、¬経ニ¼云、「経↢七日↡、遇↢観世音↡。」
中下かくのごとし。 もし中品下生の志あらんもの 云々。
中下如↠是ノ。若シ有↢中品下生志↡者 云云。
総じて中輩の三品かくのごとし 云々。
総中輩ノ三品如↠是ノ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 九品 下品上生
次に下品の三生とは、 この人大小の善根および世俗の善根なし、 もろもろの十悪・破戒およびもろもろの五逆の罪人なり。 もつてこの三品の悪人は罪業の軽重に随ひ、 立てて三品とす。 罪業の軽重とは 云々。 これにつきて三品あり。
次0354ニ下品三生ト者、此ノ人無↢大小ノ善根及ビ世俗ノ善根↡、諸ノ十悪・破戒及ビ諸ノ五逆ノ罪人也。以此ノ三品ノ悪人ハ随↢罪業軽重ニ↡、立為↢三品ト↡。罪業ノ軽重ト者 云云。付↠之ニ有↢三品↡。
しばらく下品上生とは、 これ十悪の罪人なり。 例のごとく三あり。 一には修因、 二には往生、 三には生後の得益。
且ク下品上生ト者、此十悪罪人也。例ノ如有↠三。一ニ者修因、二ニハ往生、三ニハ生後得益。
一に修因とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲あるいは衆生あり、 もろもろの悪業をなす。 ▲五十億劫の生死の罪を除く」 と。 このなかに善行・悪行あり、 分ちてこれを釈すべし。
一ニ修因ト者、¬経ニ¼云、「或有↢衆生↡、作↢衆悪業↡。除↢五十億劫生死之罪↡。」此ノ中ニ有↢善行・悪行↡、可↢分釈↟此。
二に行者の往生とは、 これにまた二あり。 一には聖衆の来迎、 二には行者の往生なり。 一に聖衆の来迎とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲その時かの仏、 すなはち化仏を遣はして、 諸罪消滅す。 われ来りてなんぢを迎ふ」 と。 云々 二に行者の往生とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲この語をなしおはりて、 行者すなはち化仏の光明を見る。 ◆化仏の後に随ひて宝池のなかに生ず」 と。 云々
二ニ行者往生ト者、是亦有↠二。一ニハ聖衆来迎、二ニハ行者往生也。一ニ聖衆来迎ト者、¬経ニ¼云、「爾時彼仏、即遣↢化仏↡、諸罪消滅。我来迎↠汝。」云云 二ニ行者往生ト者、¬経ニ¼云、「作↢是語↡已、行者即見↢化仏光明↡。随↢化仏後↡生↢宝池中↡。」云云
三に生後の得益とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲七七日を経て蓮華すなはち敷く」 と。 云々
三ニ生後ノ得益ト者、¬経ニ¼云、「経↢七七日↡蓮華乃敷。」云云
次にこの九品のなかにこの品華要なり。 すこぶるわれらが分に相当す 云々。 もし下品上生の志あらば 云々。
次此九品中此ノ品華要也。頗ル相↢当我等ガ分ニ↡ 云云。若シ有↢下品上生之志↡ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 九品 下品中生
次に下品中生とは、 これ破戒の罪人なり。 例してまた三あり。 一には修因、 二には行者の往生、 三には生後の得益。
次ニ下品中生ト者、此破戒ノ罪人也。例亦有↠三。一ニハ修因、二ニハ行者往生、三ニハ生後得益。
一に修因とは、 これにまた二あり。 一には悪行、 二には善行。 一に悪行とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲あるいは衆生あり、 五戒・八戒を毀犯し、 もろもろの悪業をもつてみづから荘厳す。 かくのごとき罪人悪業をもつてのゆゑに」 と。 云々 善行とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲命終らんと欲する時、 地獄の衆火。 ◆八十億劫の生死の罪を除く」 と。 云々
一ニ修因ト者、此亦有↠二。一ニ者悪行、二ニ者善行。一ニ悪行ト者、¬経ニ¼云、「或有↢衆生↡、毀↢犯五戒・八戒↡、以↢諸悪業↡而自荘厳。如↠此罪人0355以↢悪業↡故。」云云 善行ト者、¬経ニ¼云、「命欲↠終時、地獄衆火。除↢八十億劫生死之罪↡。」云云
二に往生とは、 これにまた二あり。 一には聖衆の来迎、 二には行者の往生。 一に聖衆の来迎とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲地獄の猛火、 化して清涼の風となり、 もろもろの天華を吹く。 華上にみな化仏・菩薩ありて、 この人を迎接したまふ」 と。 二に行者の往生とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲一念のあひだのごとく、 すなはち七宝の池中に往生することを得」 と。 云々
二ニ往生ト者、是亦有↠二。一ニハ聖衆来迎、二ニハ行者往生。一ニ聖衆来迎ト者、¬経ニ¼云、「地獄猛火、化為↢清涼風↡、吹↢諸天華↡。華上皆有↢化仏・菩薩↡、迎↢接此人↡。」二ニ行者往生ト者、¬経ニ¼云、「如↢一念頃↡、即得↣往↢生七宝池中↡。」云云
三に生後の得益とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲蓮華の内に六劫を経」 と。 云々 次にもし下品下生の志あらん 云々。
三ニ生後ノ得益ト者、¬経ニ¼云、「蓮華之内経↢於六劫↡。」云云 次ニ若有↢下品下生志↡ 云云。
入文解釈 王宮会 正宗分 散善 九品 下品下生
次に下品下生とは、 これまた五逆の罪人なり。 例してまた三あり。 一には修因、 二には往生、 三には生後の得益。
次ニ下品下生ト者、是亦五逆ノ罪人也。例亦有↠三。一ニハ修因、二ニハ往生、三ニハ生後得益。
一に修因とは、 これにまた二あり。 一には悪行、 二には善行。 一に悪行とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲あるいは衆生あり、 不善業をなして、 多劫を経歴して苦を受くること無窮なり」 と。 二には善行とは、 ¬経¼ (観経意) にいはく、 「▲かくのごとき愚人。 ◆八十億劫の生死の罪を除く」 と。 云々
一ニ修因ト者、是亦有↠二。一ニハ悪行、二ニハ善行。一ニ悪行ト者、¬経ニ¼云、「或有↢衆生↡、作↢不善業↡、経↢歴多劫↡受↠苦無窮。」二ニハ善行ト者、¬経ニ¼云、「如↠此愚人。除↢八十億劫生死之罪↡。」云云
二に往生とは、 これにまた二あり。 一には聖衆の来迎、 二には行者の往生。 一に聖衆の来迎とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲命終の時、 金蓮華を見るになほ日輪のごときその人の前に住す」 と。 くはしくこれを釈すべし 二に行者の往生とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲一念のあひだのごとく、 すなはち極楽世界に往生することを得」 と。 云々
二ニ往生ト者、是亦有↠二。一ニハ聖衆来迎、二ニハ行者往生。一ニ聖衆来迎ト者、¬経ニ¼云、「命終之時、見↢金蓮華↡猶如↢日輪↡住↢其人前↡。」委ク可↠釈↠之 二ニ行者往生ト者、¬経ニ¼云ク、「如↢一念頃↡、即得↣往↢生極楽世界↡。」云云
三に生後の得益とは、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲蓮華のなかにおいて十二大劫を満つ」 と。 云々
三ニ生後得益ト者、¬経ニ¼云、「於↢蓮華中↡満↢十二大劫↡。」云云
これを下品下生となす。 総じて下品の三生かくのごとし。
此為↢下品下生↡。総ジテ下品ノ三生如↠此ノ。
総じて三福・九品の散善、 略してもつてかくのごとし。 聴聞の大衆楽欲に随ひて、 あるいは上品上生を願ひ、 あるいは上品中生乃至下品下生を願じましますか。 以上正宗定散善往生の義、 略してもつてかくのごとし。
総0356ジテ三福・九品散善、略シテ以テ如↠此ノ。聴聞ノ大衆随↢楽欲↡、或ハ願↢上品上生↡、或ハ願↢上品中生乃至下品下生↡坐歟。已上正宗定散善往生ノ義、略シテ以テ如↠此ノ。
入文解釈 王宮会 流通分
次に↑流通、 多くの文段あり。 要を取りてこれを釈すに、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲仏、 阿難に告げたまはく、 なんぢよくこの語を持て」 と。 云々 これを釈するに二意あり。 一には善導により、 定散の諸行を廃してただ念仏の一門に帰す。 二に経中の諸文において、 略してこの義を輔助す。
次ニ流通有↢多ノ文段↡。取↠要ヲ釈↠之、¬経ニ¼云、「仏告↢阿難↡、汝好持↢是語↡。」云云 釈↠此ヲ有↢二意↡。一ニ者依↢善導ニ↡、廃↢定散ノ諸行ヲ↡但帰↢念仏ノ一門ニ↡。二ニ於↢経中諸文↡、略シテ輔↢助此ノ義ヲ↡。
入文解釈 王宮会 流通分 依善導
一には善導により諸行を廃して念仏の一門に帰すとは、 善導 (散善義) の 「仏告阿難」 等の文を釈していはく、 「▲仏告阿難汝好持是語より以下は、 まさしく弥陀の名号を付属して、 遐代に流通することを明かす。 上来定散両門の益を説くといへども、 仏の本願に望むるに、 意衆生をして一向にもつぱら弥陀仏名を称せしむるにあり」 と。 云々 善導、 釈 (玄義分意) にいはく、 「諸経の宗旨不同なり、 ▲この ¬経¼ 観仏三昧を宗となし、 また念仏三昧をもつて宗となす」 と。 云々
一ニハ依↢善導ニ↡廃↢諸行↡帰↢念仏一門↡者、善導ノ釈↢「仏告阿難」等ノ文ヲ↡云、「従↢仏告阿難汝好持是語↡已下ハ、正ク明↧付↢属弥陀ノ名号ヲ↡、流↦通コトヲ於遐代↥。上来雖↠説↢定散両門之益↡、望↢仏ノ本願↡、意在↣衆生一向専ラ称↢弥陀仏名↡。」云云 善導釈ニ云、「諸経宗旨不同、此ノ¬経ニハ¼観仏三昧ヲ為↠宗ト、亦以↢念仏三昧↡為↠宗。」云云
入文解釈 王宮会 流通分 諸文輔助
二には諸文をもつて輔助すとは、 この ¬経¼ の意は、 定散の善根を説きて、 諸行往生を明かすといへども、 その正意を論ずるに、 まさしく念仏往生にあり。 その文多しといへども、 略して三五を引きて、 もつてその義を輔せん。
二ニハ以↢諸文ヲ↡輔助ト者、此ノ¬経ノ¼意ハ、説↢定散善根↡、雖↠明↢諸行往生ヲ↡、論ルニ↢其ノ正意ヲ↡、正ク有↢念仏往生ニ↡。其ノ文雖↠多ト、略シテ引↢三五ヲ↡、以テ輔↢其ノ義。
一には↓第九観の 「光明遍照」 の文、 二には↓第十二観の 「無量寿仏化身無数」 等の文、 三には↓下品上生の 「智者復教合掌叉手、 称南無阿弥陀仏」 の文、 四には↓同じく下品上生の化仏称讃の 「汝称仏名故諸罪消滅」 の文、 五には↓下品中生の聴聞弥陀功徳往生の文、 六には↓下品下生の十念往生の文、 七には ↓「若念仏者当知此人、 乃至生諸仏家」 の文。
一ニハ第九観ノ「光明遍照ノ」文、二ニハ第十二観「無量寿仏化身無数」等ノ文、三ニハ下品上生ノ「智者復教0357合掌叉手、称南無阿弥陀仏ノ」文、四ニハ同ク下品上生ノ化仏称讃「汝称仏名故諸罪消滅ノ」文、五ニハ下品中生ノ聴聞弥陀功徳往生ノ文、六ニハ下品下生ノ十念往生ノ文、七ニハ「若念仏者当知此人、乃至生諸仏家ノ」文。
入文解釈 王宮会 流通分 諸文輔助 第九観文
一には ↑「▲光明遍照」 (観経) とは、 この文を釈するに三義あり。 一には↓平等の義、 二には↓本願の義、 三には↓親縁等の義。
一ニハ「光明遍照ト」者、釈↢此文↡有↢三義↡。一ニハ平等ノ義、二ニハ本願ノ義、三ニハ親縁等ノ義。
一に↑平等の義とは、 そもそも弥陀の光明、 ただ念仏者ばかりを照らして余行のものを照らしたまはざるは何事ぞや。 およそ道理を思ふに、 如来無縁の慈悲の光明、 一切顕密の行人・一切の事理の行者を照らすべし。 なんぞ (観経) 「念仏衆生摂取不捨」といひ、 念仏の行者の外一切顕密の行者、 みなもつて摂取の光明を照らさず、 無縁の慈悲に漏るべし、 その条不審なり。
一ニ平等ノ義ト者、抑モ弥陀光明、唯照↢念仏者計↡不↠照↢余行ノ者↡何事ゾ哉。凡ソ思↢道理ヲ↡、如来無縁ノ慈悲光明、可↠照↢一切顕密行人・一切事理行者↡。何ゾ云↢「念仏衆生摂取不捨ト」↡、念仏行者ノ外一切顕密ノ行者、皆以テ不↠照↢摂取光明↡、可↠漏↢無縁ノ慈悲ニ↡、其ノ条不審ナリ。
八十・六十の ¬華厳¼ を誦し、 事々円融の旨を讃じて、 純真法界の理を観ずる人、 いかんぞ弥陀の光明に選び捨てらる。 ¬道行¼・¬勝天¼・¬理趣¼・¬金剛¼ 等受持の法師、 般若の畢竟空の旨を知り唯言無二の法を談ずる、 なんぞ弥陀の光明を蒙らざる。 ¬思益経¼ を持ち平等如々を識り、 ¬円覚経¼ を受け一切を建立し、 ¬首楞厳経¼ を読み十方を含み、 ¬大集経¼ を持ち染浄に融通す。
誦↢八十・六十ノ¬華厳¼↡、讃↢事々円融之旨ヲ↡、観↢純真法界之理↡人、云何ゾ被↣選↢捨弥陀光明↡。¬道行¼・¬勝天¼・¬理趣¼・¬金剛¼等受持法師、知↢般若ノ畢竟空ノ旨↡談↢唯言無二法↡、何ゾ不↠蒙↢弥陀光明↡也。持↢¬思益経ヲ¼↡識↢平等如如ヲ↡、受↢¬円覚経ヲ¼↡建↢立一切↡、読↢¬首楞厳経ヲ¼↡含↢十方↡、持↢¬大集経ヲ¼↡融↢通染浄↡。
あるいは ¬宝積経¼ 百二十巻を持ち根塵を泯合す、 あるいは ¬法華経¼ 一部八巻を持ち実相に体達す、 あるいは ¬涅槃¼ を行じ仏性を知る、 あるいは ¬浄名経¼ を読み道場を悟る。 かくのごときらの人、 われしかしながらこれを照らさず。 あるいは瑜伽の道場、 あるいは理観の縄床、 これを照らさざるはいかんぞ。
或ハ持↢¬宝積経¼百二十巻↡泯↢合根塵↡、或ハ持↢¬法華経¼一部八巻↡体↢達実相↡、或ハ行↢¬涅槃ヲ¼↡知↢仏性ヲ↡、或ハ読↢¬浄名経ヲ¼↡悟↢道場ヲ↡。如↠是ノ等ノ人、我然不↠照↠之哉。或ハ瑜伽0358之道場、或ハ理観之縄床、不↠照↠之者云何ゾ。
まことに田猟・漁捕のものを照らさず、 殺生・偸盗の人を照らさず、 五逆・十悪の家を照らさず、 毀禁・破戒の窓を照らさず、 もつともそのゆゑあるか。
誠ニ不↠照↢田猟・漁捕之者↡、不↠照↢殺生・偸盗之人↡、不↠照↢五逆・十悪之家↡、不↠照↢毀禁・破戒之窓↡、最モ有↢其ノ所以↡哉。
かくのごとき仏法修行の人は、 権実を論ぜず顕密をいはず、 光明摂取の光ただ念仏者に局る。
如↠此ノ仏法修行之人ハ、不↠論↢権実↡不↠云ハ↢顕密ヲ↡、光明摂取ノ光局↢唯念仏者↡。
そのゆゑは経論において博くこれを達するものこれを照らさば、 娑婆世界愚痴のものは多く智恵少なし。 事理において深利のものこれを照らさば、 鈍根のものは多く利根のものは少し。 念仏の法門においては、 智人これを修し、 大聖・文殊師利、 念仏を法照に教ふ 云々。 愚人これを修し、 ¬観無量寿経¼ の十悪軽罪・破戒次罪・五逆重罪のものを照らす。
其ノ故ハ於↢経論ニ↡博ク達↠之者照バ↠之ヲ、娑婆世界愚痴ノ者ハ多ク智恵少。於↢事理↡深利ノ者照バ↠之ヲ、鈍根ノ者ハ多ク利根ノ者ハ少シ。於↢念仏ノ法門ニ↡者、智人修↠之ヲ、大聖・文殊師利教↢念仏ヲ於法照↡ 云云。愚人修↠之ヲ、照↢¬観無量寿経¼十悪軽罪・破戒次罪・五逆重罪ノ者↡。
あるいは (観経) 「▲教令念仏」 といひて念仏を修せしめ、 あるいは (観経意) 「▲但当応称唱名号」 といひて凡聖・賢愚・利鈍・貴賎これを同くす。 要を取りてこれを思はば、 智人に局らば愚人漏るべし。 ゆゑにいま摂取の光明ただ念仏者を照らす 云々。
或ハ云↢「教令念仏」↡修↢念仏↡、或ハ云↢「但当応称唱名号」↡凡聖・賢愚・利鈍・貴賎同↠之。取↠要ヲ思↠之ヲ、局↢智人↡愚人可↠漏。故ニ今摂取ノ光明照↢唯念仏者↡ 云云。
二には↑本願の義、 いはく余行は非本願のゆゑにこれを照摂せず、 念仏はこれ本願のゆゑにこれを照摂す。 ゆゑに善導和尚 ¬六時礼讃¼ にいはく、 「▲弥陀の身色金山のごとし、 相好の光明十方を照らし、 ただ念仏蒙光摂あり、 まさに知るべし本願もつとも強きとす」 と。 以上
二ニハ本願ノ義、謂ク余行非本願ノ故ニ不↣照↢摂之↡、念仏ハ是本願ノ故ニ照↢摂之↡。故ニ善導和尚¬六時礼讃ニ¼云、「弥陀身色如↢金山↡、相好光明照↢十方↡、唯有↢念仏蒙光摂↡、当↠知本願最為↠強。」已上
また所引の文中 (定善義) に 「▲自余衆行雖名是善、 若比念仏者全非比挍也」 といふは、 意のいはく、 これ浄土門の諸行に約して比論するところなり。 念仏はこれすでに二百一十億のなかに選び取るところの妙行なり、 諸行はこれすでに二百一十億のなかに選び捨てるところの麁行なり、 ゆゑに全非比挍也といふ。 また念仏はこれ本願の行、 諸行はこれ非本願のゆゑに、 全非比挍也といふ。
又所引ノ文中ニ言↢「自余衆行雖名是善、若比念仏者全非比挍也」↡者、意ノ云、是約↢浄土門諸行ニ↡而所↢比論↡也。念仏ハ是既ニ二百一十億ノ中ニ所↢選取↡妙行也、諸行ハ是既ニ二百一十億ノ中0359ニ所↢選捨↡麁行也、故ニ云↢全非比挍也ト↡。又念仏ハ是本願ノ行、諸行ハ是非本願ノ故ニ、云↢全非比挍也ト↡。
三には↑親等の三義。 善導和尚 (定善義) 「▲問ひていはく、 つぶさに衆行を修して、 ただよく回向すればみな往生を得。 なにをもつてか仏光あまねく照らすにただ念仏者を摂するは、 なんの意かあるや。 ◆答へていはく、 これに三義あり。
三ニ者親等ノ三義。善導和尚「問テ曰ク、備修↢衆行↡、但能ク廻向皆得↢往生↡。何ヲ以仏光普ク照唯摂↢念仏者↡、有↢何意↡哉。答曰ク、此ニ有↢三義↡。
◆一には親縁を明かす。 衆生行を起し口につねに仏を称すれば、 仏すなはちこれを聞きたまふ。 身につねに仏を礼敬すれば、 仏すなはちこれを見たまふ。 心につねに仏を念ずれば、 仏すなはちこれを知りたまふ。 衆生仏を憶念すれば、 仏また衆生を憶念したまふ。 彼此の三業あひ捨離せず。 ゆゑに親縁と名づく」 と。 以上 衆生仏を念ぜずは、 仏衆生と遥疎なり 云々。
一ニハ明↢親縁↡。衆生起↠行ヲ口常称↠仏ヲ、仏即聞↠之ヲ。身ニ常ニ礼↢敬レバ仏↡、仏即見↠之ヲ。心常ニ念↠仏、仏即知↠之ヲ。衆生憶↢念仏↡者、仏亦憶↢念衆生↡。彼此ノ三業不↢相捨離↡。故ニ名↢親縁↡也。」已上 衆生不↠念↠仏、仏与↢衆生↡遥疎也 云云。
二には近縁を明かす。 「▲衆生仏を見んと願ずれば、 仏すなはち念に応じて現に目前にまします。 ゆゑに近縁と名づく」 と。 云々 衆生仏を念ぜずは、 仏と衆生と遥遠なり。 これにつきて二意あり。 一に↓平生、 二には↓臨終。
二ニハ明↢近縁↡。「衆生願↠見↠仏、仏即応↠念現在↢目前ニ↡。故ニ名↢近縁ト↡也。」云云 衆生不↠念↠仏、仏ト与↢衆生↡遥遠ナリ。付↠之ニ有↢二意↡。一ニ平生、二ニハ臨終。
一に↑平生とは、 もし人仏を念ぜば、 阿弥陀仏無数の化身・化観世音・化大勢至、 まさに来りてこの行人の所に至る 云々。 念仏の草庵少なりといへども、 恒沙の聖衆雲集し、 菴羅園の華座に同じ。 三昧の道場校しといへども、 無数の賢聖側塞等し。 霊鷲山の苔の庭、 十万億刹土遠からず、 咫尺往来のごとし、 一間方丈の室校からず、 太虚のごとく宛満す。 もし人仏を念ぜずは、 恒沙の聖衆一人も来らず、 無数の化仏一仏も来らず。 されば仏と極遠なるがゆゑに、 光明摂取せず。 仏を念ずれば、 仏行者の身に近きがゆゑに、 光明摂取するなり。 今日禅門・禅尼、 同念・同称の人、 みな称仏して近し 云々。
一ニ平生ト者、若人念↠仏ヲ、阿弥陀仏無数化身・化観世音・化大勢至、当来至↢此行人之所↡ 云云。念仏草庵雖↠少ト、恒沙ノ聖衆雲集、同↢菴羅園之華座↡。三昧之道場雖↠校、無数ノ賢聖側塞等。霊鷲山ノ苔ノ庭、十万億刹土不↠遠、如↢咫尺往来↡、一間方丈ノ室不↠校、如↢太虚↡宛満。若人不↠念↠仏者、恒沙聖衆一人不↠来、無数化仏一仏不↠来。作レバ与↠仏極遠ナルガ故ニ、光明不↢摂取↡。念↠仏者、仏近↢行者身↡故ニ、光明摂取也。今日禅門・禅尼、同念0360・同称之人、皆称仏近 云云。
二に↑臨終とは、 一切念仏の行人、 命終らんと欲する時仏来迎したまふ。 九品の行人、 一人としてむなしからず仏来迎したまふ 云々。 仏の来迎に預らんと欲はば、 諸行を廃して念仏を修せよ。
二ニ臨終ト者、一切念仏行人、命欲↠終ント時仏来迎。九品行人、一人不↠空仏来迎 云云。欲↠預↢仏来迎↡、廃↢諸行↡修↢念仏↡。
三には増上縁を明かす。 「▲衆生称念すれば、 すなはち多劫の罪を除く。 命終らんと欲する時、 仏、 聖衆とみづから来り迎接して、 もろもろの邪業繋よく礙ぐるものなし。 ゆゑに増上縁と名づく」 と。 (定善義) 以上 「△自余の衆行これ善と名づくといへども、 もし念仏に比すればまつたく比挍にあらず」 と。 (定善義) この文によるに、 諸行を廃して念仏に帰すべし 云云。
三ニハ明↢増上縁↡。「衆生称念レバ、即除↢多劫ノ罪↡。命欲↠終ント時、仏与↢聖衆↡自来迎接シテ、諸ノ邪業繋無↢能者↡。故ニ名↢増上縁↡也。」已上 「自余ノ衆行雖↠名↢是善↡、若比レバ↢念仏↡者全ク非↢比挍↡也。」依↢此ノ文ニ↡、廃↢諸行↡可↠帰↢念仏↡ 云云。
入文解釈 王宮会 流通分 諸文輔助 第十二観観文
二に、 ↑第十二観 (観経) に 「▲無量寿仏化身無数、 観世音・大勢至とつねに来りてこの行人の所に至りたまふ」 と。 云々
二、第十二観「無量寿仏化身無数、与↢観世音・大勢至↡常来テ至↢此行人之所↡。」云云
善導の釈 (礼讃) にいはく、 「▲もし称礼して阿弥陀仏を念じ、 願じてかの国に往生せんとすれば、 かの仏すなはち無数の化仏、 無数の化観世音・化大勢至菩薩を遣はして、 行者を護念したまふ。 また前の二十五菩薩等と百重千重に行者を囲遶し、 行住坐臥、 一切時処を問はず、 もしは昼もしは夜、 つねに行者を離れたまはず。 ◆いますでにこの勝益あり、 馮むべし 云々。 願はくはもろもろの行者、 おのおのすべからく至心に往くことを求むべし」 と。 云々 ゆゑに諸行を廃し念仏の一門に帰すべし。
善導釈ニ云、「若称礼念↢阿弥陀仏↡、願往↢生彼国↡者、彼仏即遣↢無数ノ化仏、無数化観世音・化大勢至菩薩↡、護↢念行者↡。復与↢前ノ二十五菩薩等↡百重千重囲↢遶行者ヲ↡、不↠問↢行住坐臥、一切時処↡、若ハ昼若夜、常ニ不↠離↢行者ヲ↡。今既ニ有↢斯ノ勝益↡、可↠馮 云云。願ハ諸ノ行者、各ノ須ク↢至心ニ求↟往。」云云 故ニ廃↢諸行ヲ↡可↠帰↢念仏ノ一門↡。
入文解釈 王宮会 流通分 諸文輔助 下品上生文一
三に↑下品上生 (観経) に 「▲智者また合掌叉手して南無阿弥陀仏と称せしむ」 等と。 云々。
三ニ下品上生「智者復教↣合掌叉手称↢南無阿弥陀仏↡」等 云云。
善導和尚 (散善義) 「▲問ひていはく、 なんがゆゑぞ、 経を聞くこと十二部、 ただ罪千劫を除き、 称仏一声、 すなはち罪五百万劫を除くは、 なんの意や。 ◆答へていはく、 造罪の人障り重し、 加ふるに死苦来り逼むるをもつてす。 善人多経を説くといへども、 餐受の心浮散す。 心の散ずるによるがゆゑに、 罪を除くことやや軽し。 また仏名はこれ一、 すなはちよく散を摂するがゆゑに心を住するをもつてす。 また教へて正念にせしめて称名す。 心重きによるがゆゑに、 すなはちよく罪多劫を除く」 と。 云々
善導和尚「問テ曰ク、何ガ故ゾ、聞↠経十二部、但除↢罪千劫↡、称仏一声、即除↢罪五百万劫↡者、何ニ意也。答曰ク、造罪之人障重、加以↢死苦来逼↡。善人雖0361↠説↢多経ヲ↡、餐受之心浮散。由↢心ノ散↡故ニ、除クコト↠罪ヲ稍軽シ。又仏名是一、即能ク摂↠散ヲ故ニ以↠住↠心。復教令↢正念↡称名。由↢心重ニ↡故ニ、即能ク除↢罪多劫↡也。」云云
懐感、 臨終にただ念仏門を教ふ 別にあり。 また ¬観念法門¼ のなかに下品上生をもつて念仏往生となす、 聞経の功徳を取らず 云々。 この文をもつてこれを案ずるに、 もろもろの往生経のなかに念仏最勝なり。 ゆゑに諸行を廃して念仏に帰すべきなり。
懐感臨終但教↢念仏門↡。在別 又¬観念法門ノ¼中ニ以↢下品上生↡為↢念仏往生↡、不↠取↢聞経功徳↡ 云云。以↢此文ヲ↡案ルニ↠之、諸ノ往生経ノ中ニ念仏最勝也。故ニ廃↢諸行ヲ↡帰↢念仏ニ↡也。
入文解釈 王宮会 流通分 諸文輔助 下品上生文二
四に↑同じき下品上生の化仏称讃行者の文 (観経) にいはく、 「▲なんぢ仏名を称するゆゑに諸罪消滅す。 われ来りてなんぢを迎ふ」 とは、 善導釈して (散善義) いはく、 「▲三には所聞の化讃を明かすに、 ただ称仏の功を述べ、 われ来りてなんぢを迎ふとのたまひて聞経の事を論ぜず。 ◆しかるに仏願の意に望むれば、 ただ正念称名を勧む、 往生の義疾きこと雑散の業に同じからず。 かくのごとく ¬経¼ および諸部のなかに、 処々に広く歎じて、 勧めて称名せしむ。 まさに要益とするなり」 と。 云々
四ニ同下品上生化仏称讃行者ノ文ニ云、「汝称↢仏名↡故ニ諸罪消滅ス。我来迎↠汝」者、善導釈シテ云、「三ニハ明↢所聞化讃↡、但述↢称仏之功↡、我来迎↠汝不↠論↢聞経之事↡。然ニ望↢仏願意↡者、唯勧↢正念称名↡、往生義疾不↠同↢雑散之業↡。如↠此ノ¬経¼及ビ諸部ノ中ニ、処処広ク歎ジテ、勧令↢称名↡。将ニ為↢要益↡也。」云云
入文解釈 王宮会 流通分 諸文輔助 下品中生文
五に↑下品中生、 阿弥陀仏の功徳を説くために 云々。 次に 「▲この人聞きおはりて八十億劫の生死の罪を除く」 (観経) 等は、 善導釈 (散善義) していはく、 「▲罪人すでに弥陀の名号を聞き、 すなはち罪多劫を除くことを明かす」 と。 云々 この文によりて諸行を廃すべし等 云々。
五ニ下品中生、為↠説↢阿弥陀仏功徳↡ 云云。次ニ「此人聞キ已テ除↢八十億劫生死之罪↡」等者、善導釈云、「明↧罪人既聞↢弥陀名号↡、即除↦罪多劫↥。」云云 依↢此文↡廃↢諸行↡等 云云。
入文解釈 王宮会 流通分 諸文輔助 下品下生文
六に↑下品下生は (観経) 「▲善知識種々に安慰してために妙法を説く」 等とは、 善導釈して (散善義) いはく、 「▲四に善人安慰して教へて念仏せしむることを明かす。 ◆五に罪人死苦来り逼め仏名を念ずることを得るによしなきことを明かす。 ◆六に善友苦しみて失念すと知りて、 教を転じて口に弥陀の名号を称せしむることを明かす。 ◆七に念仏の多少、 声々無間なることを明かす。 ◆八に罪多劫を除く。 ◆九に臨終称念を明かしすなはち金華来り応ず」 と。 云々
六ニ下品下生ハ「善知識種種安慰為ニ説↢妙法↡」等ト者、善導釈シテ云、「四ニ明↣善人安慰シテ教テ令↢念仏↡。五ニ明↢罪人死苦来逼無↟由↠得↠念↢仏名↡。六ニ明0362↢善友知苦失念、転教口称弥陀名号↡。七ニ明↢念仏ノ多少、声声無間↡。八ニ除↢罪多劫↡。九ニ明↢臨終正念↡即有↢金華来応↡。」云云
恵心の釈 (要集巻下) にいはく、 「▲極重悪人無他方便」 と。 云々 いまこの文によりて、 念仏をもつて孝養等の善に望むるに、 念仏は勝、 孝養は劣なり。 あに逆罪のもの、 臨終に孝養の行を行じて往生を期せん。 ゆゑに孝養等の劣行を廃して、 殊勝の念仏の行につくべし 云々。
恵心ノ釈云、「極重悪人無他方便。」云云 今依↢此ノ文ニ↡、以テ↢念仏↡望↢孝養等善↡、念仏ハ勝、孝養劣也。豈逆罪ノ者、臨終行↢孝養ノ行↡期↢往生↡。故廃↢孝養等劣行ヲ↡、殊勝ノ可↠付↢念仏ノ行ニ↡ 云云。
入文解釈 王宮会 流通分 諸文輔助 得益分文
七に ↑「若念仏者即是人中、 乃至生諸仏家」 (観経) 等とは、 善導の釈に (散善義) にいはく、 「五に若念仏者より下生諸仏家に至るこのかたは、 まさしく念仏三昧の功能超絶して、 実に雑善比類とすることを得るにあらざることを顕す。 すなはちその五あり。 一にはもつぱら弥陀仏の名を念ずることを明かす。 二には能念の人を指讃することを明かす。 三にはもしよく相続して念仏するものを明かす、 この人はなはだ希有とす、 さらに物のもつてこれに方ぶべきものなし、 ゆゑに分陀利を引きて喩へとす。
七ニ○「若念仏者即是人中、乃至生諸仏家」等ト者、◇善導ノ釈ニ云、「五ニ従↢若念仏者↡下至↢生諸仏家↡已来ハ、正ク顕↧念仏三昧功能超絶、実ニ非↦雑善得↞為↢比類↡。即有リ↢其ノ五↡。◇一ニハ明↣専念↢弥陀仏名↡。二ニハ明↢指讃能念之人↡。三ニハ明↢若能相続念仏者↡、此ノ人甚ダ為↢希有↡、更ニ無↣物可↢以テ方↟之、故ニ引↢分陀利↡為↠喩ト。
分陀利といふは、 人中の好華と名づけ、 または希有華と名づけ、 または人中の上々華と名づけ、 または人中の妙好華と名づく。 この華相伝して蔡華と名づく。 これもし念仏のものは、 すなはちこれ人中の好人、 人中の妙好人、 人中の上々人、 人中の希有人、 人中の最勝人なり。
◇言↢分陀利↡者、名↢人中好華↡、亦ハ名↢希有華↡、亦ハ名↢人中上上華ト、亦ハ名↢人中妙好華ト。此ノ華相伝シテ名↢蔡華ト↡。是若念仏ノ者、即是人中ノ好人、人中ノ妙好人、人中ノ上上人、人中ノ希有人、人中ノ最勝人也。
四に専念弥陀名を明かすとは、 すなはち観音・勢至つねに随逐影護し、 または親友知識のごとくなり。 五に今生にすでにこの益を蒙ることを明かす、 命を捨ててすなはち諸仏の家に入る。 すなはち浄土これなり。 かしこに到りて、 長時に法を聞き、 歴事供養し因円果満して、 道場の座、 あに賖ならんや」 と。 以上
◇四ニ明↢専念弥陀名↡者、即観音・勢至常ニ随逐影護、亦ハ如↢親友知識ノ↡也。五ニ明↣今生既ニ蒙↢此益↡、捨↠命ヲ即入↢諸仏之家↡。即浄土是也。到↠彼ニ、長時聞↠法、歴0363事供養因円果満シテ、道場之座、豈賖。」已上
入文解釈 王宮会 後述
わたくしに問ひていはく、 ¬経¼ (観経) にいはく、 「若念仏者。 まさに知るべし、 この人は」 と、 ただ念仏者に約してこれを讃歎す。 釈家なんの意ありてか、 (散善義) 「実非雑善得為比類」 といひて、 雑善に相対して独り念仏を歎むるや。
◇私ニ問テ曰ク、¬経ニ¼云、「若念仏者。当ニ↠知ル、此ノ人ハ」、唯約↢念仏者↡而讃↢歎之↡。釈家有↢何意↡、云↢「実非雑善得為比類」↡、相↢対雑善ニ↡独リ歎↢念仏↡乎。
答へていはく、 文中に隠れたりといへども、 義の意これあきらかなり。 知るゆゑは、 この ¬経¼ はすでに定散の諸善 ならびに 念仏の行を説きそのなかにおいて孤り念仏を標してもつて分陀利に喩ふ。 雑善を待つにあらずは、 いかんがよく念仏の功、 余の諸善の行に超ゆることを顕さん。
◇答曰ク、文中ニ雖↠隠リト、義ノ意是明ナリ。所↢以ヘ知↡者、此ノ¬経ハ¼既ニ説↢定散ノ諸善 并ニ 念仏ノ行ヲ↡而於↢其ノ中ニ↡孤リ標↢念仏↡以テ喩↢分陀利ニ↡。非↠待↢雑善↡、云何能ク顕↣念仏功超↢余ノ諸善ノ行↡。
しかればすなはち 「△念仏のものは、 すなはちこれ人中の好人」 (散善義) とは、 これ悪に待して美むるところなり。 (散善義) 「人中の妙好人」 といふは、 これ麁悪に待して称むるなり。 (散善義) 「人中の上々人」 とは、 これ下々に待して讃むるところなり。 (散善義) 「人中の希有人」 といふは、 これ常有に待して歎むるところなり。 (散善義) 「人中の最勝人」 といふは、 これ最劣に待して褒むるところなり。
◇然レバ則チ「念仏ノ者ハ、即チ是人中ノ好人ト」者、是待↠悪ニ而所↠美也。言↢「人中妙好人」↡者、是待↢麁悪ニ↡所↠称ル也。言↢「人中上上人」↡者、是待↢下下↡而所↠讃ル也。言↢「人中希有人」↡者、是待↢常有↡而所↠歎ル也。言↢「人中最勝人」↡者、是待↢最劣ニ↡而所↠褒ル也。
問ひていはく、 すでに念仏をもつて上々と名づけば、 なんがゆゑぞ上々品のなかに説かず下々品に至りて念仏を説くや。
◇問テ曰、既ニ以↢念仏↡名↢上上ト↡者、何ガ故ゾ不↠説↢上上品中↡至↢下下品↡而説↢念仏ヲ↡乎。
答へていはく、 あに前にいはずや、 念仏の行広く九品に亘ると。 すなはち前に引くところの ¬往生要集¼ (巻下) にいはく、 「その勝劣に随ひて九品を分つべし」 とこれなり。 しかのみならず下品下生はこれ五逆重罪の人なり。 しかるによく逆罪を除滅するは、 余行に堪へざるところなり。 ただ念仏の力のみありて、 よく堪へて重罪を滅す。 ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。
◇答曰ク、豈前ニ不↠云ハ、念仏之行広ク亘↢九品ニ↡。即チ前ニ所↠引¬往生要集ニ¼云、「随↢其ノ勝劣ニ↡応↠分↢九品ヲ↡」是也。◇加之下品下生ハ是五逆重罪之人也。而能ク除↢滅逆罪ヲ↡、所↠不↠堪↢余行ニ↡也。唯有↢念仏之力↡、能ク堪滅↢重罪ヲ↡。故ニ為↢極悪最下之人ノ↡所↠説↢極善最上之法ヲ↡。
例せばかの無明淵源の病、 中道府蔵の薬にあらずがごときはすなはち治することあたず。 いまこの五逆重病の淵源は、 またこの念仏霊薬の府蔵なり。 この薬にあらざれば、 なんぞこの病を治せん。
◇例バ如↣彼ノ無明淵源之病、非↢中道府蔵之薬ニ↡即不0364↠能ハ↠治ルコト。◇今此ノ五逆重病ノ淵源ハ、亦此念仏霊薬府蔵。非↢此ノ薬ニ↡者、何ゾ治ン↢此ノ病ヲ↡。
ゆゑに弘法大師 ¬二教論¼ (巻下) に ¬六波羅蜜経¼ を引きていはく、 「第三に法宝とは、 いはゆる過去無量の諸仏の所説の正法、 およびわれいま説くところなり。 いはゆる八万四千のもろもろの妙法薀なり。
◇故ニ弘法大師¬二教論ニ¼引↢¬六波羅蜜経ヲ¼↡云ク、「第三法宝ト者、所↠謂過去無量ノ諸仏ノ所説正法、及ビ我今所↠説。所↠謂ハ八万四千ノ諸ノ妙法薀。
乃至有縁の衆生を調伏し純熟して阿難陀等の諸大弟子をして、 ひとたび耳に聞きてみなことごとく憶持せしむ。 摂して五分となす。 一には素呾纜、 二には毘奈耶、 三には阿毘達磨、 四には般若波羅蜜多、 五には陀羅尼門なり。
◇乃至調↢伏純↣熟有縁衆生↡而令↧阿難陀等諸大弟子、一聞↢於耳↡皆悉憶持↥。摂シテ為↢五分ト↡。一ニハ素呾纜、二ニハ毘奈耶、三ニハ阿毘達磨、四ニハ般若波羅蜜多、五ニハ陀羅尼門ナリ。
この五種の蔵、 有情を教化して、 所応に随ひて度せんがためにこれを説く。 もしかの有情、 山林に楽ひ処し、 つねに閑寂に居して静慮を修せんには、 しかもかれがために素呾纜蔵を説く。
◇此ノ五種ノ蔵教↢化有情ヲ↡、随↢所応ニ↡度而為ニ説↠之。若シ彼ノ有情楽↢処山林↡、常居↢閑寂↡修↢静慮↡者、而為↠彼ガ説↢素呾纜蔵ヲ↡。
もしかの有情、 威儀を楽ひ習ひ正法を護持して、 一味和合して久住を得しめんには、 しかもかれがために毘尼耶蔵を説く。
◇若シ彼ノ有情楽↢習威儀↡護↢持正法↡、一味和合シテ令↠得↢久住↡、而為ニ彼ガ説↢毘尼耶蔵ヲ。
もしかの有情、 正法を楽ひ説き、 性相を分別して、 修環研覈し究竟甚深ならんには、 しかもかれがために阿毘達磨蔵を説く。
◇若シ彼ノ有情楽↠説↢正法↡、分↢別性相↡、修環研覈究竟甚深、而為↠彼ガ説↢阿毘達磨蔵ヲ↡。
もしかの有情、 大乗真実の智恵を楽ひ習ひ、 我法において執着を離れ分別せんには、 しかもかれがために般若波羅蜜多蔵を説く。
◇若シ彼ノ有情楽↢習大乗真実ノ智恵↡、離↧於↢我法↡執着↥分別、而為↠彼ガ説↢般若波羅蜜多蔵↡。
もしかの有情、 契経・調伏・対法・般若を受持することあたはず、 あるいはまた有情、 もろもろの悪業を造る。 四重・八重・五無間罪・謗方等経・一闡提等の種々の重罪、 すなはち銷滅し、 すみやかに解脱し、 頓く涅槃を悟らん、 しかもかれがために諸陀羅尼蔵を説く。
◇若シ彼ノ有情不↠能ハ受↢持契経・調伏・対法・般若ヲ↡、或ハ復有情造↢諸ノ悪業↡。四重・八重・五無間罪・謗方等経・一闡提等種種重罪、便得↢銷滅↡、速ニ解脱、頓ニ悟↢涅槃↡、而為ニ↠彼ガ説↢諸陀羅尼蔵ヲ↡。
この五蔵、 たとへば乳・酪・生・熟蘇および妙醍醐のごとし。 契経は乳のごとく、 調伏は酪のごとく、 対法教はかの生穌のごとく、 大乗般若はなほし熟穌のごとく、 総持門とはたとへば醍醐のごとし。
◇此ノ五蔵、辟バ如↢乳・酪・生・熟蘇及ビ妙醍醐↡。契経ハ如↠乳ノ、調伏ハ如↠酪ノ、対法教者0365如↢彼ノ生穌ノ↡、大乗般若ハ猶シ如↢熟穌ノ↡、総持門ト者辟バ如↢醍醐ノ↡。
醍醐の味、 乳・酪・熟蘇のなかに微妙第一なり。 よく諸病を除きもろもろの有情をして身心安楽ならしむ。 総持門とは契経等のなかにもつとも第一とす。 よく重罪を除きもろもろの衆生をして生死を解脱しすみやかに涅槃安楽の発心を証せしむ」 と。 以上
◇醍醐之味、乳・酪・熟蘇ノ中ニ微妙第一。能ク除↢諸病↡令↢諸ノ有情ヲシテ身心安楽↡。総持門ト者契経等ノ中ニ最モ為↢第一↡。能ク除↢重罪ヲ↡令↧諸衆生解↢脱生死↡速ニ証↦涅槃安楽発心↥。」已上
このなかに、 五無間罪とはこれ五逆罪なり。 すなはち醍醐の妙薬にあらずは、 五無間の病はなはだ療しがたしとす。 念仏もまたしかなり。 往生教のなかに念仏三昧これ総持のごとく、 または醍醐のごとし。 または念仏三昧醍醐の薬にあらずは、 五逆深重の病はなはだ治しがたしとす。 知るべし。
◇此ノ中ニ、五無間罪ト者是五逆罪也。即非↢醍醐之妙薬↡者、五無間ノ病甚ダ為↠難↠療。念仏亦然ナリ。往生教ノ中ニ念仏三昧是如↢総持ノ↡、亦ハ如↢醍醐ノ↡。亦ハ非↢念仏三昧醍醐之薬ニ↡者、五逆深重ノ病甚ダ為↠難↠治。応↠知ル。
問ひていはく、 もししからば下品上生はこれ十悪軽罪の人なり。 なんがゆゑぞ念仏を説くや。
◇問テ曰ク、若シ爾者下品上生ハ是十悪軽罪之人ナリ。何ガ故ゾ説↢念仏↡。
答へていはく、 念仏三昧、 重罪なほ滅す。 いかにいはんや軽罪をや。 余行はしからず。 あるいは軽を滅して重を滅せざるあり。 あるいは一を消して二を消せざるあり。 念仏はしからず。 軽重兼ねて滅す、 一切あまねく治す。 たとへば阿伽陀薬のごとくあまねく一切の病を治す。 ゆゑに念仏をもつて王三昧となす。
◇答曰ク、念仏三昧、重罪尚滅ス。何ニ況ヤ軽罪ヲ哉。余行ハ不↠然ラ。或ハ有↠滅↠軽而不↠滅↠重。或ハ有↠消↠一ヲ而不↠消↠二ヲ。念仏ハ不↠然ラ。軽重兼テ滅ス、一切遍ク治ス。辟バ如↢阿伽陀薬ノ↡徧ク治↢一切ノ病ヲ↡。故ニ以↢念仏↡為↢王三昧ト↡。
およそ九品の配当はこれ一往の義なり。 五逆の回心上々に通ず。 読誦の妙行また下々に通ず。 十悪軽罪・破戒次罪おのおの上下に通じ、 解第一義・発菩提心また上下に通ず。 一法におのおの九品あり。 もし品に約せばすなはち九々八十一品なり。
◇凡ソ九品ノ配当ハ是一往ノ義ナリ。五逆ノ廻心通↢於上上ニ↡。読誦ノ妙行亦通↢下下ニ↡。十悪軽罪・破戒次罪各ノ通↢上下ニ↡、解第一義・発菩提心亦通↢上下ニ↡。一法ニ各ノ有リ↢九品↡。若シ約バ↠品ニ即チ九九八十一品也。
しかのみならず迦才 (浄土論巻上) のいはく、 「衆生の起行すでに千殊あり。 往生見土また万別あり」 と。 一往の文を見て封執を起すことなかれ。 そのなかに念仏はこれすなはち勝行なるがゆゑに、 芬陀利を引きて、 もつてその喩となす。 辟の意知るべし。
◇加之迦才ノ云、「衆生起行既ニ有↢千殊↡。往生見土亦有↢万別↡。」見↢一往ノ文ヲ↡莫↠起スコト↢封執ヲ↡。◇其ノ中ニ念仏ハ是即勝行ナルガ故ニ、引↢芬陀利ヲ↡、以テ為↢其ノ喩0366ト↡。辟ノ意応↠知ル。
しかのみならず念仏の行者、 観音・勢至、 影と形のごとくしばらくも捨離せず。 余行はしからず。 また念仏者は、 命を捨ておはりて後決定して極楽世界に往生す。 余行は不定なり。
◇加之念仏ノ行者、観音・勢至、如↢影与↟形暫ク不↢捨離↡。余行ハ不↠爾ラ。又念仏者、捨↠命ヲ已後決定シテ往↢生極楽世界ニ↡。余行ハ不定ナリ。
およそ五種の嘉誉を流し、 二尊の影護を蒙る、 これはこれ現益なり。 また浄土に往生して、 乃至成仏す、 これはこれ当益なり。
◇凡流↢五種嘉誉↡、蒙↢二尊ノ影護ヲ↡、此ハ是現益也。亦往↢生シ浄土ニ↡、乃至成仏ス、此ハ是当益也。
また道綽禅師念仏の一行において始終両益を立つ。 ¬安楽集¼ (巻下) にいはく、 「念仏の衆生は摂取して捨てたまはず、 寿尽きて必生す。 これを始益と名づく。 終益といふは、 ¬観音授記経¼ によらば、 阿弥陀仏の住世長久、 兆載永劫にしてまた滅度般涅槃の時あり。 ただ観音・勢至のみありて、 安楽を住持し、 十方を接引す。 その仏の滅度また住世の時節と等同なり。 しかるにかの国の衆生、 一切仏を覩見するものあることなし。 ただ一向にもつぱら阿弥陀仏を念じて往生するものありて、 つねに弥陀現に在して不滅なるを見ると。 これすなはちこれその終益なり」 と。 以上
◇又道綽禅師於↢念仏ノ一行ニ↡立↢始終両益ヲ↡。¬安楽集ニ¼云ク、「念仏衆生ハ摂取シテ不↠捨、寿尽テ必生ス。此ヲ名↢始益ト↡。◇言↢終益ト↡者、依↢¬観音授記経ニ¼、阿弥陀仏ノ住世長久、兆載永劫ニシテ亦有↢滅度般涅槃ノ時↡。唯有↢観音・勢至↡、住↢持シ安楽ヲ↡、接↢引十方ヲ↡。其ノ仏滅度亦与↢住世ノ時節↡等同ナリ。然ルニ彼ノ国ノ衆生、一切無↠有↧覩↢見仏↡者↥。◇唯有↧一向専念↢阿弥陀仏↡往生者↥、常ニ見↢弥陀現在不滅↡。此即是其ノ終益也。」已上
いまこの文によりて孝養等の麁行を廃し、 念仏に帰すべし 云々。 これはこれ極悪に対して極善を表す意なり。
今依↢此ノ文ニ↡廃↢孝養等ノ麁行↡、可↠帰↢念仏ニ↡ 云云。此ハ是対↢極悪ニ↡表↢極善ヲ↡意也。
次に上々品にまた念仏あり。 しからば ¬経¼ (観経) にいはく、 「▲一者至誠心、 二者深心、 三者回向発願心。 具三心者↓必生彼国」 と。 およそ三心は万行に通ずるゆゑに、 善導和尚この三心を釈するに、 正行・雑行の二行をもつてす。 いまこの ¬経¼の三心は、 すなはち本願の三心を開く。 しかるゆゑに 「▲至心」 (大経巻上) とは至誠心なり、 「▲信楽」 とは深心なり、 「▲欲生我国」 とは回向発願心なり。
次ニ上上品ニ又有↢念仏↡。爾ラ者¬経ニ¼云、「一者至誠心、二者深心、三者廻向発願心。具三心者必生彼国。」凡ソ三心ハ通↢万行ニ↡故ニ、善導和尚釈↢此ノ三心ヲ↡、以↢正行・雑行ノ二行↡。今此ノ¬経ノ¼三心ハ、即開↢本願ノ三心ヲ↡。爾ル故ニ「至心ト」者至誠心也、「信楽ト」者深心、「欲生我国ト」者廻向発願心也。
これをもつてこれを案ずるに、 「↑必生彼国」 の言は深意あるべきか。 必とは不必に対する言なり。 正行を修するものはかならずかの国に生じ、 雑行を修するものはかならずしもかの国に生ぜず。 人天等に通ずるがゆゑに。 また雑行を修して往生すること、 百がなかに一二、 千がなかに三五なり。 ゆゑに不必といふなり。 専を修するものは、 百はすなはち百生じ、 千はすなはち千生ず。 ゆゑに 「必生」 といふなり。
以↠之案↠之、「必0367生彼国」之言ハ可↠有↢深意↡歟。必ト者対↢不必ニ↡言也。修↢正行ヲ↡者必生↢彼ノ国ニ↡、修↢雑行ヲ↡者不↣必生↢彼ノ国ニ↡。通↢人天等ニ↡故ニ。又修↢雑行ヲ↡往生ルコト、百ガ中ニ一二、千ガ中ニ三五。故ニ云↢不必ト↡也。修↠専ヲ者、百ハ即百生ジ、千ハ即千生ズ。故ニ云↢「必生ト」也。
引くところの三心とは、 これ行者の至要・往生の目足なり。 ゆゑいはいかんとなれば、 ¬経¼ (観経) にすなはち 「具三心者必生彼国」 といふ。 あきらかに知りぬ三心を具すればかならず生ずることを得べし。 釈にすなはち (礼讃) 「若少一心即不得生」 といふ。 あきらかに知りぬ一少はこれさらに不可なり。 これによりて極楽に生ぜんと欲する人はまつたく三心を具足すべきなり。
○所↠引三心ト者、是行者ノ至要・往生ノ目足也。所以者何ナレバ、¬経ニ¼則チ云↢「具三心者必生彼国ト」↡。明ニ知ヌ具↢三心ヲ↡必応↠得↠生。釈ニ則チ云↢「若少一心即不得生ト」↡。明ニ知ヌ一少ハ是更不可ナリ。因↠茲ニ欲↠生ント↢極楽↡之人全ク可↣具↢足三心↡也。
そのなかに 「至誠心」 とはこれ真実心なり。 その相かの文のごとし。 ただし 「外現賢善精進之相、 内懐虚仮」 (散善義) とは、 外とは内に対する辞なり。 いはく外相と内心と不調の意。 すなはちこれ外智、 内痴なり。 賢とは愚に対する言なり。 いはく外はこれ賢、 内は愚なり。 善とは悪に対する辞なり。 いはく外はこれ善、 内はすなはち悪なり。 精進とは懈怠に対する言なり。 いはく外には精進の相を示し、 内はすなはち懈怠の心を懐くものなり。 もしそれ翻外畜内すれば、 ただ出要に備ふべし。
◇其ノ中ニ「至誠心ト」者是真実心也。其ノ相如↢彼ノ文ノ↡。◇但シ「外現賢善精進之相、内懐虚仮ト」者、外ト者対↠内ニ之辞也。謂ク外相ト与↢内心↡不調之意。即是外智、内痴也。賢ト者対↠愚ニ之言也。謂ク外ハ是賢、内ハ愚也。善ト者対↠悪ニ之辞也。謂ク外ハ是善、内ハ即チ悪也。精進ト者対↢懈怠↡之言也。謂ク外ニハ示↢精進ノ相ヲ↡、内即懐↢懈怠ノ心ヲ↡者。若夫翻外畜内者、祇応↠備↢出要↡。
内には虚仮を懐く等とは、 内とは外に対する辞なり。 いはく内心と外相と調はざる心なり。 すなはちこれ内虚、 外実なり。 虚とは実に対する言なり。 いはく内虚、 外実のものなり。 仮とは真に対する辞なり。 いはく内仮、 外真なり。 もしそれ翻内播外とは、 また出要に足るべし。
◇内ニハ懐↢虚仮↡等ト者、内ト者対↠外ニ之辞也。謂ク内心ト与↢外相↡不↠調之心。即是内虚、外実也。虚ト者対↠実之言也。謂ク内虚、外実ノ者也。仮ト者対↠真ニ之辞也。謂ク内仮、外真也。若シ夫翻内播外ト者、亦可↠足↢出要↡。
次に 「深心」 とは、 いはく深信の心なり。 まさに知るべし生死の家には疑をもつて所止となし、 涅槃の城には信をもつて能入となす。 ゆゑにいま二種の信心を建立して、 九品往生を決定するものなり。
◇次ニ「深心ト」者、謂ク深信之心。当ニ↠知0368ル生死之家ニハ以テ↠疑ヲ為↢所止ト↡、涅槃之城ニハ以↠信ヲ為↢能入ト↡。故ニ今建↢立二種ノ信心ヲ↡、決↢定九品往生ヲ↡者也。
またこのなか (散善義) に 「一切別解・別行・異学・異見」 等といふは、 これ聖道門の解行学見を指すなり。 その余はすなはちこれ浄土門の意なり。 文にありて見るべし。 あきらかに知りぬ善導の意また二門を出でざるなり。
◇又此ノ中ニ言↢「一切別解・別行・異学・異見」等ト↡者、是指↢聖道門ノ解行学見↡也。其ノ余ハ即チ是浄土門ノ意。在↠文可↠見。明ニ知ヌ善導之意亦不↠出↢二門ヲ↡也。
回向発願の義、 別の釈を俟つべからず。 行者これを知るべし。
◇廻向発願之義、不↠可↠俟ツ↢別釈↡。行者応↠知ル↠之ヲ。
この三心とは総じてこれをいはば、 もろもろの行法に通ず。 別してこれをいはば、 往生の行にあり。 いま通を挙げて別を摂す。 意すなはちあまねし 矣。 行者よく用心して、 あえて忽緒せしむることなかれ。
◇此ノ三心ト者総而言↠之ヲ、通↢諸ノ行法ニ↡。而別シテ言↠之ヲ、在↢往生ノ行ニ↡。今挙↠通ヲ摂↠別ヲ。意即周 矣 行者能ク用心シテ、敢テ勿↠令↢忽緒↡。
入文解釈 王宮会 証定
次に証定の文。 まづ他宗祖師 云々 「▲敬ひて一切有縁の知識等にまうさく。 余はすでにこれ生死の凡夫なり。 智恵浅短なり。 しかるに仏教幽微なれば、 あえてたやすく異解を生ぜず。 つひにすなはち心を標し結願して、 請ひて霊験を求む。 まさに造心すべし。 ▼一如経法に南無し帰命したてまつる。 知るべし」 (散善義意) と。
次ニ証定ノ文。先他宗祖師 云云 「敬白ク↢一切有縁ノ知識等↡。餘ハ既ニ是生死ノ凡夫。智恵浅短ナリ。然ニ仏教幽微、不↣敢テ輒ク生↢異解↡。遂即標シ↠心結願、請求↢霊験↡。方ニ可↢造心↡。南↢無帰↣命一如経法↡。応知。」
観無量寿経釈
寛永九 壬申 暦姑洗中旬
松屋 弥次兵衛
寛永九 壬申 暦姑洗中旬
松屋 弥次兵衛
延書は底本の訓点に従って有国が行った。 なお、 訓(ルビ)の表記は現代仮名遣いにしている。
底本は龍谷大学蔵寛永九年刊本 ¬三部経私記¼。
得益分 正宗分に含む。