本書は、 源空 (法然) 聖人の著述をはじめ、 講義録、 門弟等の質問に答えた御消息・法語、 問答などを集めた書である。 聖人の遺文は真筆が少ないが、 聖人示寂の早い段階から門弟達によって収集されて、 ¬法然上人伝記¼ (醍醐本) や ¬西方指南抄¼ などが成立した。 本書は、 ¬西方指南抄¼ の成立から十七、 八年後、 鎮西派三条流の祖である良忠門下の了恵道光によって編集された。
 本書は、 古くは 「語灯録」 と呼ばれていたが、 次第に漢語・和語・拾遺の別によって、 「漢語灯録」 「和語灯録」 「拾遺語灯録」 などと呼ばれるようになった。 構成は、 漢文体で記された 「漢語灯録」 十巻、 和文体で記された 「和語灯録」 五巻、 それぞれの続編である 「拾遺語灯録」 三巻からなる。 「拾遺語灯録」 は、 上巻が漢語、 中下巻が和語であるため、 漢語としては計十一巻、 和語としては計七巻である。
 本書の内容について、 「漢語灯録」 は、 (1)無量寿経釈 (巻一)、 (2)観無量寿経釈 (巻二)、 (3)阿弥陀経釈、 (4)浄土三部経如法経次第、 (5)如法念仏法則 (以上巻三)、 (6)選択本願念仏集 (巻四・五)、 (7)往生要集釈、 (8)往生要集略料簡、 (9)往生要集料簡、 (10)往生要集詮要 (以上巻六)、 (11)逆修説法 (巻七・八)、 (12)類聚浄土五祖伝、 (13)善導十徳 (以上巻九)、 (14)浄土宗略要文、 (15)浄土初学抄、 (16)没後起請文、 (17)七箇条起請文、 (18)送山門起請文、 (19)遣北陸道書状、 (20)遣兵部卿基親之返報、 (21)基親取信信本願之様、 (22)遣或人之返報 (以上巻十) の二十二篇である。
 「拾遺漢語灯録」 は、 (1)三昧発得記、 (2)浄土宗見聞・臨終日記、 (3)御教書御請 (以上拾遺巻上) の三篇である。
 「和語灯録」 は、 (1)三部経釈、 (2)御誓言の書、 (3)往生大要抄(以上巻一)、 (4)念仏往生要義抄、 (5)三心義、 (6)七箇条の起請文、 (7)念仏大意、 (8)浄土宗略抄 (以上巻二)、 (9)九条殿下の北政所へ進ずる御返事、 (10)鎌倉の二位の禅尼へ進ずる御返事、 (11)要義問答、 (12)大胡太郎実秀へつかはす御返事 (以上巻三)、 (13)大胡の太郎実秀が妻室のもとへつかはす御返事、 (14)熊谷の入道へつかはす御返事、 (15)津戸の三郎入道へつかはす御返事、 (16)黒田の聖へつかはす御返事、 (17)越中国光明房へつかはす御返事、 (18)正如房へつかはす御文、 (19)禅勝房にしめす御詞、 (20)十二の問答、 (21)十二箇条の問答 (以上巻四)、 (22)一百四十五箇条問答、 (23)上人と明遍との問答、 (24)諸人伝説の詞・御歌 (以上巻五) の二十四篇である。
 「拾遺和語灯録」 は、 (1)登山状、 (2)示或人詞、 (3)津戸三郎へつかはす御返事、 (4)示或女房法語 (以上拾遺巻中)、 (5)念仏往生義、 (6)東大寺十問答、 (7)御消息四通、 (8)往生浄土用心 (以上拾遺巻下) の八篇である。
 龍谷大学蔵元亨元年刊本 ¬和語灯録¼ (元亨版) の序によると、 源空聖人の遺文には真撰・偽撰の問題があり、 収録内容は慎重に検討されたようである。 本書には和漢の諸資料が収められているが、 繰り返し見られる特徴として、 選択本願の念仏を明らかにする点、 造悪無礙の誡め、 臨終来迎を説きつつ尋常・平生の念仏を強調する点、 聖道門と浄土門の相違について明示する点などが挙げられる。
 本書の原本は不明であるが、 元亨版 ¬和語灯録¼ 巻一の内題に 「巻第十一」、 金剛寺本 ¬和語灯録¼ 巻三の内題に 「巻第十三」 とあり、 古くから 「漢語灯録」 と 「和語灯録」 は一連のものであったと考えられる。 ただし、 十八巻が全て揃うのは良照義山の承徳五 (1715) 年に刊行された義山本以前に無い。 しかし、 慶証寺玄智が ¬浄土真宗教典志¼ にて、 義山本を新本、 改編前の古態を留めたものを古本と呼んで以来、 古本系統と新本系統に分けて考えられており、 現在では、 義山本は表現に止まらず内容を改竄した上で刊行されたものと評価されている。
 「和語灯録」 の成立については、 元亨版巻一の序に、 「時に文永十二年正月廿五日、 上人遷化の日、 報恩の心ざしをもて、 いふ事しか也」 と文永十二 (1275) 年成立の記述があるが、 巻七の跋文には 「およそ二十余年のあひだ、 あまねく花夷をたづね、 くはしく真偽をあきらめて、 これを取捨す」 とあり、 さらに奥書に 「元亨元年辛酉のとし、 ひとへに上人の恩徳を報じたてまつらんがため、 又もろもろの衆生を往生の正路におもむかしめんがために、 この和語の印版をひらく。 一向専修沙門   南無阿弥陀仏 円智 謹疏」 「沙門了恵、 感歎にたへず、 随喜のあまり七十九歳の老眼をのごひて、 和語七巻の印本を書之」 「元亨元年 七月八日終謹疏 法橋幸巌巻頭」 とある。 元亨元1321) 年七月に知恩院第十一世円智の手によって 「和語灯録」 の印板が開かれ、 その開版に際して了恵自身が筆をとったとされるが、 元亨版の筆致は了恵のものとは異なり、 了恵が見直したものを幸巌なる者が筆写したものと考えられる。 開版の事由については、 巻七尾題後の 「語灯録瑞夢事」 に述べられている。
 「和語灯録」 と 「拾遺語灯録」 を同時に編集したとすれば、 「和語灯録」 は了恵十一歳頃の成立となる。 あえて年時を古くして実際は晩年に編集したとする説、 「二十余年」 は了恵の修学年時とみる説など、 様々な見解があるが、 編集態度の違いから、 前者は文永十二年、 後者はそれから二十年ほど後の永仁三 (1295) 年頃の成立と見られ、 後跋は、 本書全体の跋となるように記されたものと考えられる。 なお、 「和語灯録」 の中世の写本としては大阪府金剛寺蔵本 (巻三) や京都府西法寺蔵本 (巻三) などの零本があり、 両本は了恵による文永十二年編集本と元亨版との中間に位置する書写本とも考えられている。 義山本以前の刊本としては、 寛永二十 (1643) 年刊本がある。
 「漢語灯録」 の成立については、 古本系統の完本としては恵空本転写本以前のものは現存していない。 恵空本には序が無いが、 義山本の序によれば、 文永十一 (1274) 年の記述があり、 その頃の成立と考えられる。 比較的古い写本としては第七巻のみの滋賀県浄厳院蔵永享二 (1430) 年隆堯写本があるが、 恵空本と内容が共通する。  恵空本の成立については、 各巻の末尾に 「元禄十一年寅冬朧月中旬写此巻畢/所持 恵空」 (巻三)、 「写本者義山公字↢三輪↡借↢出一本↡再以↢二尊院/之蔵本↡校↠之今以↢彼校本↡写↠之畢元禄十一年/八月写此巻校 恵空」 ()巻七、 「元禄十一年寅九月五日校合此巻竟 所持恵空」 (巻八)、 「此巻書写元禄七年戌極月九日之夜功畢 こんぽんハ和州三輪之/本書写之後以↢二尊院之蔵本↡校↢合之↡ 今写本ハ良点和尚ノ本也」 (巻十) とあり、 元禄七 (1694) 年に義山所持の大和国三輪本を書写原本とし、 了恵の原型に近いと考えられる二尊院本で校合して成立した。 また各巻の奥書には、 中世段階での書写記録が残り、 例えば、 巻八に 「本云嘉元四年八月五日以蓮花堂正本書写/了覚合」、 巻十に 「右此録者古本従来迎寺令恩借奉書写之矣願遠/伝末代広及諸人自他同生極楽世界必披見之貴/賎奉仰十念回向者也/于時明応元年二月一日 南无阿弥陀仏 円定和尚」 とある。 これから、 恵空本の原本は蓮花堂すなわち了恵の正本の筆写本を基としていること、 来迎寺に蔵されていたが、 明応元 (1492) 年に借り受けて書写・伝持されていたことなどがわかる。
 「拾遺語灯録」 については、 従来義山本しか知られていなかったが、 近年、 元禄十五 (1702) 年興誉恩哲書写の甲賀市水口図書館蔵本 (大徳寺本) が紹介され、 ¬法然上人伝記¼ (醍醐本) や ¬西方指南抄¼ との比較により、 中世に遡ることのできる一本と評価されている。