六(454)、 七箇条起請文
▲七箇条の起請文 第六
およそ往生浄土の人の要法はおほしといへど[も、] 浄土宗の大事は三心の法門にある也。 もし三心を具せざるものは、 日夜十二時に、 かふべの火をはらふがごとくにすれども、 つゐに往生をえずといへり。 極楽をねがはん人は、 いかにもして三心のやうを心えて、 念仏すべき也。 三心といふは、 一には至誠心、 二には深心、 三には廻向発願心なり。
まづ至誠心といふは、 大師釈しての給はく、 「至といふは真也、 誠といふは実也」 (散善義) といへり。 たゞ真実心を至誠心と善導はおほせられたる也。 真実といふは、 もろもろの虚仮の心のなきをいふ也。 虚仮といふは、 貪瞋等の煩悩をおこして、 正念をうしなふを虚仮心と称する也。
すべてもろもろの煩悩のおこる事は、 みなも0455と貪瞋を母として出生するなり。 貪といふについて、 喜足小欲の貪あり、 不喜足大欲の貪あり。
いま浄土宗に制するところは、 不喜足大欲の貪煩悩也。 まづ行者、 かやうの道理を心えて念仏すべき也。 これが真実の念仏にてある也。 喜足小欲の貪はくるしからず。 瞋煩悩も、 敬上慈下の心をやぶらずして、 道理を心えほどく也。 痴煩悩といふは、 おろかなる心也。 この心をかしこくなすべき也。 まづ生死をいとひ浄土をねがひて、 往生を大事といとなみて、 もろもろの家業を事とせざれば、 痴煩悩なき也。 少々の痴は、 往生のさわりにはならず。
これほど心えつれば、 貪瞋等の虚仮の心はうせて、 真実心はやすくおこる也。 これを浄土の菩提心といふ也。 詮ずるところ、 生死の報をかろしめ、 念仏の一行をはげむがゆへに、 真実心とはいふなり。
二に深心といふは、 ふかく念仏を信ずる心なり。 ふかく念仏を信ずといふは、 余行なく一向に念仏になる也。 もし余行をかぬれば、 深心かけたる行者といふ也。 詮ずるところ、 釈迦の 「浄土三部経」 は、 ひとへに念仏の一行をとくと心え、 弥陀の四十八願は、 称名の一行を本願とすと心えて、 ふた心なく念仏するを、 深心具足といふなり。
三0456に廻向発願心といふは、 无始よりこのかたの所作のもろもろの善根を、 ひとへに往生極楽といのる也。 又つねに退する事なく念仏するを、 廻向発願心といふなり。 これは専心の御義なり。 この心ならば、 至誠心・深心具足してのうゑに、 つねに念仏の数遍をすべし。 もし念仏退転せば、 廻向発願心かけたるもの也。
浄土宗の人は、 三心のやうをよくよく心えて念仏すべき也。 三心のなかに、 ひとつもかけなば、 往生はかなふまじき也。 三心具足しぬれば、 往生は无下にやすくなる也。 すべてわれらが輪廻生死のふるまひは、 たゞ貪瞋痴の煩悩の絆によりて也。 貪瞋痴おこらば、 なを悪趣へゆくべきまどひのおこりたるぞと心えて、 これをどゞむべき也。
しかれどもいまだ煩悩具足のわれらなれば、 かくは心えたれども、 つねに煩悩はおこる也。 おこれども▼煩悩をば心のまら人とし、 念仏をば心のあるじとしつれば、 あながちに往生をばさえぬ也。 煩悩を心のあるじとして、 念仏を心のまら人とする事は、 雑毒虚仮の善にて、 往生にはきらはるゝ也。 詮ずるところ、 前念・後念のあひだには、 煩悩をまじふといふとも、 かまえて南無阿弥陀仏の六字のなかに、 貪等の煩悩をおこすまじき也。
一 われは阿弥陀仏をこそたのみたれ、 念仏をこそ信じたれとて、 諸仏・菩薩の悲願0457をかろしめたてまつり、 法花・般若等の、 めでたき経どもをわろくおもひそしる事は、 ゆめゆめあるべからず。 よろづのほとけたちをそしり、 もろもろの聖教をうたがひそしりたらんずるつみは、 まづ阿弥陀の御心にかなふまじければ、 念仏すとも悲願にもれん事は一定也。
一 つみをつくらじと、 身をつゝしんでよからんとするは、 阿弥陀ほとけの願をかろしむるにてこそあれ。 又念仏をおほく申さんとて、 日々に六万遍なんどをくりゐたるは、 他力をうたがふにてこそあれといふ事のおほくきこゆる。 かやうのひが事、 ゆめゆめもちふべからず。
まづいづれのところにか、 阿弥陀はつみつくれとすゝめ給ひける。 ひとへにわが身に悪をもとゞめえず、 つみのみつくりゐたるまゝに、 かゝるゆくゑほとりもなき虚言をたくみいだして、 物もしらぬ男女のともがらを、 すかしほらかして罪業をすゝめ、 煩悩をおこさしむる事、 返々天魔のたぐひ也、 外道のしわざ也、 往生極楽のあだかたきなりとおもふべし。
又念仏のかずをおほく申すものを、 自力をはげむといふ事、 これ又ものもおぼへずあさましきひが事也。 たゞ一念・二念をとなふとも、 自力の心ならん人は、 自力の念仏とすべし。 千遍・万遍となふとも、 百日・千日、 よる・ひるはげみつむとも、 ひ0458とへに願力をたのみ、 他力をあふぎたらん人の念仏は、 声々念々しかしながら他力の念仏にてあるべし。 されば三心をおこしたる人の念仏は、 日々夜々、 時々克々にとなふれども、 しかしながら願力をあふぎ、 他力をたのみたる心にてとなへゐたれば、 かけてもふれても、 自力の念仏とはいふべからず。
一 三心と申す事は、 しりたる人の念仏に、 三心具足してあらん事は左右におよばず、 つやつや三心の名をだにもしらぬ无智のともがらの念仏には、 よも三心は具し候はじ。 三心かけば往生し候なんやと申す事、 きわめたる不審にて候へども、 これは阿弥陀ほとけの法蔵比丘のむかし、 五劫のあひだ、 よる・ひる心をくだきて案じたてゝ、 成就ささせ給ひたる本願の三心なれば、 あだあだしくいふべき事にあらず。
いかに無智ならん物もこれを具し、 三心の名をしらぬ物までも、 かならずそらに具せんずる様をつくらせ給ひたる三心なれば、 阿弥陀をたのみたてまつりて、 すこしもうたがふ心なくしてこの名号をとなふれば、 あみだほとけかならずわれをむかへて、 極楽にゆかせ給ふときゝて、 これをふかく信じて、 すこしもうたがふ心なく、 むかへさせ給へとおもひて念仏すれば、 この心がすなはち三心具足の心にてあれば、 たゞひらに信じてだにも念仏すれば、 すゞろに三心はある0459なり。
さればこそ、 よにあさましき一文不通のともがらのなかに、 ひとすぢに念仏するものは、 臨終正念にして、 めでたき往生どもをするは、 現に証拠あらたなる事なれば、 つゆちりもうたがふべからず。 なかなかよくもしらぬ三心沙汰して、 あしざまに心えたる人々は、 臨終のわろくのみありあひたるは、 それにてたれたれも心べきなり。
一 ときどき別時の念仏を修して、 心をも身をもはげましとゝのへすゝむべき也。 日々に六万遍を申せば、 七万遍をとなふればとて、 たゞあるもいはれたる事にてはあれども、 人の心ざまは、 いたく目もなれ耳もなれぬれば、 いそいそとすゝむ心もなく、 あけくれは心いそがしき様にてのみ、 粗略になりゆく也。 その心をためなおさん料に、 時々別時の念仏はすべき也。 しかれば、 善導和尚もねんごろにすゝめ給ふ、 恵心の往生要集にもすゝめさせ給ひたる也。
道場をもひきつくろひ、 花香をもまいらせん事、 ことにちからのたへむにしたがひてかざりまいらせて、 わが身をもことにきよめて道場にいりて、 あるいは三時、 あるいは六時なんどに念仏すべし。 もし同行なんどあまたあらん時は、 かはるがはるいりて不断念仏にも修すべし。 かやうの事は、 おのおのことがらにしたがひてはからふべし。
さ0460て善導のおほせられたるは、 「▲月の一日より八日にいたるまで、 あるいは八日より十五日にいたるまで、 あるいは十五日より廿三日にいたるまで、 あるいは廿三日より晦日にいたるまで」 (観念法門) とおほせられたり。 おのおのさしあはざらん時をはからひて、 七日の別時をつねに修すべし。 ゆめゆめすゞろ事どもいふ物にすかされて、 不善の心あるべからず。
一 いかにもいかにも最後の正念を成就して、 目には阿弥陀ほとけを見たてまつり、 口には弥陀の名号をとなへ、 心には聖衆の来迎をまちたてまつるべし。 としごろ日ごろ、 いみじく念仏の功をつみたりとも、 臨終に悪縁にもあひ、 あしき心もおこりぬるものならば、 順次の往生しはづして、 一生・二生なりとも、 三生・四生なりとも、 生死のながれにしたがひて、 くるしからん事はくちおしき事ぞかし。
されば、 善導和尚すゝめておほせられたる様は、 「▲願弟子等、 臨命終時 乃至 上品往生阿弥陀仏国」 (礼讃) とあり、 いよいよ臨終の正念はいのりもし、 ねがふべき事也。 臨終の正念をいのるは、 弥陀の本願をたのまぬ物なんど申すは、 善導にはいかほどまさりたる学生ぞとおもふべき也。 あなあさまし、 おそろしおそろし。
一 念仏は、 つねにおこたらぬが一定往生する事にてある也。 されば善導すゝめて0461の給はく、 「▲一発心已後、 誓畢此生无有退転。 唯以浄土為期」 (散善義)。 又云、 「▲一心専念弥陀名号、 行住坐臥不問時節久近念念不捨者、 是名正定之業、 順彼仏願故」 (散善義) 文 といへり。 かやうにすゝめましましたる事はあまたおほけれども、 ことごとくにかきのせず。 たのむべし、 あふぐべし。 さらにうたがふべからず。
一 げにげにしく念仏を行じて、 げにげにしき人になりぬれば、 よろづの人を見るに、 みなわが心にはおとりたり。 あさましくわろければ、 わが身のよきまゝには、 ゆゝしき念仏者にてある物かな、 たれたれにもすぐれたりと思ふ也。 この事をば、 よくよく心えてつゝしむべき事也。
世もひろし、 人もおほければ、 山のなか、 林のなかにこもりゐて、 人にもしられぬ念仏者の、 貴とくめでたき、 さすがにおほくあるを、 わがきかずしらぬにてこそあれ。 さればわれほどの念仏者、 よもあらじと思ふはひが事也。 大憍慢にてあれば、 それをたよりにて、 魔縁の付きて往生をさまたぐる也。
さればわが身のいみじくてつみをも滅し、 極楽へもまいらばこそあらめ、 ひとへに阿弥陀の願力にてこそ、 煩悩をも罪業をもほろぼしうしなひて、 かたじけなく弥陀ほとけの、 てづからみづからむかへとりて、 極楽へ返らせましますことなれ。
さればわがちからにて往生する事ならばこそ、 われかしこしと0462いふ慢心をばおこさめ。 憍慢の心だにもおこりぬれば、 たちどころに阿弥陀ほとけの願にはそむきぬるものなれば、 弥陀も諸仏も護念し給はずなるぬれば、 悪魔のためにもなやまさるゝ也。 返々も憍慢の心をおこすべからず。 あなかしこ、 あなかしこ。▽