(462)、 念仏大意

念仏ねんぶつたい 第七だいしち

末代まつだいあくしゅじょうおうじょうこころざしをいたさんにおきては、 またほかのつとめあるべからず、 たゞ善導ぜんどうしゃくについて一向いっこう専修せんじゅ念仏ねんぶつもんにいるべきなり。 しかるを一向いっこうしんをいたして、 そのもんにいるひとはきわめてありがたし。 そのゆへは、 あるいはほかぎょうこころをそめ、 あるいは念仏ねんぶつどくをおもくせざるなるべし。 つらつらこれをおもふに、 まことしくおうじょうじょうがんふかきこころをもはらにするひと、 ありがたきゆへか。 まづこのどうをよくよくこころべきなり

すべて天臺てんだい法相ほっそうきょうろんおしえも、 そのつとめをいたさんに、 ひとつとしてあだなるべきにはあらず。 たゞし仏道ぶつどうしゅぎょうは、 よくよくをはかり、 ときをはかるべきなり。 ぶつめつだいひゃくねんにだに、 智恵ちえをみがきて煩悩ぼんのうだんずることかたく、 こころをすましてぜんじょうをえんことかたきがゆへに、 ひとおほく0463念仏ねんぶつもんにいりけり。 すなはちどうしゃく善導ぜんどうとうじょうしゅうしょうにん、 このときひとなり。 いはんや、 このごろはだいひゃくねんとうじょうけんときなりほかぎょうほうさらにじょうじゅせんことかたし。 しかのみならず、 念仏ねんぶつにおきては、 末法まっぽうのゝちなをやくあるべし。

いはんや、 いまの末法まっぽう万年まんねんのはじめなり一念いちねん弥陀みだねんぜんに、 なんぞおうじょうをとげざらんや。 たとひわれこそ、 そのうつはものにあらずといふとも、 末法まっぽうのすゑのしゅじょうには、 さらにゝるべからず。

かつうはまたしゃくそんざいときすら、 即身そくしんじょうぶつにおきては、 りゅうにょのほかは、 いとありがたし。 たとひまた即身そくしんじょうぶつまでにあらずといふとも、 このしょうどうもんをおこなひあひたまひけんさつしょうもんたち、 そのほかの権者ごんじゃ・ひじりたち、 そのゝちの比丘びく比丘びくとういまにいたるまできょうろん学者がくしゃ、 ¬法花ほけきょう¼ のしゃ、 い[く]そばくぞや。 こゝにわれら、 なまじゐにしょうどうをまなぶといふとも、 かの人々ひとびとにはさらにおよぶべからず。

かくのごときの末法まっぽうしゅじょうを、 弥陀みだほとけかねてさとりたまひて、 こうのあひだゆいしてじゅう八願はちがんをおこしたまへり。 そのなかのだいじゅうはちがんにいはく、 「十方じっぽうしゅじょうこころをいたしてしんぎょうして、 わがくにゝむまれんとねがひて、 ないじゅうねんせんに、 もしむまれずといはば、 しょうがくをとらじ」 (大経巻上) とちかひたまひて、 すでにしょうがくをなりたまへり。

これをまたしゃくそんときたまへる ¬きょう¼、 すなは0464ち ¬かんりょう寿じゅ¼ とうの 「さんきょう」 なり。 しかれば、 たゞ念仏ねんぶつもんなり。たとひ悪業あくごうしゅじょうとう弥陀みだのちかひばかりに、 なをしんをいたさずといふとも、 しゃのこれを一々いちいちにときたまへる 「さんきょう」、 あにひとことばもむなしからんや。 そのうゑまた六方ろっぽう十方じっぽう諸仏しょぶつ証誠しょうじょう、 この ¬きょう¼ にえたり。 ほかぎょうにおきては、 か[く]のごときの証誠しょうじょうえず。

しかれば、 ときもすぎ、 もこたふまじからんぜんじょう智恵ちえしゅせんよりは、 やく現在げんざいして、 しかもそこばくのほとけたち証誠しょうじょうたまへる弥陀みだみょうごうしょうねんすべきなり

そもそも後世ごせしゃのなかに、 極楽ごくらくはあさく弥陀みだはくだれり、 するところ密厳みつごんぞうかいなりとこころをかくるひとはべるにや、 それはなはだおほけなし。 かのは、 だんみょうさつのほかはいることなし。 また一向いっこう専修せんじゅ念仏ねんぶつもんにいるなかにも、 日別にちべつ三萬さんまんべん、 もしはまんべん六万ろくまんべんないじゅうまんべんといふとも、 これをつとめおはりなんのち、 年来ねんらいじゅ読誦どくじゅこうつもりた[る]しょきょうをもよみたてまつらんこと、 つみ[に]なるべきかとしんをなして、 あざむくともがらもまじはれり。 それはつみになるべきにては、 いかでかははべるべき。

末代まつだいしゅじょう、 そのぎょうじょうじゅしがたきによりて、 まづ弥陀みだ願力がんりきにのりて、 念仏ねんぶつおうじょうをとげてのち、 じょうにて弥陀みだ如来にょらい観音かんのんせい0465にあひたてまつりて、 もろもろの聖教しょうぎょうをもがくし、 さとりをもひらくべきなり。 また末代まつだいしゅじょう念仏ねんぶつをもはらにすべきこと、 そのしゃくおほかるなかに、 かつうは十方じっぽう恒沙ごうじゃのほとけ証誠しょうじょうたまふ。

また ¬かんぎょうしょ¼ の第三だいさん (定善義) 善導ぜんどうたまはく、 「自余じよしゅぎょうすいみょうぜんにゃく念仏ねんぶつぜんきょう是故ぜこしょきょうちゅう処々しょしょ広讃こうさん念仏ねんぶつのうにょ ¬りょう寿じゅきょう¼ じゅう八願はちがんちゅうゆいみょう専念せんねんみょうごうとくしょうにょ ¬弥陀みだきょう¼ ちゅう一日いちにち七日しちにち専念せんねん弥陀みだみょうごうとくしょう十方じっぽう恒沙ごうじゃ諸仏しょぶつ証誠しょうじょう不虚ふこ ¬きょう¼ じょうさんもんちゅうゆいひょう専念せんねんみょうごうとくしょうれいいち広顕こうけん念仏ねんぶつ三昧ざんまいきょう」 とあり。

また善導ぜんどうの ¬おうじょう礼讃らいさん¼ (意) のなかの専修せんじゅ雑修ざっしゅもんとうにも、 「雑修ざっしゅのものはおうじょうをうることまんがなかにいちなをかたし。 専修せんじゅのものは、 ひゃくひゃくながらむまる」 といへり。 これらはすなはち、 何事なにごともそのもんにいりなんには、 一向いっこうにもはらほかこころあるべからざるゆへなり。

たとへばこんじょうにも主君しゅくんにつかへ、 ひとをあひたのむみち、 ほかのひとこころざしをわくると、 一向いっこうにあひたのむと、 ひとしからざることなり。 たゞしいえゆたかにして、 のりもの僮僕どうぼくもかなひ、 面々めんめんこころざしをいたすちからもたへたるともがらは、 かたがたにこころざしをわくといへども、 [そ]のこうむなしからず。 かくのごときの[ちか]らにたへざるものは、 所々しょしょをかぬるあひだ、 はつかるといへども、 そのしるしをえがたし。 一向いっこうひと一人いちにんをたのめば、 ま0466づしきものも、 かならずそのあはれみをうるなり

すなはち末代まつだいあく无智むちしゅじょうは、 かのまづしきもののごときなり。 むかしの権者ごんじゃしょうにんは、 いえゆたかなるしゅじょうのごときなり。 しかれば、 无智むちをもてしゃぎょうをまなばんにおきては、 まづしきもの得人とくにんをまなばんがごときなり

またなをたとへととらば、 たかきやまの、 ひともかよふべくもなからん巌石がんせきを、 ちからたらざらんもの、 いしのかどにとりすがりてのぼらんとはげまんは、 ぞうぎょうしゅしておうじょうをねがはんがごときなり。 かのやまのみねより、 つよきつなをおろしたらんにすがりて[の]ぼらん[は、] 弥陀みだ願力がんりきをふかくしんじて、 一向いっこう念仏ねんぶつをつとめば、 おうじょうせんがごときなるべし。

また一向いっこう専修せんじゅには、 ことに三心さんしんそくすべきなり三心さんしんといふは、 いちにはじょうしんには深心じんしんさんにはこう発願ほつがんしんなり

じょうしんといふは、 ぶつらいせず弥陀みだらいし、 ぎょうしゅせず弥陀みだねんじて、 もはらにしてもはらならしむるなり

深心じんしんといふは、 弥陀みだ本願ほんがんをふかくしんじて、 わが无始むしよりこのかた罪悪ざいあくしょうぼんとして、 しょうをまぬかるべきみちなきを、 弥陀みだ本願ほんがん不可ふか思議しぎなるによりて、 かのみょうごう一向いっこうしょうねんして、 うたがひをなすこころなければ、 一念いちねんのあひだにはちじゅう億劫おくこうしょうのつみをめっして、 さいりんじゅうとき、 かならず弥陀みだ来迎らいこうにあづかるなり

こう発願ほつがんしんといふ0467は、 自他じたぎょう真実しんじつこころのなかにこう発願ほつがんするなり

この三心さんしんひとつもかけぬれば、 おう[じょう]をとげがたし。 しかれば、 ほかの[ぎょう]をまじえんによりてつみになるべからずといへども、 なを念仏ねんぶつおうじょうじょうぞんじていさゝかのうたがひをのこして、 他事たじをくわふるにてはべるべきなり

たゞしこの三心さんしんのなかに、 じょうしんをやうやうにこころえて、 ことにまことをいたすことを、 かたくもうしなすともがらもはべるにや。 しからば、 弥陀みだ本願ほんがんほんにもたがひて、 信心しんじんはかけぬるにてあるべきなり

いかに信力しんりきをいたすといふともがらも、 造悪ぞうあくぼん信力しんりきにて、 がんじょうじゅせんほどの信力しんりきは、 いかでかはべるべき。 たゞ一向いっこうおうじょうけつじょうせんずればこそ、 本願ほんがん思議しぎにてはべるべけれ。

さやうに信力しんりきもふかく、 よからんひとのためには、 かくあながちに思議しぎ本願ほんがんをおこしたまふべきにあらず、 このどうをばぞんじながら、 まことしく専修せんじゅ念仏ねんぶついちぎょうにいたるひとはいみじくありがたきなり

しかるをどうしゃくぜんけつじょうおうじょう先達せんだつなり、 智恵ちえふかくして講説こうぜつしゅたまひき。 曇鸞どんらんほっさん已下いげ弟子でしなり。 かのらん智恵ちえ高遠こうおんなりといへども、 ろん講説こうぜつをすてゝ、 ひとへにおうじょうごうしゅして、 一向いっこうにもはら弥陀みだねんじて、 相続そうぞくけんにして、 げんおうじょうたまへり。

かくのごときどうしゃくは、 講説こうぜつをやめて念仏ねんぶつしゅし、 善導ぜんどう雑修ざっしゅをきらひて専修せんじゅをつとめたま0468ひき。 またどうしゃくぜんのすゝめによりて、 へいしゅう三県さんけんひと七歳しちさい已後いご一向いっこう念仏ねんぶつしゅすといへり。

しかれば、 わがちょう末法まっぽうしゅじょう、 なんぞあながちに雑修ざっしゅをこのまんや。 たゞすみやかに弥陀みだ如来にょらいがんしゃ如来にょらいせつどうしゃく善導ぜんどうしゃくをまなぶに、 雑修ざっしゅしゅして極楽ごくらくじょうぞんぜんよりは、 専修せんじゅごうぎょうじておうじょうののぞみをけつじょうすべきなり。

かのどうしゃく善導ぜんどうとうしゃくは、 念仏ねんぶつもん人々ひとびとことなれば、 左右さうにおよぶべからず。

法相ほっそうしゅうにおきては、 専修せんじゅ念仏ねんぶつもんをば信向しんこうせざるかとぞんずるところに、 おんだいの ¬西方さいほう要決ようけつ¼ にいはく、 「末法まっぽう万年まんねんきょう悉滅しつめつ弥陀みだいっきょうもつ偏増へんぞう」 としゃくたまへり。 またおなじき ¬しょ¼ (西方要決意) にいはく、 「三空さんくうだんもんじゅうしゅくんしょう分促ぶんそく死路しろうんにょ暫息ぜんそくもん広学こうがくせん念仏ねんぶつ軍修ぐんしゅ」 といへり。

しかのみならず、 また ¬だいしょう竹林ちくりん¼ にいはく、 「たいざん竹林ちくりんだい講堂こうどうのなかにして、 げんもんじゅ東西とうざいたいして、 もろもろのしゅじょうのためにみょうほうをときたまときほっしょうぜんひざまづきて、 もんじゅといたてまつりき。 らいあくぼん、 いづれのほうをおこなひてか、 ながく三界さんがいをいでゝじょうにむまるゝことをうべきと。 もんじゅこたへてのたまはく、 おうじょうじょうのはかりこと弥陀みだみょうごうにすぎたるはなく、 とんしょうだいのみち、 たゞしょうねん一門いちもんにあり。 これによて、 しゃ一代いちだい聖教しょうぎょうにおほくほむるところみな弥陀みだにあり0469。 いかにいはんや、 らいあくぼんをやとこたへたまへり」。

かくのごときの要文ようもんとうしゃたちのおしへをても、 なを信心しんじんなくして、 ありがたき人界にんがいをうけて、 ゆきやすきじょうにいらざらんこと後悔こうかいなにごとかこれにしかんや。

かつうはまた、 かくのごときの専修せんじゅ念仏ねんぶつのともがらを、 当世とうせいにもはらなんをくわえて、 あざけりをなすともがらおほくきこゆ。 これまたむかしの権者ごんじゃたち、 かねてまづさとりしりたまへることなり

もんじゅたまはく、 「らいあくしゅじょうしょうねん西方さいほう弥陀みだごうぶつ本願ほんがんしゅつしょう直心じきしんしょう極楽ごくらく。」 善導ぜんどうの ¬ほうさん¼ にいはく、 「そん説法せっぽう将了しょうりょう慇懃おんごんぞく弥陀みだみょうじょくぞうほう道俗どうぞく相嫌そうけんようもんけんしゅぎょう瞋毒しんどく方便ほうべん破壊はえ競生きょうしょうおんにょしょうもう闡提せんだいはいめつとんぎょうよう沈淪ちんりんちょうだいじんごう未可みかとくさんしん大衆だいしゅ同心どうしんかいさんしょほうざい因縁いんねん。」

また ¬びょうどうがくきょう¼ にいはく、 「もしぜんなんぜん女人にょにんありて、 かくのごときらのじょう法門ほうもんをとくをきゝて、 悲喜ひきをなしていよだつことをしてぬきいだすがごとくするは、 しかるべし、 このひと過去かこにすでに仏道ぶつどうをなしてきたれるなり。 もしまたこれをきくといふとも、 すべてしんぎょうせざらんにおきては、 しるべし、 このひとはじめてさん悪道まくどうのなかよりきたれるなり」。

しかれば、 かくのごときの謗難ほうなんのともがらは、 左右さうなき罪人ざいにんのよしをしりて、 論談ろんだんにあたふべ0470からざることなり

またじゅうぜんかたくたもたずして、 とうそつをねがはん、 きはめてかなひがたし。 極楽ごくらくぎゃくのもの念仏ねんぶつによりてむまる。 いはんや、 じゅうあくにおいてはさわりとなるべからず。 またそんしゅっせんにも、 じゅう六億ろくおく七千しちせん万歳まんさい、 いとまちどをなり、 いまだしらず。 ほうじょうそのところどころにはかくのごときの本願ほんがんなし、 極楽ごくらくはもはら弥陀みだ願力がんりきはなはだふかし、 なんぞほかをもとむべき。

このたび仏法ぶっぽうえんをむすびて、 さんしょうしょう得脱とくだつせんとのぞみをかくるともがらあり、 このがんきわめてじょうなり大通だいつう結縁けちえんひとしんぎょうざんのころものうらに、 いちじょう无価むげたまをかけて、 かくしょう即亡そくもうして、 三千さんぜん塵点じんでんがあひだ六趣ろくしゅりんせしにあらずや。 たとひまたさんしょうえんをむすびて、 ひつじょう得脱とくだつすべきにても、 それをまちつけんりんのあひだのくるしみ、 いとたへがたかるべし、 いとまちどをなるべし。

またかのしょうどうもんにおいては、 さんじょうじょう得道とくどうなり。 このぎょうひゃく千劫せんこうなり。 こゝにわれら、 このたびはじめて人界にんがいしょうをうけたるにてもあらず、 世々せせ生々しょうじょうをへて、 如来にょらいきょうにも、 さつきょうにも、 いくそばくかあひたてまつりたりけん。 たゞしんにしてきょうにもれきたれるなるべし。

さん諸仏しょぶつ十方じっぽうさつおもへばみなこれむかしのともなりしゃひゃく塵点じんでんのさき、 弥陀みだ十劫じっこうじょうどうのさきは、 かたじけなく父母ぶも0471ていともたがひになりたまひけん。 ほとけは前仏ぜんぶつおしえをうけ、 ぜんしきのおしへをしんじて、 はやく発心ほっしんしゅぎょうたまひて、 じょうぶつしてひさしくなりたまいにける。 われらは信心しんじんおろかなるゆへに、 いまにしょうにとまれるなるべし。

過去かこ輪転りんでんをおもへば、 らいまたかくのごとし。 たとひじょうこころをおこすといふとも、 だいしんをばおこしがたし。 如来にょらいしょう方便ほうべんとしておこなひたまへり。 じょくしゅじょうりきをはげまさんには、 ひゃく千万せんまん億劫おくこうなんぎょうぎょうをいたすといふとも、 そのつとめおよぶところにあらず。

またかのしょうどうもんは、 よく清浄しょうじょうにして、 そのうつはものにたれらんひとのつとむべきぎょうなりだいしんにしては、 中々なかなかぎょうぜざらんよりも、 罪業ざいごういんとなるかたもありぬべし。 念仏ねんぶつもんにおいては、 行住ぎょうじゅう坐臥ざがねてもさめてもねんするに、 そのたよりとがなくして、 そのうつはものをきらはず、 ことごとくおうじょういんとなることうたがひなし。

ぶついんちゅうりゅうぜいもんみょうねんそう来迎らいこう
けんびんしょうふうけん下智げち高才こうざい
けんもんじょうかいけんかい罪根ざいこんじん
たん使しん念仏ねんぶつのうりょうりゃくへんじょうこん (五会法事讃巻本)

といへり。

またいみじききょうろん聖教しょうぎょうしゃといへども、 さいりんじゅうとき、 そのもん暗誦あんじゅ0472するにあたはず。 念仏ねんぶつにおいては、 いのちをきわむるにいたるまで、 しょうねんするにそのわづらひなし。

またほとけの誓願せいがんのためしをひかんにも、 やくじゅう誓願せいがんにはしゅしょうがくがんなく、 千手せんじゅがんしゅしょうがくとちかひたまへるも、 いまだしょうがくなりたまはず。 弥陀みだしゅしょうがくがんをおこして、 しょうがくなりて、 すでに十劫じっこうをへたまへり。 かくのごときのちかひにしんをいたさゞらんひとは、 またほか法門ほうもんをも信仰しんこうするにおよばず。

しかれば、 返々かえすがえす一向いっこう専修せんじゅ念仏ねんぶつしんをいたして、 ほかこころなく、 にちちょう行住ぎょうじゅう坐臥ざがに、 おこたることなくしょうねんすべきなり専修せんじゅ念仏ねんぶつをいたすともがら、 当世とうせいにもおうじょうをとぐるきこへ、 そのかずおほし。 雑修ざっしゅひとにおいては、 そのきこへきわめてありがたし。

そもそもこれをても、 なをよこさまのひがゐんにいりて、 ものなんぜんとおもはんともがらは、 さだめていよいよいきどをりをなして、 しからば、 むかしよりほとけのときをきたまへるきょうろん聖教しょうぎょう、 みなもてやくのいたづらものにて、 うせなんとするにこそなんど、 あざけりもうさんず[ら]ん。

それは天臺てんだい法相ほっそうほん本山ほんざん修学しゅがくをいとなみて、 をもぞんじ、 おほやけにもつかへて、 かんをものぞまんとおもはんにおいては、 左右さうにおよぶべからず。 またじょうこん利智りちひとは、 そのかぎりにあらず。 このこころをえてよくりょうけんするひとは、 あやまりてしょうどうもんをことにおも0473くするゆへとぞんずべきなり

しかるを、 なを念仏ねんぶつにあひかねてつとめをいださんことは、 しょうどうもんをすでに念仏ねんぶつじょぎょうにもちゐるべきか。 そのじょうこそ、 返々かえすがえすしゅうあく同門どうもんをうしなふにてははべりけれ。

たゞこの念仏ねんぶつもんは、 返々かえすがえすまたほかこころなく後世ごせおもはんともがらの、 よしなき僻胤ひがいんにおもむきて、 ときをもをもはからず、 なんぎょう[をも]しゅして、 このたび[たま]たまありがたき人界にんがい[に]むまれて、 さば[か]りあひがたかるべき弥陀みだのちかひをすてゝ、 またさんきゅうかいかえりて、 しょう輪転りんでんして、 ひゃく千劫せんこうをへんかなしさをおもひしらんひとのためをもうすなり

さらば、 しょしゅうのいきどほりにはおよぶべからざることなり