1413◎御裁断御書
【1】 ◎祖師聖人 (*親鸞) *御相伝一流の肝要は、 ただ他力の信心をもつて*本とすすめたまふ。
その信心といふは、 ¬経¼ (*大経・下) には 「▲聞其名号 信心歓喜 乃至一念」 と説き、 ¬論¼ (*浄土論) には 「▲一心帰命」 と*判ず。
ゆゑに聖人は論主 (*天親) の 「一心」 を釈して、 「▲一心といふは、 教主世尊のみことをふたごころなく疑なしとなり。 これすなはち真実の信心なり」 (*銘文・本) とのたまへり。
されば祖師よりこのかた代々相承し、 別して信証院 (*蓮如) の五帖一部の消息 (*御文章) に、 *この一途をねんごろに教へたまふ。
その信心のすがたといふは、 なにのやうもなく、 ▲もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、 一心一向に阿弥陀如来、 今度のわれらが一大事の後生、 *おんたすけ候へとたのみたてまつる一念の信まことなれば、 弥陀はかならず*遍照の光明を放ちてその人を*摂取したまふべし。
これすなはち*当流に立つるところの1414一念発起平生業成の義、 これなり。
この信決定のうへには、 昼夜朝暮にとなふるところの称名は、 仏恩報謝の念仏とこころうべし。
かやうにこころえたる人をこそ、 まことに当流の信心をよくとりたる*正義とはいふべきものなれ。
【2】 しかるに近頃は、 当流に*沙汰せざる*三業の規則を穿鑿し、 またはこの三業につきて*自然の名をたて、 *年月日時の覚・不覚を論じ、 あるいは*帰命の一念に妄心を運び、 または*三業をいめるまま、 たのむのことばをきらひ、 この余にもまどへるものこれあるよし、 まことにもつてなげかしき次第なり。
ことに聖人 (親鸞) のみことにも、 「▲身口意のみだれごころをつくろひて、 めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり」 (御消息・六) と誡めたまへり。
所詮以前はいかやうの心中なりとも、 いまより後は、 わがわろき迷心をひるがへして、 本願真実の他力信心にもとづかんひとは、 真実に聖人の御意にもあひかなふべし。
さてそのうへには*王法・国法を大切にまもり、 世間の*仁義をもつて先とし、 *うつくしく法義相続あるべきものなり。
1415右の通り裁断せしめ候ふ条、 永く本意を取り失ふべからざるものなり。
*文化三丙寅年十一月六日
釈*本如 (花押)
底本は本派本願寺蔵本。
御相伝一流 親鸞聖人より受け伝えられた教え。 浄土真宗を指す。
判ず 定める。
この一途をねんごろに この信心のいわれ一つを懇切丁寧に。 底本には 「ねもころ」 (「ねんごろ」 の古形) とある。
おんたすけ候へとたのみ 「おんたすけ候へ」 は 「たすけたまへ」 に同じ。 →
たすけたまへ、
たのむ
正義 正しい法義 (の人)。
沙汰せざる とりあげない。 論じない。
三業の規則を穿鑿し 身口意の三業についてのきまりをとかくいいたてて。
三業安心の異義を指す。 身口意の三業に願生帰命の相をあらわして、 救いを
祈願請求しなければならないというもの。
自然の名をたて 自然三業という名目を立て。 自然三業とは、 信心獲得の時、 おのずと身口意の三業に帰命の相がととのうという異義。
年月日時の覚不覚を論じ 信心獲得の日時の記憶があるかないかを論じ。 その記憶の有無によって信心の有無を論じようとする異義。
帰命の一念に妄心を運び 運想三業の異義を指す。 身口の二業に救いを請求する相をあらわさなくても、 意業において三業帰命の想いを運べというもの。
三業をいめるまま… 三業帰命をはばかるあまり、 無帰命安心に堕すことをいう。
うつくしく 見事に。 立派に。 申し分なく。