^「たとえ百千倶胝那由他劫という長い時間を経て、 無量百千倶胝那由他という数限りない舌の上に、 無量の声を出して阿弥陀の功徳を讃めたたえたとしても、 なお讃めつくすことはできない。」
◎浄 土 和 讃
真実の信心を得て*
思いはかることのできない阿弥陀仏の*
^*
^「*
^阿弥陀仏は、 仏となってからすでに十*
^また、 限りない光をそなえているから1無量光と申しあげ、 真実の*
^くらべようのないすぐれた仏であるから19無等等と申しあげる。 あらゆる聖者がたをその場に集めるから20広大会と申しあげる。 海のように大いなる慈悲の心をそなえているから21大心海と申しあげる。 この上なく尊い仏であるから22無上尊と申しあげる。 すべてのとらわれを離れさせるはたらきをそなえているから23平等力と申しあげる。 大いなる本願のはたらきをそなえているから24大心力と申しあげる。 言葉でたたえ尽すことができない仏であるから25無称仏と申しあげる。 世界の中でもっとも尊い仏であるから26*
^*
「自在力のはたらきをそなえているから自在人と申しあげ、 礼拝したてまつる。 清らかな功徳をそなえているから清浄人と申しあげ、 *
讃阿弥陀仏偈和讃
南無阿弥陀仏
阿弥陀仏は、 仏となってからすでに十劫の時を経ておられる。 さとりの身から放たれる光はどこまでも果てしなく、 迷いの闇にいるものを照らすのである。
阿弥陀仏の智慧の光明は限りがない。 迷いの世界のもので、 その光に照らされないものはない。 真実の智慧の光である真実明に帰命するがよい。
阿弥陀仏のさとりの光はどこまでも果てしなく照らす。 その光のはたらきを受けるものは、 みな*
輝く雲のようにひろがる阿弥陀仏の光は、 まるで大空のように、 どのような煩悩にもさまたげられることがなく、 その光のはたらきを受けないものはない。 はかり知ることのできないはたらきをそなえた難思議に帰命するがよい。
阿弥陀仏の清らかな光に並ぶものはない。 この光に出会うことにより、 迷いの世界につなぎとめる悪い行いも、 その力がすべて失われる。 究極のよりどころである畢竟依に帰命するがよい。
阿弥陀仏の光の輝きはもっともすぐれているから、 光炎王仏と申しあげる。 その光は、 *
阿弥陀仏のさとりの光は明るく輝き、 すべてに超えすぐれて清らかであるから、 清浄光仏と申しあげる。 ひとたびこの光に照らされたものは、 悪い行いの罪や煩悩が除かれ、 みなさとりを開くのである。
阿弥陀仏の慈しみの光はひろくあらゆるものを照らし、 その光の至り届くところでは、 すべてのものが喜びの心を得るといわれている。 大いなる安らぎと慰めを与える大安慰に帰命するがよい。
阿弥陀仏の光は無明の闇をすべて破るから、 智慧光仏と申しあげる。 すべての仏も
阿弥陀仏の光は絶えることなく照らし続けるので、 不断光仏と申しあげる。 その光のはたらきを聞く信心もまた絶えることなく、 往生することができる。
阿弥陀仏の光ははかり知ることができないから、 難思光仏と申しあげる。 あらゆる仏がたは、 すべてのものを往生させる阿弥陀仏の功徳とそのはたらきをほめたたえておられる。
阿弥陀仏のすぐれた光は姿かたちを超えており、 言葉で説き示すことができないから、 無称光仏と申しあげる。 ※*
阿弥陀仏の光はその輝きが太陽や月の光に超えすぐれているから、 超日月光と申しあげる。 *
阿弥陀の最初の説法の座に集まった聖者がたは、 とても数え尽すことができない。 浄土に生まれようと願うものはみな、 あらゆる聖者がたをその場に集める広大会に帰命するがよい。
阿弥陀仏の浄土の数限りない菩薩がたは、 みな*
浄土の聖者がたはすべての世界のもののために、 ※あらゆる仏がたの功徳をその身にそなえ、 阿弥陀仏の本願を勧めてくださっている。 海のように大いなる慈悲の心をそなえている大心海に帰命するがよい。
※*
阿弥陀仏の浄土に往生した人は、 さまざまな濁りと悪に満ちた世に還り来て、 釈尊と同じようにどこまでもすべてのものを救うのである。
浄土の菩薩の自在ですぐれたはたらきは、 とてもはかり知ることができない。 その身には、 思いはかることのできない功徳がそなわっている。 こ上なく尊いはたらきをそなえた無上尊に帰命するがよい。
阿弥陀仏の浄土の声聞や菩薩がた、 人間や天人は明らかな智慧を身にそなえ、 姿かたちやその功徳もみな同じである。 それぞれ他の世界での呼び方にしたがって名乗っているだけである。
その顔かたちの端正なことは何ものにもくらべようがない。 その身の美しくすぐれていることは人間や天人のたぐいではなく、 かたちを超えたさとりの身を得ているのである。 すべてのとらわれを離れさせるはたらきをそなえた平等力に帰命するがよい。
真実の信心を得て阿弥陀仏の浄土に生れようと願う人は、 みな*
すべての世界のあらゆるものは、 阿弥陀仏のこの上ない功徳をそなえた名号を聞いて真実の信心を得たなら、 聞き信じたところを大いに喜ぶであろう。
「もし生れることができないようなら、 さとりを開かない」 と本願に誓われているので、 真実の信心を得たまさにそのとき、 本願を信じ喜ぶ人は、 浄土に往生することが間違いなく定まるのである。
阿弥陀仏とその浄土のうるわしいすがたは、 *
阿弥陀仏の浄土のうるわしいすがたは、 釈尊の巧みなお言葉でさえとても説き尽すことができないといわれている。 言葉でたたえ尽すことのできない無称仏に帰命するがよい。
浄土にすでに往生し、 あるいは今往生し、 あるいはこれから往生するものは、 この世界からだけではなく、 あらゆる仏がたの国から来り生れる。 その数は限りがなく、 知り尽すことができない。
阿弥陀仏の名号を聞き信じ、 喜んでほめたたえるものは大いなる功徳を身にそなえ、 浄土に往生してさとりを開くというこの上ない利益を得るのである。
たとえ世界中が火の海になったとしても、 ひるまず進み、 阿弥陀仏の名号を聞き信じる人は、 決して迷いの世界のもどることのない身となるのである。
すぐれたはたらきがきわまりない阿弥陀仏を、 数限りない仏がたがほめたたえておられる。 ガンジス河の砂の数ほどもある東の仏の国々から、 無数の菩薩がたがその浄土に往かれるのである。
東以外のあらゆる仏の国々からも、 同じく菩薩がたが浄土に往って阿弥陀仏を仰がれるのである。 釈尊は偈を説いて、 浄土の限りない功徳をほめたたえられる。
あらゆる仏の国々から浄土に往った数限りない菩薩がたは、 浄土の功徳を身にそなえようと、 阿弥陀仏をあつく敬って歌いたたえるのである。 すべての人は、 世界の中でもっとも尊い仏である婆伽婆に帰命するがよい。
金・銀・*
阿弥陀仏のすばらしい浄土は広大で限りなく、 本願に誓われた通りにうるわしくかざられている。 清らかなはたらきであらゆるものを摂め取る清浄大摂受に、 礼拝し帰命するがよい。
※*
浄土のすぐれたはたらきは本願に誓われた通りであり、 その願いは、 すべてのものを救い取る願いであり、 間違いのない明らかな願いであり、 決して壊れることのない願いであり、 必ずとげられる願いである。 慈しみのこころからさとりを開かせるはたらきは、 思いはかることができない。 限りない真実のはたらきをそなえた真無量に帰命するがよい。
浄土の樹々が奏でる美しい音はおのずから清らかに調和した音楽であり、 そのやさしくうるわしい音色はあらゆる音楽に超えすぐれている。 煩悩の汚れのない清らかな音楽を奏でる清浄楽に帰命するがよい。
浄土には七つの宝でできた樹々が満ちあふれ、 それらの放つ光は互いに美しく輝いている。 花や実や枝や葉もまた同じようである。 本願に誓われたあらゆる功徳をそなえている本願功徳聚に帰命するがよい。
清らかな風が吹く時に宝の樹々が奏でるさまざまな音色は、 みごとに調和している。 気高く清らかな音を出してさとりを開かせる清浄勲を礼拝するがよい。
浄土にあるそれぞれの花の中からは、 *六つの光が織りなす無数の光が明るく輝き、 ひろく世界を照らして、 至り届かないところはどこにもない。
浄土にあるそれぞれの花の中からは、 六つの光が織りなす無数の光とともに無数の仏がたが現れ、 そのおすがたはまるで光り輝く黄金の山のようである。
浄土の仏がたは、 それぞれのおすがたから数限りない光をすべての世界に放ち、 常にすばらしい教えを説きひろめ、 あらゆるものをさとりに至らせるのである。
浄土の七つの宝でできた池は清く済みきって、 不可思議な力をそなえた水が満ちている。 煩悩の汚れのない浄土の功徳は、 思いはかることができない。 あらゆる功徳を収めている功徳蔵に帰命するがよい。
浄土では、 地獄や餓鬼や畜生という迷いの世界の苦しみが完全に断ち切られ、 ただおのずとさとりを開かせる快い音が流れている。 このようなわけで安楽と申しあげる。 功徳がきわまりない無極尊に帰命するがよい。
すべての世界の過去・現在・未来にわたる仏がたは、 みな同じく*
阿弥陀仏の浄土に帰依することは、 そのままあらゆる仏がたに帰依することである。 一心にただ阿弥陀仏をほめたたえることは、 あらゆる仏がたをほめたたえることである。
※真実の信心を得てまさに聞き信じたところを疑いなく喜ぶものは、 *
阿弥陀仏の智慧と功徳をほめたたえ、 すべての世界の縁あるものに聞かせよう。 すでに真実の信心を得ている人は、 常に仏のご恩に報いるがよい。
以上、 四十八首 愚禿釈親鸞作
阿弥陀如来 観世音菩薩
大勢至菩薩
釈迦牟尼如来 富楼那尊者
大目犍連
阿難尊者
頻婆娑羅王 韋提夫人
耆婆大臣
月光大臣
提婆尊者 阿闍世王
雨行大臣
守門者
浄 土 和 讃
¬大経¼ の意 二十二首
*
釈尊の輝かしいお姿はたぐいまれなものであり、 そのお心にかなった阿難がわけを尋ねたところ、 釈尊はこの世にお出ましになった本意を説き示された。
釈尊は、 大いなる*
釈尊がこの世にお出ましになった本意は、 阿弥陀仏の本願のおこころをお説きになることであり、 このような仏のお出ましに会うことは難しく、 *
阿弥陀仏が仏となってから、 すでに十劫の時を経ていると説かれているが、 果てしなく遠い過去よりも、 さらに久しい仏でいらっしゃる。
南無不可思議光仏は、 かつて*
何ものにもさまたげられない阿弥陀仏の光には、 *
阿弥陀仏は第十八願に 「心から信じ喜んでわたしの国に生れたいと願うものを救う」 と誓われて、 すべての世界のあらゆるものに他力の信心をお勧めになる。 こうした思いはかることのできない本願を示して真実の浄土に往生する因とされるのである。
真実の信心を得た人は、 ただちに正定聚に入る。 その人は*
阿弥陀仏は深く大いなる慈悲の心から、 思いはかることのできないさとりの智慧をもって*
阿弥陀仏は第十九願に 「さまざまな功徳を積み、 まことの心でわたしの国に生れたいと願うものを救う」 と誓われて、 すべての世界のあらゆるものを真実に導き入れようと、 さまざまな善い行いにより往生するという*
「命を終えようとする時、 その人の前に現れて迎え取る」 という第十九願によって、 釈尊はさまざまな善い行いの功徳をすべて ¬*
さまざまな善い行いはすべて、 ※阿弥陀仏が第十九願に誓われているので、 浄土に往生するための*
阿弥陀仏は第二十願に 「念仏して功徳を積み、 まことの心でわたしの国に生れたいと願うものを救う」 と誓われて、 すべての世界のあらゆるものを真実に導き入れようと、 *
「必ず浄土往生を果たしとげさせる」 という第二十願によって、 釈尊は名号にそなわるあらゆる功徳を ¬*
さまざまな行を修めて往生しようとする自力の心で念仏するものは、 「※必ず他力の念仏の法に入らせる」 という第二十願のはたらきによって、 教えないのにおのずと真実の門に入るのである。
阿弥陀仏の浄土に生れようと願いながら、 他力の信心を得ていない人は、 思いはかることのできない仏の智慧のはたらきを疑うことにより、 方便の浄土にとどまってしまうのである。
釈尊がお出ましになった世に生れることは難しく、 また、 仏がたの教えを聞くことも難しい。 菩薩のすぐれた教えを聞くこともまた、 はかり知ることのできない長い年月の中でさえまれなことである。
*
釈尊が説かれたすべての教えを信じるよりも、 第十八願の真実の信心を得ることはなお難しい。 これはもっとも難しいことであり、 これより難しいことは他にないと説き示されている。
念仏により仏のさとりを開くという教えこそが真実であり、 さまざまな善い行いによりさとりを開くという教えは方便である。 真実と方便を分けることなく、 真実の浄土を決して知ることはできない。
迷いの中にあるものは、 仮の手だてとして説かれた*
以上、 ¬大経¼ の意
¬観経¼ の意 九首
釈尊の恩徳は広大であり、 光明を放ってその中にすべての仏がたの清らかな国土をお見せになり、 *
*
阿闍世は激しく怒り、 我が母は罪人であるといい放ち、 非道にも母の韋提希を殺害しようと、 剣を抜いて襲いかかった。
*
※耆婆は険のつかに手をかけてじりじりと後ずさりし、 思いとどまった阿闍世は険を捨て、 韋提希を王宮の奥深くに閉じ込めた。
阿弥陀仏と釈尊は、 すべてのものを導く巧みな手だてを施して、 *
…これらの聖者がたはみなともに、 迷いの底にいる愚かで罪深い人々を、 *
釈尊と韋提希が、 すべてのものを導く巧みな手だてを施したことによって、 浄土の教えを説き明かす*
さまざまな行を修めるものは、 それぞれにおこす自力の*
以上、 ¬観経¼ の意
¬弥陀経¼ の意 五首
数限りないすべての世界の念仏するものを見通され、 摂め取って決してお捨てにならないので、 阿弥陀と申しあげる。
数限りない仏がたは、 さまざまな行を修めて得られるわずかな功徳を退けて、 思いはかることのできない名号のはたらきによる信心を、 みな同じく、 ひとえにお勧めになる。
すべての世界の数限りない仏がたは、 自力では信じることができない他力の念仏の教えを説き示し、 さまざまな濁りと悪に満ちた世のもののために、 その教えが真実であると証明し、 信じて念仏するものをお護りになっている。
あらゆる仏がたが念仏するものをお護りになり、 その教えが真実であると証明されるのは、 *
釈尊は、 さまざまな濁りと悪に満ちた時代の中で、 よこしまな考えにとらわれているものに、 阿弥陀仏の名号をお与えになり、 数限りない仏がたは、 その教えをお勧めになっている。
以上、 ¬弥陀経¼ の意
諸経の意によりて弥陀和讃 九首
無明煩悩の長い闇に迷い続けるものを哀れんで、 阿弥陀仏がさとりの身から放たれる光はどこまでも果てしなく、 何ものにもさまたげられない*
はかり知ることのできない遠い昔からすでに仏であった阿弥陀仏は、 さまざまな濁りに満ちた世の愚かな*
たとえ百千※万億劫もの間、 百千万億のものがみな、 数限りない言葉を尽して阿弥陀仏をほめたたえても、 たたえ尽すことはできない。
釈尊は、 浄土には往生しやすいと説き示された。 その教えを疑うものは、 ※真実を見ることのできない人であり、 ※真実を聞くことのできない人であるといわれている。
この上ないさとりである無上上は、 迷いの世界を完全に離れた真解脱であり、 この真解脱は、 真実のさとりを得た*
すべてのものを分け隔てなく見る心を得る境地を、 あらゆるものをひとり子のように哀れむ一子地と申しあげる。 この一子地は*
如来はすなわち*
信心を得て喜ぶ人のことを、 如来と等しいと説かれている。 大いなる信心は仏性である。 仏性はすなわち如来である。
煩悩にまみれた知恵で、 何ものにもさまたげられない阿弥陀仏の智慧を疑うものは、 *
以上、 諸経の意
現世利益和讃 十五首
阿弥陀仏が釈尊としてその姿を現し、 災いをしずめて寿命をまっとうさせるために説き残されたのが、 ¬*
比叡山の*
あらゆる功徳に超えすぐれた南無阿弥陀仏を称える身になると、 過去・現在・未来の重い罪もみな、 必ず転じて軽くかすかなものとなる。
南無阿弥陀仏を称える身になると、 この世で得る利益は果てしない。 迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける罪も消え、 寿命に限りがあることや、 その途中で死んでしまうという恐れも断ち切られる。
南無阿弥陀仏を称える身になると、 *
南無阿弥陀仏を称える身になると、 *
南無阿弥陀仏を称える身になると、 大地の神々も尊び敬う。 陰がものの形に添うように、 昼夜を問わず常に護るのである。
南無阿弥陀仏を称える身になると、 *
南無阿弥陀仏を称える身になると、 *
南無阿弥陀仏を称える身になると、 *
天地の大いなる神々は、 みな善*
※思いはかることのできない本願のはたらきによる信心は、 大いなるさとりを求める心でもあるので、 天地に満ちている悪鬼神がみなそろって畏れるのである。
南無阿弥陀仏を称える身になると、 観音菩薩と勢至菩薩は数限りない菩薩がたとともに、 影のようにその身に付き添ってくださる。
何ものにもさまたげられない阿弥陀仏の光には、 数限りない*
南無阿弥陀仏を称える身になると、 すべての世界の数限りない仏がたは、 百重にも千重にも取りかこみ、 喜んでお護りになるのである。
以上、 現世利益
現世利益和讃 十五首
勢至菩薩は念仏によるまどかなさとりを開き、 五十二人の菩薩がたとともにただちに座から立ち上がり、 仏の足をおしいただいて礼拝し…
…釈尊に申しあげる。 はかり知ることのできない遠い昔に、 仏が世にお出ましになった。 その名は無量光仏とおっしゃったのである。
最初の無量光仏から*十二の仏がたが、 十二劫の時をかけて相次いでお出ましになった。 その最後の仏の名は超日月光仏とおっしゃったのである。
超日月光仏がわたしに、 他力の念仏をお教えになった。 すべての世界の仏がたは、 あらゆるものをひとり子のようにお哀れみになる。
子が母を慕うように、 命あるものが阿弥陀仏を心から信じると、 この世でも次の世でも、 間違いなく仏を見ることができる。
かぐわしい念仏の心をもっている人は、 その身から智慧の香気を放っているようである。 このように香気で飾られていることを、 *
わたしがかつてさとりを求めていた時、 念仏の心により*
…念仏の人を摂め取り、 阿弥陀仏の浄土に往生させるのである。 このように説かれる勢至菩薩の大いなるご恩に報いるがよい。
以上、 大勢至菩薩
安楽国土のもろもろの声聞は、 みな光一尋にして流星のごとし。 菩薩の光輪は四千里にして、 秋の満月の紫金に映ずるがごとし。 仏の法蔵を集めて衆生のためにす。 ゆゑにわれ大心海を頂礼したてまつる。
とある文に依られたものであり、 阿弥陀仏の浄土の声聞や菩薩の光明を讃えられている箇所である。 したがって、 「仏の法蔵を集めて衆生のためにす」 るのは 「浄土の聖衆」 であり、 また、 「法蔵」 の左訓に 「ヨロヅノ仏ノクドクナリ」 とあることから、 本現代語訳においては、 「浄土の聖衆が、 諸仏の国に赴いて功徳を集めては、 阿弥陀仏の本願に帰すべきことを勧めている」 という意であるとみて訳しておいた。また観世音・大勢至は、 もろもろの聖衆において最第一なり。 慈光大千界を照曜し、 仏の左右に侍して神儀を顕す。 もろもろの有縁を度してしばらくも
しかるにいまことに方便の真門を出でて、 選択の願海に転入せり。 すみやかに難思往生の心を離れて、 難思議往生を遂げんと欲す。 果遂の誓、 まことに由あるかな。
とあることから、 本現代語訳では、 後者にしたがって訳しておいた。このゆゑにわれ説く、 「無量寿仏国は往きやすく取りやすし。 しかるに人修行して往生することあたはず、 かへりて九十五種の外道に事ふ」 と。 われこの人を説きて無眼人と名づけ、 無耳人と名づく。
とある文に依られたものと考えられる。 ここで、 「われこの人を説きて無眼人と名づけ、 無耳人と名づく」 とは、 づすでに真実の教えが説かれ、 浄土に往生する道が示されているにもかかわらず、 そのことを見ようともせず、 またその教えを聞こうともせずに、 邪な教えに身を委ねる人々を指し、 真実の道に入らせようと説かれたものにほかならない。たとひわれ仏を得たらんに、 他方国土の諸菩薩衆、 わが名字を聞きて、 仏を得るに至るまで、 諸根闕陋して具足せずは、 正覚を取らじ。
と誓われて、 諸根すなわち眼や耳などがないものをなくそうといわれているのは、 聖典が成立した当時の社会において、 そのように障がいのあるものは劣っているという通念があったからであろう。