^*¬称讃浄土教¼ (玄奘の訳) に説かれている。

^「たとえ百千倶胝那由他劫という長い時間を経て、 無量百千倶胝那由他という数限りない舌の上に、 無量の声を出して阿弥陀の功徳を讃めたたえたとしても、 なお讃めつくすことはできない。」

 

  浄 土 和 讃

 

(1)

真実の信心を得て*弥陀みだぶつの名号を称える身となった人は、 常に*本願ほんがんを心に思いおこし、 仏のご恩に報いようとするのである。

 

(2)

思いはかることのできない阿弥陀仏の*誓願せいがんを疑いながら、 名号を称える人の*おうじょうは、 浄土の宮殿の中で五百年の間、 むなしく時をすごすことになると説かれている。

 

 ^*曇鸞どんらんだいの ¬*さん弥陀みだぶつ¼ には、 次のようにいわれている。

 ^*南無なも弥陀みだぶつ この*を ¬無量寿傍経¼ と申し上げる。 敬いたたえて、 また*あんにょうともいう。

 ^阿弥陀仏は、 仏となってからすでに十*こうの時を経ておられる。 その寿命は限りなく、 はかり知ることができない。 さとりの身から放たれる光は、 すべての世界に満ちみちて、 迷いの闇にいるものを照らす。 このようなわけで、 阿弥陀仏を礼拝したてまつる。

 ^また、 限りない光をそなえているから1無量光と申しあげ、 真実の*智慧ちえの光であるから2真実明と申しあげる。 また、 どこまでも果てしなく照らすから3無辺光と申しあげ、 すべてのとらわれを離れさせるから4平等覚と申しあげる。 また、 何ものにもさまたげられないから5無礙光と申しあげ、 はかり知ることができないから6難思議と申しあげる。 また、 並ぶものがないから7無対光と申しあげ、 究極のよりどころとなるから8畢竟依と申しあげる。 また、 その輝きがもっともすぐれているから9光炎王と申しあげ、 あらゆる*ようを受けるにふさわしいから10大応供と申しあげる。 また、 すべてに超えすぐれて清らかであるから11清浄光と申しあげる。 また、 あらゆるものを慈しみ喜びをおこさせるから12歓喜光と申しあげ、 大いなる安らぎと慰めを与えるから13大安慰と申しあげる。 また、 *みょうの闇を破るから14智慧光と申しあげ、 また、 絶えることなくすべてを照らすから15不断光と申しあげる。 また、 はかり知ることができないから16難思光と申しあげる。 また、 言葉で説き示すことができないから17無称光と申しあげる。 太陽や月の光に超えすぐれているから18超日月光と申しあげる。

 ^くらべようのないすぐれた仏であるから19無等等と申しあげる。 あらゆる聖者がたをその場に集めるから20広大会と申しあげる。 海のように大いなる慈悲の心をそなえているから21大心海と申しあげる。 この上なく尊い仏であるから22無上尊と申しあげる。 すべてのとらわれを離れさせるはたらきをそなえているから23平等力と申しあげる。 大いなる本願のはたらきをそなえているから24大心力と申しあげる。 言葉でたたえ尽すことができない仏であるから25無称仏と申しあげる。 世界の中でもっとも尊い仏であるから26*婆伽ばがと申しあげる。 そのもとで教えが説かれているから27講堂と申しあげる。 清らかなはたらきであらゆるものを摂め取るから28清浄大摂受と申しあげる。 思いはかることのできないはたらきをそなえているから29不可思議尊と申しあげる。 そのもとでさとりが開かれるから30*どうじょうじゅと申しあげる。 限りない真実のはたらきをそなえているから31真無量と申しあげる。 *煩悩ぼんのうの汚れのない清らかな音楽を奏でているから32清浄楽と申しあげる。 本願に誓われたあらゆる功徳をそなえているから33本願功徳聚と申しあげる。 気高く清らかな音を出してさとりを開かせるから34清浄勲と申しあげる。 あらゆる功徳を収めているから35功徳蔵と申しあげる。 功徳がきわまりないから36無極尊と申しあげる。 37*南無なも不可ふか思議しぎこうと申しあげるのである」

 ^*りゅうじゅさつの ¬*十住じゅうじゅう毘婆びばしゃろん¼ には、 次のようにいわれている。

 「自在力のはたらきをそなえているから自在人と申しあげ、 礼拝したてまつる。 清らかな功徳をそなえているから清浄人と申しあげ、 *みょうしたてまつる。 限りない徳をそなえているから無量徳と申しあげ、 称讃したてまつる」

 

讃阿弥陀仏偈和讃

*禿とく*親鸞しんらん

南無阿弥陀仏

 

(3)

阿弥陀仏は、 仏となってからすでに十劫の時を経ておられる。 さとりの身から放たれる光はどこまでも果てしなく、 迷いの闇にいるものを照らすのである。

 

(4)

阿弥陀仏の智慧の光明は限りがない。 迷いの世界のもので、 その光に照らされないものはない。 真実の智慧の光である真実明に帰命するがよい。

 

(5)

阿弥陀仏のさとりの光はどこまでも果てしなく照らす。 その光のはたらきを受けるものは、 みな*有無うむ邪見じゃけんを離れるといわれている。 すべてのとらわれを離れさせる平等覚に帰命するがよい。

 

(6)

輝く雲のようにひろがる阿弥陀仏の光は、 まるで大空のように、 どのような煩悩にもさまたげられることがなく、 その光のはたらきを受けないものはない。 はかり知ることのできないはたらきをそなえた難思議に帰命するがよい。

 

(7)

阿弥陀仏の清らかな光に並ぶものはない。 この光に出会うことにより、 迷いの世界につなぎとめる悪い行いも、 その力がすべて失われる。 究極のよりどころである畢竟依に帰命するがよい。

 

(8)

阿弥陀仏の光の輝きはもっともすぐれているから、 光炎王仏と申しあげる。 その光は、 *ごく餓鬼がきちくしょうという迷いの闇の世界を打ち破る。 あらゆる供養を受けるにふさわしい大応供に帰命するがよい。

 

(9)

阿弥陀仏のさとりの光は明るく輝き、 すべてに超えすぐれて清らかであるから、 清浄光仏と申しあげる。 ひとたびこの光に照らされたものは、 悪い行いの罪や煩悩が除かれ、 みなさとりを開くのである。

 

(10)

阿弥陀仏の慈しみの光はひろくあらゆるものを照らし、 その光の至り届くところでは、 すべてのものが喜びの心を得るといわれている。 大いなる安らぎと慰めを与える大安慰に帰命するがよい。

 

(11)

阿弥陀仏の光は無明の闇をすべて破るから、 智慧光仏と申しあげる。 すべての仏もさつ*縁覚えんがく*しょうもんも、 みなともにほめたたえておられる。

 

(12)

阿弥陀仏の光は絶えることなく照らし続けるので、 不断光仏と申しあげる。 その光のはたらきを聞く信心もまた絶えることなく、 往生することができる。

 

(13)

阿弥陀仏の光ははかり知ることができないから、 難思光仏と申しあげる。 あらゆる仏がたは、 すべてのものを往生させる阿弥陀仏の功徳とそのはたらきをほめたたえておられる。

 

(14)

阿弥陀仏のすぐれた光は姿かたちを超えており、 言葉で説き示すことができないから、 無称光仏と申しあげる。 *こうみょうりょうの願を因とする光のはたらきは、 あらゆる仏がたにほめたたえられる。

 

(15)

阿弥陀仏の光はその輝きが太陽や月の光に超えすぐれているから、 超日月光と申しあげる。 *しゃくそんがどれほどおほめになっても、 たたえ尽すことはできない。 くらべようのないすぐれた仏である無等等に帰命するがよい。

 

(16)

阿弥陀の最初の説法の座に集まった聖者がたは、 とても数え尽すことができない。 浄土に生まれようと願うものはみな、 あらゆる聖者がたをその場に集める広大会に帰命するがよい。

 

(17)

阿弥陀仏の浄土の数限りない菩薩がたは、 みな*いっしょうしょの位に至っている。 これらの菩薩は大いなる慈しみのはたらきをそなえており、 必ず迷いの世界に還り来てあらゆるものを教え導くのである。

 

(18)

浄土の聖者がたはすべての世界のもののために、 あらゆる仏がたの功徳をその身にそなえ、 阿弥陀仏の本願を勧めてくださっている。 海のように大いなる慈悲の心をそなえている大心海に帰命するがよい。

 

(19)

*観音かんのんさつ*せいさつは、 ともに慈しみの光で迷いの世界を明るく照らし、 縁あるものを救い取って、 少しの間も休むことがない。

 

(20)

阿弥陀仏の浄土に往生した人は、 さまざまな濁りと悪に満ちた世に還り来て、 釈尊と同じようにどこまでもすべてのものを救うのである。

 

(21)

 浄土の菩薩の自在ですぐれたはたらきは、 とてもはかり知ることができない。 その身には、 思いはかることのできない功徳がそなわっている。 こ上なく尊いはたらきをそなえた無上尊に帰命するがよい。

 

(22)

阿弥陀仏の浄土の声聞や菩薩がた、 人間や天人は明らかな智慧を身にそなえ、 姿かたちやその功徳もみな同じである。 それぞれ他の世界での呼び方にしたがって名乗っているだけである。

 

(23)

その顔かたちの端正なことは何ものにもくらべようがない。 その身の美しくすぐれていることは人間や天人のたぐいではなく、 かたちを超えたさとりの身を得ているのである。 すべてのとらわれを離れさせるはたらきをそなえた平等力に帰命するがよい。

 

(24)

真実の信心を得て阿弥陀仏の浄土に生れようと願う人は、 みな*正定しょうじょうじゅの位に定まっている。 真実の浄土には*じゃじょうじゅ*じょうじゅのものはいない。 あらゆる仏がたは、 このような阿弥陀仏のはたらきをほめたたえておられる。

 

(25)

すべての世界のあらゆるものは、 阿弥陀仏のこの上ない功徳をそなえた名号を聞いて真実の信心を得たなら、 聞き信じたところを大いに喜ぶであろう。

 

(26)

「もし生れることができないようなら、 さとりを開かない」 と本願に誓われているので、 真実の信心を得たまさにそのとき、 本願を信じ喜ぶ人は、 浄土に往生することが間違いなく定まるのである。

 

(27)

阿弥陀仏とその浄土のうるわしいすがたは、 *法蔵ほうぞうさつの本願のはたらきによるものである。 そのすばらしさはあらゆる世界の何ものにもくらべようがない。 大いなる本願のはたらきをそなえた大心力に帰命するがよい。

 

(28)

阿弥陀仏の浄土のうるわしいすがたは、 釈尊の巧みなお言葉でさえとても説き尽すことができないといわれている。 言葉でたたえ尽すことのできない無称仏に帰命するがよい。

 

(29)

浄土にすでに往生し、 あるいは今往生し、 あるいはこれから往生するものは、 この世界からだけではなく、 あらゆる仏がたの国から来り生れる。 その数は限りがなく、 知り尽すことができない。

 

(30)

阿弥陀仏の名号を聞き信じ、 喜んでほめたたえるものは大いなる功徳を身にそなえ、 浄土に往生してさとりを開くというこの上ない利益を得るのである。

 

(31)

たとえ世界中が火の海になったとしても、 ひるまず進み、 阿弥陀仏の名号を聞き信じる人は、 決して迷いの世界のもどることのない身となるのである。

 

(32)

すぐれたはたらきがきわまりない阿弥陀仏を、 数限りない仏がたがほめたたえておられる。 ガンジス河の砂の数ほどもある東の仏の国々から、 無数の菩薩がたがその浄土に往かれるのである。

 

(33)

東以外のあらゆる仏の国々からも、 同じく菩薩がたが浄土に往って阿弥陀仏を仰がれるのである。 釈尊は偈を説いて、 浄土の限りない功徳をほめたたえられる。

 

(34)

あらゆる仏の国々から浄土に往った数限りない菩薩がたは、 浄土の功徳を身にそなえようと、 阿弥陀仏をあつく敬って歌いたたえるのである。 すべての人は、 世界の中でもっとも尊い仏である婆伽婆に帰命するがよい。

 

(35)

金・銀・*瑠璃るり・水晶・珊瑚・*のう*しゃなどの七つの宝でできている行動や道場樹は、 さとりを開かせるためにあらわされた浄土のすがたである。 すべての世界から数限りない人々が来り生れる。 このようなはたらきをそなえた講堂や道場樹を礼拝するがよい。

 

(36)

阿弥陀仏のすばらしい浄土は広大で限りなく、 本願に誓われた通りにうるわしくかざられている。 清らかなはたらきであらゆるものを摂め取る清浄大摂受に、 礼拝し帰命するがよい。

 

(37)

*自利じり*利他りたの功徳がまどかに満ちて、 あらゆるものをさとりに導く巧みなはたらきをそなえた浄土に帰命したてまつる。 思いはかることも言葉に表すこともできないので、 不可思議尊に帰命するがよい。

 

(38)

浄土のすぐれたはたらきは本願に誓われた通りであり、 その願いは、 すべてのものを救い取る願いであり、 間違いのない明らかな願いであり、 決して壊れることのない願いであり、 必ずとげられる願いである。 慈しみのこころからさとりを開かせるはたらきは、 思いはかることができない。 限りない真実のはたらきをそなえた真無量に帰命するがよい。

 

(39)

浄土の樹々が奏でる美しい音はおのずから清らかに調和した音楽であり、 そのやさしくうるわしい音色はあらゆる音楽に超えすぐれている。 煩悩の汚れのない清らかな音楽を奏でる清浄楽に帰命するがよい。

 

(40)

浄土には七つの宝でできた樹々が満ちあふれ、 それらの放つ光は互いに美しく輝いている。 花や実や枝や葉もまた同じようである。 本願に誓われたあらゆる功徳をそなえている本願功徳聚に帰命するがよい。

 

(41)

清らかな風が吹く時に宝の樹々が奏でるさまざまな音色は、 みごとに調和している。 気高く清らかな音を出してさとりを開かせる清浄勲を礼拝するがよい。

 

(42)

浄土にあるそれぞれの花の中からは、 *六つの光が織りなす無数の光が明るく輝き、 ひろく世界を照らして、 至り届かないところはどこにもない。

 

(43)

浄土にあるそれぞれの花の中からは、 六つの光が織りなす無数の光とともに無数の仏がたが現れ、 そのおすがたはまるで光り輝く黄金の山のようである。

 

(44)

浄土の仏がたは、 それぞれのおすがたから数限りない光をすべての世界に放ち、 常にすばらしい教えを説きひろめ、 あらゆるものをさとりに至らせるのである。

 

(45)

浄土の七つの宝でできた池は清く済みきって、 不可思議な力をそなえた水が満ちている。 煩悩の汚れのない浄土の功徳は、 思いはかることができない。 あらゆる功徳を収めている功徳蔵に帰命するがよい。

 

(46)

浄土では、 地獄や餓鬼や畜生という迷いの世界の苦しみが完全に断ち切られ、 ただおのずとさとりを開かせる快い音が流れている。 このようなわけで安楽と申しあげる。 功徳がきわまりない無極尊に帰命するがよい。

 

(47)

すべての世界の過去・現在・未来にわたる仏がたは、 みな同じく*一如いちにょに乗じているから、 智慧と慈悲をまどかにそなえたそのさとりは平等である。 それぞれの縁に応じてあらゆるものを摂め取るはたらきは、 思いはかることができない。

 

(48)

阿弥陀仏の浄土に帰依することは、 そのままあらゆる仏がたに帰依することである。 一心にただ阿弥陀仏をほめたたえることは、 あらゆる仏がたをほめたたえることである。

 

(49)

真実の信心を得てまさに聞き信じたところを疑いなく喜ぶものは、 *南無なも不可ふか思議しぎこうぶつをうやうやしく礼拝したてまつるがよい。

 

(50)

阿弥陀仏の智慧と功徳をほめたたえ、 すべての世界の縁あるものに聞かせよう。 すでに真実の信心を得ている人は、 常に仏のご恩に報いるがよい。

 

  以上、 四十八首 愚禿釈親鸞作

 

阿弥陀如来  観世音菩薩

       大勢至菩薩

釈迦牟尼如来 富楼那尊者

       大目犍連

       阿難尊者

頻婆娑羅王  韋提夫人

       耆婆大臣

       月光大臣

提婆尊者   阿闍世王

       雨行大臣

       守門者

 

浄 土 和 讃

愚禿親鸞作

¬大経¼ の意 二十二首

 

(51)

*なんは座から立ち上がり、 釈尊の尊く気高いお姿を仰ぎ見て、 たぐいまれな心がおこったと驚き、 これまでそのようなお姿を拝見したことがないと不思議に思った。

 

(52)

釈尊の輝かしいお姿はたぐいまれなものであり、 そのお心にかなった阿難がわけを尋ねたところ、 釈尊はこの世にお出ましになった本意を説き示された。

 

(53)

釈尊は、 大いなる*ぜんじょうに入って、 ひときわ美しく輝いていらっしゃるそのお姿に気づいた阿難の智慧を見通され、 よくすぐれた問いをおこした、 とおほめになった。

 

(54)

釈尊がこの世にお出ましになった本意は、 阿弥陀仏の本願のおこころをお説きになることであり、 このような仏のお出ましに会うことは難しく、 *どんの咲くことがきわめてまれであるようなものだと説き示された。

 

(55)

阿弥陀仏が仏となってから、 すでに十劫の時を経ていると説かれているが、 果てしなく遠い過去よりも、 さらに久しい仏でいらっしゃる。

 

(56)

南無不可思議光仏は、 かつて*ざいおうぶつのみもとであらゆる仏がたの浄土往生の行をご覧になり、 この上ない本願を選び取られたのである。

 

(57)

何ものにもさまたげられない阿弥陀仏の光には、 *貪欲とんよく*しん*愚痴ぐちの煩悩を滅するはたらきがある。 その功徳は思いはかることができず、 すべての世界のあらゆるものを救うのである。

 

(58)

阿弥陀仏は第十八願に 「心から信じ喜んでわたしの国に生れたいと願うものを救う」 と誓われて、 すべての世界のあらゆるものに他力の信心をお勧めになる。 こうした思いはかることのできない本願を示して真実の浄土に往生する因とされるのである。

 

(59)

真実の信心を得た人は、 ただちに正定聚に入る。 その人は*退転たいてんの位に定まっているので、 必ず仏のさとりを開くこととなる。

 

(60)

阿弥陀仏は深く大いなる慈悲の心から、 思いはかることのできないさとりの智慧をもって*へんじょうなんがんをおこし、 女性に仏のさとりを開かせると誓われた。

 

(61)

阿弥陀仏は第十九願に 「さまざまな功徳を積み、 まことの心でわたしの国に生れたいと願うものを救う」 と誓われて、 すべての世界のあらゆるものを真実に導き入れようと、 さまざまな善い行いにより往生するという*要門ようもんをひらいて、 「命を終えようとする時、 その人の前に現れて迎え取る」 と願われた。

 

(62)

「命を終えようとする時、 その人の前に現れて迎え取る」 という第十九願によって、 釈尊はさまざまな善い行いの功徳をすべて ¬*かんりょう寿じゅきょう¼ に説き示し、 さまざまな行を修めるものを導かれた。

 

(63)

さまざまな善い行いはすべて、 阿弥陀仏が第十九願に誓われているので、 浄土に往生するための*方便ほうべんの善とならないものはない。

 

(64)

阿弥陀仏は第二十願に 「念仏して功徳を積み、 まことの心でわたしの国に生れたいと願うものを救う」 と誓われて、 すべての世界のあらゆるものを真実に導き入れようと、 *りきの念仏により往生するという*真門しんもんをひらいて、 「必ず浄土往生を果たしとげさせる」 と願われた。

 

(65)

「必ず浄土往生を果たしとげさせる」 という第二十願によって、 釈尊は名号にそなわるあらゆる功徳を ¬*弥陀みだきょう¼ に説き示し、 ひたすら念仏に励むものを導かれた。

 

(66)

さまざまな行を修めて往生しようとする自力の心で念仏するものは、 「必ず他力の念仏の法に入らせる」 という第二十願のはたらきによって、 教えないのにおのずと真実の門に入るのである。

 

(67)

阿弥陀仏の浄土に生れようと願いながら、 他力の信心を得ていない人は、 思いはかることのできない仏の智慧のはたらきを疑うことにより、 方便の浄土にとどまってしまうのである。

 

(68)

釈尊がお出ましになった世に生れることは難しく、 また、 仏がたの教えを聞くことも難しい。 菩薩のすぐれた教えを聞くこともまた、 はかり知ることのできない長い年月の中でさえまれなことである。

 

(69)

*ぜんしきに出会うことも、 その教えを説き伝えることも難しい。 また聞くことも難しく、 信じることもなおいっそう難しい。

 

(70)

釈尊が説かれたすべての教えを信じるよりも、 第十八願の真実の信心を得ることはなお難しい。 これはもっとも難しいことであり、 これより難しいことは他にないと説き示されている。

 

(71)

念仏により仏のさとりを開くという教えこそが真実であり、 さまざまな善い行いによりさとりを開くという教えは方便である。 真実と方便を分けることなく、 真実の浄土を決して知ることはできない。

 

(72)

迷いの中にあるものは、 仮の手だてとして説かれた*しょうどうもんの教えに長い間とどまり、 これまで迷いの世界を生まれ変り死に変りし続けてきた。 阿弥陀仏が慈悲の心からおこしてくださった本願真実の教えに帰命するがよい。

 

以上、 ¬大経¼ の意

 

¬観経¼ の意 九首

 

(73)

釈尊の恩徳は広大であり、 光明を放ってその中にすべての仏がたの清らかな国土をお見せになり、 *だいを導いて阿弥陀仏の浄土を選ばせた。

 

(74)

*びんしゃ王は、 仙人が王の子として生れ変るのを待たず、 家来に命じて殺害させたので、 後に子の*じゃにより、 七重に囲まれた牢獄に閉じ込められた。

 

(75)

阿闍世は激しく怒り、 我が母は罪人であるといい放ち、 非道にも母の韋提希を殺害しようと、 剣を抜いて襲いかかった。

 

(76)

*耆婆ぎば*月光がっこうは身を呈し、 このようなことは*せん陀羅だらのすることであるといさめ、 もはやここにいるわけにはいかないと申しあげて、 阿闍世に母の殺害を思いとどまらせた。

 

(77)

耆婆は険のつかに手をかけてじりじりと後ずさりし、 思いとどまった阿闍世は険を捨て、 韋提希を王宮の奥深くに閉じ込めた。

 

(78)

阿弥陀仏と釈尊は、 すべてのものを導く巧みな手だてを施して、 *なん*目連もくれん*楼那るな・韋提希・*だいだっ・阿闍世・頻婆娑羅王・耆婆・月光・*ぎょうなど…

 

(79)

…これらの聖者がたはみなともに、 迷いの底にいる愚かで罪深い人々を、 *ぎゃく*じゅうあくのものをも漏らさない本願の教えに導き入れてくださった。

 

(80)

釈尊と韋提希が、 すべてのものを導く巧みな手だてを施したことによって、 浄土の教えを説き明かす*えんが熟し、 臣下である*雨行の証言により、 阿闍世に五逆の罪をおこさせた。

 

(81)

さまざまな行を修めるものは、 それぞれにおこす自力の*三心さんしんをあらためて、 みな同じく阿弥陀仏の他力の信心を得ようと願うがよい。

 

以上、 ¬観経¼ の意

 

¬弥陀経¼ の意 五首

 

(82)

数限りないすべての世界の念仏するものを見通され、 摂め取って決してお捨てにならないので、 阿弥陀と申しあげる。

 

(83)

数限りない仏がたは、 さまざまな行を修めて得られるわずかな功徳を退けて、 思いはかることのできない名号のはたらきによる信心を、 みな同じく、 ひとえにお勧めになる。

 

(84)

すべての世界の数限りない仏がたは、 自力では信じることができない他力の念仏の教えを説き示し、 さまざまな濁りと悪に満ちた世のもののために、 その教えが真実であると証明し、 信じて念仏するものをお護りになっている。

 

(85)

あらゆる仏がたが念仏するものをお護りになり、 その教えが真実であると証明されるのは、 *だいがんが成就したことによるのであるから、 決して壊れることのない信心を得ている人は阿弥陀仏の大いなるご恩に報いるがよい。

 

(86)

釈尊は、 さまざまな濁りと悪に満ちた時代の中で、 よこしまな考えにとらわれているものに、 阿弥陀仏の名号をお与えになり、 数限りない仏がたは、 その教えをお勧めになっている。

 

以上、 ¬弥陀経¼ の意

 

諸経の意によりて弥陀和讃 九首

 

(87)

無明煩悩の長い闇に迷い続けるものを哀れんで、 阿弥陀仏がさとりの身から放たれる光はどこまでも果てしなく、 何ものにもさまたげられない*無礙むげこうぶつとしてその姿を浄土に現される。

 

(88)

はかり知ることのできない遠い昔からすでに仏であった阿弥陀仏は、 さまざまな濁りに満ちた世の愚かな*ぼんを哀れんで、 釈尊としてその姿を*迦耶がやじょうに現される。

 

(89)

たとえ百千万億劫もの間、 百千万億のものがみな、 数限りない言葉を尽して阿弥陀仏をほめたたえても、 たたえ尽すことはできない。

 

(90)

釈尊は、 浄土には往生しやすいと説き示された。 その教えを疑うものは、 真実を見ることのできない人であり、 真実を聞くことのできない人であるといわれている。

 

(91)

この上ないさとりである無上上は、 迷いの世界を完全に離れた真解脱であり、 この真解脱は、 真実のさとりを得た*如来にょらいである。 真解脱にいたってはじめて、 貪りや疑いのない境地が現れるのである。

 

(92)

すべてのものを分け隔てなく見る心を得る境地を、 あらゆるものをひとり子のように哀れむ一子地と申しあげる。 この一子地は*ぶっしょうである。 浄土に至ってはじめてさとることができる。

 

(93)

如来はすなわち*はんである。 この涅槃を仏性と申しあげる。 凡夫には、 これをさとることができない。 浄土に至ってはじめてさとることができる。

 

(94)

信心を得て喜ぶ人のことを、 如来と等しいと説かれている。 大いなる信心は仏性である。 仏性はすなわち如来である。

 

(95)

煩悩にまみれた知恵で、 何ものにもさまたげられない阿弥陀仏の智慧を疑うものは、 *けんごくよりもさらに重い苦を受ける地獄で、 はかり知れないほど長い間、 果てしない苦しみに沈み続けるのである。

 

以上、 諸経の意

 

現世利益和讃 十五首

 

(96)

阿弥陀仏が釈尊としてその姿を現し、 災いをしずめて寿命をまっとうさせるために説き残されたのが、 ¬*金光こんこうみょうきょう¼ 「寿量品」 の教えである。

 

(97)

比叡山の*さいちょうは、 国中の苦しむ人々を哀れんで、 さまざまな災いを除く教えの中で、 南無阿弥陀仏を称えるのがよいといわれている。

 

(98)

あらゆる功徳に超えすぐれた南無阿弥陀仏を称える身になると、 過去・現在・未来の重い罪もみな、 必ず転じて軽くかすかなものとなる。

 

(99)

南無阿弥陀仏を称える身になると、 この世で得る利益は果てしない。 迷いの世界を生れ変り死に変りし続ける罪も消え、 寿命に限りがあることや、 その途中で死んでしまうという恐れも断ち切られる。

 

(100)

南無阿弥陀仏を称える身になると、 *梵天ぼんてんのう*たいしゃくてんも帰依し敬う。 その眷属である神々もみな、 昼夜を問わず常に護るのである。

 

(101)

南無阿弥陀仏を称える身になると、 *てんのうはみなともに、 昼夜を問わず常に護ってあらゆる邪悪な鬼を近づけない。

 

(102)

南無阿弥陀仏を称える身になると、 大地の神々も尊び敬う。 陰がものの形に添うように、 昼夜を問わず常に護るのである。

 

(103)

南無阿弥陀仏を称える身になると、 *なんりゅうおう跋難ばつなんりゅうおうなど、 数限りない*りゅうじんも尊び敬って、 昼夜を問わず常に護るのである。

 

(104)

南無阿弥陀仏を称える身になると、 *えんおうも尊び敬う。 そのもとで罪を裁く地獄の役人たちもみな、 昼夜を問わず常に護るのである。

 

(105)

南無阿弥陀仏を称える身になると、 *他化たけざいてんの魔王でさえも、 そのものを護ろうと、 釈尊の前で誓ったのである。

 

(106)

天地の大いなる神々は、 みな善*じんと申しあげる。 これらの神々はみなともに、 念仏する人を護るのである。

 

(107)

思いはかることのできない本願のはたらきによる信心は、 大いなるさとりを求める心でもあるので、 天地に満ちている悪鬼神がみなそろって畏れるのである。

 

(108)

南無阿弥陀仏を称える身になると、 観音菩薩と勢至菩薩は数限りない菩薩がたとともに、 影のようにその身に付き添ってくださる。

 

(109)

何ものにもさまたげられない阿弥陀仏の光には、 数限りない*しんの仏がおいでになり、 みなそれぞれに真実の信心をお護りになるのである。

 

(110)

南無阿弥陀仏を称える身になると、 すべての世界の数限りない仏がたは、 百重にも千重にも取りかこみ、 喜んでお護りになるのである。

 

以上、 現世利益

 

現世利益和讃 十五首

 

(111)

勢至菩薩は念仏によるまどかなさとりを開き、 五十二人の菩薩がたとともにただちに座から立ち上がり、 仏の足をおしいただいて礼拝し…

 

(112)

…釈尊に申しあげる。 はかり知ることのできない遠い昔に、 仏が世にお出ましになった。 その名は無量光仏とおっしゃったのである。

 

(113)

最初の無量光仏から*十二の仏がたが、 十二劫の時をかけて相次いでお出ましになった。 その最後の仏の名は超日月光仏とおっしゃったのである。

 

(114)

超日月光仏がわたしに、 他力の念仏をお教えになった。 すべての世界の仏がたは、 あらゆるものをひとり子のようにお哀れみになる。

 

(115)

子が母を慕うように、 命あるものが阿弥陀仏を心から信じると、 この世でも次の世でも、 間違いなく仏を見ることができる。

 

(116)

かぐわしい念仏の心をもっている人は、 その身から智慧の香気を放っているようである。 このように香気で飾られていることを、 *香光こうこうしょうごんと申しあげるのである。

 

(117)

わたしがかつてさとりを求めていた時、 念仏の心により*しょう法忍ぼうにんの位に入ったのであるから、 いまこの*しゃ世界において…

 

(118)

…念仏の人を摂め取り、 阿弥陀仏の浄土に往生させるのである。 このように説かれる勢至菩薩の大いなるご恩に報いるがよい。

 

以上、 大勢至菩薩

 *源空げんくうしょうにんのご*ほんである。

 

この偈を…安養ともいう 原文は、 「釈して ¬無量寿傍経¼ と名づく、 讃めたてまつりてまた安養といふ」 であるが、該当する ¬讃阿弥陀仏偈¼ の 「釈名無量寿傍経讃亦曰安養」 は通常、 「釈して無量寿と名づく。 経に傍へて奉讃す。 また安養ともいふ」 と読み、 その場合は曇鸞大師が、 ¬讃阿弥陀仏偈¼ の術意として、 「ª無量寿経º に傍へて讃嘆したてまつる」 ことを示された文という意味になる。 しかし、 親鸞聖人は、 ¬讃阿弥陀仏偈¼ は 「無量寿経」 と同等の意義を持つとみて、 このように読まれていると考えられる。
光明無量の願…はたらきは 原文は、 「因光成仏のひかりをば」 であるが、 このなか、 「因光成仏」 について、 「阿弥陀仏が、 第十二願の光明無量の願を因として成仏している」 とみる解釈と、 「衆生が、 阿弥陀仏の光明のはたらきにって成仏する」 とみる解釈がある。 本現代語訳では、 左訓に 「ヒカリキハナカラントチカヒタマヒテムゲクワウブチトナリテオハシマストシルベシ」 とあることから、 前者にしたがって訳しておいた。
南無不可思議光  → 南無阿弥陀仏
あらゆる…身にそなえ 原文は、 「如来の法蔵あつめてぞ」 であるが、 これについて 「浄土の聖衆が、 諸仏の国に赴いて功徳を集める」 とみる解釈と、 「阿弥陀仏が、 あらゆる法門の功徳を名号に集める」 とみる解釈がある。 この和讃は、 ¬讃阿弥陀仏偈¼ に、

安楽国土のもろもろの声聞は、 みな光一尋にして流星のごとし。 菩薩の光輪は四千里にして、 秋の満月の紫金に映ずるがごとし。 仏の法蔵を集めて衆生のためにす。 ゆゑにわれ大心海を頂礼したてまつる。

とある文に依られたものであり、 阿弥陀仏の浄土の声聞や菩薩の光明を讃えられている箇所である。 したがって、 「仏の法蔵を集めて衆生のためにす」 るのは 「浄土の聖衆」 であり、 また、 「法蔵」 の左訓に 「ヨロヅノ仏ノクドクナリ」 とあることから、 本現代語訳においては、 「浄土の聖衆が、 諸仏の国に赴いて功徳を集めては、 阿弥陀仏の本願に帰すべきことを勧めている」 という意であるとみて訳しておいた。
観音菩薩と勢至菩薩は、 ともに 原文は、 「観音・勢至もろともに」 であるが、 このなか、 「もろともに」 について、 「観音菩薩と勢至菩薩とがともに」 とみる解釈と、 「還相の菩薩と二菩薩とがともに」 とみる解釈がある。 前者は、 「阿弥陀仏の徳をそなえる観音菩薩と勢至菩薩とが、 ともに衆生を摂化する」 という意となり、 後者は、 「還相の菩薩が、 二菩薩とともに、 衆生を摂化する」 という意となる。 この和讃は、 ¬讃阿弥陀仏偈¼ に、

また観世音・大勢至は、 もろもろの聖衆において最第一なり。 慈光大千界を照曜し、 仏の左右に侍して神儀を顕す。 もろもろの有縁を度してしばらくもまざること、 大海の潮の時を失せざるがごとし。

とある文に依られたものと考えられるので、 本現代語訳においては、 阿弥陀仏の衆生摂化のはたらきを二菩薩に集約するかたちであらわされたものであるとみて、 前者にしたがって訳しておいた。
自利と…たてまつる 原文は、 「自利利他円満して帰命方便巧荘厳」 であるが、 このなか、 「帰命方便巧荘厳」 について、 「衆生を帰命させる巧みな荘厳」 とみる解釈と、 「巧みな荘厳に衆生が帰命する」 とみる海釈がある。 本現代語訳では、 左訓に 「ハウベンゲウシヤウゴムニクヰミヤウシタテマツルト」 とあることから、 後者にしたがって訳しておいた。
真実の信心を得て…喜ぶものは 原文は、 「信心歓喜慶所聞 乃曁一念至心者」 であるが、 このなか、 「至心者」 について、 一念の信心を得たものとみる解釈と、 阿弥陀仏とみる解釈がある。 前者は、 一念の信心を得たものは南無不可思議光に礼拝すべきであるということを示されたものとみる解釈であり、 後者は、 「信文類」 に引用されている ¬讃阿弥陀仏偈の文、 すなわち、

あらゆるもの、 阿弥陀の徳号を聞きて、 信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、 いまし一念におよぶまでせん。 至心のひと回向したまへり。 生ぜんと願ずればみな往くことを得しむ。 ただ五逆と謗正法とをばく。 ゆゑにわれ頂礼して往生を願ず。

とある文を受けた解釈である。 この 「信文類」 の引用は、 一念の信心が阿弥陀仏の回向であるということを明らかにするためであるので、 本現代語訳では、 前者にしたがって訳しておいた。
南無不可思議光仏  → 南無阿弥陀仏
女性に…誓われた 聖典が成立して当時の社会にあっては、 女性は不浄な存在であり、 また劣った存在であるとする差別的な通念があった。 そのことに対しての一つの解答が ¬大経¼ の第三十五願である。
 釈尊は比丘尼、 沙弥尼として女性の出家を許され、 経典には実際に悟りを開いた女性の存在が伝えられ、 悟りを開くのに男女の差のないことが初期の教団では立証されていた。
 ところが、 後世の教団では五障説を唱えて、 女性は仏になれないとした。 五障とは五つの障り、 すなわち①梵天王になれない、 ②帝釈天になれない、 ③魔王になれない、 ④転輪聖王になれない、 ⑤仏になれない、 というものである。 この女人五障説が成立する一つの要因であったと考えられるものに、 当時のインド社会の通念であった女人三従説がある。 三従とは、 「子どものときは父に、 若いときは夫に、 夫が死んだときは息子に従わなければならない」 (¬マヌ法典¼) ということである。 このような思想に影響されて、 後世の教団では、 女性は世間的にも出世間的にも指導者にはなれず、 また成仏もできないという考えがひろまったのである。
 これに対して大乗仏教では、 男女に関わらず成仏できる道を示した。 すなわち、 ¬法華経¼ の 「提婆品」 には、 女人は五障があって成仏できないであろうとする舎利弗の義門に対して、 八歳の竜女が女身を転じて男身となり成仏していくことが説かれている。 また ¬大経¼ の第三十五願には、 本願力によって女身を転ずると誓われている。 親鸞聖人は、 ¬浄土和讃¼ の中でこの変成男子を 「女人成仏ちかひたり」 と女人成仏の願と受け止めるとともに、 さらに 「貴賎緇素を簡ばず、 男女・老少をいはず」 といい、 阿弥陀如来の本願は、 男性も女性もまったく差別なく、 すべてのものをひとしく救済するとあらわされている。
 現代の一般社会にも、 男性中心の考え方がみられるが、 これらは性差別の思想であるといえよう。 仏教は、 本来、 このような考え方を否定するものであったにもかかわらず、 性差別の現実が温存され、 またそれを容認してきたことに対して、 われわれは厳しく反省し課題としなければならない。 すべての存在は平等であり、 性によって差別されてはななないのである。
阿弥陀仏…誓われているので 原文は、 「至心発願せるゆゑに」 であるが、 このなか、 「至心発願」 について、 「衆生が至心発願する」 とみる解釈と、 「阿弥陀仏が至心発願する」 とみる解釈がある。 前者は、 「自力の心で修める行であっても、 衆生が至心発願するために浄土往生のための方便の善とならないものはない」 という意となり、 後者は、 「衆生が自力の心で行を修めたとしても、 阿弥陀仏がそのようなものも救いたいと至心発願されているために、 自力の行が浄土往生のための方便善とならないものはない」 という意となる。 本現代語訳では、 「至心発願」 の左訓に 「アミダニヨライノオムコヽロザシナリ ヨロヅノゼン人ヲスヽメタマフチカヒ也」 とあることから、 後者にしたがって訳しておいた。
必ず…入らせる 関連する部分を含めて原文を抜き出すと、 「定散自力の称名は 果遂のちかひに帰してこそ」 であるが、 このなか、 「果遂のちかひ」 について、 「自力念仏のものを方便の浄土に往生させる誓い」 とみる解釈と、 「自力念仏のものを他力念仏の法に入らせる誓い」 とみる解釈がある。 ¬教行信証¼ 「化身土文類」 に、

しかるにいまことに方便の真門を出でて、 選択の願海に転入せり。 すみやかに難思往生の心を離れて、 難思議往生を遂げんと欲す。 果遂の誓、 まことに由あるかな。

とあることから、 本現代語訳では、 後者にしたがって訳しておいた。
このようなことは旃陀羅のすることである 旃陀羅とは、 梵語チャンダーラ (caņđāla) の音写で、 語源的にはチャンダ (caņđa)、 「激しい、 獰猛な、 残酷な」 から来た語とみられている。 中国では、 ごんしゅう暴悪ぼうあくにんしゃ殺者せっしゃなどと訳している。 この旃陀羅が最下層の身分のもので、 ここでは母殺しをするような凶悪な性格をもっていると位置づけられているのである。
 古代インドのカースト社会で、 旃陀羅は四姓の身分からもれた卑しくて汚れたものとされたグループであった。 ¬マヌ法典¼ によれば、 梵天 (ブラフマン) の口から司祭者 (ブラーフマナ)、 腕から王族 (クシャトリヤ)、 腿から庶民 (ヴァイシャ)、 足から隷民れいみん(シュードラ) がそれぞれ生れたとしている。 しかし、 旃陀羅は梵天から生れたものでないから、 アウトカーストとして人間以下の犬や豚と同じ存在であるとみなされていた。 ¬大経¼ の第四十三願に、 「人々に尊ばれる家に生れる」 と誓われているのは、 こうした固定した上下関係のある身分社会の反映であろう。
 もちろん、 この身分制度は支配者が権力を維持するために、 神の名によって権威づけ、 人為的につくったものであることはいうまでもない。 旃陀羅階級には財産を持たせず、 行刑や、 屠殺、 清掃等の仕事を強制して行わせ、 教育を受けることを許さず、 ヴェーダ聖典を聞かせないなど、 これらをすべて神の律法として制度化したのである。 この制度は、 歴史を通じて長く伝承されてきた。 これを打破しようとする運動がおこなわれているが、 差別の現実はいまだに解消されていない。
 釈尊が、 こうしたインド社会にあって生れによる貴賎・尊卑という考え方を否定し、 一切のものの平等を説き、 一人ひとりの人間の行為に注目されたことはよく知られている。 しかしながら、 仏教の長い歴史のなかには、 「旃陀羅は悪人である」 とか 「母をも殺すようなものである」 というような言葉を用いて、 生れによるとして社会的に差別されている人々を、 さらに倫理的にもさげすみ差別してきたこともあった。
 インドだけでなく中国や日本でも同様である。 江戸時代には、 このインドに起源をもつ旃陀羅と、 その成立を異にしている中国の屠者と日本の被差別身分である 「穢多えたにん」 を無理に結びつけて差別の合理化がはかられた。 そして被差別身分の人々には、 その死後に 「桃源旃陀羅男」 などの戒名をつけ、 墓石に刻みつけて差別したのである。
 ¬観経¼ などの註釈書に、 「旃陀羅は日本にていへば穢多といへるごとく、 常人の交際のならぬものなり」 などといい、 近年まで、 「無道に母を害し給ふは、 穢多非人のわざでる」 と註釈した解説書もあった。 このように経典の権威によって差別を正当化するだけではなく、 旃陀羅の存在は過去世の行いの結果であるとされてきた事実をふまえ、 「穢多・非人」 の存在が過去世の行いの結果であるとし、 差別の合理化を支える役割も果たしてきた。 こうした差別的な理解が布教の現場でもなされ、 旃陀羅を部落差別を温存し助長する用語として利用してきたが、 そのことをわれわれは厳しく反省しなければならない。
 仏教は、 本来差別を否定するものであったにもかかわらず、 古代からの日本の仏教の大勢は、 その時々の支配権力と結んで社会的な身分差別を容認してきた。 そうした歴史的状況の中にあって善悪、 賢愚、 貴賎をえらばず、 万人を平等に摂取したもう阿弥陀如来の本願こそ真実であると信知し、 人間がつくりあげた身分や職業の貴賎といった差別を課題とし、 すべての人間の尊厳と平等を明確に主張していかれたのが親鸞聖人であった。 われわれは、 この親鸞聖人の教えに基づき、 経典の成立した時代背景や思想を十分に留意して、 経の真意を読み取っていかなければならない。 決して身分差別意識を再生産することがあってはならないし、 身分制度によって形づくられた差別を容認することもあってはならない。
もはやここにいるわけにはいかない 原文は、 「不宜住此」 であり、 これは ¬観経¼ の 「王いまこの殺逆の事をなさば、 刹利種を汚さん。 臣聞くに忍びず。 これ旃陀羅なり。 よろしくここに住すべからず」 とある文によられたものであるが、 そこでは 「よろしく此に住すべからず (不宜住此)」 という語の主語が明示されていない。 そのため、 月光と耆婆が阿闍世のもとを去ろうとする言葉とみる解釈と、 実母に手をかけるような阿闍世に城から立ち去ることを求める言葉とみる解釈がある。 本現代語訳では、 前者にしたがって訳しておいた。
耆婆…手をかけて 原文は、 「耆婆大臣おさへてぞ」 であるが、 このなか、 「おさへてぞ」 について解釈が分かれている。 一つには 「耆婆が阿闍世の殺意をおさえ止めた」 という意であるとみる解釈、 二つには 「耆婆が阿闍世の剣のつかに手をかけておあえた」 という意であるとみる解釈、 三つには 「耆婆が自らの剣のつかに手をかけておあえた」 という意であるとみる解釈などである。 本現代語訳では、 ¬観経¼ に 「時にふたりの大臣、 この語を説きおはりて、 手をもって剣を按へて却行して退く」 とある文により、 最後の意にしたがって訳しておいた。
万億 原文の 「倶胝」 は、 梵語コーティの音写で、 数の単位をあらわす。 十万、 千万、 または億、 万億あるいは京とするなど所説があるが、 本現代語訳では、 左訓に 「マンオクヲクテイトイフ クテイトイフハテンヂクノコトバナリ」 とあることにしたがって訳しておいた。
真実を見ることのできない人・真実を聞くことのできない人 原文は、 「無眼人」 「無耳人」 であるが、 これは ¬安楽集¼ 所引の ¬目連所問経¼ に、

このゆゑにわれ説く、 「無量寿仏国は往きやすく取りやすし。 しかるに人修行して往生することあたはず、 かへりて九十五種の外道に事ふ」 と。 われこの人を説きて無眼人と名づけ、 無耳人と名づく。

とある文に依られたものと考えられる。 ここで、 「われこの人を説きて無眼人と名づけ、 無耳人と名づく」 とは、 づすでに真実の教えが説かれ、 浄土に往生する道が示されているにもかかわらず、 そのことを見ようともせず、 またその教えを聞こうともせずに、 邪な教えに身を委ねる人々を指し、 真実の道に入らせようと説かれたものにほかならない。
 しかし、 それらの人々を 「無眼人」 「無耳人」 とたとえ、 ものの価値を見分ける力のないことを否定的な表現で示すことにより、 身心に障がいをもつ人を差別して傷つけ痛めつけることになるのなら、 それは大きな誤りといわねばならない。 ところが、 そういう障がいをもつ人がこれまで差別されてきた事実がある。 ¬無量寿経¼ の第四十一願には、

たとひわれ仏を得たらんに、 他方国土の諸菩薩衆、 わが名字を聞きて、 仏を得るに至るまで、 諸根闕陋して具足せずは、 正覚を取らじ。

と誓われて、 諸根すなわち眼や耳などがないものをなくそうといわれているのは、 聖典が成立した当時の社会において、 そのように障がいのあるものは劣っているという通念があったからであろう。
 しかし、 一切の平等を説く教えが仏教であり、 阿弥陀仏の本願は、 すべてのものを差別なく平等に救うと誓われているのである。 障害のある人を特別な存在といなして差別し、 避難やそしりの対象とすることも、 また譬喩に用いることにより傷つけ痛めつけることも、 許されることではない。 さらには、 その障がいの原因が過去世の行いの報いであるとして差別意識を助長することもとうてい是認されることではない。
思いはかることのできない…信心 原文は、 「願力不思議の信心」 であるが、 これについて、 「本願の不可思議なはたらきを信じる」 とみる解釈と、 「本願の不可思議なはたらきによって得た信心」 とみる解釈がある。 本現代語訳では、 後者にしたがって訳しておいた。
称讃浄土教… 英訳を参考に、 聖典全書 (中段・国宝本) の原文より有国が現代語訳した。
六つの光 青・白・玄・黄・朱・紫の六色の光のこと。
阿難… 親鸞聖人は、 阿難をはじめとするこれらすべての方々を、 仏やさつしゅじょうを救うためにさまざまな姿をとって仮にこの世に現れた 「ごんにん」 であると見られた。
機縁 教えを信受しんじゅするしゅじょう、 また教えを説くにふさわしい状況のこと。
雨行の証言 だいだっが語った阿闍世の出生に関する過去の因縁いんねんが本当であると雨行が証言したこと。
迦耶城 通常は釈尊じょうどうの地、 ぶっ伽耶がやのこと。 伽耶がやじょうともいう。 ここでは、 左訓に 「じょうぼん大王のわたらせたまひしところを伽耶城といふなり」 とあることから、 しゃぞくの都城、 カピラヴァストゥのこと。
難陀竜王や跋難陀竜王 八大竜王の中の二竜王。 竜王は仏法を護持する鬼神。
竜神 仏法を護持する鬼神のこと。
十二の仏 十二光仏のこと。 阿弥陀仏の光明の徳を十二光に分けて称讃したもの。 ¬大経¼ には、 無量光・無辺光・無礙光・無対光・炎王光・清浄光・歓喜光・智慧光・不断光・難思光・無称光・超日月光の十二光仏が説かれている。
香光荘厳 阿弥陀仏よりたまわった智慧の香りと光によって、 念仏者の人生が美しく飾られること。
本地 本体。 本源。 しゅじょうさいのために現した仮の姿であるすいじゃくしんに対して、 その本体の仏・菩薩をいう。 源空上人は勢至菩薩の化身と信じられていた。