四(441)、 念仏往生要義抄
▲念仏往生要義抄 第四 黒谷作
それ念仏往生は、 十悪・五逆をえらばず、 迎摂するに十声・一声をもてす。 聖道諸宗の成仏は、 上根・上智をもととするゆへに、 声聞・菩薩を機とす。 しかるに世0442すでに末法になり、 人みな悪人なり。 はやく修しがたき教を学せんよりは、 行じやすき弥陀の名号をとなへて、 このたび生死の家をいづべき也。
たゞしいづれの経論も、 釈尊のときおき給へる経教なり。 しかれば、 ¬法花¼・¬涅槃¼ 等の大乗経を修行して、 ほとけになるになにのかたき事あらん。
それにとりて、 いますこし ¬法花経¼ は、 三世の諸仏もこの経によりてほとけになり、 十方の如来もこの経によりて正覚をなり給ふ。 しかるに ¬法花経¼ なんどをよみたてまつらんに、 なにの不足かあらん。 かように申す日は、 まことにさるべき事なれども、 われらが器量は、 この教におよばざるなり。 そのゆえは、 ¬法花¼ には菩薩・声聞を機とするゆへに、 われら凡夫はかなふべからずとおもふべき也。
しかるに阿弥陀ほとけの本願は、 末代のわれらがためにおこし給へる願なれば、 利益いまの時に決定往生すべき也。 わが身は女人なればとおもふ事なく、 わが身は煩悩悪業の身なればといふ事なかれ。
もとより阿弥陀仏は、 罪悪深重の衆生の、 三世の諸仏も、 十方の如来も、 すてさせ給ひたるわれらをむかえんとちかひ給ひける願にあひたてまつれり。 往生うたがひなしとふかくおもひいれて、 南無阿弥陀仏、 南無阿弥陀仏と申せば、 善人も悪人も、 男子も女人も、 十人は十人ながら百人は百人ながら、 み0443な往生をとぐる也。
問ていはく、 称名念仏申す人は、 みな往生すべしや。 答ていはく、 他力の念仏は往生すべし、 自力の念仏はまたく往生すべからず。
問ていはく、 その他力の様いかむ。 答ていはく、 たゞひとすぢにわが身の善悪をかえりみず、 決定往生せんとおもひて申すを、 他力の念仏といふ。 たとへば麒麟の尾につきたる蝿の、 ひとはねに千里をかけり、 輪王の御ゆきにあひぬる卑夫の、 一日に四天下をめぐるがごとし。 これを他力と申す也。 又おほきなる石をふねにいれつれば、 時のほどにむかひのきしにとづくがごとし。 またくこれは石のちからにはあらず、 ふねのちからなり。 それがやうに、 われらがちからにてはなし、 阿弥陀ほとけの御ちから也。 これすなはち他力なり。
問ていはく、 自力といふはいかん。 答ていはく、 煩悩具足して、 わろき身をもて煩悩を断じ、 さとりをあらはして成仏すと心えて、 昼夜にはげめども、 无始より貪瞋具足の身なるがゆえに、 ながく煩悩を断ずる事かたきなり。 かく断じがたき无明煩悩を、 三毒具足の心にて断ぜんとする事、 たとへば須弥を針にてくだき、 大海を芥子のひさくにてくみつくさんがごとし。 たとひはりにて須弥をくだき、 芥0444子のひさくにて大海をくみつくすとも、 われらが悪業煩悩の心にては、 広劫多生をふとも、 ほとけにならん事かたし。 そのゆえは、 念々歩々におもひと思ふ事は、 三塗八難の業、 ねてもさめても案じと案ずる事は、 六趣四生のきづな也。 かゝる身にては、 いかでか修行学道をして成仏はすべきや。 これを自力とは申す也。
問ていはく、 聖人の申す念仏と、 在家のものゝ申す念仏と、 勝劣いかむ。 答ていはく、 聖人の念仏と、 世間者の念仏と、 功徳ひとしくして、 またくかわりめあるべからず。
疑ていはく、 この条なを不審也。 そのゆへは、 女人にもちかづかず、 不定の食もせずして申さん念仏は、 たとかるべし。 朝夕に女境にむつれ、 酒をのみ不浄食をして申さん念仏は、 さだめておとるべし。 功徳いかでかひとしかるべきや。
答ていはく、 功徳ひとしくして勝劣あるべからず。 そのゆへは、 阿弥陀仏の本願のゆえをしらざるものゝ、 かゝるおかしきうたがひをばする也。
しかるゆえは、 むかし阿弥陀仏、 二百一十億の諸仏の浄土の、 荘厳・宝楽等の誓願・利益にいたるまで、 世自在王仏の御まへにしてこれを見給ふに、 われらごときの妄想顛倒の凡夫のむまるべき事のなき也。
されば善導和尚釈していはく、 「▲一切仏土皆厳浄、 凡夫0445乱想恐難生」 (法事讃巻下) といへり。 この文の心は、 一切の仏土はたえなれども、 乱想の凡夫はむまるゝ事なしと釈し給ふ也。 おのおの御身をはからひて、 御らんずべきなり。
そのゆへは、 口には経をよみ、 身には仏を礼拝すれども、 心には思はじ事のみおもはれて、 一時もとゞまる事なし。 しかれば、 われらが身をもて、 いかでか生死をはなるべき。 かゝりける時に、 広劫よりこのかた、 三塗八難をすみかとして、 洞燃猛火に身をこがしていづる期なかりける也。 かなしきかなや、 善心はとしどしにしたがひてうすくなり、 悪心は日々にしたがひていよいよまさる。 されば古人のいへる事あり、 「煩悩は身にそへる影、 さらむとすれどもさらず。 菩提は水にうかべる月、 とらむとすれどもとられず」 と。
このゆへに、 阿弥陀ほとけ五劫に思惟してたて給ひし深重の本願と申すは、 善悪をへだてず、 持戒・破戒をきらはず、 在家・出家をもえらばず、 有智・无智をも論ぜず、 平等の大悲をおこしてほとけになり給ひたれば、 たゞ他力の心に住して念仏申さば、 一念須臾のあひだに、 阿弥陀ほとけの来迎にあづかるべき也。
むまれてよりこのかた女人を目に見ず、 酒肉五辛ながく断じて、 五戒・十戒等かたくたもちて、 やん事なき聖人も、 自力の心に住して念仏申さんにおきては、 仏の来迎にあづからん事0446、 千人が一人、 万人が一、 二人などや候はんずらん。 それも善導和尚は、 「▲千中无一」 (礼讃) とおほせられて候へば、 いかゞあるべく候らんとおぼへ候。
およそ阿弥陀仏の本願と申す事は、 やうもなくわが心をすませとにもあらず、 不浄の身をきよめよとにもあらず、 たゞねてもさめても、 ひとすじに御名をとなふる人をば、 臨終にはかならずきたりてむかへ給ふなるものをといふ心に住して申せば、 一期のおはりには、 仏の来迎にあづからん事うたがひあるべからず。 わが身は女人なれば、 又在家のものなればといふ事なく、 往生は一定とおぼしめすべき也。
問ていはく、 心のすむ時の念仏と、 妄心のなかの念仏と、 その勝劣いかむ。 答ていはく、 その功徳ひとしくして、 あえて差別なし。
疑ていはく、 この条なを不審なり。 そのゆへは、 心のすむ時の念仏は、 余念もなく一向極楽世界の事のみおもはれ、 弥陀の本願のみ案ぜらるゝがゆへに、 まじふるものなければ清浄の念仏なり。 心の散乱する時は、 三業不調にして、 口には名号をとなへ、 手には念誦をまはすばかりにては、 これ不浄の念仏也。 いかでかひとしかるべき。
答ていはく、 このうたがひをなすは、 いまだ本願のゆへをしらざる也。 阿弥陀仏は悪業の衆生をすくはんために、 生死の大海に弘誓のふねをうかべ0447給へる也。 たとへばふねにおもき石、 かろきあさがらをひとつふねにいれて、 むかひのきしにとづくがごとし。 本願の殊勝なることは、 いかなる衆生も、 たゞ名号をとなふるほかは、 別の事なき也。
問ていはく、 一声の念仏と、 十声の念仏と、 功徳の勝劣いかむ。 答ていはく、 たゞおなじ事也。
疑ていはく、 この事又不審なり。 そのゆへは、 一声・十声すでにかずの多少あり、 いかでかひとしかるべきや。
答。 このうたがひは、 一声・十声と申す事は最後の時の事なり。 死する時、 一声申すものも往生す、 十声申すものも往生すといふ事なり。 往生だにもひとしくは、 功徳なんぞ劣ならん。
本願の文に、 「▲設我得仏、 十方衆生、 至心信楽、 欲生我国、 乃至十念、 若不生者、 不取正覚」 (大経巻上)。 この文の心は、 法蔵比丘、 われほとけになりたらん時、 十方の衆生、 極楽にむまれんとおもひて、 南無阿弥陀仏と、 もしは十声、 もしは一声申さん衆生をむかへずは、 ほとけにならじとちかひ給ふ。 かるがゆへにかずの多少を論ぜず、 往生の得分はおなじき也。 本願の文顕然なり、 なんぞうたがはんや。
問ていはく、 最後の念仏と平生の念仏と、 いづれかすぐれたるや。 答ていはく、 た0448ゞおなじ事也。 そのゆへは、 平生の念仏、 臨終の念仏とて、 なんのかはりめかあらん。 平生の念仏の死ぬれば臨終の念仏となり、 臨終の念仏ののぶれば平生の念仏となる也。
難じていはく、 最後の一念は百年の業にすぐれたりと見えたり。 いかむ。 答ていはく、 このうたがひは、 この文をしらざる難なり。 いきのとゞまる時の一念は、 悪業こはくして善業にすぐれたり、 善業こはくして悪業にすぐれたりといふ事也。 たゞしこの申す人は念仏者[に]て[は]なし、 もとより悪人の沙汰をいふ事也。 平生より念仏申して往生をねがふ人の事をば、 ともかくもさらに沙汰におよばぬ事也。
問ていはく、 摂取の益をかうぶる事は、 平生か臨終か、 いかむ。 答ていはく、 平生の時なり。 そのゆへは、 往生の心ま事にて、 わが身をうたがふ事なくて、 来迎をまつ人は、 これ三心具足の念仏申す人なり。 この三心具足しぬればかならず極楽にうまるといふ事は、 ¬観経¼ の説なり。 かゝる心ざしある人を、 阿弥陀仏は八万四千の光明をはなちててらし給ふ也。 平生の時てらしはじめて、 最後まですて給はぬなり。 かるがゆへに不捨の誓約と申す也。
問0449ていはく、 智者の念仏と、 愚者の念仏[と、 いづ]れも差別なしや。 答ていはく、 ほとけの本願にとづかば、 すこしの差別もなし。 そのゆへは、 阿弥陀仏、 ほとけになり給はざりしむかし、 十方の衆生わが名をとなへば、 乃至十声までもむかへむと、 ちかひをたて給ひけるは、 智者をえらび、 愚者をすてんとにはあらず。
されば ¬五会法事讃¼ (巻本) にいはく、 「不簡多聞持浄戒、 不簡破戒罪根深、 但使廻心多念仏、 能令瓦礫変成金」。 この文の心は、 智者も愚者も、 持戒も破戒も、 たゞ念仏申さば、 みな往生すといふ事也。 この心に住して、 わが身の善悪をかえりみず、 ほとけの本願をたのみて念仏申すべき也。
このたび輪廻のきづなをはなるゝ事、 念仏にすぎたる事はあるべか[らず]。 このかきおきたるものを見て、 そしり謗ぜんともがらは、 かならず九品のうてなに縁をむすび、 たがひに順逆の縁むなしからずして、 一仏浄土のともたらむ。
そもそも機をいへば、 五逆重罪をえらばず、 女人・闡提をもすてず、 行をいへば、 一念・十念をもてす。 これによて、 五障・三従をうらむべからず。 この願をたのみ、 この行をはげむべき也。 念仏のちからにあらずは、 善人なをむまれがたし、 いはんや悪人をや。 五念に五障を消し、 三念に三従を滅して、 一念に臨終の来迎をか0450うぶらんと、 行住坐臥に名号をとなふべし、 時処諸縁にこの願をたのむべし。
あなかしこ、 あなかしこ。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 ▽