◎如来二種回向文
【1】 ^¬*浄土論¼ にいわれている。
^「回向してくださるとはどういうことであろうか。 *阿弥陀仏は苦しみ悩むすべてのものを捨てることができず、 いつも功徳を与えようと願い、 その回向を本として大いなる慈悲の心を成就されたのである」
^この*本願のはたらきとしての回向について、 如来の回向に二種の相がある。 一つには*往相の回向であり、 二つには*還相の回向である。
【2】 ^往相の回向について、 真実の行があり、 真実の信があり、 真実の証がある。
【3】 ^真実の行というのは、 慈悲の心からおこしてくださった諸仏称名の願 (第十七願) に示されている。 その称名の願は、 ¬*無量寿経¼ に次のように説かれている。
^「わたしが仏になるとき、 すべての世界の数限りない仏がたが、 ※みなほめたたえて、 わたしの*名号を称えないようなら、 わたしは決してさとりを開かない」
【4】 ^真実の信というのは、 慈悲の心からおこしてくださった念仏往生の願 (第十八願) に示されている。 その信楽の願は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。
^「わたしが仏になるとき、 すべてのものがまことの心で信じ喜び、 わたしの国に生れようと思って、 たとえば十回でも念仏して、 もし生れることができないようなら、 わたしは決してさとりを開かない。 ただし、 *五逆の罪を犯したり、 仏法を謗るものだけは除かれる」
【5】 ^真実の証というのは、 慈悲の心からおこしてくださった必至滅度の願 (第十一願) に示されている。 その証果の願は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。
^「わたしが仏になるとき、 わたしの国のものが*正定聚の位にあり、 必ずさとりに至ることができないようなら、 わたしは決してさとりを開かない」
^慈悲の心からおこしてくださったこれらの*誓願を、 *選択本願というのである。
【6】 ^この大いなる必至滅度の願をおこしてくださり、 この真実の信楽を得た人を、 ただちに正定聚の位に定まらせようとお誓いになっている。
^同じ経典の異訳である ¬*如来会¼ に説かれている。
^「わたしが仏になるとき、 わたしの国のものが間違いなく*等正覚を成就し、 大*涅槃をさとることができないようなら、 わたしは決してさとりを開かない」
^慈悲の心からおこしてくださったこの願は、 すなわち真実の信楽を得た人に間違いなく等正覚を成就させようとお誓いになったというのである。 等正覚とは、 つまり正定聚の位のことである。 等正覚というのは、 *一生補処の*弥勒菩薩と同じ位につかせようとお誓いになったのである。 これらの選択本願は、 思いはかることのできない広く大いなる*法蔵菩薩の誓願である。 ^そこで真実の信心を得て念仏するもののことを、 ¬無量寿経¼ には 「*次如弥勒 (*次いで弥勒のごとし)」 と説かれている。 これらの大いなる誓願のはたらきを、 往相の回向というのである。 信心を得た人は弥勒菩薩と同じであると ¬*龍舒浄土文¼ にも示されている。
【7】 ^二つに、 還相回向というのは、 ¬浄土論¼ に次のようにいわれている。
^「阿弥陀仏の*本願力の回向によるのである。 これを*出の第五門という」
^これがすなわち還相の回向である。
【8】 ^この内容は、 大いなる一生補処の願 (第二十二願) に示されている。 その大いなる慈悲の願は、 ¬無量寿経¼ に次のように説かれている。
^「わたしが仏になるとき、 他の仏がたの国の菩薩たちが、 わたしの国に生れてくれば、 必ず菩薩の最上の位である一生補処の位に至らせよう。 ただしそれぞれの願いに応じて、 自由自在に人々を導くため、 かたい決意に身を包んで、 多くの功徳を積み、 すべてのものを救い、 仏がたの国に行って菩薩の行を修め、 すべての世界の仏がたを供養し、 数限りない人々を導いてこの上ないさとりを得させることもできる。 すなわち、 通常に超えすぐれて菩薩の徳をすべてそなえ、 大いなる慈悲の行を実践できる。 もしそうでなければ、 わたしは決してさとりを開かない」
^これは如来の還相回向のお誓いである。 これは*他力の還相の回向であるから、 *自利・*利他ともに行者の願いによるのではなく、 法蔵菩薩の誓願によるのである。 「※他力には自力のはからいがまじらないことを根本の法義とする」 と、 ※法然上人のお言葉にあった通りである。 この慈悲の心からおこしてくださった選択本願を、 深くお心得になるがよい。
^*正嘉元年閏三月二十一日、 これを書き写す。
みなほめたたえて…称えないようなら 関連する部分を含めて原文を抜き出すと、 「
設我得仏十方世界無量諸仏不悉咨嗟称我名者不取正覚 (たとひわれ仏を得たらんに、 十方世界の無量の諸仏、 ことごとく咨嗟し、 わが名を称せずは、 正覚を取らじ)」 である。 このなか、 「不…称我名者 (わが名を称せずは)」 について、 諸仏が阿弥陀仏の
名号の徳をほめ讃えられること、 すなわち阿弥陀仏の教えを広く説き示すこととする解釈と、 諸仏が阿弥陀仏の名号を称えることとする解釈とがある。
「行文類」 に示された第十七願の願名に、 「
諸仏称揚の願」 とあることからすれば、 「わが名を称せずは」 とは、 「わが名を称揚せずは」 すなわち 「わたしの名を広くほめ讃えないようなら」 という意味と考えられる。 一方、 ¬唯信鈔文意¼ に、 「
第十七の願に、 ª十方無量の諸仏にわがなをほめられん、 となへられんº と誓ひたまへる」 とあることからすれば、 「わが名を称せずは」 とは、 「ほめ讃える」 という意とは別に 「名を称える」 という意をあらわすと考えられる。
本現代語訳においては、 後者にしたがって訳しておいた。
次いで… 信文類訓。
正嘉元年 1257年。 親鸞聖人八十五歳。