七高僧とその聖教について
インドに発祥し、 中国・朝鮮半島を経て日本に流伝してきた阿弥陀仏の浄土教は、 長い歴史を通じて多くのすぐれた高僧を育て、 その教法が今に伝えられてきた。 源空 (法然) 聖人が、 中国浄土教を廬山流と慈愍流、 道綽・善導流とに分類されたように、 中国にもさまざまな浄土教が展開されていったが、 日本においてもすでに奈良時代に智光・礼光などによる三論宗系の浄土教が興り、 平安時代には比叡山を中心とした天台系の浄土教をはじめ、 南都系、 真言系のそれぞれ特色のある浄土信仰が栄えていった。 鎌倉時代になると源空聖人が出て、 それまで寓宗的な地位にあった浄土教を浄土宗として独立せしめ、 それをうけて宗祖は浄土真宗の法義を開顕していかれた。
源空聖人は ¬選択集¼ 「二門章」 において浄土宗の立教開宗を宣言されるとき、 道綽・善導流の師資相承を明かすのに ¬安楽集¼ による菩提留支・慧龍・道場・曇鸞・大海・法上の六師相承説と、 唐・宋両高僧伝によって自ら構成された菩提留支・曇鸞・道綽・善導・懐感・小康の六師説をあげられた。 この両説について取捨はされていないが、 道綽・善導両師の名の出ない前説よりも、 道綽・善導を中心に構成した後説の方を取られたことはいうまでもない。 また ¬漢語灯録¼ 巻九所収の 「浄土五祖伝」 や ¬西方指南抄¼ によれば、 その六祖の中から菩提留支を省略した五祖を浄土宗の相承の師と定められていたとみられる。 しかし ¬選択集¼ の後述の文には 「偏依善導一師」 と断言されているから、 五祖相承も一往の説であって、 真の相承の師と仰がれたのは善導一師であったことがわかる。
その源空聖人を師と仰ぎ、 「親鸞におきては、 たゞ念仏して、 弥陀にたすけられまひらすべしと、 よきひとのおほせをかぶりて、 信ずるほかに別の子細なきなり」 といい切られた宗祖が、 浄土真宗の相承については、 師説と異なるかにみえる七祖相承説を主張されている。 インドの龍樹菩薩と天親 (世親) 菩薩、 中国の曇鸞大師、 道綽禅師、 善導大師、 日本の源信和尚、 源空聖人の七高僧がそれであり、 この七祖相承説は 「正信念仏偈」 (¬教行信証¼) や 「念仏正信偈」 (¬浄土文類聚鈔¼)、 ¬高僧和讃¼ に明示されている。 宗祖が、 このように七高僧を浄土真宗相承の師として選定された理由について、 「正信念仏偈」 の依釈段のはじめに七高僧の徳を総讃して 「印度西天之論家 中夏日域之高僧 顕大聖興世正意 明如来本誓応機」 といわれている。 大聖釈尊の出世の本意が ¬大経¼ を説いて弥陀の本願海を開示することにあったことをあらわし、 その本願 (第十八願) の法門こそ、 極濁悪の機にふさわしい救いの道であることを明らかにしていかれたのが七高僧であるといわれるのであるが、 宗祖の七祖選定の根本意趣はこの四句に尽くされているといえよう。
これをさらに詳しく先哲の多くは、 (1)自身が浄土願生者であること、 (2)撰述された聖典があり、 (3)本願力の救いが高顕されていることの三点をあげられるが、 さらに、 (4)独自の法門発揮があることを条件に加える人もある。 たしかに自身が浄土願生者でなければ、 どれほど浄土教学に精通していても、 その所説は信頼に価せず、 著作がなければその信仰や教学を正確に知ることができない。 そしてその著作には本願力の救いが顕され、 そこに独自の法門発揮が示されることで、 浄土教史に画期的な貢献をなされたといえるからである。
龍樹菩薩は ¬十住毘婆娑論¼ において難易二道判を示し、 天親菩薩は ¬浄土論¼ のなかに無礙光如来に帰命する一心に五念二利の徳の具わっていることを顕示し、 曇鸞大師は ¬往生論註¼ や ¬讃阿弥陀仏偈¼ をあらわして、 往相も還相も本願他力によって成ずることを釈顕された。 道綽禅師は ¬安楽集¼ において仏教を聖道門と浄土門に分判して、 時機相応の教法は往生浄土の一門であることを示し、 善導大師は ¬観経疏¼ をはじめとする五部九巻の書をあらわして、 中国浄土教の理論と実践を大成していかれたが、 特に第十八願所誓の称名を正定業と定め、 称名するものは、 具悪の凡夫も本願力に乗じて報土に入るという凡夫入報説を確立された。 源信和尚は ¬往生要集¼ をあらわし、 報化二土を弁立して専修と雑修の得失を決判し、 源空聖人は ¬選択集¼ を撰述して、 浄土宗を独立せしめ、 選択本願に立脚して念仏一行の専修を強調し、 本願を信ずるか疑うかによって迷悟が分かれるという信と疑の決判をされた。 このような各祖の法門発揮が、 宗祖の浄土真宗の教義体系を支える重要な柱となっている。
ところで宗祖の七祖観を子細に窺っていくと、 善導・法然系と、 天親・曇鸞系の二種の教系に大別できるようである。 第一の善導・法然系というのは、 「偏依善導」 といわれた源空聖人の立場をうけつぐもので、 ¬歎異抄¼ 第二条に、 宗祖が自身の信心の系譜をのべて、 弥陀・釈迦二尊についで、 善導・法然という相承をあげられたのがそれである。 すなわち源空聖人の 「偏依善導」 と、 宗祖の 「偏依法然」 ともいうべき立場を総合したもので、 専修念仏の系譜をあらわしている。 それに源空聖人を道綽・善導流の浄土教へ導いた源信和尚と、 曇鸞教学をうけて往生浄土の法門を時機相応の法門として位置づけ、 善導教学への道を開いた道綽禅師を加えると、 道綽・善導・源信・法然という専修念仏の相承が成立するのである。
第二の天親・曇鸞系というのは、 曇鸞大師の ¬往生論註¼ 教学を中心として、 インドの天親・龍樹二菩薩へとさかのぼる系譜である。 源空聖人は ¬選択集¼ 「二門章」 で 「浄土三部経」 と共に ¬浄土論¼ を 「正明往生浄土教」 と判定し、 正依の論とされていたが、 その内容についての解説はなかった。 宗祖は ¬往生論註¼ の釋義をとおして、 源空聖人が正依の論とされながらも関説されなかった ¬浄土論¼ の幽意をあらわし、 五念二利の行徳をもって、 広大無礙の一心の徳義を開顕し、 信心正因の法義を顕示するものであると明らかにされた。 また源空聖人は ¬十住毘婆娑論¼ を 「傍明往生浄土教」 と判定して、 傍依の論とみなされていたが、 宗祖は ¬往生論註¼ の序題の釈意をうけて、 それを自力難行道に対して、 他力易行道を顕わす正依の論と判定していかれた。 曇鸞大師は ¬浄土論¼ を註釈するにあたってまず、 ¬論¼ の教格を定めるために ¬往生論註¼ の冒頭に ¬十住毘婆娑論¼ 「易行品」 を引用して難易二道の分判を行われている。 往生浄土の道を説く ¬浄土論¼ は、 他力、 易行道を明かす論として領解すべきであると断定するためであった。 これは曇鸞大師が、 龍樹菩薩の釈顕せられた難行道と易行道という分判は、 浄土教を領解する基本的な枠組みを示されたものと理解されていた証拠といえる。 このような曇鸞大師の釈意に従うならば、 浄土教理解の基準を難易二道判として設定された龍樹菩薩は、 浄土真宗の初祖として仰ぐにふさわしい方であると確定されたのである。
こうして曇鸞大師を中心として天親・龍樹二菩薩にさかのぼるインドから中国への教系が成立し、 前述の善導・法然系という中国から日本への教系とあわせて、 七高僧の伝法血脈譜が成立したと考えられる。 そしてこの二つの教系を統合する原理が宗祖のいわゆる 「本願力回向」 の法義であった。 すなわちこの七高僧の教系は一貫して 「本願力回向」 という第十八願の法義を開顕するとみられたわけである。 善導・法然系が専修念仏という本願力回向の行信の相状を明らかにするものであるのに対して、 天親・曇鸞系の教学は、 その行信の体徳を開示するものとみられたといえる。 すなわち源空聖人から伝承した選択本願の念仏は、 破闇満願の力用をもつ名号の顕現した大行であり、 念仏往生の本願を信ずる信心は、 広大無礙の徳義をもつ大菩提心としての一心であり、 往生即成仏の因種であることを開顕するのが ¬浄土論¼ ¬往生論註¼ であるとみられていたのである。
ところで、 宗祖の主著 ¬顕浄土真実教行証文類¼ には七高僧の論釈から多くの引文がみられるが、 そこにはしばしば漢文の読み替えがなされている。 特に ¬浄土論¼ ¬往生論註¼ と ¬観経疏¼ の引文にそれが多くみられる。 それらの訓点は、 単なる学解を越えた宗祖の深い信体験に裏づけられたものであり、 そのように読み替えることによって、 むしろ曇鸞大師や善導大師の宗教体験の深みにふれることができると確信されたからである。
そのような七高僧の宗義を学ぶためには、 まずその聖教を文面の通りに正確に拝読する必要がある。 宗祖は漢文の訓読について非常に高い水準の知識をもっておられたことがその著述より窺われることから、 七高僧の聖教を文面の通りに正確に読解される一面があったことは明らかである。 その上で更に聖教の深い含意をあらわすための読み替えがなされたのであった。
私たちもまず七高僧の聖教を文面のままにできるだけ正確に拝読して、 各祖の浄土教学を学ぶと共に、 宗祖独自の読み方を学んでいかなければならない。 そこで今回編纂した ¬浄土真宗聖典全書¼ 第一巻 (三経七祖篇) では、 底本が刊本の場合は可能な限り原文に忠実な訓点を付し、 底本が書写本の場合は原則として底本に基づいた訓点を採用した。