二〇1020、或人念仏之不審聖人奉問次第(十一箇條問答)
○或人念仏之不審聖人に奉↠問次第。
◇一 問。 八宗・九宗のほかに浄土宗の名をたつることは、 自由にまかせてたつること、 余宗の人の申候おばいかゞ申候べき。
◇答。 宗の名をたつることは仏説にはあらず、 みづからこゝろざすところの経教につきて、 存じたる義を学しきわめて、 宗義を判ずるコトワルナリ事也。 諸宗のならひみなかくのごとし。 いま浄土宗の名をたつる事は、 浄土の依正経につきて往生極楽の義をさとりきわめたまへる先達の、 宗の名をたてたまへるなり。 宗のおこりをしらざるものゝ、 さやうのことおば申也。
◇二 問。 法華・真言おば雑行にいるべからずと、 ある人申候おばいかむ。
◇答。 恵心の先徳、 一代の聖教の要文をあつめて ¬往生要集¼ をつくりたまへる中に十門をたてゝ、 第九に往生の諸行の門に、 法華・真言等の諸大乗をいれたまへり。 諸行と雑行と、 ことばはことに、 こゝろはおなじ。 いまの難者は恵心の先徳にまさるべからざるなり 云云。
◇三 問。 余仏・余経につきて善根を修せむ人に、 結縁助成し候ことは雑行にてや1021候べき。
◇答。 我こゝろ、 弥陀仏の本願に乗じ、 決定往生の信をとるうえには、 他の善根に結縁し助成せむ事、 またく雑行となるべからず、 わが往生の助業となるべき也。 他の善根を随喜讃嘆せよと釈したまへるをもて、 こゝろうべきなり。
◇四 問。 極楽に九品の差別の候事は、 阿弥陀仏のかまへたまへる事にて候やらむ。
◇答。 極楽の九品は弥陀の本願にあらず、 四十八願の中になし。 これは釈尊の巧言カマヘタなり。 善マフミコトナリ 人・悪人一処にむまるといはゞ、 悪業のものども慢心をおケウマンノコヽロこすべきがゆへに、 品位差別をあらせて、 善人は上品にすゝみ、 悪人は下品にくだるなど、 ときたまふなり。 いそぎまかりてみるべし 云云。
◇五 問。 持戒の行者の念仏の数返のすくなく候はむと、 破戒の行人の念仏の数返のおほく候はむと、 往生ののちの浅深いづれかすゝみ候べき。
◇答。 ゐておはしますたゝみをさゝえてのたまはく、 このたゝみのあるにとりてこそ、 やぶれたるかやぶれざるかといふことはあれ。 つやつやとなからむたゝみおば、 なにとかは論ずべき。
◇「末法の中には持戒もなく、 破戒もなし、 無戒もなし。 たゞ名字の比丘ばかりあり」 と、 伝教大師の ¬末法灯明記¼ にかきたまへるうへは、 なにと持戒1022・破戒のさたはすべきぞ。 かゝるひら凡夫のためにおこしたまへる本願なればとて、 いそぎいそぎ名号を称すべしと 云云。
◇六 問。 念仏の行者等、 日別の所作において、 こゑをたてゝ申人も候、 こゝろに念じてかずをとる人も候、 いづれおかよく候べき。
◇答。 それは口にも名号をとなへ、 こゝろにも名号を念ずることなれば、 いづれも往生の業にはなるべし。 たゞし仏の本願の称名の願なるがゆへに、 こゑをあらわすべきなり。
◇かるがゆへに ¬経¼ (観経意) には 「こゑをたえず、 十念せよ」 ととき、 釈には 「称我名号下至十声」 (礼讃) と釈したまへり。 わがみみにきこゆるほどおば、 高声念仏にとるなり。 さればとて、 譏嫌ソシリキをしらラフトナリ ず、 高声なるべきにはあらず、 地体はこゑをいださむとおもふべきなり。
◇七 問。 日別の念仏の数返は、 相続にいるほどはいかゞはからひ候べき。
◇答。 善導の釈によらば、 ▲一万已上は相続にてアヒツグトナリ あるべし。 たゞし一万返をいそぎ申て、 さてその日をすごさむ事はあるべからず。 一万返なりとも、 一日一夜の所作とすべし。 総じては一食のあひだに三度ばかりとなえむは、 よき相続にてあるべし。 それは衆生の根性不同なれば、 一准なナラヒト るべからず。 こゝろざしだにもふかければ、 自1023然に相続はせらるゝ事なり。
◇八 問。 ¬礼讃¼ の深心の中には
「十声一声かならず往生を得、 乃至一念疑ふ心あることなかれ」
「十声一声必得↢往生↡、 乃至一念無↠有↢疑心↡」
と釈し、 また ¬疏¼ (散善義) の中の深心には
「念念に捨ざるは、 これを正定の業と名く」
「念念不↠捨者、 是名↢正定之業↡」
と釈したまへり。 いづれかわが分にはおもひさだめ候べき。
◇答。 十声・一声の釈は、 念仏を信ずるやうなり。 かるがゆへに、 信おば一念に生るととり、 行おば一形をはげむべしとすゝめたまへる釈也。 また大意は、オホゴヽロナリ 一発心已後の釈を本とすべし。
◇九 問。 本願の一念は、 尋常ツネノトキの機、 臨終の機に通ずべく候歟。
◇答。 一念の願は、 二念におよばざらむ機のためなり。 尋常の機に通ずべくは、 上尽一形の釈あるべからず。 この釈をもてこゝろうべし。 かならず一念を仏の本願といふべからず。
◇「念念不捨者、 是名正定之業、 順彼仏願故」 (散善義) の釈は、 数返つもらむおも本願とはきこえたるは、 たゞ本願にあふ機の遅オソキ速トキ不同なれば、 上尽一形下至一念とおこしたまへる本願なりとこゝろうべきなり。 かるがゆへに念仏往生の願とこそ、 善導は釈したまへと。
◇十 問。 自力・他力の事は、 いかゞこゝろうべく候らむ。
◇答、 源空は殿上へまいるべききりやうにてはなけれども、 上よりめせば二度まいりたりき。 これわがま1024いるべきしきにてはなけれども、 上の御ちからなり。 まして阿弥陀仏の仏力にて、 称名の願にこたえて来迎せさせたまはむ事おば、 なむの不審かあるべき。
◇自身の罪のおもく无智なれば、 仏もいかにしてすくひましまさむとおもはむものは、 つやつや仏の願をもしらざるものなり。 かゝる罪人どもを、 やすやすとたすけすくはむれうに、 おこしたまへる本願の名号をとなえながら、 ちりばかりも疑心あるまじきなり。 十方衆生の願のうちに、 有智・無智、 有罪・無罪、 善人・悪人、 持戒・破戒、 男子・女人、 三宝滅尽ののち百歳までの衆生、 みなこもれるなり。
◇かの三宝滅尽の時の念仏者、 当時のわ御坊たちとくらぶれば、 わ御房たちは仏のごとし。 かの時は人寿十歳の時なり。 戒定慧の三学、 なをだにもきかず、 いふばかりなきものどもの来迎にあづかるべき道理をしりながら、 わがみのすてられまいらすべきやうおば、 いかにしてかあむじいだすべき。
◇たゞし極楽のねがはしくもなく、 念仏のまうされざらむ事こそ、 往生のさわりにてはあるべけれ。 かるがゆへに他力の本願ともいひ、 超世の悲願ともいふなり 云云。
◇十一 問。 至誠等の三心を具し候べきやうおば、 いかゞおもひさだめ候べき。
◇答。 三心を具する事は、 たゞ別のやうなし。 阿弥陀仏の本願に、 わが名号を称念せよ1025、 かならず来迎せむとおほせられたれば、 決定して引接せられまいらせむずるとふかく信じて、 心念口称にものうからず、 すでに往生したるこゝちしてたゆまざるものは、 自然に三心具足するなり。
◇また在家のものどもはかほどにおもはざれども、 念仏を申ものは極楽にうまるなればとて、 念仏をだにも申せば、 三心は具足するなり。 さればこそ、 いふにかひなきやからどもの中にも、 神妙なる往生はする事にてあれと 云云。▽