◎高 僧 和 讃
龍樹菩薩 釈文に付けて 十首
*
やがて南インドに龍樹菩薩という名の僧が現れ、 *
龍樹菩薩は、 この上なく尊い*
龍樹菩薩は、 この世に現れて*
龍樹菩薩の教えを聞き信じた人は、 阿弥陀仏の本願を心に思い、 常にその*
*
苦しみに満ちた迷いの海はどこまでも果てしなく続いている。 その海に長い間沈んでいるわたしたちを、 阿弥陀仏の本願の船だけが、 必ず乗せて浄土に渡してくださる。
¬大智度論¼ に、 「仏はこの上なく尊い法の王である。 菩薩は王に仕える臣下であり、 もっとも重んじなければならないのは仏である」 といわれている。
すべての菩薩がたは、 「わたしたちがかつてさとりを求めていた時、 はかり知れないほどの長い年月をかけて、 さまざまな善い行いを修めてきたが…
…親しいものへの情愛を断ち切ることも、 生れ変り死に変りし続ける苦しみを取り除くこともできなかった。 *
以上、 龍樹菩薩
天親菩薩 釈文に付けて 十首
釈尊の教えは数多くあるけれども、 *
阿弥陀仏の浄土のうるわしいすがたを見ることができるのは、 ただ仏がただけである。 その果てしないことは大空のようであり、 広大できわまりがない。
本願のはたらきに出会ったものは、 むなしく迷いの世界にとどまることがない。 あらゆる功徳をそなえた名号は宝の海のように満ちわたり、 濁った煩悩の水であっても何の分け隔てもない。
阿弥陀仏の浄土の聖者がたは、 さとりの花からおのずと生れ、 あらゆる願いが速やかに満たされる。
ゆるぎない心をそなえた浄土の聖者がたは、 本願の*
天親菩薩は一心に*
その光がすべての世界に到り届いている無礙光如来に一心に帰命することこそ、 仏になろうと願う心すなわち願作仏心であると、 天親菩薩はいわれている。
仏になろうと願う心すなわち願作仏心は、 そのままあらゆるものを救おうとする心すなわち度衆生心である。 この度衆生心は、 阿弥陀仏のはたらきによる真実の信心である。
真実の信心は、 すなわち一心である。 一心は、 決して壊れることのない心すなわち金剛心である。 金剛心は、 さとりを求める心すなわち菩提心である。 この心が、 そのまま阿弥陀仏のはたらきすなわち他力である。
阿弥陀仏の浄土に往生すると、 速やかにこの上ない*
以上、 天親菩薩
曇鸞和尚 釈文に付けて 三十四首
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曇鸞大師は、 *
*
曇鸞大師は、 「私は智慧が浅い凡夫であり、 いまだ不退転の位に至っていないので、 あらゆる浄土を等しく念じるには力がとうてい及ばない」 と答えられた。
出家のものも在家のものも、 みな帰依するところをもたずに迷っている中で、 曇鸞大師はただ一人、 阿弥陀仏に帰依し、 その浄土への往生を願うよう勧められた。
曇鸞大師は、 東魏の孝静帝の勅命を受け、 *
東魏の孝静帝は、 曇鸞大師を深く尊んで*
曇鸞大師は、 玄中寺にお住まいになり、 本願他力の念仏を盛んに勧めてくださった。 *
曇鸞大師は、 六十七歳で臨終の時を迎え、 浄土に往生をとげられた。 その時、 *尊く不思議な出来事がおこり、 出家のものも在家のものも、 みな帰依し敬った。
孝静帝は深い敬いの思いから勅命を下し、 速やかに汾州*
天親菩薩の ¬*
すべてのものを速やかに完全なさとりに至らせる唯一最上の本願は、 *
*
阿弥陀仏による回向が成就して、 浄土に往生して成仏するという往相と迷いの世界に還って人々を救うという還相とが、 わたしたちの上にあらわれる。 これらの回向によってこそ、 信心と念仏をともに得させていただくのである。
往相の回向として説かれているのは、 阿弥陀仏の巧みな手だてが時機を得て、 本願の信心と念仏を与えられ、 迷いとさとりを等しく見るという仏のさとりを開かせていただくということである。
還相の回向として説かれているのは、 わたしたちに思いのままに人々を教え導くというさとりを与えられ、 ※ただちに迷いの世界に戻って、 大いなる慈しみの心からあらゆるものを救わせていただくということである。
天親菩薩が ¬浄土論¼ に説かれた一心を、 曇鸞大師は、 煩悩にまみれたわたしたちがいただく他力の信であるといわれている。
すべての世界に到り届いている阿弥陀仏の*
阿弥陀仏の無礙光のはたらきにより、 広大ですぐれた功徳をそなえた信心を得ることで、 必ず煩悩の氷が解けてさとりの水となる。
罪のさわりは、 そのまま転じられて功徳となる。 それは氷と水にたとえられ、 氷が多いと解けた水も多いように、 罪のさわりが多いと転じた功徳も多い。
思いはかることのできない功徳をそなえた名号の海水には、 五逆のものや*
*
阿弥陀仏の浄土に生れるということは、 間違いなくさとりを開く道であり、 この上なくすぐれた手だてであるので、 あらゆる仏がたが浄土への往生をお勧めになった。
仏がたの身・口・意の行いが清らかでまったく平等であるのは、 あらゆるものの嘘いつわりに満ちた身・口・意の行いをすべて治してお救いになるためであるといわれている。
阿弥陀仏の浄土に往生するには、 この上ない宝玉にたとえられる名号と、 そのはたらきによる真実の信心の他に、 別の道は何一つないと説かれている。
阿弥陀仏の清らかな本願による浄土への往生は、 生ずることも滅することもないさとりの生であるから、 もとの世で*
無礙光如来の名号とその智慧のすがたである光明とは、 無明煩悩の暗く長い闇を破り、 あらゆるものの願いを満たしてくださる。
名号のいわれの通りに行を修めないということを、 曇鸞大師は、 「一つには疑いがあって信心が篤くない。 ある時は往生できると思い、 ある時はできないと思うからである。 だから…
…二つには信心が一つでない。 信が決定していないからである。 だから、 三つには信心が相続しない。 他の思いがまじるからである」 といわれている。
※これら三つの信は、 互いに関わりあって成り立っている。 往生を願う行者は、 心しなければならない。 信心が篤くないから決定の信がない。
決定の信がないから信心が相続しない。 信心が相続しないから決定の信を得ない。
決定の信を得ないから信心が篤くないといわれている。 名号のいわれの通りに行を修めるということは、 真実の信心一つによる他はない。
※さまざまな善い行いを*
*
以上、 曇鸞和尚
道綽禅師 釈文に付けて 七首
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道綽禅師は、 ¬*
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曇鸞大師の教えを受け継いだ道綽禅師は、 この世でさとりを求める心を起して行を修めることは自力であると明らかにされた。
さまざまな濁りに満ちた世で悪事を犯し罪をつくることは、 まるで襲い来る暴風や豪雨のようである。 あらゆる仏がたはこのようなものを哀れんで、 浄土の教えに帰依するようお勧めになっている。
たとえ生涯悪をつくり続けたとしても、 ひたすら阿弥陀仏を心に思い、 常に念仏する身となったら、 すべてのさわりはおのずと除かれる。
阿弥陀仏は、 生涯悪をつくり続けるものであっても必ず摂め取ろうと、 本願に 「わが名を称えて、 もし生れることができないようなら、 さとりを開かない」 とお誓いになっている。
以上、 道綽大師
善導大師 釈文に付けて 二十六首
海のように大いなる阿弥陀仏の慈悲の心によって、 *
善導大師は何度もこの世にお出ましになり、 *
阿弥陀仏の本願名号によらなければ、 どれほど長い時をかけたとしても、 五つの障りから離れられない女性は、 どうしてその身をさとりの身へと転じることができるであろう。
釈尊は*
*
専ら阿弥陀仏の名号を称えていても、 この世の利益をいのり求める行者であれば、 之も雑修といわれ、 往生できるのは千人に一人もいないと退けられた。
その意味するところは同じではないが、 雑行と雑修はよく似ている。 浄土に生れる行でないものを、 すべて雑行といわれている。
善導大師は、 あらゆる仏がたに証明を請い、 自力のこころをひるがえさせるために、 *
さとりへの道を説くすべての教えが失われても、 釈尊がこの世にお出ましになった本意として説かれた阿弥陀仏の本願の教えに出会ったなら、 凡夫であっても真実の信心を得てさとりを開くことができる。
思いはかることのできない阿弥陀仏のはたらきは、 迷いの世界につなぎとめるどのような悪い行いにもさまたげられないので、 その大いなる本願のはたらきを*
本願のはたらきによって成就された浄土には、 自力の信と行では往生できないので、 大乗や*
煩悩を身にそなえたものであると知らされて、 本願のはたらきにおまかせする身となったら、 命を終える時、 煩悩にまみれたこの身を捨て去って、 浄土で変ることのない真実のさとりを開かせていただくのである。
釈尊と阿弥陀仏は慈悲深い父母である。 巧みな手だてをさまざまに施し、 わたしたちにこの上ない真実の信心をおこさせてくださった。
真実の信心をその身に得た人は、 決して壊れることのない心をそなえているので、 *
さまざまな濁りと悪に満ちた世に生きるわたしたちこそ、 決して壊れることのない信心ただ一つで、 永遠に迷いの世界を離れ去って、 真実の浄土に往生させていただくのである。
決して壊れることのない信心が定まるまさにそのとき、 阿弥陀仏の光明はわたしたちを摂め取り、 永遠に迷いの世界を離れさせてくださる。
善導大師は、 真実の信心を得ていないことを、 一心が欠けていると教えられた。 そのような人は、 みな*
阿弥陀仏のはたらきによって真実の信心を得た人は、 本願のおこころにかなっているので、 釈尊の教えと仏がたのお言葉に従うのであり、 外からのさまざまなさまたげを受けることはない。
他力の念仏のいわれを聞いて疑いなく信じている人こそ、 もっともすぐれてたぐいまれな人であるとほめ、 その身に真実の信心を得ていると善導大師は明らかにされた。
本願のおこころにかなっていないので、 行者の心はさまざまなさまたげを受けて乱れるのである。 このような心には真実の信心はない、 と善導大師はいわれている。
真実の信心は阿弥陀仏の本願から生じるので、 おのずと念仏によって仏のさとりが開かれる。 そのはたらきは真実の浄土にそなわっているので、 間違いなくこの上ないさとりを開くのである。
さまざまな濁りに満ちた時代には、 多くのものが阿弥陀仏の本願を疑い謗るようになり、 出家のものも在家のものも互いに憎みあい、 行を修める人を見てはさまたげようとする。
本願を謗り滅ぼそうとするものたちは、 ※物事を正しく見ることができず、 さとりを開くことができないといわれている。 それらのものは果てしなく長い間、 *
これまでも西方浄土への道を教え示されていたが、 自他ともに信じることをさまたげてきたために、 はかり知ることのできない遠い昔から、 いたずらに迷いの世界でむなしく時をすごしてきたのである。
阿弥陀仏の本願のはたらきを受けなければ、 はたしていつ*
娑婆世界での果てしなく長い間の苦を捨て、 浄土でさとりを得ると期することができるのは、 釈尊のお力によるのである。 いつもその大いなる慈悲の恩に報いるがよい。
以上、 善導大師
源信大師 釈文に付けて 十首
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源信和尚は心をこめて、 釈尊がお説きになった教えの中からただ念仏の教えを説き示し、 さまざまな濁りに満ちた末法の世のものを教え導かれた。
かつて*
源信和尚は、 *
源信和尚は、 念仏をもっぱら修める人をほめ、 真実の浄土に往生できないものは千人に一人もいないと教え、 さまざまな行を修める人を嫌い、 真実の浄土に往生できるものは万人に一人もいないといわれた。
源信和尚は、 念仏一つをもっぱら修めて真実の浄土に往生するものは多くなく、 さまざまな行を修めて方便の浄土に生れるものは少なくないと教え示された。
男女や貴賎などの分け隔てなく、 阿弥陀仏の名号を称えることは、 歩いていても、 とどまっていても、 座っていても、 臥していても問われることはなく、 どのような時、 どのようなところ、 どのような状況であってもさまたげにならない。
煩悩に眼をさえぎられて、 あらゆるものを摂め取るという阿弥陀仏の光明を見ることはできないが、 その大いなる慈悲は見捨てることなく、 常にわたしを照らしてくださっている。
阿弥陀仏の真実の浄土に生れようと願う人は、 その姿や身の振る舞いはさまざまであっても、 本願の名号を疑いなく信じ、 寝ても覚めても忘れることがあってはならない。
源信和尚は、 「きわめて深く重い罪悪をかかえているものが救われるには、 他の手だては何一つない。 ただひとすじに阿弥陀仏の名号を称えることで、 浄土に生まれることができる」 といわれている。
以上、 源信大師
源空聖人 釈文に付けて 二十首
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阿弥陀仏の智慧光のはたらきにより、 源空聖人がこの世に現れて浄土の真実の教えを説き示し、 往生の行として念仏を選び取られた阿弥陀仏の本願を説いてくださった。
善導大師や源信和尚が勧められても、 源空聖人が説きひろめてくださらなかったなら、 インドから遠く離れた日本で、 さまざまな濁りに満ちた世に生きるものたちは、 どうして真実の教えを知ることができたであろう。
果てしなく長い間、 生れ変り死に変りし続けてきたものは、 迷いの世界を離れさせる本願のすぐれたはたらきを知らなかった。 もし源空聖人がおられなければ、 このたびの生涯もむなしくすごしたことであろう。
源空聖人は、 十五歳の時、 *
源空聖人の智慧や修められた行はこの上なく、 かつて聖人の師であった聖道門の方々もみなそろって敬い、 *
源空聖人はご在世の時、 その身から金色の光を放たれた。 *
世間の人々がいい伝えるところによると、 源空聖人の*
源空聖人は、 勢至菩薩として、 あるいは阿弥陀仏として、 人々の夢にそのお姿を現された。 そのために、 上皇や大臣をはじめ都や地方の庶民に至るまで、 みな敬い仰いだのである。
*
あらゆる仏がたは、 すべてのものを救うための時機が熟したので、 源空聖人としてそのお姿を現され、 この上ない真実の信心を教えて、 涅槃に到る道を開いてくださった。
真実の*
源空聖人は、 その身から光明を放って、 その姿を日頃から門弟たちにお見せになり、 賢いものも愚かなものも区別することなく、 貧富や身分の違いによって分け隔てをすることもなかった。
源空聖人は、 命を終えようとする時が近づくと、 浄土に往生するのは三度目となったが、 このたびの往生は特にとげやすい、 とおっしゃった。
源空聖人は、 かつて霊鷲山で釈尊の教えを受けていた時、 仏弟子たちとともに*
源空聖人は、 インドから遠く離れた日本という辺境にお生まれになり、 念仏して往生するという教えをひろめてくださった。 迷いの世界のあらゆるものを教え導くために、 この世に何度も現れてくださった。
阿弥陀仏は、 まさに源空聖人としてそのお姿を現された。 人々を教え導く縁が尽きたので、 浄土におかえりになったのである。
源空聖人が命を終えようとする時、 紫色の雲がたなびくように光明が輝き、 やさしくうるわしい音色が響きわたり、 妙なる香りがあたりに満ちわたった。
出家のものも在家のものも、 男も女も早くから集まり、 また公卿や殿上人もむらがるように集まっていた。 源空聖人は、 頭を北に、 顔を西に向け、 右脇を下にして横たわり、 釈尊*
源空聖人が命を終えられたのは、 *
以上、 源空聖人
以上、 七高僧和讃 一百十七首
さまざまな濁りと悪に満ちた世で、 往生の行として念仏を選び取られた本願を信じるものには、 たたえ尽すことも、 説き尽すことも、 思いはかることもできない功徳が満ちているのである。
インド 龍樹菩薩
天親菩薩
中 国 曇鸞和尚
道綽禅師
善導禅師
日 本 源信和尚
源空聖人
以上七人
聖徳太子 敏達天皇元年 正月一日に誕生したまう。
仏滅後千五百二十一年に相当する。
南無阿弥陀仏の名号には、 あらゆる功徳が海のように満ちていると説き示してくださった。 その清らかな功徳を供える身となったいま、 ひとしくすべてのものにその功徳を伝えていこう。
「道」 はすなはちこれ本願一実の直道、 大般涅槃、 無上の大道なり。 「路」 はすなはちこれ二乗・三乗、 万善諸行の小路なり。
とあり、 また、 ¬愚禿鈔¼ に、「白道」 とは、 白の言は黒に対す、 道の言は路に対す、 白とは、 すなはちこれ六度万行、 定散なり。 これすなはち自力小善の路なり。
とあることから、 「小路」 は聖道門並びに浄土門の自力仮門を表し、 「大道」 は弘願他力を表したものであるとして教法の権実を示されたものとみる解釈である。 後者は、 ¬観経疏¼ 「散善義」 の回向発願心釈に、 「中間に一の白道を見るも、 きはめてこれ狭小なり」 とあり、 また、 とあって、 「白道」 が狭小に見えるのは、 煩悩に覆われて善心が微少であるからと示しているが、 同時にそれは、 そうした衆生を摂取する 「大道」 であることを示されたものである。 したがって、 「万行諸善」 は衆生の善悪・利鈍を選ぶ 「小路」 であり、 弘願他力は衆生を選ばず斉しく摂取する 「大道」 であることを表したものであるとして、 摂機の広狭を示されたものとみる解釈である。 本現代語訳では、 前者にしたがって訳しておいた。