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 文明五 十二月十二日書之。

 是は聖教よみのわろきをなをさむが為也。

夫当流親鸞聖人の御門下において其名をかけんともがらは、 まづ信心をもて本とせられたる、 そのいはれをくはしく存知すべきものなり。 よてこの信心といふ事を決定せずんば、 このたびはむなしく浄土には往生すべからざるものなり。 そのゆへはまづつみをいへば十悪・五逆・謗法・闡提とて、 これにすぐれてふかきはあるべからず。 しかれどもかゝる機までも、 不思議の願力の強縁として廻心すれば、 みな往生をとぐるなり。 依之近比は当国・加州の両国のあひだにおいて、 仏法について或は聖教をよみて人を勧化するに、 五人あれば五人ながらそのことばあひかはれりと 云々。 是併法流相承なきいはれなり。 或は聖道のはて、 或は禅僧のはてなんどが、 我本宗の字ぢからをもて、 なまじゐに自骨に料簡をくはへて人をへつらひたらせるいはれなり。 これ言語道断あさましき次第なり。 向後においてかのことばを信用すべからざるものなり。 抑当流の他力の真実信心といふは、 善導和尚の釈に、 正雑二行とたてゝ、 雑行をすてゝ正行に帰するをもて信心の体とす。 その正行のうちに五種の正行をたてゝ、 そのなかに第四の称名正行をもて往生の正業とすとみゑたり。 されば南无阿弥陀仏をもて我等が往生の正業とすときこゑたり。 又善導釈していはく、 「南无といふは帰命、 亦是またこれ発願廻向之儀なり」 (玄義分) と釈せり。 こゝろはいかんと0285なれば、 帰命といふも発願廻向といふもおなじこゝろなり。 これは 「帰命」 といふは、 阿弥陀如来をふかくたのみたてまつるこゝろなり。 「阿弥陀仏」 といふは、 南无と帰命する衆生をおなじくたすけたまひて、 徧照の光明をもて念仏の衆生を摂取してすてたまはざるこゝろなり。 これすなはち南无阿弥陀仏の六字の体は、 一切のわれらが往生のさだまりたるすがたなりとこゝろうべし。 これを一念の信心決定せしめたる人となづくべきものなり。 かくのごとく我等が信心獲得してのうへには、 弥陀如来の御恩のあめ山にふかきありがたさの報謝のために行住座臥に称名念仏をまふすばかりなり。 このこゝろを善導釈していはく、 「上尽一形下至一念」 (礼讃意) といへり。 この 「下至一念」 といへるこゝろは、 本願をたもつ信心決定のすがたなり。 さて 「上尽一形」 といふは、 我一期のあらんかぎりは仏恩報尽のために念仏まふせといへるこゝろなり。 これらのおもむきをもて、 すなはち当流の信心をゑたるすがたといふべきものなり。 このうへになをおくふかき信心のありといはんものは、 おほきなるあやまりなり、 信用すべからず。 よくよくこのむねをこゝろゑて、 真実の信心を決定せしめてすみやかにこのたびの極楽の往生をとぐべきものなり。