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▼文明五 十二月十二日書之。
是は聖教よみのわろきをなをさむが為也。
夫当流親鸞聖人の御門下において其名をかけんともがらは、 まづ信心をもて本とせられたる、 そのいはれをくはしく存知すべきものなり。 よてこの信心といふ事を決定せずんば、 このたびはむなしく浄土には往生すべからざるものなり。 そのゆへはまづつみをいへば十悪・五逆・謗法・闡提とて、 これにすぐれてふかきはあるべからず。 しかれどもかゝる機までも、 不思議の願力の強縁として廻心すれば、 みな往生をとぐるなり。 依之近比は当国・加州の両国のあひだにおいて、 仏法について或は聖教をよみて人を勧化するに、 五人あれば五人ながらそのことばあひかはれりと 云々。 是併法流相承なきいはれなり。 或は聖道のはて、 或は禅僧のはてなんどが、 我本宗の字ぢからをもて、 なまじゐに自骨に料簡をくはへて人をへつらひたらせるいはれなり。 これ言語道断あさましき次第なり。 向後においてかのことばを信用すべからざるものなり。 抑当流の他力の真実信心といふは、 善導和尚の釈に、 正雑二行とたてゝ、 雑行をすてゝ正行に帰するをもて信心の体とす。 その正行のうちに五種の正行をたてゝ、 そのなかに第四の称名正行をもて往生の正業とすとみゑたり。 されば南无阿弥陀仏をもて我等が往生の正業とすときこゑたり。 又善導釈していはく、 「南无といふは帰命、