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一 そもそも報恩講のこと、 当年より毎朝六時むつどきよりゆふべの六時にをいて、 みなことごとく退散あるべし。 このむねをあひそむかんともがらは門徒たるべからざるものなり。 それ当流開山の一義は余の浄土宗にはおほきに義理各別にしてあひかはりたりとしるべし。 されば当流の義は、 わが身の罪障のふかきにはこゝろをかけずして、 たゞもろもろの雑行のこゝろをふりすてゝ、 阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、 後生たすけたまへとまうすひとをば、 かならず十人も百人も、 みなことごとくたすけたまふべし。 これすなはち弥陀如来のちかひまします正覚の一念といへるはこのこゝろなりとしるべし。 このこゝろを当流には一念発起平生業成とはまうしならふなり。 しかればみなひとの本願をたのむとはいへども、 さらにおもひいれて弥陀をたのむひとなきがゆへに、 往生をとぐることまれなり。 このゆへに今日今時より一心に弥陀如来われらが今度の後生たすけたまへとひしとたのみまいらせんひとは、 かならず浄土に往生すべきこと、 さらにもてそのうたがひあるべからざるものなり。 このうへには行住座臥に称名念仏まうすべきものなり。 これについて不審あり。 そのいはれいかんといふに、 一念に弥陀をたのむところにて往生さだまるときは、 あながちに念仏まふさずともときこへたり。 さりながらこれをこゝろうべきやうは、 かゝる罪障のあさましき身なれど0450も、 一念に弥陀をたのむちからばかりにて、 やすくほうどに往生すべきことの、 身にあまるありがたさたふとさよと、 くちにいだしていくたびもまうすべきことなれども、 たゞ南无阿弥陀仏南无阿弥陀仏とまふせばすなはち仏恩報尽のこゝろにあひあたれりとこゝろうべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

明応六年 丁巳 十一月廿一日