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夫開山聖人のすゝめまします当流安心と申は、 一念発起平生業成とたてゝ、 いかなる愚痴无智の身のうへにをひても、 なにのわづらひもなく、 たゞもろもろ雑行をすてゝ、 一心に阿弥陀如来後生たすけたまへとふかく弥陀を一念にたのみたてまつらん人は、 たとへば十人も百人も、 みなことごとく浄土に往生すべきことは、 更々そのうたがひあるべからざるものなり。 この道理をよくこゝろへたる人をこそ、 信心獲得せしめたる当流の他力の行者とは申侍るべきものなり。 かくのごとく決定したる人は、 かならず行住座臥に仏恩報尽の称名念仏申すべし。 たゞし就是に不審あり。 その謂れはい0448かんといふに、 すでに一念に弥陀をたのむ機のうへには、 あながちに念仏申さずともときこえたり。 さりながらこれをこゝろうべきやうはいかんといふに、 すでにかゝる罪障ふかき身のうへにをひて、 一念に弥陀をたのむちからばかりにて、 なにもわづらひもなくやすく報土に往生すべきことのありがたさたふとさよと、 いくたびもくちにいだして申すべきことなれども、 南无阿弥陀仏南无阿弥陀仏と申せば、 則をなじこゝろにてあるなりときけば、 なをなをたふとくおもひたてまつりて申すなりとしるべし。 穴賢、 穴賢。

明応六年十一月仲旬

なきあとに 我れをわすれぬ 人もあらば
なを弥陀たのむ こゝろをこせよ