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夫親鸞聖人のすゝめまします安心のおもむきといふは、 無智罪障の身の上にをひて、 なにのわづらひもなく、 たゞもろもろの雑行をすてゝ、 一心に阿弥陀如来をたのみ奉て後生たすけたまへとふかく弥陀を一念にたのみ奉らむ人は、 たとへば十人も百人も、 みなともに浄土に往生すべき事は、 さらさらうたがひあるべからず。 このいわれをよくよくしりたる人をば、 他力の信心を獲得したる当流の念仏行者と申べし。 かくのごとく真実に決定せしめたる人のうへには、 ねてもさめても仏恩報謝の称名念仏申すべし。 たゞしこれについて不審あり。 そのいわれはいかんといふに、 一念に弥陀をたのむうへには、 あながちに念仏申さずともときこへたり。 さりながらこれをこゝろうべきやうは、 すでにあさましき我等なれども、 なにもわづらひもなくやすくたゞ弥陀を一念にたのむちからにて、 報土に往生すべき事のありがたさたふとさよと、 くちにいだして申すべきを、 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏とまふせば、 おなじこゝろにてあるなりとしるべきものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。

明応六年拾月十四日書之

八十三歳(花押)

[あつらへし ふみのことのは をそくとも
けふまでいのち あるをたのめよ

「弥陀大悲の誓願を ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく 南无阿弥陀仏をとなふべし」 (正像末和讃)

八十地あまり をくる月日は けふまでも
いのちながらふ 身さゑつれなや]