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▼それ開山聖人の
-然則生年九歳にして、 建仁之春の比、 慈鎮和尚之門下になり、 出家得度して其名を範宴少納言の公と号す。 其れより已来、 しばらく山門横川之末流を伝へて天臺宗の碩学となりたまひき。
-其後廿九歳にして、 遂に日本源空聖人之禅室にまひり合ひて、 既に三百余人之内に於て上足之弟子となりましまして、 浄土真宗一流をくみ、 専修一向の妙義をたて、 凡夫往生の一途をあらはし、 殊に在家四輩の愚人ををしへ、 報土往生の安心をすゝめたまへり。
-抑今月廿八日は祖師聖人の御正忌として、 毎年をいはず親疎を論ぜず、 古今の行者この御正忌を事とせざる輩不可于之者歟。
-然間彼御恩徳の深ことは迷盧八万の頂、 蒼瞑三千の底にこえすぎたり。 不可報不可謝。
-このゆへに毎年の例時として一七箇日の間、 如↠形一味同行中として報恩謝徳のために、 无二の丹誠をこらし勤行の懇志をいた0366す所なり。 然ばこの七箇日報恩講の砌にをひて、 門葉のたぐひ毎年を論ぜず国郡より来集すること、 于今无其退転。
-就之不信心の行者の前にをひては、 更にもて報恩謝徳の義争在之哉。 如↠
-伏惟ば夫聖人の御遷化は年忌遠隔て、 既に二百余歳の星月を送るといへども、 御遺訓ますますさかりにして、 于今教行信証の名義耳の底に止て人口にのこれり。 可貴可信は唯この一事なり。
-依之当時は諸国に真宗行者と号すやからの中にをひて、 聖人一流の正義をよく存知せしめたる人体、
-唯人並仁義ばかりの仏法しりがほの風情にて、 名聞の心をはなれず、 人まねに報恩謝徳の為なんど号するやからは
-されば聖人の仰には、 唯平生に一念歓喜の真実信心をゑたる行者の身の上に於て、 仏恩報徳の道理は可在之とおほせられたり。 因茲この一七ヶ日報恩講の中に於て、 未安心の行者は速に真実信心を決定せしめて、 一向専修の行者とならん輩は、 誠にもて今月聖人の御正忌の本懐に可相叶。 是併真実真実、 報恩謝徳の懇志たるべきものなり。
-あなかしこ、 あなかしこ。
*文明十一歳十一月廿日