1221◎御0201俗姓
【1】 ◎^▼それ祖師聖人 (*親鸞) の俗姓をいへば、 *藤氏として*後長岡丞相 内麿公 の末孫、 *皇太后宮大進*有範の子なり。
^また本地をたづぬれば、 弥陀如来の化身と号し、 あるいは曇鸞大師の再誕ともいへり。
^しかればすなはち、 生年*九歳の春のころ、 *慈鎮和尚の門人につらなり、 出家得度してその名を範宴少納言公と号す。 それよりこのかた*楞厳横川の末流をつたへ、 天台宗の*碩学となりたまひぬ。
^そののち*二十九歳にして、 はじめて*源空聖人の禅室にまゐり、 *上足の弟子となり、 真宗一流を汲み、 専修専念の義を立て、 すみやかに*凡夫直入の真心をあらはし、 在家止住の愚人ををしへて、 報土往生をすすめましましけり。
【2】 ^そもそも、 *今月二十八日は、 祖師聖人*遷化の御正忌として、 毎年をいはず、 親疎をきらはず、 古今の行者、 この御正忌を存知せざるともがらある1222べからず。 これによりて*当流にその名をかけ、 その信心を獲得したらん行者、 この御正忌をもつて報謝の志を運ばざらん行者においては、 まことにもつて木石にひとしからんものなり。
^しかるあひだ、 ▲かの御恩徳のふかきことは、 迷盧八万の頂、 蒼溟三千の底にこえすぎたり。 報ぜずはあるべからず、 謝せずはあるべからざるものか。
^このゆゑに毎年0202の例時として、 一七箇日のあひだ、 *かたのごとく報恩謝徳のために無二の勤行をいたすところなり。 この一七箇日報恩講の砌にあたりて、 *門葉のたぐひ国郡より来集、 いまにおいてその退転なし。
^しかりといへども未安心の行者にいたりては、 いかでか報恩謝徳の儀これあらんや。 しかのごときのともがらは、 この砌において仏法の信不信をあひたづねてこれを聴聞してまことの信心を決定すべくんば、 真実真実、 聖人 (親鸞) 報謝の*懇志にかなふべきものなり。
【3】 ^あはれなるかなや、 それ聖人の御往生は年忌とほくへだたりて、 すでに*一百余歳の星霜を送るといへども、 御遺訓ますますさかんにして、 教行信証の名義、 いまに眼前にさへぎり、 *人口にのこれり。 たふとむべし信ずべし。
^これについて*当時真宗の行者のなかにおいて、 真実信心を獲得せしむるひと1223、 これすくなし。 ただ*人目・*仁義ばかりに名聞のこころをもつて報謝と号せば、 いかなる志をいたすといふとも、 *一念帰命の真実の信心を決定せざらんひとびとは、 その*所詮あるべからず。 まことに 「*水入りて垢おちず」 といへるたぐひなるべきか。
^これによりてこの一七箇日報恩講中において、 他力本願のことわりをねんごろにききひらき、 専修一向の念仏の行者にならんにいたりては、 まことに今月、 聖人 (親鸞) の御正日の素意にあひかなふべし。 これしかしながら、 真実真実、 報恩謝徳の御仏事となりぬべきものなり。
^あなかしこ、 あなかしこ。
0203^時に*文明九年十一月初めのころ、 にはかに報恩謝徳のために*翰を染めこれを記すものなり。
底本は本派本願寺蔵式務部依用本ˆ聖典全書の底本は新潟県本誓寺蔵実如上人証判本ˇ。
藤氏 藤原氏。
後長岡の丞相 藤原鎌足五代の孫、
藤原内麿のこと。
皇太后宮の大進 皇太后宮職の第三等官。
楞厳横川の末流 比叡山横川 (
首楞厳院はその中堂) に伝えられている
源信和尚の流れ。
今月 十一月。 親鸞聖人の命日は同月二十八日である。
懇志 ねんごろなこころざし。
一百余歳の星霜 星霜は歳月の意。¬御俗姓¼ が撰述された文明九年は1477年であるから、 親鸞聖人の示寂よりすでに二百余歳を経ていることになる。
人目 世間体。
仁義 ここでは世間体をつくろうこと。
水入りて垢おちず したかいがないことの喩え。
翰 筆。