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▼抑高祖聖人の真実相承の勧化をきゝ、 そのながれをくまんとおもはんともがらは、 相構この一流の正義を心肝にいれて、 これをうかがふべし。 しかるに近代はもてのほか法義にも沙汰せざるところのおかしき名言をつかひ、 あまさへ法流の実語と号して一流をけがすあひだ、 言語道断の次第にあらずや。 よくよくこれをつゝしむべし。 しかれば当流聖人の一義には、 教・行・信・証といへる一段の名目をたてゝ一宗の規模として、 この宗をばひらかれたるところなり。 このゆへに親鸞聖人、 一部六巻の書をつくりて ¬教行信証文類¼ と号して、 くはしくこの一流の教相をあらはしたまへり。 しかれどもこの書あまりに広博なるあひだ、 末代愚鈍の下機においてその義趣をわきまへがたきによりて、 一部六巻の書をつゞめ肝要をむきいでゝ一巻にこれをつくりて、 すなはち ¬浄土文類聚鈔¼ となづけられたり。 この書をつねにまなこにさえて一流の大綱を分別せしむべきものなり。 その教・行・信・証・真仏土・化身土といふは、
第一巻には真実の教をあらはし、
第二巻には真実の行をあらはし、
第0361三巻には真実の信をあらはし、
第四巻には真実の証をあかし、
第五巻には真仏土をあかし、
第六巻には化身土をあかされたり。
第一に真実の教といふは、 弥陀如来の因位果位の功徳をとき、 安養浄土依報正報の荘厳をおしへたる教なり。 すなはち ¬大无量寿経¼ これなり。 総じては三経にわたるべしといへども、 別しては ¬大経¼ をもて本とす。 これすなはち弥陀の四十八願をときて、 そのなかに第十八の願をもて衆生生因の願とし、 如来甚深の智慧海をあかして唯仏独明了の仏智をときのべたまへるがゆへなり。
第二に真実の行といふは、 さきの教にあかすところの浄土の行なり。 これすなはち南无阿弥陀仏なり。 第十七の諸仏咨嗟の願にあらはれたり。 この名号はもろもろの善法を摂し、 もろもろの徳本を具せり。 衆行の根本、 万善の総体なり。 これを行ずれば西方の往生をゑ、 これを信ずれば无上の極証をうるものなり。
第三に真実の信といふは、 かみにあぐるところの南无阿弥陀仏の妙行を真実報土の真因なりと信ずる真実の心なり。 第十八の至心信楽の願のこゝろなり。 これを選択廻向の直心ともいひ、 利他深広の信楽ともなづけ、 光明摂護の一心とも釈し、 証大涅槃の真因とも判ぜられたり。 これすなはちまめやかに真実の報土にいたることはこの一心によるとしるべし。
第四に真実の証といふは、 さきの行信によりてうるところの果、 ひらくところのさとりなり。 これすなはち第十一の必至滅度の願にこたへてうるところの妙悟なり0362。 これを常楽ともいひ、 涅槃ともいひ、 法身ともいひ、 実相ともいひ、 法性ともいひ、 真如ともいひ、 一如ともいへる、 みなこのさとりをうる名なり。 もろもろの聖道門の諸教のこゝろは、 この父母所生の身をもて、 かのふかきさとりをこゝにてひらかんとねがふなり。 いま浄土門のこゝろは、 弥陀の仏智に乗じて法性の土にいたりぬれば、 自然にこのさとりにかなふといふなり。 此土の得道と他土の得生とことなりといへども、 うるところのさとりはたゞひとつなりとしるべし。 されば往生といへるも実には无生なり。 この无生のことはりをば安養にいたりてさとるべし、 そのくらゐをさして真実の証といふなり。
第五に真仏土といふは、 まことの身土なり。 すなはち報仏・報土なり。 仏といふは不可思議光如来、 土といふは无量光明土なりといへり。 これすなはち第十二・第十三の光明・寿命の願にこたへてうるところの身土なり、 諸仏の本師はこれこの仏なり、 真実の報身はすなはちこの体なり。
第六に化身土といふは、 化身・化土なり。 仏といふは ¬観経¼ の真身観にとくところの身なり。 土といふは ¬菩薩処胎経¼ にとくところの懈慢界、 また ¬大経¼ にとける疑城胎宮なりとみえたり。 これすなはち第十九の修諸功徳の願よりいでたり。 たゞしうちまかせたる教義には、 ¬観経¼ の真身観の仏をもて真実の報身とす。 和尚の釈、 すなはちこのこゝろをあかせり、 真身観といへるその名あきらかなり。 しかるにこれをもて化身と判ぜられたる、 常途の教相にあらず。 これをこゝろうるに、 ¬観経¼ の十三観は定散二善のなかの定善なり。 かの定善のなかにとくところの真身観なるがゆへに、 かれは観門の所見につきてあかすところの身なるがゆへに、 弘願に乗じ仏智を信ずる機の感見すべき身に対するとき、 かの身はなを方便の身なるべし。 すなはち六0363十万億の身量をさして分限をあかせる真実の身にあらざる義をあらはせり。 これによりて聖人、 この身をもて化身と判じたまへるなり。 土は懈慢界といひ、 また疑城胎宮といへる、 そのこゝろをゑやすし。 ふかく罪福を信じ善本を修習して不思議の仏智を決了せず、 うたがひをいだける行者のむまるゝところなるがゆへに、 真実の報土にはあらず。 これをもて化土となづけたるなり。 これわが聖人のひとりあかしたまへる教相なり。 たやすく口外にいだすべからず、 くはしくかの一部の文相にむかひて一流の深義をうべきなり。 さればこの教・行・信・証・真仏土・化身土の教相は、 聖人の己証当流の肝要なり。 他人に対してたやすくこれを談ずべからざるものなり。 あなかしこ、 あなかしこ。
文明九年 丁酉 十月十七日
至巳剋 令清書之訖
みなひとの まことののりを しらぬゆへ
ふでとこゝろを つくしこそすれ
六十三歳 在御判