宗祖は生涯に非常に多くの和讚を制作されているが、 ¬浄土和讚¼、 ¬高僧和讚¼、 ¬正像末和讚¼ の三部の和讃集は、 特に 「三帖和讚」 と総称される。 そもそも和讃とは、 従来の梵讃や漢讃に対して、 和語による七五調を定型とした仏徳や高僧方を讃えた讃歌をいう。 和讃は、 平安時代中期頃から和歌の制作が盛んとなるにつれて制作されはじめ、 天台僧である千観の ¬極楽国弥陀和讃¼ や源信僧都作と伝えられる ¬極楽六時讃¼ 等が嚆矢に位置づけられる。 爾来、 浄土教系においてよく制作され、 鎌倉時代に至ると隆盛期を迎えるが、 宗祖の和讃もこうした流れの中に位置づけられる。
宗祖には、 「正信念仏偈」 「念仏正信偈」 「入出二門偈頌」 等の漢讃があり、 一方で和讃はこの 「三帖和讃」 が代表的である。 流伝した中で最も首数の多い文明本でみると、 ¬浄土和讃¼ 百十八首、 ¬高僧和讃¼ 百十九首、 ¬正像末和讃¼ 百十六首で合計三百五十三首を数え、 これに ¬皇太子勝徳奉讃¼・¬大日本国粟散王聖徳太子奉讃¼・別和讃まで含めれば、 総計五百四十首以上にも達する。 中でもこの 「三帖和讃」 には、 浄土真宗の法義が余すところなく讃詠されており、 しばしば 「和語の教行信証」 といわれる所以もそこにある。
「三帖和讃」 の特徴について触れると、 まず厳密に四句をもって一首が形成されている点が挙げられる。 というのは、 和讃史全体を俯瞰した場合は、 四句以上にわたって一首が形成されることも多いからである。 三帖和讃は、 一帖の中でも、 数首を列ねて一つの内容を形成する構成がとられるが、 それぞれに所顕の内容と四句一首による首数 (「大経意 二十二首」 等) が示されている。 また国宝本や顕智本では、 二句目以降は一句目より一、 二字下げて書かれており、 一句目の右肩には首番号が付されている。 ここまで首尾一貫して四句一首をまもった和讃集は、 和讃史全体からみても、 稀な作例と位置づけられる。 他の特徴としては、 和讃の中で用いた漢字の一々について、 右側には振り仮名などの右訓が、 左側にはいたる所に反切や音訓、 語釈などの左訓が記されており、 中には一句全体を釈したものや、 その釈が数行にわたるものもある。 また漢字のほとんどに圏発点が付されており、 国宝本 ¬高僧和讃¼ の旧表紙見返には、 その圏発点が図解されている。 こうした実に懇切な配慮は、 国宝本で 「和讃」 という言葉に 「ヤワラゲホメ」 (現世利益和讃) と左訓されたように、 広く関東の門弟に対して向けられたものと考えられ、 ここに撰述動機の一端を窺うことができる。 更には従来の和讃が、 浄土や来迎などについて美麗な修辞を駆使して詠出されたものが多いのに対し、 宗祖の和讃は経・論・釈の文言に基づいた質実なものが多く、 また命令形で終止する和讃が多いのも特徴とされ、 和讃全体が力強いものとなっている。
次に 「三帖和讃」 の成立過程について、 まず ¬浄土和讃¼ と ¬高僧和讃¼ について述べると、 国宝本 ¬高僧和讃¼ の奥書には 「弥陀和讃高僧和讃都合/二百二十五首/宝治第二戊申歳初月/下旬第一日釈親鸞七十六歳/書之畢」 とある。 この奥書で注目されるのは 「弥陀和讃」 「高僧和讃」 と並べ挙げ、 「都合二百二十五首」 と両和讃の首数を合算して記し、 共に宝治二 (1248) 年正月二十一日の成立としてある点である。 このことから両和讃は一連に制作されたと見るのが妥当であり、 ¬浄土和讃¼ が三部経を中心に構成され、 ¬高僧和讃¼ が七高僧によって構成されていることから、 内容的に 「正信念仏偈」 の依経段・依釈段の構成と軌を一にするものと見ることができる。
次に ¬正像末和讃¼ の成立について、 まず注目すべきは国宝本の 「夢告讃」 前後の記述である。 前には 「康元二歳丁巳二月九日の夜寅時夢告にいはく」 とあり、 後には 「正嘉元年丁巳閏三月一日/愚禿親鸞八十五歳書之」 とある。 この康元二 (1257) 年は、 三月十四日に正嘉元年と改元されているから、 二月九日の夜に夢に見た和讃を同年の閏三月一日に書きとめられたものであることがわかる。 但しこの ¬正像末和讃¼ は、 「三時讃」 が三十五首 (本文は 「已上三十四首」 と表記) ある後に、 「夢告讃」 一首と和讃が五首あるのみで、 後の顕智本や文明本に比して、 首数も著しく少なく順序も異なるので草稿本と位置づけられる。 一方、 顕智本では、 「夢告讃」 が最初に移動し、 後の和讃は九十一首に増え、 内容も整備されている。 この奥書に 「草本云/正嘉二歳九月廿四日/親鸞八十六歳」 とあることから、 この年時をもって、 一般に ¬正像末和讃¼ 成立の時と考える。 また文明本では 「善光寺讃」 の後に 「親鸞八十六歳御筆」 との記述がある。 「御筆」 との表記を宗祖によるものとは考えにくいが、 「御筆」 の表記がない本も存在しており、 文応元 (1260) 年にも補訂があったとされる。
次に 「三帖和讃」 の内容と構成について、 文明本に即して触れておく。 ¬浄土和讃¼ は、 三部経などによって阿弥陀如来及び浄土の徳を中心に、 教義内容を広く讃詠されたものである。 「冠頭讚」 二首、 「讚阿弥陀仏偈讚」 四十八首、 「大経讚」 二十二首、 「観経讚」 九首、 「弥陀経讚」 五首、 「諸経讚」 九首、 「現世利益讚」 十五首、 「勢至讚」 八首から成る。
¬高僧和讚¼ は、 先述したように、 ¬浄土和讃¼ と緊密な関係にあり、 ¬浄土和讃¼ で讃詠された内容が、 印度・中国・日本の三国にわたる七高僧によって、 いかに領解され伝統されてきたのかを、 その著作や伝記に即して讃詠されたものである。 「龍樹讚」 十首、 「天親讚」 十首、 「曇鸞讚」 三十四首、 「道綽讚」 七首、 「善導讚」 二十六首、 「源信讚」 十首、 「源空讚」 二十首と、 「結讃」 二首から成る。
¬正像末和讚¼ は、 時と機根に対する悲嘆と共に、 正像末の三時に通入する本願念仏が中心的に讃詠され、 仏智疑惑が誡められている。 また文明本では聖徳太子や善光寺に関するものや、 散文のいわゆる 「自然法爾章」 と呼ばれる法語など最晩年に書かれたものが収められており、 特色ある構成がとられている。 「夢告讃」 一首、 「三時讚」 五十八首、 「誡疑讚」 二十三首、 「皇太子聖徳奉讚」 十一首、 「愚禿悲嘆述懐」 十六首、 「善光寺和讚」 五首、 それに 「自然法爾」 の法語と二首の和讚から成っている。