親鸞聖人真筆消息 本真筆消息は、 本派本願寺蔵の四通 ª(7)(10)(11)(12))º、 真宗大谷派本願寺蔵の一通 ª(1)º、 高田派専修寺蔵の七通 ª(2)(3)(4)(5)(6)(8)(9)º の計十二通がある。 この中、 (2)(5)(7)(10)(11)(12)は他の消息集に収録されていない。 本聖典では、 年時の明確なもの、 あるいは推定可能なものを年代順に(1)~(5)としてあげ、 (6)以降は年時未詳のため月日の順に配列した。 (1)の消息は、 「建長七歳乙卯十月三日」 の奥書がある。 (2)は、 「十二月十五日」 としかないが、 本文に 「この十日のよ、 せうまうにあふて候」 とあり、 宗祖が十二月十日に火災にあわれたことが記されている。 この火災については、 ¬恵信尼消息¼ (建長八年七月九日付、 内容が 「証文」 であるため註釈版には収録されていない) に 「もんぞもやかせ給てや候らんとて申候」 とあることなどから、 この火災は建長七年十二月十日のことと見るのが妥当であり、 本消息を建長七年十二月十五日と推定できる。 (3)は、 包紙の記述から建長八 (1256) 年五月二十八日の消息であることが知られる。 (4)は、 慶信の上書に対して宗祖が加筆訂正されたものでる。 本消息には 「十月十日」 としかないが、 本消息に添えられた蓮位添状に覚信房の往生が記されていることと、 覚信房は正嘉二 (1258) 年十二月三十一日以前に示寂していることが知られること ª真筆消息(5)º から、 正嘉二年の消息とするのが定説となっていが、 正嘉元 (1257) 年とする説もある。 (5)は、 「閏十月廿九日」 とあり、 宗祖晩年で閏十月があった正元元 (1259) 年とされる。 (6)は、 浄信の質問に対して宗祖が答えられた消息である。 本消息は月日が記されていないが、 ¬善性本¼ に収録されている浄信の質問状の奥書から二月二十五日頃の消息と推定される。 (7)の奥書は 「三月廿八日」、 (8)の奥書は 「十月六日」、 (9)の奥書は 「十月廿一日」、 (10)の奥書は 「十一月十一日」、 (11)の奥書は 「十一月十二日」 とそれぞれ記されている。 (12)は、 奥書に 「寛元元年癸卯十二月/廿一日」 とあるが、 証文であって他の消息とは趣が異なるため、 収載していない。