本書の著者は、 源空 (法然) 上人 (1133~1212) である。 源空聖人は長承二 (1133) 年、 美作国 (岡山県) 久米南条稲岡荘に押領使漆間時国の子として誕生した。 九歳の時、 不慮の難で亡くなった父の遺言により、 十三歳にして比叡山に登り、 十五歳の時、 皇円のもとで出家受戒した。 十八歳の時には隠棲し、 黒谷別所の叡空に師事して、 法然房源空と名を改めた。 承安五 (1175) 年、 四十三歳の時、 善導大師の ¬観経四帖疏¼ の文により、 専修念仏に帰依した。 以降、 聖人は東山大谷 (吉水) の地で専修念仏の教えを広めた。 文治二 (1186) 年には大原勝林院で浄土の法門について対論し (大原問答)、 同六年、 東大寺の勧進であった俊乗房重源の招きによって浄土三部経を講じた。 これをもとに建久九 (1198) 年、 六十九歳の時に本書を撰述している。 元久元 (1204) 年、 比叡山僧徒からの専修念仏の停止の訴えに対して 「七箇条制誡」 を草し、 門弟百九十名の連署を添えて延暦寺に送った。 また、 翌年十月には興福寺が朝廷に念仏停止の奏状を出したことにより、 ついに建永二 (承元元・1207) 年二月、 専修念仏停止が宣下された。 いわゆる承元の法難である。 この法難によって、 聖人は土佐 (実際には讃岐) へ流罪となった。 同年に赦免されて摂津の勝尾寺に住し、 建暦元 (1211) 年十一月、 東山大谷に帰洛が許され、 翌年の正月二十五日、 八十歳で示寂している。
本書は、 聖人の主著であり、 専修念仏が選択本願に依ってたつ行業である旨を述べ、 浄土宗の独立を宣言した書である。 内容は、 題号に続いて 「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本 (先)」 の標宗の文が置かれ、 本文は十六章からなり、 各章は標章、 引文、 私釈の順で構成されている。 初めの二門章、 二行章、 本願章の三章には本書の要義が述べられ、 巻末にはこれらをまとめた全体の結論ともいうべき 「三選の文」 (結勧の文) が示されている。
本書の撰述は、 後述に 「而今不図蒙仰、 辞謝無地。 仍今憖集念仏要文、 剰述念仏要義。 唯顧命旨、 不顧不敏、 是即無慚無愧之甚也」 とあることや、 宗祖の ¬教行信証¼、 弁長の ¬徹選択集¼ 等の記述から、 九条兼実の教命によってなされたものと知られるが、 また聖人が専修念仏への誤解や批判に対する正確な教義書の必要を感じたことも撰述の動機として考えられる。 撰述年時については諸説あるが、 主なものは、 源智の ¬選択要訣¼、 良忠の ¬選択伝弘決疑鈔¼ などに述べられる建久九 (1198) 年、 六十六歳説と、 覚如上人の ¬拾遺古徳伝¼ や尭恵の ¬選択集私集鈔¼ などに述べられる元久元 (1204) 年、 七十二歳説である。 しかし、 建久八、 九年の聖人の病気を機縁とした兼実の要請であることや、 盧山寺本の執筆にあたった真観房感西が正治二 (1200) 年に没していることから、 建久九年説が至当と考えられる。
この ¬選択集¼ の諸本について、 古来より二本説と四本説がある。 二本説は、 源智や良忠が述べているもので、 略本は兼実高欄の本で、 広本は執筆にあたった門弟が初学者のために名目を加えたものであるという。 また長西の新旧二本説は、 旧本は標宗の文が 「念仏為先」 であり、 新本は 「念仏為本」 となっていると記すが、 これをまとめると旧本は略本で、 新本は広本にあたると考えられる。 現在ではこの略本から広本へという順ではなく、 「三部経釈」 を選略した草稿本の広本があって、 これを整備したのが略本であるとし、 盧山寺本から往生院本、 建暦本となっていったとするのである。 この広本は 「念仏為本」 であったと思われる。 次に四本説とは、 義山が元禄版の跋文に述べているもので、 稿本、 冊本、 正本、 広本の四本をいう。 冊本は兼実に呈し、 聖光房が相伝した本であり、 正本とは聖人滅後に刊行した建暦本をいう。 また稿本は盧山寺本、 もしくはそれに先行する草稿本にあたり、 広本は存覚相伝本の真名原本が相当すると考えられる。