往生論註 (親鸞聖人加点) 解説
本書は、 曇鸞大師撰述の ¬往生論註¼ の宗祖加点本である。
宗祖が加点した本派本願寺蔵鎌倉時代刊本は、 上下両巻を具えた現存最古の刊本である。 各巻の表紙左上には 「浄土論註巻上」、 「浄土論註巻下」 との外題があるが、 宗祖の筆ではないとされる。 体裁は半葉六行、 一行七字である。 刊記がなく、 刊本成立に関する詳細は不明である。 かつては奈良の春日版とする説もあったが、 今日では、 宗祖の加点年時や字体などから、 寛元・建長の頃 (1243~1256)、 京都の浄土教徒が開版したものとする説が有力である。 なお、 普賢晃壽氏所蔵の ¬往生論註¼ (下巻) は、 これと同版とみられている。
本書は、 この刊本に宗祖が全面的に返点・送り仮名などの訓点や科節、 さらに本文の訂正、 異本との校異などを記したものである。 宗祖が加点した年時については、 「建長八歳丙辰七月廿五日 愚禿親鸞 八十四歳 加点了」 との奥書から、 建長八 (1256) 年、 八十四歳の時であることが知られる。
本書において特筆すべきことは、 宗祖独自の訓点によって五念門行の主体を願生行者から法蔵菩薩に転換している点である。 たとえば、 起観生信章には 「礼↢拝シタマヒキ阿弥陀如来・応・正遍知ヲ↡」、 「口業ヲシテ讃嘆シタマヒキ」、 「心ニ常ニ作願シタマヘリキ」、 「智慧ヲシテ観察シタマヘリキ」、 「回向ヲ為シテ↠首、 得タマヘルガ↣成↢就コトヲ大悲心ヲ↡故ニト」 などのような敬語を用いた約仏の訓点が付されている。 これらの訓読は、 ¬入出二門偈¼ に類似するものがみられる。 また、 第五回向門は ¬教行信証¼ 「信文類」 や ¬浄土三経往生文類¼ (広本) の訓読と一致する。 さらに、 回向については 「往相者、以テ↢己ガ功徳ヲ↡廻↢施シテ一切衆生ニ↡、作願シテ共ニ往↢生セシメムトナリ彼ノ阿弥陀如来ノ安楽浄土ニ↡。還相者、生↢彼ノ土ニ↡已テ、得テ↢奢摩他・毘婆舎那方便力成就スルコトヲ↡、廻↢入シテ生死ノ稠林ニ↡教↢化シテ一切衆生ヲ↡、共ニ向ヘシムルナリ↢仏道ニ↡」 と訓じており、 往相・還相ともに阿弥陀仏の回向であることが顕されている。 これらは、 ¬教行信証¼ 「行文類」・「信文類」・「証文類」 の引用箇所の訓読とも概ね一致している。
さらに、 宗祖が本文に科節を記していることも、 本書の特徴である。 すなわち、 上巻には 「第一序文」、 「第二正宗分三 一大意」、 「三入文二 一総説分即上巻也」 とあり、 下巻には 「第一願偈大意」、 「第二起観生信」、 「第三観行体相」、 「第四浄入願心」、 「第五善巧摂化」、 「第六離菩提障」、 「第七順菩提門」、 「第八名義摂対」、 「第九願事成就」、 「第十利行満足」 とある。 このように、 下巻では全章に科節を設けて読解の便を図っている。
また、 本書には処々に本文の訂正が記されている。 訂記の方法としては、 刊本の文字に印を付したうえで、 上欄・下欄・右左傍に記入する場合と、 欄外等に別出せず文字に上書きする場合とがある。 これらの訂記からは、 宗祖の漢字に対する一貫した姿勢が窺える。 たとえば、 「惠」 を 「慧」、 「号」 を 「號」、 「覙」 を 「観」 と訂記する例がある。 特に 「惠」 から 「慧」 への訂記は、 「智惠」 の語を 「智慧」 と改める場合に多くみられ、 上巻ではすべて訂記されている。 下巻になると、 この訂記は減少するが、 本書で訂記の跡がない箇所であっても、 ¬教行信証¼ 所引の箇所で 「智慧」 と表記されていることから、 煩瑣になることを避けて記入を省略したためと考えられている。
なお、 下巻の巻尾には、 迦才 ¬浄土論¼ より曇鸞大師伝の一節が書写されている。 その中で、 宗祖は 「魏ノ末高斉之初猶在テ↢神智高遠ニシテ三国ニ↡知聞セラル」 という訓点を付している。 この文は、 正嘉二 (1258) 年に著された ¬尊号真像銘文¼ (広本) にも引用されるが、 そこでは 「魏の末高斉之初、 猶在しき。 神智高遠にして、 三国に知聞す」 と訓じている。 両書の訓点の相違について、 宗祖は本書に加点した当時、 曇鸞大師の往生を東魏の興和四 (542) 年と考えていたことに由来するという説がある。 これは ¬続高僧伝¼ の記述に依拠したものであるが、 ¬尊号真像銘文¼ (広本) を執筆する頃には、 迦才 ¬浄土論¼ や ¬瑞応刪伝¼ によって認識を改めたものと推測されている。