本書は、 阿弥陀如来の別号である十二光や十字名号および八字名号について釈されたものである。 内容は、 冒頭に題号があり、 無量光・無辺光・無礙光・清浄光・歓喜光・智慧光・無対光・炎王光・不断光・(欠失)・超日月光の順でそのはたらきについて釈される。 続いて再び無礙光を釈す中で帰命尽十方無礙光如来 (十字名号) の釈があり、 その後に難思光、 無称光を釈し、 その二つを合わせたものとして南無不可思議光仏 (八字名号) の釈がある。 そして、 最後に八字名号が書かれている。 おおよそ十二光と二つの尊号の解釈が中心となっており、 名号の徳義を光明にて明かしている内容となっている。
 本書には、 宗祖の真筆本は伝わっておらず、 長野県正行寺蔵応長元年書写本が唯一の古写本である。 本書が流布した形跡は、 正行寺本が発見された大正七 (1918) 年以前には見当たらず、 明和二 (1765) 年に本願寺の蔵版として刊行された ¬真宗法要¼ にも収録されていない。 正行寺本は、 表紙中央に本文と同筆で 「弥陀如来名号徳」 とあり、 左下に 「釈了智」 との袖書がある。 根本奥書には、 「草本云/文応元年 庚申 十二月二日書写之/愚禿親鸞 八十八歳 書了」 とある。 また、 書写奥書には、 抹消された跡があるものの、 「応長元年 辛亥 十二月廿六日/釈□□ 五十六歳 書写之」 とある。 このことから、 正行寺本は、 文応元 (1260) 年、 宗祖が八十八歳の時に書写されたものを、 さらに応長元 (1311) 年に書写されたものであることがわかる。 書写者については、 奥書から判読することはできないため、 表紙袖書の 「了智」 が本書の書写者として注目されてきた。 了智とは、 正行寺の開基で同寺所蔵の四祖像に宗祖-法善-西仏-了智とあり、 宗祖の門弟、 常陸の法善の孫弟であろうといわれている。 とりわけ、 同じく同寺所蔵の 「了智の定」 の制作者としてその名が知られている。 しかし、 この 「了智」 の袖書は書写者ではなく、 相伝者であったことを示していると考えられる。 それは、 「了智の定」 の書風が本書とは一致しないことから、 その制作年時が本書よりも時代が下がることによる。 よって、 書写者は未だ明らかではない。
 次に本書の撰述年時であるが、 現存唯一の正行寺本が宗祖の書写本を転写したものである以上、 奥書からは撰述年時を明らかにすることはできない。 ただし、 本文中に新訳経典による 「世親」 や 「有情」 などの訳出用語がみられることから建長七 (1255) 年の宗祖八十三歳以降の撰述であろうと考えられる。 その点より本書の撰述年時は宗祖八十三歳から八十八歳の頃と推定することができる。
 ところで、 本書の撰述については、 従来より御消息との関係が注目されてきた。 それは、 唯心房宛の御消息に 「ひとびとのおほせられてさふらふ十二光仏の御ことのやう、 かきしるしてくだしまいらせさふらふ。 くはしくかきまいらせさふらふべきやうもさふらはず。 おろおろかきしるしてさふらふ」 (¬親鸞聖人御消息集¼ 第十七通) とあり、 宗祖が十二光についての解説を書き記したことを述べられている点である。 この十二光の解説とは、 宗祖が唯心房に御消息を送り与えた際の添状と考えられており、 これが本書にあたると推測されてきた。 しかし、 一方で両者には明らかに符合しない点がある。 とくに、 御消息の日付が 「十月廿一日」 であるのに、 本書の日付は 「十二月二日」 で、 書かれた月日には一ヶ月以上も隔たりがあり、 両者を直接的には結びつけることができない。 御消息には、 年紀がないため何年の 「十月廿一日」 か明らかでないが、 正行寺本が書写された文応元年以前と見る向きが強い。 そうであるならば、 御消息に添付されていたのは、 本書の祖本か、 また別の一本があるということになる。 そこで、 御消息が指し示す内容が必ずしも正行寺本と一致しないことから、 両者には構成内容にも相違があったのではないかと推定されている。
 次にその構成内容についてであるが、 実は正行寺本は完本ではなく、 本文には欠失が三箇所認められる。 そのため、 今日では構成内容のすべてを知ることはできない。
 内容を見ていくと、 まず、 十二光の解説では他の宗祖聖教にはない特徴がある。 それは解説された各光の配列である。 十二光は、 ¬大経¼ に基づき、 「正信偈」 など無量・無辺・無礙・無対・炎王・清浄・歓喜・智慧・不断・難思・無称・超日月との配列を用いられるのが宗祖の通例である。 しかし、 本書では前の六光が無量・無辺・無礙・清浄・歓喜・智慧となっており、 これは、 ¬西方指南抄¼ 「法然上人語説法事」 に載録される法然聖人の十二光の解説によったためとの説が有力である。 また、 後の六光については、 無対・炎王・不断・(欠失)・超日月・無称となっている。 ここで問題になるのが、 超日月光の直前に欠失箇所があることである。 従来の翻刻には、 十二光の通例から乱丁と判断したのか、 難思・無称の二光が釈されている一葉を欠失箇所に挿入して翻刻したものもある。 しかし、 その序列は、 近年の書誌学的な研究成果により本聖典の翻刻通りであることが確認されている。 また、 超日月光の終わりに 「十二光のやう、 おろおろかきしるして候也」 とあり、 正行寺本には改行が入っていることからも、 冒頭より始まる十二光の解説はここで終わったものと考えられる。 その点から欠失箇所には十二光の解説として難思光・無称光があったと推定されるのである。 それによって、 後の八字名号を釈する際に触れられている難思光・無称光の釈は十二光の解説とは別に釈されたもので、 正行寺本の原型では難思光・無称光の釈は重複していたと考えることができる。 これらのことから、 別々に成立していたものを合綴して書写されたのが正行寺本であろうとの見方も提示されている。
 次に十字名号の釈の中にも欠失箇所があり、 これには、 従来、 愛知県上宮寺蔵の 「聖教切」 が該当するとされてきた。 正行寺本の一部であると見なされた主な理由は、 筆勢が一致し、 同一書写人であると認められることにあった。 しかし、 最新の研究成果により、 同一書写人であることは認められるものの、 その内容は本書と必ずしも一致するものではないと考えられる。 よって本聖典では収録しなかった。
 次に八字名号の釈にも欠失箇所が含まれるが、 これについては具体的な見解はなく、 今後の研究が待たれるところである。 また、 全体的に名号の釈を中心に構成されていることから、 本書を名号本尊の解説書とする説もある。