一念にて往生を得るのか、 多念を積んで往生を得るのかという一念多念の諍論は、 源空 (法然) 聖人の在世時より生じ、 源空上人滅後に至ってもなお続いた教学上の論争である。 宗祖も関東の門弟に向けた御消息において度々論じておられ、 東国の門弟間においてもこの問題が非常に大きなものとなっていた様子が窺える。 このような一念多念の諍論に対して、 隆寛律師が一念と多念とについてそのどちらにも偏執すべきではない旨を示したものが ¬一念多念分別事¼ である。 本書はその ¬一念多念分別事¼ に引証された要文に宗祖が註釈を施されたものであるが、 その内容は単に文の註釈にとどまらず、 宗祖独自の一念多念観を披瀝するものとなっている。
まず、 本書の構成についてみると、 ¬一念多念分別事¼ では一念と多念とのどちらにも通じる文として引かれていた解釈が、 本書では一念の証文あるいは多念の証文に収めて釈されている。 また、 ¬一念多念分別事¼ に取り上げられた全ての証文に註釈が施されているわけではなく、 一方で ¬一念多念分別事¼ には見られない文が多く引用されている。 本書であらたに引用された文は、 一念の証文に関するものでは ¬大経¼ の第十一願文と成就文、 王日休の ¬龍舒浄土文¼ 等の十文であり、 多念の証文に関するものでは、 ¬大経¼ の第十七願文と出世本懐の文、 ¬浄土論¼ の文の三文である。 ただし、 これらの文は一念或いは多念の証文にあらたな証文として加えられたというよりは、 既にある証文の内容を助顕したものとみられる。 また、 御消息に 「おほかたは、 ¬唯信鈔¼・¬自力他力の文¼・¬後世物語聞書¼・¬一念多念の証文¼・¬唯信鈔の文意¼、 これらをご覧じながら」 (¬親鸞聖人血脈文集¼ 第二通) とあり、 ¬一念多念の證文¼ と ¬一念多念の文意¼ とは、 それぞれ ¬一念多念分別事¼ と本書とを指すことから、 宗祖はこれらを併せて読むことを勧励しておられることが分かる。
内容についてみると、 ¬一念多念分別事¼ においては一念と多念とはあくまで称名の数の問題とされ、 「多念は一念のつもりなり」、 あるいは 「多念すなはち一念なり、 一念すなはち多念なり」 と述べられることで、 一念と多念とへの偏執を誡めている。 一方、 本書ではまず 「一念といふは、 信心をうるときのきわまりをあらわすことばなり」 とあるように、 一念を信の一念として釈し、 一念の証文に関する引文では、 信の一念に正定聚に住することが中心に述べられている。
次いで多念の証文では、 はじめに本願の 「乃至十念」 について一声と多声とを 「乃至」 の語に収めて釈し、 「称名の遍数さだまらず」 として称名の数に限定のないことが述べられている。 ただし、 以降に引用される文を見わたすと、 そこでは、 念仏の法とは釈尊の出世本懐の教であり、 諸仏が讃嘆するところであるとして、 数の問題とともに、 法そのものが問題とされていることが注意される。 そして、 「散善義」 就行立信釈の文の解釈では 「弘誓を信ずるを、 報土の業因と定まるを、 正定の業となづくといふ」 と述べられ、 その念仏が誓われた本願を領受すること、 つまり、 信心こそ肝要であることが中心に語られている。
¬一念多念分別事¼ において一念多念とは称名の一声多声の問題であったものが、 本書では一念を信の一念として釈され、 また多念についても、 称名の遍数に定まりのないことと共に、 その法が誓われた本願を領受すべきことが肝要であると述べられている。 このように、 一念多念を称名の数の問題から、 信心の問題として論じていることが本書の特徴といえる。