本書の著者は善導大師である。 その首題には 「依観経等明般舟三昧行道往生讃」、 尾題には 「般舟三昧行道往生讃」 とある。 本書は一般に、 「般舟讃」 と略称される。 本書は、 その首題が示しているように、 ¬観経¼ 等の諸経典によって、 浄土を願生し阿弥陀仏の徳を讃嘆する、 特定の期間を定める別時の行法を明かしたものである。
本書の構成は、 序分、 正讃、 後述の三段より成っている。
まず、 第一段の序分では、 般舟三昧の行法を修める行者の心構えについて勧誡し、 般舟三昧 (楽) の訳語とその意義を示している。
次に第二段の正讃では、 七言一句を重ねた長大な偈頌形式の讃文により、 ¬観経¼ を中心にして浄土の荘厳相および阿弥陀仏や聖衆の功徳、 そして九品往生の様相について讃詠されている。 その内容には大師の ¬観経¼ 理解の特徴を示す点が処々に散見される。 たとえば、 「上品上生凡夫等」 「下品下生凡夫等」 との文が示すように九品についてすべてを凡夫とみていく点や、 「定善一門韋提請」 「散善一門釈迦開」 との文から知られるように十六観を、 韋提希夫人の請いに応じて説かれる定善と、 釈尊が自ら開説する散善と二みていく点などがある。 なお、 本文中には 「般舟三昧楽」 の語が随所に挿入されており、 「願往生」 「無量楽」 の語が句ごとに配置されている。 このような形式は ¬法事讃¼ と共通するものである。
最後に第三段の後述では、 諸々の行者に向けて厭穢欣浄を勧め、 慚愧をいだいて仏恩を謝する念より努めて行ずべきことを述べて本書一部を結んでいる。
本書の内容は、 具疏四部の中で ¬観経¼ の諸説と最も深い交渉をもっており、 善導大師の ¬観経¼ 理解を窺う上で、 ¬観経疏¼ とともに注目されるものである。
なお、 本書の成立および五部九巻に関する撰述の前後関係については ¬観経疏¼ の解説を参照されたい。
ところで、 中国における本書の依用については、 ¬浄土五会念仏略法事儀讃¼ への引用が挙げられる。 その著者である法照は 「善導の後身」 と讃えられ、 とくに行儀面において善導大師からの影響が大きいことが指摘されている。 また、 日本における本書の伝来については、 「正倉院文書」 によると天平二十 (748) 年に本書が書写された記録があり、 少なくともこれ以前には日本に伝来していたと考えられている。 さらには、 ¬霊巌寺和尚請来法門道具等目録¼ によると、 承和六 (839) 年に円行によって本書が将来されたことが知られ、 その中には ¬法事讃¼ ¬観念法門¼ の名も連ねられている。
しかし、 本書は日本に伝来された後、 国内で流布した形跡は見られず、 流伝の課程で姿を消している。 永超によって寛治八 (1094) 年に制定された ¬東域伝燈目録¼ には、 五部九巻のうち四部八巻は載録されているものの、 そこに本書の名は見られない。 源信和尚の ¬往生要集¼ においても、 五部九巻のうち本書のみが引用されておらず、 また 「偏依善導一師」 といわれた源空 (法然) 聖人にも五部九巻のうち本書の引用だけがみられないことから、 披閲することがなかったとみられる。 本書が再び姿を現すのは、 源空聖人示寂から五年を経た建保五 (1217) 年のことである。 仁和寺の経庫から静遍によって円行将来本が発見されたのである。 この時すでに、 幸西の門弟である明信は、 五部九巻の証本を探し求めるも入手することができず、 本書の発見を待たずに五部九巻のうちの四部八巻を開版していた。 建保五年の発見によって流布した本を入手した明信は、 唯一開版していなかった本書の改版を志すが、 その流布本には内容に誤脱などが多かったことから、 円行将来本そのもとの校合するなどの対応をして改版の準備を整えていく。 しかし、 その明信は改版本を見ることなく寛喜三 (1231) 年に示寂してしまう。 そのために、 翌年の貞永元 (1232) 年に明信との遺約によって門弟である入真が本書を改版することになるのである。 本書の改版は、 後に知真により正安四 (1302) 年および元亨二 (1322) 年に五部九巻として行われ、 さらに多くの人の目に触れるところとなった。 入真、 知真による改版本の初摺本は、 いずれも現存が確認されていないが、 貞永元年版の形態は大谷大学蔵本に、 正安四年版の形態は龍谷大学蔵本にそれぞれ伝えられている。 なお、 近年、 新たに鎌倉時代の書写本の断簡が発見されており、 現存する諸本とは異なる系統ではないかとみられている。