本書は、 覚如上人の撰述である。 覚如上人については ¬慕帰絵¼・¬最須敬重絵詞¼ を参照されたい。 本書は、 「親鸞伝絵」、 あるいは単に 「伝絵」 とも呼ばれ、 宗祖の遺徳を讚仰するために、 その生涯や事蹟をまとめた書である。 覚如上人は、 正応三 (1290) 年頃より東国の宗祖ゆかりの遺跡を巡り、 遺弟に謁するなどして、 宗祖に関する様々な所伝を集めている。 また、 それらを父覚恵上人らからの口伝と合わせて、 宗祖の伝記としてまとめ、 詞書と図絵とを交互に配置した絵巻物とされた。
本書の内容については、 一般の流布本では上巻八段、 下巻七段の計十五段からなる。 上巻は、 出家学道、 吉水入室、 六角夢想、 蓮位夢想、 選択付属、 信行両座、 信心諍論、 入西鑑察の八段、 下巻は、 師資遷謫、 稲田興法、 弁円済度、 箱根霊告、 熊野霊告、 洛陽遷化、 廟堂創立の七段によって構成されている。
本書の成立については、 諸本の奥書に 「于時永仁第三暦応鐘中旬第/二天至哺時終草書之篇訖/執筆法印宗昭/画工法眼浄賀 号康楽寺」 とあり、 宗祖三十三回忌の翌年にあたる永仁三 (1295) 年に、 覚如上人が詞書を草し、 康楽寺浄賀が図絵を描いて成立したことが知られる。 その後、 本書は増補改訂をくりかえしているが、 初稿本は、 建武二 (1236) 年六月、 本願寺が南北朝動乱の中で炎上した際に焼失したとみられている。 そして、 奥書に 「暦応二歳 己卯 四月廿四日、 以或本俄奉書/写之先年愚草之後一本所持之処世上/闘乱之間炎上之刻焼失不知行方而今不慮得/荒本註留之者也耳」 「康永二歳 癸未 十一月二日染筆訖」 とあるように、 暦応二 (1339) 年、 本願寺焼失以前に書写されていた本を入手し、 それをもとに改めて康永二 (1343) 年、 覚如上人七十四歳の刻に制作されたものが最終稿である。
本書には、 覚如上人自身の増補改訂によって生じた複数の系統の書写本が現存している。 従来、 本書の主たる古写本とされるものに、 本派本願寺蔵 ¬善信聖人絵¼ 二巻 (琳阿本)、 高田派専修寺蔵 ¬善信聖人親鸞伝絵¼ 五巻 (高田本)、 さらに真宗大谷派蔵 ¬本願寺聖人伝絵¼ 四巻 (康永本) の三本がある。 琳阿本は、 先述の永仁三年十月十二日の奥書のみを有し、 高田本は永仁の根本奥書に続いて、 二ヶ月後の永仁三年十二月十三日の奥書が記されている。 また、 康永本は、 康永二年に制作された覚如上人の最終稿で、 一般に流布している系統とされている。
現存する諸本を比較すると、 構成の変化あるいは詞書の異同、 絵相の展開などが見られる。 初稿本の構成については、 ¬慕帰絵¼ 第五巻第二段に 「二巻の縁起を図画せしめ」 とあることから、 上・下二巻本であったと見られる。 段数について、 琳阿本 (十四段)・高田本 (十三段)・康永本 (十五段) を比較すると、 上巻の蓮位夢想・入西鑑察の二段の有無が各本で異なっており、 この二段は初稿本以降の増補と考えられている。 また、 本書は第一段の出家学道の段をはじめとして、 基本的には宗祖の年齢順に構成されているにもかかわらず、 建長八 (1256) 年、 宗祖八十四歳の蓮位夢想の段と仁治三 (1242) 年、 宗祖七十歳の入西鑑察の段は記事の編年順序通りになっていない。 加えて、 下巻の第一段である師資遷謫の段が、 宗祖三十五歳の出来事であることを考えると、 下巻の年時とも合わない。 なお、 真宗仏光寺派仏光寺蔵本の一切経校合の段のように、 先述の三本には見られない内容を持つ書写本も伝えられている。
また、 詞書についても相違がみられる。 題号は、 琳阿本には 「善信聖人絵」、 高田本には 「善信聖人親鸞伝絵」 とあり、 康永本に至ると 「本願寺聖人伝絵」 と本願寺号が示されるようになる。 本文では吉水入室および六角夢想の年時や、 「忠太郎」 と 「平太郎」 との違い、 全体的に琳阿本や高田本では漢文体が多用されるが、 康永本では仮名混じり文が目立つようになるなどの点がある。 このように、 幾たびもの増補改訂によって、 諸本間に相違が見られるのも本書の特徴である。
なお、 本書は絵巻物として成立したが、 覚如上人の在世時には、 すでに詞書と図絵とがそれぞれ分離独立して用いられたとみられ、 後には詞書を抄出して冊子としたものを 「御伝鈔」、 図絵のみを集めて掛軸としたものを 「御絵伝」 と称するようになった。 蓮如上人の時代には詞書を 「御伝」 として報恩講の際に拝読し、 「御絵伝」 は存如上人の時代より門末に授与されるようになったようである。