阿弥陀仏(如来) 阿弥陀仏とは、 極楽浄土 (極楽世界) にあって大悲の本願をもって生きとし生けるものすべてを平等に救済しつつある仏である。 ¬無む量りょう寿じゅ経きょう¼ には、 過去無む数しゅ劫こう (無限の過去) に一人の国王があり、 出家して法蔵ほうぞう (ダルマーカラ) と名のり、 世自せじ在王ざいおう仏ぶつの弟子となって、 諸仏の浄土を見て五劫の間思惟し、 一切衆しゅ生じょうを平等に救おうとして四十八願をおこし、 兆ちょう載さい永劫ようごう (無限の時間) の修行を経て阿弥陀仏と成られたと説かれている。 因いん位にの法蔵菩ぼ薩さつが願と行に報われて仏と成られたのであり、 このような仏を報身ほうじん仏ぶつと呼ぶ。 そして四十八願には、 光こう明みょう無量 (第十二願)、 寿命無量 (第十三願) の仏と成ろうと願われており、 その願いに報いて成就されたので、 無量光 (アミターバ)、 無量寿 (アミターユス) の徳をもち、 このような徳をあらわすために阿弥陀と名づけられたといわれている。 無量寿とは仏のはたらきの時間的無限性をあらわし、 無量光とは空間的無辺性をあらわしており、 時間的空間的な限定を超えて、 あらゆる衆生をもらさず救う仏の名である。 これによって親鸞しんらん聖しょう人にんは、 「摂取せっしゅしてすてざれば 阿弥陀と名づけたてまつる」 といわれる。 また、 曇鸞どんらん大師の教えによって法ほっ性しょう・方便の二種法身ほっしんとして阿弥陀仏を説明されている。 法性法身とは、 さとりそのものである法性真如を本身とする仏身のことで、 それはあらゆる限定を超え、 わたしどもの認識を超えたものである。 これについて ¬唯信ゆいしん鈔しょう文もん意い¼ では、 「いろもなし、 かたちもましまさず。 しかれば、 こころもおよばれず、 ことばもたえたり」 とある。 そして方便法身とは、 「この一如 (法性法身) よりかたちをあらはして、 方便法身と申す御すがたをしめして、 法蔵比丘となのりたまひて」 といわれる。 すなわち、 万物が本来平等一如のありようをしていることを人々に知らしめ、 自他を分別し執着して、 煩悩ぼんのうをおこし苦悩しているものをよびさまし、 真如の世界にかえらしめようとして、 絶対的な法性法身がかたちを示し、 阿弥陀仏という救いの御名を垂れて人々に知らしめているすがたを方便法身というのである。 すなわち、 大悲の本願をもって衆生を救済する仏を方便法身というのである。 この阿弥陀仏を ¬浄じょう土ど論ろん¼ には 「尽じん十方じっぽう無礙むげ光こう如来にょらい」 といわれ、 また ¬讃さん阿あ弥陀みだ仏ぶつ偈げ¼ には 「不可ふか思議しぎ光仏こうぶつ」 といわれている。 親鸞聖人は、 これによって阿弥陀仏を 「帰き命みょう尽じん十方じっぽう無礙むげ光こう如来にょらい」、 「南無なも不可ふか思議しぎ光仏こうぶつ (如来にょらい)」、 「南無なも阿弥陀あみだ仏ぶつ」 と十字、 八字 (九字)、 六字の名みょう号ごうをもって讃嘆さんだんし、 敬きょう信しんされている。