◎往生要集 中巻
【42】^第四に*観察門とは、 初心の人の修する観行は、 深奥なものには堪えられない。 ¬*十住毘婆娑論¼ にいわれてあるとおりである。
初めて発心した菩薩は、 まず仏の色相を念ぜよ。
また、 いろいろの経典の中に、 初心の人のためには相好の功徳を多く説かれてある。 それゆえ今まさに色相観を修すべきである。
^これを分けて三つとする。 第一は別相観、 第二は総相観、 第三は雑略観である。 それぞれの意楽に任せて、 これを用いるがよい。
【43】^第一の別相観には、 また二つがある。 ^まず華座を観ずるのである。 ^¬*観経¼ に説かれている。
かの*阿弥陀仏を*観察しようと思うものは、 よく想念を起こせ。 *七宝の大地の上に蓮華があると想い、 その蓮華の一々の花びらに百宝の色彩があると思え。 八万四千の脈があって、 ちょうど巧みな画のようである。 その脈には、 それぞれ八万四千の光が輝いている。 それらをきわめて明らかにみな見るようにせよ。 ^蓮華の花びらは、 小さいものでも、 広さ二百五十由旬である。 かの蓮華はこういう八万四千の花びらからできている。 その一々の花びらの間は、 百億の*摩尼宝珠で飾られている。 一々の摩尼宝珠からは、 千の光明を放ち、 その光は蓋のようで、 七宝でできており、 あまねく地上をおおっている。 ^その蓮華の台は、 *釈迦毘楞伽宝でできていて、 さらにそれが、 八万の金剛・*甄叔迦宝・*梵摩尼宝や美しい真珠の網でいろいろに飾られている。 その台の上には、 自然に、 四本の宝の幢があり、 その一々の幢は、 百千万億の*須弥山のように高くそびえ、 幢の上の縵幕は、 ちょうど*夜摩天の宮殿のようで、 五百億の微妙な宝珠で、 うるわしく飾られている。 ^その一々の宝珠には八万四千の光があり、 一々の光はまた八万四千の金色のあやをなしている。 一々の金色は、 ひろくその宝の大地をおおって、 至るところに変化して、 それぞれにさまざまの相を現わす。 あるいは金剛の台となり、 あるいは真珠の網となり、 あるいは色とりどりの花の雲となるというように、 あらゆる世界に、 意のままに変現して仏のすぐれたはたらきをなしている。 これを華座観というのである。
^このようなすぐれた花は、 もと*法蔵菩薩の願力によって成就せられたものである。 もしかの阿弥陀仏を観念しようと思うならば、 まずこの華座の観法をなせ。 この観法をするときには、 雑然と観じてはならない。 みな一々に観じて、 一々の花びら、 一々の珠、 一々の光、 一々の台、 一々の幢をみなあきらかになるようにさせよ。 ちょうど鏡に自分の顔かたちを映しみるように観ぜよ。 ^このように観ずるのを正観と名づけ、 もしこれと違った観じ方をするなら、 邪観というのである。 以上。 この蓮華の座の相を観ずる者は、 五万*劫という長い間の生死の罪が滅し除かれて、 かならず*極楽世界に生まれることができる。
^次に、 まさしく仏の相好を観ずるのである。 すなわち阿弥陀仏は、 蓮華の台の上に坐し、 相好は炳然としてその身を荘厳したもう。
^一つには、 頂の上に*肉髻がある。 それを見ることのできる者はない。 高く顕われて円いことは、 ちょうど天蓋のようである。 ^あるいは広く観じようとねがう者は、 次に、 このように観ずるがよい。 仏の頂の上には、 大きな光明があって、 千の色を具えていられる。 一々の色は八万四千の支となり、 その一々の支の光の中には八万四千の化仏がまします。 化仏の頂の上にもまたこの光を放っている。 この光は、 あいついで連なり、 上方の無量の世界に至る。 上方の世界にも化菩薩があって、 雲のように下って諸仏を囲み遶るのである。 ^¬*大集経¼ に説かれてある。 「父母・師僧・和上などを敬って、 この肉髻相を得たのである」 下略。 もしこの相を見て*随喜を生ずる者は、 非常に重い千億劫の悪業を除き去って、 *三途に堕ちないのである。
^二つには、 頂の上の八万四千の髪の毛は、 みな上向きに靡き、 右旋になって生えている。 いつまでも抜け落ちることなく、 また乱れることもない。 紺青の色で密生し、 香り潔く細く軟らかである。 ^あるいは広く観じようと願う者は、 このように観ずるがよい。 一々の毛孔には、 五つの光が旋り出ている。 もしこの髪の毛を延べる時は、 長くなって量りがたい。 釈尊の場合には、 髪の長さは尼楼陀の寺から、 父王の宮殿に至り、 城を七廻りも取巻いたといわれている。 無量の光が、 あまねく照らして、 紺瑠璃の色となる。 この色の中に化仏がましまして、 一々数えきれぬほどである。 この相を現わしおわるとまた仏の頂に住まり、 右に旋って渦巻き、 螺文となる。 ^¬大集経¼ に説かれている。 「悪事を人々に加えなかったから、 髪の色が金精の相であることができたのである。」
^三つには、 その髪の生え際に、 五千の光があり、 まじわってあきらかである。 みな上向きに靡き、 もろもろの髪を囲み、 頂を五回りも遶る。 天の画師が作った画法のようである。 円く等しくて、 一糸のように細い。 その糸の間に多くの化仏があらわれ、 化菩薩を眷属とされている。 すべての色像も、 またその中に現われている。 ^広く観じようとねがう者はこの観を用いるがよい。
^四つには、 耳は厚く広く長くて、 耳たぶがよくととのっていられる。 ^あるいは広く観ずるがよい。 七つの毛が旋り生じ、 五つの光を流し出す。 その光には千の色があり、 その色ごとに千の化仏がおられる。 仏ごとに千の光を放って、 あまねく十方の無量の世界を照らす。 ^このこまかい随好 (すがた) の業因を考えてみよ。 ¬*観仏三昧経¼ に説かれている。 「この好 (こまかいすがた) を観ずる者は八十億劫の生死の罪を滅し、 後の世には、 いつも*陀羅尼をたもつ人の眷属となる」 下略。 以下いろいろの利益は、 みな、 また ¬観仏三昧経¼ に依って註する。
^五つには、 額は広く、 平らかで正しく、 形相は殊に妙れている。 ^この好 (すがた) の業因ならびに利益は考えてみるべきである。
^六つには、 面輪は円満で光沢があり、 やわらぎがある。 端正で白く潔らかなこと、 さながら秋の月のようである。 二つの眉は皎かで浄く、 天帝の弓に似ている。 その色は比べものがなく、 紺瑠璃の光がある。 ^来たり求める者を見て、 歓喜を生ずるから、 面輪が円満なのである。 この相を観ずる者は、 億劫の間の生死の罪を除き去り、 後にその身の生まれる所では、 まのあたり諸仏を見たてまつる。
^七つには、 眉間の*白毫は、 右にゆるやかにめぐっている。 柔らかなことは*兜羅綿のようで、 鮮やかに白いことは白雪にもまさっている。 ^あるいは、 次に広く観ずるがよい。 この白毫を伸ばすと、 長く長大になって、 白瑠璃の筒のようであり、 白毫を放してしまうと、 右に旋って*玻璃の珠のようになる。 一丈六尺の仏の白毫は、 長さが一丈五尺。 右旋りの直径が一寸、 周囲が三寸である。 ^あらゆる方向に量りない光を現わすことは万億の日のようで、 くわしく見ることはできぬ。 ただ、 光の中にもろもろの蓮華を現わす。 上は数限りもない世界を過ぎるまで、 花と花とが次々に連なって、 円くふくらかで、 大きさはみな一様である。 ^一々の花の上には、 一人の化仏が坐し、 相好はりっぱで、 眷属が囲み遶っている。 一々の化仏は、 また無量の光を出し、 その一々の光の中にも、 また無量の化仏がいられる。 このもろもろの仏がたは、 歩まれる方も無数、 住まられる方も無数、 坐っていられる方も無数、 臥してしられる方も無数である。 あるいは大慈大悲を説き、 あるいは*三十七品を説き、 あるいは*六波羅蜜を説き、 あるいはもろもろの*十八不共法を説かれている。 ^もし広く説くならば、 すべての*衆生から、 十地の菩薩に至るまでも、 またこれを知ることはできぬであろう。 ^¬大集経¼ に説かれている。 「他人の徳を隠さずに、 その徳を褒めたたえたので、 この相を得たのである。」 ¬観仏三昧経¼ に説かれている。 「量りない昔から、 昼夜に努め励んで、 身も心も怠ることなく、 頭に火がついたのを打ち消すようにして、 六波羅蜜・三十七品・*十力・*四無所畏・大慈大悲などもろもろのすぐれた功徳を勤修して、 この白毫の相を得たのである。 この相を観ずる者は、 九十六億*那由他*恒河沙微塵数劫の生死の罪を除き去る。」
^八つには、 如来の眼睫は、 ちょうど牛王のようである。 色は紺青でよく整って、 雑わり乱れない。 ^あるいは、 次に広く観ずべきである。 すなわち、 上下にそれぞれ生えて、 五百の毛がある。 *優曇華の鬚のようで、 柔らかで好もしい。 一々の毛の端には、 一つの光を出し、 玻璃の色のようで、 頭を一回りして、 純ら微妙のもろもろの青蓮華を生ずる。 一々の花の台には、 *梵天王があって、 青色の天蓋を執っている。 ^¬大集経¼ に説かれている。 「至心に無上菩提を求めたから、 牛王の睫の相を得たのである。」 ¬*涅槃経¼ に説かれている。 「怨憎を見て、 善い心を生じたからである。」
^九つには、 仏の眼は青と白とで、 上下ともまたたく。 白いところは白宝より越え、 青いところは青蓮華よりも勝れている。 ^あるいは、 次に広く観ずべきである。 その眼より光明を出し、 分かれて四つの支となり、 あまねく十方の無量の世界を照らす。 青い光の中には、 青い色の化仏がましまし、 白い色の光の中には、 白い色の化仏がましまして、 この青と白との化仏は、 またもろもろの神通を現わすのである。 ^¬大集経¼ に説かれている。 「慈悲の心を多く集め、 衆生をいつくしみ視て、 紺色の目の相を得たのである」 下略。 わずかの時間でも、 この相を観ずる者は、 未来に生まれる所で、 いつも眼は明らかで浄く、 眼の病はなく、 七劫の生死の罪を除き去るのである。
^十には、 鼻は、 ながく高く真直で、 その孔は外に現われていない。 黄金でこしらえた小矛のようであり、 鸚鵡の嘴のようである。 表も内側も清浄で、 もろもろのけがれたかげもない。 二すじの光明を出して、 あまねく十方を照らし、 いろいろ量りない仏事をあらわして、 はたらく。 ^この随好 (こまかいすがた) を観ずる者は、 千劫の罪を滅し、 未来に生まれる所では勝れた香をかぎ、 いつも、 *戒の香をその身の瓔珞とする。
^十一には、 唇の色は赤く好もしいこと、 *頻婆の果のようであり、 上下の釣合いのよいことは、 秤のようで、 整って麗しい。 ^あるいは、 次に広く観ずべきである。 団円の光明は、 仏の口から出て、 ちょうど百千の赤真珠がつらなっているようで、 鼻と白毫と髪との間を出たり入ったりする。 このようにめぐって、 *円光の中に入るのである。 ^この唇の随好の業因などは考えてみるべきである。
^十二には、 四十本の歯は斉い、 浄く密で根深く、 その色の白さは白雪にも勝っている。 いつも光明があり、 その光は紅白で、 人の目に映り輝く。 ^¬涅槃経¼ に説かれている。 「二枚舌を使わず、 粗悪な言葉をいわず、 怒りの心から遠ざかったので、 四十本の歯が、 白く浄く斉い、 密な相を得たのである」 下略。
^十三には、 四本の牙歯は鮮やかで白く、 光の潔くてするどいことは、 月が初めて差し上った時のようである。 ^¬大集経¼ に説かれている。 「身と口と意とが浄いから、 四本の牙歯の白い相を得たのである」 下略。 この唇と口と歯との相を観ずる者は、 二千劫の罪を破する。
^十四には、 世尊の舌の相は、 薄く、 浄く、 広長で、 よく面輪を覆い、 耳の際から梵天までに至る。 その色は赤銅のようである。 ^あるいは、 次に広く観ずるがよい。 舌の上には五つの画があって、 ちょうど印文のようである。 ほほえむ時、 舌を動かされると、 五色の光が出て、 仏を七回りして、 また頂から入る。 あらゆる神変は量りなく辺がない。 ^¬大集経¼ に説かれている。 「口の四つの過失 (*両舌・*悪口・*妄語・*綺語) を犯さなかったので、 広長な舌の相を得たのである」 下略。 この舌の相を観ずる者は、 百億八万四千劫の罪を除き、 後の世で、 八十億の仏に値いたてまつる。
^十五には、 舌の下の両辺には、 二つの宝珠があり、 甘露を注ぎ流して、 舌の上に滴らす。 もろもろの天人、 世の人、 十地の菩薩には、 このような舌がなく、 また、 このような味わいもないのである。 ^¬*大般若経¼ には、 これと異なった説があるから、 考えてみるがよい。 ¬涅槃経¼ に説かれている。 「飲食を施したから、 上味の相を得たのである。」
^十六には、 如来の咽喉は瑠璃の筒のようで、 状は蓮華をかさねたようである。 出したもう音声は詞の韻が調和してみやびやかで、 等しく聞こえないところはない。 その声が洪きく響くことは、 ちょうど天の鼓のようで、 発せられる言葉のうるわしいことは*迦陵頻伽の音のようである。 ひとりでによく*三千大千世界に行きわたる。 もし、 出そうと思召すならば、 その声は無量無辺である。 けれども衆生を利益するために、 類に随って増減せられないのである。 ^¬涅槃経¼ にいう。 「他人の短所を咎めず、 仏法を謗らなかったので、 梵音声の相を得たのである。」 ¬大集経¼ に説かれている。 「もろもろの人々に対して、 いつもやさしく語ったからである」 下略。
^十七には、 頚から円光を出す。 咽喉の上に、 はっきりとした点の相があり、 一々の点の中から、 一々の光を出す。 その一々の光は、 前の円光を遶って七回りし、 すべての点画は、 はっきりとしている。 ^一々の点画の間に、 勝れた蓮華があり、 花の上には七仏がいられる。 一々の化仏は、 それぞれ七菩薩を侍者とされている。 一々の菩薩は如意珠を持ち、 その珠には金の光がある。 青・黄・赤・白および摩尼の色は、 みなことごとくととのって、 もろもろの光を囲み遶っている。 上下左右は、 それぞれ一尋で、 仏の頚を遶り、 あきらかなことは画のようである。 ^¬*無上依経¼ に説かれている。 「衣服・飲食・乗物・寝具やいろいろの装飾品を喜んで人に施し与えたので、 身は金色で、 円光が一丈である相を得たのである。」
^十八には、 頚より二つの光を出す。 その光に万の色があり、 あまねく十方一切の世界を照らす。 この光に遇う者は、 *縁覚となる。 この光はもろもろの縁覚の頚を照らす。 この相が現われる時、 行者はあまねく十方一切のもろもろの縁覚が、 鉢を大空に投げて身を十八種に変化し、 一々の足の下にみな文字があって、 その字が*十二因縁を説き宣べるのを見るのである。
^十九には、 欠瓫骨満の相がある。 その光は十方を照らし、 琥珀色をしている。 この光に遇う者は、 声聞の意を起こす。 この声聞たちが、 この光明を見ると、 その光は分かれて十の支となり、 その一支ごとに千の色、 万の光明がある。 光ごとに化仏がまします。 一々の化仏は四人の比丘を侍者とされている。 その一々の比丘は、 みな*苦・*空・*無常・*無我を説く。 ^以上の三種の相は、 広く観じようとねがう者が、 これを用いるべきである。
^二十には、 *世尊の肩項は、 円満ですぐれている。 ^¬*法華文句¼ にいう。 「たえず*布施の行を増長させたので、 この相を得たのである。」
^二十一には、 如来の腋の下は、 ことごとくみな充ちみちており、 赤紫の光を放ち、 いろいろの仏のはたらきをして、 衆生を利益する。 ^¬無上依経¼ に説かれている。 「衆生の中で、 利益の事を行ない、 *四正勤を修めて、 心に畏れることがなかったので、 両肩が平整で両腋の下が満ちている相を得たのである。」
^二十二には、 仏の両臂は、 ながくまっすぐで、 円やかなことは象王の鼻のごとく、 正しく立たれる時には、 膝を摩でる。 ^あるいは、 次に広く観ずるがよい。 手掌には千輻の理があり、 それぞれ百千の光を放って、 あまねく十方を照らし、 変じて金の水と成る。 金の水の中には、 一の妙なる水があって、 水精の色のようである。 *餓鬼が、 これを見ると熱を取り除き、 *畜生は宿命を知り、 狂える象が見ると獅子王となり、 獅子は*金翅鳥と見、 もろもろの龍もまた金翅鳥王と見る。 このもろもろの畜生は、 それぞれ自分の尊ぶものと見て、 心に恐れを生じ、 合掌して敬う。 敬うから命が終ると天に生まれる。 ^¬大集経¼ に説かれている。 「怖れているものを救ったので、 臂の円い相を得、 他人のする事を見て助けたから、 手が膝を摩でる相を得たのである。」
^二十三には、 もろもろの指は円く、 ふっくらとして繊やかで長く、 非常に好ましい。 一々の端に、 それぞれ卍を生じている。 その爪は光沢があって、 潔く、 美しい赤銅のようである。 ^¬*瑜伽論¼ にいう。 「尊長たちを恭敬し、 礼拝し、 合掌し、 起立したから、 繊やかで長い指の相を得たのである。」
^二十四には、 一々の指の間には、 ちょうど雁王のように、 ことごとく網がある。 金色がからみあって、 その文は綺画と同じく、 *閻浮檀金に勝れていること、 百千万億倍である。 その色は明らかであって、 眼の及ぶ範囲を越えている。 指を伸ばすと見えるけれども、 屈めるときは見えぬ。 ^¬涅槃経¼ に説かれている。 「*四摂の法を修して、 衆生を摂め取ったので、 この相を得たのである。」
^二十五には、 その手の柔らかなことは、 兜羅綿のようで、 すべてのものに勝れ、 内側でも外側でも、 ともに握ることができる。 ^¬涅槃経¼ にいう。 「父母・師匠・長上の人が病気で苦しんでいる時、 すすんで手を洗い拭い、 身体を択り持ち、 摩でさすってあげたから、 手の柔らかな相を得たのである。」
^二十六には、 世尊の頜・臆ならびに上半身の広大な威厳のある容は、 獅子王のようである。 ^¬瑜伽論¼ にいう。 「もろもろの人々に対して、 法に契った所作をして、 よく上首となり、 助伴となって、 *我慢を離れ、 いろいろのあらあらしい行ないがなかったので、 この相を得たのである。」
^二十七には、 胸に卍がある。 実相印と名づけ、 大きな光明を放つ。 ^あるいは、 次に広く観ずるがよい。 光の中には、 量りない百千の多くの花があり、 一々の花の上には量りない化仏がいられる。 この化仏たちに、 それぞれ千の光があって、 衆生を利益し、 そうしてあまねく十方の仏の頂に入る。 時に諸仏の胸からは、 百千の光を出し、 一々の光は六波羅蜜を説く。 一々の化仏は、 *弥勒菩薩のような姿の端正で微妙な一人の化人を遣わされ、 行者を慰問せられるのである。 ^この相の光を見る者は、 十二億劫の生死の罪を除く。
^二十八には、 如来の心臓の相は、 赤い蓮華のようである。 妙なる紫金の光が交錯して、 瑠璃の筒のように、 仏のみ胸に懸っている。 合しもせず、 開きもせず、 心臓のように円い。 ^万億の化仏は、 この仏の心臓の間で遊んでいられる。 また、 数限りもない化仏は、 仏の心臓の中にあって、 金剛の台に坐り、 無量の光を放たれる。 一々の光の中には、 また数限りもない化仏がましまして、 広長の舌を出し、 万億の光を放って、 いろいろの仏のはたらきをされる。 ^仏の心臓を念ずる者は、 十二億劫の生死の罪を除き、 生を受けるごとに、 無量の菩薩に値うことができる。 下略。 広く観じたいとねがう者は、 この観をなすがよい。
^二十九には、 世尊のおん身の皮膚は、 みな真金の色である。 その光は潔く、 輝くことは妙なる金の台のようである。 多くの宝で飾られ、 多くの人が見たいと楽うところである。 ^¬涅槃経¼ に説かれている。 「衣服や寝具を布施したので、 この相を得たのである。」
^三十には、 身の光は、 自然に、 三千大千世界を照らす。 もし照らそうと思われる時には無量無辺である。 しかし、 もろもろの人々を憐れむために、 光を摂めて、 平常は十方それぞれ一尋を照らされる。 ^¬涅槃経¼ に説かれている。 「香・花・灯明などを人に施したので、 この相を得たのである」 下略。 大光明を観ずる者は、 ただ見ようと発心するだけで、 多くの罪を除き去る。
^三十一には、 世尊の身の相は、 長く広くて厳かである。 ^¬*大智度論¼ にいう。 「尊い目上の人を敬い、 送り迎え、 侍り付き添うたので、 身体がまっすぐで広い相を得たのである。
^三十二には、 世尊の体の相は、 縦と横とが等しくて、 その周が円満していることは、 *尼拘類樹のようである。 ^¬大集経¼ に説かれている。 「いつも人々を勧め、 *三昧を修めたので、 この相を得たのである。」 ¬*報恩経¼ にいう。 「もし、 身体の調子が悪い人があれば、 そのためによく療治してやったので、 身の円い相を得たのである。」
^三十三には、 世尊の容儀は、 おおらかで、 まっすぐである。 ^¬瑜伽論¼ にいう。 「病気をしている者に対して、 身をかがめて看護し、 良薬を施し与えたので、 身が僂まない相を得たのである。
^三十四には、 如来の陰蔵は、 満月のように平である。 金色の光があって、 ちょうど日輪のようである。 金剛の器のように内外ともに浄らかである。 ^¬涅槃経¼ に説かれている。 「裸のものを見て衣服を施したから、 この陰蔵相を得たのである。」 ¬大集経¼ に説かれている。 「他人の過失を覆い隠したからである。」 ¬大智度論¼ にいう。 「また*慚愧を修め、 および*邪淫を断ったからである。」 *善導大師がいう。 「仏が仰せられる。 ¬もし、 色欲を貪ることの多いものは、 仏の陰蔵相を思うと、 欲心はすぐに止み、 罪障が除かれて無量の功徳を得る。¼」
^三十五には、 世尊の両足、 両手の掌、 項、 および両肩の七処は、 充ちみちている。 ^¬涅槃経¼ に説かれている。 「布施を行なう時、 珍重している物もよく捨てて惜しまず、 功徳になるとかならぬとかは問題にしなかったために、 七処が満ちている相を得たのである。」
^三十六には、 世尊の両腨は、 次第に繊やかで円いこと、 ちょうど*翳泥耶仙鹿王の腨のようである。 膊の鉤璅の骨は、 つながっている間からもろもろの金の光を出す。 ^¬瑜伽論¼ にいう。 「自分から正法を正しく受けて、 ひろく他の人のために説き、 および正しく他の人のために、 よく仕えたので、 翳泥耶仙鹿王のような膊の相を得たのである。」
^三十七には、 世尊の足の跟は、 広く長く円満し、 趺とよくつり合って、 もろもろの人々に勝れている。
^三十八には、 世尊の足の趺は、 長く高くて、 ちょうど亀の背のようであり、 柔らかですぐれ、 跟とよくつり合っている。 ^¬瑜伽論¼ にいう。 「足の下の平満と*千輻輪と繊長指との三相を観ずる業は、 総じてよく跟と趺との二相を感得する。 これは、 前の三相の依り所となっているからである。」
^三十九には、 如来の身には、 前後左右、 および頂の上には、 それぞれ八万四千の毛が生え、 柔らかでつややかで紺青の色であり、 右に旋って渦巻いている。 ^あるいは、 次に広く観ずるがよい。 一々の毛の端には百千万という数限りない蓮華がある。 一々の蓮華は無量の化仏を生じ、 その一々の化仏はいろいろの偈頌を説いて、 その声が次々に続くことは、 ちょうど雨の滴のようである。 ^¬無上依経¼ に説かれている。 「もろもろの勝れた善法を修するのに、 中や下のものを求めず、 いつも最上の行方を増進させていったので、 身の毛が上に靡き、 右に旋って渦巻く相を得たのである。」 ¬*優婆塞戒経¼ に説かれている。 「智者に親しみ近づいて聞くことをこのみ、 論ずることをこのみ、 聞きおわって修行することを好み、 道路を良くし、 棘・刺などを除き去ることを好んだからである。」
^四十には、 世尊の足の下には、 千輻輪の印文がある。 その網轂のいろいろな相は、 円満しないものはない。 ^¬瑜伽論¼ にいう。 「その人の父母をいろいろに供養し、 多くの人たちのさまざまの苦しみ、 悩むことに対して、 いろいろに救護し、 そのために往き来するなどの動作の業によるから、 この相を得たのである。」 下略。 千輻輪の相を見ると、 千劫の極めて思い悪業を除き去る。
^四十一には、 世尊の足の下には、 平満の相がある。 すぐれてよく安定していることは、 ちょうど箱の底のようである。 大地には高低があっても、 み足の踏まれるにつれて、 みなことごとく平らかで、 等しく触れぬということはない。 ^¬涅槃経¼ に説かれている。 「戒律を守って動かず、 布施の心が移らず、 実語に安定していたので、 この相を得たのである。」 下略。 その足が柔らかで、 すべての指が繊やかで長く、 網が具わって、 内側でも外側でも握られるなどの相、 およびその業因は、 前の手の相に同じである。
^四十二には、 広く観ずることを楽う者は、 次のように観ずるがよい。 足の下および跟には、 それぞれ一つの花を生じ、 もろもろの光でとりまいて十匝している。 花と花とは次々につながり、 一々の花の上には五人の化仏がましまし、 一々の化仏は、 五十五人の菩薩を侍者とされている。 一々の菩薩の頂には、 摩尼宝珠の光を生ずる。 ^この相が現われる時、 仏のもろもろの毛孔から、 八万四千の繊細な小さな光明を生じ、 身の光を飾って好もしいものにする。 この光は一尋であるけれども、 その相はいろいろ多い。 さては、 他方仏国の大菩薩たちが、 これを観ずる時は、 この光はそれにつれて大きくなるのである。 上
^このもろもろの相好の行相・利益・廃立などの事は、 諸文が同じではない。 ところで今、 三十二の略した相は多く ¬大般若経¼ に依り、 広い相と随好ともろもろの利益とは、 ¬観仏三昧経¼ に依ったのである。
^また相好の業因には、 総と別とがある。 ^その総の業因というのは ¬瑜伽論¼ の第四十九巻にいわれている。
菩薩の初めの位である*清浄勝意楽地から修めたあらゆる菩提の資糧は、 差別有ることなく、 よく、 すべての相と随好を感得するのである。 略
^別の業因というのは、 かの論に三種がある。 ^一つには六十二の因である。 詳しくは、 ¬瑜伽論¼ の文のとおりである。 ^二つには浄戒である。 もし、 菩薩たちが浄戒を犯すと、 賎しい人身でさえも得ることができない。 まして大丈夫の相を感得することができようか。 ^三つには四種の善修である。 それは、 第一には善く行業を修し、 第二には*善巧方便をし、 第三には人々を利益し、 第四には*法性にかなった回向である。 上 ^別の業因の中にも、 また多くの差別があるけれども、 今は、 しばらく因果があい順応するものを取ったのである。
^相好の前後の次第は、 諸文また不同であるけれども、 今はそのよろしいものに依って、 これを取って順序を立てたのである。 相と好とをまじえて観法とすることも、 また、 ¬観仏三昧経¼ の例である。 順観の順序は、 おおむねこのようである。 逆観は、 これに反して、 足から頂に至るのである。
^¬観仏三昧経¼ に説かれている。
眼を閉じて見ることができるには、 心想の力でせよ。 はっきりとして、 仏の在世のようにすべきである。 この相を観ずるといっても、 数多くしてはいけない。 一事から始めて、 また一事を想え。 一事を想い終ると、 また一事を想え。 順観・逆観を十六辺、 反復せよ。 ^このようにして、 心想を極めてはっきりとさせ、 そうして後に心を住めて、 念を一所に繋けよ。 このようにして次第に舌を挙げて、 腭に向え、 舌を正しく住まらせること二週間を経過せよ。 そののちに身も心も安らかなることを得るであろう。
^善導和尚がいわれている。
十六遍の後、 心を住めて、 白毫の相を観察せよ。 雑乱してはならない。
【44】^第二に総相観とは、 まず前に述べたように、 多くの宝で飾られた広大の蓮華を観じ、 次に阿弥陀仏が華の台の上に坐したもうことを観ぜよ。 仏身の色は百千万億の閻浮檀金のようで、 おん身の高さは六十万億那由他恒河沙*由旬である。 ^眉間の白毫は右旋して渦巻き、 五つの須弥山のようである。 眼は四大海水のようで、 澄みきって瞳がはっきりしている。 ^仏身のもろもろの毛孔より放たれる光明は、 須弥山のようで、 円光は百億の三千大千世界のようである。 光の中には、 恒河の砂の数のほどの無量の化仏がましまし、 一々の化仏は無数の菩薩を侍者とされている。
^このように、 八万四千の相があり、 一々の相には、 それぞれ八万四千の随好がある。 一々の好にはまた八万四千の光明があって、 一々の光明は、 あまねく十方世界を照らし、 念仏の衆生を摂め取って捨てたまわないのである。 これで知られるであろう。 ^一々の相の中には、 それぞれ七百五*倶胝六百万の光明を具え、 そのあかあかとさかんに輝いて威徳の気高いことは、 金山王が大海の中にあるようなものである。 無量の化仏菩薩は、 光の中に充ちみちて、 それぞれ神通を現わし、 阿弥陀仏をとりまいている。 かの仏はこのように無量の功徳相好を具足して、 菩薩たちの集まりの中におられ、 正しいみ法を説きのべられる。 ^行者にはこの時、 すべて他の色相は消え失せ、 須弥山とか*鉄囲山とかの大小のもろもろの山はことごとく現われず、 大海・江河・大地・樹林もことごとく現われないで、 眼に入り満ちるものはただ阿弥陀仏の相好だけであり、 世界に周遍するのもまた閻浮檀金の光明だけである。 ^譬えば劫末の洪水が世界に充ちみちる時、 その中のよろずの物は沈没して現われず、 広々として、 ただ大水だけを見るように、 かの仏の光明もまたこのようである。 あらゆる世界の上に高く出て、 相好から放つ光明が照らし曜かさないものはないのである。 行者は、 心眼で自分の身を見ると、 自分もまたかの光明に照らされる中にいるのである。 ^以上は ¬観経¼ ¬*無量寿経¼ ¬*般舟三昧経¼ ¬大智度論¼ などの意に依る。 この観法が成就した後、 望みにまかせて、 次の観をなすわけである。
^あるいは、 次のように観ずるがよい。 かの阿弥陀仏は法・報・応の*三身を一体に具えている仏身である。
^かの阿弥陀仏一身については、 観察する者の見方に不同がある。 すなわち、 あるいは一丈六尺、 あるいは八尺、 あるいは広大の身である。 現わしたもう仏身はみな金色であって、 利益したもうことはそれぞれ無量である。 すべての諸仏と、 その事は同一である。 *応化身である。
^また、 一々の相好は、 *凡夫も*聖者もその極まりを知らず、 梵天でさえも仏の頂を見ず、 *目連でもその声の果てを聞かず、 形なき第一の体であり、 荘厳を超えた荘厳である。 十力・四無所畏・*三念住・大悲、 八万四千の三昧門、 八万四千の波羅蜜門、 恒河の沙ほどの数多い法門が究まり円満している。 あらゆる諸仏と、 その意は同一である。 *報身である。
^妙に浄らかな*法身には、 もろもろの相好を具足している。 一々の相好は、 すなわち*実相である。 実相の*法界は、 すべてを具えていて減ずることはない。 生ぜず滅せず、 去ることも来たることもない。 同一でもなく相違でもない。 断ずるものでもなく常なるものでもない。 *有為・*無為のもろもろの功徳は、 この法身に依って、 常に清浄である。 すべての諸仏とその体は同一である。 法身である。
^こういうわけで、 三世十方の諸仏の三身、 ありとあらゆる無量の法門、 僧衆の法界円融の万徳、 およそ無尽の法界は、 阿弥陀仏の一身に備わっているのである。 縦でもなく、 横でもなく、 また一でもなく異でもない。 実でもなく虚でもなく、 また有でも無でもない。 その本性は清浄で、 心に思い言葉にあらわすこともできない。 譬えば、 如意珠の中には、 宝があるのでもなく、 宝がないのでもないようなものである。 仏身に具わる万徳もまたこのようである。
^また*陰入界を、 そのまま名づけて如来とするのではない。 かのもろもろの衆生には、 みなことごとく陰入界があるからである。 陰入界を離れて名づけて如来とするのでもない。 これを離れると、 因縁のない法となってしまうからである。 即でもなく、 また離でもない。 寂静で、 ただ名があるだけである。 ^こういうわけであるから、 次のように心得るがよい。 観察するところの多くの相はすなわち三身即一の相好光明であり、 諸仏と同体の相好光明であり、 万徳が円かに具わった相好光明である。 色すなわち形あるものは、 そのまま空であるから、 これを*真如実相といい、 空はそのまま形あるものとなっているから、 これを相好光明という。 ^一色も一香も、 *中道の真理でないものはなく、 受・想・行・識もまたこのとおりである。 われらの*三悪道と、 阿弥陀仏の万徳とは、 本来空寂で一体無礙である。 願わくは、 わたくしは仏となって、 聖法王に斉しくありたいものである。 ^以上は ¬観経¼ ¬*心地観経¼ ¬*金光明経¼ ¬*念仏三昧経¼ ¬般若経¼ ¬*摩訶止観¼ などの意に依った。
【45】^第三に雑略観とは、 かの阿弥陀仏の眉間には、 一つの白毫がある。 右旋して渦巻き、 五つの須弥山のようである。 ^その中には、 また八万四千の好があり、 一々の好には八万四千の光明がある。 その光は微妙で、 いろいろの宝の色を具えている。 総じていうと、 七百五倶胝六百万の光明がある。 十方それぞれの方面にかがやき、 億千の日月のようである。 その光の中に、 すべての仏身を現わし無数の菩薩が集まって仏をとりまき、 また、 妙なる音声を出して、 もろもろの法門を説きのべる。 ^また、 かの仏の一々の光明は、 あまねく十方世界を照らし、 念仏の衆生を摂め取って捨てたまわぬ。 わたくしもまた如来の光明の中に摂められているのであるが、 煩悩のために眼をおおわれて、 見たてまつることができない。 しかしながら、 大悲はあくことなく、 つねにわが身をお照らしくださるのである。 ^あるいは、 みずから心を起こして、 極楽国に生まれ、 蓮華の中で*結跏趺坐し、 蓮華が閉じているという想をなすべきである。 それに続いて、 蓮華が開く時に、 尊顔を仰ぎ見て、 白毫相を観じたてまつる。 その時に五百色の光があって、 来たってわが身を照らす。 そのとき無量の化仏・菩薩が大空の中に満ちたもうのを見る。 水の流れ、 鳥の囀り、 樹林のそよぎ、 さては諸仏の出したもう音声は、 みな妙なる法を演べる。 このように想うて、 心に浄土を願い悦ばせよ。 願わくは、 もろもろの衆生と共に安楽国に*往生したいものである。 ^以上は ¬観経¼ ¬*華厳経¼ などの意に依る。 詳しくは、 別の書に述べてある。
^もし、 極めて簡略をねがう者は、 次のように念ずるがよい。 かの仏の眉間の白毫相は、 めぐり渦巻いて、 ちょうど玻璃珠のようである。 光明はあまねく照らして、 われわれを摂めたもう。 願わくは、 衆生と共にかの国に生まれたいものである。
^もし、 相好を観念するに堪えないものがあるならば、 あるいは*帰命の想に依り、 あるいは*引接の想に依り、 あるいは往生の想に依って、 一心に称念すべきである。 以上。 人々の望みが不同であるから、 いろいろの観を明かすのである。
^行くも住まるも坐るも臥すも、 語るも黙するも、 すべての所作に当たって、 いつもこの念を胸中にいだき、 飢えた者が食物を思い、 渇いた者が水を求めるようにせよ。 あるいは頭をさげ、 手を挙げ、 あるいは声を出して、 仏のみ名を称えよ。 外に現われる作法は異なっていても、 心に仏を念ずる思いはいつも持っていよ。 念々に相続して、 寝てもさめても忘れてはならぬ。
^問う。 かの阿弥陀仏の真身は、 凡夫の念力の及ぶところではないから、 ただ仏の像を観ずべきであろう。 どうして広大な仏身を観ずるのか。
^答える。 ¬観経¼ に説かれている。
無量寿仏の身長は、 はかり知れないほどであるから、 心想の劣った凡夫の力では、 到底、 想いの及ぶところではない。 しかしながら、 かの無量寿仏の*因位の願力により、 よく心をこらして想い浮かべるものは、 必ずその仏の真の身想を見たてまつることができるのである。 ただ仏像を観ずるだけでさえ、 無量の福徳を得るのである。 まして、 かの無量寿仏のまどかに具足せられた真の身想を観ずるものには、 その功徳の広大なことはいうまでもない。 上
^明らかに知られる。 初心のものも、 またねがいのままに仏の真身を観ずることができるのである。
^問う。 前に述べたように、 阿弥陀仏の一身はそのまま一切仏の身であるというのは、 どういう証拠があるのか。
^答える。 天台大師がいわれる。 (*十疑論)
阿弥陀仏を念ずると、 そのまま一切の仏を念ずることになる。 故に ¬華厳経¼ に説かれている。
^一切諸仏の御身は そのまま一仏の御身である
一つの心 一つの智慧であり 十力・四無所畏もまたそのとおりである 上
^また ¬観仏三昧経¼ に説かれている。
もし、 一仏をおもえば、 そのままが一切の仏を見たてまつるのである。 略
^問う。 諸仏の体性が無二であるように、 念ずる者の功徳も、 また差別はないとするのか。
^答える。 等しくて差別はない。 それ故 ¬*文殊般若経¼ の下巻に説かれている。
一仏を念ずる功徳は無量無辺であって、 また無量の諸仏の功徳と同じである。 思いはかられぬ仏のみ法も、 等しくてへだてなく、 みな*一如にかなって最正覚を成就し、 ことごとく無量の功徳と弁舌の才能とを備えている。 このように、 一行三昧に入る者は、 ことごとく恒河の沙ほどの諸仏の法界の差別なき相を知るのである。 上
^問う。 いろいろの相の功徳の中では肉髻の相と梵音声の相とを最も勝れたものとされる。 それにいま白毫相を観ずることを多く勧めるのは、 どういう証拠があるのか。
^答える。 その証拠は非常に多い。 略してその一・二を出そう。 ¬観経¼ に説かれている。
無量寿仏を観じようとするものは、 まずかの仏の一つの相好を観ずることから始めるがよい。 それはただ眉間の白毫をきわめて明了に観ずることである。 眉間の白毫を観ずるならば、 八万四千の相好は自然に現われてくるのである。
^また、 ¬観仏三昧経¼ に説かれている。
如来には無量の相好があって、 一々の相の中には、 八万四千のもろもろのこまかな相好がある。 このような相好は、 白毫相のわずかの功徳にも及ばない。 それ故に今、 将来のもろもろの悪い衆生のために、 白毫相から放つ大悲の光明が悪をほろぼす観法を説くのである。 ^もし、 邪見で極重の悪人があって、 仏のすぐれた相貌を具えていられるのを観ずるということを聞いて、 瞋り怨みの心を起こすというならば、 そんな道理はあるはずがないだろう。 たとい瞋りの心を起こしても、 白毫相の光がまたその人をおおい護るのである。 ^しばらくの間でも、 この語を聞くならば、 三劫のあいだ迷い続けるはずの罪を除き、 次の世には諸仏の御前に生まれる。 このように種々百千億種の、 もろもろの光明を観る妙なる境界は、 ことごとく説きつくすことができぬ。 それは、 白毫を念ずるとき自然に現われてくるものである。
^また説かれている。
乱れやすい心で仏像を観じても、 このような無量の功徳を得る。 ましてまた念を繋けて、 み仏の眉間の白毫相の光を観察するものは、 なおさらのことである。
^また説かれている。
*釈迦牟尼仏は行者の前に現われて告げて言われる。 「そなたは観仏三昧の力を修めた。 それ故わたくしは涅槃相の力でそなたに色身を示して、 明らかに観じさせるのである。 そなたはいま坐禅しているけれども、 多く観ずることはできない。 そなたより後の世の人は、 さまざまの悪事を多く作るであろうが、 ただ眉間の白毫相の光を観ずるがよい。 この観を行なう時に見る境界は、 上に説いたところのとおりである。」 以上、 抜き書きした。
^ここに 「上に説いたところ」 というのは、 仏の種々の境界を見たてまつることである。 その他のいろいろの利益は、 下の別時の行および利益門に至って知るべきである。
^問う。 白毫の一相を観じても、 また三昧と名づけるのか。
^答える。 そのとおりである。 それゆえ ¬観仏三昧経¼ の第九巻に説かれている。
もしよく心を繋けるならば、 一つの毛孔を観じても、 この人は念仏三昧を行ずるものと名づける。 仏を念ずるのであるから、 十方の諸仏はつねにその人の前に立って、 その人のために正しいみ法を説かれている。 この人は、 よく三世のもろもろの如来の種を生ずるとする。 まして仏の色身をつぶさに念ずるものはなおさらのことである。
^問う。 どういうわけで、 浄土の荘厳を観じないのか。
^答える。 今は、 広く行ずることに堪えられない者のために、 ただ簡略な観法を勧めるのである。 もしそれを観じようと思う者は、 ¬観経¼ を読むがよい。 まして、 前に浄土の十種の楽事を明かしてある。 それが浄土の荘厳である。
^問う。 どういうわけで、 *観音菩薩・*勢至菩薩を観じないのか。
^答える。 簡略のゆえに述べなかったが、 仏を念じ終った後には、 二菩薩を観ずべきである。 あるいはその名号を称えよ。 数の多少は意のままでよい。
【46】^第五に*回向門を明かすと、 次にいう五つの義を具えたのが真実の回向である。 ^一つには、 過去・現在・未来の三世にわたる一切の善根を集める。 ¬華厳経¼ の意 ^二つには、 *一切智を求める心と相応する。 ^三つには、 この善根を一切衆生と共にする。 ^四つには、 無上の菩提に回向する。 ^五つには、 施す人も、 施される人も、 施す物も、 すべて空であると観じて、 *諸法実相の理と相応させるのである。 ¬大智度論¼ の意
^これらの意義に依って、 心に念じ、 口にも言い、 修めるところの功徳と、 および三世一切の善根とを、 一 。 自他の別なくあらゆる所のすべての衆生に回向して、 平等に利益し、 二 。 罪を滅し善を生じて、 共に極楽に生まれ、 *普賢の行と願とを速やかに円満し、 自他ともに無上の菩提を証して、 永遠に衆生を利益し、 三 。 法界 (*真如) に回施し、 四 。 大菩提に回向するのである。 五 。
^問う。 未来の善根は、 まだ修めていないのに、 どうして回向しようか。
^答える。 ¬華厳経¼ に、 第三回向の菩薩の修行相を説いていわれる。
過去・現在・未来の三世の善根をもって、 執着することなく、 相なく相を離れて、 ことごとく回向する。
^これについて、 ¬*刊定記¼ に二つの解釈をしている。 第一に、 未来の善根は、 まだ作っていないけれども、 今もし願を発すならば、 その発願力が薫じて、 善根の種となり、 摂り持つ力があるから、 未来に修める善根を、 自然に衆生と菩提とに注ぎ向け、 あらためて回向するを待たぬというのである。 第二に、 この華厳の教えによると、 菩薩が、 わずか一念の善根を修しても、 その善根は法性を摂めるから、 九世 (久遠の過去から未来のはてまで) にあまねく及ぶ。 それゆえ、 かの善根を用いて回向するのである。
^問う。 五種の回向の第二義を、 どうして一切智と相応する心と名づけるのか。
^答える。 ¬大智度論¼ にいう。
無上の菩提の意は、 すなわち一切智に応ずる心である。 応ずるとは、 心を繋けて、 わたくしはきっと仏に成ろうと願うことである。
^問う。 第三義と第四義とは、 どういうわけで、 必ずすべての衆生と共にし、 および無上の菩提に回向するのか。
^答える。 ¬*六波羅蜜経¼ に説かれている。
どういうわけで、 わずかな布施の功徳が多いのか。 それは、 方便力をもって、 わずかな布施の功徳を回向して、 「すべての衆生とともに、 同じく*阿耨多羅三藐三菩提を証ろう」 と発願するのである。 そういうわけで、 功徳が無量無辺であることは、 ちょうど、 わずかな雲が次第に大空に拡がってゆくようなものである。 また、 わずか一つの華、 一つの果を施すこともまた同様である。 ¬大智度論¼ の意もまたこれと同じ。
^また ¬*宝積経¼ の第四十六巻に説かれている。
菩薩大士は、 自分のもっているすでに起こしたあらゆるすぐれた善根を、 ことごとく無上菩提に回向し、 この善根を永遠に尽きることのないようにさせる。 譬えば、 わずかな水でも、 大海の中に入ると、 たとい劫末の大火の中にあっても尽きることがないようなものである。
^また ¬*大荘厳論¼ の*偈にいわれている。
^施しをしても りっぱな財物の報いを求めず また天人の世界に生まれようとも願わず
ひとえに無上の勝れた菩提を求めるならば すこしのものを施しても無量の福を受ける 上
^こういうわけであるから、 もろもろの善根をことごとく仏道に回向するのである。
^また ¬大智度論¼ にいわれている。
譬えば、 ものおしみする人は、 そうするわけなしには、 ただの一銭も施さないで、 惜しみ集めて、 ひたすら増すことを望むようなものである。 菩薩もまた、 このようである。 福徳が沢山であっても、 わずかであっても、 それを他の事にはふり向けないで、 ひたすら惜しみ集めて、 一切智に向かわせるのである。 上
^問う。 もし、 そうであるならば、 ただ菩提に回向すべきである。 どういうわけで、 さらに極楽に往生するというのか。
^答える。 菩提は果報であって、 極楽は花報である。 果を求める人は、 どうして花を期待しないことがあろうか。 こういうわけで、 *九品の行業には、 「みな回向して極楽国に生まれることを願い求める」 というのである。
^問う。 発願と回向とは、 どういう差別があるのか。
^答える。 誓って求めるところを期待するのを名づけて願とする。 そのなしたところの行業をふりむけて、 彼に趣かせるのを回向という。
^問う。 一切智と無上菩提と、 この二つは差別がない。 どうして二つに分けるのか。
^答える。 ¬大智度論¼ に回向を説明する際、 二つに分けている。 それゆえ今も、 これに順ったのである。 さらに ¬大智度論¼ の文を検べてみるがよい。
^問う。 次に、 どういうわけで、 すべての事を観じてことごとく空とするのか。
^答える。 ¬大智度論¼ にいう。
心や相に執着している菩薩が修めた福徳の失い易いことは、 草から生じた火が消し易いようなものである。 もし実相を体得した菩薩が大悲心で行なうもろもろの行は、 これは破り難いものである。 それは、 ちょうど水の中の火は消すことができぬようなものである。 略
^問う。 もしそうならば、 「空であって、 とらえるところはない」 と唱えていうべきであろう。 どういうわけで今 「法界に回施する」 というのか。
^答える。 道理としては、 実に、 そうあるべきである。 けれども、 今はこの国の風俗に順うのであるから 「法界」 というのであって、 その道理を違うことはない。 そういうわけは、 法界とはすなわち本来、 円かで、 作為を離れた*第一義空である。 修行したところの善を回向して、 かの第一義空と相応させるのを、 「法界に回施する」 というのである。
^問う。 最後に、 どういうつもりで 「大菩提に回向する」 と唱えいうのか。
^答える。 これは一切智と相応させるのである。 これもまた、 この国の風習に順って、 これを最後に置くのである。 一切智というのは、 すなわち菩提のことである。 前に出した ¬大智度論¼ の文のとおりである。
^問う。 *有相の回向には利益がないのか。
^答える。 前にしばしば論じたとおりである。 勝劣はあるけれども、 それでも大きい利益がある。 ^ ¬大智度論¼ の第七巻にいうとおりである。
小さい因で大きい果を得、 小さい縁で大きい報いを得ることがある。 仏道を求めて一偈でも讃え、 一たびも南無仏と称え、 一捻の香を焼いても、 必ず仏となることができるようなものである。 まして 「諸法の実相は生ぜず滅せず、 不生でもなく不滅でもない」 と聞き知りながら、 しかも、 因縁の行業をおこなうならばまた利益を失わないのである。 上
^この文は、 深く妙で、 髻の中の明珠というべきものである。 そこで、 われわれが成仏することは疑いないことを知った。
^龍樹菩薩に帰命したてまつる わたしの心の願いを知ろしめたまえ
【47】^大文第五に助念方法 (念仏を助ける方法) とは、 およそ、 一つの目の網では、 鳥を捕えることはできないように、 いろいろの方法を用いて観念を助けて極楽往生の大慈が成就するのである。 今、 七項目を設けて、 簡略にその方法を示そう。 第一には方処供具、 第二には修行相貌、 第三には対治懈怠、 第四には止悪修善、 第五には懴悔衆罪、 第六には対治魔事、 第七には総結要行である。
【48】^第一に方処供具とは、 まず心も身体もともに浄め、 どこか閑静な場所をえらび、 分に応じて華や香その他の供物を調えるがよい。 ^もし華や香などのものに事欠くようなことがあるならば、 ただひたすら仏の功徳、 威神力を念ずるがよい。 ^もし、 まのあたり仏像に対う時には、 灯明をあげよ。 ^もし遥かに西方浄土を観ずる時には、 あるいは暗室を用いるがよい。 *懐感禅師は暗室を許している。 ^もし、 華や香を供える時には、 ¬観仏三昧経¼ にある供養の文の意に依るがよい。 その得る福は無量無辺であって、 煩悩はおのずから減少し、 六波羅蜜の行はおのずから円満する。 その文は、 一般に用いるものと変わりはないから、 あらためて、 抜き書きはしない。 ^もし、 念珠を用いる時には、 浄土往生を願うなら、 木槵子の念珠を用い、 功徳の多いことを望むならば、 菩提子とか、 あるいは水精・蓮子などの念珠を用いるがよい。 ¬*念珠功徳経¼ を見よ。
【49】^第二に修行相貌とは、 ¬*摂大乗論¼ などに依って四種の相を用いる。
^一つには長時修。 ^¬*西方要決¼ にいわれている。
初発心より、 仏果を得るまで、 つねに清浄の因を行じて最後まで退かない。
^善導禅師がいわれている。 (*往生礼讃)
命終るまで誓って中止しない。
^二つには慇重修。 ^これは極楽の仏・法・僧の三宝を心にいつも憶念して、 もっぱら尊重を起こすのである。 ^¬西方要決¼ にいわれている。
*行・住・坐・臥に、 西方に背を向けず、 涕・唾・便痢を西方に向かってしないようにせよ。
^善導禅師がいわれている。 (往生礼讃)
西方に向かうのが、 もっとも勝れている。 ちょうど樹が倒れる場合には、 かならず、 さきよりその傾いている方向に随うようなものである。 故に、 どうしても西方に向かうことができないような妨げのある場合には、 ただ西方に向かう思いをなすだけでもよい。
^三つには無間修。 ^¬西方要決¼ にいわれている。
すなわち常に仏を念じて往生の想いをする。 一切の時において心にいつも想いめぐらせ。 ^譬えば、 人あって他人にさらわれ、 いやしい身となってつぶさに苦難を受ける。 そこでたちまちに父母のことを思い、 逃れて故郷に帰りたいと思うが、 旅の支度がまだととのわないで、 まだ他郷にいる。 そうして日夜にあれこれと思うて苦しみは忍ぶことができず、 しばらくも両親を忘れて念わないことがない。 ようやく計画が成って、 郷に帰り着くことができ、 父母に親しみ近づいて思いのままに喜びたのしむようなものである。 ^行者もまたそのとおりである。 むかし煩悩によって善心を乱し福徳・智慧の貴い財宝をみな散失した。 久しく生死に沈んで、 これを止めようとしても自由にならない。 つねに魔王の僕使となり、 *六道を駆けめぐらされ、 身心を苦しめてきた。 ^いま善い縁に遇うて、 たちまちに弥陀の慈父が因位の誓いに違わず衆生をお救いくださることを聞き、 日夜に驚きいそいで、 発心して往生することを願う。 このゆえにつとめ励んで、 倦むことなく、 まさに仏の御恩を念じて、 この身の尽きるまで心にいつも念うべきである。
^善導禅師がいわれている。 (往生礼讃)
心々が相続して、 他の行をもってはさまず、 また、 *貪欲・*瞋恚などをもってはさまないようにする。 もしこれを犯せば、 すぐに*懴悔して、 念を隔てず、 時を隔てず、 日をも隔てずに、 つねに清浄ならしめよ。
^私、 源信がいう。 昼夜六時 (六回) あるいは三時 (三回) 二時 (二回) に、 かならず方法を具えて、 努力して勤修せよ。 その他の時と処とでは、 きまった威儀を求めず、 方法を論じない。 心に思い、 口に称えることを廃することなく、 いつも仏を念ずべきである。
^四つには無余修。 ^¬西方要決¼ にいわれている。
専ら極楽を願って阿弥陀仏を礼拝・念想する。 すべてその他のもろもろの行業はまじえて起こしてはならない。 なすところの行業は、 日ごとに、 念仏読経を修して、 他の課をしないようにせよ。
^善導禅師がいわれている。 (往生礼讃)
専ら阿弥陀仏の名号を称え、 かの仏やすべての聖衆がたを専ら念じ、 専ら想い、 専ら礼し、 専ら讃えて、 他の行をまじえてはならぬ。 上
^問う。 その他の事業には、 どういう過失があるのか。
^答える。 ¬宝積経¼ の第九十二巻に説かれている。
もし菩薩があって、 世間の仕事を楽んで行ない、 いろいろの務めを営むならば、 これは菩薩にふさわしくないこととする。 わたしは、 ªこの人は生死に住まるº と説く。
^また、 同じ経の偈に説かれている。 (往生礼讃)
^戯論・諍論の場所は いろいろの煩悩を起こすことが多い
智慧ある人は遠く離れて 百由旬を隔てるがよい 略
^その他の方法については、 詳しくは ¬摩訶止観¼ に示すとおりである。
^問う。 もしそうならば、 在家の人は念仏の行に堪え難いであろう。
^答える。 もし世俗の人が仕事を捨て難いならば、 ただいつも念を西方に繋け、 誠心からかの仏を念じて ¬*木槵経¼ の瑠璃王の行のようにせよ。 ^また、 *迦才の ¬*浄土論¼ にいう。
譬えば、 龍が行くときは、 雲が龍につき随うように、 心がもし西に逝けば、 業もまたこれに随うのである。 略
^問う。 修行には、 総じて四種の相があることは、 よくわかった。 ところで、 その修行の時の用心はどうか。
^答える。 ¬観経¼ に説かれている。
もし人々の中で、 かの国に生まれようと願う者は、 三種の心を発してすなわち往生する。 一つには*至誠心、 二つには*深心、 三つには*回向発願心である。
^善導禅師がいわれている。 (往生礼讃)
一つには至誠心。 礼拝・讃嘆・念観の三つの行業は、 かならず真実をもってするからである。 ^二つには深心。 わが身は煩悩を具えている凡夫であり、 善根は少なく、 三界にさまよって、 迷いの境界を出ることができないと信知し、 いま弥陀の*本願は、 名号を称えること、 わずか十声・一声などの者に至るまで、 まちがいなく往生を得させてくださると信知して、 一声の称名に至るまで疑いの心がないからである。 ^三つには回向発願心。 自分の修めたすべての善根を、 ことごとくみなふりむけて、 往生を願うからである。 この三心を具えて、 まちがいなく往生を得るのである。 もし一心を欠いたならば、 往生ができない。 この文は抜き書きしたのである。 ¬観経¼ の文は、 *上品上生に出ているけれども、 善導禅師の解釈のようであると、 その道理は九品全体に通ずる。 他師たちの解釈は、 今詳しく述べることができない。
^¬*鼓音声経¼ に説かれている。
もし、 よく深く信じて狐疑のないものは、 必ず阿弥陀仏の国に往生することができる。
^¬涅槃経¼ に説かれている。
無上菩提を得るのは信心を因とする。 この菩提に至る因は、 また無量であるけれども、 信心をいえば、 その中にすべてを摂め尽くすのである。 上
^これらの文で、 仏道を修めるには、 信心を首とすることが明らかに知られた。
^また善導和尚がいう。 (往生礼讃・意)
もし観想に入ろうとする時、 および眠ろうとする時には、 まさにこの願を起こすがよい。 もしは坐り、 もしは立って、 一心に合掌し、 正しく面を西に向け、 「阿弥陀仏、 観音・勢至の諸菩薩、 清浄大海衆」 と十声称え終って、 仏・菩薩および極楽世界の相を見たてまつろうという願を起こすならば、 意にしたがって、 観察に入ったり、 また眠ったりしたときに見たてまつることができる。 至心でないものは除く。
^問う。 行者が、 平生に往生を心にかけて念ずる相は、 なにに似ているか。
^答える。 前に引いた ¬西方要決¼ の中にある本国に帰ろうと想うという譬、 がその相である。
^また ¬*安楽集¼ にいわれている。
たとえば、 人が広々とした所において、 恐ろしい賊が剣を抜き、 勇をふるってまっすぐに襲い来たり、 殺そうとするのに値うとする。 この人はただちに走って、 渡らねばならぬ一つの河があるのを見た。 まだ河に至らぬうちに、 こういう思いをした。 ªわたしは河の岸についたなら、 衣を脱いで渡ろうか、 衣を着て泳ごうか。 もし、 衣を脱いで渡ろうとすれば、 恐らくその暇がないであろう。 もし衣をつけたままで泳ごうとすれば、 またおそらく溺れるであろうº と。 その時には、 ただ一心に河を渡る方法を考えるばかりで、 ほかの想いのまじわることがないようなものである。 ^行者もまたそのとおりである。 阿弥陀仏を念ずる時も、 かの人が河を渡ることを思うように、 念々に相続して、 ほかの思いをまじえることなく、 あるいは仏の法身を念じ、 あるいは仏の威神力を念じ、 あるいは仏の智慧を念じ、 あるいは仏の白毫相を念じ、 あるいは仏の相好を念ずる。 あるいは仏の本願を念じて称名する場合もそのとおりである。 ただよくもっぱら相続して断えなかったならば、 まちがいなく仏のみ前に生まれる。 上
^*元暁師も、 これと同じことをいっている。
^問う。 念仏三昧というのは、 ただ心に念ずるだけのものとするのか、 また、 口にも唱えるものとするのか。
^答える。 ¬摩訶止観¼ の第二巻にいうとおりである。
あるいは唱と念とともに行ない、 あるいは先に念じて後に唱え、 あるいは先に唱えて後に念じ、 唱と念とがあい継いで息む時がない。 声々念々、 ただ阿弥陀仏に在るのである。
^また懐感禅師がいわれている。 (*群疑論)
¬観経¼ に説かれている。 「この人は、 臨終の苦しみに逼められて仏を念ずるいとまがない。 そこで善知識は、 口に阿弥陀仏のみ名を称えよと、 教え勧める。 このようにして、 その人は心から声を続けて称名する。」 ^この経文をみると、 苦悩に逼められて、 念想は成就し難いけれども、 心から称名の声が絶えないようにするならば、 すなわち往生を得るではないか。 今、 このように声を出して、 念仏三昧を学ぶのも、 またこのようである。 称名の声を絶えないようにすると、 ついに三昧を得て、 仏と聖衆とが明らかに目の前にましますのを見るであろう。 ^それゆえ ¬大集経¼ 日蔵分に説かれている。 「大念は大仏を見たてまつり、 小念は小仏を見たてまつる。」 大念というのは、 大きい声で仏のみ名を称えることであり、 小念というのは、 小さい声で仏のみ名を称えることである。 これは仏の教えである。 どうして迷うことがあろうか。 ^現在只今のもろもろの修学者たちは、 ただ声を励ましてみ仏を念ずることが大切である。 そうすると、 三昧が成就し易いであろう。 小さい声でみ仏のみ名を称えると、 結局、 心の乱れが多い。 これは、 実際に学ぶ者の知ることであって、 ほかの者のわかることではない。 ^以上。 かの経には、 ただ 「多を欲すれば多を見、 小を欲すれば小を見る」 などとあるだけである。 けれども、 懐感師はすでに三昧を得ている。 この師の解釈せられたことは、 仰いで信ずべきである。 さらに、 諸本を考えてみるがよい。 ところが 「小念は小を見、 大念は大を見る」 という文は ¬*日蔵経¼ の第九巻に出ている。
【50】^第三に対治懈怠とは、 行者は、 つねに勇み立って修行に進むことができぬ。 あるいは心が朦朧となり、 あるいは心がくじける。 そういう時には、 いろいろの勝れた事に寄せて、 自分の心を励ますべきである。
^あるいは三悪道の苦しい果報を浄土の功徳に比べて、 このような念を起こすがよい。 「自分は、 これまでに悪道で多劫を経てきた。 なんの利益もない苦しみでさえも、 よく過ごしてきたのである。 今、 わずかな行を修めて、 菩提の大きな利益を得るのであるから、 くじけてはならない。」 悪道の苦と浄土の相とは、 一々前に述べたとおりである。
^あるいは浄土に往生する人々のことを思い浮かべて、 このような念を起こすがよい。 「あらゆる世界のもろもろの人々は、 時々刻々に安楽国に往生している。 かの人々は堅固な志の者である。 自分もやはりそうである。 自分でわが身を軽んじて、 くじけてはならない。」 往生する人については、 下の利益門や料簡門に述べるとおりである。
^あるいは仏のすぐれた功徳を知るべきである。
^問う。 どういう功徳であるか。
^答える。 それは無辺であるが、 略してその要を挙げよう。
^第一には、 仏の四十八の本願を思うがよい。 ^¬*平等覚経¼ に説かれている。
阿弥陀仏は、 観音菩薩や勢至菩薩とともに、 大願の船に乗って生死の海に浮かび、 この娑婆世界に来て衆生に呼びかけ、 大願の船に乗せて、 西方に送り着けたもう。 もし、 この大願の船に乗る人は、 すべてみな、 往生することができる。
これは、 往き易いことを示したのである。 ^ ¬心地観経¼ の偈に説かれている。
^衆生は生死の海に沈み 五悪趣を経めぐって出る時がない
仏はいつもすぐれた法の船となり よく煩悩の流れをたち截ってさとりの岸へ渡したもう
^そこで次のように念うべきである。 「自分は、 いつの時にか、 この大悲の願船に乗って浄土に往生するのだろう。」
^第二には、 名号の功徳を思うがよい。 ^ ¬維摩経¼ に説かれているとおりである。
諸仏の色身のすぐれた相、 種性、 *戒・定・慧、 解脱・解脱知見、 十力・四無所畏・十八不共法、 大慈大悲・威儀・所行、 およびその寿命、 説法教化し、 衆生をそだて、 仏国土を浄めるなど、 もろもろの仏の功徳を具備することは、 ことごとくみな平等である。 それ故に*三藐三仏陀と名づけ、 *多陀阿伽度 と名づけ、 *仏陀と名づける。 ^*阿難よ、 もし、 わたしが、 広くこの三句の義を説くならば、 そなたは一劫の寿命をもってしても、 ことごとく受持することはできないであろう。 たとい、 三千大千世界の中に満ちわたった衆生を、 みな、 阿難のように多聞第一にして、 聞いたことを受持するすぐれた能力 (念総持) を得させたとして、 この多くの人たちが、 一劫の寿命をもってしても、 やはりこの三句の意義を受持し尽くすことはできないであろう。
^¬西方要決¼ にいわれている。
¬維摩経¼ に説かれている。 「仏の十号の中、 初めの三つのみ名を、 仏がもし広く説くならば、 阿難が一劫かかっても、 これを領受することはできないであろう。」 ^¬*成実論¼ に仏の号を解釈してあるが、 前の九つの号は、 みな別個な意義に従い、 前の九つの号のもつ名義の功徳を総括して、 仏・世尊と名づける。 初めの三つの号を説くだけでさえ、 一劫を経ても説き尽くし難く、 阿難のもつ領解の力でも、 よくことごとく領解することはできない。 さらに六つの号を加えて、 仏の名号を製られたのである。 このように、 勝れた功徳が円かであるから、 この名号を念ずるのは広大な善である。 以上は ¬西方要決¼ の文である。
^¬華厳経¼ の偈に説かれている。
^もしもろもろの人々があって まだ菩提心を発さずとも
一たび仏の名を聞きうれば かならず菩提を成しとげる ¬*首楞厳経¼ の文は、 下の料簡門に引くとおりである。
^そこで次のように念うべきである。 「自分は、 今、 すでに仏の尊いみ名を聞くことができた。 なにとぞ仏となって、 十方の諸仏のようでありたい。」
^第三には、 仏の相好の功徳を思うがよい。 ^¬六波羅蜜経¼ に説かれている。
もろもろの世間で、 あらゆる過去・未来・現在の三世のすべての衆生、 まだ学ぶべき人も学ぶべきもののなくなった聖者および縁覚など、 このような人々のもっている無量無辺の功徳は、 仏の一すじの毛の功徳と比べると、 百千万分の一にも及ばない。 このような一々の毛端は、 みな仏の無量の功徳から生じたものである。 ^すべての毛端のあらゆる功徳を集めて、 ともに一髪の功徳を成す。 このような仏の髪は八万四千あって、 一々の髪の中には、 それぞれ上に述べたような功徳を具えている。 ^このように集まって、 ともに一つの随好の功徳を成し、 そのすべての随好の功徳を集めて、 ともに一つの相の功徳を成す。 すべての相の功徳が集まって百千倍に至り、 眉間の白毫相の功徳を成す。 ^その相は円満で、 渦巻き、 右まわりして、 頗胝迦宝 (水精) のようで、 浄く鮮やかである。 ちょうど夜の闇に輝く明星のようである。 白毫相は、 これをのばすと、 上は色界の阿迦膩天 (*色究竟天) にまで至り、 これを巻くと、 もとのようにまた白毫相となって、 眉間に住まる。 この白毫相の功徳が百千倍になって、 肉髻の相を成就する。 このような肉髻の千倍の功徳も、 梵音声相の功徳には及ばないのである。
^また ¬宝積経¼ には無数の比較が説かれている。 学ぼうと思う人は、 よく調べるがよい。 ^また、 ¬*大集念仏三昧経¼ の第五巻に説かれている。
このような世界および十方の無量無辺のもろもろの世界の中のあらゆる衆生が、 たといことごとくみな同時に成仏して、 そのもろもろの仏たちが無量劫のあいだに、 みなまた仏の一すじの毛の功徳を嘆めても、 結局、 また嘆め尽くせないのである。 上
^¬華厳経¼ の偈に説かれている。
^清浄なる慈悲の功徳は数限りなく あい共に仏の一つの妙なる相となる
一々の諸相はすべてこのとおりであり それゆえ見るものは厭くことがない
^そこで次のように念うべきである。 「願わくは自分は、 み仏の辺なき功徳の相を見たてまつりたい。」
^第四には、 光明の不思議なはたらきを思うがよい。 ^¬平等覚経¼ に説かれている。
無量清浄仏 「無量清浄仏」 というのは、 阿弥陀仏のことである。 の光明は、 最尊第一で比なく、 諸仏の光明の、 みな及ばぬところである。 ^ある仏の頂の光明は七尺を照らし、 ある仏の光明は一里を照らし、 ある仏の光明は五里、 ある仏の光明は二十里・四十里・八十里、 さては百万の仏国、 二百万の仏国を照らす。 八方・上下などの数かぎりない諸仏の頂の光が照らすところは、 みなこのようである。 ^以上は、 経の意味を取って述べたのである。 私見によると ¬観経¼ には 「かの仏の円光は、 百億の三千大千世界のようである」 といい、 この経には 「頂の光は、 千万の仏国を照らす」 と説く。 この二経の意味は同じである。
^¬無量寿経¼ の意も、 これと同じで、 次のように説かれている。
無量寿仏の不思議な光明は最勝第一であって、 諸仏の光明の到底及ぶところではない。 ^ある仏の光明は百の世界を照らし、 ある仏の光明は千の世界を照らすというふうに、 諸仏の光明はさまざまであって、 その究極をいえば、 東方の恒河の沙の数ほどの国々を照らすのである。 南・西・北・四維・上下の各方もまた同様である。 ^それゆえ、 この仏を、 無量光仏・無辺光仏・無礙光仏・無対光仏 *玄一師がいう。 「ともに等しいものがないからである。」 ^炎王光仏 玄一師がいう。 「最も勝れて自在であるから。」 ^清浄光仏 玄一師がいう。 「三垢 (貪欲・瞋恚・愚痴) を滅するから。」 *憬興師がいう。 「貪る心の無い善根より生ずるから。」 ^歓喜光仏 玄一師がいう。 「この光に遇う者は、 意が悦ばしくなるから。」 憬興師がいう。 「瞋りの心の無いことより生ずるから。」 ^智慧光仏 玄一師がいう。 「智慧より発るものであるから。」 憬興師がいう。 「愚痴の心の無いことより生ずるから。」 ^不断光仏 玄一師がいう。 「たえず相続するから。」 ^難思光仏・無称光仏 玄一師がいう。 「仏の徳を称め尽くすことができないからから。」 その他の仏名の意義は知るべきである。 煩わしいから記さぬ。 ^超日月光仏と申しあげる。 ^もし三途の苦悩の中にあって、 この光明を拝むなら、 ふたたび苦しみ悩むことなく、 命終の後には、 ことごとく迷いを離れることができよう。 ひとりわたしが、 今その光明をたたえるばかりでなく、 すべての仏たちも、 みなともに讃嘆されるのである。 ^もし、 その光明の量り知られない功徳を聞いて、 日夜それをほめたたえ、 至心こめて相続するものは、 願いのままに浄土に往生することができる。 無量寿仏の光明の気高く尊いことは、 わたしが一劫のあいだ昼夜説きつづけても、 なお説き尽くすことができない。 ^以上は経の意味を取って述べた。 ¬平等覚経¼ には、 区別して 「頂の光」 といい、 ¬観経¼ には総じて 「光明」 と説くのである。
^¬*比喩経¼ の第三巻に、 釈迦世尊の光明の相を明らかにしていう。
釈尊が入滅せられて百年の後、 阿育王がいた。 国内の民が仏の遺された経文を誦んでいると、 阿育王は、 意に仏を信じないで思うよう、 ª仏には、 人間に越えたどんな徳があるのだろうか。 どうして人々は、 仏をひたすら信じて、 その経文を誦み習うのか。º ^そこで大臣に問う。 「国の中で、 もしも仏を見たものがあるだろうか。」 大臣が答えていう。 「聞くところでは、 波斯匿王の妹が出家して比丘尼となり、 年老いてはいますが、 仏を見たてまつったというております。」 ^そこで王は、 親しく比丘尼の所に出向いて問うていう。 「あなたは仏を見られましたか。 いかがですか。」 尼は答えていう。 「はい。 見たてまつりました。」 問うていう。 「仏は、 一般の人と、 どんなちがいがありましたか。」 ^尼がいう。 「み仏の功徳は、 けだかくて量り難いのであります。 わたしのような愚かで賎しい者が、 よくそれを陳べられることではありませんけれども、 おおむね一つの事を申しますと、 み仏の殊にすぐれていられたことを知ることができましょう。 ^それは、 わたしが八才の時でありました。 世尊が来られて王宮にお入りになりました。 そこでわたしは進み出て仏のみ足を頂礼しました時、 頭上の金の釵が抜けて地上に落ちました。 それを探しましたが見つかりません。 なぜだろうとかと、 いぶかしく思いましたが、 み仏のお通りになった足跡に千輻輪相があり、 そこから光明を放って輝き、 七日たってその光明が消えました。 その時は金の釵が金色の大地と同じ色だったので、 見えなかったのであります。 光が消えた後に、 釵が見つかりました。 ^これで、 み仏が殊にすぐれていられたことがお分かりでありましょう。」 阿育王は、 この話を聞いて喜び、 心明らかになって悟を開いたのである。 抜き書きした。
^¬華厳経¼ の偈に説かれている。
^一々の毛孔から雲のような光を現わし 虚空にあまねくひろがって大音を発す
あらゆるくらやみの所を照らし尽くして 地獄の衆苦もみなほろぼしたもう
^そこで、 次のように念うべきである。 「願わくはみ仏の光明がわたしを照らし、 生死の業苦を滅ぼしたまえ。」
^第五には、 何者にも害われない仏の徳を思うがよい。 ^¬宝積経¼ の第三十七巻に説かれている。
風災劫の起こる時には、 世に大風が吹く。 その風を僧伽多と名づける。 その風は、 この三千大千世界の須弥山・鉄囲山、 および四大洲、 八万の小洲、 大山・大海を吹き挙げること、 その高さ百由旬、 さては無量百千由旬に及び、 挙げおわれば粉々に砕いて塵としてしまう。 また、 上は夜摩天宮、 さては*遍浄天のあらゆる宮殿を撃ち壊し、 それらもまたみな散り滅してしまう。 ところで、 この風で如来の衣を吹いても、 一すじの毛の端をさえ動かすことはできない。 まして、 衣の一角、 さらには衣全体をどうして動かしえようか。 上
^¬十住毘婆娑論¼ にいわれている。
諸仏の不可思議なことは、 喩をかって知るべきである。 たとい、 あらゆる十方世界の衆生にみな、 力をもたせ、 もし、 一人の悪魔が非常な勢力があるとして、 かの十方の一々の衆生の力をこの悪魔のようにならせ、 ともどもに、 仏を害おうと思っても、 仏の一すじの毛をさえ動かすことはできない。 まして、 仏を害するものが、 どうしてあろうか。
^¬十住毘婆娑論¼ の偈にいわれている。
^もしもろもろの世間の中で 仏を害いたてまつろうと欲っても
この事はすべて成功しない 不殺生の行を成就せられているからである
^そこで次のように念うべきである。 「願わくは自分はこの仏のような金剛不壊の身を得たいものだ。」
^第六には、 飛行することが自在であることを思うがよい。
^¬十住毘婆娑論¼ にいわれている。
仏は、 空中で、 足を挙げるも下すも、 行くも住まるも坐るも臥すも、 すべて自由自在を得ていられる。 すぐれた声聞であれば神通自在で、 一日の中に、 五十三億二百九十六万六千の三千大千世界を過ぎて行く。 このような声聞が百年かかって過ぎる距離を、 仏は一念の中に過ぎたもう。 ^さては、 恒河の中の沙について、 一粒の沙を一つの恒河とし、 これらもろもろの恒河の沙の数ほどの大劫の間に過ぎて行く国土を、 仏は一念の中に過ぎたもう。 もし、 宝蓮華を踏んで行こうと思われると、 すぐに、 それが果たされる。 このように飛行することがすべて礙りないのである。
^¬観仏三昧経¼ に説かれている。
空中で、 み足を挙げて行きたもう時、 足の下の千輻輪の相は、 みな八万四千の蓮華を雨ふらす。 このような多くの蓮華に、 微塵の数ほどの仏がおられて、 また空中を歩まれる。 以上。 抜き書きした。
^また、
空中を踏んで行きたもうとき、 千輻輪相は、 地上に現われる。 快よい妙香を放つ紅蓮華は、 おのずから湧き出て如来のみ足を承ける。 もし、 畜生界のあらゆる生物が、 如来のみ足に触れられたら、 七夜を満ちるまでもろもろの快楽を受け、 命が尽きた後には、 善趣の楽しい世界に往き生まれる。 ¬宝積経¼ に説かれている。
^もし、 四十里の磐石を、 色究竟天から落とせば、 一万八千三百八十三年を経て、 この地に至るという。 まっすぐに下るのでさえ、 そうである。 これから推して、 声聞の飛行と如来の飛行とは、 順次に、 より一層不可思議であることを知るべきである。
^¬華厳経¼ の慧林菩薩が仏を讃ずる偈に説かれている。
^自在の神通力は 無量で思い議ることが難しい
来たりもせず また去りもせずに 法を説いて衆生を救いたもう
^そこで次のように念うべきである。 「願わくは、 自分は神通を得て、 もろもろの仏土に自在に往来したいものだ。」
^第七には、 神通が無礙であることを思うがよい。 ^ ¬十住毘婆娑論¼ にいわれている。
仏は、 よく恒河の沙の数ほどの世界を微塵のように粉々に砕いて、 また、 よく元どおりに合わせたもう。 あるいはまた、 よく無量無辺阿僧祇の世界を、 みな金や銀などに変え、 またよく恒河の沙の数ほどの世界の大海の水を、 みな乳酥などに変えたもう。 上
^¬浄名経¼ (維摩経) に菩薩の*不思議解脱を説いていわれている。
この三千大千世界を陶工の用いる輪が土をとるように断ち取って、 右の掌の中に置き、 恒河の沙の数ほどの世界の外に投げやっても、 その中の人々は、 自分の居る所をわからず知らない。 また、 本の場所に戻して置いても、 全く人々に往来の想いを抱かせないのである。 しかも、 この世界の本来の相は、 もとのようである。 ^また、 下方で恒河沙の数ほどの諸仏の世界を過ぎて一仏土を取り、 上方恒河沙の数ほどの無数の世界を過ぎて挙げるのに、 ちょうど針の先を持って、 一つの藁の葉を挙げるようで、 しかも、 何らわずらわしいことはない。 須弥山を芥子の中に納れ、 四大海水を一毛孔に入れるのも、 またこれと同様である。 その中の衆生は、 わからず知らない。 ただ済度をする方だけが、 これを知るのである。 上
^菩薩の力でさえも、 このようである。 まして、 仏の力は、 いうまでもない。 それゆえ ¬*度諸仏境界経¼ に説かれている。
よく十方の世界を一つの毛孔に入れ、 (中略) 一つの微塵の中に、 よく無量無数の説くこともできぬほどの世界を現わされても、 あらゆる衆生は、 すこしも窮屈なことはない。 また、 無量無数の説くこともできぬほどの永劫の間に起こる威儀や果報の事を、 よく一念の間に現わし、 一念の間の威儀や果報の事を、 無量無数の説くこともできぬほどの劫の間に現わされる。 しかも、 このような所作は、 心を用いず、 考えたものでもない。
^¬華厳経¼ の真実幢菩薩の偈に説かれている。
^すべての如来は 神通力が自在にまします
すべての過去・現在・未来の中に これを求めても得ることができぬ
^そこで次のように念うべきである。 「自分は、 今も、 み仏の神通力に運ばれて、 どの仏土に住んでいるのか、 誰の毛孔の中に在るのかを知らぬ。 しかし、 自分は、 いつかはこれを知りたいものである。」
^第八には、 機類に応じてすがたを現わされることを思うがよい。 ^¬十住毘婆娑論¼ に、
仏は、 一念の中に、 十方の無量無辺の恒河沙の数ほどの世界で、 無量の仏身を現わしたもう。 その一々の化現せられた仏も、 またよくいろいろの仏の事を作したもう。
といわれている。 以上に述べた四つの事がらは、 神境通に関するものである。
^¬度諸仏境界経¼ に説かれている。
如来の現わしたもうことは、 特に心を用いず、 特に考えたわけでもない。 衆生の根性にしたがって、 自然と違った見方をするのである。 ちょうど、 十五日の夜、 この閻浮提の人々は、 それぞれ、 月がその上に現われていると見るけれども、 月はなにも、 特に心を用いて、 その上に現われたのではないようなものである。
^¬華厳経¼ の偈に説かれている。
^如来の広大な御身は あらゆる世界にあまねくして
この座を離れることなく すべての所に満ちたもう
^また説かれている。
^智慧甚深の海のような功徳で あまねく十方無量の国に現われたまい
もろもろの衆生の見るところにしたがって 光明あまねく照らして法を説きたもう
^そこで次のように念うべきである。 「願わくは、 自分はあらゆる世界に遍満したもう仏身を見たてまつりたい。」
^第九には、 明らかにすべてを見通す眼を思うがよい。 ^¬十住毘婆娑論¼ にいわれている。
大力の声聞は、 明らかに見通す眼をもって、 よく小千国土を見、 また、 その中の衆生の生まれる時と死ぬ時とを見る。 小力の縁覚は、 十の小千国土を見、 その中の衆生の生まれる時と死ぬ時とを見る。 中力の縁覚は、 百の小千国土を見、 その中の衆生の生まれる時と死ぬ時とを見るのである。 大力の縁覚は、 三千大千国土を見、 その中の衆生がどこに生まれて、 どこに死んで行くかを見るのである。 諸仏がたは、 無量無辺の不可思議の世界を見、 またその中の衆生の生まれる時と死ぬ時とを見られるのである。 上
^¬華厳経¼ の偈に説かれている。
^み仏の眼は広大で辺際なく あまねく十方のもろもろの国土を見たもう
その中の衆生は数限りがないが 大神通を現わしてすべてを調え帰伏せしめらる
^そこで次のように念うべきである。 「いま阿弥陀如来は、 遥かに自分の身業を見通したもうことであろう。」
^第十には、 声を聞きわけることが自在であるのを思うがよい。 ^¬十住毘婆娑論¼ にいわれている。
たとい恒河の沙の数ほどの三千大千世界の人々が同時に言葉を出し、 また同時に百千種の音楽を奏でるのに、 それが遠くても近くても、 意のままによく聞きわけたもう。 もしその中で、 ただ一つの音声だけを聞こうと思われるならば、 意のままに聞くことができて、 その他の音声は聞こえない。 また無辺の世界を過ぎて起こるもっとも細い声でさえ、 みなまた聞くことができる。 もし衆生に聞かせようと思われるならば、 よく聞くことを得させるのである。 これは抜き書きした。
^¬華厳経¼ の文殊菩薩の偈に説かれている。
^すべての世間の中の あらゆるもろもろの音声を
仏智はみな一々知りたもうが また分別を用いたもうことはない
^そこで次のように念うべきである。 「今、 阿弥陀如来は、 さだめて自分の言葉を聞きたもうことであろう。」
^第十一には、 他の心を知る智慧を思うがよい。 ^¬十住毘婆娑論¼ にいわれている。
仏は、 よく無量無辺の世界の現にいる衆生の心、 および心に考えているいろいろの浄・不浄のことなどを知りたまい、 またよく無色界の衆生のいろいろの心をも知りたもうのである。 これは抜き書きした。
^¬華厳経¼ 文殊菩薩の偈に説かれている。
^すべての衆生の心が あまねく三世にわたるのを
如来はよく一念に みなことごとく知りたもう
^そこで次のように念うべきである。 「今、 阿弥陀如来は、 きっとわたしの意業を知ろしめしたもうであろう。」
^第十二には、 過去世のことを思いのままに知る智慧を思うがよい。 ^¬十住毘婆娑論¼ にいわれている。
仏がもし、 ご自身をはじめ、 あらゆる衆生の無量無辺の過去世のすべてのことを念じようと思われるならば、 みなことごとく知り、 恒河の沙の数ほどの限りない昔の事でも、 知りたまわぬことはない。 この人は何処に生まれたか、 姓名・貴賎、 どのような飲食で生活していたか、 苦楽、 行なった仕事・請けた果報、 心のどのような思い、 本はどこから来たのか、 こういうような事をすぐによく知りたもう。
^同じ論の偈にいわれている。
^前世の事を知りたもう智慧は量りなく 天眼で見そなわしたもうことも辺がない
すべての人も天人も そのきわまりを知りうるものはない
^そこで次のように念うべきである。 「願わくはみ仏、 わたしの前世の業を浄らかになしたまえ。」
^第十三には、 智慧の無礙自在であることを思うがよい。 ^¬宝積経¼ の第三十七巻に説かれている。
たとい、 人あって恒河沙の数ほどの世界中にあるすべての草木を取り、 ことごとく焼いて墨として、 他方の恒河沙の数ほどの世界の大海の中に投げこんで置き、 百千年の間これを磨って、 ことごとく墨汁としようとも、 仏は大海の中から、 一々の墨の滴を取って、 これはどこそこの世界の、 このような草木の、 あの根、 この茎、 あの枝、 この条、 花・果・葉などと、 それぞれ知りわけたもう。 ^また、 もしある人が、 一すじの毛の先に一滴の水を霑して、 仏の所に来て、 「恐れ入りますが、 一滴の水を持参しました。 お預け申しあげます。 後に、 もし入用の時には、 わたしにお返し下さいますよう」 と申しあげたとする。 その時、 仏は、 その一滴の水を取って、 恒河の中にお入れになると、 かの河の浪に流され渦巻き旋り、 まざりあい、 注いで大海に至る。 ^ところで、 この人が百年たった後に、 仏に 「前にお預けいたしました一滴の水を、 なにとぞ今わたしにお返し下さいませ」 と申しあげたとする。 そのとき仏は、 一分の毛端を大海の内につけて、 本の水の滴を霑し、 それをこの人に返したもうのである。 これは抜き書きした。
^¬六波羅蜜経¼ に説かれている。
恒河沙の数ほどの十方世界の草木を、 ことごとく焼いて墨灰として、 一億年の間海の中にあったとしても、 仏の十力智は深妙で一滴を取って、 衆生に示して、 実のように区別して、 これはどこそこの世界の樹などであると教えてくださる。
^また説かれている。
このような須弥四州およびもろもろの山を紙とし、 八大海の水をその墨とし、 すべての草木をその筆として、 すべての人や天人が一劫の間に書写したとしても、 *舎利弗の得た智慧に比べると、 その十六分の一にも及ばない。 ^また、 この三千大千世界の中の衆生が持っている智慧を、 舎利弗とひとしくして異なることがないようにさせたとして、 菩薩が通達した布施の行の持っている智慧は、 かのあらゆる衆生の智慧に百倍も過ぎている。 ^また、 この三千大千世界のあらゆる衆生にみな布施の行の智慧を具えさせたとしても、 ひとりの菩薩の得た持戒の行の智慧には及ばない。 このようにして、 智慧の行に至るまで順次にまた同様である。 ^また、 この三千大千世界のあらゆる衆生に、 みな六波羅蜜の智慧を具えさせたとしても、 ひとりの初地の菩薩の智慧には及ばない。 このように十地まで順次にすぐれていることは、 同様である。 また、 この十地の菩薩の智慧を、 弥勒よ、 そなたの一生補処の菩薩の智慧と比べるならば、 そなたの百千分の一にも及ばない。 ^ところで、 この三千大千世界のあらゆる衆生のもっている智慧を、 みな弥勒と等しくして異なることがないようにさせるとしても、 このような菩薩が道場に坐って、 悪魔を降伏し、 まさに正覚を成就しようとする時に持っている智慧は、 仏の智慧の百千万分の一にも及ばないのである。
^¬宝積経¼ に説かれている。
たとい、 十方の無量無辺のすべての世界のあらゆる衆生に、 みなことごとく一生補処の菩薩の智慧を備えさせたとしても、 如来の十力の一つである処非処智と比較しようとすれば、 その百千万分の一にも及ばない。 (中略) 烏波尼沙陀分の一 (数の極少) にも及ばない。 さては、 数えることも譬えることも及び得ないところである。 上
^¬華厳経¼ の偈に説かれている。
^如来の甚深の智慧は あまねくすべての世界に入り
よく三世にわたって転り 世の人のための明らかな道となる
^同じ経の普明智菩薩が仏を讃えた偈に説かれている。
^すべてもろもろの法の中で み仏の法門は辺がない
一切智を成就なされて 深い法の海に入りたもう 上
^そこで次のように念うべきである。 「いま阿弥陀如来は、 わたしの身口意の*三業を明らかに知ろしめすことであろう。 願わくは、 み仏のようにこの上もなく浄らかな智慧の眼を得たいものである。」
^第十四には、 よく心を調伏したもう徳を思うがよい。 ^¬十住毘婆娑論¼ にいわれている。
諸仏は、 禅定に入っても、 禅定に入らなくても、 心を一つの縁に繋けようと欲われると、 その意の久しいにも近いにも、 それぞれ意のままによく住したもう。 この縁から、 さらに他の縁に住するのも、 意のままによく住したもう。 ^もし仏が、 常の心に住したもうときも、 人に知らせまいと欲したもうたならば、 知ることはできない。 たといすべての衆生が、 他人の心を知る智慧を大梵王のようにし、 すぐれた大声聞や縁覚のように、 その智慧を成就して、 他人の心を知ったとしても、 仏の常のお心を知ろうと欲うならば、 もし仏が聴したまわぬかぎり、 知ることはできない。
^そこで次のように念うべきである。 「願わくは、 わたしに*仏覚三昧を得させてください。」
^第十五には、 常に安慧にあることを思うがよい。 ^¬十住毘婆娑論¼ にいわれている。
諸仏の心は安穏であって、 常に念を動かさず、 いつも智慧にある。 なぜかというと真如をさとってから行じ、 意の思いにしたがって無礙に住して行ずるからであり、 すべての煩悩を断ちたもうからであり、 動揺の性を越えていられるからである。 ^仏が阿難に告げたもうたとおりである。 「仏は、 この夜において、 無上菩提を得て、 すべて世の中の天・魔王・梵天・沙門・婆羅門を、 苦を除く道で教化することがすっかりおわって、 *無余涅槃に入りたもう。 その間に仏はもろもろの苦楽などと感受することの起こりを知り、 住することを知り、 生ずることを知り、 滅することを知りたもう。 もろもろの想、 もろもろの触 (皮膚の感覚)、 もろもろの覚、 もろもろの念においても、 またその起こりを知り、 住することを知り、 生ずることを知り、 滅することを知りたもう。 悪魔は、 七年の間、 昼夜休まず、 常に仏につきしたがったけれども、 仏の短所を見出すことができず、 仏の念が安らかな智慧に住しないことを見なかった。
^¬十住毘婆娑論¼ の偈にいわれている。
^み仏の念は大海のように 湛然として安らかであって
世のいかなる法でも これをかき乱すことのできるものはない
^そこで、 次のように念うべきである。 「願わくは、 み仏、 わたくしの麁く動揺する覚観の心を除き滅してください。」
^第十六には、 衆生を悲念したもうことを思うがよい。 ^¬大般若経¼ に説かれている。
十方の世界には、 一人として、 如来の大悲の光が、 よく照らしたまわぬものはない。
^¬宝積経¼ に説かれている。
たとい、 恒河の沙の数ほどの諸仏の世界を過ぎたところに、 ただひとりの人がいて、 その人が仏の教化の限りであったとしても、 そのとき如来は、 御自身でその場所に往かれ、 その人のために法を説いて悟りに入らせたもう。
^また、 同じ経の偈に説かれている。
^ひとりの人を救うがため はてもない永劫の時をかけて
その人を済度したもう 大悲心はこのようなものである
^¬華厳経¼ の文殊菩薩が仏を讃えられる偈に説かれている。
^一々の地獄の中で 無量永劫の時を経ても
衆生を済度するために よくこの苦しみを忍びたもう
^¬涅槃経¼ の偈に説かれている。
^すべての衆生が受けるいろいろの苦しみを 如来は一人の苦しみとする (中略)
衆生は仏のよく救いたもうことを知らない それゆえ仏と法と僧の三宝を謗る
^¬大智度論¼ にいわれている。
仏は仏眼で、 毎日毎夜それぞれ三時に、 すべての衆生を観そなわし、 だれか救うべき者があれば、 その時を失なうことはない。
^ある論 (大智度論) にいわれている。
譬えば、 魚の母がその卵のことを念じないならば、 卵は爛れこわれるように、 衆生の場合も同様である。 仏が、 もし衆生を念じたまわないならば、 その善根は、 すぐさまこわれてしまうであろう。
^¬荘厳論¼ の偈にいわれている。
^菩薩が衆生を念じ これを愛したもうことは骨髄に徹り
いつも利益しようと欲いたもう ひとり子のように思召すからである
^これらの義によって、 ある懴悔の偈にいわれている。
^父母の間に生まれた子が 生まれながらの盲や聾であっても
親の慈悲心があついので 見捨てることなく養い育てる
^子は父母を見なくても 父母はいつも子を見るように
諸仏が衆生を視たもうことは ちょうどひとり子である*羅睺羅のようである
^衆生は仏を見たてまつらぬけれども 実は諸仏の前に在る 上
^そこで次のように念うべきである。 「阿弥陀如来は、 常にわが身を照らし、 わが善根を護念し、 わが機縁を観察したもう。 わたしがもし、 機縁が熟するならば、 時を失わずに、 み仏に引接せられるであろう。」
^第十七には、 無礙弁説を思うがよい。 ^¬十住毘婆娑論¼ にいわれている。
もし三千大千世界のあらゆる四天下に充満している微塵の数ほどの三千大千世界の衆生が、 みな舎利弗のように、 また縁覚のように、 みなことごとく智慧*楽説を成就し、 その寿命も上に述べた微塵の数ほどの大劫であるとして、 このもろもろの人たちが、 *四念処の義について、 その寿命を尽くすまで、 如来に難問したてまつっても、 如来は、 かえってその四念処の義で、 その問に答えたもうのに、 言葉も意味も重ならず、 その楽説が窮まりないであろう。
^また、 いわれている。
仏の説きたもうことにはみな、 利益があって、 まったく空言はない。 これもまた、 希なことである。 (中略) もし一切の衆生の智慧や勢力が、 みな縁覚のようであるとして、 このもろもろの衆生が、 もし仏の思召しを承けないで、 一人を済度しようと思っても、 そういう事はできないのである。 もし、 このもろもろの人が法を説く時は、 無色界の煩悩の、 ほんのすこしでも、 断ちきることはできない。 ^もし仏が衆生を済度したいと思召して、 説きたもうことがあると、 *外道・*邪見・諸龍・*夜叉など、 さてはその他の仏語を理解しない者にまでも、 みなことごとく理解させたまい、 これらの者もまた、 無量の衆生を次々に教化する。 (中略) こういうわけで、 仏を最上の導師と名づける。
^¬十住毘婆娑論¼ の偈にいわれている。
^四つの問答において 超絶してたぐいがない
衆生の尋ねる多くの問難には ことごとくみなたやすく答えたもう
^初めも中ほども終りも 説きたもうすべてのことばは
決してむなしからず 常に大きな果報がある 上
^¬華厳経¼ の偈に説かれている。
^諸仏の広大なみ声は あらゆる世界に聞こえぬところはない
菩薩はよくさとって よく音声海に入る
^¬維摩経¼ の偈にいわれている。
^仏は一つの声で法を説きたもうのに 衆生は機類に応じて解り
みな世尊はその語を同じうしたもうとおもう これが仏だけの持たれる不思議な徳である
^また ¬比喩経¼ の第三巻に説かれている。
阿育王は、 その心に仏を信じなかった。 その時、 海辺に随という鳥がいた。 その声は非常に美しく調和し、 おぼろげながら仏の音声に万分の一ほど似ていた。 阿育王は、 その鳥の声を聞いて歓喜し、 すぐに無上道の意を起こし、 宮中の女官たちすべて七千人もまた無上道の意を起こした。 阿育王は、 それ以後、 遂に尊い仏法僧を信じたという。 鳥の声でさえも、 このように人を済度する。 ましてみ仏の真実清浄なる音声では、 いうまでもないことである。 これは、 意味をとって抜き書きした。
^そこで次のように念うべきである。 「わたしはいつの時にか、 み仏の弁説を聞くことができようか。」
^第十八には、 仏の法身を観ずることについて思うがよい。 ^文殊菩薩の仰せられるとおりである。
わたしが如来を観じたてまつるのに、 如来は真如の相そのものである。 動くこともなく作すこともない。 分別することもなく、 分別に異なることもない。 方処に即くのでもなく、 方処を離れるのでもない。 有でもなく無でもない。 常でもなく断でもない。 三世に即くのでもなく、 三世を離れるのでもない。 生ずることなく滅することもない。 去ることもなく来ることもない。 染も不染もない。 二も不二もない。 心も言も絶えている。 ^もし、 これらの真如の相をもって如来を観ずるならば、 真に仏を見たてまつると名づける。 また、 如来を礼敬し親近したてまつると名づける。 これは実に衆生をよく利益するのである。 これは ¬大般若経¼ に説くところである。
^¬*占察経¼ の下巻に、 *地蔵菩薩がいわれる。
*真如一実の境界とは、 次のようである。 すなわち、 衆生の心の実体は、 本来、 生ぜず滅せず、 元来清浄の性であって、 ちょうど虚空のように障礙はない。 分別を離れているので、 平等にあまねくゆきわたり、 至らぬ所はなく十方世界に円満している。 つまるところ一相であり、 二なく別はない。 変わることもなく異なることもない。 増すこともなく減ることもない。 ^すべての衆生の心、 すべての声聞や縁覚の心、 すべての菩薩の心、 すべての諸仏の心は、 みな同じく、 生ずることも滅することもなく、 染のない寂静の真如の相であるからである。 そのわけはどうかというと、 すべて心を持って分別を起こすものは、 ちょうど幻のようで、 固定した実体はないのである。 (中略) ^すべての世界において、 心のありさまを求めても、 その一部分でも得ることはできない。 ただ、 衆生の無明煩悩によって、 みだりに境界を現わし、 執着を起こさせるのである。 すなわち、 この心をみずから無いと知ることができないで、 むやみにみずから有ると思い、 覚知の想を起こして、 我と我所とを有ると計らうのである。 けれども実際には、 その覚知の想も無いのである。 この妄心は、 結局のところ実体がなく、 見ることができないからである。 ^なお、 広く説かれている。 信解をもってこの道理を観念するのを、 菩薩の最初の根本の業とする。
^この一実の境界が、 如来の法身である。 ^¬華厳経¼ の一切慧菩薩の偈に説かれている。
^法性はもとより空寂であって 取ることもまた見ることもできない
性の空であるのがこれ仏であり 思い量ることはできぬ 上
^そこで次のように念うべきである。 「わたくしは、 いつの時にか本来有っている真如の性を顕わすことができようか。」
^第十九には、 総じて仏徳を観ずることを思うがよい。 ^*普賢菩薩のいわれるとおりである。 (華厳経)
如来の功徳は、 たとい十方のすべての諸仏が、 とても説きつくせないほどの仏国を、 至極微細な塵に砕いた数ほどの長い劫の間、 続けて説かれても、 窮め尽くすことはできない。 上
^また阿弥陀仏の威神の窮まりないことは、 ¬無量寿経¼ に説かれている。
無量寿仏の威神功徳は、 きわまりなくすぐれているから、 十方世界の数かぎりない諸仏たちは、 ひとりとして讃嘆されぬものはない。
^龍樹菩薩の偈にいわれている。 (十住毘婆娑論)
^世尊のもろもろの功徳は 量ることができぬ
さながら人が尺寸で虚空を量っても はてしがないようなものである
^同じく阿弥陀仏を讃める偈にいう。
^多くの仏たちが量り知れぬながい劫をかけて かの仏の功徳をほめたたえても
なおほめ尽くすことはできぬ ゆえに清浄なる徳を具えた仏を帰命したてまつる
^そこで次のように念うべきである。 「願わくは、 わたしは仏となり、 正法の王に斉しくありたい。」
^第二十には、 欣求の経文を思うがよい。 ^¬般舟三昧経¼ に説かれている。
この三昧は値うことがむずかしい。 たといこの三昧を百億劫にわたって求め、 ただその名を聞きたいとおもっても、 聞くことはできない。 まして、 学ぶことを得る者があろうか。 さらにまた、 これを行じて人に教えることがどうしてできようか。
^同じ経の偈に説かれている。
^われ自ら過去世におもうに 六万年を満ちるまで
常に法師に随って離れなかったのに この三昧を聞くことは全くできなかった
^具至誠と名づける仏がましまして そのとき和隣と名づける智慧ある比丘がいた
かの仏が入滅したまいて後 比丘はつねにこの三昧を持っていた
^われはその時 王室の者であったが 夢の中にこの三昧を聞くに及び
ª和隣比丘がこの経を有っているから 王は比丘に従ってこの三昧を受けよº と告げられた
^夢から覚めてすぐに往き求めたところ さっそく比丘がこの三昧を持つのを見て
その場で髪をそって出家となり 八千年のあいだ学んで 一たび聞いた
^その後八万年に満ちる間 この比丘を供養してつかえたが
時に*魔の因縁がしばしば起こり 初めから一返も聞くことができなかった
^それゆえ比丘・比丘尼も および信男・信女も
この教法を持つようにおんみらに付属する この三昧を聞いて早く受けて行ぜよ
^常にこれを習い持つ法師を敬って 一劫を満たすまで懈ってはならぬ (中略)
たとい億千無量劫の間に この三昧を求めても聞き得ることはむずかしい
^たとい恒河の沙の数ほどの世界の その中に満ちるめずらしい宝を施すことがあっても
もしこの一偈の説を受けて 敬い誦むものがあればその功徳は彼よりも勝る 上
^ ¬無量寿経¼ に説かれている。
たとい三千大千世界に大火が満ちみちるようなことがあっても、 かならずそれを踏み越えてこの法を求め聞き、 喜び信じ、 たもち読んで、 教えのごとく行ずべきである。 ^なぜなら、 この経は、 多くの菩薩たちがどれほど聞きたいと願っても、 なかなか聞くことのできぬ尊い教えだからである。 もし人々の中で、 この経を聞くものがあれば、 無上のさとりを開くまで、 決して退くことがないであろう。 それゆえ一心に信受して、 これを読誦し、 教えのごとく行ずるがよい。 上
^そこで次のように思うべきである。 「あるいは、 三千大千世界に満ちる猛火の集まりの中をも過ぎ、 あるいは、 億劫という長い時間にわたっても、 この法を求むべきである。 わたしは、 すでに深妙な三昧にめぐり遇うことができた。 どうして、 くじけて勤修しないようなことがありえようか。」
^行者よ、 以上のもろもろの事において、 多くも少なくも、 その望みに任せて憶念せよ。 もし憶念することができなければ、 是非とも聖教の巻を披いてその文に向かい、 あるいは判断し、 あるいはその文を誦み、 あるいは恋い慕い、 あるいは敬礼して、 近くは心を勤ませる方便とし、 遠くは仏を見たてまつる因縁を結ぶようにすべきである。 すべて身・口・意の三業、 行住坐臥の四威儀につけて、 仏の境界を忘れてはならない。
^問う。 如来のこのような種々の功徳を信受し憶念すると、 どんな勝れた利益があるのか。
^答える。 ¬度諸仏境界経¼ に説かれている。
もし十方世界の微塵のように数多い諸仏や声聞たちに対して、 百味の飲食や妙なる天衣を施すことを日々に廃することがなくて、 恒河の沙の数ほどの劫を満たし、 またかの諸仏の滅後には、 一々の仏のために、 十方世界の一々の世界に塵の数ほど多くの塔を建て、 多くの宝で飾り、 種々に供養することを、 一日に朝・昼・晩と三回し、 日々に廃することがなくて、 恒河の沙の数ほどの劫を満たし、 また無数無量の衆生を教えて、 もろもろの供養をさせるとする。 ところで、 もし一人が、 この如来の智慧功徳の不思議な境界を信ずるなら、 その得る功徳は、 かの功徳よりもはるかに勝っているのである。 これは意味をとって示した。
^また ¬華厳経¼ の偈に説かれている。
^如来の自在力には 無量劫にも遇いがたい
もし一念の信を生ずれば 速やかに無上菩提を証る 上
^その他については、 下に示す利益門のとおりである。
^問う。 盆有の行者は、 物につれて意が移るものである。 どうして、 常に仏を念ずる心を起こすことができようか。
^答える。 その人が、 もし直接に仏を念ずることができなければ、 事々に付けてその心を勧め発すべきである。 ^すなわち、 戯れ談笑する時には、 極楽世界の宝池宝林の中で、 天人聖衆とともにこのように楽しみたいものだと願え。 もし憂え苦しむ時には、 もろもろの衆生とともに苦を離れて極楽に生まれようと願うがよい。 もし尊い徳のある人に向かったなら、 極楽に生まれて、 このように世尊に奉えようと願うがよい。 もし身分や地位の低い人を見るならば、 極楽に生まれて、 孤独の人たちを利益しようと願うがよい。 ^すべて、 人間や畜生を見るごとに、 常に次のような念を起こすがよい。 「願わくは、 この衆生と共に安楽国に往生しよう。」 もし飲食する時には、 極楽の自然微妙の食を受けたいと願うがよい。 衣服・寝具や行・住・坐・臥、 また順境・逆境などのそれぞれについて、 すべてこれに準じて知るべきである。 ^事々に付けて願をなすのは、 ¬華厳経¼ などにその例がある。
【51】^第四に止悪修善とは、 ¬観仏三昧経¼ に説かれている。
この念仏三昧を、 もし成就する者は、 五つの因縁がある。 一つには、 戒を持って犯さない。 二つには、 よこしまな見解を起こさない。 三つには、 *憍慢を生じない。 四つには、 恚らず嫉まない。 五つには、 雄々しく精進して、 ちょうど頭に燃えついた火を払い消すようにする。 ^この五つの事を行じて、 諸仏の微妙の色身を正しく念じ、 心が退かないようにし、 また、 大乗の経典を読誦すべきである。 この功徳をもって仏力を念ずるから、 速やかに無量の諸仏を見たてまつることができる。 上
^問う。 この六種 (五つの因縁と読誦大乗) の法には、 どういう意義があるのか。
^答える。 同じ経に説かれている。
浄らかな戒をたもつから、 仏の顔かたちを真金の鏡のように明らかにはっきりと見たてまつるのである。
^また ¬大智度論¼ にいわれている。
仏は医王のようであり、 法は良薬のようであり、 僧は看病人のようであり、 戒は薬を飲む時の禁忌のようである。 上
^それゆえに、 たとい法の薬を服んでも、 禁戒を持たなければ、 煩悩という病患を癒すわけにはゆかないことを知った。 ^そこで ¬般舟三昧経¼ に、
髪の毛ほどでも戒を破ってはならぬ。
と説かれている。 以上は戒について述べた。
^¬観仏三昧経¼ に、
もし、 よこしまな念や、 おごりたかぶる心を起こすならば、 まさに知るべきである。 この人はおそろしい慢心であって、 仏法を破滅させ、 人々に多く不善心を起こさせ、 僧衆の和合を乱し、 異をとなえて衆を惑わす。 これは悪魔のなかまである。 ^このような悪人は、 また念仏しても、 その甘露の味を失う。 この人の生まれるところは、 おごりたかぶる心をもっての故に、 身はつねに卑しく、 下賎の家に生まれ、 貧しく困っていろいろの衰えがあり、 無量の悪業で身をかざる。 このようないろいろの数多くの悪事は、 みずから防ぎ護って、 とこしえに起こさないようにせよ。
と説かれている。 以上は、 邪見と憍慢とについて述べた。
^¬六波羅蜜経¼ に説かれている。
無量劫の中に、 もろもろの善を行じても、 安らかに耐え忍ぶ力と智慧の眼がないならば、 一念の瞋の炎に、 余すところもなく焼き滅ぼされてしまうであろう。
^また、 ある処に説いていわれる。
よく大利を損うことは瞋に過ぎたものはない 一念 瞋をおこした因縁でも
億劫の間に修めた善根をことごとく焼き滅ぼす このゆえによく注意して常にその瞋の心を捨て離れよ
^また ¬*遺教経¼ に説かれている。
功徳を劫めとる賊は、 瞋恚にすぎたものはない。
^¬大集経¼ 月蔵分に、 瞋ることのない功徳を説いて、
常に賢者・聖者とあい集まって、 三昧を得るであろう
といわれてある。 以上は、 瞋恚についてのべた。
^¬無量寿経¼ に説かれている。
この世では、 わずかの憎みやねたみであっても、 後の世には、 次第にそれが激しくなり、 ついには大きな恨みとなるのである。 略
^また、 他人をねたみ傷つけるのは、 その罪がはなはだ重い。 ^¬宝積経¼ の第九十一巻に説かれているとおりである。
仏が施鹿園 (*鹿野苑) に在した時、 六十人の菩薩がいたが、 悪業の障りが深重で、 心身のはたらきが劣っていた。 そこで、 仏足にぬかずいて悲しみの涙を流し、 自ら立つこともできなかった。 ^その時、 仏が告げてこう仰せられた。 「そなたたちよ、 起つがよい。 この上とも悲しみ泣いて、 おおきな悩みを生じてはならぬ。 そなたたちは、 昔、 倶留孫仏の世に出家して仏道を修めたのであるが、 自分たちの多聞・持戒・行乞・少欲であることに執着していた。 その時に、 説法する二人の比丘がいて、 親しい友が多く、 評判も高く利養も多かった。 ところが、 そなたたちは、 嫉妬の心から偽り謗って、 かの比丘の親しい友や多くの人々に随順の心をないようにさせ、 もろもろの善根を断ちきらせた。
^この悪業によって、 六百万年の間、 阿鼻地獄に生まれ、 その悪業の余残がまだ尽きないで、 また四百万年の間、 等活地獄に生まれ、 また二百万年の間、 黒縄地獄に生まれ、 また六百万年の間、 焼熱地獄に生まれたのである。 ^かの地獄での生を終って、 もとの人間に戻ることができたのであるが、 五百生の間、 生まれながらの盲で目が見えず、 それぞれの生に正念を失って善根を礙げた。 その姿は醜くて、 他の人はこれを見ることを喜ばなかった。 常に辺鄙な地に生まれて、 貧窮下劣であった。 ^この生を終って、 後の末世の五百年の中に、 仏法が滅しようとする時、 またもや辺地で下劣の家に生まれ、 大変まずしく飢え凍えて正念を失うであろう。 たとい、 善を修めようと欲っても、 もろもろの障りが多い。 ^五百年の後、 やっと悪業が滅して、 後に阿弥陀仏の極楽世界に生まれることができる。 このときかの仏は、 そなたたちのために無上菩提の記別を授けたもうであろう」 と。
^その時にもろもろの菩薩たちは、 仏の説きたもうことを聞いて、 身体中の毛が竪ち、 深く後悔の心を起こして、 みずから涙をとどめ、 仏に申し上げた。 「わたくしたちは、 今日から未来永遠にわたって、 もし、 菩薩の法を修める人が法に違うのを見ても、 その過を暴露するようなことがあれば、 わたくしたちは、 如来を偽りたてまつったことになるでありましょう。 ^わたくしたちは、 今日から未来永遠にわたって、 在家や出家で菩薩の法を修める人たちが、 欲楽のために遊びたのしんでいるのを見ても、 決してその過をたずね求めることをしないで、 いつも信じ敬い、 教師の想を起こしましょう。 ^わたくしたちは、 今日から未来永遠にわたって、 もしよく自分の身を抑えることができないで、 *旃陀羅や犬のような下劣の想を起こすならば、 如来を偽りたてまつったことになるでありましょう。 もし持戒・多聞・行乞・少欲・知足のすべての功徳について、 みずから誇りてらうならば、 如来を偽りたてまつったことになるでありましょう。 修めた善根にみずから誇ることなく、 犯した罪業は、 慚愧して口に露わしましょう。 もしそうしないならば、 如来を偽りたてまつったことになるでありましょう」 と。
^この時、 仏は讃めて仰せられた。 「よろしいよろしい。 そなたたちがそのような堅い心で修行するならば、 すべての悪業の障りはみなことごとく消滅し、 無量の善根もまた増すであろう。」 抜き書きした。
^こういうわけで、 ¬大智度論¼ の偈に、
^自らの法に愛着するために 他人の法をそしるならば
戒行を持つものであっても 地獄の苦を脱れられぬ
といわれている。 以上は、 嫉妬についてのべた。
^¬大智度論¼ の偈にいわれている。
^馬師と井宿の二人の比丘は 懈怠のために悪道に堕ちた
仏を見 法を聞いたけれども 悪道を免れなかったのである 上
^また、 もし精進することがなければ、 修行は成就し難いものである。 それゆえ ¬華厳経¼ の偈に、
^すりもんで火を求めるようなもので まだ火がでないのにしばしば息むと
火の勢はそれにつれて消えてしまう 懈怠の者もまたそのとおりである
と説かれている。 以上は精進についてのべた。
^大乗の経典を読誦することの功徳は無量である。 ¬*金剛般若論¼ の偈に、
^布施では菩提に趣かないけれども 経を読み経を説くことは よく菩提に趣く
それは法身に対して了因と名づけ 報身・応身に対しては生因と名づける 上
といわれているとおりである。
^¬観仏三昧経¼ の六種の法がおわった。 かの経に、 嫉妬と瞋恚と精進とは、 詳しく説いてないから、 その他の文で経の意味を補って解釈したのである。
^¬般舟三昧経¼ にも、 また十の事がある。 かの経に説かれているとおりである。
もし菩薩があってこの三昧を学ぼうとするなら、 十の事がある。 ^一つには、 他人の利養を嫉妬してはいけない。 二つには、 ことごとく人を敬愛し、 長老に順うべきである。 三つには、 報恩を念うべきである。 四つには、 妄語しないで、 法に違ったことを離れるようにせよ。 五つには、 いつも乞食して、 招待を受けてはいけない。 六つには、 精進して経行せよ。 七つには、 昼夜ともに横臥してはいけない。 八つには、 つねに施しをしようと欲して、 最後まで惜しんだり悔いたりすることがあってはならぬ。 九つには、 深く智慧に達して、 執着してはならぬ。 十には、 善い師を仏のように尊敬して事えよ。 抜き書きした。
^問う。 ¬般舟三昧経¼ にもまた四々十六種の法があり、 ¬十住毘婆娑論¼ の第九巻には百四十余種の法がある。 ¬念仏三昧経¼ にも種々の法がある。 ^また ¬華厳経¼ の入法界品の偈に説かれている。
^もし信解して憍慢を離れるならば 発心して如来を見たてまつることができるけれども
もし諂い誑き不浄の心があるならば 億劫に尋ね求めても仏に値うことはあるまい
^¬観仏三昧経¼ に説かれている。
昼夜に六回、 六つの法 (持戒不犯・不起邪見・不生憍慢・不瞋不嫉・勇猛精進・読誦大乗) を勤め行ない、 正しく坐って三昧に入り、 語少ないようにねがうべきである。 経典を読誦したり、 教法を広く説き演べること以外には、 どこまでも無意味な語を説いてはならぬ。 常に諸仏を念じて、 心にいつも相続し、 たとい一念の間も、 仏を見たてまつらぬ時とてはないようにせよ。 その心が一すじに励むから、 仏を離れないのである。
^また ¬*遺日摩尼宝経¼ に説かれている。
出家が牢獄に堕ちるについては、 多くの事がある。 あるいは人を求めて供養を得たいと欲い、 あるいは多く衣鉢を積みたいとおもい、 あるいは在俗の人とともに親しくし、 あるいは常に愛欲を念い、 あるいは好んで知友と交わる。 経文には、 多くの法があるけれども、 これを抜き書きした。
^それに、 どうして今これらの法を挙げないのか。
^答える。 もし広くそれらの文を挙げるならば、 かえって行者に退転の心を起こさせるであろう。 それで、 略して要を挙げたのである。 ^もし堅く*十重・四十八軽戒を持つならば、 道理として必ず念仏三昧を助成し、 また、 自然にその他の行を持つことができるはずである。 まして、 六つの法を具え、 あるいは十の法を具えるならば、 いずれの行をも摂めないはずはない。 それゆえに略して述べないのである。 ところで、 あらあらしい惑業は、 人に知られるけれども、 ただ無意味な語は、 その過失が表面に顕われないで、 いつも正道を妨げる。 よくこれを治すべきである。 ^あるいは、 次のような ¬大智度論¼ の文に依るべきである。
人が誤って火事を起こし、 四方がともに燃えているようなものである。 どうしてその中に安閑としていて、 ほかの事を語る人があろうか。 この ¬大品般若経¼ で仏が説かれる。 「もし、 声聞や縁覚の事を説くのでさえ、 無益の言とするのである。 ましてほかの事はなおさらのことである。」 略
^行者は、 常に娑婆の国土とそこに住む衆生とについて、 *火宅であるという想をなし、 無益の語を絶って、 相続して仏を念ずべきである。
^問う。 ¬*浄土論¼ に、 念仏の行法を説いていわれている。
菩提と相違する三種の法を遠く離れる。 その三種とは何々であるかというと、 一つには智慧門によって、 自分の楽しみを求めず、 わが心が自分に執着することを遠く離れるのである。 二つには、 慈悲門によって、 一切衆生の苦しみを除いて、 人を安らかにすることのない心を遠く離れるのである。 三つには、 方便門によって、 一切の衆生をあわれむ心で、 自分を利養愛重する心を遠く離れるのである。 これを菩提と相違する三種の法を遠く離れるという。 ^そこで菩薩は、 このような菩提と相違する三種の法を遠く離れて、 菩提に順ずる三種の法を満足することができるのである。 三種とは何々であるかというと、 一つには染れなき清浄心である。 これは自分のためにいろいろの楽しみを求めないからである。 二つには人を安らかにする清浄心である。 一切衆生の苦しみを除くからである。 三つには人に楽しみを与える清浄心である。 一切衆生に大乗の菩提を得させるからである。 また衆生を勧めて阿弥陀如来の浄土に往生させるからである。 これを菩提に順ずる三種の法が満足するというのである。 上
この中で、 どうして、 かの ¬浄土論¼ に依らないのか。
^答える。 前に述べた四弘誓願の中に、 この六つの法を具えている。 そのことばの表現は異なっていても、 その意味は欠けることはないのである。
^問う。 仏を念ずれば、 自然に罪を滅する。 どうして堅く戒を持つ必要があろうか。
^答える。 もし一心に仏を念ずるならば、 本当に質問のとおりである。 けれども、 終日、 仏を念じても、 閑かにその実際を検べてみると、 清らかな心はほんの一・二で、 その他はみな濁り乱れている。 野生の鹿は繋ぎ難く、 家に飼う犬は自然に人に馴れている。 まして、 自分から進んで心を恣にするならば、 その悪はどれほどであろうか。 ^このゆえに、 必ず努力して、 ちょうど清らかな珠を護るように、 浄戒を持つべきである。 後悔しても、 どうして間に合うであろうか。 よくこのことを思うがよい。
^問う。 全くそのとおりである。 善業は此世で学んだだけのことであるから、 欣いながらもややもすると退き、 妄心は、 永劫の昔からの習いであるから、 厭うてもやはり起こってくる。 すでにそうだとすると、 どういう方法でこれを治したらよいのか。
^答える。 その治す方法は、 一つだけではない。 ¬*次第禅門¼ にいうとおりである。
^第一に、 心が沈んで闇いという障りを治すには、 応身仏を観念するがよい。 ^三十二相の中のどれか一相を取って観ぜよ。 あるいは、 まず眉間の白毫相を取りあげ、 目を閉じて観ぜよ。 もし心が闇くて、 とてもできないならば、 一つの好い厳かな形像に対し、 一心に相をとらえ、 これを観じて三昧に入るがよい。 もし明了でないならば、 眼を開いてさらに観察し、 また再び目を閉じよ。 ^このようにして、 一相をとることが明了ならば、 次第にあまねく多くの相を観じて、 心眼を明らかに開き、 眠くて沈む闇い心を破れ。 かように仏の功徳を念ずると罪障を除くのである。
^第二に、 悪い思いの障りを治すには、 報身仏の功徳を念ずるがよい。 ^正念の中に、 仏の十力・四無所畏・十八不共法や、 *一切種智は円かに法界を照らして、 常に寂然と不動であり、 あまねく色身を現わして、 すべてのものを利益したもう功徳が、 無量不可思議であることを観ずるがよい。 なぜならば、 この仏の功徳を念ずるのは、 善い法を対象とする中から生ずる心であるけれども、 悪い思いは、 悪い法を対象とする中から生ずる心であって、 善はよく悪を破るから、 報身仏を念ずべきである。 ^たとえば、 醜く智慧の劣った人が、 うるわしく智慧すぐれた人の中にいると、 われとわが身を恥ずかしく思うようなものである。 悪もまたこのようであって、 善心の中にあると、 愧じておのずから息む。 仏の功徳を観ずると、 念々の中に一切の障りを滅するのである。
^第三に、 境界に逼迫される障りを治すには、 法身仏を念ずるがよい。 ^法身仏は、 すなわち法性平等であって生ずることなく滅することなく、 形もあることなく、 空寂で無為である。 無為の中には、 すでに境界はないのであるから、 どこに逼迫される相があろうか。 境界の空であることを知るから、 これが退治である。 ^もし、 三十二相を念ずるならば、 それは退治ではない。 なぜかといえば、 この人は、 まだ相を観じない時、 すでに境界のために悩まされているのに、 さらに相を取って観ずるならば、 この執着に因って、 悪魔がその心を狂わし乱すからである。 ^今、 空を観じて相を破るならば、 もろもろの境界を除き、 仏を念ずることに心を置けば、 その功徳は無量であって、 重い罪を滅するのである。 抜き書きした。
^個別の退治はこのようである。 今、 三つの総括した退治を加えよう。 ^第一には、 よく惑の起こりを知って、 その心を目覚めさせ、 悪賊を追い払うようにして煩悩を責めたて、 三業を護ることは、 油を入れた鉢をささげるように注意すべきである。 ^¬六波羅蜜経¼ に説かれているとおりである。
結跏趺坐して、 正念に観察し、 大慈悲心を家とし、 智慧を鼓とし、 覚悟の杖でこれを打ちたたき、 もろもろの煩悩に告げるがよい。 「お前たち、 よく聞け。 もろもろの煩悩の賊は、 妄想から生ずるものである。 わが法王の家には善事が起きても、 お前の所為ではない。 お前は早く出て行くがよい。 もしこの時に出なかったならば、 お前の命を断つぞ。」 ^このように告げ終ると、 もろもろの煩悩の賊は、 そこでおのずから退散して行くであろう。 次に、 自身においてよく護って、 放逸にしてはならぬ。
^また ¬*菩薩処胎経¼ の偈に説かれている。
^かの罪を犯したひとが 鉢に満ちた油をささげ持ち
もしその一滴でもこぼすと その罪で死刑に処せられるとすれば
^左右に伎楽をしていても 死をおそれて顧みないように
菩薩が浄観を修める場合には その意も金剛のようで
^責め毀り悩みなどに 心が動かされることなく
空にして本来浄く 彼此中間もあることなしと解る
^第二には、 総括して四句を用いて、 すべての煩悩の根源を推し求めるがよい。 すなわち、 この煩悩は、 一つに心によって生ずるものとするのか、 二つに外縁によって生ずるものとするのか、 三つに心と外縁とが一緒になって生ずるものとするのか、 四つに心と外縁とを離れて生ずるものとするのか。 ^もし心によって煩悩が生ずるとすれば、 さらに外縁を待たずに生ずるであろう。 そうであれば、 あるいは亀の毛とか兎の角とかいうような実体のないものに、 貪や瞋を生ずることとなる。 ^もし外縁によって煩悩が生ずるとするならば、 心には何の関係もないことになる。 そうであれば、 眠っている人に煩悩を生じさせるはずである。 ^もし心と外縁とが一緒になって煩悩が生ずるとするならば、 まだ一緒になっていなかった時に、 それぞれ煩悩がなかったのに、 一緒になった時に、 どうして煩悩が生ずることがあろうか。 ちょうど砂を二つ合わせても油は出ないようなものである。 あるいは心と外の境とがともに合して、 どうして煩悩を生じない時があるのか。 ^もし心と外縁とを離れて煩悩が生ずるとするならば、 すでに心を離れ、 外縁を離れているのに、 どうしてにわかに煩悩を生ずることがあろうか。 あるいは、 虚空は心と外縁との二つを離れているから、 虚空こそ常に煩悩を生ずるはずである。
^このように種々に観察してみると、 煩悩は、 結局のところ実の生はない。 よって来る所もなくまた去る所もない。 内にもなく外にもなく、 また中間にもない。 すべて存在する所はなく、 みな幻のようなものである。 ただ煩悩だけではなく、 観察の心もまた実体はないのである。 このように推し求めて行くと、 煩悩心は、 おのずから消滅する。 ^それゆえ ¬心地観経¼ の偈に説かれている。
^このような心法は本来ないのだが 凡夫は迷うてあるように思う
もしよく心の体性が空であると観ずると 惑いは生ぜず解脱を得る 略
^また、 ¬*中論¼ の第一巻の偈にいう。
^あらゆる法は自よりも生じないし また他よりも生じない
自他ともにでもなく 因がないのでもない この故に無生であることを知る
^それで、 この偈によって、 多くの四句を用うべきである。
^第三には、 次のように念うがよい。 ª今、 自分の惑いの心に具えている八万四千の煩悩と、 かの阿弥陀仏が具えたもう八万四千のさとりの智慧とは、 本来空寂であり一体で、 何の礙もない。 貪欲はそのまま道であり、 瞋恚・愚痴もまた同様である。 氷と水とは、 その本性が異なったものではないようなものである。 ^それゆえ経に、
煩悩と菩提とはその本質に二つはなく 生死と涅槃とは異なったものではない 略
と説かれている。 ^わたしは、 今、 まだ智慧の火を持っていないから、 煩悩の氷を解かして功徳の水と成すことができない。 願わくはみ仏、 わたくしを哀んで、 その得たもうた法のように、 禅定と智慧の力で荘厳し、 これで解脱を得させたまえ。º このように念じ終って、 声を挙げて念仏し、 み仏の護りを請うがよい。 ^¬摩訶止観¼ にいうとおりである。
人が重いものを引く際に、 自分の力だけでは進むことができなければ、 傍の人の助けを借って、 軽く挙げることができるようなものである。 行者もまたそうである。 その心が弱くて、 障を除くことができなければ、 称名して護りを請うと、 悪縁がこれを破ることはできないのである。 上
^もし、 煩悩が心を覆うて、 総括した退治や、 個別の退治を修めることを望まないようにさせたら、 是非とも、 よく、 その意を知って、 常に心の師となるべきである。 心を師としてはならない。
^問う。 もし、 破戒の者は、 三昧が成就しないというならば、 どうして ¬観仏三昧経¼ に、
この観仏三昧は、 一切衆生の、 罪を犯した者の薬であり、 戒を破った者の護りである。
と説かれているのか。
^答える。 戒を破った後に、 前の罪を滅するために一心に念仏するのである。 そのために薬と名づける。 もし常に戒を犯すと、 三昧の成就は難しいのである。
【52】^第五に、 懴悔衆罪とは、 もし煩悩のためにその心を乱されて、 禁戒を毀ったならば、 その日のうちに懴悔をすべきである。 ^¬涅槃経¼ の第十九巻に説かれているとおりである。
もし犯した罪をかくしていると、 その罪は増すが、 これを口に露わして懴悔すると、 その罪は消滅する。
^また ¬大智度論¼ にいわれている。
身や口や意に犯した悪事を悔いないままで、 仏を見たてまつろうと望んでも、 そんな事のできる道理はない。 上
^懴悔の方法は、 ただ一つだけではないから、 それぞれの好みに任せて修めるがよい。 あるいは、 五体を地に投げ出し全身に汗を流して、 阿弥陀仏に帰命し、 眉間の白毫相を念じて、 犯した罪を口に露わし、 涙を流して、 次のような念を作すべきである。
ª過去の空王仏の 眉間の白毫相を
阿弥陀仏が礼敬し 罪を消滅して いま仏となられた
自分もいま阿弥陀仏を礼拝して また同様にありたいものであるº
^こうして、 その罪の有様に随って、 仏の光を請うべきである。 すなわち、 「布施の光を放って物惜しみの罪を滅して下さい。 持戒の光を放って破戒の罪を滅して下さい。 忍辱の光を放って怒りの罪を滅して下さい。 精進の光を放って怠りの罪を滅して下さい。 禅定の光を放って散乱の罪を滅して下さい。 智慧の光を放って愚惑の罪を滅して下さい。」 ^このようにして、 もしは一日もしは七日に至るならば、 百千劫の長い間の煩悩の重い障りを除く。 あるいは、 しばしの間でも坐禅入定して、 仏の白毫を念じ、 心を明了にして、 謬り乱れる想なく、 心を正しく住めて、 意を注いで息まなかったならば、 九十六億那由他劫の生死の罪を除く。 あるいは、 一心に、 かの仏の神呪を一遍称えると、 よく四重・五逆の罪を滅し、 七遍称えると、 よく根本の罪を滅するのである。 ¬*儀軌¼ に出ている。
^あるいは、 また ¬心地観経¼ に理の懴悔を明かしていわれる。
^すべてもろもろの罪の本性はみな真如である 迷いの因縁は妄心から起こる
このような罪相は本来空であって 三世の中に求めても得られない
^内でも外でも中間でもない *性相も 真如で ともに不動である
真如の妙なる道理は名言を超絶し ただ仏の智慧だけがよく通達する
^有でも無でも有無でもない 有無でないのでもなく 名言や相を離れ
すべての世界に周遍して生滅がない 諸仏は本来同一の体である
^願わくは諸仏がた 加護を垂れて よくすべての迷いの心を滅したまえ
願わくは われ早く真如法性の源を悟って 速やかに如来の無上道を証りたいものである
^問う。 ただ仏を観念すればすでによく罪を滅するのに、 どういうわけでさらに理の懴悔を修するのか。
^答える。 一々にこれを修せよと誰がいおうか。 ただ意の望みにまかせるだけである。 まして多くの罪は、 その本性は空であって固定した体はないと観ずるのが、 すなわち真実の念仏三昧である。
^¬華厳経¼ の偈に説かれているとおりである。
^現在は因縁の和合から成るものではない 過去も未来も同様である
すべての法は無相である これが仏の真実の体である
^¬*仏蔵経¼ の念仏品に説かれている。
固定した体がないと見るのを、 仏を念ずると名づけ、 すべてのものの真実の相を見るのを、 仏を念ずると名づける。 分別することもなく、 取ることもなく、 捨てることもないのが、 真実の念仏なのである。 上
^このほか、 いろいろの空・無相の三昧などの観も、 これに準じて、 みな念仏三昧に摂め入れられるのである。
^問う。 このような懴悔には、 どのような勝れた徳があるのか。
^答える。 ¬心地観経¼ の偈に説かれている。
^在家の人は よく煩悩の因を招き 出家の人もまた清浄の戒を破る
もしよく法のごとく懴悔する者は すべての煩悩がことごとくみな除かれる (中略)
^懴悔はよく三界の牢獄を出させ 懴悔はよく菩提の華を開かせる
懴悔はよく仏の大円鏡 (智慧) を見せ 懴悔はよくさとりの場所に至らせる
^問う。 この中では、 どれを最も勝れたものとするのか。
^答える。 もし一人一人についていえば、 その*根機に適ったものを勝れたものとする。 もし一般的に判じてみると、 理の懴悔を勝れたものとする。 ^それ故に ¬*如来秘密蔵経¼ の下巻に、 仏が迦葉に次のように告げたもうている。
もし、 わずかの不善でも、 それに堅く住まって執着するならば、 そのすべてを、 自分は説いて 「犯」 と名づける。 ^迦葉よ、 五無間罪でも、 もし堅く住まり執着してあやまった見解を起こすということがないならば、 自分はそれを 「犯」 とは名づけぬと説くのである。 まして、 その他のわずかの不善の行業についてはなおさらである。 ^迦葉よ、 自分は不善法で菩提を得たのではなく、 また善法で菩提を得たのでもない。 (中略) 煩悩は因縁から生ずる、 と解るのを菩提を得たと名づける。 ^迦葉よ、 どういうことを、 因縁から生ずる煩悩を解るというのであるか。 それは、 固定した本性がなくて起こった法は無生の法であると解ることである。 このように解るのを、 菩提を得たと名づけるのである。
^また ¬*決定毘尼経¼ に説かれている。
大乗の中で、 菩提心を発して修行するものは、 朝に戒を犯すことがあっても、 昼に一切智の心を離れないならば、 このような菩薩の戒体はやぶれない。 もし昼に戒を犯すことがあっても、 夕方に一切智の心を離れないならば、 このような菩薩の戒体はやぶれない。 (中略)
^もし夜の終り頃に戒を犯すことがあっても、 明くる朝に一切智の心を離れないならば、 このような菩薩の戒体はやぶれない。 こういうわけであるから、 菩薩乗の人は、 開 (犯した罪を許す) 遮 (戒を犯すことを禁ずる) の戒を持つのである。 たとい戒を犯すことがあっても、 取り乱して、 むやみに憂い悔んで、 みずからその心を悩ましてはならぬ。 声聞乗では、 戒を犯すことがあれば、 すぐに声聞の浄戒を破壊することになるのである。 略
^ここにいう 「一切智の心」 とは、 他の所に説かれているのに準ずると、 これは第一義空と相応する心である。 あるいは、 これは仏の一切種知を願い求める心であるといってもよい。
^問う。 もし懴悔を修めて、 よくもろもろの罪を滅するというならば、 どうして ¬大智度論¼ の第四十六巻に
戒律の中の戒は、 微細であっても、 懴悔すればすなわち清浄である。 しかし、 十善戒を犯すならば、 懴悔をしても、 三悪道に落ちる罪は除かれぬ。
といったり、 また ¬*地蔵十輪経¼ に、
十悪の罪を造ると、 すべての諸仏がたも救うことはできぬものである。
と説くのであるか。
^答える。 ¬観経¼ には十念の念仏でよく五逆の罪を滅し、 ¬観仏三昧経¼ には仏の一相を念じてよく十悪・五逆の罪を滅し、 ¬涅槃経¼ には*阿闍世王が懴悔して父を殺した罪を除き、 ¬般若経¼ には経を読誦し解説してよく三界の衆生を殺害した罪を滅して悪趣に堕ちず、 ¬華厳経¼ には普賢菩薩の願を誦んで一念によく十悪・五逆の罪を滅するとある。 ^これで、 大乗の実説ではどんな罪でも滅しないことはないということが明らかに知られる。 そうすると、 この ¬大智度論¼ の文は、 あるいは、 重い罪を転じて軽く受けるので、 全然受けないのではないことを 「除かれぬ」 といったのであろう。 あるいは、 相手に応じて説かれた方便の説であろう。 ^また、 懐感禅師は、 ¬十輪経¼ の文を解釈して、
如来の内密の思召しは、 罪を畏れさせようとお考えになったのである。
などといっている。 ^その他については、 下に出す念仏の相を料簡する門 (第十問答料簡門の第五臨終念相) に述べるとおりである。 これらは、 みな別時の懴悔である。 けれども、 行者は常に三事を修めるべきである。 その三事とは ¬大智度論¼ にいうとおりである。
菩薩は、 必ず昼夜六度に、 懴悔と随喜と*勧請との三事を修むべきである。 抜き書きした。
^五念門の中、 礼拝の次には、 この事を修めるべきである。^¬十住毘婆沙論¼ の懴悔の偈にいわれている。
^十方の無量の仏たちは すべてを知り尽くしたもう
われ今ことごとくみ前において もろもろの罪を露わそう
^三々合して九種があり 三つの煩悩から起こる
今身もしは前身の 罪をことごとく懴悔しよう
^三悪道の中において 受けるべき業報は
願わくは今身に償って 悪道に入って受けないように
^「三々合して九種があり」 というのは、 身と口と意とに、 それぞれ順現業と順生業と順後業とがあり、 またみずから造ったものと、 他に教えて作らせたものと、 それを見て随喜するのとがある。 「三つの煩悩から起こる」 というのは、 三界にそれぞれ繋がれる煩悩と、 貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の煩悩と、 さらに上・中・下の三品の煩悩とのことをいうのである。
^勧請の偈にいわれている。
^十方の一切の仏たちの 現に成仏してまします方々に
わたしは請いたてまつる 法を説いて衆生を安楽ならしめてください
^十方の一切の仏たち もし寿命を捨てようと思いたもうならば
わたくしは今ぬかずいて勧請したてまつる 久しく世に住まりたもうように
^随喜の偈にいわれている。
^あらゆる布施の福も 持戒と修善の行も
身・口・意から生ずる 過去・未来・現在にわたる
^三業を習い行う人 三業の果を得た者
すべての凡夫 それらの福をみな随喜しよう 上
^また常行三昧・法華三昧・真言密教などには、 みな、 それぞれ文がある。 意のままに、 これを用いるがよい。 ^もし
むならば、 ¬*弥勒菩薩本願経¼ にある次の一偈によるべきである。 経に説かれている。
^仏が阿難に語られる。 「弥勒菩薩が、 もと仏道を求めた時は、 耳も鼻も頭も目も、 手足や身命、 珍宝や城邑、 妻子や国土を布施して人に与え、 それで仏道を成就したのではない。 ただ善巧方便の安楽の行をもって、 無上のさとりを成就することができたのである。」 ^阿難が仏に申し上げる。 「弥勒菩薩は、 どのような善巧方便によって仏道を成就することができたのでございますか。」 ^仏が阿難に語られる。 「弥勒菩薩は昼夜にそれぞれ三たび、 衣服を正して、 体を整え、 手を合わせて、 右膝を地に着け、 十方に向かってこの偈を説いて言ったのである。
^わたしはすべての過を悔い 勧めて人々の仏道の徳を助け
諸仏を帰命し礼したてまつる なにとぞ無上の智慧を得させたまえ」
^仏が阿難に語られる。 「弥勒菩薩は、 この善巧方便によって、 無上のさとりを得たのである。」 上
^問う。 この懴悔と勧請などの事を修めると、 どれほどの福を得るのであるか。
^答える。 ¬十住毘婆沙論¼ の偈にいわれている。
^もし一時の中に行じた 福徳に形があるならば
恒河沙ほどの世界も 受け容れることはできぬであろう
【53】^第六に対治魔事というのは、
^問う。 いろいろの魔事が、 よく正道をさまたげるのである。 あるいは病気を発させ、 あるいは観念を失わせ、 あるいは邪法を得させる。 ^すなわち、 もしは有の見解、 もしは無の見解、 もしは明了、 もしは昏闇、 もしはよこしまな禅定、 もしは心の散動、 もしは悲しみ、 もしは喜び、 もしは苦しみ、 もしは楽しみ、 もしは禍、 もしは福、 もしは悪事、 もしは善事、 もしは人を憎み、 もしは恋い慕い、 もしは心が強く、 もしは心が弱いなど、 このような事が、 もしは過ぎたり、 もしは及ばないのは、 みなこれは魔事であってことごとく正道をさまたげるのである。 どういう事で、 これを対治しようか。
^答える。 これらを治める方法は多いけれども、 今は、 ただ念仏という一つの治めかたに依るべきである。 この中にも、 また、 事と理との二種の念仏がある。
^第一に、 事の念仏とは、 言葉と行いとが一致して、 一心に念仏する時、 もろもろの悪魔もこれを壊ることはできないのである。
^問う。 どういうわけで壊れないのか。
^答える。 仏が護念したもうから、 念仏の法の威力があるから、 壊ることができないのである。
^¬大般若経¼ に、 魔事を対治するのに、 それぞれ二法ずつ出されているとおりである。 その中に説かれている。
一つには、 その言葉のとおりに、 みなことごとくよく作し、 二つには、 諸仏から常に護念せられる。
^また ¬般舟三昧経¼ に説かれている。
もし夜叉*鬼神が、 人の禅定を破戒し、 人の正念を奪うことはあっても、 この菩薩をやぶろうと欲うならば、 結局、 やぶることはできないのである。 略
^そのほかは、 下に出す念仏利益門に示すとおりである。
^第二に、 理の念仏とは、 ¬摩訶止観¼ の第八巻にいうとおりである。
魔の世界の如と仏の世界の如とは、 一如であって二如はなく、 平等で同一の相であると知り、 魔をうれえとしたり仏をよろこびとしたりすることはなく、 これを真如実相に置くのである。 (中略) ^魔の世界は、 そのまま仏の世界であるけれども、 人々はこれを知らないで、 仏の世界に迷って、 妄りに魔の世界を起こし、 菩提の中にあって煩悩を生ずる。 こういうわけであるから悲を起こすのである。 また人々に、 魔界はそのまま仏界であり、 煩悩はそのまま菩提と悟らせようと欲う。 いこういうわけであるから慈を起こすのである。 上
^かくして、 次のような念を作すべきである。 すなわち、 魔の世界も仏の世界も、 および自分の世界も他人の世界も、 同じく空無相である。 このあらゆるものの無相が、 すなわち仏の真実の体なのである。 そこで魔の世界はそのまま仏身であって、 また、 そのまま我が身であると知るべきである。 道理として異なったものではないからである。 けれども、 多くの人々は、 妄想の夢がまだ覚めず、 一如実相を解らないから、 是とか非とかいう想を起こして、 五道に*輪廻するのである。 願わくは衆生を平等の智慧に入らせたいものである。
^このように深く無縁の大悲を起こし、 さては、 仏の妙なる色身を観察しても、 *三解脱門に入って、 決して執着すべきではない。 ちょうど、 熱い金属の塊がきれいな色をしているのを見ても、 手で触れてはならぬようなものである。 まして、 その他の事について、 執着を生じたり、 憍慢を生じてはならぬ。 こういう観察を作す時は、 どんな悪魔も壊ることはないのである。 ^それ故に ¬大般若経¼ にも、 またその治めかたを説いていう。
一つには、 あらゆるものはみな畢竟は空であると観じ、 二つには、 すべての衆生を捨てない。
^また ¬大智度論¼ にいわれている。
*十二入はみなこれ魔の網で、 いつわりのものであり、 実のものではない。 この中に六種の識を生ずるのも、 また魔の網であっていつわりである。 それでは、 なにが真実であるかといえば、 ただ不二の法があるだけである。 眼もなく色もなく、 さては意もなく法などもない。 これを真実と名づける。 人々に、 この十二入を離れさせるために、 常に種々の因縁をもって、 この不二の法を説くのである。 上
^問う。 どういうわけで、 空を観ずれば、 悪魔が手がかりを得ないのか。
^答える。 かの ¬大智度論¼ にいわれている。
一切の法の中において、 すべて執着がない。 執着がないから間違いがなく、 間違いがないから、 悪魔もその手がかりを得ることができない。 譬えていうと、 人の身体に傷がなかったら、 毒の細末の中に臥ても、 毒もまた身体には入らぬが、 もしすこしでも傷があったら、 すなわち死ぬようなものである。
^また ¬大集経¼ の月蔵分の中に、 *他化自在天の魔王が菩提心を発し、 記別を受け、 願を発していう。
わたくしたちは、 現在と未来の諸仏の弟子たちで、 第一義とよくかなっている者を護念し、 必要な物を与え、 供養いたしましょう。 もし、 わたしの指図に順わないで、 行者を悩ます者があったら、 すぐさま、 その者どもに種々の病を得させ、 神通を失わせましょう。 これは意味を取った。
^これで、 実の魔は手がかりを得ず、 権の魔は護念するということが明らかに知られる。 以上述べた三種の治め方には、 みな証拠がある。 それゆえ、 あらためて諸師の解釈を引かないのである。
【54】^第七に、 総決要行とは、
^問う。 以上の諸門の中で述べたことは多いが、 どの行業を往生の要とするのかについては分からぬ。 どうであろうか。
^答える。 大菩提心を発し、 身・口・意の三業を護り慎み、 深く信じ、 誠を至し、 常に、 仏を念じ、 願に随い、 決定して極楽に生まれるのである。 まして、 また、 その他いろいろのすぐれた行を具えるならば、 なおさらである。
^問う。 どういうわけで、 これらを往生の肝要とするのであるか。
^答える。 菩提心の意義は、 前の作願門に、 詳しく解釈したとおりである。 三業の重い悪は、 よく正道をさまたげるものであるから、 是非とも、 これを護り慎しむべきである。 往生の業には、 念仏を本とする。 その念仏の心は必ず道理にかなったようにすべきである。 それ故に、 深く信ずると、 誠を至すと、 常に念ずるとの三事を具えているのである。 ^常に念ずることに、 三つの利益があることは、 迦才がいうとおりである。 (浄土論)
第一には、 もろもろの悪の念がついに生じないし、 また業の障りを消すことができる。 第二には、 善根が増長して、 その上に仏を見たてまつる因縁を種えることができる。 第三には、 薫習が次第に熟して、 命が終る時に、 正しい念が眼の前に現われる。 上
^およそ、 行業は願によって転じ変わるものであるから、 願に随って往生するというのである。
^総じていうならば、 三業を護り慎むのは止善であり、 仏名を称念するのは行善である。 菩提心および願は、 この二善を助ける。 それゆえ、 これらの法を往生の肝要とするのである。 その旨は、 経・論に見えているが、 これを詳しく述べることはできない。
【55】^大文第六に別時念仏というのは、 これに二節を分ける。 第一には尋常の別行を明かし、 第二には臨終の行儀を明かすのである。
【56】^第一に尋常の別行というのは、 日々の行法においては、 常に勇んで行ずることはできない。 それ故に、 時を定めて別時の行を修すべきである。 あるいは一日・二日・三日、 さては七日、 あるいは十日から九十日と、 望みにしたがって念仏を修めるがよい。
^ここにいう 「一日から七日の行」 とは、 善導和尚の ¬*観念法門¼ にいわれている。
^¬般舟三昧経¼ に次のように説かれている。 「仏が跋陀和に告げられる。 ¬この行法を修めるならば、 *般舟三昧を得て、 現在の諸仏がことごとく前にあって立たれる。 ^僧・尼や信男・信女があって法のごとく修行するには、 戒も完全にたもち、 独り静かな処にとどまって西方の阿弥陀仏を念ぜよ。 いま現にかしこにましますのである。 聞くところにしたがってまさに念ずべきである。 これより十万億の仏国を過ぎて、 その国を須摩提 (極楽) と名づける。 ^一心にこれを念じて、 一日一夜、 あるいは七日七夜せよ。 七日を過ぎて後に、 阿弥陀仏を見たてまつるであろう。 たとえば夢の中で見るものは、 昼夜を分けず、 また内外の区別なく、 冥い中にあって、 おおいかくす所があるからといって見えないのでもないようなものである。 ^跋陀和よ、 四衆 (僧・尼・信男・信女) がいつもこの念をする時には、 諸仏の世界の中のもろもろの大山や須弥山、 そのあらゆる幽冥の所が、 ことごとく開かれて、 おおいかくされるところがない。 この四衆は*天眼通で見とおすのではなく、 *天耳通で聴きとおすのでもなく、 *神足通でその浄土に至るのでもなく、 この世界で死んでかの浄土に生まれるのでもなく、 すなわち、 ここに坐して阿弥陀仏を見たてまつるのである。¼
^釈迦仏が仰せられる。 ¬四衆は、 この世界において阿弥陀仏を念ずるのに、 もっぱら念ずるから仏を見る事ができるのである。 そこで ª何の法を持って浄土に生まれることができましょうかº と問え。 阿弥陀仏が答えて仰せられるであろう。 ªわが浄土に来生しようと思うならば、 つねにわが名を念じてやめなければ来生することができるº と。¼ ^釈迦仏が仰せられる。 ¬専ら念ずるから往生することができるのである。 まさに仏身には、 三十二相八十髄形好があって、 はかり知れない光明が輝きわたり、 端正でくらべものがないおすがたで、 菩薩僧たちの中にあって法をお説きになっていることを念ぜよ。 色相を壊ってはならぬ。 なぜかというと、 色相を壊らないから、 仏の色身を念ずることによって、 この三昧を成就するのである¼ と。」
^以上は、 念仏三昧の法を明かした。 ^この文は、 かの経の行品の中にある。 もし、 眼の覚めている時に仏を見たてまつらなければ、 夢の中で、 仏を見たてまつるのである。
^三昧の道場に入ろうと思う時には、 もっぱら仏教の定める方法によれ。 まず、 道場をととのえて尊像を安置し、 香湯を潅いで浄めよ。 もし、 仏堂がないならば、 浄らかな室でもよい。 それも法にかなって潅ぎ清め、 一つの仏像を西側の壁に安置せよ。 ^行者たちは、 月の一日から八日まで、 あるいは八日から十五日まで、 あるいは十五日から二十三日まで、 あるいは二十三日から三十日までと、 月毎を四つの時期に分けるのがよい。 行者たちは、 みずから家業の軽重を考えて、 この時期の中の都合のよいときに清浄の行道に入れ。 ^もしは一日より七日に至るまで、 すべて清浄な衣服を用い、 鞋靺もまた新しく浄らかなものを用いよ。 七日の間はいつも一日一食を正午までにとる長斎を用い、 軟餠・粗飯で、 その時その時の醤菜を用いて、 質素を旨とし、 その量も適量を越えないようにせよ。 ^道場の中にあっては昼夜に心を散らさず相続して専ら阿弥陀仏を念ぜよ。 心と声とをつづけて絶えないようにし、 ただ坐るもただ立つも、 七日のあいだ眠ってはならぬ。 また時 (昼夜に六回) によって、 礼拝したり経を読誦したりしなくてもよい。 数珠もまた持たなくてもよい。 ただ合掌して仏を念ずるばかりと知って念々に見仏の想いをせよ。 ^釈迦仏が仰せられる。 「阿弥陀仏の真金色の御身は光明が輝きわたり、 端正でくらべものがなく、 行者の心眼の前にいられると想念せよ」 と。 ^正しく仏を念ずる時、 もし立つなら立ったままで一万遍・二万遍念ぜよ。 もし坐るならば、 坐ったままで一万遍・二万遍念ぜよ。 道場内では、 頭を寄せて、 私語を交えてはならぬ。 ^また、 昼夜にあるいは三回、 あるいは六回、 諸仏や一切の賢聖・天曹・地府や一切の業道 (五道の冥官) に申しあげて、 生まれてよりこのかた身・口・意の三業に造った多くの罪を口にあらわし懴悔せよ。 ^それぞれ事実に基づいて懴悔し終ったならば、 また法に依って念仏せよ。 そのとき現れた境界は、 たやすく説いてはならぬ。 それが善いものであるならば、 みずから知るにとどめ、 悪いものであるならば懴悔せよ。 酒や肉や五辛は決して手にとらず、 口に食べないと誓え。 もし、 この語に違うならば身にも口にも、 ともに悪い瘡ができるようにと願え。 ^¬阿弥陀経¼ を読むこと、 十万遍を満たそうと願え。 日毎に念仏を一万遍し、 経を誦むこと、 日毎に十五遍、 あるいは二十遍・三十遍と力の多少に任せて、 浄土の往生を誓い、 仏の摂め取りたもうことを願え。
^またもろもろの行者たちに告げる。 ただ今生に、 日夜に相続して専ら阿弥陀仏の名号を称え、 専ら ¬阿弥陀経¼ を誦み、 浄土の聖衆荘厳を称揚・礼讃して、 往生を願う者は、 ^三昧の道場に入る場合を除いて、 日毎に弥陀の名号を称すること一万遍して、 命の終るまで相続するならば、 すなわち阿弥陀仏の加護を受けて、 罪障を除くことができ、 また仏が聖衆たちとともにつねに来て護念してくださる。 すでに護念をこうむれば、 寿命がのびて、 安楽に暮すことができる。 ^その因縁の一々は、 つぶさに ¬比喩経¼・¬*惟無三昧経¼・¬*浄度三昧経¼ などに説いているとおりである。
^また ¬観仏経¼ に説かれている。 「もろもろの僧・尼や男・女が、 四つの根本罪 (*四重禁)・十悪などの罪や五逆罪を犯し、 および大乗を謗るような罪を犯したとする。 このような人たちがもしよく懴悔して、 昼夜六時に身も心も休むことなく、 五体を地に投げること、 大山の崩れるようにし、 号び泣いて、 涙を雨のように流し、 合掌して仏に向かい、 仏の眉間の白毫相の光を念じて一日から七日に至るならば、 さきに述べた四種の罪が軽くなる。 ^白毫を観ずるのに、 罪が重いために闇くて見えないならば、 塔の中に入って仏像の眉間の白毫相を観じ、 一日より三日に至るまで、 合掌して声をあげて泣け。」 ^以上の文は ¬観念法門¼ から抜き書きした。
^¬大般若経¼ の第五百六十八巻に、 七日の行を明かしていわれている。
もし、 善男・善女たちが、 心に疑いがなく、 七日の間、 水浴して身を浄らかにし、 新しい浄い衣服を着て、 花や香を供養し、 一心に正しく、 前に説いたような如来の功徳やすぐれた威神力を念ずると、 その時、 如来は慈悲をもって護念し、 その身を現わして見せられ、 願いを満足させて下さるのである。 もし、 花や香などがない場合には、 ただ一心に、 仏の功徳と威神力とを念ずるがよい。 命が終ろうとする時に、 必ず仏を見たてまつることができるであろう。 上
^この文に 「前に説いたような如来の功徳」 などというのは、 如来の大慈大悲・説法・礙りのない三昧、 一念の間によく数限りないさまざまの身を現わしたもうこと、 天眼・天耳、 他の心を知る智慧、 過去の記憶を失わない、 *無漏で煩悩を離れている、 すべての法において自在平等である、 などの功徳や威神力である。 ^¬*大集賢護経¼ にも、 また七日の行がある。 次の念仏利益門の中に説くとおりである。 ^また、 迦才の ¬浄土論¼ にいわれている。
道綽禅師は、 経文に 「ただよく念仏すること、 一心不乱であって、 百万遍以上念仏した者は、 まちがいなく往生することができる」 とあるのをしらべ出された。 また、 道綽禅師は ¬阿弥陀経¼ の七日の念仏とある文によって、 百万遍の念仏ということをしらべ出されたのである。 こういうわけで ¬大集経¼・¬*薬師経¼・¬阿弥陀経¼ に、 みな七日の念仏を勧めてあるのは、 その意義が明らかである。 以上迦才
^次に、 いうところの十日の行とは、 ¬鼓音声経¼・¬平等覚経¼ に出ている。 これは次の念仏利益門に至って、 知るべきである。
^次に、 いうところの九十日の行とは、 ¬摩訶止観¼ の第二巻にいわれている。
^*常行三昧とは、 これについて、 まずその方法を明らかにし、 次に勧修を明かす。
^まず方法とは、 身の開遮と口の説黙と意の止観との三種である。 この法は、 ¬般舟三昧経¼ に出ている。 「般舟」 とは、 仏立と翻訳する。 仏立とは、 三種の意味がある。 一には仏のすぐれた威力、 二には三昧の力、 三には行者の本の功徳力である。 よく禅定の中で十方現在の仏がたが、 行者の前にあって立ちたもうのを見ることは、 ちょうど眼のよい人が、 晴れた夜に星を観るようなものである。 十方の仏を見たてまつるのも、 また、 このように多いのである。 それゆえに、 仏立三昧と名づける。
^¬十住毘婆沙論¼ の偈にいわれている。
^この三昧の住処には 少と中と多の差別がある
このような種々の相について またよく論議すべきである
^住処というのは、 あるいは初禅定・二禅定・三禅定・四禅定、 また中間の禅定 (初禅定と二禅定の中間) などにおいて、 この定の勢力を発して、 よく三昧を生ずるから、 これを住処と名づけるのである。 初禅は少、 二禅は中、 三禅と四禅は多である。 あるいはしばらく住するのを少と名づけ、 あるいは世界を見ること少なく、 あるいは仏を見たてまつることが少ないから、 少と名づける。 中と多もまたこのようである。
^身は常に歩くことだけ (定行) がゆるされる。 この法を行ずる時は、 悪い友や愚かな人、 親族や郷里を避け離れ、 常に独りとどまって、 他人に衣食などを希望し求めることがあってはならぬ。 常に乞食して、 特別の招きを受けてはいけない。 ^道場を荘厳し、 もろもろの供具、 香餚、 甘果などを備えよ。 その身を洗い浄め、 道場の出入には衣服を改めよ。 ただひたすら歩き旋って、 九十日を一期間とし、 ^内外の戒律に精通してよく障りを除く明師に就くがよい。 師から聞いた三昧の処で、 師を見ること世尊を視たてまつるようにし、 嫌わず怒らず、 短所・長所を見てはいけない。 自分の肌の肉を割いてでも師に供養すべきである。 ましてまた、 その他のことはなおさらである。 師には、 下僕が主人に奉えるようにせよ。 もし師に対して悪い感情を生じたならば、 この三昧を求めても、 結局は得ることが難しい。 ^外からの護持者は母親が子供を養うようにする人を用い、 同じく行ずる人は、 嶮しい所を共に渉るような人を用いよ。 ^わが筋骨を枯れ朽ちさせても、 この三昧を学び得なかったならば、 最後まで休息すまいと決心して誓うべきである。 大信を起こせば、 よく壊る者はなく、 大精進を起こせば、 よく及ぶ者はなく、 得るところの智慧は、 よく及ぶ者はなく、 ^常に善い師匠と共に事に従うがよい。 三月を終るまで指を弾くほどのわずかのあいだでも世間の想いや望みを起こしてはならない。 三月を終るまで、 指を弾くほどのわずかな間でも臥してはならぬ。 三月を終るまで、 常に行道して、 休むことがあってはならぬ。 食事と用便の場合は、 この限りではない。 人のために経を説いても、 衣食を望んではならぬ。 ^¬十住毘婆沙論¼ の偈にいわれている。
^善い知識に近づいて 精進して懈怠なく
智慧ははなはだ堅くして 信力はみだりに動かしてはならぬ
^口の説黙というのは、 すなわち、 九十日の間、 身は常に行道して休むことなく、 九十日の間、 口には常に阿弥陀仏のみ名を唱えて休むことなく、 九十日の間、 心には常に阿弥陀仏を念じて休むことがあってはならぬ。 ^あるいは唱と念とをともに運び、 あるいはまず念じて後に唱え、 あるいはまず唱えて後に念じ、 唱と念とあい継いで、 休む時があってはならぬ。 もし、 阿弥陀仏のみ名を唱えるならば、 そのまま十方の仏のみ名を唱えるのと、 その功徳は等しいのである。 ただ専ら阿弥陀仏を法門の主とする。 その要を挙げていうならば、 一歩一歩、 一声一声、 一念一念、 すべてはただ阿弥陀仏に在るのである。
^意に止観を論ずというのは、 まず西方の阿弥陀仏を念ぜよ。 これより十万億の国々をすぎた仏国で宝地・宝池・宝樹・法堂のなかに在し、 多くの菩薩の中央に坐して、 経を説きたもうのである。 三月の間、 常に仏を念ぜよ。 ^どのように念ずるのかというと三十二相を念ずるのである。 すなわち、 足の下の千輻輪の相から、 一々逆に観じてもろもろの相に及び、 さては無見頂相に至るまで念じ、 また頂相から順次に観じて、 千輻輪にまで至るべきである。 そして、 自分もまた、 この相好を得させてくださいと念ずるがよい。 また、 自分は、 心によって仏を得るのか、 身によって仏を得るのかと念ぜよ。 ^仏は、 心をもっても得られず、 身をもっても得られない。 心をもっても仏の色相は得られず、 色相をもっても仏心は得られない。 なぜかといえば、 心といえば仏には心はなく、 色相といえば仏には色相はない。 それ故に、 色心をもってしては、 菩提が得られないのである。 ^仏は色相がすでに尽き、 さては識もすでに尽きていられる。 仏が説きたもうところの尽きるというのを、 痴人は知らず、 智者だけが暁らかに知るのである。 身口をもってしても仏は得られず、 智慧をもってしても、 仏は得られぬのである。 なぜかといえば、 智慧を索めても得ることができないし、 自ら我を索めても、 ついに得ることができないからである。 また見る所もない。 一切の法は、 本来所有なく、 本が否定され、 もとを絶するのである。 その一である。
^夢に七宝を見て親族と歓楽に耽っても、 目が覚めてから思い返してみると、 どこに居たのか分からないようなものである。 このように仏を念ずるがよい。 ^また、 *舎衛国に須門と名づける女性があると聞いて心に喜び、 夜、 夢の中でその女に逢ったが、 目が覚めて考えてみると、 女が来たのでもなく、 自分が往ったのでもないのに、 歓楽がまざまざと偲ばれるようなものである。 このように仏を念ずべきである。 ^また、 大きい沼地を歩いて行く人が飢え渇いて、 寝た夢に美食を得たのであるが、 目が覚めてしまうと、 もとのように空腹であるようなものである。 自らあらゆる法を念うに、 みな夢のようなものである。 このように仏を念ずべきである。 しばしば念じて休息してはならぬ。 ^この念をもって、 阿弥陀仏の国に生まれるべきである。 これを 「如想念」 と名づける。 人が、 宝を瑠璃の上に置くと、 影がその中に現れるようなものである。 また、 比丘が骨を観ずると、 骨から種々の光を起こすようなものである。 これは、 この光をもってきた者があるのでもなく、 また骨があるのでもない。 これは意の作せるわざに外ならぬのである。 鏡の中の像は、 外から来るのでもなく、 中から生ずるのでもないが、 鏡が浄いから、 自然にその形が現われるようなものである。 ^行者の色が清浄であると、 あらゆるものは清浄である。 仏を見たてまつろうと思えば、 すぐさま仏を見たてまつる。 見たてまつるとすぐに問い、 問いたてまつるとすぐに報えたもう。 経を聞いて、 大いに歓喜するのである。 その二である。
^みずから念う。 仏は何所から来たりたもうのか。 自分もまた仏の所に至るのでもない。 自分の所念で見たてまつるのである。 わが心が仏を作り、 心が自ら仏を見、 仏の心をも見るのである。 この仏の心は、 わが心に仏を見るのである。 ^心は自ら心を知らず、 心は自ら心を見ないのである。 心に想があるのを痴とするので、 心に想がないのは泥洹である。 この法は、 示すべきものとてはないので、 みな念のしわざである。 たとい、 念があっても、 また無所有の空と了るにすぎぬのである。 その三である。 ^偈に説かれている。
^心は心をみずから知らず 心があって心を見ない
心に想を起こせばそれは痴であり 想のないのが泥洹である
^諸仏は心によって解脱を得られた 心に垢がなければ清浄と名づける
五道は潔くて迷いの色を受けぬ この理を解るものは大道を成ずる
^これを仏の印と名づける。 貪ることもなく、 着われることもなく、 求めることもなく、 想うこともなく、 所有も尽き、 所欲も尽きる。 従って生ずることもなく、 滅すべきこともなく、 壊れることもない。 道の要、 道の本である。 この印は、 二乗も壊すことができない。 まして、 悪魔がどうしてできようぞ。 略
^¬十住毘婆娑論¼ に明かしてある。 「初発心の菩薩は、 まず仏の色相、 相の体、 相の業、 相の果、 相の用を念じて、 下の力を得、 次に仏の四十の不共法を念じて、 心に中の力を得、 次に実相の仏を念じて、 上の力を得、 しかも色身・法身の二身に執着しない。」
^偈 (十住毘婆娑論) にいわれている。
^色身に執らわれず 法身にも執らわれない
よくすべての法は とこしえに空寂なこと虚空のようと知る
^勧修とは、 もし人あって、 智慧は大海のようで、 よく自分のために師と作る者もないようになり、 ここにいながら、 神通力を使わないでことごとく諸仏を見、 ことごとくその説きたもうことを聞いて、 ことごとくよく受け持つようにしたいと欲うならば、 常に三昧を行ずるがよい。 もろもろの功徳の中で、 これが第一である。 ^この三昧は、 諸仏の母、 仏の眼であって、 仏の父であり、 無生・大悲の母である。 すべてもろもろの如来は、 この二法より生ぜられたのである。 ^三千大千世界の大地と草木とを砕いて微塵とし、 その一塵を一仏国とし、 そのあらゆる世界の中に満ちている宝をもって布施するならば、 その福徳は非常に多いのであるけれども、 この三昧を聞いて驚かず、 畏れないという功徳には及ばないのである。 ましてこの三昧を信じて受けた持ち、 読誦して人のために説く功徳、 まして牛乳を搆るほどのわずかな間でも定心にこの三昧を修め習う功徳、 ましてよくこの三昧を成就する功徳にあっては、 なおさらである。 ゆえに無用無辺である。 ^¬十住毘婆娑論¼ にいう。 「劫末の大火・役人・賊・怨・毒虫・悪竜・悪獣や、 多くの病などが、 この人を侵すというならば、 そんな道理のあるはずはない。 この三昧を行ずる人は、 常に天・竜などの*八部衆や、 諸仏がたから、 みなともに護念せられ称讃せられ、 みな共に、 この人を見ようと欲って、 共にその所に来るのである。」
^もしこの三昧の上の四番の功徳を聞いて、 みな、 随喜することが、 三世の諸仏菩薩のみな随喜したもうようにするならば、 また、 上の四番の功徳よりも勝るのである。 もし、 このような三昧の法を修めないならば、 無量の尊い宝を失うことになるであろう。 人も天も、 このために憂え悲しむのである。 鼻を病む人は、 栴檀を手に把っても、 そのよい香りを嗅がぬようなものであり、 田舎の子が、 摩尼法珠を一頭の牛と換えるようなものである。 下略。 ^ここにいう 「四番の功徳」 とは ¬*弘決¼ にいう。 「また、 四番の果報がある。 一には驚かず、 二には信じて受け、 三には定心で修し、 四にはよく成就するのである。」
【57】^第二に、 臨終の行儀というのは、 まず、 行事を明かし、 次に勧念を明かすのである。
^初めに行事とは、 ¬*四分律行事抄¼ の瞻病送終篇に ¬中国本伝¼ を引いていう。
*祇園精舎の西北の角、 日の没する方所に無常院をつくってある。 もし病人があると、 その中に移して置く。 煩悩をおこすものは、 本坊の内の衣鉢やいろいろの道具を見て、 多く恋着をおこし、 この世を厭う心がないから、 制して別の場所に至らせるのである。 その堂を無常院と名づける。 来る者は非常に多いが、 還るものは一人か二人である。 事相について求め、 専心に法を念ずるように、 ^その堂の中に、 ひとつの立像を安置してある。 金箔でその像を塗り、 顔を西方に向けてある。 その仏蔵の右手は挙げ、 左手の中には、 一つの五色の幡の端を垂れて地に曳いているものを繋いでいる。 病人を寝かせる場合には、 仏像の後に在き、 左手に幡の端を執らせ、 仏につれられて浄土に往生するという意を起こさせるのである。 看病する者は、 香をたき、 華を散らして、 病人を荘厳る。 そうして、 もし屎尿・吐唾などがあれば、 そのつど、 これを取り除くのである。
^あるいは説く。
仏像を東に向けて、 病人をその前に在く。 わたくしにいう。 もし特別な場所がないならば、 ただ病人の顔を西方に向けさせ、 香をたき、 花を散らして、 いろいろに勤めよ。 あるいは、 端厳な仏像を見させるがよい。
^善導和尚がいわれている。 (観念法門)
行者たちが、 病気であろうとなかろうと、 命の終ろうとするときには、 もっぱら上に述べたような念仏三昧の方法に依って、 まさしく身心をうちこんで顔を西に向け、 心もまた専注して阿弥陀仏を観想し、 心も口も相応して称名を絶やすことなく、 決定して往生する想いをなし、 蓮台に乗った聖衆が来たって迎えてくださる想いをせよ。 ^病人は、 もしその境界を見たならば、 看病人に向かって話すがよい。 聞きおわったならば、 話したとおりに記録せよ。 また、 病人がもし話すことができなければ、 看病人は必ずしばしばどのような境界を見たかと病人に問え。 もし罪の様相を話したならば、 傍の人はその人のために念仏し、 助けて同じく懴悔し、 必ず罪を消滅させよ。 もし罪を滅することができて、 蓮台に乗った聖衆がその念に応じて、 目の前に現われたならば、 前と同じように記録にせよ。 ^また、 行者たちは、 もし親族のものが来て看病する場合には、 酒や肉や五辛を食べた人がいないようにせねばならない。 もしそのような人がいたならば、 決して病人の側に近づかせてはならぬ。 もしそういうことがあれば病人は正念を失い、 鬼神がこもごも来て乱し、 病人は狂い死んで三悪道に堕ちるであろう。 願わくは行者たちよ、 よくみずからつつしんで仏の教えを持ち、 同じように仏を見たてまつる因縁を作るようにせよ。 上
^このように、 往生する想、 迎えてくださる想を作すことは、 その道理、 もっともなことといえよう。 ^¬大智度論¼ に、 不思議な意のはたらきを説いていうとおりである。
大地の相を心に取ることが多いから、 水を地のように履むのである。 水の相を心に取ることが多いから、 水のように地に入るのである。 火の相を心に取ることが多いから、 身から煙や火を出すのである。 略
^これで、 求めるところの事において、 その相を心に取る時に、 よくその事を助けて成就することができるということが明らかに分かった。 これは、 ただ臨終だけにいうのではないので、 平生の時も、 これに準ずるのである。 ^道綽和尚がいわれている。 (安楽集)
十念の念仏を相続することは、 難しくないようであるが、 しかしすべての凡夫の心は、 野馬のごとく、 また猿の動くよりもはげしく、 *色・声・香・味・触・法などの外のことにかかわって、 いまだかつて止まらない。 それで、 おのおのがよろしく信心を発して、 あらかじめ、 みずから念をはげまして行を積み、 習性をつくって、 善根を堅固にさせねばならない。 ^釈迦仏が大王に告げられたようである (大智度論)。 人が平生に善行を積めば、 臨終の時に悪念がないことは、 あたかも樹が倒れる場合には、 かならずさきよりその傾いている方向に随うようなものである。 ^もし、 身をさく臨終の刀風が一たび至れば、 あらゆる苦しみが身に集まる。 もし習性が前からなかったならば、 念仏がどうしてできようか。 おのおの同志の人が、 三人でも五人でもあらかじめ約束しておいて、 命終の時に臨んでは、 お互いにさとしあって弥陀の名号を称えて、 極楽の往生を願い、 その声を続けて十念を成就させるべきである。 上
^ここにいう十念とは、 多くの解釈があるけれども、 一心に十遍南無阿弥陀仏と称念するのを十念というのである。 この解釈は経の文に順っている。 その他については、 下の問答料簡 (臨終念相) に示すとおりである。
^次に臨終に念仏を勧める (勧念) というのは、 すなわち善友*同行でその志のある者は、 仏の教えに順うために、 衆生を利益するために、 自分の善根のために、 往生の縁を結ぶために、 病気にかかった初めから病床を訪ねて、 幸いに念仏を勧めるべきである。
^ところで、 勧める趣きは、 それぞれの人の意に依るがよい。 今は、 しばらく私自身のために、 勧めの詞をまとめると、 次のようにいうであろう。
仏子は、 年来この世の望みを止めて、 ひたすら西方往生の行業を修めてきたのであるが、 とりわけ、 以前から期しているのは、 臨終の十念の念仏であった。 今、 すでに病の床に臥しているのであるから、 恐れずにはおられないであろう。 ^よろしく目を閉じて合掌し、 一心に誓い期すべきである。 仏の相好以外には、 その他の色を見てはならぬ。 仏の法音以外には、 その他の声を聞いてはならぬ。 仏の正教以外には、 その他の事を説いてはならぬ。 往生の事以外には、 その他の事を思ってはならぬ。 ^このようにして命終の後には、 宝の蓮台の上に坐り、 阿弥陀仏の後に従い、 聖衆にとり囲まれて、 十万億の国土を過ぎる間も、 やはりまたこのとおりにして、 その他のことを思ってはならぬ。 ただ極楽世界の七宝の池の中に至って、 始めて目を挙げ、 合掌して阿弥陀仏の尊いお姿を見たてまつり、 甚深の法音を聞き、 諸仏の功徳の香りを聞ぎ、 聞法の喜び、 禅定の味を嘗め、 海のように多く会まられた聖衆にぬかずいて、 普賢の行願に悟り入るべきである。
^今、 十の事項を述べよう。 一心に聴き一心に念ずるがよい。 一々の念ごとに疑の心を生じてはならぬ。
^第一には、 まず大乗の実相の智慧を発して、 生死の由来を知るべきである。 ^¬*大円覚経¼ の偈に説かれているとおりである。
^すべてもろもろの衆生の 始めもない幻の無明は
みなもろもろの如来の 円かな覚りの意を離れていない
^かくして、 生死はそのまま涅槃であって、 煩悩はそのまま菩提であり、 円かに融けあって、 礙なく、 無二であって差別がないことを知るべきである。 けれども、 一念の妄心によって、 生死界に入ってからこのかた、 無明の病のために盲となり、 久しい間、 本覚の道を忘れていたのである。 ただすべてのものは本来、 常に自然に寂滅の相であって、 幻のように一定の性がなく、 心につれてうつり変るのである。
^こういうわけであるから、 仏子は、 三宝を念じ、 邪をひるがえして正に帰すべきである。 ところで、 仏は医王であり、 法は良薬であり、 僧は看病人である。 無明の病を除いて、 正見の眼を開き、 本覚の道を示して浄土に導くには、 仏・法・僧の三宝に及ぶものはない。 ^こういうわけであるから、 仏子は、 まず仏は大医王であるという想を生じて一心に仏を念ずべきである。 すなわち 「南無本師釈迦牟尼仏・南無薬師瑠璃光仏・南無三世十方一切諸仏。」 以上。 「南無阿弥陀仏。」 以上。 ^次に、 法は妙良薬であるという想を生じて一心に法を念ずべきである。 「南無三世仏母摩訶般若波羅蜜・南無平等大慧妙法蓮華経・南無八万十二一切正法。」 ^次に、 僧はつき随って護りたもうという想を生じて、 一心に僧を念ずべきである。 「南無観世音菩薩・南無大勢至菩薩・南無普賢菩薩・南無文殊師利菩薩・南無弥勒菩薩・南無地蔵菩薩・南無龍樹菩薩・南無三世十方一切聖衆・南無極楽界会一切三宝・南無三世十方一切三宝。」 ^以上。 これは、 あるいは適宜同音して助念せよ。 あるいは鐘の声を聞かせて正念を増せ。 以下これに準ぜよ。
^第二には、 真如法性は平等であるけれども、 また仮有の差別相を離れたものではない。 ^阿弥陀仏が仰せられるとおりである。 (無量寿経)
^あらゆるものの本性は すべて空無我と知って
ひたすら浄土を求めるならば かならずかような国を成就するであろう
^それゆえに、 浄土に往生するためには、 まずこの世界を厭い離れるべきである。 今、 この娑婆世界は、 悪業の報いであり、 多くの苦しみの本源である。 すなわち、 生・老・病・死は輪のように回って際もなく、 三界という牢獄に縛られて、 一つとして楽しむべきものはない。 もし、 今この時に、 これを厭い離れなかったならば、 いつの世において、 この輪廻を離れられようか。 ^ところで、 阿弥陀仏には不思議のすぐれた力がましまして、 もし一心にみ名を称えるならば、 一声一声の中に八十億劫のあいだ迷う重罪を滅したもうのである。 こういうわけであるから、 いま、 一心にかの仏を念じて、 この苦界を離れるべきである。 ^そこで、 次のように念ずるがよい。 「なにとぞ阿弥陀仏、 決定してわたくしをお救い下さい。 弥陀仏」 その十念以上称える信心の勢いが尽きるのを見て、 次の事を勧むべきである。 あるいは二菩薩の名を称えることを加える。 以下これに準ぜよ。
^第三には、 浄土を欣い求めるべきである。 ^西方極楽は、 大乗善根の世界であって、 苦悩のない所である。 一たび蓮台に託生すれば、 長く生死を離れ、 眼には阿弥陀仏の尊いお姿を見たてまつり、 耳には深妙の尊いみ教えを聞く。 すべての快楽は、 ことごとく具足している。 ^もし人が臨終の時に阿弥陀仏を十念したてまつると、 まちがいなくかの安楽国に往生するのである。 仏子は、 今たまたま受け難い人間の身に生まれ、 また聞き難い仏のみ教えに値った。 ちょうど眼の一つしかない亀が、 浮木の孔に値ったように希なことである。 もし、 この時に往生することができなかったならば、 また、 もとの*三悪趣・*八難処の中に堕ちて、 仏法を聞くことさえも難しい。 まして、 往生することは思いもよらぬことである。 それゆえ、 一心にかの阿弥陀仏のみ名を称念すべきである。 ^そこで、 次のように念ずるがよい。 「なにとぞみ仏、 今日決定して、 私を救いとって、 極楽に往生させてください。 弥陀仏」
^第四には、 およそ、 かの国に往生したいと欲うなら、 往生の行業を求めるべきである。 ^かの阿弥陀仏の本願 (第二十願) に仰せられてあるとおりである。
もし、 わたしが仏になったとき、 あらゆる人々が、 わが名号を聞き、 わが国に念をかけ、 もろもろの功徳を積み、 至心に回向してわが国に生まれたいと願うなら、 それをかならず果たし遂げさせよう。 そうでなければ、 決してさとりを開くまい。
^仏子は、 一生の間、 ひたすら西方浄土に往生する行業を修めてきた。 その修めた行業は多いけれども、 期するところは極楽往生のほかはない。 いま重ねて三世のすべての善根を集めて、 ことごとく極楽に回向すべきである。 ^そこで、 次のように念ずるがよい。 「なにとぞ、 私の持つすべての善根の力によって、 今日決定して極楽に往生したいものである。 弥陀仏」
^第五には、 また本願 (第十九願) に仰せられてあるとおりである。
もし、 わたしが仏になったとき、 あらゆる人々が、 菩提心をおこして、 いろいろの功徳を修め、 至心に発願してわたしの国に生まれたいと思うなら、 臨終に、 多くの聖衆と共にその人の前に現われるであろう。 そうでなければ、 決してさとりを開くまい。
^仏子は、 久しくすでに菩提心を発し、 それにもろもろの善根を積んで極楽に回向している。 今、 重ねて菩提心を発して、 かの阿弥陀仏を念ずべきである。 ^そこで、 次のように念ずべきである。 「なにとぞ私は、 すべての衆生を利益するために、 今日、 決定して極楽に往生したいものである。 弥陀仏」
^第六には、 仏子が本来往生の業を具えていることは、 すでにわかったのであるが、 いま、 阿弥陀如来を専ら念じて、 その業を増すべきである。 ^ところで、 かの阿弥陀仏の功徳は無量無辺で、 詳しく説き尽くすことはできない。 いま、 十方にそれぞれ現に在す恒河の沙の数ほどの諸仏は、 常にかの阿弥陀仏の功徳をほめたもうのである。 このようにほめても、 たとい恒河の沙の数ほどの長い劫を経ても、 結局極め尽くすことはできないのである。 仏子は、 総じて一心にかの阿弥陀仏の功徳に帰命したてまつるべきである。 ^そこで、 こう念ずるがよい。 「私は、 今、 一念の中にことごとく阿弥陀如来のすべての万徳に帰命したてまつる。 弥陀仏」
^第七には、 仏子は、 阿弥陀仏の一つの色相を念じ、 心を一つの境に住まらせるがよい。 ^すなわち、 かの阿弥陀仏の色身は閻浮檀金のようである。 威徳は金山王のようにけだかくそびえ、 無量の相好でその身をかざりたもうのである。 その中の眉間の白毫は、 右に旋って渦巻き、 須弥山を五つ合わせたようである。 七百五倶胝六百万の光明を放って、 億千の日月のように盛んに輝いている。 ^これは、 浄らかな万徳の成就した果であり、 深い智慧と慈悲から流れ出したものである。 しばらくの間でも、 この相を憶うならば、 よく九十六億那由他の恒河の沙を微塵にした数ほどの長い劫の間、 生死を経る重い罪を滅するのである。 こういうわけであるから、 今、 かの相を憶念し、 決定して罪業を滅し除くべきである。 ^そこで、 こう念ずるがよい。 「なにとぞ、 白毫相の光が、 私のもろもろの罪を滅してくださいますよう。 弥陀仏」
^第八には、 かの白毫相の多くの光明は、 常に十方世界の念仏する人々を照らし、 摂め取って捨てたまわぬのである。 大悲の光明は、 決定して来たり照らしたもうことを知るべきである。
^¬華厳経¼ の偈に説かれているとおりである。
^また光明を放つを見仏と名づける その光は命終ろうとする者を覚らせたもう
念仏三昧して必ず仏を見たてまつり 命終の後に仏のみ前に生まれる
^それ故、 いま次のように念ずるがよい。 「なにとぞ阿弥陀仏、 清浄の光を放って、 遥かにわが心を照らし、 わが心を覚らせて境界と自体と当世とに対する三種の愛着を転じ、 念仏三昧を成就して、 極楽に往生することを得させて下さいますよう。 弥陀仏」
^第九には、 阿弥陀如来は、 ただ光をもって遥かに照らしたもうだけではない。 みずから観音菩薩・勢至菩薩とともに常に来て行者を護りたもうのである。 まして父母は病める子に対して、 ひとしお心をかけるようなものであり、 仏は、 法性の山を動かして生死の海に入りたもうものである。 されば、 この時に当たって、 仏は大光明を放ち、 多くの聖衆とともに来て、 行者を引接し護って下さることが知られるのである。 煩悩の障りが、 行者と仏との間を隔てて、 仏を見たてまつることはできないけれども、 大悲の願は疑ってはならない。 必ずこの室に来たり入りたもうのである。 ^それゆえ、 仏子は、 次のように念ずるがよい。 「なにとぞ、 み仏、 大光明を放って、 決定して来たり迎え、 極楽に往生させてくださいますよう。 弥陀仏」 以上の第七・大八・第九の事は、 常に勧めるべきである。 その他の各条の事は、 時に応じて用いよ。
^もし、 病人の気力が次第に衰える時には、 「仏は観音菩薩・勢至菩薩や無量の聖衆とともに来たりたまい、 宝の蓮台をささげて、 仏子を引接したもう」 というがよい。
^第十には、 まさしく臨終の時には、 こういうべきである。 「仏子も知っているだろうが、 ただ今が最後の心である。 臨終の一念は百年の行業よりも勝るといわれている。 もし、 この*刹那を過ぎてしまうと、 生まれる処が決まるのである。 今がまさしくその時である。 一心に仏を念じて、 決定して妙なる西方極楽浄土の八功徳水の池の中にある七宝の蓮台の上に往生すべきである。」 ^そこで、 次のように念ずるがよい。 「如来の本誓にはすこしも謬りはない。 なにとぞ、 み仏、 決成して、 私を引接して下さいますよう。 弥陀仏」 ^あるいは次第に、 簡略にこう念ずるがよい。 「なにとぞ、 み仏、 必ず引接して下さいますよう。 弥陀仏」
^以上のように、 病人の容子を見て、 その場合に応じて、 ただ一事を最後の念として、 数多くしてはならぬ。 その詞の加減には、 殊に用心すべきである。 病人に心を乱させてはならぬ。
^問う。 ¬観仏三昧経¼ に説かれているとおりである。
仏が阿難に告げたもう。 「もし人あって父を殺し、 母を害し、 親族をののしりはずかしめたとする。 こういう罪を作った者は、 命終る時に銅の狗が口を開き十八の車をあらわす。 そのさまは金の車のようである。 宝の蓋が上にあって、 一切の火炎は化して玉女となる。 罪人は遥かにこれを見て心に歓喜を生じ、 自分はその中へ往きたいと思う。 ^風刀が身を解く時には、 急に寒気がして思わず声を立て、 ªむしろ好い火を得て、 車の上に坐り、 燃える火にみずから身を爆ろうº と思いおわって、 命が尽きる。 たちまちの間に、 すでに金の車の上に坐り、 玉女をふりかえると、 みな獄卒となって、 鉄の斧をもって、 罪人を切るのである。
^また説かれている。
また人あって、 四重禁を犯し、 いたずらに信者の施物を食し、 仏法をそしり、 よこしまな見解を持ち、 因果の道理を識らず、 般若を学ぶことを断ち、 十方の諸仏をそしり、 僧衆の財物をぬすみ、 婬佚にして道をわきまえず、 浄らかに戒律を持っているもろもろの比丘尼や姉妹・親族を犯して、 慚愧の心がなく、 親しいものを毀り辱しめて、 多くの悪事を造る。 この人の罪の報は命が終る時に臨んで、 風刀がその身を解くと、 寝ても坐ってもむち打たれるようである。 ^その心は荒れ乱れて、 狂いたわけた想をおこす。 自分の室や男女を見ると、 大小すべてのものは、 みな不浄の物であり、 屎尿の臭い所となって、 外にあふれ流れている。
そのとき罪人はこういう。 「どうして、 ここには立派な城や美しい山林のような、 自分を楽しみ遊ばせてくれるものがなくて、 このような不浄のものの間に自分はいるのであろうか」 と。 ^このことばを言い終ると、 獄卒や羅刹は、 大鉄叉をもって阿鼻地獄やもろもろの刀の山をすべてさしあげて、 宝樹や清涼の池に変え、 火炎は化して金葉の蓮華となる。 もろもろの鉄の嘴のある虫は化して鳧や雁となり、 地獄の苦痛の声は詠歌の声のようである。 罪人はこれを聞いて ª自分はこのような美しいところで遊びたいº と思う。 思い終ったとき、 火の蓮華の上に坐っているのである。 略
^この経文から見ると、 今往生するときの蓮華の来迎は、 火の車の蓮華ではないということが、 どうしてわかるのか。
^答える。 懐感和尚が解釈していわれる。 (群疑論)
四つの義に依って、 火の車ではないという事がわかる。 一つには行について、 二つには相について、 三つには語について、 四つには仏について論ずる。 この四つの義があるから、 火の蓮華とは異なるのである。
^一つに、 行について異なるとは、 ¬観仏三昧経¼ に 「罪人は罪を造り、 四重禁を犯し、 さては親しいものをそしり辱しめる」 と説いてあるが、 後悔を生ぜず、 善友が仏を念ずることを教えてくれるのに遇わないから、 罪人が見るところの華は、 地獄の相である。 いま、 この下品などの三人は、 生まれて以来、 罪を造っているけれども、 命終の時に善知識に遇い、 心から仏を念ずる。 仏を念ずるから多劫の罪を滅し、 優れた功徳を成就して、 宝池の中の蓮華が来迎することを感得するのである。 どうして、 前の火の車の蓮華と同じであろうか。
^二つに、 相について異なるとは、 かの ¬観仏三昧経¼ に 「風刀がその身を解くと、 寝ても坐ってもむち打たれるようである。 その心は荒れ乱れて狂いたわけた想をおこす。 自分の室や男女を見ると、 大小すべてのものは、 みな不浄の物であり、 屎尿の臭い所となって、 外にあふれ流れている」 と説いているが、 今この場合は、 仏を念じて身も心も安らかであるから、 悪い想はすべて滅する。 ただ聖衆を見て、 よい香のあるのを聞ぐのである。 それゆえ同じではない。
^三つに、 語について異なるとは、 かの ¬観仏三昧経¼ の中に 「地獄の苦痛の声は詠歌の声のようである。 罪人はこれを聞いて、 自分はこのような楽しいところで遊びたいと思う」 と説いてあるが、 ¬観経¼ の中には 「ほめたたえて仰せられるには、 ¬善男子よ、 おんみはよく仏のみ名を称えたので、 多くの罪が消滅した。 それでわれわれは、 ここにきておんみを迎えるのである¼」 と説かれてある。 ¬観仏三昧経¼ では詠歌の声であるけれども、 ¬観経¼ では滅罪を述べる語である。 二種の声がすでに別々であるから同じではないのである。
^四つに、 仏について異なるとは、 かの ¬観仏三昧経¼ に、 「一切の火炎は化して玉女となる。 罪人は遥かにこれを見て心に歓喜を生じ、 自分はその中に往きたいと思う。 すでに金の車の上に坐り終って、 玉女をふりかえると、 みな鉄の斧をもって、 その罪人を切るのである」 と説いてあるけれども、 ¬観経¼ には、 「この時に阿弥陀仏は、 化仏と観音・勢至の化菩薩をお遣わしになり、 行者の前に至らせたもう」 と説かれている。
^この四つの義に依って、 蓮華の来迎は、 ¬観仏三昧経¼ の説とは同一でないということを準じて知るのである。
^看病の人は、 よくこの相をわきまえて、 病人が心にいだくいろいろの事をしばしば問い尋ね、 前に示した行儀に依って、 種々に教化すべきである。
往生要集 中巻
翳泥耶仙鹿王 翳泥耶は梵語アイネーヤの音写。 鹿の王のこと。 仙は敬称。
仏覚三昧 仏のようなさとりの境地。
楽説 衆生のねがいに従って教えを説くこと。
性相 不変平等絶対の本体 (性) と変化差別相対の相状 (相)。
勧請 説法や教化を仏に請願すること。