六(654)、 東大寺十問答
▲東大寺十問答 第二 俊乗房問
一 問。 釈迦一代の聖教を、 みな浄土宗におさめ候か、 又 「三部経」 にかぎり候か。
答。 八宗・九宗、 みないづれをもわが宗のなかに一代をおさめて、 聖道・浄土の二門とはわかつ也。
聖道門に大小あり権実あり、 浄土門に十方あり西方あり、 西方門に難行あり正行あり、 正行に助行あり正定業あり。 かくして聖道はかたし、 浄土はやすしと釈しいるゝ也。 宗をたつるおもむきもしらぬものゝ、 「三部経」 にかぎ0655るとはいふなり。
二 問。 正雑二行ともに本願にて候か。
答。 念仏は本願也。 十方三世の仏・菩薩にすてられたるゑせ物をたすけんとて、 五劫まで思惟し、 六道の苦にゆづり、 これをたよりにてすくはんと支度し給へる本願の名号也。
ゆめゆめ雑行本願といふ物は、 仏の五智をうたがひて辺地にとゞまる也。 見仏聞法の利益にしばしばもるゝ也。 これは誑惑のものの道心もなきが、 山寺法師なんどにほめられんとて、 仏意をばかへりみ[ず]いひだせる事なり。
三 問。 三心具足の念仏者は、 決定往生歟。
答。 決定往生する也。 三心に智具の三心あり、 行具の三心あり。
智具の三心といふは、 諸宗修学の人、 本宗の智をもて信をとりがたきを、 経論の明文を出し、 解釈のおもむきを談じて、 念仏の信をとらしめんとてとき給へる也。
行具の三心といふは、 一向に帰すれば至誠心也、 疑心なきは深心也、 往生せんとおもふは廻向心也。 かるがゆへに一向念仏して、 うたがふおもひなく往生せんとおもふは行具の三心也。 五念・四修も一向に信ずる物には自然に具する也。
四 念仏は、 かならず念珠をもたずとも、 くるしかるまじく候か。
答。 かなら0656ず念珠をもつべき也。 世間のうたをうたひ舞をまふそら、 その拍子にしたがふ也。 念珠をはかせにて、 舌と手をうごかす也。
たゞし无明を断ぜざらんものは妄念おこるべし。 世間の客と主とのごとし。 念珠を手にとる時は、 妄念のかずをとらんとは約束せず、 念仏のかずとらんとて、 念仏のあるじをすゑつるうゑは、 念仏は主、 妄念は客人也。
さればとて心の妄念をゆるされたるは、 過分の恩也。 それにあまさへ、 口に様々の雑言をして、 念珠をくりこしなんどする事、 ゆゝしきひが事なり。
五 問。 この大仏かくあふぎまいらせて候は、 この大仏の御はからひにて、 浄土にもおくりつけさせ給ふべく候か。
答。 この事沙汰のほかの事也。
三宝をたつるに三あり。 一に一体三宝といふは、 法身の理のうゑに三宝の名をたつる也。 万法みな法身より出生するがゆへ也。 二に別相三宝といふは、 十方の諸仏は仏宝也、 その智慧および所説の経教は法宝也、 三乗の弟子は僧宝也。
もし大仏むかへ給はゞ、 三宝の次第もみだるべし。 そのゆへは、 画像・木像は住持の仏宝也、 かきつけたる経巻は法宝也、 画像・木像の三乗は僧宝也。 住持と別相と、 もとも分別せらるべし。
なかんづくに、 本尊は娑婆にとゞまりて、 行者は西方にさらん事、 存0657のほかの事也。 たゞし浄土の仏のゆかしさに、 そのかたちをつくりて真仏の恩をなすは、 功徳をうる事也。
六 問。 有智の人のよのつねならんと、 无智の人のほかに道心ありとみへ候はんと、 いづれにてか候べき。
答。 小智のものゝ道心なからんは、 无智の人の道心あらんには、 千重・万重のおとり也。
かるがゆへに、 无智の人の念仏は、 本願なれば往生すべし。 小智のものゝ道心なからんは、 あるいは不浄説法、 あるいは虚説人師にあり、 決定地獄におつべし。
たゞし无智の人の道心は、 ひが事をま事とおもひて、 おそるまじき事を[ば]おそれ、 おそるべき事をばおそれぬ也。
大智の人の道心なからんは、 道をしりてやすくゆく人也。 盲目の人を明眼の人にたとへん事、 あさましき事也。
道心おなじ事ならば、 小智のものはなを无智の人に万億倍すぐべき也。 无智の人の道心は、 わびてがらの事也。
七 問。 念仏申人は、 かならず摂取の益にあづかり候か。
答。 しかなり。
八 問。 摂取の光明は、 一度てらしては、 いつも不退なると申人の候は、 一定にて候か。
答。 この事おほきなるひが事也。 念仏のゆへにこそてらすひかりの、 念仏退転してのちは、 なにものをたよりにてゝらすべきぞ。 さやうにあるならば、 念0658仏一遍申さぬものやはある。 されども往生するものはすくなく、 せざるものはおほき事、 現証たれかうたがはん。
九 問。 本願には 「十念」 (大経巻上) 、 成就には 「一念」 (大経巻下) と候は、 平生にて候か、 臨終にて候か。
答。 去年申候き。 聖道にはさやうに一行を平生にしつれば、 罪即時に滅して、 のちに又相続せざれども成仏すといふ事あり。 それはなを縁をむすばしめんとて、 仏の方便としてとき給へる事也、 順次の義にはあらず。 華厳・禅門・真言・止観なんどの至極甚深の法門こそ、 さる事はあれ。
これは衆生もとより懈怠のものなれば、 疑惑のもの一度申をきてのち申さずとも、 往生するおもひに住して、 数遍を退転せん事は、 くちおしかるべし。 十念は上尽一形に対する時の事也。 おそく念仏にあひたらん人はいのちづゞまりて、 百念にもおよばぬ十念、 十念にもおよばぬ一念也。
この源空がころもをやきすてゝこそ、 麻のゆかりを滅したるにてはあらめ。 これがあらんかぎりは、 麻の滅したるにてはなき事也。 過去无始よりこのかた、 罪業をもて成ぜず身ももとのごとし、 心ももとの心ならば、 なにをか業成し、 罪滅するしるしとすべき。
罪滅する物は无生をう、 无生をうる物は金色のはだへとなる。 弥陀の願に 「金色となさん」 (大経巻上意) とちかはせ給へども、 念0659仏申人、 たれか臨終以前に金色となる。 たゞものさかしからで、 「一発心已後无有退転」 (散善義意) の釈をあふひで、 臨終をまつべき也。
十 問。 臨終来迎は、 報仏にておはしまし候か。
答。 念仏往生の人は、 報仏の迎にあづかる。 雑行の人々の往生するは、 かならず化仏の来迎にて候也。 念仏もあるいは余行をまじへ、 あるいは疑心をいさゝかじふる物は、 化仏の来迎を見て、 仏をかくしたてまつるもの也。
建久二年三月十三日東大寺聖人奉問空上人御答也 ▽